唯一無二の身体で紡ぎ上げたきれいな「言葉」 森山開次『星の王子さま―サン=テグジュペリからの手紙』

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森山開次 星の王子さま
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まさか王子さまが現れる場面でポロポロ涙が出てくるとは思いませんでした。

 

三角の小さな火山のような舞台装置に小さな穴が開き、そこから黄色の薄いスカーフが現れます。スカーフの中に入っている数個の大きな風船ゆえに、スカーフはすうっと上方にたなびいていき、スカーフが全て穴から出ていった最後、好奇心いっぱいの王子さまが顔をのぞかせて這い出てきます。

 

ぽろんぽろんとオルゴールのような音楽と相まって、このゆったりと流れる時間は、まるで夢のようで、優しくて、いじらしく、そしてこの物語の最後を予感させるように寂しい。震えるような詩情に満ち満ちています。

 

唯一無二の身体で表現した個性豊かなキャラクターたち

砂漠に不時着した飛行士は思いがけず小さな王子さまに出会います。王子さまは地球ではない別の星からやってきたのだといい、彼が住んでいた星のこと、そこで大切に育てた少しワガママなバラのこと、そのバラとのけんかと彼女を見捨てて星を出てきてしまったこと、さまざまな別の星を経て最終的に地球にやってきたことなどを話します。

 

地球では蛇やキツネ、自分の星でともに暮らしたバラと全く同じ種類のバラに出会い、王子さまは「目に見えないけれども、いちばん大切なこと」の存在を見出していきます。

 

この小説で有名なフレーズ、「いちばん大切なことは、目に見えない」はキツネとの会話の中で出てきます。このキツネは「自分をなつかせてちょうだい」と、大人が見れば何ともばかばかしい頼みを王子さまにするのですが、まさに時間をかけて互いになつき、絆を築いていくこと、すなわち、ある人が自分にとってなくてはならない大切な人になるまでに紡いだ時間こそが、私たちの一生において極めて尊いのだと教えてくれます。

 

こうした大人にはどうでもよいように見えて、実は大切なことを飛行士に話し、飛行士と絆を築いたときには、王子さまは星へと戻らなければいけなかったのでした。

 

『星の王子さま』は確かに作者による可愛らしい素朴な挿絵も重要ですが、何よりもまず言葉、詩のうえに成り立つ感動ゆえに全ての人を魅了してきた物語です。ですから、言葉をほとんど使わないダンスでこの物語を表現するというのは、本来は無茶な話です。

 

しかしこの作品が「無茶な話」でなかったことは、このブログの冒頭で述べた通りです。音楽、衣装、美術に加え、個性豊かなキャラクターを演じるダンサーたちの唯一無二の身体によって、この上なくきれいで心に染み入る「言葉」を紡ぎ上げていきました。

 

王子さまのアオイヤマダは、ヘンテコで好奇心旺盛で無垢で素朴な男の子です。22歳のダンサーですから、大人としてすでに身体は完成されているはずなのに、どうしてあのような、こすれば簡単に壊れてしまいそうなデリケートな少年性を作り上げられるのだろうか。恐らく彼女以外のダンサーでは王子さまは演じられないでしょう。稀有な身体の持ち主だと思います。

 

飛行士は小㞍健太。ジェット機のうんうんうなる轟音やうねるように進む軌道を求心力ある質感で表現しています。

 

地球に到着した日に出会い、王子さまの郷愁を見て取った猛毒の蛇は森山開次自身が演じています。ぬめるような質感がありながら、直線的な動きとなっています。

 

蛇はしなやかに這う一方で、頭をもたげられるほどの筋肉と固いうろこを持った生き物。森山の振付にはそのような蛇の特性を読み取らせると同時に、王子さまを噛んで「抜け殻」にし、魂だけを元の星へと帰らせるという、取り返しのつかない手法で手助けをしてあげたこの蛇の意思の強さをも感じ取らせます。

 

島地保武のキツネは、何を考えているのか分からない動物ならではの無関心さに、そうはいっても相手に構ってほしい愛着心をほんの少しのぞかせます。無関心を装いながら相手を推し量る表情は、「自分にとって大切な人になるまでの時間こそが大切なのだ」という金言を教えてくれるキツネにふさわしい。

 

王子さまの星で成長したバラは酒井はなが演じています。フェミニンな美しさの持ち主だけれども、ワガママで自分勝手。おまけにトゲも四本持っている。こうやって自分を強くコーティングしているけれども、その実、心弱い性格なのだということも酒井の踊りからはよく分かります。

 

大切なものとなるまでの長く尊い時間

この物語のテーマの一つは「誰のためになら人は死ねるのか」という問題です。

 

貯蓄用の飲料水を飲み切った飛行士は王子さまとともに井戸を探しに出かけます。砂漠の中ですから、なかなか見つかるわけがなく、この舞台でも、飛行士と王子さまは肩を組み、助け合いながら、よろめき進んでいきます。

 

私たちは効率よく水を得て、時間を浮かせているわけですが、はたして浮かせた時間を「いちばん大切なこと」に使えているのだろうか。そんな「効率」を目指すくらいなら、大切な人のために時間をかけて水を汲んであげた方がよいのではないか。

 

飛行士と王子さまだけで肩を組んでいたところから、他のダンサーたちが次第にその肩に連なっていき、一つの連帯となる場面は、このダンス作品の中で大きな感動を呼ぶ場面の一つです。

 

そして飛行士と王子さまがよろめき走る軌道が、舞台床に照らされた丸い照明の縁であることもよく計算されていると思います。

 

この作品では、少数のシーンを除いて、舞台に星の球体を象るようなクレーターの質感がついた丸い照明が舞台床に当てられています。それによって王子さまが住んでいた星や、その後、王子さまが訪れた星を表現しているわけです。

 

それと同時にこの球体の照明は、大切な人のためにかける時間をも表現しているように私には思えます。

 

サン=テグジュペリの小説において王子さまは「悲しいときには夕日を見たくなる」と言っています。王子さまの星は小さいので、数歩歩けば、見たいときに夕日を見ることができ、44回夕日を見たこともあったらしい。王子さまのバラはワガママですから、それくらい悲しくなることもあったのかもしれません。

 

もちろん、そのような細かい説明はダンスで表現することはできません。ですが、自分の星で一緒に過ごしたバラが唯一無二の存在であったことを知って大泣きし、キツネが現れるシーンで思わずハッとしました。キツネが現れるのは、舞台後ろが夕日のように赤く染まったときだったからです。

 

夕日というのは自転が一周しないと見ることはできません。

 

何度も何度もお互いに傷つき、成長し、絆を築いていってこそ、まさに44回以上の夕日を見る年月が流れてこそ、いちばん大切なことを見出せる。

 

王子さまと飛行士が球の照明に沿って走るシーンは、二人が絆を強めていく時間そのものを表現していると考えられるのではないでしょうか。

 

昔は子どもだった大人たちへ

時間をかけて絆を結んでいくことの尊さは、教えられなくとも子供だったころの私たちも知っていたはずです。

 

この作品の前半で、アオイヤマダの王子さまがてんてこ舞いになりながら、愛すべき自分の星の手入れを大切そうにやっている姿に、私は楽しく懐かしい子供時代を思い出してしまいました。それは時間をかけて絆を結ぶ尊さを、ほとんど忘れてしまいながらも、心のどこかで覚えていたからかもしれません。

 

それは飛行士も同様で、砂漠への不時着で壊れてしまった飛行機を直す間、王子さまの物語を聞いて、ほとんど忘れかけていた「いちばん大切なこと」を思い出していきます。

 

その意味で、王子さまと飛行士の物語(そして鑑賞する大人の私たちの物語)はパラレルです。

 

このダンス作品では、バラのモデルとなったともいわれるサン=テグジュペリの妻であるコンスエロが登場し、「大切なものを見出していく」というテーマを小説の作者の人生を重ねながらより鮮明に描いていきます。

 

バラに愛想をつかし、また遠くの何かに憧れて星を出ていった王子さまは、再び星へと戻っていくまでの時間をかけて「いちばん大切なこと」、すなわち自分のすぐそばにこそ大切なものがあったのだということに気づいていきました。

 

そして、遠くの何かに憧れた飛行士が懸命に飛行機を直していた時間というのも、また「いちばん大切なこと」の存在を再発見していくためのものだったのです。

1月27日、28日鑑賞

 

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ドローイング―「存在のざわめき」との対峙 勅使川原三郎・佐東利穂子『月光画』

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勅使川原三郎 ドローイング 月光画
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シアターXにて上演されたドローイングダンス第二弾の『月光画』は、勅使川原三郎のドローイングの過程、すなわち白紙の用紙から黒い線によって数体の捻った身体が描かれるまでが舞台の大きなカーテンに映し出されるところから始まります。

 

それが完成に至ったと思った瞬間、映像の早戻しで、するすると勅使川原の手が動くにつれて白紙へと戻っていきます。

 

ドローイングと埴谷雄高『死霊』

今回の公演では、いつもの通り作品に付されている勅使川原の詩に埴谷雄高の『死霊』への言及がありました。これも何かの縁かと思い、このたび初めて『死霊』に手をつけてみました。しかし手をつけるのが遅すぎて、公演までに読み切ることあたわず、上中下巻のうち中巻の前半で公演の日を迎えてしまいました。

 

いまだ最後まで読めていないのですが、人間存在についてのあらゆる思想をさまざまな登場人物に割り振り、思想同士で対話させた小説です。今、ちょうど読んでいるところでは、「死者の電話箱」というものが出てきます。

 

自己存在とは何なのかを極限まで追求すべく、腐敗が進みつつある、すなわち死の世界へと歩みつつある死者の脳の信号を「死者の電話箱」で読み取ろうとする挿話が登場人物の一人、首猛夫によって語られます。

 

死者が向かった人の誕生前の領域で聞こえてくるのは、存在のざわめき―自分の存在を捕捉できない赤ん坊の泣き声のようなうめき声―だといいます。

 

そして「存在のざわめき」とは何なのかを、もし本当に知りたいのであれば、知りたい者自身が自己存在の最小単位である「還元物質」になるしかないと示唆されています。

 

正直にいうと、今回の勅使川原の作品はいつもにも増して難解で、さすがにもう少し鑑賞者に寄り添った作りにしてほしかったと思いました。だから私の感想もいつもにも増して妄想となるしかないのですが、私には今回の作品は人の誕生前の領域が描かれているように見えました。

 

ドローイングとは何もない無地の紙から線によって存在物を生み出すことです。勅使川原にとって無地の用紙に向かうということは、存在の最小単位とは、存在前の存在とは何なのかという問いに向かい合い続けるということだったのではないでしょうか。

 

だから、ドローイングダンスと埴谷雄高が交差した。私にはそう思えてなりません。

 

人の誕生前の領域を描いた作品

この作品では、勅使川原や佐東利穂子が暗い空間の中に差し込む一筋の光に手をかざしたり、勅使川原が壁に映った影に恐れおののいたりする動きがしばしば登場します。

 

身体という容器に自己存在を重ね合わせようとしたかと思うと、あるいは自分のあずかり知らないところに自己存在の片鱗が見えて驚く。いずれも自己存在を確かめる動きとして解釈できるのではないでしょうか。

 

『死霊』の主人公である三輪与志は、自分の腕を見て「これは自分ではない」と思ってしまうような、自分に自己存在を一致させられない青年でした。

 

「自分が自分である」という当たり前の命題に対して懐疑的な様子を見せる場面と交互にして、穏やかな音楽に合わせて舞台の空気に溶け込むように踊るシーンも多く登場します。

 

自己存在が何かの容器のような形を身に纏う以前の自己存在、すなわち「存在のざわめき」で満たされた空間が表現されているように思います。

 

作品は舞台後ろに背中を向けて座った佐東利穂子が突如、座ったまま舞台の底へと落下するという終わりを迎えます。まるで自殺のようではありますが、この作品が人の誕生前の領域を表現していたのだとすれば、自己存在が現実の実在の世界へと急降下していくさまだったと捉えることもできるかもしれません。

 

そうすると、私の頭の中で作品はまた冒頭へと立ち返ります。「存在のざわめき」である白紙の用紙から黒い線が生み出されるのです。

 

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小野絢子による及びもつかない繊細な美しさ 新国立劇場バレエ団『ニューイヤー・バレエ』(A Million Kisses to my Skin/シンフォニー・イン・C/他)

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ニューイヤー・バレエ
埋め込み元:ぴあ

今年の新国立劇場バレエ団の「ニューイヤー・バレエ」では、バレエ団としてのデヴィッド・ドウソンの『A Million Kisses to my Skin』の初演があり、ゲストでマシュー・ボールとヤスミン・ナグディ、アリーナ・コジョカルとアレクサンドル・トルーシュが出演し、最後には華やかなジョージ・バランシンの『シンフォニー・イン・C』で締めくくられるという、演目が発表されたときから楽しみで仕方のなかった公演でした。

 

A Million Kisses to my Skin

『A Million Kisses to my Skin』は、オフバランスやエクステンションによって研ぎ澄まされた洗練性を舞台上に作り出す作品です。

 

新国立劇場バレエ団のダンサーの踊りはスポーティすぎず、鋭利すぎない。そのため非人間的なニュアンスではなく、細い人間の腕や脚を引き伸ばし、クロスさせる振付の造形的な美しさが作品から引き出されています。

 

ただ一つ物足りないところがあったとすれば、エネルギーの緩急があまり見られなかった点かもしれません。

 

『A Million Kisses to my Skin』は常にそれぞれのダンサーたちが動きをずらしながら踊り、群舞で踊ることはほとんどないため、数の圧で見せる動きとは異なる鋭い洗練を見ることができるわけですが、最後に一度だけ全員が横一列に集約され、またそこから放たれるようにダンサーたちそれぞれが踊り始めるという構成となっています。

 

この作品を見るのは初めてなので何ともいえないのですが、本来はこのような構成であれば、エネルギーが集約されて解き放たれるような空気の動きが感じられたのではないかしらとも思ったのです。

 

この作品において鋭利すぎずに踊るというのは、それはそれで一つの良さがありましたが、クールな動きの中にもエネルギーの緩急やニュアンスの変化、舞台上の空気のうねりのようなものも表現されていて欲しかったと思います。

 

ですが、この辺りは私の個人的な好みに過ぎません。新国立劇場バレエ団の優れたダンサーたちによる洗練された動きを堪能できる作品だったと思います。

 

ヤスミン・ナグディとマシュー・ボール『眠れる森の美女』

ナグディとボールは『眠れる森の美女』は、衣装がピンクではなく白ということもあって、甘すぎない印象を作り上げていました。

 

私はコジョカルのように愛らしく幸せを振りまくようなオーロラが好きなので、実のところ、ナグディのオーロラに初めは戸惑いました。

 

例えばアダージョでオーロラが座って王子を見上げる場面も、ナグディは愛する王子を(ある種の崇拝のように)見つめるということはせずに、挨拶のように軽く頭を下げる程度に留めています。

 

このようなところにナグディの自立した感性や解釈が見で取れ、現代において古典を繰り返し上演する意味を見せつけてくれています。

 

ボールは立っているだけで若く爽やかな王子。ロイヤルのダンスール・ノーブルらしい柔和な踊りを見せてくれました。

 

アリーナ・コジョカルとアレクサンドル・トルーシュ『ドン・ジュアン』

ジョン・ノイマイヤーの『ドン・ジュアン』は以前、アレクサンドル・リアブコとシルヴィア・アッツォーニが演じたものが非常に印象に残っていたのですが、トルーシュとコジョカルが踊ると、そのときとはかなり印象が異なって新鮮でした。

 

リアブコのドン・ジュアンは彼の精神的な佇まいゆえか、自ら好んで幻想を作りに行き、幻想に溺れに行くような趣があり、現実では満たされ得ないその幻想を求めるがゆえに女性を渡り歩くという人物でした。

 

一方、トルーシュは若く、見た目を必要以上に気にする、いかにも遊び人という風貌。カラヴァッジョの絵にでも描かれていそうなイタリアの軽薄な青年です。

 

この「いかにもイタリア」という動きに(特にドン・ジュアンのヴァリエーション部分は)さらりと振り付けられているあたり、ノイマイヤーの多才ぶりがさりげなく見て取れます。

 

ごく普通の遊び人で、本来であれば何ということのない遊び人として歴史に名を残すこともなさそうだった男に、なぜか女性の幻想が執拗に見えてしまう。

 

コジョカルは確かに儚げではありましたが、案外に弱々しくなく、しかとした実在を感じられました。昨年配信で見た『椿姫』などを考えるに、彼女が踊ろうと思えば、もっと消え入りそうに踊れたはず。

 

だからこそ、ますます目を覆うトルーシュに執拗に現れ、あれだけ無言で人を惹きつけておきながら、ふわりと離れていく幻影の姿として私の眼には映ります。

 

リアブコのドン・ジュアンが自ら幻影をこしらえたからこそ遊び人たる資格を得たのだとすれば、トルーシュのドン・ジュアンは普通の遊び人として生きているのになぜか幻影が見えてしまうという順序の逆転があります。

 

シンフォニー・イン・C

『シンフォニー・イン・C』は、その前の『くるみ割り人形』で木村優里が怪我をしたことによりキャスト変更があり、さらに「ニューイヤー・バレエ」初日で池田理沙子が怪我をしたことで急遽、奥田花純が出演するという、目まぐるしい配役変更がありました。

 

奥田はアンディオールが弱く、しばしば脚運びが気になりはしましたが、ジャンプが溌剌としており、上体もしなやかで第三楽章に相応しい活気を見せてくれました。とても直前の配役とは思えない踊りだったと思います。

 

第四楽章のソリストは吉田朱里が抜擢。長身で手脚が長く、とんでもない素材だというのが第一の印象です。そのためポーズが正しい位置に決まると、他のダンサーでは到底作り出せない美しさが生まれます。

 

ただ、まだ若いこともあってか、バランシンの素早い振付を「頑張ってこなしている」という踊り方だったのが惜しい。硬い印象が取れると、大物に育ちそうなダンサーです。

 

第一楽章の米沢唯は(米沢は私が非常に好きなダンサーなので期待しすぎたせいもあって)やや華やかさに欠けるかと思いましたが、第四楽章の再登場ではやはり奥田や吉田にはない風格を見せつけてくれました。

 

今回の『イン・C』で最も素晴らしかったのは第二楽章の小野絢子です。叙情性の求められるこのパートを踊る小野は、華奢で繊細な姫というところ。何者も及ぶことのできない美しさがありました。

 

また男性陣も確実なテクニックで大いに気を吐きました。バランシンの作品は得てして女性ダンサーしか印象に残らないのですが、今回の『イン・C』は男性も存在感を示してくれています。

 

第三楽章、第四楽章と、楽章が進むほどに心が躍り、気分が高揚する『イン・C』はニューイヤーに相応しい作品だったと思います。

 

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SDGsから出発して日本的感性へ Kオプト×ジュリアン・マッケイ『プラスチック』(シルヴェストリン/渡辺レイ)

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Kバレエ・カンパニー プラスチック Kオプト ジュリアン・マッケイ
埋め込み元:Kバレエ・カンパニー

Kバレエカンパニーのコンテンポラリー・ダンス・ユニットであるKオプトの第二回公演では、ジュリアン・マッケイをゲストに迎え、「プラスチック」をテーマにした二作品が上演されました。

 

一つ目の作品はアレッシオ・シルヴェストリンによる『ペットボトル迷宮』でした。

 

シルヴェストリンはパリ・オペラ座バレエ団が上演した杉本博司演出のバレエ『鷹の井戸』で、振付を担当しており、バレエの全編とドキュメンタリーがNHK地上波でも放送されました。ですが、『鷹の井戸』は個人的には大した作品には思えず、今回の公演も「シルヴェストリンかあ・・・」という気持ちで劇場に向かったのでした。

 

全体的な所感からいうと、さして高くもなかった期待を大きく上回ることもなければ、大きく下回ることもなかったというところでしょうか。

 

みすぼらしく見えるシルヴェストリンの美術・衣装

どうもシルヴェストリンは舞台美術や衣装のセンスに欠けているように思えてなりません。

 

ホワイトボードを彷彿とさせる可動式の半透明の衝立は、舞台上で動かされると、掻き立てられた想像力ゆえに何者かに見えるかと思いきや、やっぱりホワイトボードにしか見えない・・・。

 

中盤からダンサーたちが宇宙人のように頭や首元、腕、脚にペットボトルをくっつけて登場するのですが、仮に予算制限が厳しかったとしても、こんなお粗末な衣装(失礼)はちょっと許せないですね・・・。

 

ダンサーのうち一人だけ、ビニールで形作られた球体に上半身を収めて歩く人がいます。いろいろ気に入らない美術・衣装の中で、何か好きになれたものを挙げなければいけないとしたら、この球体のダンサーでしょうか。宇宙的で精神的な神秘性が感じられるからです。

 

『鷹の井戸』をNHKで見たとき、振付家の表現言語が演出家が目指しているものと必ずしも一致していないように見受けられたので、舞踊作品において振付と演出を上手く分担するのは並大抵のことではないのだなと思っていたのですが、『鷹の井戸』においてシルヴェストリンが杉本博司と組ませられたのは故なきことではなかったのかもしれない・・・とまで思ってしまうほど、衣装・美術は気に入らなかったです。

 

環境問題に関心のある現代アーティストに舞台美術は任せた方が良かったのではないかしら。ホワイトボードの衝立もペットボトルの衣装も、やりようによっては舞台全体が一つのインスタレーションに変貌する萌芽を秘めていたと思います。

 

パンフレットにはシルヴェストリンによる作品ノートが載っていて、「野生の思考」だの、「記号」だの、「ブリコラージュ」だの書かれていましたが、頑張って舞台とにらめっこしても、どうレヴィ=ストロースに結びつくのか、さっぱり分からなかったです。

 

さらにパンフレットを読み込むと、「僧ジュリアンが鎮魂の舞を奉納する」ともあります。こちらもやはりピンと来ませんでしたが、恐らくジュリアン・マッケイがペットボトルを握りつぶすシーンや、二つの衝立の中心を固定して回転させ、衝立に空間をかき回されながら、ダンサーたちも舞台を巡っていくシーンには、ペットボトルに対する「供養」のようなものが表現されているのだろうとは思いました。

 

シルヴェストリンならではの直線的な造形

これだけ作品の意図が分からず、衣装も美術も気に入らなかったにもかかわらず、45分間、見続けていられたのは、シルヴェストリンの表現言語がスリリングでユニークだったからです。これはNHKの映像では分からない発見でした。

 

緊張させた身体はウィリアム・フォーサイスの系譜を引くものですが、直線的なフォーメーションや、ピケ・アラベスクなど舞台を刺すような脚の使い方、指先を上に向けることによる直角の造形、これら全てが重なり合ってシルヴェストリン独特の鋭利なニュアンスを作り出しています。

 

単にフォーサイスの真似ではないシルヴェストリンならではの身体性があります。

 

そして踊り慣れていないはずのこの表現言語を、恐らく振付家の意図に近い形で咀嚼したKバレエ・カンパニーのダンサーの力量たるや・・・!

 

ゲストのジュリアン・マッケイはシルヴェストリンの動きの中にボリショイ仕込みのダイナミズムが見えて面白い。

 

ちゃちなものにしか見えなかった半透明のホワイトボードも、こうしたシルヴェストリンの直線的なフォームを受けてみると、振付家が自身の美意識を反映しようとしたものなのかもしれないと思われてきます。

 

衝立が形作るまっすぐな線は、シルヴェストリンの直線的で鋭利な動きと呼応するものであったはずだからです。

 

成仏のための回想

二つ目の作品は、渡辺レイの『ビニール傘小町』です。若き日には絶世の美女だった小野小町が老年、乞食となって流浪したという小町伝説に、永遠に分解されないプラスチックを重ね合わせたところに、この作品の肝があります。

 

実際、作品の冒頭には、紗幕で区切られた舞台奥で下手から吹く強風によってプラスチックが舞い上がる場面があります。そして作品の後半には、この舞い上がるプラスチックを身体で表現するかのように、小町の脇を群舞のダンサーが駆け抜け吹き荒れ、憔悴した小町が中心に残されるというシーンもありました。

 

シルヴェストリンよりも渡辺レイの方が圧倒的に大道具によるイメージ喚起力がありますね。

 

下手手前には、紙をめくってビニール傘を数える人がいます。これは誰もが知る小町の百夜通い伝説を想起させますから、休憩時間からカウントされていた紙が百になったとき、舞台では何が起きるのかと期待させる仕組みとなっています。

 

もう一つ、ビニール傘を使った美術で秀逸だったのが、小町が鹿鳴館で衆目を集めた若き日を回想する場面で、数個の開いたビニール傘を縦に合わせて作ったシャンデリアです。

 

この作品は三島由紀夫の『近代能楽集』所収の『卒塔婆小町』と太田省吾の『小町風伝』を下敷きにしているらしい。ここで鹿鳴館が登場するのは、謡曲に現代的な設定を与えた三島の『近代能楽集』に、小町が若い頃に深草少将と鹿鳴館で踊ったとあるからです。

 

私は『小町風伝』を読んだことがないので何ともいえませんが、少なくとも三島の戯曲はストーリーを借りてきただけで、表面的にしかなぞっていないように思えます。ですが、私が振付家だったら、このビニール傘のシャンデリアのためだけでも、三島の戯曲を引っ張り出したい気持ちになってしまうほど、この美術は出来が良かったです。

 

やがて下手で行われていた紙のカウントは百となります。そのときプラスチックの象徴ともいえる老婆小町は、聖母昇天の画のようにマントをひらめかせて天上へと昇っていきます。

 

渡辺レイの作品において、小町の回想は、小町が成仏するまでに必要な、プラスチックが成仏するために必要なフラッシュバックの時間だったのではないでしょうか。

 

そこからいうと、三島由紀夫の戯曲は全く「成仏」しない。小汚い現実を美しいと思い込んでまでして、追い求めたいものを情熱的に追い求める若者は、老いて汚くなる前に必ず死す運命にあり、目の前の宝石が泥だったという現実に気づいてしまった老人は生きること以外の目的を何ら持たずに生き続ける。『卒塔婆小町』の小野小町は後者に分類された人物でした。

 

この昇天のマントは「アート・シマツ」に参加して譲り受けたカーテンを再利用したものだそうです。「アート・シマツ」とは森村泰昌が自身の展覧会で使用したカーテンを再利用するために企画したプロジェクトのことです。

 

森村泰昌といえば、三島由紀夫が全共闘とやり合った討論で有名な東大駒場の900番講堂で行った、マリリン・モンローに扮したパフォーマンスが想起されます。「三島が、元々は女性的だった日本社会で男性性を獲得しようとした人間だったとすれば、マリリンは逆に男社会のアメリカに殺されたのだ」として、三島、マリリン、森村のMを交錯させた作品だったと記憶しています。

 

森村のマリリンは渡辺レイの作品には全く関係がありませんが、三島由紀夫という点で不思議な繋がりがありますね。

 

三島が描いた小野小町とは異なり、マントをはためかせて昇天していく小町は神々しさを帯び、ここにも渡辺レイの舞台作りの巧さを感じます。

 

「プラスチック」をテーマに全くテイストの異なる作品が上演されましたが、不思議なことに両者とも「成仏」、「供養」というような極めて日本的な感性が作品に息づいていたように思います。

 

環境問題を取り上げた舞踊作品は多くはないと思いますが、流行のワードの上っ面を滑ることなく、振付家が自分の感性を信じて主題を掘り下げた意味で、難しいテーマに見事成功した公演でした。

 

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