サラ・ラム―初々しさから鮮烈な愛、絶望のきわでの強さまで サラ・ラム&スティーヴン・マクレー『ロミオとジュリエット』(ロイヤル・バレエ団来日公演)

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ロミオとジュリエット サラ・ラム スティーヴン・マクレー
埋め込み元:NBS

『ロミオとジュリエット』は若さの象徴のような作品です。ですから、今回の来日公演では若いダンサーの日程で行こうかとも思ったのですが、私の頭の中にあるジュリエット像を思い浮かべたとき、最もぴったりと来たのが、最年長のサラ・ラムでした。サラ・ラムも、スティーヴン・マクレーも、彼らの実年齢は物語の主人公の年齢とかけ離れていますが、それぞれのやり方で役柄に取り組み、若いダンサーではあり得なかったであろう物語を築き上げていました。

 

殺伐とした街の刻印を受けたロミオ

『ロミオとジュリエット』は、昨年、マクレーが怪我からの復帰を果たした作品でもあります。ただ、正直にいえば、今のマクレーのロミオには、往時の迸るようなエネルギーや輝きが薄く、ロミオらしい若々しさに欠けていました。

 

重い怪我だったことを思うと、マキューシオやベンヴォーリオに遜色ないテクニックを未だ持ち得ているということは確かに凄いのですけれども、それ以前のマクレーのテクニックはあまりにも鮮烈でしたから・・・。舞踏会におけるロミオとジュリエットの最初のパ・ド・ドゥでは一カ所、大きなリフトを失敗していて、かなりひやりとさせられました。

 

それだけにかえって、マクミラン版のロミオはテクニックがロミオの迸る感情を象っているのだということを改めて認識させられたのと同時に、若手ダンサーではないマクレーが『ロミオとジュリエット』で復帰するというのは、どれほどチャレンジングなことだったかを思い知らされました。

 

ロミオであれば、より若々しく、より情熱的であってもよいのにと思ったのは事実ですが、これはこれで年齢を重ねたマクレーが辿り着いた役作りなのだと思います。

 

マクレーのロミオは、これまでに見た数々のロミオの中で最も複雑な人間でした。

 

かすかに荒れてやさぐれた雰囲気をまとい、親友の二人にさえも完全に打ち解けず、自分の内面にずけずけと入り込まれると冷たく相手をあしらいます。また、ジュリエットと出会った後のティボルトへの態度は、確かに表向きは礼儀正しいものの、心の底では以前より根強く持つ嫌悪感を押し殺していることが見て取れます。

 

2幕で娼婦からキスをせがまれる場面でも、娼婦のお尻をどんと叩くなど、品性を疑いたくなる行為も散見されます。マクレーが考えるロミオは決して「良い子」ではない。争いに加担する青年でもあるのです。

 

最近のロイヤル・バレエ団の『ロミオとジュリエット』は、娼婦たちが乳母の目の前でスカートの中を見せる行動や、舞踏会の帰り道でマキューシオやベンヴォーリオが来客の女性たちに無理矢理にキスをする遊びなど、現代の観客に嫌悪感を抱かせる場面を変更しているように思われます。それだけにマクレーのロミオの行為には思わず眉をひそめてしまいます。

 

溌剌と親友たちと戯れるロミオばかりを見てきた私にとってはかなり想定外のロミオで、戸惑わずにはいられませんでしたが、そうした荒くれは、争いの種に尽きないヴェローナの街で生きる人間に刻印されて然るべきものだったのだとも考えさせられます。

 

そしてやさぐれているわりに、行動力に欠けている。マキューシオとティボルトの決闘では、より激しく止めに入ろうとするロミオダンサーもいるかもしれませんが、マクレーのロミオは危なっかしい決闘をおろおろと見守ることしかできません。マキューシオの死にあたっても、突っ走って駆け寄るのではなく、足に力が入らないとでもいうように、ふらふらと近づいていきます。

 

そもそもジュリエットと出会う前、舞踏会のダンスにおいてパリスが抜けたことによるロザラインのパートナーを務めるときですら、自分の決心ではロザラインの横には行けず、マキューシオに促されてパートナーを組んでいました。

 

この鬱屈とした性格は寝室のパ・ド・ドゥで頂点を見せます。必死でロミオを引き留めるジュリエットに対し、マクレーのロミオは痛切な後悔を見せるというよりも、それを通り過ぎて、受け止めきれない運命を前に全くの無力であることを示します。それだけにその後のジュリエットの行動の強さが際立ってくるのです。

 

マクレーのロミオがこのように複雑な造形ですから、ジェームズ・ヘイのマキューシオも、カルヴィン・リチャードソンのベンヴォーリオも、期待していたような若々しさには欠ける分、他のダンサーによるマキューシオたちであれば、若き青年の輝きのせいで見落としがちな、敵へのダークな悪意が見え隠れします。ティボルトのギャリー・エイヴィスも、大人の男性の冷静さと悪意と愚かさを見るような演技でした。

 

マンドリンダンスのアクリ瑠嘉はこの舞台に登場する男性の中で唯一、若さを保っていたダンサーだったと思います。小柄でありながら、アクロバティックなジャンプを溌剌と見せつけました。

 

ロイヤル・バレエ団のコール・ド・バレエは、そうした人々が生きる一触即発な街の様子を、他のバレエ団ではあり得ないほど自然主義的に描き上げています。「目が足りないとはこういうことだったか」と久しぶりに感じた舞台でした。

 

衝動的にナイフに駆け寄るジュリエット

今回の舞台はことのほか、大人の悪意に満ちた街としてヴェローナを作り上げていたがゆえに、ラムのジュリエットは鮮烈でした。

 

線の細い身体を生かした可憐で無垢なジュリエットは恐らく他のキャストでは見られないのではないでしょうか。ラムのジュリエットはお転婆を作り込む必要はなく、ただ両脚を床に付けて立っているだけで、初々しい少女そのものです。

 

初めこそ全て乳母に相談しなければ何もできなかったジュリエットが、秘密の結婚式の場面ではロミオの方へと促す乳母をそっちのけで、ロミオの元に一直線に駆けていきます。その迸るエネルギーはあまりに清新で、心を分け与えたい相手を見定めたジュリエットの自立を見るようです。

 

そしてラムのジュリエットが鮮烈なのは、可憐であると同時に、大人の相手を怯ませるだけの強さがあるからです。しかもその強さというのは、崖っぷちの苦しみがそのまま彼女の強さになっているといったもの、言い換えれば、困難な局面に立たされた人間だけが獲得しうるといったものです。辛さが大きければ大きいほど、それだけ現実を拒絶する強さも大きくなる。ラムの可憐な身体から迸る強さには、そのような痛ましさすらあります。

 

だから寝室のパ・ド・ドゥで顔を抱えてすすり泣くシーンは、これまで気丈に抱え込んでいた辛さが思わず涙として迸ってしまったという印象があり、どれだけジュリエットの心境は追い詰められたのだろうと思わずにはいられませんでした。仮死の薬を飲むまでの恐怖も同じです。これまで気を強くしていたからこそ、張った糸が切れて、恐怖に耐えきれなくなる。

 

ラムの最期も圧巻でした。ふと見つけたナイフに衝動的に駆け寄ってあっという間に腹部を刺してしまいます。確かにマクミラン版はロミオから離れた位置でジュリエットは腹を刺しますが、それにしてもラムの刺した場所はあまりにロミオから離れすぎていました。

 

ラムのジュリエットには「なぜジュリエットはロミオから離れたところで死のうとしたのだろう」などという疑問は湧き得ません。ナイフを見た瞬間、何も考えずに衝動的に腹を刺してしまったことが明白だからです。

 

『ロミオとジュリエット』は素で踊れる若いダンサーの方が面白い、若くないと迸るエネルギーは作れない、と言われがちですが、それは嘘であるという証明のようなラムのジュリエットでした。

 

■キャスト

振付:ケネス・マクミラン

音楽:セルゲイ・プロコフィエフ(ブージー・アンド・ホークス音楽出版社)

美術・衣裳:ニコラス・ジョージアディス

照明:ジョン・B. リード

ステージング:クリストファー・サンダース

 

ジュリエット:サラ・ラム

ロミオ:スティーヴン・マックレー

マキューシオ:ジェイムズ・ヘイ

ティボルト:ギャリー・エイヴィス

ベンヴォーリオ:カルヴィン・リチャードソン

パリス:ニコル・エドモンズ

キャピュレット公:クリストファー・サンダース

キャピュレット夫人:エリザベス・マクゴリアン

エスカラス(ヴェローナ大公):トーマス・モック

ロザライン:クリスティーナ・アレスティス

乳母:クリステン・マクナリ―

僧ロレンス:ベネット・ガートサイド

モンタギュー公:ベネット・ガートサイド

モンタギュー夫人:ジーナ・ストルム=イェンセン

ジュリエットの友人:アシュリー・ディーン、ルティシア・ディアス、桂 千理、前田紗江、佐々木万璃子、シャーロット・トンキンソン

3人の娼婦:メーガン・グレース・ヒンキス、ミーシャ・ブラッドベリ、イザベラ・ガスパリーニ

マンドリン・ダンス:アクリ瑠嘉、レオ・ディクソン、デヴィッド・ドネリー、ベンジャミン・エラ、ハリソン・リー、中尾太亮

舞踏会の客、街人たち:英国ロイヤル・バレエ団

 

指揮者:   クーン・ケッセルズ

オーケストラ:       東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

 

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芙二三枝子、折田克子、アキコ・カンダの豊かな表現が鮮やかに蘇る 『ダンス・アーカイヴ2023』

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ダンス・アーカイヴ2023 芙二三枝子 折田克子 アキコ・カンダ
埋め込み元:新国立劇場

『ダンス・アーカイヴ』は、日本の創作舞踊のパイオニアたちの作品を復元上演する公演で、今回は2014年、2015年、2018年に続いて第四弾となりました。取り上げられたのは、高度経済成長期に活躍した芙二三枝子、折田克子、アキコ・カンダです。

 

群舞の芙二三枝子を代表する作品『土面』

芙二三枝子振付『土面』は1972年に日生劇場初となるモダンダンス公演において初演されました。芙二三枝子は石井漠、江口隆哉、小林宗作に師事。「群舞の芙二三枝子」と言われたそうで、『土面』はそれを象徴する作品です。

 

背中を丸めて叫びながら四方より出てくる群舞の登場は、土着の生命力を力強く描き出します。レオタードのダンサーたちが繰り広げる原始的な動きの数々は、モーリス・ベジャールの『春の祭典』を彷彿とさせます。特に、作品の終盤で一人のダンサーがリフトされ、その周りを群舞が囲むというダンサーの配置は、ベジャールの『春の祭典』のラストに似ています。『春の祭典』は1959年初演ですから、芙二三枝子が影響を受けることはなかったのかしら。

 

しかしベジャールの作品以上に、芙二三枝子の『土面』の方が、社会の基層にある人々の生命の繋がりを描いているように思います。数グループに分かれた群舞は結合と分割を繰り返していくのですが、そうした群舞のうねるような移動は、太古より繰り返されてきたであろう集団の結合と離散を見るようです。

 

また、ある一人のダンサーの動きが伝播するようにして、他のダンサーもその動きを連鎖的に展開するという群舞のありようも独特で、『土面』の土着的な雰囲気に相応しい。というのも、人間が集団となる根拠である生きた身体と身体の共鳴を表現しているように思うからです。

 

先に言及した、リフトされたダンサーを囲む群舞は、燃え盛る炎のように腕を波立たせるのですが、それは火を使い始めた原始人と、火起こしの困難さゆえの集団生活、集団を存続させるための儀式の火などさまざまな意味を想像させてくれます。

 

そしてこの作品は「照明に語らせる」とでもいうべき照明の使い方をしています。作品中、それが最も際立っているのが、ラストの場面です。それまで集団となっていたダンサーたちが解き放たれ、舞台に散らばったとき、彼らは静止し、青い照明に切り替わります。

 

生命力の静止がもたらす、何という緊張感・・・!この緊張感があるからこそ、叫びながら中央に走り寄って一つの集団となる幕切れはこの上なく劇的です。

 

平山素子と島地保武のチャーミングな個性が映える『夏畑』

折田克子の『夏畑』は、舞踊作家協会主催公演で共通テーマ「LIFE」のもと初演されました。綿で膨らんだどてらと、顔をすっぽりと覆う大きなつばの麦わら帽子をつけた男女のデュエットです。

 

この不思議で奇妙な衣装を着た二人が、これまた不思議で奇妙な動きを展開していきます。腕を四角く折り曲げ、身体が平面となるよう捻ったポーズ、仰向けになった男性に女性が乗りかかるリフト・・・・・・。

 

平山素子と島地保武、二人のチャーミングな個性が最大に生かされた作品だったのではないでしょうか。マラン・ゴゾフの音楽、『Clown』が懐かしく響くのもあって、おじいちゃん、おばあちゃんの二人が可愛らしく無邪気に戯れる姿を想像させられました。

 

マーサ・グラハムに捧げた作品『マーサへ』

アキコ・カンダはマーサ・グラハムのカンパニーでソリストとして活躍した人物。2002年に初演された『マーサへ』は、タイトル通り、亡き師、グラハムに捧げた作品です。今回上演されたのは、第三章「運命(さだめ)の道」です。

 

丸いスポットライトが二つ舞台上に照らし出されます。その一つは、この作品を踊る折原美樹のためのものですが、もう一つは誰も照らし出しません。見えないグラハムのためのものだからです。

 

折原は無人のスポットの動きを追いかけていきます。『マーサへ』というタイトルは、「マーサのために」という意味かと思っていたのですが、「マーサにつながる道へ」ということなのでしょうね。

 

舞台には長方形の布が5本ほど吊り下げられ、その後ろでグラハムとの思い出が通り過ぎるように、別なダンサーたちが通り抜けていきます。

 

そしてこの布は象徴的な使われ方がされています。上手の布の一つは作品の中盤、硬直して折れたかのように折れ曲がります。その硬い質感は布に当てられた照明の効果もあってか、元々は布だったと思えないほどです。中央の布は裂けて、折原が顔を覗かせ、下手の布は折原の身体が崩れ落ちるのと同時に、切り落とされます。「運命の道」を歩む最中にはさまざまな出来事が待ち構えているとでもいわんばかりです。

 

布が落ちるのと同時に倒れた折原が立ち上がるとき、手に黒い花を持っています。私はグラハム作品をほとんど知らないので分からないのですが、これはグラハム作品に出てくる小道具なのでしょうか。仮にそうでなかったとしても、「転んでも掴めるものはある」というようなささやかな希望を感じさせるラストです。

 

折原美樹の自然体の動きが、淡々と行くべき道を歩み進める一人のダンサーの姿を描き出しました。

 

力強く突き進む道―『バルバラを踊る』

アキコ・カンダの作品からはもう一つ、『バルバラを踊る』よりソロ「黒いワシ」「我が喜びの復活」も上演されました。

 

「黒いワシ」もモチーフは『マーサへ』に似ています。照明が進むべき道のように帯状に舞台に照らし出され、その上を中村恩恵が強い意志を込めた足取りと、象徴的に振り上げた腕を以て、突き進んでいきます。

 

長いスカートの衣装は二枚重ねになっていて、下側が紫です。裾をつまんで力強く手を振り上げていくとき、この紫色が目に飛び込みます。スカートを使った独特の身体造形はグラハム譲りなのかもしれません。

 

後半の「我が喜びの復活」では「黒いワシ」とは打って変わって、舞台上の移動を最小限に抑え、腕をかざして、彼女にしか見えない何かを身体に染み渡らせるように佇みます。

 

いずれも初めて見た作品でしたが、三者三様の強烈な個性があり、昨今の下手なダンス公演よりもはるかに上質な作品ばかりでした。照明の使い方にも気配りがあります。そして初演から十数年経っても全く古びない。

 

芙二三枝子、折田克子、アキコ・カンダが作り出した豊かな舞踊のありようが、現在のダンサーたちによって鮮やかに蘇った舞台でした。

 

■キャスト

【照明】杉浦弘行

【音響】山本 直

【制作協力】(一社)現代舞踊協会 ダンス・アーカイヴ企画運営委員会

 

『土面』(1972年初演)

【振付】芙二三枝子

【音楽】三木 稔、松村禎三 ほか

【出演】高瀬譜希子、中川 賢 ほか

 

『夏畑』(1983年初演)

【振付】折田克子

【音楽】マラン・ゴゾフ

【出演】平山素子、島地保武

 

『マーサへ』 より 三章「運命の道」(2002年初演)

【振付】アキコ・カンダ

【音楽】フレデリック・ショパン

【出演】折原美樹 ほか

 

『バルバラを踊る』 より(1980年初演)

【振付】アキコ・カンダ

【音楽】バルバラ

【出演】中村恩恵

 

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若手日本人ダンサーの活躍とプリンシパルの至高の芸術 『ロイヤル・セレブレーション』

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ロイヤル・セレブレーション 田園の出来事
埋め込み元:NBS

コロナ以降、ロイヤル・バレエ団としての初の来日公演は『ロイヤル・セレブレーション』というガラから始まりました。このガラは、ロイヤル・オペラ・ハウスのファン組織のためにコヴェント・ガーデンで上演された『ダイヤモンド・セレブレーション』をもじったような内容です。『ダイヤモンド・セレブレーション』は以前、ロイヤル・シネマで鑑賞しました。

 

シネマで驚いたのは、新作をこれでもかと並べ、新作を求める熱いファンにロイヤルの最前線を見せようとするロイヤル・バレエ団の気概です。そこから新作群をほぼ全て引っこ抜いた来日公演の『ロイヤル・セレブレーション』は、正直、『ダイヤモンド・セレブレーション』を骨抜きにしたとしか思えませんでした。

 

実際に『ロイヤル・セレブレーション』を見てみれば、新作群と入れ替えたフレデリック・アシュトンの『田園の出来事』が最も素晴らしかったと思ったし、「とんでもない傑作」ではなかったかもしれない新作群を見せられるよりも、来日公演では本当に良い作品を持ってきて欲しいのも事実ですが、そうであれば何も『ダイヤモンド・セレブレーション』を引用したガラにしなくてもよかったのではないか。だって、ガラの意図が違うのだもの。

 

それから日本の観客にとっては昨年、バレエ団としての来日が流れて、少数精鋭のガラになったという経緯もありましたから、コール・ド・バレエが活躍できる作品が第三部の『ジュエルズ』の「ダイヤモンド」しかないというのも、私には不満でした。

 

・・・・・・と来日演目に文句を付け出すと切りがないのですが、ガラでありながら、さすがはロイヤル・バレエ団という演劇性を見せてくれた公演でした。

 

若手ダンサーの挑戦

第一部はクリストファー・ウィールドンの『For Four』とヴァレンティノ・ズケッティの『プリマ』。元々はプリンシパルが踊ることを想定して振り付けられた作品だと思いますが、私が見に行った6月24日のソワレは若手ダンサーを中心に起用したキャストでした。

 

『For Four』を踊ったのは、レオ・ディクソン、ウィリアム・ブレイスウェル、リアム・ボスウェル、ジョゼフ・シセンズ。ディクソンは端正な美しさのあるダンサーで、やはり端正で優美な情感が滲み出るブレイスウェルと同じ動きを展開する部分では、似た素質を持つダンサー同士ならではの共鳴があって面白い。ボスウェルはきびきびとテクニックを披露。シセンズは、動き一つ一つに情熱を秘めるような独特な雰囲気が魅力的で、シルエットだけで動きを見せる冒頭から目を奪います。

 

『プリマ』は、フランチェスカ・ヘイワード、マヤラ・マグリ、金子扶生、ヤスミン・ナグディが初演しましたが、それぞれの役を、メーガン・グレース・ヒンキス、前田紗江、佐々木万璃子、佐々木須弥奈が踊りました(お顔を見間違えてたらすみません)。

 

ヒンキスは中堅ダンサーならではの艶やかな色香で四人の中で最も際立っていました。前田紗江は、仄かなコケットリーの中に愛らしさを残し、マグリとは全く異なる魅力を放ちます。佐々木須弥奈は、盤石なテクニックゆえの明快な動きが冴え渡るナグディ顔だった役に対して、快活で明るいニュアンスを以て立ち向かい、佐々木万璃子は強くクールな印象がありました。

 

しかし正直なところをいえば、4人のプリマの強烈な個性の競演とでもいうべき初演のダンサーたちには今一歩及ばなかったとは思いました。とはいえ、プリンシパルダンサーの老練なニュアンスの作り方に対して、若手ダンサーだからできる軽やかで明るい雰囲気がこのキャストにはありました。

 

そもそも『For Four』にせよ、『プリマ』にせよ、バレエ団としての公演よりも世界バレエフェスティバルのようなトップダンサーが集結し、強烈な個性を以て火花を散らすガラに相応しい作品ではないでしょうか。その意味で私にはこの第一部の演目には物足りなさを感じました。

 

マリアネラ・ヌニェスによる絶品のナターリヤ

それに対して『田園の出来事』は文句なしに素晴らしかったです。ヌニェスのためだけでも大枚はたいてチケット買った甲斐があったと思います。

 

ヌニェスのナターリヤは、幕の開いた瞬間から、上流階級の貴婦人というべき優雅な立ち居振る舞いを印象づける一方、年齢としてはまだ若く、若い女性らしい快活さも備えていることを感じ取らせます。そしてきっととても可愛らしいのでしょう。上手でラキーチンを相手にゆったりとくつろぐさまは、彼女の日常に何の不足がないことを物語ると同時に、日常に何ら新鮮味がない人間に共通する怠惰な雰囲気を漂わせます。

 

そしてこれほど優雅な性格であるにもかかわらず、ベリャーエフのことにあたっては、我を忘れ、怒りと嫉妬の入り交じる感情そのままにヴェーラに接してしまう。

 

何という活写力だろうか。

 

ヴェーラはアナ=ローズ・オサリバン。活発で躍動感のある踊りが、生命力ある瑞々しい若い娘の姿を象ります。ベリャーエフに対する叶わぬ恋に苛立ち、ナターリヤに対して感情を剥き出しにする後半は、女主人に引け目を感じていたかもしれない養女というヴェーラの立場にはそぐわないと個人的には思いましたが、現代的な感性に基づいた役作りだったと思います。

 

マシュー・ボールのベリャーエフは等身大の大学生です。この家庭をかき回すわりには、いかにも都会の洗練を身につけたというようなカリスマ性があるわけではありません。何となくヴェーラの気を惹くような行為をするくせに大胆に二股をかけるわけでもなく、そうかといってナターリヤに対する情熱を突き通すわけでもない。ナターリヤからもらった花を床に投げ捨てて帰る場面も、未練が入り交じるというよりも、妙にぞんざいな捨て方で(単純に小道具遣いが上手くいかなかっただけかもしれないが)、この青年の浅さが見えるようです。こうしたボールの自然体の演技がこの作品にリアリティをもたらしています。

 

つまりナターリヤが求めていたのは、自分を心底愛してくれる魅力的な青年だったのではなく、来る日も来る日も同じことが続くこの日常の変化だったのではないかと。

 

領地から出立するラキーチンとベリャーエフの二人の男性に対し、いつまでもこの領地に残り、空虚な日常を味わっていかねばならないナターリヤの絶望を、作品の最後、ヌニェスは生きる力をなくした覚束ない足取りで示しています。

 

この作品を舞台で見るのは初めてだったのですが、裕福な家の内装を表現する舞台装置の圧巻の美しさには目を瞠りました。また二人の心の惹かれ合いを示すかのようなナターリヤの水色のリボンとベリャーエフの水色の上着は、色彩的な共鳴を見せています。

 

そして何よりもパ・ド・ブレなど細かい足の動きによって女性たちの愛らしさと浮き立つ心を描き出すアシュトンの振付には巨匠の確かな腕を感じました。

 

ロイヤル・バレエ団らしい「ダイヤモンド」

ガラを締めくくるのは、ジョージ・バランシンの『ジュエルズ』より「ダイヤモンド」。この日のサラ・ラムは微妙に調子が悪かったのではないかと思わせられましたが、彼女でしかありえないクリスタルのように透き通った美しさはやはり絶品です。この世のものと思えない美しい輝きに満ちています。

 

それはラム自身の素質のみならず、人間の重みを1ミリも感じさせない平野亮一のリフトによる部分も大きかったのではないでしょうか。

 

天上の美しさなのに、人工的な冷たさは全くない。ラムの「ダイヤモンド」は私の大好きな「ダイヤモンド」の一つです。

 

コール・ド・バレエのダンサーたちは、アシュトン作品の延長を思わせる大きく捻った上体の使い方が印象的。加えてロイヤル・バレエ団ならではの人間的なあたたかみがありました。

 

バランシン作品はロイヤル・バレエ団が得意とする演目として第一に挙がるものではないと思いますが、それゆえにかえってロイヤルらしさが見えた第三部でした。

 

■キャスト

FOR FOUR

振付: クリストファー・ウィールドン

音楽: フランツ・シューベルト

衣裳デザイン: ジャン=マルク・ピュイッソン

照明デザイン: サイモン・ベニソン

ステージング: クリストファー・サンダース

 

リアム・ボスウェル、ウィリアム・ブレイスウェル、レオ・ディクソン、ジョセフ・シセンズ

 

四重奏:ヴァスコ・ヴァッシレフ、戸澤哲夫、臼木麻弥、長明康郎

 

プリマ

振付: ヴァレンティノ・ズケッティ

音楽: カミーユ・サン=サーンス

衣裳デザイン: ロクサンダ・イリンチック

照明デザイン: サイモン・ベニソン

ステージング: ヴァレンティノ・ズケッティ、ギャリー・エイヴィス

 

メーガン・グレース・ヒンキス、前田紗江、佐々木万璃子、佐々木須弥奈

 

ヴァイオリン: ヴァスコ・ヴァッシレフ

 

田園の出来事

振付:フレデリック・アシュトン

音楽:フレデリック・ショパン        編曲:ジョン・ランチベリー

美術・衣裳:ジュリア・トレヴェリアン・オーマン

照明デザイン:ウィリアム・バンディ

照明デザイン:ジョン・チャールトン

ステージング:クリストファー・サンダース                

 

ナターリヤ : マリアネラ・ヌニェス

イスラーエフ : クリストファー・サンダース

コーリャ(息子) : アクリ瑠嘉

ヴェーラ(養女) : アナ・ローズ・オサリヴァン

ラキーチン : ギャリー・エイヴィス

カーチャ(家政婦) : 佐々木万璃子

マトヴェイ(従僕) : ハリス・ベル

ベリヤエフ(家庭教師) : マシュー・ボール

 

ピアノ:ケイト・シップウェイ

 

「ジュエルズ」より"ダイヤモンド" [全編]

振付: ジョージ・バランシン

音楽: ピョートル・チャイコフスキー

衣裳デザイン: カリンスカ

装置デザイン: ジャン=マルク・ピュイッソン

照明: ジェニファー・ティプトン

ステージング: クリストファー・サンダース、サミラ・サイディ

 

サラ・ラム、平野亮一

アネット・ブヴォリ、アシュリー・ディーン、イザベラ・ガスパリーニ、ジーナ・ストリーム=ジェンセン、

デヴィッド・ドナリー、ニコル・エドモンズ、カルヴィン・リチャードソン、ジョセフ・シセンズ、ほか

 

指揮:クーン・ケッセルズ、シャルロット・ポリティ(「田園の出来事」)

演奏:東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

 

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夢を見続ける強さ マリアネラ・ヌニェス&ワディム・ムンタギロフ『シンデレラ』(フレデリック・アシュトン)

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シンデレラ アシュトン ヌニェス ムンタギロフ
埋め込み元:ロイヤル・シネマ

ロイヤル・バレエ団でのフレデリック・アシュトン版『シンデレラ』の上演は実に10年ぶりだそうです。アシュトンにとって初めての全幕バレエという記念すべき傑作の初演から数えて75周年にあたる今年、衣装や装置を一新、演出もやや変更して上演しました。

 

舞台美術は、ローレンス・オリヴィエ賞で話題となった『My Neighbor Totoro』の舞台装置を手掛けたトム・パイ、衣装はアレクサンドラ・バーン。再演出はウェンディ・エリス・サムズとギャリー・エイヴィスが担当しています。

 

自然のテーマを読み取った舞台美術・衣装

私はアシュトンの『シンデレラ』にクラシカルなイメージを持っていたので、新演出におけるショッキングピンクなどの飛んだ色合いには初め仰天してしまいました。しかし幕間インタビューでトム・パイやアレクサンドラ・バーンの話を聞くと、作品に対する深い理解に基づいてデザインしたものなのだと了解させられます。

 

彼らはこの作品に「自然」というテーマを読み取りました。確かに、仙女はかぼちゃなど自然のものを馬車やドレス、ティアラに変えましたし、このアシュトンの作品には四季の精も登場します。そして、花が開いたり、さなぎが蝶になったりという、自然界で起きる現象こそ何よりの魔法です。トム・パイによるデザインでは、舞台の枠を草花や蔦が囲うなど自然のモチーフが多く使われています。

 

一方、お洒落をする義姉の衣装にも花が多く使われています。しかしそれは造花です。そうすることで彼らは消費社会の象徴としての意味を付与したかったといいます。

 

その発想は極めて納得のいくもので、文句の付けようがないのですが、どきつい衣装から受ける印象にあくどさがありすぎて、私は好きになれませんでした。それはギャリー・エイヴィスとアクリ瑠嘉の義姉の演技も同じです。私は、DVDで見続けてきたアシュトンとロバート・ヘルプマンが演じる義姉以外を受け入れられない偏屈人間なので致し方ないのですが、衣装までがきつい性格を強調するのだもの・・・。

 

アシュトンとヘルプマンの義姉は、確かに意地悪なのだけれども、どこか抜けたところもあって、決してあくどくはありません。そこに、人を出し抜こうとして意地悪するくせに、妙に意地悪の詰めが甘くて自分の思い通りにならず、そのために苛立ってますます意地悪になる私自身の戯画を見るようで、ひときわ思い入れが大きかったのです。彼らの演技にはほとんど人生の悲哀すら感じます。

 

あくどいといえば、ベネット・ガートサイドの父も、情状酌量の余地なしですね笑。シンデレラの父は気弱に演じるダンサーもいると思うし、旧プロダクションの父親の衣装はわりと粗末だった覚えがあります。

 

しかし新プロダクションでは、薄く色の入った眼鏡に、なかなかのお洒落なコートを着ています。ガートサイドの演技も、義姉たちを使ってあわよくば成り上がろうという思惑すら透けて見えます。というか、あの服装、成り上がりにありがちなやつじゃん!シンデレラが亡き母の肖像画を前に涙するシーンでも、一緒になって悲しむというよりも、いつまで経っても実母を忘れないシンデレラに困った顔をする始末です。

 

「自然」という魔法を全面に押し出した新プロダクションの舞台装置で息をのんだのは、シンデレラに魔法がかかるシーンです。舞台の枠にプロジェクションマッピングで光の線が走り、あたかも妖精棒から放たれた魔法が舞台全体を包んでいるかのようでした。

 

そしてこのプロジェクションマッピングは三幕の最後、シンデレラと王子の結婚を物語る場面でも用いられています。愛が生まれるということは、自然界で最も神秘的で美しい魔法なのです。

 

さて、演出の変更(というよりも衣装か?)で気になったのは、旧プロダクションでは乞食の身なりで登場する仙女のシーンです。新プロダクションでは乞食というよりも、『白雪姫』でリンゴを渡す魔女のような風貌で、私には変更の意図が読み取れませんでした。

 

ここにも自然のテーマが差し込まれていて、仙女がシンデレラに売るのは花です。だからチャップリンの『街の灯』に描かれるような貧しい花売り娘をここで想起してもみましたが、どうひっくり返しても、魔女は花売り娘に見えませんからね・・・。この場面は、自分だって貧しいのに、乞食に対して施しをするシンデレラの優しさを描くシーンであるはずではなかったのか!?

 

もう一つ、三幕冒頭に一曲追加され、逃げるシンデレラと追いかける王子、家に帰ろうとする客人たちを描く場面が新たに作られました(私の勘違い?前からあったっけ?)。個人的にはこのシーンはあってもなくても構わない気がしました・・・。

 

人は夢見る必要がある

こうした自然というテーマを取り上げた新プロダクションは、四季の精の重要性をより一層、押し上げたといってよいでしょう。

 

アナ=ローズ・オサリバンが鮮やかなステップで瑞々しく溌剌とした春を、マヤラ・マグリが氷柱のように硬くクールな冬を演じました。崔由姫の秋の精は強く燃え上がるよう。夏の精のメリッサ・ハミルトンは腕にやや硬さが残り、叙情性に欠けた印象でした。

 

仙女は金子扶生。凜とした煌めきのある踊りを見せてくれました。

 

妖精たちのダンサーは皆、アシュトンが作り出したとてつもなく素早い足さばきを見事にこなし、コール・ド・バレエによる変則的なフォーメーションはまさに魔法そのもの。私はこの作品の中で妖精たちの振付が最も好きですね。

 

道化の中尾太亮の足さばきも見事。この役柄において求められる難しいテクニックを完璧にこなせば、それがそのままチャーミングな演技となるという事実を思い知らされました。

 

そして何よりもマリアネラ・ヌニェスのシンデレラには心底感動しました。ヌニェスは昔から明るい役が特に似合うダンサーだったと思いますが、その彼女の気質がシンデレラのめげない強さとなって表れていました。「そんな夢のようなことが現実に起きるなんてことは・・・」と自分自身への呆れが一方にはありながら、ロマンティックな表情を浮かべ、幸福な未来が訪れることを信じ続ける。そこにプロコフィエフの音楽が感動的に響きます。

 

ロマンティックといえば、ワディム・ムンタギロフの王子もロマンティックです。シンデレラの登場が告げられるシーンやガラスの靴の持ち主を探すシーンでは、不安と期待が入り混じった表情を浮かべます。まるで愛という魔法のありかを探し求めているように・・・。

 

ヌニェスが幕間インタビューで「世の中は楽しいことばかりではないけれども、人は夢見る必要がある」というようなことを言っていました。ヌニェスのシンデレラを見ていると、夢を見るというのは呑気な行為なのでは全くなく、人間にとって欠けては生きていけないものなのだと思い知らされます。

 

というのも、それは生きるための強さだからです。ヌニェスのシンデレラは夢を見続ける強さがあったからこそ、幸せを勝ち取れたのだと思わずにはいられませんでした。

 

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