小さいということの力を感じる公演 K-BALLET Opto「Petit Collection-Petit, Petit, Petit!」

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プティ・セレモニー メディ・ワレルスキー
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K-BALLET Opto旗揚げ公演「Petit Collection-Petit, Petit, Petit!」は、「Petit」をテーマにした三つのコンテンポラリー作品で構成されたものです。

 

正直なところ、全ての作品において消化しきれなかった部分が多かったのもあって、心から興奮したというわけにはいかなかったですが、どれも一定の完成度を誇る素晴らしい公演だったと思います。

 

一つ目の作品である『プティ・セレモニー』の振付家、メディ・ワレルスキーは、NDTを経て現在はバレエ・ブリティッシュ・コロンビアの芸術監督となっている人物です。私にとっては初見の振付家となります。

 

フォーマルな格好をした男女が一斉に展開する、一定のリズムを刻んだシンプルな動きの繰り返しが特徴的で、それがナンセンスと儀式性が隣り合わせになった奇妙なダンス劇を作り出しています。

 

「小さな」儀式というタイトルが示す通り、男女をひとつかみ、社交場や夜会といった何らかの小さな箱―つまりは社会の縮図―に入れたとき、人々はいかにエネルギーを変容させていくかを描いたような作品です。

 

初め、折り目正しい動きであったところから(その折り目正しさというのは、無意味なマナーが滑稽なのと同様に、一種のナンセンスさを帯びている)、次第にその緊張と秩序に綻びが生まれ、駆け引きや対立を強調するデュエットによって男女の性差が露わになり、最終的には秩序を乱す混沌のエネルギーが、ダンサーたちの作り出す箱の渦となって頂点に達します。

 

渡辺レイ振付『プティ・バロッコ』は女性の、ひいては人間の強烈な生の強さを描いた作品です。

 

女性ダンサーを一列に並ばせて膝下を幕で隠し、ピンヒールを履いた足元だけを強調する冒頭から、自分という自由な存在の強い主張を感じます。

 

作品の後半、女性ダンサーたちはピンヒールを脱いで踊ります。そしてそれらピンヒールは集められ、トルソ型に吊されて、舞台の後ろに立てられています。ピンヒールがあろうとなかろうと、彼女たちの存在の強さには変わりはなく、また後ろに立てられたピンヒールによるトルソの存在感も甚だ強い。

 

ピンヒールといえば、女性性の象徴であり、それを履くことが社会の上で「正しい女性」であるための一つのルール。また脚だけを見せるというのは「女の思わせぶり」として捉えられがちですが、渡辺レイの手にかかると、ピンヒールというアイテムは、強いエネルギーを履きこなす強い女性を描き出す手段となるのだから驚きです。

 

脚だけを見せて思わせぶりだと思うのは、そう思う人が勝手にそう思っているのであって、脚だけを見せる人が別に思わせぶろうとしているわけではありません。他人からどう思われようとも、社会のルールがどうであろうと、そんなものはくそ食らえという強靱な力がこの作品を支えています。

 

尺は短いものの、最後に展開される女性同士のデュエットは圧巻です。この作品ほどに女性同士の強烈なエネルギーをぶつけ合ったデュエットは見たことがありません。

 

ダンサーの中でも飯島望未の強靱なエネルギーは圧倒的でした。

 

森優貴の『プティ・メゾン』は、白と黒に分断された世界を描いた作品。大量の丸められた白と黒の紙が、くっきりと左右に色分けされて舞台一面に広がった画面構成は目を奪います。ダンサーたちも白と黒に分かれて配置されています。

 

決して交わることのなかった二つのグループがラフマニノフのラプソディとともに混じり合い、一つの小さな家へと集まっていきます。

 

「プティ」というテーマを据えたとき、不思議なことに三人の振付家が三人とも、ダンス作品を通して、人間の差異と対立、そしてそうした表面的な違いを超えた、人間が共通して持つ本質を描いているのは面白い。

 

小さいということが、どれだけ大きな世界の本質を扱えるのか―小さいことの力を感じる素晴らしいテーマだったと思います。

9月30日昼公演鑑賞

 

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欠点だらけの人間へのあたたかな眼差し スターダンサーズ・バレエ団「The Concert」(スコッチ・シンフォニー/牧神の午後/コンサート)

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コンサート ロビンズ スターダンサーズ・バレエ団
キャプション

スターダンサーズ・バレエ団による「The Concert」は、ジェローム・ロビンズの『コンサート』に加え、同じくロビンズの『牧神の午後』とジョージ・バランシンの『スコッチ・シンフォニー』という、いずれも1950年代に作られた作品で構成されたトリプル・ビルです。

 

元々は一昨年に上演が予定されていた公演ですが、コロナで休演。国内バレエ団初演の『コンサート』ということで話題だった分(ちなみに1980年代に海外バレエ団によってこの作品は日本に紹介はされていたらしい)、休演は非常に残念でしたが、今年、ようやく上演が叶いました。

 

『ラ・シルフィード』を彷彿とさせるバランシン『スコッチ・シンフォニー』

『スコッチ・シンフォニー』は、メンデルスゾーンがスコットランドを訪れた際に着想を得て作られた交響曲第三番「スコットランド」に、これまたバランシンがスコットランドで見たサーチライト・タトゥーというパフォーマンスに触発されて振り付けた作品です。

 

バランシンは第一楽章はバレエに不向きと判断し、第二楽章から第四楽章のみを使用しています。

 

スコットランドを舞台とした『ラ・シルフィード』を彷彿とさせるロマン主義的な作品で、動きにも細かな足さばきが求められる小さなジャンプが多いのが特徴です。心なしか、ダンサーたちのアンバーが長く、ブルノンヴィルスタイルを思わせます。

 

コール・ド・バレエは男性がキルトを着用し、女性は薄いピンクが美しいロマンティック・チュチュを着用しています。そこに登場するのが、女性の中でただ一人だけキルトを着た塩谷綾菜。男勝りで明るく溌剌とした踊りは際立っていました。

 

第二楽章になると、得体の知れない憂鬱に囚われた、いかにもロマンティック・バレエの男主人公という表情をした池田武志が歩み出てきて、ロマンティック・チュチュを着た渡辺恭子とのパ・ド・ドゥとなります。

 

渡辺恭子は華奢で嫋やか、そして凜とした気品がありました。池田武志は腕から手先にかけての動きが滑らかで、熟練したものを感じます。

 

パ・ド・ドゥでは、度々コール・ド・バレエのキルトの男性たちが、ロマンティックヒロインに惹かれる憂鬱の男主人公とヒロインの間を阻むがごとく立ちはだかります。

 

理想を追い求めながら、幻想の中でそれを得ることができないというロマンティック・バレエの構図でありながら、コール・ド・バレエのフォーメーションなど、どことなく計算され整然とした新古典主義的なものを作品は纏っているような気がします。それが何ともバランシンらしい。

 

ロビンズの『牧神の午後』は喜入依里と林田翔平。悪くはないものの、欲を言えば、林田翔平にはくすぶる恋心ゆえの倦怠感や官能性を見せて欲しかったところ。喜入依里も艶やかなダンサーではありますが、神秘性や謎めいた雰囲気に欠けていたように思います。

 

ロビンズ『コンサート』―初演とは思えない高い完成度

『コンサート』は、ピアノリサイタルが舞台という設定の、キュートでファニーな作品です。

 

演奏開始前に思わせぶりなパフォーマンスをするピアニストから、他の観客のマナー違反には敏感なくせに結局は寝てしまう男、お上品な会場には不似合いなほどイライラと怒った女、興味がないのに妻に連れてこられた夫など、皆が気取りたがるコンサート会場を通して、気取りでは到底隠しきれない欠点だらけの人間のありようを描いています。

 

マッド・バレリーナは渡辺恭子。この役に欠かせない天然ぶりはありながらも、ハズバンドに太ももを触られたときにちらと見せる怒りの表情や、椅子がなくなってお尻が丸見えだったときの羞恥心と驚きといった、人間である以上、必ず持つであろう感情、どれほど「おバカ」に見える人間が相手でも、他人が決して蔑ろにはしてはいけない感情をキリッと描き出すところに、渡辺恭子らしいところがあります。

 

岩本悠里のアングリー・ガールのゴツゴツとした怒りようは真に迫り、林田翔平のハズバンドによる蝶の場面は可愛らしさすらあります。この可愛らしさこそが、妻の尻に敷かれる夫が得た自由の喜びをリアルに表現しています。

 

ロビンズのこの傑作は人々の欠点を描きながらも、描き方に罪がないところが最大の魅力です。

 

マッド・バレリーナとシャイ・ボーイのパ・ド・ドゥは、わがままなバレリーナと彼女に振り回される男性ダンサーの戯画というところでしょうか。ロビンズも描こうと思えば、辟易するほどの自分勝手さを描けたと思いますが、あえてこのバレリーナをそうは描きませんでした。

 

私たちが普段「なんて自分勝手な人なのか」と苛立つ相手も、もしかしたらわがままなのではなく、単に思考がぶっ飛んでいるだけなのかもしれない。作品を見ながら、次第に寛容な心が育まれていく作品です。

 

欠点だらけの人間たちへのあたたかな眼差しがないと、このような作品は作れないでしょう。

 

このようなロビンズの魅力に気づけたのは、スターダンサーズ・バレエ団が初演とは思えない極めて高い完成度を見せてくれたおかげです。9月23日鑑賞。

 

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愛を知る者のみに見ることができる美しいビジョン 金森穣振付『フラトレス機Sostenuto』(サラダ音楽祭2022)

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サラダ音楽祭2022
埋め込み元:サラダ音楽祭

9月19日に開催された「サラダ音楽祭2022」はNoismのダンス付きの作品2つに加え、アシュトンやバランシン作品などでバレエ好きにもお馴染みのメンデルスゾーンの『夏の夜の夢』、同じくオベロンとタイターニアの物語に想を得たウェーバーの歌劇『オベロン』が演奏されました。

 

『オベロン』の序奏は、まるで魔法に満ちた妖精たちの国のようで、ホルンに始まり弦楽器が重なって会場を満たすロマンティックなもの。そこに妖精の王と王妃であるオベロンとタイターニアを彷彿とさせる威厳のあるパートが続きます。

 

一方、『夏の夜の夢』の序曲は夜明けを告げるようなロマンティックな木管から始まって、細かな弦楽器が妖精たちの羽音を描き出します。交通事故を起こしそうなほどに戯れる弦の響きは、その後の物語で展開されるオベロンとタイターニアの喧嘩や、パックの早とちりをも想像させられます。

 

そして太陽の光が妖精の国を経て、人間の国を目覚めさせたかのごとく、妖精たちに続き、貴族や職人たちの主題が導入されていきます。

 

『オベロン』と大きく異なるところを一つ挙げるとすれば、メンデルスゾーンの『夏の夜の夢』は全世界の調和を意味するかのように、妖精や人間、ロバに代表される動物という生きとし生けるものが共存して描かれているということ。

 

フィナーレでは暖かな人間の声が愛の賛歌のように吹き込まれています。

 

世界平和がこれまで以上に希求される今だからこそ響く作品だったと思います。

 

ベジャールの『ボレロ』を想起させる動き

ペルトの「フラトレス〜弦楽と打楽器のための」に振り付けられた『フラトレス機戮亙未竜_颪粘嫋泙靴燭海箸里△觝酩覆任△蝓↓兇筬靴盡ています。それにもかかわらず、今さらに気づきました。

 

この作品は恐らくモーリス・ベジャールの『ボレロ』を踏まえているのではないでしょうか。

 

手のひらを反らして左右の手首を合わせる形であったり、腕で胸を抱きしめる振付であったり、胸から腹に沿って手で撫でる動きであったりと、ベジャールの『ボレロ』にもある手や腕の動きと共通します。

 

そもそも一人ひとりのダンサーに当てられた円形の照明は『ボレロ』の円卓を彷彿とさせます。

 

金森穣はペルトを極めて東洋的に解釈し、武道の足蹴りのような動きを取り込んで、ベジャールの官能的な儀式性の代わりに、ストイックな世界観を作り出しています。

 

孤独な現代人がままならない社会の中で、一人ひとり、ひたすらに自分のできることをやり、修練に耐えていく姿が描かれています。

 

ひとりの人間の魂の昇天を描く

今回初演の『Sostenuto』は、ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番の第二楽章に振り付けられた作品。上手に白いベッドが置かれ、横たわる女の周りを人々が囲んでいます。

 

ベッドから身を起こし、彼岸へと旅立とうとする女を、見舞う人々は追いかけるものの、彼女は彼らをすり抜けてしまう。この作品に流れているのは、現実の目には見えない、ひとりの人間の魂の昇天の時間です。

 

それにしても何という美しいビジョンだろうか。

 

逡巡を経て、曲の中間部で突如打たれる音の静止と同時に、両手を挙げて身近な人々への未練を断ち切る女。空のベッドによって象徴的に描かれるこの世の生命の消滅。悶え、転がり回り、鬢を掴んで慟哭する人々。

 

死にゆく人の魂を透かし見られるほどに人を愛おしんだことがあり、亡き人が残していったぬくもりと不在の静けさに肌を触れ合わせたことがあり、「一筋の涙」などというきれいな装いには到底収まりきらない激しい悲しみを経たことのある人でないと、このような美しいビジョンを得ることはできないのではないだろうか。

 

ラフマニノフのこの曲が、この日ほどに美しく切なく、静かで孤独に聞こえたことはありません。

 

金森穣の作品はメカニックでストイック、救いようのない不条理なものも多く、良い作品だと思っても、心惹かれることは実は多くはないのですが、『Sostenuto』は人を愛する心の持ち主であれば、必ず琴線に触れることは間違いありません。

 

■公演情報

会場

東京芸術劇場 コンサートホール

 

出演者

指揮/大野和士

ストーリーテラー/パックン(パトリック・ハーラン)◎

ピアノ/江口 玲●

ソプラノ/重田 栞◆

メゾソプラノ/松浦 麗▲

ダンス/Noism Company Niigata(演出・振付/金森 穣)

合唱/新国立劇場合唱団★(合唱指揮/水戸博之)

管弦楽/東京都交響楽団

 

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ロマンティック・バレエ越しに覗いたリアリズム小説 ピエール・ラコット振付『赤と黒』(パリ・オペラ座バレエ団)

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赤と黒 ピエール・ラコット パリ・オペラ座バレエ団
埋め込み元:bachtrack

元々この作品は評判が芳しくないことは知っていましたし、1年ほど前にYouTubeで抜粋動画も見ましたが、確かにエトワールたちの素晴らしい技量のほかに見るべきものはなさそうだとは思っていました。

 

このたび、ようやく心の準備ができましたので、NHKオンデマンドで配信されているピエール・ラコット振付『赤と黒』を実家の大画面テレビで鑑賞。改めて面白くないことを実感しました・・・笑

 

ユーゴ・マルシャンはジュリアン・ソレルか

気に入らない点を挙げていけばきりがなさそうですが、まずは今回収録されたキャストからして、私のイメージする『赤と黒』の登場人物とかけ離れています。

 

そもそもこの作品はマチュー・ガニオのジュリアン・ソレルがファーストキャストであったところ、ガニオが怪我で降板。本来、この映像はガニオで収録される予定だったのだと思いますが、代わりにユーゴ・マルシャンの日で収録されています。

 

ファーストキャストではないという事情があるにせよ、マルシャンはどこをどう切り取ってもジュリアン・ソレルではない・・・少なくとも私のイメージするジュリアンではありません。

 

小説におけるジュリアンは、並大抵の雨風には倒れない厳つい兄たちとは反対に、ひ弱で繊細な美しさがありました。すなわち貧しい製材屋の息子として生まれながら、肉体労働には不向きな容姿を天はジュリアンに与え、それゆえに無骨な父たちはジュリアンを嫌っていたわけです。

 

しかるにマルシャンは堂々たる美しき体躯の持ち主です。約束された将来と漲る自信に縁取られた青年将校にしか見えません。

 

身体条件は変えられないものですから、そこは目をつぶったとて、ジュリアンという人物を演じる上で絶対に欠かせてはいけない野心というものを、マルシャンはひと欠片も持ち合わせていません。

 

繊細な鼻筋に、異常な野心と空想の熱を目に帯びた少年。これが私の思い描くジュリアンですが、マルシャンはどのようなつもりで役作りしたのかを聞いてみたいところです。

 

レナール夫人はドロテ・ジルベールですが、一面においては世間知らずの純潔無垢なレナール夫人を演じるには、ジルベールはあまりに高潔すぎる気がします。

 

ビアンカ・スクダモールのマチルドとロクサーヌ・ストジャノヴのエリザは悪くはありませんでしたが、これはYouTubeに抜粋動画が上がっていたミリアム・ウルド=ブラームとヴァランティーヌ・コラサントが素晴らしすぎました。

 

ブラームのマチルドが最上流の令嬢というに相応しい優雅さと、これまた最上流の令嬢ならではの高慢さを纏っていたのに対し、スクダモールのマチルドは最高の教育を受けているはずなのに、どこか幼稚な一面を持つ我儘な娘といったところ。

 

小説のマチルドも、ジュリアンとの秘密裡の恋愛を、わざと冒険性の帯びた危険なものにするような子供じみた人間ですから、スクダモールの役作りは納得ですし、両者ともに自分の素質を生かした丁寧な役作りだったと思います。

 

ただ私の好みはブラームです。ブラームの美しさは比類ありません。

 

YouTube動画で見たコラサントのエリザも飛び抜けて印象に残っています。荒波に揉まれて生きてきた女中階層ならではの胆力と恐ろしさ。それに対し、ストジャノヴのエリザはコラサントほどの胆力はありませんでしたが、彼女は彼女で女中らしい。こそこそと裏で人を陥れる女という庶民的な小物感がありました。

 

フェルバック元帥夫人のカミーユ・ボンがこの作品の中で最も役に似合っていたように思います。マイムなどにおける手先の動きが不器用に見えたものの、ほっそりとした身体の持ち主であり、貴婦人ならではの神経質な気品が垣間見えます。

 

ロマンティック・バレエの枠組みに当てはめられたフランスリアリズム小説

キャストのためにこの配信を楽しめなかったということもありますが、やはり何よりも振付・演出があまりにも詰まらない。

 

ローラン・プティの『ノートル・ダム・ド・パリ』、ケネス・マクミランの『マノン』、ジョン・クランコの『オネーギン』など、既存作品の特徴的な動きをちぎってつなぎ合わせたような振付には、何一つ真に迫る心理表現が見当たりませんでしたし、短絡的かつ単調な舞台進行に幕開け早々、辟易してしまいます。

 

ジュリアンがレナール家にやってきた場面なんて、21世紀のバレエの演出とは思えませんでしたよ。

 

まず、レナール夫人の息子がレナール夫人の袖を引っ張り、頭上で手を回す、あの「踊ってちょうだい」というお決まりのマイムをして、レナール夫人にヴァリエーションを踊らせます。それだって何だか古くさいですが、これだけではありません。

 

ヴァリエーションの直後、子役がジュリアン、その次は夫レナールの元で同じマイムを繰り返し、ヴァリエーションを連続させるという、古典作品にもそう簡単には見つからない単純な展開が観客を待ち構えているのです。

 

「19世紀に作られて、現代では失われたロマンティック・バレエの復元です」と、20世紀以降の振付家の影響を受けていない一部分だけを切り取って見せられたとしたら、もしかしたら私は2020年代に作られた作品だと見抜けなかったかもしれない。

 

作品としては面白くなかったものの、ピエール・ラコットという人を考える上で面白かった点があるとしたら、まさにこの古くささにありました。

 

これは失われたロマンティック・バレエの再現振付を手掛けてきた大家の宿痾なのかもしれません。

 

スタンダールの『赤と黒』という小説をロマンティック・バレエの枠組みを通してでしか見ることができていない。

 

その最たる例が、レナール家から追い出されたジュリアンが神学校でレナール夫人の幻影を見る場面です。小説でも確かにジュリアンはレナール夫人に恋い焦がれていた覚えがありますから、それを幻影という形で表現したのでしょうけれども、白いロマンティック・チュチュで表現されるレナール夫人はまるでシルフィードのようです。

 

ジュリアンがマチルドと書架で初めて出会う場面も『ラ・シルフィード』を彷彿とさせます。マチルドが本棚用の梯子に乗ったところを、彼女の崇拝者である複数人の貴公子たちが梯子を滑らせて移動させるという演出を取っているのですが、19世紀が仕掛けを用いて作り上げた浮遊と憧れの表現に類似します。

 

ちなみにラコットの振付はフランス派の重鎮らしく、足さばきが細かい動きが多い。

 

幼稚さと紙一重の純粋とナポレオンばりの野心をちゃんぽんにしながら、欺瞞に満ちた王政復古社会の中でギロチンにかけられる青年の物語が、手の届かないものに憧れ、その幻影に破れるという枠組みに押し曲げられてしまったというところでしょうか。

 

フランスリアリズム小説の嚆矢ともいえるスタンダールの『赤と黒』を、形骸化したロマンティック・バレエとして作り替えてしまった今回の舞台には唖然とせざるを得ません。

 

■YouTube動画:愛らしく、高慢で、この上なく優雅なミリアム・ウルド=ブラーム パリ・オペラ座バレエ団『赤と黒』(World Ballet Day)

 

■キャスト

Julien Sorel :Hugo Marchand

Madame de Rênal :Dorothée Gilbert

Mathilde de la Mole :Bianca Scudamore

Élisa :Roxane Stojanov

Monsieur de Rênal :Stéphane Bullion

L'Abbé Chélan :Audric Bezard

L'Abbé Castanede :Pablo Legasa

La Maréchale de Fervaques :Camille Bon

 

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