カラボスが最愛のオーロラに授けた贈り物とは? クリスチャン・シュプック振付『眠れる森の美女』(チューリッヒ・バレエ団配信)

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オーロラ姫の両親は長年、子どもに恵まれなかったと言います。プロローグでオーロラの母王妃が妖精たちの世界に行き、そこで妖精たちに慈しまれている、産まれる前の赤ちゃんたちの中からオーロラを盗むというクリスチャン・シュプック版の設定は、130年の歴史を持つこの古典作品に新たな光を当てました。

 

私は、優れたフィクションとは、あり得ないところに立脚して、なお堅固な構造を有しているものと思っています。子どもを盗むところから始まるシュプック版が、非現実性に立脚するがゆえに描けたのは、親による子どもへの愛とは何なのかという問題です。

 

常識的な正義では割り切れない子どもへの愛と大人の身勝手さ

母王妃が盗んだオーロラは、人間世界に降り立つまでの間をカラボスが育てていた女の子でした。当然、カラボスは怒ります。

 

怒りという次元ではないでしょうね。現実世界にも様々な背景があって、赤ちゃんを失ったり、子どもに会えなかったりする人はいます。愛情を注ぐべき瞬間に子どもが存在しないという悲痛さは、子どもを持ったことのない私には想像を絶するものなのだと思います。

 

王妃にしても、子どもになかなか恵まれないというのは、禁忌を破って妖精界に行くほどに、胸の痛む切実な苦しみだったはずです。

 

こうした王妃やカラボスへの同情と両立する形で、冷静に考えてみると、彼らの行動は身勝手でもあります。

 

プロローグにおけるオーロラの誕生祝いの場では、カラボスは通常の版と同様、オーロラに呪いをかけます。シュプック自身の意図はどうであれ、カラボスが呪いをかけたのは、オーロラを盗んだ相手が王妃だと分かっていたからなのだと、私には思えてなりません。

 

憎い相手を苦しめるためには、憎い相手が最も愛するオーロラを苦しめることが一番です。たとえそのオーロラが、カラボスにとって最も愛する子どもだったとしても・・・。

 

この愛情の一貫性のなさ、ただの憎しみがかけがえのない愛を打ちのめしてしまった経験は、大人であれば誰しも味わったことがあるのではないでしょうか。

 

子どもが授からないからといって盗み、あるいは、かっとした怒りで子どもを犠牲にしてしまう。子どもに苦しみを与える大人の身勝手さを認識しつつも、やはり私は元の地点に戻ってきてしまいます。

 

王妃やカラボスを、いわゆる常識的な正義で断罪できはしないのです。

 

身勝手さは身勝手さとして悪であることは間違いありません。それと同時に、王妃やカラボスにとっての、愛を注ぐべき子どもがいないという切実な悲しみは真実です。そういう割り切れなさがこの作品にはあります。

 

シュプック版の『眠り』は、なんと、デジレがオーロラに3回もキスをしてもオーロラが目覚めることはありません。わざわざデジレを苦労して連れてきた6人の妖精の間に、「あちゃ・・・デジレ君、お姫さまのお相手は君じゃなかったんだ・・・」という空気が流れる中、思わず、カラボスがオーロラの側に駆け寄り、額にキスをします。

 

オーロラの呪いが解けるのは、最も彼女を愛する人が彼女にキスをしたときです。

 

つまりカラボスのキスによってオーロラが目覚めるということは、オーロラを最も愛していたのは、デジレ以上にカラボスだったということなのです。

 

完成度の高い振付、舞台美術、衣装

この作品は振付や舞台美術、衣装に至るまで完成度が高い。発想の飛ばし方がとにかく素晴らしいのです。

 

中でも私のお気に入りは、妖精たちです。男性ダンサーが演じる妖精たちは背中に羽を付け、登場した瞬間からそれぞれに個性と性格が垣間見え、どの妖精たちも本当にキュート・・・!

 

先述したオーロラが目覚めないときに見せる「あちゃ・・・」という空気感も、プロローグでカラボスをやっつけたときに見せるガッツポーズやハイタッチも、あんまりに可愛いものですから、思わず微笑んでしまいます。

 

舞台の大部分を占めている宮殿の建物は回転式となっていて、100年の時間を舞台の回転によって表現し得ています。そしてこの装置には懐中時計を持った「時の番人」のような両性具有的な人物が二人座っているのも憎い。

 

また、この回転式装置には梯子が取り付けられています。妖精たちや蝶々(花のワルツに相当する)がまるで建物に止まっているかのように、梯子に登らせる演出にも驚嘆しかありません。

 

妖精たちのヴァリエーションには、通常の版のヴァリエーションの振付を知っているファンにとっては「ああ!」と唸らせられる踏まえ方と、シュプックならではの大胆な解釈の双方を見ることができるはずです。

 

妖精たちは全員、男性ダンサーが演じているのですが、キュートでありながら、踊り方は極めて優雅。ダンサーたちのレベルは総じてトップクラスです。

 

もう一つ、オーロラのヴァリエーションにも言及しておきましょう。

 

揃いも揃っていけ好かない求婚者に辟易したオーロラは、パーティの場から逃げ出し、宮殿の裏へと回ります。オーロラのヴァリエーションの音楽に合わせて、最初、表の様子をそっと覗いたり、耳を澄ませたたりし、その後、様子を見に来た父王と踊ります。

 

このヴァリエーションの音楽を思い出してください。

 

初めのピケ・アラベスクの場面、ピケ・アラベスクというパ自体、バランスが難しく、ダンサーたちもそろりと身体を動かすと思いますが、ここは激しく身体を動かすと壊れてしまいそうな繊細さを感じさせる小節となっています。

 

宮殿の表の様子伺いというシュプックの振付は、この部分の音楽に本当にぴったりなのです。

 

そして父王との踊りの場面は、通常の版で対角線上にピルエットをする場面に相当します。ここはプティパ初演では、求婚者が薔薇を渡し、拒絶するという振付になっていたと、井田勝大氏の講座で聞きました。そう思って聞くと、確かにひねくれたメロディになっています。

 

父王は逃げていったオーロラを責めることは全くしませんが、やはり思春期の娘と父とのやり取りですから、二人とも互いに愛情を抱きつつ、わずかに心のすれ違いを見せています。それはこのヴァリエーションの音楽に相応しい。

 

音楽と振付という点からは外れますが、ここにも親から子どもに対する愛情というテーマが見えるのも面白いところです。

 

さて、妖精たちは洗礼としてオーロラに様々な贈り物を授けました。妖精たちの役割は授けものを与えることにあり、本来カラボスはオーロラに何かを与えなければなりませんでした。

 

100年の眠りから目覚めたオーロラは、手を人にかざすと、その人がぴたりと止まり、キスをすると、そのフリーズが解けるという一種の力を手にします。

 

カラボスが最愛のオーロラに授けたプレゼントとは、他者から身を守り、正しい形で他者を愛する力だったのです。

 

■キャスト

Aurora Michelle Willems

Carabosse William Moore

Fliederfee Jan Casier

König Lucas Valente

Königin Inna Bilash

Gouvernante Elena Vostrotina

Zeremonienmeister Matthew Knight

Silberfee Matthew Bates

Goldfee Cohen Aitchison-Dugas

Blaue Fee Dominik Slavkovský

Grüne Fee Wei Chen

Rote Fee Mark Geilings

Vier Prinzen Luca Afflitto, Wei Chen, Kevin Pouzou, Loïck Pireaux

Prinz Désiré Esteban Berlanga

1. Diener Daniel Mulligan

Ballett Zürich

Junior Ballett

Philharmonia Zürich

 

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美しい心を持つ人々を描いたローラン・プティの傑作 ステファン・ビュリョン主演『ノートルダム・ド・パリ』(牧阿佐美バレヱ団)

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ノートルダム・ド・パリ ローラン・プティ ステファン・ビュリョン
埋め込み元:牧阿佐美バレヱ団

カジモド役のステファン・ビュリョンは、パリでの引退公演を経ての来日で、今回の『ノートルダム・ド・パリ』が恐らく日本での最後の舞台になるのではないでしょうか。

 

それにしても何という素晴らしい表現力の持ち主だろうか。

 

数ヶ月前、NHKで放映していたパリ・オペラ座バレエ団の『ノートルダム・ド・パリ』の最新映像を見て、「DVD化されているニコラ・ル・リッシュよりも演技が生ぬるい」と文句を付けていましたが、前言撤回です。

 

リッシュは凄まじいほどに歪んだ身体から滲み出る健気さが胸を打つという役作りだったのですが、ビュリョンは役として必要とされる以上に身体を歪ませることはしません。

 

そのようなことをしなくても、カジモドの寡黙だがピュアな性格が、盲目的な服従者に見えながら確とした洞察力を有している人間だということが伝わってくるのです。

 

身体的なハンディキャップで「同情」を惹かずとも、カジモドの美しい心を表現できるダンサーだからこその役作りだと思います。

 

エスメラルダとカジモドの内面の美しさ

エスメラルダはローマ歌劇場バレエ団からスザンナ・サルヴィを招いています。サルヴィはエレオノーラ・アバニャートによって、まさにこの『ノートルダム・ド・パリ』でエトワール任命されたダンサーです。

 

サルヴィのエスメラルダも美しい心の持ち主です。

 

エスメラルダには、奇跡小路で身体に障害を抱えた乞食たちを見ると、ただそれに怯えるだけではなく、翻ってカジモドや乞食たちの生きにくさを思いやるような優しさがありますし、処刑台でフェビュスを幻視したときの、悲痛さと愛おしさが相まった表情には、彼への真実の愛が見て取れます。

 

フェビュスが不実な男であると知っている観客にとっては、歯がゆさが残るわけではありますが・・・。

 

それはともあれ、こうしたサルヴィのエスメラルダを見れば、エスメラルダという人物が、複数の男を惹きつける妖しげな美しいジプシー女なのではなく、彼女の内面とは関わりなく、彼女の周囲が勝手に彼女の運命を翻弄しているだけなのだということが分かります。

 

処刑台で恋人の死を悲しむエスメラルダを中心に、フロロとカジモドが対峙する場面は、因果な運命の構造を物語っています。

 

国立アスタナ・オペラ・バレエ団からフェビュスとしてゲスト出演しているアルマン・ウラーゾフはいかにも軽そうな男といったところ。

 

フロロは牧阿佐美バレヱ団のラグワスレン・オトゴンニャム。豪華ゲストダンサーたちに挟まれてもなお存在感のある素晴らしダンサーです。嫉妬心を嫉妬心としてあからさまに見せないからこそ感じさせる陰険さがあります。

 

美しい心を際立たせるコール・ド・バレエの乱雑さ

今回の舞台ほど、プティのこの作品が内面の美しさを描いていると感じさせることはありませんでした。

 

プティは、貧困や死、混乱と紙一重だったであろうルイ王朝や共和政の社会の様子を、彼一流の様式でエッセンスとして作品に凝縮していますが、そうした周囲の乱雑さゆえに(これは牧阿佐美バレヱ団のコール・ド・バレエの賜物)、エスメラルダとカジモドの内面の美しさが際立ちます。

 

とはいえ、二人とも美しい心を持っているにもかかわらず、自らの信念に忠実なあまり、ある意味、他者の心理には鈍感で、どこかすれ違ってしまうところに、この世の冷酷さがある気がします。

 

ファム・ファタールを好んで描いたローラン・プティが、誰よりも見た目の美しさを愛していそうなローラン・プティが、このような心の美しい人々を描いていたということに、今さらながら感じ入りました。

 

プティはきっと人の内面を最も重視していたのでしょうね。ダンサーの起用も、ただ単に美しい脚の持ち主であれば誰でも良いのではなく、充実した内面を持っていることが最重要だったように思います。

 

ステファン・ビュリョンというエトワールは、何よりもまず王子役が似合うというダンサーではなかったと思います。ジークフリートと同時にロットバルトを、ジャン・ド・ブリエンヌと同時にアブデラーマンを演じるタイプでしたし、少なくとも私は彼が雰囲気のある役柄を踊るのを好んでいました。

 

プティがビュリョンを気に入っていたのも、そうした彼の深い精神性や表現力を見て取っていたからではないでしょうか。

 

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この世界の生きとし生けるものを描いた壮大な作品 佐多達枝振付『カルミナ・ブラーナ』

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佐多達枝 カルミナ・ブラーナ
埋め込み元:SPICE

佐多達枝振付『カルミナ・ブラーナ』が6月23日まで有料配信となっています。これは1995年以降、佐多の合唱舞踊劇を上演し続けてきたO.F.C.の最終公演を収録したものです。

 

オルフの『カルミナ・ブラーナ』という作品自体、オーケストラと合唱と舞踊が一体となった大きなスケールを有していますが、佐多の作品はそのスケールの大きさに見合った、この地球上の生きとし生けるものを全て包容するような壮大な舞台となっています。

 

この配信では到底伝わり切らないほどに実際の舞台は圧巻だったと想像され、O.F.C.の『カルミナ・ブラーナ』を見るのがこの配信を以て最初で最後となってしまった私には、チケットを取って見に行かなかったのが悔やまれます。

 

この作品からは、数々のイメージ喚起力に富んだ動きが練り出されていきます。

 

有名な音楽の冒頭は、屈伸を使った群舞の動きによって、その音楽のエネルギーを感じさせます。

 

また「春のはじまり」や「芝生の上で」における、兎か狐が飛び跳ねていくような三人の男性ダンサーの動きや、片手を床に置き、かがんだ背中の後ろから、伸びゆく春の草花のように、もう片方の手を伸ばしていく動きは、何とも爽やかで瑞々しい。

 

随所で挟まれる手拍子は、正直野暮な気もしましたが、それは2022年の人間の目で見るからでしょう。それを措いても、この作品は、斬新で抽象性を帯びつつも、観客の脳裏に情景を浮かばせる振付となっていて驚くばかりです。

 

O.F.C.創立の1995年が『カルミナ・ブラーナ』全曲版の初演だったようで、大体モーリス・ベジャールらが作品を出していた頃と同じですね。そう思うからか、またこの作品のテーマ性ゆえか、振付の雰囲気がほんの少しベジャールを思わせる気もします。

 

自然の動物や草花の瑞々しさ、若者の活力、少女の愛らしさ、私たちが生きるこの世界が内包する優しさ、寂しさ、懐疑、喜び・・・・・・

 

この地球上にあるもので、佐多版の『カルミナ・ブラーナ』に描かれていないものはないのではと思わせるほど。

 

酒井はなや島地保武など、出演ダンサーたちも非常に豪華です。

 

配信終了まであと2週間ですので、ぜひお早めに。

 

■キャスト・スタッフ

[演出]佐多達枝 [指揮]齊藤栄一 [独奏・独唱]中江早希(S) / 金沢青児(T) / 加耒徹(Br) [出演]酒井はな / 浅田良和 / 島地保武 / 三木雄馬 / 植田穂乃香 / 上野祐未 / 宇山たわ / 浦山英恵 / 岡博美 / 斎藤隆子 / 齊藤耀 / 坂田めぐみ / 清水あゆみ / 樋田佳美 / 土肥靖子 / 贄田麗帆 / 森田真希 / 荒井成也 / 吉瀬智弘 / 牧村直紀 / 安村圭太 [演奏]東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団 [合唱]O.F.C.少年少女合唱団 / オルフ祝祭合唱団 / 他

 

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