41ysXHbglZL



1: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/04(月) 22:40:23
やる気あるんすか?









Emperor_Nakamikado


中御門天皇

中御門天皇(なかみかどてんのう、 元禄14年12月17日(1702年1月14日) - 元文2年4月11日(1737年5月10日))は、江戸時代の第114代天皇(在位:宝永6年6月21日(1709年7月27日) - 享保20年3月21日(1735年4月13日))。

享保14年(1729年)には将軍吉宗自ら注文した交趾(ベトナム)広南産の象の「拝謁」を霊元上皇とともに受けている。この際、象が無位無官であるため参内の資格がないとの問題が起こり、急遽「広南従四位白象」との称号を与えて参内させた。拝謁した象は前足を折って頭を下げる仕草をし、初めて象を見た天皇は、

    時しあれは 人の国なるけたものも けふ九重に みるがうれしさ

と感銘を和歌に表している。

朝廷の古儀に関心を深めて研究を進め、『公事部類』の撰著を残した。





3: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/05(火) 12:04:36
江戸時代の天皇なんてあってなきがごとくの扱いだししかたない

4: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/05(火) 12:28:40
江戸時代の天皇って短命な人が多いよな。何でだろう。
20歳そこそこで崩じてたりする。

7: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/05(火) 13:06:14
>>4
中御門天皇は36歳まで生きたよ

149: 日本@名無史さん 投稿日:2009/04/29(水) 17:11:17
>>4
後水尾天皇&霊元天皇はあの時代にしては長生きしてた

父:後水尾天皇 85歳
子:霊元天皇   78歳

10: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/05(火) 18:26:33
中御門天皇


no title

9: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/05(火) 18:14:29
中御門は象を見ただろ?

11: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/05(火) 19:05:04
>>9
つまり存在感としては

象>>>中御門帝

12: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/05(火) 21:21:10
>>9
 
象が中御門を見た、だろ

13: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/05(火) 21:52:40
中御門天皇が象を御覧になったのはまず間違いないが、
視力の弱い象が中御門天皇を見たかどうかは確言できない。

14: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/05(火) 23:05:38
中御門天皇って本当に象以外に事跡ないのなwww
ワロス

17: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/06(水) 00:28:48
>>14
だったら後土御門天皇や後奈良天皇はどうなるんだよ?
大学入試に出てくるのもほぼ皆無だし。

18: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/06(水) 00:39:03
> 後奈良天皇
即位礼をあげられなかったことで有名

> 後土御門天皇
名前が長いので存在感ある

15: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/05(火) 23:26:23
正徳元年、法然に「東漸」の諡号を贈っているぞ!

19: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/06(水) 03:23:41
後土御門天皇と言えば、「応仁の乱」だな。


21: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/06(水) 10:01:11
後桃園のほうが存在感のなさは異常

23: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/06(水) 17:43:53
後桃園天皇 22歳で死去
そもそもが短命だったからな

24: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/06(水) 17:53:16
でも桃園天皇は22歳で死んだ割には存在感あるな。

25: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/06(水) 18:02:24
後桃園天皇の父桃園天皇も22歳で没したが
有名な宝暦事件が起こっているね

26: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/06(水) 22:28:37
中御門天皇(1701~37)
27年の在位中、大床御膳の儀、白馬節会、晴出御の儀、胡飲酒舞などの舞楽を復興させる。

桜町天皇(1720~50)
大嘗祭や宇佐神宮、春日大社などへの奉幣使の派遣も復興した。

桃園天皇(1741~62)
聡明で学問を好み将来を期待されたが在位16年で崩御。帝に近臣らが竹内式部の講義を受けさせようとしたことに端を発した宝暦事件が起こる。

後桜町天皇(1740~1813)
桃園天皇の姉で最後の女帝。後桃園天皇が成長するまでの中継ぎで8年で譲位。

後桃園天皇(1758~79)
稲荷祭を復興。在位10年で崩御。中御門天皇の血統が途絶える。

27: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/07(木) 16:47:37
曾祖父の誕生から曾孫の死まで78年か

28: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/07(木) 18:56:31
江戸時代、短命の天皇の死因のほとんどは脚気じゃなかったけ?
御所から出られないことなどにより、食生活が偏ってしまった
んじゃない。(白米ばかり食っていたんだろう。)
反対に戦国時代の天皇は貧窮だったから庶民と同じ物を食って
それが意外とバランスが取れていて長生きしたんじゃねえ?

31: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/08(金) 00:52:02
>>28
江戸幕府の将軍たちも脚気衝心で多くが死んでいる。江戸城でも白米しか
買い上げなくなったからね。家康や秀忠の頃は玄米を食べていたけど、
以降の将軍は貴族化していったからね。

29: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/07(木) 19:38:03
中御門天皇 36歳
桜町天皇 30歳
桃園天皇 21歳
後桃園天皇 21歳

4代続けて、この若さで死んでるのは異常。

34: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/08(金) 15:54:03
後水尾天皇と霊元天皇はあの時代にしては長生きしてるよね。

35: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/08(金) 16:10:45
>>34
84と78だっけ?
当時にしてはバケモノ級だな。

48: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/12(火) 05:30:15
>>34
どちらも子だくさんだけど、精力の強さと寿命は相関関係があるのかな?

49: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/12(火) 14:28:26
>>48
逆に長生きだったから子供をたくさん作れただけだと思うが・・・
10代で子供作りまくって早死にの人もいれば
長命で子無しもいるからからなんともいえん

52: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/13(水) 14:23:32
>>48
正親町天皇は長生きだけど子供はそんなに多くないからあまり関係ないと思う。

54: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/13(水) 22:19:33
>>48
光格天皇も比較的長生きで子供もそれなりに多かったが、成長したのが、恵仁、つまり仁孝天皇だけだったねえ。

58: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/14(木) 13:10:08
>>54
徳川家慶も子供は多かったけど、成人したのは家定だけなんだよね。

59: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/14(木) 13:13:28
光格も家慶も成人した「男子」が一人だけだったのであって
女子はほかにも成人した人がいる

37: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/08(金) 23:32:47
後光明天皇 22歳
東山天皇 36歳

どうも江戸前期~中期は短命の天皇が多い。

36: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/08(金) 17:18:11
トーハクの近衛家展に中御門天皇自筆の和歌懐紙が展示されてました。
象が来る4年前の作品です。
漢字ばかりの題詞部分には、均整のとれた揺るぎない安定感があり、
墨量が多いせいもあってか力強さも感じられ、
ひらがな主体の和歌本文は、
のびやかに流れるような、繊細優美な線で書かれていて、
題詞との絶妙な対比を為しています。
筆跡からは、意志の強さと柔和さとを併せ持つ、
才気を内に秘めた若き天皇像が浮かんでくるようです。
ちなみに、同展には後桃園天皇の肖像画も出品されています。
歴史読本なんかに載る泉涌寺所蔵の画像とは別物なので、
結構レアかもしれません。

39: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/09(土) 09:56:27
象を従四位に叙したらしいけど、何位から参内して天皇に拝謁できるの?

40: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/09(土) 12:54:58
基本は五位以上

41: 山野野衾 ◆CXSSL1llHI 投稿日:2008/02/09(土) 14:02:07
六位でも蔵人なら可能です。
順徳院が六位蔵人や下﨟の女房より下賤な者とは話すべきではないとされたの
は、後白河院や後鳥羽院が今様な武芸が達者であれば身分を問わず対面された
ことを意識されたものでしょう。
猫や犬(狆)も位を授けられていますね。鷺が五位になったという伝説もある。

43: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/10(日) 08:06:37
基本五位以上、 六位まで蔵人しか話できないって
ものすごい狭い世界だよね。本当たいくつだっただろうな。。。

89: 日本@名無史さん 投稿日:2008/03/08(土) 06:01:11
象より低い官位の人はどう思っていたんだろう

60: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/14(木) 14:47:43
院政期に次々即位した幼帝のほうによほど短命が多い…

白河(1053-1129)77歳(数え)
堀河(1079-1107)29歳

鳥羽(1103-56)54歳
崇徳(1119-1164)46歳 配所で薨去
近衛(1139-55)17歳

後白河(1127-92)66歳
二条(1143-65)23歳
六条(1164-76)13歳   
高倉(1161-81)21歳
安徳(1178-1185)8歳 壇ノ浦

61: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/14(木) 15:13:26
その後も
後鳥羽(1180-1239)60歳
土御門(1196-1231)36歳
順徳(1197-1242)46歳
の承久の乱後配流生活した三天皇をはさんで

仲恭(1218-34)17歳
後堀河(1212-34)23歳
四条(1231-42)12歳 (近侍を滑らそうとして撒いた石にご自身滑って死んだという説があるが)
と三代続けて夭逝してる

あと摂関期の天皇も
やたら夭逝の人はいないけど平均寿命も40ないんじゃないだろうか

62: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/14(木) 15:58:30
いや中御門前後の天皇のほうが短命が多いだろ

東山天皇  35歳
中御門天皇 37歳
桜町天皇  31歳
桃園天皇  22歳
後桜町天皇 59歳
後桃園天皇 22歳

壇ノ浦で自害(というか自害させられたのだが)安徳天皇は寿命じゃないし、
近侍している女房を滑らせて笑ってやろうとして
廊下に蝋を塗っていたところ自分が転んで頭を打って死んだ
四条天皇も事故死で寿命じゃない。

63: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/14(木) 17:56:30
摂関期の天皇

朱雀天皇 30歳
村上天皇 42歳
冷泉天皇 62歳
円融天皇 33歳
花山天皇 41歳
一条天皇 32歳
三条天皇 32歳
後一条天皇 29歳
後朱雀天皇 37歳
後冷泉天皇 44歳
後三条天皇 40歳

冷泉天皇がやけに長生きに見える。

66: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/16(土) 15:11:34
>>63
一条天皇より年上で、逆さの太子と言われた三条天皇が、32歳なわけないだろ?
41歳

64: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/14(木) 18:23:14
早く退位すると長命なのかな

冷泉天皇20歳で退位62歳で死去
17歳で退位させられた陽成天皇も81歳まで生きた

早く退位させらられたとはいっても
幼帝だった仲恭(4歳で退位・不登極帝)
や六条(5歳で退位)は短命なのだが。

74: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/26(火) 21:56:43
朱雀天皇も存在感が微妙

75: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/26(火) 22:16:43
「朱雀院生れおはしまさずは、藤氏の御栄へ、いとかくしも侍らざらまし」 『大鏡』

つまり、朱雀天皇がいなかったら、摂関時代は来なかった ─ と

76: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/27(水) 22:26:19
円融天皇も大した特徴がない。

78: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/28(木) 03:04:47
>>76
最初の里内裏

79: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/28(木) 07:51:10
>>76
嫁の東三条院詮子は有名なのにな(最初の女院)
もっとも円融天皇は中宮導子とばかり同居して
詮子は女御のままで冷遇されてたみたいだ

77: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/28(木) 01:27:17
存在感のある天皇の方が少ない

80: 日本@名無史さん 投稿日:2008/02/28(木) 22:43:25
陽成天皇は…有りすぎ

86: 日本@名無史さん 投稿日:2008/03/06(木) 21:09:05
この時代の天皇は天然痘によくにかかるね
後光明、霊元、東山、孝明
徳川将軍家ではこれで一人も死んでいないのに

90: 日本@名無史さん 投稿日:2008/03/08(土) 19:45:12
古代史はどうしても天皇がメインキャラになってるから、嵯峨天皇くらいまでは
歴史マニアは全部、続柄込みで覚えているだろう。

だが、平安以降はあやしくなるな。
古典文学愛好者は平安時代の天皇の家系に詳しいかもしれんが。

92: 日本@名無史さん 投稿日:2008/03/08(土) 22:32:54
嵯峨天皇からあとは天皇の影が薄くなる。
院政期も治天の君以外は存在感がない。

結局、平安以降の天皇は線ではなく点になるんだよな。

93: 日本@名無史さん 投稿日:2008/04/01(火) 22:35:45
後西天皇とかも存在感ない

114: 日本@名無史さん 投稿日:2008/07/06(日) 11:13:49
>>93
俺は好きだね、後西院。
天変地異がこの帝の責にされたり
霊元院即位までの中継みたいな存在で
同情する。譲位後は多くの著作を残しているね。
親王時代には江戸に下向もしていたはず。
即位前とはいえ関東に下向した経験のある天子。

95: 日本@名無史さん 投稿日:2008/04/10(木) 21:37:07
古代の天皇を除けば唯一生年不詳の後亀山天皇

109: 日本@名無史さん 投稿日:2008/05/02(金) 22:44:45
>>95 
崇峻天皇も生年不詳

110: 日本@名無史さん 投稿日:2008/05/04(日) 15:38:36
>>109
概ね生年、あるいは没時の天皇の年齢が国史に記録されるようになるのは
文武天皇ぐらいからだろう。
それまでは諸説あり。

96: 日本@名無史さん 投稿日:2008/04/18(金) 23:12:10
仲恭天皇は退位後ひっそりと暮らしました。
薄幸な一生です

101: 日本@名無史さん 投稿日:2008/04/24(木) 09:21:14
>>96
仲恭天皇の母は順徳天皇の中宮九条立子、
退位後は叔父にあたる関白九条道家の庇護を受けたから、
生活は何不自由なかった。
17歳で没したというのは薄幸だったけど。
後ろ盾すらなかった六条天皇のほうが余生はひっそりしていただろう。

102: 日本@名無史さん 投稿日:2008/04/24(木) 16:01:01
>>101 
六条天皇って、余生を送るっていうよりも普通の子供として一生を終えた気がする
自分が何者かも深く考える年齢でもなし

97: 日本@名無史さん 投稿日:2008/04/18(金) 23:32:37
最年少の上皇となった六条天皇

98: 日本@名無史さん 投稿日:2008/04/19(土) 23:09:45
>>97 
最年少上皇は仲恭天皇だろ

99: 日本@名無史さん 投稿日:2008/04/19(土) 23:47:30
仲恭天皇は上皇号贈られてないっしょ。

100: 日本@名無史さん 投稿日:2008/04/20(日) 16:12:04
仲恭天皇は即位の礼を上げる前に廃されたために
鎌倉幕府は「不登極帝」扱いでした。
よって太上天皇号も贈られず。

105: 日本@名無史さん 投稿日:2008/04/24(木) 16:15:46
明治以降 仲恭天皇
それ以前 九条廃帝

106: 日本@名無史さん 投稿日:2008/04/24(木) 16:22:06
明治時代になってから天皇とされた人

弘文天皇
淳仁天皇(淡路廃帝)
仲恭天皇(九条廃帝)

131: 日本@名無史さん 投稿日:2008/10/08(水) 21:24:48
中御門から明治まで、
天皇になる親王以外の親王が、
夭折なのは、清晃親王の呪いらしいね。

132: 日本@名無史さん 投稿日:2008/10/12(日) 18:01:41
>>131 
中御門~後桃園は単に子供が少なかっただけだが光格はかわいそうなくらい夭折しているね。
同時代の将軍家慶並みだ

133: 日本@名無史さん 投稿日:2008/10/12(日) 22:15:05
>>132
たった一人の後継者が病弱で子作り出来ない体質の家定しかなかった家慶に比べ、後継ぎに恵まれた仁孝帝がいる
光格の方がかなり恵まれている。

136: 日本@名無史さん 投稿日:2008/10/14(火) 21:43:02
中御門院、象を見ただけでなく、字と笛も上手かったらしいね。

137: 日本@名無史さん 投稿日:2008/11/22(土) 23:57:16
字見たことないが、どれくらいだろう?
字がそこそこ上手だった人ならこの時代、腐るほどいそうだ。
嵯峨天皇なみに上手だったら話は別だが。

140: 日本@名無史さん 投稿日:2009/02/02(月) 08:40:25
このころの天皇の追号って良いな。桜町とか桃園とか。
こんな感じで担ぎ出されることなくずーっと細々と続いていてくれればな。

141: 日本@名無史さん 投稿日:2009/02/02(月) 20:06:56
>>140
「桜町」は建物の名前から来ている。
仙洞御所の下御所のことを当時「桜町殿」と呼んでおり、
桜町天皇は譲位とともに桜町殿へ移り、仙洞御所である桜町殿で没している。

「桃園」の由来ははっきりしならしいが、
かつて後西天皇は即位前、高松宮を継承したものの、
宮号をたびたび変え、「桃園宮」や「花町宮」と呼ばれたことが知られており、
高松殿や桜町殿という建物が実在したように当時
桃園殿という建物が実在しており、そこから取った天皇号である可能性が高い。

145: 日本@名無史さん 投稿日:2009/02/09(月) 20:40:25
>>141
桃園殿と言えば、平安時代に源保光の邸宅がそう呼ばれていて、保光が身寄りがいなくなってしまった外孫の藤原行成をここで育てて遺言で行成に譲った。
ただ、江戸時代には無くなっているだろうし、関連性は不明。

146: 日本@名無史さん 投稿日:2009/02/11(水) 09:07:41
1000年後の日本人に、
「20世紀のころの天皇って、
明治、大正、昭和はキャラたってるし戦争とかでインパクトあるけど
そのあとの平成ってやつ地味だよな」

とか言われそう
さらには、

「平成天皇はアメリカ憲法、皇室典範の時代で史上初めて関東で即位したし、
ブラックバスを日本に産んだし、
(イザナギの神生み以来、久しぶりに天皇の一族が日本に新たな生態系を創った)
地味なのは平成の次の二人だろ」

「あぁ、高齢で即位したあの兄弟か」

「次の天皇(悠仁)は今でも有名なのに平成からの三代って地味・・」

151: 日本@名無史さん 投稿日:2009/05/04(月) 01:27:41
>>146
大正よりはキャラ立ってるだろ平成は


引用元: ・中御門天皇の存在感の無さは異常( ̄□ ̄;)







江戸時代の天皇 (天皇の歴史)
藤田 覚
講談社
売り上げランキング: 134,741