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1: 世界@名無史さん 2010/12/30(木) 20:24:35 0
インドネシア、カンボジア、シンガポール、フィリピン、ブルネイ、ベトナム、マレーシア、ミャンマー(ビルマ)、ラオス、東ティモールの歴史について語るスレです。








10: 世界@名無史さん 2010/12/31(金) 09:05:56 0
シューリービジャヤやマジャパイトなどの歴史をもっと学びたいものですね。
シュリーヴィジャヤ王国は、インドネシアやマレー半島、フィリピンに大きな影響を与えたスマトラ島のマレー系海上交易国家。王国の起源ははっきりしないが、7世紀にはマラッカ海峡を支配して東西貿易で重要な位置を占めるようになった。

11: 世界@名無史さん 2010/12/31(金) 09:19:58 0
近代以前は海賊と商人の区別自体が存在していなかったから、シュリーヴィジャヤでは怪しい船が来ると港の周りを鎖で閉めて入れないようにしていた。

逆に、これはいい船だと見ると港の方から出ていって、無理矢理連れてきて商売をさせるという、客引きのすごいのがあったw

13: 世界@名無史さん 2010/12/31(金) 19:15:06 0
マラッカ海峡というのは、だいたい風が不規則だから、帆船が通るには非常に不便。
スマトラにはマングローブがたくさんあって、海岸線から100kmぐらいが沼地になっている。だから、どこでも隠れられる。
それでスマトラ島の海岸は海賊の巣になって、19世紀になるまであそこは世界でも有数の海賊の本場だった。
海賊がいなくなったのは、汽船の発達によって海賊船が懸命に船をこいだり、あるいは帆走しても追い付かなくなったから。

15: 世界@名無史さん 2011/01/08(土) 04:14:30 0
貿易風も知らないの? 
季節ごとにやってくる一定方向の貿易風にのって航行するんだよ。
で季節ごとに風向きが変わるからそれでマダガスカルから広州までイスラム教徒が大航海時代以前から大海を漕ぎ出して逝ったのだ。

21: 世界@名無史さん 2011/01/15(土) 13:56:03 0
>>15
インド洋から貿易風に乗っても、広州に行くにはやっぱりマラッカ海峡や東南アジア島嶼部を抜けなくてはいけないわけだが。それにインド洋全部を一つの船で回ったわけじゃなく、中継貿易の形態には変わらない。
それに、マラッカ海峡はちょうど東西が陸地に挟まれて季節風の影響受けにくいんだよ。
だからマラッカで風待ちして戻るインド洋からの船、華南からやってくる船の中継地点になったし、海賊も多かった。インド洋からの船が全部一直線に抜けてたわけじゃない。

それも、最初は危険だからマレー半島を陸路で越えてたのが、半島沿いの国家が強くなって、治安が比較的強化されてからマラッカ海峡を直接抜けるルートがやっと本格化してるんだよ。あの変は貿易風で全部片付くところじゃない。

32: 世界@名無史さん 2011/02/04(金) 09:32:55 0
スペイン人は、フィリピン諸島でムスリムに出会ったとき、非常に驚いたらしいね。
まさか地球を半周してきた土地でムスリムに出会うとは思っていなかったんだろう。

そしてスペイン人入植者たちは彼らに対して、本国でアラブ人やベルベル人を指した「モロ」(ムーア人)という呼び名を使うようになった。

34: 世界@名無史さん 2011/02/06(日) 05:10:31 0
>>32
ラプラプもフマボンもイスラム教徒だったのかな。今のマレーシアみたいにアラブ風の名前じゃないんだな。
マレーシアでも歌手のエイミー・マストゥーラのエイミーというのは欧米っぽいけど、彼女が生まれた70年代頭位はいまほどイスラム色が強くなかったんだろうか。
ウィキペディアでも芸名とは書かれてないし。ちなみに同じく欧米っぽい名前のシーラ・マジッドはシャヘイラというイスラム教徒の名前を欧米風にして通称として名乗ってるみたい
彼女は65年生まれ
もっと若いシティ・ヌルハリザはいかにもなイスラム風の名前だから、マレーシアのイスラム教徒はここ30数年のうちに急速に敬虔さを増したってことかな
ラプ=ラプは、16世紀、フィリピンのマクタン島(セブ島の東沖合い)の領主であり、イスラム教徒の部族長。

世界一周航海の途上でフィリピンへ来航し、キリスト教への改宗と服従を要求するフェルディナンド・マゼランらをマクタン島の戦いで破り、マゼランを討ち取った。フィリピンでは民族の誇りを守った国民的英雄とみなされている。


43: Ryuju ◆RlujhF6VrA 2011/03/28(月) 13:12:27.50 0
>>34
まだセブ島付近まではイスラム教は布教されてなかったという記憶がある。
(ラプラプのいたのはセブ島付近の小島)
フィリピン南部の大きな島であるミンダナオ島までは布教されてて、(マラッカ海峡や今のインドネシアに当たる島々を経て、南からイスラム教が来ている)結局そこがイスラム教の東南アジアにおける最終到達点になってるね。

正直中国人がフィリピンに余り興味持ってなかったようなのがちょっと解せない。
東南アジア貿易における中継地として丁度いいと思うんだが・・・

45: 世界@名無史さん 2011/03/28(月) 20:10:42.33 0
スペインが征服する以前のフィリピン諸島の存在感の無さは異常。
琉球人も倭寇もみんなでスルー

46: 世界@名無史さん 2011/03/29(火) 00:26:24.44 0
そんな孤立してたフィリピンの言語がよく残ったな。カリブ海の先住民みたいにスペイン人の持ち込んだ伝染病でばったばった死に絶えててもおかしくなさそうなのに。

48: 世界@名無史さん 2011/03/29(火) 00:50:02.74 0
>>46
もともと、4世紀頃にアミやタイヤルといった人達が鉄器と硝子の文明を携えて台湾に対岸の中国南部から渡ってきたという。
それが、もう少し後の世の10世紀頃にはフィリピンへ渡っていることが(考古学的には)確認できる。
オーストロ・ネシア語族の祖形は、アミやタイヤルあるいはパイワンといった台湾の言語であり、オーストロ・ネシア語族はフィリピン諸島をどんどん南下していったと考えられている。

47: 世界@名無史さん 2011/03/29(火) 00:32:55.76 0
もっと北の沖縄も、もっと南のインドネシアも10世紀以前から大陸とやりとりがあるのに、台湾・フィリピンだけは16世紀過ぎても未開の地なんだよなぁ。
不思議。

51: Ryuju ◆RlujhF6VrA 2011/04/24(日) 12:54:06.74 0
>>47
台湾に関しては三国志の呉が夷州と呼んで孫権の時代に交易していたという記録はあるけど、それが長続きしなかった模様。
>>48の言う福建省辺りからの移民も、多分呉の時代の交易と無関係ではないと思う。

116: 世界@名無史さん 2011/11/18(金) 00:15:23.65 0
>>47
海流的な問題なんだろうか?
北の琉球や南のインドネシアなどは大陸に用があるので、台湾やフィリピンには用が無かったんじゃね?海流の問題とかで帰るのもめんどくさそうだしさ

52: 世界@名無史さん 2011/04/24(日) 16:15:04.54 0
台湾の固有言語は、オーストロネシア系の文法・語彙以外にもタイカダイ系の語彙が混じっているので、粤(タイ)系話者が混入しているようだ。
その推定年代は、2~4世紀ぐらい。よって現在の広東人(粤人)が成立するよりも古い年代。

57: 世界@名無史さん 2011/06/15(水) 09:02:35.38 0
ラーオ語とタイ語って大差ないんだよね?
ラーンサーンとアユタヤの違いでしかないしなあ

58: 世界@名無史さん 2011/06/15(水) 11:37:19.12 0
そもそもタイとラオスの国境線はヨーロッパ列強が勝手に引いたものだからな

タイ東北部のイサーン地方は、100年ほど前まではタイではなくラオス(ビエンチャン)領で、戦争の結果ラオスから取られてしまった
要するにこの辺は文化的にはラオスに近い

59: 世界@名無史さん 2011/06/15(水) 11:45:55.04 0
タイ国は文化が相当違ってもタイ語族ならば、全部タイ民族扱い。
中国のダイ族とチワン族ぐらい文化が違っていても、手探り状態でも言葉が通じれば「細かいことはいいんだよ」とタイ民族扱い。華人もタイ語を使うからタイ民族扱い。
メーオやリースーは、全然言葉が通じないので少数民族認定。
リースーとカレンは、何とか言葉が通じるけど別の少数民族認定。要するにダブスタ。

60: 世界@名無史さん 2011/06/15(水) 12:29:30.21 0
ラオスは国土の大半が山岳地帯という地理的条件に加えて、14世紀に建国されたラーオ族最初の統一王朝とされる、ラーンサーン王国は、18世紀初頭にはルアンパバーン(北部)、ヴィエンチャン(中部)、チャムサーパック(南部)の三王国へと分裂し、18世紀末までにはすべてがシャムの属国となっていたという歴史的背景もあって、もとより国内の地方割拠性が強い。
そしてさらに言語、習慣を異にする少数民族の存在、言語的・民族的に近似した隣国タイとの関係など、複雑な問題が絡み合い、現在に至るまでその国家建設は困難を極めてきた。

ラオスは1953年に「ラオス王国」としてフランスから独立する。
しかし独立運動の過程で生じた左右両派への分裂が、独立後も解消されることはなく、1975年まで「30年闘争」とも呼ばれる内戦状態が続いた。
そしてその結果、ラオスの国家建設は、王国政府(右派)とパテート・ラーオ(左派)の対立する両陣営において、異なる理想のもとに進められることになり、その際、両者がともに重視していたのが、ラーオ語を国民語としてつくりあげ、国民統合の求心軸として据えていくことだった。

61: 世界@名無史さん 2011/06/15(水) 12:52:43.08 0
さらにアメリカがベトナム戦争の時に手を突っ込んで、メーオ族がアメリカ側とラオス側に分裂して厄介なことになっているんだぉ

77: 世界@名無史さん 2011/07/27(水) 23:41:07.10 0
ラオスとタイの統合運動というのはないのかな。
言語も文化も同一民族の支族と言っていいし、ラオスも貧しい内陸国のままでいるよりは、東南アジアでは裕福なタイの一部になった方が良いのでは

79: 世界@名無史さん 2011/07/27(水) 23:51:40.59 0
あのへん、ただでさえタイの独走っぷりが酷いのに、さらにタイの領域を拡大するとか周辺国が許さないよな

80: 世界@名無史さん 2011/07/28(木) 08:29:43.60 0
「負け組の歴史」というスレがあるが、ビルマのカレン族をはじめ、東南アジア各国の少数民族も負け組だよな

84: 世界@名無史さん 2011/07/30(土) 14:51:08.71 0
高山正之のビルマに関する記述には首をかしげたくなる

イギリスのビルマ支配を非難するが、ビルマ族が他の少数民族にとって「圧制者」だった史実を無視するのはいかがなものか
コンバウン朝時代には、たとえばシャン人首長が娘をビルマ王に提供しなければならなかったし、ビルマ人兵士に対する食糧の提供、ビルマ人随員たちによるシャン人からの略奪など、負の側面も書くべきだと思うんだが
コンバウン王朝は、ビルマ(Burma、現在のミャンマー)に存在した最後の王朝(1752年 - 1886年)である。

1782年に前王を殺害して即位したボードーパヤー王はアラカン王国を征服し、マニプル王国やアッサム王国を支配下に治め、ビルマ史上最大の版図を実現した。しかし、ビルマの西方への拡大はインドを支配するイギリス当局の利益と衝突し、英緬戦争が勃発した。
ビルマは三次にわたる英緬戦争に敗れ、最後のティーボー王はボンベイに幽閉された。1886年にビルマは英領インド帝国に併合された。


138: 世界@名無史さん 2012/11/14(水) 15:42:41.78 0
>>84
「イギリスがビルマ王位継承者の王女をインド人の妾として下賜」ってこの記者がデマ発生源なのね
王女の二人は配流先のインドで結婚してるがどっちも両親の認めない自由恋愛だったし、国王の死去後だが王妃はじめ王族はビルマに帰還してる。
(ヒンズー教徒の平民インド人と結婚した王女はビルマの誇りを汚したとか国民に叩かれてインドに帰ったが)
まともな結婚した王女の子孫は、共産主義者の暗殺を掻い潜って旧王族として健在なのに「王家の血は絶えた」とか失礼な事を…。
デマをそのまま転載してるブログも多いし、なんだかなあ。

88: 世界@名無史さん 2011/07/30(土) 20:28:32.18 0
コンバウン朝は、その勢力拡大政策のせいで清朝との関係を悪化させ、1766年には乾隆帝が遠征軍をビルマ北部に派遣し、停戦後に清と冊封関係を結んでいる。

そして1824年、シンマピュー島とカチャール藩王国の領有をめぐってイギリス、東インド会社と戦争し、敗北。ヤカイン、タニンダーイー両地方を割譲し、アッサム、マニプールに対する宗主権も喪失し、賠償金1000万ルピーを支払うはめになった。

この王朝、海外についてどのくらい情報を持っていたのかな
現代人の目から見ると身の程知らずとしか思えんが

125: 世界@名無史さん 2012/07/01(日) 13:29:19.72 0
クメール帝国が滅亡してからフランス領になるまでどうなってたんだ?
アユタヤ王朝の一部か?

127: 世界@名無史さん 2012/07/04(水) 11:49:16.40 0
>>125
英語版ウィキペディアだと「よくわかんない暗黒時代」扱いにされてたな
アユタヤの一部ではなくて、独立はしてたはずだが >カンボジア

個人的には15世紀あたりにタイ北東部からベトナム南部までのメコン川流域がどこの勢力に属してたかが気になるんだよな
ベトナムの黎朝とかがサイゴンまで行くのは結構後だったような…
かといってチャンパは弱体すぎるし

128: 世界@名無史さん 2012/07/28(土) 15:01:39.40 0
>>125
首都が今のプノンペン付近に移った。そのまま植民地時代まで続く。
北川香子の本とか読めばある程度のことは書いてる。よく分かっていないことも多いけどね。

282: 世界@名無史さん 2015/05/28(木) 21:42:34.97 0
東南アジアってインド文明圏というわりには当のインドは大陸というか中東との結びつきが強くて異質だよね

284: 世界@名無史さん 2015/05/28(木) 22:38:06.71 0
言語も印欧語族でイランに近い

289: 世界@名無史さん 2015/08/01(土) 19:55:01.83 0
タイとかベトナムとかカンボジアとかあの辺りがインドと中国の影響を受ける前の独自の文化ってどんなのがあったの?
英語でもいいからそういうのを解説してるサイトがあったら教えて

290: 世界@名無史さん 2015/08/01(土) 20:55:28.78 0
9世紀以降でないと、文字記録が少ないし、インドの影響が入る前を客観的に知る方法は難しいな。

291: 世界@名無史さん 2015/08/01(土) 21:42:01.77 0
バーンチエン遺跡の文化とドンソン文化、後はフィリピン系のチャンパー人の文化くらいか
バーンチエン遺跡はメコン川流域の文明だそうだが、なんで黄河文明やインダス文明みたいに発展しなかったんだろう
仮にも大河だし流域で農耕も可能だったのに
バーンチエン遺跡は、タイ・ウドーンターニー県・ノーンハーン郡にある古代文明の遺跡。バーンチエン遺跡では土器を中心に動物の骨なども見つかっており、黄河文明・メソポタミア文明とは違った、東南アジア独自の文明として注目を集めている。

土器には独特の渦をもった幾何学模様をもつものがあり広く知られている。なお、紀元前数千年というタイの有史以前の時代のものであり、文明の主である民族は今のところ不明とされている。


ドンソン文化は、ベトナム北部の紅河流域を中心に成立した東南アジア初期の金属器文化。
ドンソン文化は、共伴する中国遺物の年代により、紀元前4世紀頃から紀元1世紀頃にかけて続いたとされる。


293: 世界@名無史さん 2015/08/03(月) 13:19:16.69 0
タイ族が南下する前や華人が南下して越南に流れ込む前って資料ほとんどないよね?
真臘の風物を書き残した明の役人はいたらしいけど
そのころの真臘ってすでに中国の文化圏に入ってたんだろうか

引用元: ・東南アジアの歴史


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