山口県宇部市山中の天然水

 現代の政治の疑問点を現実を踏まえて提案し、思考してもらって、よりよい民主主義が機能する世の中になればとの希望から、あらゆる方面について現実感を大事に記事を書きます。(自己満足にならないように)

2021年08月

 良心的政府が国民全員(成人以上?)に毎月定額の最低限度のお金を支給する制度は前々から賛否両論で出てきています。

 デンマークのようにすでに実施して、豊かさと平等感を実感できる国も存在します。


 見方を変えれば、今のお金に縛られた利権構造に、一例として受験を通して社会の良い地位?を目指し本気で取り組む構造などは、歪んだ精神構造を作る一つの原因になっているのではないか?。


 民衆の幸せ・生きる喜びなどを味わいながら社会(民衆)に役立つ仕事に専念できる方法がこの制度と思われます。お金に縛られて、本当の気持ちや方向性を発揮できない構造は民主主義とは言えない風潮を作り上げている。


 今の大企業化・行政の肥大化から、お金に縛られた構造とそれに影響される精神文化では、おかしくなる方向が存在している。本当のことが言えないで、長いものにまかれろ的な発想の連続です。


 そこに、生活の最低限の生活費を政府が支給してくれるとしたら(憲法第25条生存権)、発想が自由で自分の人生を思いきり歩めるようであると思われます。受験勉強に重きを置いた出世の意識よりも、人間本来の生き方に原点を置いた、みんなの人生と個人個人の人生を、我々がしっかり歩めると思われます。

 日本人の意識調査で、先進国では最低順位の幸福感では技術立国の名がかすみます。


 税制を詳しく見れば、為政者のための日々の労働観が強く出るようでは、次第に江戸時代のような封建社会の構造に近ずいているようだ。民主主義とは日本国憲法にはあるが、その条文違反の行政法の多いこと!!。

 (三権分立とは名ばかりで、行政法をチェックする機関が仕事をしてない現実があります。三権分立を四権分立にしないと、4権目は当然に住民の代表で選挙で選ばれるのではなく、裁判所が裁判員のような形で選んだ代表です。総合的に3権を監視する位置になります。)

 ((三権はトライアングルで1権がさぼると、柔軟性がなくなり、固着した状態が続くことになります。
そこを監視する4権目が必要でしょう。関節が4つあると柔軟性が出てきます。ひし形になったり正方形になったり、その場におおじて、自由に動きやすい形になります。))

 戻って、これではおかしくなって、住みにくいと感じる。戦後、民主主義の憲法の日本版を入れたが、運用においては封建時代の全体主義的、利権主義的になってきている。


 民主主義とはどうであるのかを我々が、今だ歴史上は本当に作り上げていないのであろう。

民主主義の維持と実行には普段の努力が必要と憲法の前文にも書いてある。


ぼやぼやしてはおれない、常に検討が入らないとおかしくなるようだ。

 巨大なお上がいて、それに何となく従う古来からの精神構造が宿っていて、
それを乗り越えて本来の民主主義とはどうであるべきかが問われている。知識人という人はかなりこの傾向は少ないと思える。

 しかし、どうしても指導的地位にいると、構造的に税金を取ろうとする意識が強くなり、民衆の生活感はすくなくなり、
 さらに制度で税金を集め使う側になると、封建的傾向が次第と強くなる。人間の持っている性のようなものであろう。
 
 農業などに取り組んで、体全体を使って、土と自然にかかわっていると、今の作られた体制的な民主主義との矛盾が明らかになるようだ。


 まとめとして、基本的に豊かに生活することは、基本的な最低限度の生活ができるとの安心感があれば、自分本来の方向にトライできて、お金のため、生活の為の人生へのプレッシャーから解放される。


 これこそが最高の幸福感の土台が出来上がる。変な競争心はなくなり、協調精神がもっと育ち、個人の人権も守られてくる。

今のように経済的な過度な意識とか、為政者のための税金・手数料などのやらせ的な重課から、かなり解放されて、真に正論的な請願が可能となる。


 これによって、個人個人の精神が大きく救われるし、基本的に他者との交流が自然なものになると思われる。

 資本主義が進んで社会主義的になりつつある日本の現状を変えるには、モノ言える精神的土台を作る方策が重要であろう。精神は究極的にはお金では買えないのであるから、幸福感を多くするには「ベイシックインカム制度の導入」が待たれると思われます。

 苦しんで人生を送るのが、当たり前とは、発想の原点がおかしいのであって、次第に制度導入によって偏った精神が解放されると予想します。

 そうなれば、今までにない開発と発展が待っていることでしょう。日本人は基本的に勤勉なのですから。




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 個人とその人体は不可分であるが、こと体の病気についてはお医者さんに頼る習慣が幼児検診から始まり

 義務教育での年1回のお医者さんによる健康診断を受けて、受けたくはないが飽きた学校教育に一つの刺激が与えられる行事となっている。

 自己の健康は親と周囲に、さらにお医者さんに依存してきている。

 しかし、自己の健康と向き合うようになって、表題の「体内に自然を飼っている」との認識が強く出るようになった。
飼うのであればその栄養はいかに?体内に不自然なものは入れたくない。運動は?

 腸内細菌はまさしく飼う必要があるなど、健康は自然への依存効果として現れることとなる。
以前のブログでも述べていますが、

 善玉菌との付き合いがいかに健康に影響しているかを教えなくして、健康な体を維持し、取り戻すことはできないと想像します。

 私自身は実践して、さらに確証を得た今があります。

 表題の言葉は体内に入れる食物と善玉菌(数十億年前から生命体にはなくてはならない共存生命)を取り入れる調整力に掛かっていると納得しています。

 どうでしょうか?



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 西欧型の大規模農業の推進はひと段落の現在があります。

 現状を見ると田舎では圃場整備の進んだ農地は営農法人によって、耕作されて水稲、麦、大豆
など保存しやすい穀類は生産が進むし、使い道において保存できる強みがある。

 余った農地は耕作しにくく、小規模な自給的農業の場所となっているか、耕作放棄地として、維持管理に経費を支出するか、放棄して荒れ放題の場所となっているところもある。要するに田舎は農地が多く、持て余して、限界集落的な農村が多く、人口の減少と高齢化で農村自給の文化が次第に失われつつある。少なくとも山口県においてはそうである。

 農協・農政など指導者は多いが実際にする人がいなくなる現象となっている。夏の暑いときは
クーラー組の多さと農業文化の継承的な人の少なさがいわゆる農村の現状となっている。

 日本は自給的・有機的農業文化が狭い農地の有効利用を古来からしてきた。しかし、機械による大規模化をはかった現代では、一部の自給は100%に近いが、農地の狭さゆえに大陸的な大規模な多くの自給は成り立たない。特に飼料性の穀類の大規模な輸入が必要で、農産物の自給率を下げている。

 狭い農地をみれば人の力の有効活用なくして、食の多様性の維持はできない。
 そこには、自然との共存による古来から農耕文化の国であったし、その方が人の健康・食料の良さに合致していた。

 しかし、農地はあっても維持管理しながら、昔ながらの形は違っても自給的農村文化を引き継ぐ人(人口)がいなくなる現実傾向があります。

 お金に換算すれば、農は今の経済社会では割に合わないことが大きい。趣味の延長農業といったところか。スポーツを趣味にすれば、体を使う面から農業も見返りのある趣味といったところとなる。

 工業と農業は経済的(金銭額的)にアンバランスであるが、食べ物なくして生命活動(人間活動)はできないことは誰でも納得できる。わかっているけどやめられない!論法では民衆的・政治的に危うい。行政に頼る心理が農地の維持管理には邪魔になっているメンタル面も少しはあるようです。そこが、農村の封建的な面のかなりの部分に影響しているようだ。

 何とかしようの精神で、人を増やして昔の農村文化の場所を、形は変わっても増やす方向は大事と見ます。そこには、有機的農業で農薬・化学肥料は使わず安全・安心な食べ物を享受できる農村文化の現実化の方向です。化学物質は長期的には人体にどのように影響しているかの解明はむずかしい。そのようなものは極力つかわない、体内に入れないとの原点に返った農村文化が出発点のように思います。

 ふと思い出したが、ロシアの東部のある村では120歳ぐらい以上の老人がごろごろしていると言われている。腸内細菌がよいのと、文明から隔絶されて体内に取り入れる食はほぼ化学物質は皆無でしょう。乳酸菌などは自前の牛乳でとれているし、作物は自然農法で化学物質の入る余地がありません。

 田舎の農業文化はビジョンとして、これを目指す目標が必要でしょう。

 大規模化は農薬・化学肥料を多用して長期的には自然界の持っている多様性に不なる作用と我々の体内の食に関係する不なる循環に結び付くと推理します。

 生命活動(植物・動物を含む)は善玉菌の活用なくして成り立たないように作られているのですから。(地球の生命の46億年の成り立ちの長い歴史とほんの一瞬の人間文明)

 いまのコロナワクチンはお金に依存した全体主義を感じます。本来の人体は自然界に共存することが最大に健康を維持することになるのです!!。

 イベルメクチン・納豆、赤ワイン酵素(ファイブ・アミノ・リブリンサン)など自然由来の予防法はいくらでもあるのです。味噌汁の中にも納豆由来の((ファイブアミノリブリンサン))が少なからずあるように思われます。
 
 イベルメクチン・ファイブアミノリブリンサンなどが影に隠れて、予防の種類に取り上げられないのは、おかしな社会と思われます。みんなが手軽に健康になってはならない論理なのでしょうか??。

 日本の人口当たりの罹患率の低さが味噌汁・納豆などの発酵食品の摂取に関係していると推測します。

 ここで視点を変えて、有機農業(古来の農業)と中小企業の技術力の高さはよく似た側面があると思われます。これらの繁栄があって、日本の良さが持続されるわけで、単に大規模化のみの農業と大企業の過度な繁栄は食料自給や社会構造(全体主義 not 民主主義の確立)の面から危ないように思われます。

 革めて、小規模化農業(地球にあった農業=人体に合った農業)と中小企業の復活が生活を含めて民主化に結び付いた未来の創造につながると思われます。(日本的な国土と民意に合致)

 単に大企業、利権手数料産業、税金産業への依存は民衆・国力の衰退、幸せの実感のなさ、コントロール社会(民衆)の現状の修正にはならないと言えます。

 もどって、人体と農業は多くの部分で同元です。
ヨーロッパなどの先進国がさかんに有機農業文化に取り組んでいる現状は、食の安全を主体にしての発想と政治が生きていることで納得できます。

 さて、日本はどうでしょう!?。



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