ジェルマン・ルーヴェとユーゴ・マルシャンの『さすらう若者の歌』 パリ・オペラ座バレエ団『パトリック・デュポンへのオマージュ』

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パリ・オペラ座バレエ団の配信サイトで『パトリック・デュポンへのオマージュ』が公開されています。この公演は2021年に亡くなったパトリック・デュポンの追悼として上演されたもの。プログラムはデュポンにゆかりのある作品で構成され、その中からデフィレを除く3作品が配信サイトにアップされています。エトワールとプルミエ・ダンスールをふんだんにキャスティングした配役はとても豪華です。

 

パトリック・デュポンへのオマージュといいながら、誰もこの破格のダンサーをなぞることはしていません。ダンサーたちはそれぞれの踊り方でデュポンの名演の刻まれた作品に対峙しています。それは時にはどこか常識的で物足りない気がしてしまうのは事実です。しかしジェルマン・ルーヴェとユーゴ・マルシャンの『さすらう若者の歌』だけは別格。デュポンとは全く異なりますが、彼らだけの世界観を築き上げ、ベジャールの名作に新しい解釈をもたらしています。

 

動画の冒頭を飾るのは、ハラルド・ランダーの『エチュード』。クラシック・バレエのテクニックが散りばめられた華やかな作品で、デュポンが芸術監督時代によくプログラムに入れていたといいます。

 

エトワールはヴァランティーヌ・コラサント。彼女が登場したときには、思わずこちらの心があたたまる思いでした。『エチュード』でこれほど人間的なあたたかみを含めてくるダンサーも珍しい。そして期待通り、大人の余裕を見せたエレガントな踊りはこの役にぴったりです。一方、彼女の踊りで驚いたのは、シルフィードの場面。彼女は骨格がしっかりしているのでロマンティック・バレエの役柄はそこまでに合わないと思っていたのですが、全体的に優しく淑やかに踊っており、ふわっとして見えます。

 

男性ソリストはポール・マルクとギヨーム・ディオップ。二人ともテクニック的にほとんど完璧ですし、それだから『エチュード』に配役されたのだと思います。ディオップのジャンプなんて、どうしてあんなに力まずに軽やかに高く飛べるのかしら・・・!しかし、足さばきにせよ、回転にせよ、これだけ素晴らしい出来なのに、二人ともどうして華やぎに今ひとつ欠けるのだろうかともったいなく思わずにはいられませんでした。ただ、パリ・オペラ座の公演だから物足りなく思うのであって、普通だったら十分に素晴らしい踊りです。

 

なお、冒頭のプリエはクララ・ムーセーニュが演じています。愛らしくチャーミングで、心が掴まれること間違いなしです。

 

モーリス・ベジャールの『さすらう若者の歌』は、パトリック・デュポンが親友のジャン=マリ・ディディエールと踊ったことで知られる作品。その作品を、バレエ学校時代からの友人であるジェルマン・ルーヴェとユーゴ・マルシャンで見られるというのは感動もひとしおです。

 

青のソリストのルーヴェは、どこまでも理想を追い求める純粋な青年です。第2曲目の明るいパートでは、花の咲き誇る青春時代を呼び覚ましたかのような、穢れのない喜びが身体に宿っています。しかし手の届かない理想を追い求めることは苦しみを追い求めることと同じです。今、すでに彼は苦しんでいるにもかかわらず、理想に吸い寄せられた青年は、理想しか自身の目に入らず、自分が苦しんでいることに気づいていないといった様子です。

 

そのようなルーヴェをマルシャンの赤のソリストは憐れみの表情で見つめます。赤のソリストは支配的に演じることもできる役だと思いますが、マルシャンにはそのような強権的なところは全くありません。理想を追い求めた末にあるのは苦しみだけだとマルシャンは分かっていて、心の底からの憐憫ゆえにルーヴェを理想から引き剥がすのです。

 

作品の最後、ルーヴェはマルシャンに手を引かれて去って行きますが、ルーヴェは何かを求めるように片手を伸ばします。もうその求めるものは手に入らないことは明らかであるのに、ルーヴェの表情には、今もなお手に入ると信じて疑わない、奇妙なほどの純真さがありました。

 

傷つきながらも必死に運命に抗う純朴な青年、パトリック・デュポンとはまた異なる青のソリストでしたが、ルーヴェ、マルシャンともに本当に素晴らしい『さすらう若者の歌』だったと思います。

 

最後はパトリック・デュポンのためにジョン・ノイマイヤーが振り付け、パトリック・デュポンのエトワール任命の作品となった『ヴァスラフ』です。主役のヴァスラフと、四組のパ・ド・ドゥ、一人の男性ヴァリエーションで構成されています。

 

主役はマルク・モロー。パトリック・デュポンのヴァスラフは、がむしゃらさの中に人間の脆さが現れ出るといった踊りでしたが、それに比べればモローははるかに常識人です。平然と涼しい顔で一人過ごしていると思っていたら、自分にも制御できない狂気の片鱗が表へとあらわれてくるのです。

 

ひと組目のロクサーヌ・ストヤノフとフロラン・メラクは大人の余情を湛えた踊りを見せ、ふた組目のエレオノール・ギュルノーとニコラウス・チュドランはひと吹きの風のように踊り去っていきます。三組目のオニール八菜とフロリモン・ロリユーは、ヴァスラフには無関心といってよいほど楽しげです。ビーズ玉が転げ跳ねるように軽やかなオニール八菜の踊りは素晴らしい。

 

オドリック・ベザールによる男性ヴァリエーションは絶品です。彼のような美しい四肢の持ち主だからできる高い精神性が宿っています。この世の辛さも、美しさも、どちらも見つめ得て、それらを素直に受け入れた人間だけが到達する境地すら感じました。

 

四組目はローラ・エケとアルチュス・ラヴォー。この配信では各演目の間にパトリック・デュポンにまつわる短い動画が挟まれているのですが、それをみるにローラ・エケの役は元々、エリザベット・プラテルが演じていたようですね。エケはプラテルほどの美しさには欠けるものの、ヴァスラフにとって掴まえようにも掴まえられない不確かさを象徴する踊りになっていたと思います。

 

『ヴァスラフ』では、主人公の人生の断片が、彼の内面世界に呼び起こされ、吹き去って行く風のようにそのまま過ぎ去っていくさまが、こうしたパ・ド・ドゥとヴァリエーションを通じて描かれています。ニジンスキーとデュポンでは人生は全く異なっていたかもしれませんが、一人の天才の内面世界における生き様を見るという意味では、パトリック・デュポンの追悼公演の最後としてふさわしい作品だったと思います。

 

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