生成的な行程

流れの向きはいつも決まってはいない

カテゴリ: コトバ

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らしいなぁと感心した。

「つらいことは信用できる」
「ラクしたものは信用できない」
「これまでずっと自分に負荷をかけてきた」

若い頃、ラジオの番組で自分は素直だと言っていた。
恐らく40近かった大人が自分をそう表現するのかと意外だったけど、
今思うのは、正直な人、というのが外から観てきた私の印象だ。

努力することを正直に語る。
それを自分の哲学にしている。
アーチストだと思う。

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ほかそうとしていた新聞から目に飛び込んできた。
「出会えて」よかった。




長い間、積読状態だった。
奥付には2000年発行とあるので四半世紀、書棚で眠っていたことになる。

多湖さんは2016年に鬼籍に入られているが、かつてテレビのクイズ番組などにもよく出ていた心理学者で、
著作の思考パズル「頭の体操」シリーズは昔、町の本屋でよく見かけたものだ。

さて、長かった意識下から這い出てようやく本書の中に入っていくと、
何度も「心」という言葉が出てきて強く印象に刻まれてきた。
最近、久しぶりに聞いたワードのようで不思議なことに新鮮だった。
”精神”や”意思”や”魂”など幾つかの類語があるが、
「心」は人の最も奥底にあって、”精神”などを生み出す源泉と捉えると理解しやすいのかなと思う。
源泉から湧き出る泉は、はじめは無色透明で、まだ色はついていない。
そこから徐々に外的環境に揉まれ、色が付いていくが、
どんな色をつけるかは、その人自身の個人的な体験や感じ方によっている。

以下、自分流に本書を脚色してみる。

何か願望や物事を達成しようというなら、動かないと始まらない、近づかない。
ポイントは泉である心であるが、動きながら作る、作りながら動く、という原理を理解すること。
感じて動く、それが感動。
感じることは心が動くこと。
心を動かし、体を動かす
心を動かすためには、こだわない、とらわれない。
ものの見方を固定観念から解き放つ。
(「フライパンの原理」→物事の順番という固定観念を崩してくれる)
動き出したら、耐え抜く力が、求められる。
(自分の人生はジャンボ機を飛ばすのか、セスナ機を飛ばすのか)
誇りを持つことが、自分の人生を立派に生きること
注意するのは、廻りではなくて、自分の心の隙。

動かないのは本気になってない証拠
過去の自分から、どう未来の自分を作っていくか?

心理学から心理術へ
多湖さんは、学問の心理学から、人間全般の生き方の術として「心理術」を提唱していたのですね。
そういえば、「頭の体操」という言葉も先生らしい表現だ。

最後のまとめの箇条書きなど、時々読み返して元気をもらおう、と思えた本でした。

受け月 (文春文庫)
静, 伊集院
文藝春秋
1995-06-09



先日、伊集院静さんが亡くなった。
10年少し前、「大人の流儀」を読んで、ずっと気になっていた人だったが、何故か小説は読んでこなかった。
今さらではあったけど、自分の中で忸怩たる思いが残っており、何とかせにゃとようやく作品を手に取った。
追悼を機に、現代の短編で稀代の浅田次郎と並び称されているのを知って、後押しされた面もある。

表題作含め、短編7つ。
全部、人生のなかで野球がどこかで交錯している話だった。

中学まで、高校まで、あるいはプロかその手前の実業団までか、人それぞれが打ち込んできた野球人生がある。
彼らはピッチャーか、野手か、監督か、それぞれチームの中で自分の役割を担ってきた。
野球をやってきた人が知る哀惜の情が物語に映されているようだ。

<夕空晴れて>
「つまんない野球はもうやめろ。神様がこしらえた野球をやろうや」
「名選手にならなくていいんですよ。自分のためだけに野球をしない人間になればいいと思っています」
野球は教育でもあるのを気ずかされた。

<冬の鐘>
料理屋の名前 - はる半 - の由来がいい。
 - めでたさも中くらいなりおらが春 - 小林一茶
「おまえは腕も経験も何もかもが半人前だ。
 全部合わしても半人前だから、残り半分は正直で足して行け」

<菓子の家>
「いいか、おまえは井沢の家の跡取りなんだから、この樫の木のように大きくならなくてはいけないんだぞ。
 この木の下には、この幹や枝より大きな根があるんだぞ。それを忘れるな。
 根がしっかりした人間になるんだぞ」

無頼の伊集院さんだけど、ことばや外見だけじゃ、真逆にあるような繊細な人情の機微は描けないだろうと思う。
人間が元来持つ幅の大きさだろうか。
下世話だけど松山千春や中島みゆき などにも同じようなものを感じる。

解説で長部日出雄さんが伊集院静の小説の核は喪失感にあるとし、人生と愛の背理を描いていると評していた。

「人生とは愛するものをひとつずつ獲得し、同時に喪失していく歴史である、という背理は、
 しばしばスポーツマンの運命に、もっとも鮮明に現れる。
 時の流れの素晴らしさ、冷厳さ、残酷さを、スポーツの場ほど、はっきり示すところはない」

一方で、伊集院さんはスポーツでできた傷をモチーフに時の流れを登場人物に語らせている。~冬の鐘

「その頃自分にとってこれがすべてなんだと思っていたものが、時間が過ぎると、可笑しくてしょうがないこともあるものな。消せない忘れられないは、ひとりで思い込んでいるだけだもの」

すっと手を差し伸べている。

7編とも、心にじんわりと染みてくる小説でした。
92年、直木賞受賞。




さらっと読める本だったけど、さらっと素通りできない内容だった。
精神科医でホロコースト生還者であるフランクルは、究極の言葉で人間の生き方を示している。
ヴィクトール・フランクル(1905-1997)は、『夜と霧』の著者であり、ロゴセラピーという心理療法の提唱者。
*ロゴセラピー:ロゴス (意味) によるセラピー (癒し)

「あなたがどれほど人生に絶望しても、人生のほうがあなたに絶望することはない」
人生の意味が変わるような目から鱗の言葉だった。

生きる意味を見つける三つのてがかり
・創造価値
・体験価値
・態度価値
フランクルが強制収容所で見て体験した人間の最後の最も崇高なものは態度価値だった。
精神的な態度により、人は天使にも悪魔にもなる。

苦悩する意味
悩むことが人間だけが持つ能力
重要なのは、悩むことそれ自体ではなく、どのように悩むかだ。
まっ平らな世の中で「垂直性」を生きよ
人生の水平軸(成功/失敗の軸)から垂直性(意味/絶望)へ
「悩む」ことを力に

未来に希望を描く、たとえどん底の状況でも
人間がどこまでも「時間的存在」であること、自ずと生得している。

魂を鼓舞する究極の言葉に感じ入った。

諸富さんの説明は分かりやすく、姜尚中さんの寄稿は諸富さんがいう「私にとってのフランクル」の実証体験談として尊い。
原作はいつか読まねば。

成功は時間が10割 (新潮文庫)
百田 尚樹
新潮社
2022-05-30



秋口に本屋で偶然見かけ、衝動買いしてしまった本。

時間に関して、思索してきたことをきっちり書き表わしていることに、好感を持ちました。
捉えどころが難しい対象をきちんと言語化して書き残した気概と勇気を称賛したい。
文中、「発見した」という表現がよく出てくるけれど、「発見」は科学者だけのものではない。
自分の心の中で見つけた、あるいは、気づきを得た、というのも「発見」に違いない、と意を強くした。

物理的時間と心理的時間
ここを考えることがポイントとなりそうだ。
この境界は実に曖昧だ。
アインシュタインの「相対性理論」にしても光の速度が一定であり、時間は収縮することを証明しているのだから。
一方で、無意識ながら個々を律している体内時計も意識したい。

有限の時間
これが我々人間に突き付けられた「条件」だ。
Time is "more than" money.
金はいくらでも増やせることができるが、時間はそうではない。
「他人の時間」は買うことができても「自分の時間」は買うことができない。

人間の叡智と課題
知識は数万年分の進歩の地点からスタートできる
心の成長はどんな人間もゼロからスタートしなければならない
よって、人間は過ちを繰り返す

人生と砂時計
砂の落ちていくスピードは変わっていないのに、その速度は加速しているように見える
ただし、人生には決まったゴールはない。
マルチエンディング。いくら失敗しても別なゴールがある。

葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」
「瞬間」を永遠に残した
現代のカメラでしか撮影できない映像を絵にした
絵は「瞬間」の時間を画像で、物語は「切り取られた時間」を言葉で残す。
(音楽は常に時間とともにある)

「今やるべきことを、今やる」
仕事の量は、完成のために与えられた時間いっぱいに膨張する(パーキンソンの法則)
"Work expands so as to fill the time available for its completion."

私はプラスのイメージにとったが、オリジナルはマイナスのイメージのようだ。
Time can wait. > Time can't wait.
知らずと時間に支配されていることに気づこう。

一年のはじめに、大きな課題が見つかった。




7か月ぶりに隠蔽捜査シリーズに帰ってきた。
今や竜崎署長は元気と勇気を注入してくれる精神のペースメーカーだ。

大森署管内で異色の事件が続く。
鉄道や銀行のシステムダウンと非行少年殺害事件
警察は刑事課だけでない。地域課、交通課もあれば生安課もある。
住民の生活を守るため警察は全方位に目を配る必要があるので、署長の仕事は常に忙しい。

今回は大森署で最後ということもあってか、あらゆる部署との人間関係に竜崎流の仕事スタイルが表れていた。
ー現状に甘んじるのか、それともあるべき未来を想定するのか
ー指揮官は一手先を読まなければならない

終盤、専門分野でないITリテラシーをものともせず、竜崎が心理戦で事件の核心に迫っていく疾走感がすごかった。
脳がスポーツをしているような感覚だった。

棲月(せいげつ)というのは竜崎に対する勲章だろうか。
ルナリアン 月世界の人
ありきたりのタイトルではこの人は言い表せない。

最後に
増田俊也さんの解説に感服。
文学の効能に関するお説が腹に落ちた。
何度も読み返したくなるような名文だ。

「小説とは何か。それはもうひとりの自分に出会うための旅である。」

「若者にとっては未来の自分を見るための旅であり、年配者にとってはもうひとりの自分を生き直すための旅である。」

「本を読んでいる数時間、そこには読者の数だけ夢がある。」

「人間は小説を読むことによって何度でも生まれ変わることができる。」

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娘の学校のキャンパスツアーに参加した。
初めて本館の中に入ると、大学の歴史を伝える事物が展示されていた。

1922年、第一回卒業生に送ったことば。

「知識よりも見識、学問よりも人格を尊び、人材よりも人物の養成を主としたのであります」

初代学長は、当時、国際連盟事務総長として働いていたジュネーブから祝福した。
場所を超え、今は時代を超えて高い教育理念が感じられて印象に残った。

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”QUAECUNQUE SUNT VERA”
「すべて真実なこと」
真理を探しに行こう。(少し勝手な解釈入れます)

ラテン語は英語から可能な範囲で想像をするしかないし、キリスト教精神も自分にはないが、
人間のコトバで聖句となっていて、時に応じて一節を切り出す行為は、キリスト教のサムシングを感じるところです。


帰りは、娘から聞いていたキャロットでランチ。

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肉もご飯もすごい量だった。
ガッツリも、男子も女子も関係ないな。

本日は、お日柄もよく (徳間文庫)
原田マハ
徳間書店
2013-06-07



文体が女の子女の子した告白調で、自分の趣味と違うのだけど、
話はポンポンと展開し、予定調和が見えながらも結構楽しめた。
普通のOLがスピーチライターになっていくビルドゥングスロマンであり、
また、場面ごとに実践できるスピーチ入門のような内容になっている。

祝辞
弔辞
企業の社長のメッセージ
選挙の候補者のメッセージ
などなど

空気を一変させる言葉があることを教えてくれます。

言葉は書くものでも読むものでもない。 操るものだ。
言葉は魔物だ。人を傷つけも、励ましもする。この魔物をどう操るか、が問題だ。

心を動かす。
ここぞという言葉の本質は心の動きへ発酵させるためにあるのかもしれない。
そのためには、まず、いい聞き手であることが、いい話し手への前提となる。
聞くことは話すことよりもずっとエネルギーがいるが、その分話すための勇気を得られる。

なるほどなあ、と気づかせてもらうことが多々あった。

感動的ないい言葉が沢山でてきます。

「困難に向かいあったとき、もうだめだ、と思ったとき、想像してみるといい。
三時間後の君、涙が止まっている。二十四時間後の君、涙は乾いている。
二日後の君、顔を上げている。三日後の君、歩きだしている」

とまらない涙はない。乾かない涙もない。顔はしたばかり向いているわけにみいかない。
歩き出すために足があるんだよ。

普段、会社で使えそうな「マジック」もあった。
「CHANGE」を白板に書いて"G"の右端をこすると「CHANCE」に変わる
ちょっとしたところに日々新しいチャンスを見出し、それをチェンジに繋げていく。

うまいなあ。

作中のスピーチを読んでいて実際、目頭が熱くなることが何度かあった。
乾かない涙はない。歩き出さないとね。

図3

かっこええなあ。見た目じゃない(笑)
武田鉄矢、金八先生のコトバ。
心に響いた。

自分がつくる過去だけが、その後につながる。
他人からじゃない。
あの時がんばった自分が今の君を応援している。

これから先も。

これで禁煙も がんばれそう。
対新型コロナの行動変革(自粛)もがんばろう。

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アマゾンプライム・ビデオで「感染列島」を観た。
主人公の一人、医者の檀れいが、若くして亡くなった弟の好きだったコトバを恋人に伝えたシーン。
重苦しい状況の中で、前向きに希望を見出したい気持ちにさせる魔法のようなコトバだった。
感動した。

調べてみると開高健が色紙によく書いていたようだが、
原点は「きみは」が「私は」となり、マルティン・ルターのコトバらしい。

映画は今のコロナ騒動が既に予見されているような内容で、今だからリアルに想像できるのが恐ろしい。
2009年の作品。

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