生成的な行程

流れの向きはいつも決まってはいない

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新装版 菜の花の沖 (6) (文春文庫)
司馬 遼太郎
文藝春秋
2000-09-01



最後の第6巻は嘉兵衛の人生の総仕上げに相応しい大団円が用意されていた。
フヴォストフ事件 (文化露寇)に始まる北方でのロシアとの外交交渉である。

鎖国中の日本は、ロシア船打ち払い令、ゴローニン事件 (報復の騙し討ち捕縛)を引き起こし、
対するロシアは、国後島沖で高田屋嘉兵衛の観世丸を拿捕→カムチャッカへ連行へと事件は発展する。

事件の解決へ向け、幕臣でなく一介の町人である嘉兵衛が自ら両国間の和平に向け調停に奔走する様子が詳細に描かれている。
海域の安全という商売上の目的があるにせよ、命を懸けて国を守らなければならない責任を負っている訳ではないし、またそういう立場にもない。
ふってきた運命に一個の人間として真向から対峙したのは「何でも思いよう一つだ」という嘉兵衛の時代の江戸期の庶民の処世哲学もあったろうし、さらに自ら承知のうえでカムチャッカまで行ったのは、嘉兵衛の“こころの自由さ”だったのではないか、と司馬さんは分析している。

彼がロシアと「外交交渉」を進めるうえで欠かせないのが、ゴローニンのもとディアナ号の副艦長だったリコルドとの友情だった。
お互いを「タイショウ(大将)」と呼び合い敬意を表し、互いの信を認め、また自らを律する交渉相手のとば口となった。
その辺の経緯をリコルドは『手記』に書き、嘉兵衛は『自記』に書いて記録を残している。
司馬さんはそれを双方の側から確認し、実際どのように物事が進んだのか、真実を探し、物語に詳細に紡ぎだしている。
言葉も文化も違う2人がどのように意思疎通をしたか、司馬さんならでは深い洞察と考察が細部に働いている。
必要最低のことばの選択と数、またことばを超える礼のかたちが、2人の外交を支えているのが感じられた。

「人質交換」をする最終局面で沖と陸から半分に分けたハンカチでお互いの信を確かめ合う場面は感動的だった。
外交のプロトコルは多くのメッセージよりも、こんなシンプルなところが重要な役割を果たすものなのかもしれない。

この関連でいうと、あとがきで司馬さんのことばに関する思想が書かれてあったのが興味深かった。
日常語は、一般的に4、500の単語があれば済む。
生涯一か所で送るにはそれで問題ない。
陸からはみ出て海上で送るとなると日常語だけでは済まない。
しかし、嘉兵衛は多弁を必要としない商人だった。
暖簾印などの信用がそれを代行した。
しかし、幕府の仕事を請けようようなってからは非日常語が必要になり、
論理も修辞も比喩も必要で首尾一貫した長い言語を弄さねばならなくなった。
学問のなかった彼にその技術を与えてくれたのが、当時流行った浄瑠璃だった。
浄瑠璃は言語を陶冶する働きを持っていて江戸期の日本語の洗練に大きな功があった。
嘉兵衛はそんな浄瑠璃本を何冊も話さず持っていたという。

最後は少々あっけない印象だった。
杓子定規にいうと鎖国という時代に「国禁を犯した」嘉兵衛は外交問題を解決へ導いた功績は認められたものの、
政治体制ゆえに幕府側からの過小評価しか得ず、事件解決後、幕府の蝦夷地直轄は情熱を失い、また松前家に戻されてしまった。
幕府の蝦夷地経営とともに栄えた高田屋は目の敵にされたのだろう、嘉兵衛一代でつぶされたしまった。
真の開国は、彼の死後25年後のペリー来航まで待たなければならない。

「菜の花の沖」というタイトルについて

「菜の花はむかしのように村の自給自足のために植えられているのではなく、
実を結べば六甲山麓の多くの細流の水で水車を動かしている搾油業者の手に売られ、
そこで油になって、諸国に船で運ばれる。
たとえば、エトロフの番小屋で夜なべ仕事の網繕いの手もとを照らしている。
その網でとれた魚が、肥料になって、この都志の畑に戻ってくる、
わしはそういう廻り舞台の下の奈落にいたのだ、それだけだ」

「菜の花」と「沖」という2つのキーワードが航海の海図のように嘉兵衛の人生航路を示していた。

新装版 菜の花の沖 (5) (文春文庫)
司馬 遼太郎
文藝春秋
2000-09-01



この巻は一巻まるまる、司馬先生の歴史講座だった。

日本の北方に出没しはじめたロシアとはどういう国だったのか。

一方、当時の日本の国のかたちはどうだったか。
内的には商品経済の出現による社会の変化は、徳川幕府の政治体制や人々にどのような「化学反応」を起こしたか?
外的には世界の中から見つめたとき、日本はどう映り、何を求められたか?

世界の相対性のなかで語られる司馬先生の縦横無尽でダイナミックな講義にぐいぐいひき込まれた。

欧州で後進国だったロシアは、
ロシア人の顔皮一枚剝げばタタール韃靼 (モンゴルやトルコ系の騎馬民族)の顔が出てくる、
といわれた。
それを一気に帝国の国家として他の欧州各国と伍すくらいに引き上げたのが
ピョートル大帝 (1672-1725)と女帝エカテリーナ2世 (1729-1796)だった。
新興国のロシアは、ピョートル大帝の時代はテクノクラートととして近隣のドイツやスウェーデンなどから人材を集め、
ドイツ出身のエカテリーナ2世の時代はフランスから啓蒙思想を入れつつ農奴の奴隷化を強化し膨張主義者として領土を拡大した。

後年、ナポレオンのロシア遠征 (1812)など、さらにヨーロッパ全体がかき乱されるが、
商品経済から重商主義へ発展するこの時代、領土の争奪戦は、さながら「戦国時代」の様相だった。
司馬さんは日本のそれより酷かったというけれど、「戦国時代」ということばで個人的にイメージが刻まれた。

一方、日本は大阪夏の陣以降、「元和偃武 (げんなえんぶ)」が続いていた。
武を偃 (や)めることが非成文の憲法のようになり、武器の進歩はその段階で止まった。
加えて、鎖国体制を敷き、外国との交流はオランダだけとなり、長崎の出島を開けるのみだった。
そんな中での重農主義から廻船商売に代表される商品経済への社会の変化は様々な新奇なことを生んだ。
江戸中期以降、漂流者を多く出したのもその流れといえる。
国は鎖国をしているので漂流すると帰ってくるのもままならない。
例えばロシアへ漂流した大黒屋光太夫の運命は想像以上にロシアでも帰国後の日本でも数奇な人生だったようだ。
嘉兵衛を同類かなと思ったいたけど、偶然の重なりでできた人生と、経験を踏んで作っていった人生の先で起きた事件との違いが大きそうだ。
ともに人物としては、皆から人格者と見られていたが。
また、異能な人物が多く出てきたのもの大きな特徴だ。
樺太探検で間宮海峡を発見した間宮林蔵 (農民出身)もその一人。
幕府側も多士済々であり、老中 田沼意次はその代表格かもしれない。
それらがペリー来航の半世紀くらい前、ロシアとの間で象徴的に起きていたことに運命を感じる。

千島の北方領土の問題は、ロシアと日本というおよそ文化、価値観の違う国同士の主張なため、
どちらが正しいということは一概には言えそうもないという印象を持った。
人と国では、また性格が違ってきそうなところが難しい。
但し、そこの住民の立場からいえば、日本に統治される方がヒューマニズムが感じられてありがたいのじゃないか、
と思うのは自分が日本人だからなのだろうか?

菜の花の沖(四) (文春文庫)
司馬遼太郎
文藝春秋
2015-07-03



嘉兵衛は蝦夷本土(北海道)の内陸へ分け入ることなく沿岸を東へ伝い、
ついに東端のアッケシ(厚岸)を過ぎ、さらに最東端のネモロ(根室)から船出して国後島、択捉島へ向かう。

商人の気質よりも冒険家や人道家のそれが上回ってきた印象だ。
現地のアイヌに人間としての原点回帰を触発され、改めて自分の「針路」を探索している。

立場は違えど徳川幕府側に「同志」とも言えそうな新しい人物たちが現れているのが時代の変化の面白さだ。
場所請負制でアイヌから搾取する一辺倒の松前藩は既得権益を失いつつあるが、そもそも統治意識もなく自業自得だった。
さらにロシアのカムチャツカからの千島列島南下の事情もあり、幕府が直接 経営に乗り出した。
三橋藤右衛門、近藤重蔵、高橋三平、最上徳内など幕臣たちとの交流が嘉兵衛のその後の人生に影響を及ぼしていく。 

エトロフ渡海の水路 (国後水道)の按検に成功したことが人生の大きな転機になった。
幕府の蝦夷地政策の最大の眼目はエトロフ島になり、嘉兵衛は余人に代えがたい存在となる。
封建的身分制度が残る幕府社会のなかで嘉兵衛は「定御雇船頭」を打診され、今までの廻船業の仲間社会から一歩外へ踏み出した。

-利と欲は違う
-商人たる者は、欲に迷うな
-欲で商いをする者はたとえ成功しても小さくしか成功せず、かりにおおきく成功してもすぐ滅ぶ

という高田屋一門の人生哲学が自ら生まれた。
嘉兵衛の一代、持船は一度も破船・難船しなかった、という事実は彼の堅牢な思想の賜物であり、彼の信用を築いたといえそうだ。

また、作品の脇道か本筋か?この4巻ではロシアと日本の対比から古今東西の人間の土地や領土に対する考え方の違いについて司馬先生の考察が多く挟まれていた。
歴史を自家薬籠中のものにする司馬史観の真骨頂ここにあり。

ロシア vs 日本
対地主義 vs 対人主義
領土 vs 版図(縄張り)

日本の場合、中国の華と夷、朝貢関係、冊封の関係に近い
ロシアの場合、皇帝も他の地主同様、農奴付きの土地を「私有」する

日本は、魚とその肥料から作る木綿のため、南千島へ
ロシアは、シベリアのテンの乱獲後の高級毛皮としてラッコを求めて千島列島を南下

日本は、蝦夷を和人化しようとした
ロシアは、蝦夷を私有化しようとした

島蝦夷にとって日本の象徴が月代(さかやき)、ロシアの象徴が十字架だった

そもそも日本列島全体もしくは東日本一帯に住んでいた石器時代人の一部が、弥生式水田農耕をもたらした渡来人と混血するなかで、
同化から外れた人々が次第に北へ移動して、蝦夷地で太古以来の狩猟様式をまもってきたのがアイヌであるという説は一般に流布している。

人なのか、土地なのか、ルーツを辿るのか、所有を宣言した順番なのか、何よって国土は決まるのか。
それが元で国家間の紛争は今日も絶えない。。。

大いに知的好奇心を刺激させられた。
今のロシアのウクライナ侵攻もどこが決着点なのだろう?

菜の花の沖(三) (文春文庫)
司馬遼太郎
文藝春秋
2015-07-03



嘉兵衛は親交を結んだ秋田土崎の船大工に当時 最大級となる千五百石の「辰悦丸 (しんえつまる)」を建造させ、憧れの地、蝦夷に赴く。
いよいよ舞台は北前航路の最終寄港地である蝦夷に移ってきた。

現地で見聞する蝦夷の様子から
 松前藩とアイヌ人の関係、
 徳川幕府の統治体制、
 ときおり出没する赤蝦夷 (ロシア人)
等の状況が見えてくる。

現地とはいえ、蝦夷見聞のはじまりは、本州青森と津軽海峡を挟んだ対岸の松前と箱館といった沿岸のみ。
地図で見れば、渡島半島のほんの先端に過ぎない。
奥に広がっていく未開の地は手つかずのまま、国を挙げての実地調査が始まろうとしている。

鮭、鰊 (ニシン)、昆布の「蝦夷三品」は本土の食生活や暮らしに浸透してきているが。。。

江戸時代が後期に入って社会の転換期を迎えていたことが興味深い。
時代のうねり、というものが漠然としながらも着実に起きている。

農本主義から商品経済へ
各地方の物産が廻船が寄港する湊を通して、国中で廻りはじめることで社会や文化が変わりはじめた。
農民を土地にはりつけて神秘的権威を墨守してきた社会の仕組みに、様々な新しい息吹が起きはじめた。
米作りを広げていくこと、イコール国作りという図式のなかでは、蝦夷は象徴的な化外の地だった。

人間の変わり様について、司馬さんは云う。
封建制のしんは上下儀礼である。貴賤で人を量った。
「物は、まわる」
北海の鰊は問屋商品が買い、稲作や菜種作の農家に売る。できた木綿や油をまた、商人や武士が買う。
売ると買うは循環しており、この循環は唐土や阿蘭陀までひろがる。
礼は上下ではなく相互である、と。

その気持ちを司馬さんは嘉兵衛に託しているのだろう、と感じた。

一方、幕府側に「新しい人物」たちが現れてきているのが面白い。
老中、田沼意次は蝦夷地調査の総元締めだが、恐らく前時代と一線を画す思想の持主だったのだろう。
平賀源内、伊能忠敬もこの時代。
知識人、というより安藤昌益など、知的奇人の多くが非士族階級から出ている。
そして嘉兵衛を指南する最上徳内など。
面白い「役者」たちがこの時代に集まってきている。

第4巻へ。

菜の花の沖(二) (文春文庫)
司馬遼太郎
文藝春秋
2015-07-03



「抜け参り」で兵庫へ出た嘉兵衛は、海運の社会の中で、身一つで自分を作っていく。
先輩たちに学び、認められ、社会の中で自身を引き回してもらうことで、一歩ずつ階段を上がっていくようだ。

船乗りであり、海産物商人であるという職種は、それぞれの専門性を別々に極めることよりも、
それらを統合的に見て、職としての「海の男」を完成させていくことに当時の時代の意義があったように思えた。

社会の中心が伝統的な農本主義から実質的な貨幣経済、商業経済へと移行する過渡期であったことが大きい。
そもそも江戸幕府は世の中が急変することを恐れ、道路の整備や大船の建設禁止の「タガ」を嵌めていたが、
地域の産業育成〜拡大は、江戸の地自身も大いに含めて、消費地の拡大を促進せざるを得ない状況だった。

「入り船こそ宝船」
まさに言葉通りの社会が出来つつあったのだろう。
あらたな経済スタイルが日本の人文現象を変えている。

下関、敦賀 (日本の最大の玄関口)、新潟、酒田、土崎、そして松前へ
古代から根付いていた表日本と裏日本の概念が今と違っていたのが面白い。


嘉兵衛の「海の男」としての志は大きい。
士農工商のどこにも入らない身分を自ら規定している潔さが気持ちいい。

士とは御家中のことではなく、志を持つ者のことを指す。
武士は有閑階級と言い放つ。

「わしらはこの世とは別の海の国の人間であると思え。
 海の人間は陸の士農工商よりも尊貴だと思う以外に立つ瀬はない。
 小欲や小利にまどわされておのれを卑しくするな。」

同胞の弟たちに言った言葉に彼の気概が伝わってきます。
株仲間という廻船業者の組合にも属せ(られ)ず、兄弟を信用の資本として土台を固めていっている。

気宇壮大な精神をもって「人生の旅」は続く。

菜の花の沖(一) (文春文庫)
司馬遼太郎
文藝春秋
2015-07-03



ついに自分の中では司馬遼 長編の”大トリ”と思っていた「菜の花の沖」に手を付けた。
全6巻は、結構覚悟がいるからね。
まあ、これから2, 3か月は続くだろう「旅」だから、気張らず淡々と進めていきたい。

黒船来航より数十年前の江戸後期に廻船業者、海商として活躍した高田屋嘉兵衛 (1769 - 1827)の物語。
そもそもご当人のことも知らないし、「菜の花の沖」というタイトルが詩的なせいか、事前に想像できることが、ほとんどない。
前から不思議なことばの組み合わせと思っていた。

第1巻はそういう意味で全体像を掴むイントロダクションになればと思っていたが、その通りの展開だった。
さすがは司馬遼太郎先生。
物語に適宜差し込まれている随想、回想、考察を含めて主人公を作り上げていく「道案内」は、
著者と一緒にその時代、空間を今、旅しているような気分が生まれてくる。

菜の花、淡路、海人の国。
モチーフはここから嘉兵衛に託して広がっていったのだろうか。
そういえば淡路は「国生み」の島でもあり、日本人のルーツを想像する気持ちも掻き立ててくれます。
南洋国家、日本!?
改めて地図を見ると、まるで大阪湾にふたをするように位置している。
比較的大きい。

ここから高田屋嘉兵衛は「出発」した。

浦方(漁村)と在所(農村)の複合や反発
若衆宿という大人社会たちとは別なルールで機能する伝統
一方、全体では江戸幕府の世、日本規模で発展する商品経済のサプライチェーンのなか
 各藩を統制するための廻船施策と商人たちの躍進

そういった背景のなか童から大人になっていく。

大人になるということは、分別をわきまえるということではなく、
自分の世界をつくりだす、つまり、志をもつというのが 嘉兵衛 特有の理論となっている。

期待しながら、第2巻へ。

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  膺肢鐚