最後の第6巻は嘉兵衛の人生の総仕上げに相応しい大団円が用意されていた。
フヴォストフ事件 (文化露寇)に始まる北方でのロシアとの外交交渉である。
鎖国中の日本は、ロシア船打ち払い令、ゴローニン事件 (報復の騙し討ち捕縛)を引き起こし、
対するロシアは、国後島沖で高田屋嘉兵衛の観世丸を拿捕→カムチャッカへ連行へと事件は発展する。
事件の解決へ向け、幕臣でなく一介の町人である嘉兵衛が自ら両国間の和平に向け調停に奔走する様子が詳細に描かれている。
海域の安全という商売上の目的があるにせよ、命を懸けて国を守らなければならない責任を負っている訳ではないし、またそういう立場にもない。
ふってきた運命に一個の人間として真向から対峙したのは「何でも思いよう一つだ」という嘉兵衛の時代の江戸期の庶民の処世哲学もあったろうし、さらに自ら承知のうえでカムチャッカまで行ったのは、嘉兵衛の“こころの自由さ”だったのではないか、と司馬さんは分析している。
彼がロシアと「外交交渉」を進めるうえで欠かせないのが、ゴローニンのもとディアナ号の副艦長だったリコルドとの友情だった。
お互いを「タイショウ(大将)」と呼び合い敬意を表し、互いの信を認め、また自らを律する交渉相手のとば口となった。
その辺の経緯をリコルドは『手記』に書き、嘉兵衛は『自記』に書いて記録を残している。
司馬さんはそれを双方の側から確認し、実際どのように物事が進んだのか、真実を探し、物語に詳細に紡ぎだしている。
言葉も文化も違う2人がどのように意思疎通をしたか、司馬さんならでは深い洞察と考察が細部に働いている。
必要最低のことばの選択と数、またことばを超える礼のかたちが、2人の外交を支えているのが感じられた。
「人質交換」をする最終局面で沖と陸から半分に分けたハンカチでお互いの信を確かめ合う場面は感動的だった。
外交のプロトコルは多くのメッセージよりも、こんなシンプルなところが重要な役割を果たすものなのかもしれない。
この関連でいうと、あとがきで司馬さんのことばに関する思想が書かれてあったのが興味深かった。
日常語は、一般的に4、500の単語があれば済む。
生涯一か所で送るにはそれで問題ない。
陸からはみ出て海上で送るとなると日常語だけでは済まない。
しかし、嘉兵衛は多弁を必要としない商人だった。
暖簾印などの信用がそれを代行した。
しかし、幕府の仕事を請けようようなってからは非日常語が必要になり、
論理も修辞も比喩も必要で首尾一貫した長い言語を弄さねばならなくなった。
学問のなかった彼にその技術を与えてくれたのが、当時流行った浄瑠璃だった。
浄瑠璃は言語を陶冶する働きを持っていて江戸期の日本語の洗練に大きな功があった。
嘉兵衛はそんな浄瑠璃本を何冊も話さず持っていたという。
最後は少々あっけない印象だった。
杓子定規にいうと鎖国という時代に「国禁を犯した」嘉兵衛は外交問題を解決へ導いた功績は認められたものの、
政治体制ゆえに幕府側からの過小評価しか得ず、事件解決後、幕府の蝦夷地直轄は情熱を失い、また松前家に戻されてしまった。
幕府の蝦夷地経営とともに栄えた高田屋は目の敵にされたのだろう、嘉兵衛一代でつぶされたしまった。
真の開国は、彼の死後25年後のペリー来航まで待たなければならない。
「菜の花の沖」というタイトルについて
「菜の花はむかしのように村の自給自足のために植えられているのではなく、
実を結べば六甲山麓の多くの細流の水で水車を動かしている搾油業者の手に売られ、
そこで油になって、諸国に船で運ばれる。
たとえば、エトロフの番小屋で夜なべ仕事の網繕いの手もとを照らしている。
その網でとれた魚が、肥料になって、この都志の畑に戻ってくる、
わしはそういう廻り舞台の下の奈落にいたのだ、それだけだ」
「菜の花」と「沖」という2つのキーワードが航海の海図のように嘉兵衛の人生航路を示していた。