生成的な行程

流れの向きはいつも決まってはいない

カテゴリ:本-文芸 > 浅田次郎

おもかげ (講談社文庫)
浅田次郎
講談社
2022-01-14



久しぶりの浅田作品。

定年まで勤め上げた主人公の竹脇正一は送別会の帰りに地下鉄で倒れ意識を失う。
病院に担ぎ込まれて集中治療室で生死を彷徨うなか、魂は肉体を離れて過去の人生の記憶を遡るような旅が始まる。

人間の生と死
人生の入口と出口

なぜ東京の地下鉄がモチーフになっているのか?
その訳は、特異な出自をもった主人公とその周りの人たちの人生から見えてきた。

孤独が矜持を育ててきた人生。
ことばに人それぞれ固有の概念が宿っているようだ。
そういう世界を築きあげ感動の物語に昇華させるのが浅田さんは天才的に上手い。
とまた、実感した。

読んでいる途中で竹脇が浅田次郎と同い年であることに気づいた。
浅田さんが65才の時の作品。
つまり、世の中では一般的に定年の年であり、第1の人生を終え、第2の人生が始まる齢。
それまで一緒に頑張ってきた同世代の仲間たちに何か労いの贈り物をと考えた作品だったのかな。

1951年生まれ。昭和26年。
戦後復興と高度成長の時代の申し子だ。
戦争は直接、経験はしていなくとも戦争の影を大きく引きずっている世代だ。
戦前と戦後に思想的な連続性はないにせよ、その時代の人が生きてきた痕跡は必ずある。

東京の地下鉄は1960年代に建設ラッシュがあり路線網が拡充した。
地下社会が生まれ現実とは別のパラレルワールドの象徴のようでもある。

普段あまり意識することがない地下鉄だけど、そこから想像を色々膨らませてくれる作品でした。




再読。
2007年10月のレシートが挟まれていたから、初読は15年前だったのかな。

話が面白いし、うまいし、勉強になる。
勉強になるというのは、ものの見方、考え方にインスパイアされるという意味。
浅田さんが得た人生訓→行動学入門のような内容だ。

まずは浅田流真実の発見(講演会でのお家芸のよう)
・芸術とは神々が作り給うた、人間の営みを含む天然のありようを、人間の力で再現しようとする営み
 →すべての芸術の真価は、大衆の誰にも理解されうる普遍的感動によってのみ証明される

・ひとつの動きを表現するためにはひとつの動詞しかなく、ひとつの形容をなすためにはひとつの形容詞しかない(フロベール)
 →言葉の選別は科学的定理と同じように必ず存在する絶対的表現を模索すること
 →初めに言葉ありき(聖書)
 →かつては自然の一部に生きた猿が言葉によって意思を自在に伝達し、運命に抗う権利を獲得した
 →大いなる飛躍、すなわち奇蹟

・文学とは言葉による不変の美の追求

・文学を作る、すなわちストーリー・テリングの才能は<嘘話>を構築する才能

浅田さんの人生訓
・禍福は糾える縄の如し
 40歳のとき、それまでは禍の縄だった。残りの50年は福の縄でチャラとなる、と自分で決めた
 →計算上、福が10年多いのは、若いときにお天道様に貸した幸福の利息分とのこと。らしいな。

・意の存する所は、即ち禍福となる
 
・人は情熱だけで存外生きていける

江戸っ子の心意気
習性というよりも。
いつも すっきりという感じか。
ー 着道楽、食い道楽、湯道楽
湯屋の「大鏡」の話には、なるほどと膝をうった。
「近ごろ自己評価の甘い人間が多いのは、われわれの生活からこの大鏡がなくなったせいではあるまいか」
納得の理屈があった。

浅田文学というと、時代の流れのなかで失っていくものを慈しむ、という印象を持っていた。
新しいものを取り入れるために、それまでの古いものを捨てるのは世の常だ。
古い建物も、町の名前も、習慣も、仲間たちも・・・
その新旧交代を考えることは無駄なことなのか?

人間が時代が提示する文化を受け入れざるを得ないのは宿命的だ。
小説という広大無辺な表現方法は、人を動かすことができる文化の旗手でなければならない、
と浅田さんはご自身の信念を持っている。
勢いにのる映像文化との共存関係にも言及している。

浅田文学の一貫したテーマは「破滅と再生」と人に言われ、ご自身でも納得されていることを知った。
再生のための破滅だったのか。
時代を慈しむだけじゃなかったのかと、いまさらながら自分の限界を感じた。

彼の破滅は徹底していて、ラスベガスだそうです。
「クレイジー」が常用語のラスベガスが彼の優れたバランス感覚を統制する秘訣だった。
この振れ幅が偉大だ。

江戸っ子の進化系?気質をみた。

神坐す山の物語 (双葉文庫)
浅田 次郎
双葉社
2017-12-14



作家 浅田次郎の「原点」が、垣間見られるような物語。

幼少の頃、母親の故郷である奥多摩の御岳山に里帰りした際、
伯父伯母たちや従兄弟たちと過ごした生活体験が浅田作品の精神世界の出発点になっているようだ。
門前の小僧のような生活から見た日常が面白おかしくもあり、人間の本質を覗いているようでもある。

神官屋敷での出来事や伯母が語る怪談奇聞は異界の神秘主義に満ち満ちている。
現代の合理主義では分け入る隙が狭まっている神の領域が、日常で主体として存在していた時代の情景が描かれている。
神との対峙が人生の修行であるような仙境は、八百万の神が遍満する神聖な山だからこそできたのかもしれない。
神道に日本古来の伝統が息づいているのを感じた。

「外国から渡来した神仏には、愛だの慈悲だのという人間性があるのだが、
 日本古来の神は超然としており、ひたすら畏怖すべき存在である。
 そうした意味では、一概に宗教とは言えまい。」

「私たちは未知なる自然や神秘なる現象を総括して、固有の神とした。
 長い歴史の中で、預言者の出現すら許さなかった、恐ろしい神である。」

紙垂の形が稲妻に似ているのは神の顕現を表したものなのだろうか?

幼少の頃の一つひとつの記憶の点景が愛おしく感じられた。

また、巻末のインタビューで浅田氏が、文章も表現も余分なことを一切排除することに心を砕いたことを知った。
いかに最小限の文章の中に、大きな物語を入れるか?
日本文学の特徴である短い定型詩の和歌や俳句を詠むような呼吸を大切にした方法論だという。
稀代の作家の真理を探究する姿勢と情熱に触れられて感服しました。

見知らぬ妻へ (光文社文庫)
浅田 次郎
光文社
2001-04-12



8つの短編

出会いと別れが人生を作っている。
思い通りにならなかった過去とどう向き合い決着するか?
自己の矜持はどこにあるのか?
自分の芯は?
真? 心? 信?
それぞれの主人公たちの生き方が全く自分と同じでないにしても、
記憶にあるどこか近いような経験と共鳴して心に響く。

「踊り子」 若い頃の珠玉の思い出
「スターダスト・レビュー」 音楽家の挫折と孤独
「うたかた」 しず心なく花の散るらん
「金の鎖」 自分を偽って生きてきた女の人生

記憶が時間とともに心の自己防衛で濾過されていくにしても・・・

95年から98年の頃の作品。
うまいなあ。

天国までの百マイル [新装版] (朝日文庫)
浅田 次郎
朝日新聞出版
2021-04-07



心臓病を患う母の命を救うため、天才外科医のいる病院を目指しポンコツ車で100マイルをひた走る。
世の中の善意をかき集めて、援護してくれた人たちの気持ちと一緒に。

事業の失敗で過ごした失意の2年間からどう抜け出すか、
自分の人生、母の人生、兄姉たちの人生も旅になぞらえて、それぞれの生き方を考えさせられた。
別れた妻、同居しているデブ女マリの人生も旅の重要な同行者だ。

「愛されることは幸せじゃないけど、愛することって、幸せだもんね。毎日うきうきするもんね」
負け惜しみなのか素朴なのか、またはそれ以上の何かを持っていそうなマリの存在感は光っている。
余談ながらマリは遠藤周作の作品に出てきそうなイメージがあった。

読者によって、または読んだ時の状況によって心に響く場所が変わりそうな作品ですね。
ページをめくれば、行間のあちこちで登場人物たちの個性が声を上げているようだ。

本作はピーター・ポール&マリー(PPM)の「500マイルも離れて」という曲がモチーフになっている。
哀切なメロディーが人生の旅への想いを搔き立てる。
着想は曲が先かな、それともプロットが先だったのでしょうか。
曲先だとしたら、作家の想像力(創造力でもOK)の大きさに恐れ入ります。

新装版-お腹召しませ (中公文庫)
浅田 次郎
中央公論新社
2020-08-21



短編6つ。
ご維新でそれまでの体制の価値観がひっくり返り、戸惑う御家人たちの心理が描かれている。
7年前に読んだ「五郎治殿御始末」の続編だったのね。

各編、落語の「マクラ+本題+サゲ」のような3部構成で、マクラとサゲは、浅田さん自身の目線で語っている。
「嘘」と「真実」の調和にこだわる浅田さんの歴史小説に対する熱い情熱が籠っている。
また、明治生まれの曽祖父、祖父と受け継がれ聞いた自身の体験がおぼろげながら土台となっている。

260年という長い時間をかけて堅固に制度化された江戸の武家社会が崩れていく様子が共通テーマにあるようだ。
その最たるものは「お家」制度だったのかな。
家督を継がない次男、三男たちの遣りどころのなかった気持ちが堰を切ったように噴出している(「御鷹狩」)。
正体の見えない「お家」が社会の基盤だったのは、徳川の堅い甲羅の姿だったのかもしれない。

関連して今個人的に関心事の「御徒士」の様子もうかがい知ることができた。
御徒士は、今の世なら会社のサラリーマンという位置づけだろうか。
職種も色々ありそうで、今なら、色んな部署という感じかな。
禄は70俵5人扶持が一律に決まっていたようだ。

明治近代国家への橋渡しとして江戸人の精神がどう踏ん張ったか、またどう乗り越えようとしたか、
切ないながらも受けて継いで記憶に残しておきたい 読者に余韻を残す「歴史小説」だった。

月のしずく (文春文庫)
浅田 次郎
文藝春秋
2000-08-04



不器用な人ほど人間的なやさしさ、思いやりが深い。
一方で、器用そうでも 裏で不器用なくらい人には見せない ものすごい努力の人がいる。
幸せの基準は自分自身の中にあるもの、といった人生が見える短編7つだった。

「痛みも悩みもすべて微笑みながら、胸の中に抱きとろうとする」
(聖夜の肖像)

「だって六歳のとき私を捨てたあなたが、結果的に私を育て、私の人格を作り、すばらしい幸福を私にもたらしたことになるんですから」
(ピエタ)

人生のひねりを感じさせるね。

「ふくちゃんのジャック・ナイフ」
「ピエタ」

の2つが良かった。




意外な展開だった。
期待を裏切られた。ある意味、上回るような形で。

当初思った マムシの権左が悪漢3人を使って大きな企みをするという予想は外れた。
本音で生きてきた権左は、彼らに本音で彼ら自身の人生を全うさせるのが願望だったようだ。
独自の人間観を持った人が余技で楽しむ感じ。
人間をずっと追ってきた刑事だからこそできる見たい風景だったのかも。

軍曹がヒデさんに言う科白は、新たな道を進むための心構えとして響く。

「俺は常に、義のために行動してきた。義を裁く法などあってたまるか」

「俺はキサマの苦悩など知りはしない。だが、これだけは言っておく。
どんなことをしてこようと、俺の人生は俺の誇りだ。
キサマも、キサマ自身の人生を誇らしく思え」

余談ながら、この人生(つまり、「生きる」)と「誇り」の関係は、
分野は違うけど、大沢在昌のハードボイルドに出てくる話にも通じるなあ、と思った次第。

さて
また、今回も虚構 vs 実体を意識させるような場面が出てきた。

「テレビを見るように世の中を見てはいけない」

”書割の社会論”と同じ。
これも物語の本筋ではないけれど、リアリティを追求する浅田さんのこだわりが感じられて興味深かった。




『プリズンホテル・冬』に登場した救命救急センターの看護婦長"血まみれのマリア"が現れた。
天命(いや自分がルールである憲法か)に従って降臨。
あの男っぷり(いや女性なので「人間っぷり」か?)がいい。
すぱっとした精神と行動がなんとも魅力的だ。
ピスケンが魂を抜かれてしまうのもうなずける。

また別な話だが、悪漢3人が悪企みをする展開で、コンピュータを操作するシーンが意外と多い。
ネットワークを使ったハッキング犯罪など、当時のITインフラの動向が見える「小道具」は30年前の作品だけど、古さを感じなかった。
(ということは、IT技術の根底のところはあまり変わっていないということか)
あの時代においてトレンドを掴んでいる浅田さんの社会の観察力、守備範囲の広さに改めて感心した。
(自衛隊、警察、やくざ社会だけじゃない。器用な人なんだろうな)

ヒデさんの大学時代の仲間で、アメリカで先端のシステムエンジニアリングを開発していた元銀行マンが悪だくみに加わる。
彼の心情が、また,粘兇犬申餝笋竜構と実体のテーマを思い起こした。

「なんだかバカバカしくなった。機械と、実体もないデータを信仰している自分の人生が。
 ふと、銀行員というのは、ヨレヨレのズボンにサスペンダーをつけて、手甲をはめて、サンバイザーを冠って、
 駅馬車の時間を気にしながら仕事をするものじゃないだろうか、なんて考えたんだ。
 そう思ったとたん、俺はIBMのワークステーションを肩にかついで、ビルの中庭に投げ捨てたんだ」

過去と未来の間にある時代の流れのせめぎ合いの中で、バカになって立ち向かうところに、人間性は垣間見えてくる。

へ続く。




三人の悪漢をまとめる元刑事”マムシの権左”の企みは何?
遠大な計画がありそう。

浅田さん初期の1992年作品。
創作の舞台裏を想像してみる。 

物語を構想する最初の着眼点がユニークで面白そう。
肚、腕、頭とそれぞれに際立った一芸を持つ悪漢を登場させ、三人が力を合わせると、
何かとんでもないことができそうだけど、一体それは何か?
またそれはどこまでやり切れるのか?

シンプルだけど骨太な作りは「大人の童話」のよう。
つまり、一時の流行で終わらず、世に残り続ける普遍性を持っている感じ。
それが大人特有の世界で当てはまるので、「大人の童話」となる。

文学という虚構の世界に真の血肉を注入しようとするところが浅田さんの目指す道なのかな。
作中「書割」ということばが象徴的に引用されているところからもそう感じる。

「自分が今まで、それこそが世界だと信じていた物のすべては、虚しい書割なのである。
ビルも街路も公園も、それにまつわるあらゆる権威も機能も、いやそれらを裏から支えるだけの支柱に過ぎなかった。
そして自分も、ピスケンも軍曹も、その書割の前にいてはならぬ突出した人物として、舞台から体よく抹殺されたのだ」

さあ、実体は虚構にどう復讐していくのか。

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  膺肢鐚