リーグ戦はどうなる☆戦国時代突入か、はたまた徳川安定時代に入るのか・・・
2024.11.05(15:47)
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11月のリーグ戦南陽大会はただでは済まなくなりそな予感してました
空身で街中歩いちゃだめよお兄さん、熊鈴持ちなはれ🐻
ほら熊男いや、リーグ戦きっての優男三人衆の顔見世興行でございます
なんでやねん、いつも定位置にお立ちになる方がおまへんねん、なんでやろ。
ま、まずは入賞者をご紹介します。11月の南陽大会は
Aリーグ
優勝 佐藤雅喜九段 山形市 中
準優勝 滝田真人八段 福島市 右
三位 橋本浩九段 南陽市 左
Bリーグ
優勝 斯波義裕六段 山形市 左
準優勝 小松田敏郎六段 長井市
三位 加藤泰浩七段 高畠町 右
Cリーグ
優勝 仲田政弘初段 川西町 中
準優勝 結城経治五段 高畠町 左
三位 高山正宏三段 白鷹町 右
高齢社会のリーグ戦にかわいいおちびさん棋士3名が参入しました。
山形市の囲碁教室で学ぶ子供さんです。太田栞菜、帆香ちゃん姉妹と遠藤瑠以君です。
姉妹は太田尚吾九段のお子さんで瑠以君は帆香ちゃんの同級生です。碁とは別なところで子供の世界が進行中です。
仲良しなんだねえ。おじさま方にもこんな時代がありました。
11月4日、南陽大会はいつもの えくぼプラザ
今日はいい天気になりました。参加者のみなさんにはいつも好天あれと祈っています。
南陽囲碁会会長、橋本のご挨拶
11月大会は過去には南陽菊まつり県南大会として行っておりましたが、数年前から菊まつり県南囲碁リーグ戦に編入して新たなスタートを切りました。今回は太田尚吾さん親子が参加される月であり子供さんも3名参加されました。県外並びに県内遠方からも参加いただき44名の大会となりました。試合は3リーグ編成です。
開始
Aリーグ初戦で当たった 太田尚吾九段 対 佐藤雅喜九段戦
太田九段は初戦で星を落としました。佐藤氏には過去に1敗しており2連敗です。そして今回は1勝4敗と初めて大きく負け越しました。太田九段は通算では4戦で16勝4敗、勝率8割と圧倒的な成績を残しています。初戦以来どこまでポイントが伸びるものか試したいと本人は言っており、周囲も大変興味深く見守っていたものでした。でも実際本人は毎試合全敗覚悟で臨んでいたようでプレッシャーは大きかったことでしょう。6月には東北六県大会に目標を置き結果として山形県準優勝、個人大将戦優勝と大きな仕事を成し遂げました。そしてそれからは勝ち進めばおのずと増してゆくリーグ戦の厳然たる壁が待ち受けます。ここからが真の勝負師だべした。帝王の名に恥じぬよう新たな高峰を目指していただきましょう。
「リーグ戦はただでは済まなくなってきた」と冒頭に書いたのはこういう背景があるからでした。優勝は帝王太田尚吾の指定席でしたが、ナンバー2の常勝大老・狩野九段ともども1勝4敗と大幅に負け越すことになりました。
今後Aリーグはどのような展開になるでしょう。大きな秩序が一度揺らいだのは間違いありません。今後も帝王太田、狩野の天下が乱れて血で血を洗う下剋上戦国時代に突入するのか、はたまた二強多弱の一見安定平和に見える閉塞徳川時代に生きてゆくのか、あなたならどちらを選びますか・・・・🙈
Aリーグ 滝田八段 対 橋本九段
前回のリベンジを期す滝田氏が惜しくも試合巧者橋本氏の軍門に下りました。でも両者は4勝1敗と気分を戻し親子で傷をなめ合うことになりました。若さみなぎる滝田氏はもう前進前進あるのみで楽しい人生が待っているわあね。初乗り車で高速をルンルン気分で運転してきただろうしなあ。方やただでは起きない橋本爺さんは病身を克服したちまち入賞を果たしおりました。ついこの前まで碁石持つ気分になれんと世捨て人みたいになっておました御仁ですよ。一転して若けえ者に世の厳しさ見せたると変身しおるんだからわからんばい。座右の銘、「楽しくなければ人生でない」を地で行く方なんじゃよ。
Aリーグ 手ごたえよし、いい感じの滝田八段が優勝者佐藤九段を破る
Aリーグ 小野九段 対 梅津八段
県南で黒子に徹する?梅津氏 そんなに遠くから見てないで橋本、船山の二大弾頭に加わってくれれば県南B1爆撃群が実現するだあね。☢ そして隣の悪たれ国やっつけてほしい、今日も多弾砲らしきものびゃんびゃん日本海に飛ばしおったぞ。日本人よ、頭隠して尻隠さずに国政ばかりに逃げとったら手遅れになるの分らんか。中国はこの前は日本の妨害に会い領空侵犯した、と見え透いた嘘をつきおったわね(怒り通り越して笑いも出ない)
Aリーグ 小松田九段 対 佐藤七段
南陽の佐藤七段は狩野、小松田九段を倒したのは立派な銀星。こうなったらもう一皮むいて八段に昇段せにゃならんのに、大会参加が少なくてみすみすチャンスを逃しているわけ。遊び人、雲爺と違って彼は仕事一筋人間じゃけんのう。
Aリーグ 太田(重)九段 対 大滝八段
悩める太田九段、努力の太田九段、たまには肩の力抜いてあっけらかんで気を落ち着けるのもいいんでない。帝王は自然体で来られるのが一番おっかないって言っとるで。
Aリーグ 島津七段 対 太田(重)九段
島津さん七段に昇段してから大会に参加されていません。欲得を離れ泰然自若の暮らしをされておったんでしょうか。6月に全勝で昇段されてからはお坊さん道にでも入られてたんでしょうか。今回は運悪く前回の逆の結果となりました。こりゃ太田氏と対照的ですわね。
Aリーグ 狩野九段 対 太田(尚)九段
いや~、狩野氏、太田氏からのご勝利おめでとうございます。ナンバーワン、ツーの対決をようやく制しました。前日まで地元岩手で連戦をこなしてこられたとの由、体があったかかったんでしょうな。ようございました。大谷君の公開応援にはお顔見えなかったですね。なんたって奥州市、奥州市なんだからすごいこっちゃです。
Aリーグ 狩野九段 対 小松田九段
小松田さんへ。小松田さんは狩野さんがおられるからリーグ戦に来ていただけたんです。狩野さんは新潟の方と接触があり、小松田情報を得て、それを雲爺に振ってこられました。村上に小松田氏がおられることを教えてくれたのです。村上は以前雲爺のエリア拡張プランに入ってました。そして当時はその開拓を進め、実際坂町の方にプッシュしました。でもその後状況が良くなく村上撤退を決めました。その時坂町を通り越して村上本陣まで攻め込んでいたら早くから展望が開けていましたね。なんせ長谷川さんや庄司さんという積極的かつ協力的な方がおられましたから。今回は狩野大明神に感謝です。だのに小松田さん、勝ち星献上とは参りませなんだ。
太田、遠藤ファミリーおそろいでお昼ご飯です。ようござってくださいました。
以前福島市の宮腰さんが教室の生徒さんを一緒に連れてきてくださいました。その時はやはり小学三年生ぐらいの山上君がおり、彼はたちどころに優勝してしまいました。今は高校生ぐらいになっているのかなあ。大変な強者になっておるとのことで、今度来てもらおうかな。
こちら桃色異色の事務局ファミリー
野郎世界の囲碁界で女性スタッフが仕切るなんてどっかあります?
うちの事務局長の周りには知らんうちにガールが取り巻くんですよ。これ有弘事務局長だからなせる技なんです。色道でも幽玄の間でもない誰もがまねできない摩訶不思議な世界でございます。
一息入れましょう、赤湯のメインストリート
Bリーグ 庄司五段 対 優勝の斯波六段
庄司五段は4連勝と全勝目前も5戦目で斯波さんに敗れ斯波さんの逆転優勝となりました。
斯波さんは初優勝なんです。えっ、そんなことあるっ、と驚きました。今までの入賞は2、3位が多かったようでした。
Bリーグ 斯波六段 対 太田四段
山形駅の霞城セントラルビルの囲碁教室では斯波さんも講師をされておるようです。太田さん、師匠の顔を立てる心得も持ち合わせておるみたいな。
Bリーグ 石上七段 対 小松田六段
Bリーグ 加藤七段 対 庄司五段
拝見してました。加藤さん優勢局面で、庄司さんの深慮遠謀な仕掛けが決まったみたいでした。昨日のNHKトーナメントでは井山九段の構想が見事で一瞬にして相手の大石を取ってしまいました。井山が一力棋聖に挑戦決定しました。一力は絶好調ですが、「もう長老と言われかねなくなっております」なんて述べていた井山の方に同じ長老っぽくなってきた雲爺としては頑張ってもらいたい。
Bリーグ 松永六段 対 佐藤七段
佐藤七段から大会前日に試合後は車中泊されるとのメールが入りました。そんなら赤湯町中でいっぱい飲みましょかと返しました。でも下戸の佐藤さんは断られました。いろんな角度から車中泊を研究されておられるんだとのこと。なるほど、研究とはいろんな分野があるものと感心しました。雲爺はテレビで外国人学者が日本のスナックを人類文化の観点で研究対象にしているのを見ました。それで学者は結局奥が深くて結論が出ないと言ってました。そりゃそうじゃろ、日本人というものは論理先行の世界人ごときには到底理解できない幽玄の間があることが。自然に根差した日本の神文化はまさに幽玄の間なのだ。空と砂漠の一神教などにゃ所詮わかりゃんわい。
翌日佐藤さんは長井の古代の丘、環状列石を見て来たとのこと。そうよ、雲爺も見たいと思っていたけどいつしか忘れていた所なのでした。佐藤氏の囲碁研究も奥深いです。
Bリーグ 石上七段 対 高橋六段
Bリーグ 江川七段 対 太田四段
この試合に太田四段の充実ぶりを見たような気がしました。ベテランの江川氏に臆することなく最後まで着実に打ち貫いていたと思います。江川さんも感じておられたのではないでしょうか。太田さん、試合に出るたびに力をつけているのは間違いないです。
Bリーグ 小松四段 対 武藤七段
Bリーグ 佐藤六段 対 江川七段
Bリーグ 斎藤六段 対 太田四段
INTERMISSION
休憩
おびただしい石を置いて 地雷ごっこは楽しい
Cリーグ 本田五段 対 仲田初段
仲田さん全勝で優勝。通算7度目。
しかしこの碁は実に面白かったというか恐ろしやというか。
仲田氏の大石が詰碁を誤って頓死しました。その大石に付随した本田さんの大地がさらに広がっているのを見て、こりゃダメだとその場を去りました。でもその後戻ってみると仲田氏には中央から上辺にかけてさらに上回る大地が出来ていました。恐れずに突き進む仲田氏の戦闘意欲に脱帽です。
Cリーグ 柳澤五段 対 遠藤瑠以初段
遠藤くんは着手が早く読みと決断に優れています。着手が早いのは頭脳の回転が速いことで勝負には欠かせない要素と思います。鈍頭で長考派の雲爺とは違いますからね。状況把握力があり非勢を察知しては後の処置も的確でした。これから必要とするものはやはり実戦経験を積むことでしょう。
それにしてもリーグを減らすと五段が初段とやることになるんだよね。上から下まで反発し合いながらも混在してゆく民主主義国家の生きようみたいです。
Cリーグ 太田帆香1級 対 結城五段
帆香ちゃん泣いちゃだめよ
子供さんが鍛えねばならない心得として逃せないのが、相手のお面、お顔の怖さに負けないこと。相手はおじいさん。おじいさんはとうに人間を卒業しておりますから、そこは心で泣いてもぐっと我慢して戦闘意欲を失わないことです。雲爺だってもう例に漏れませんからこれを武器にしないよう留意します。
Cリーグ 高山三段 対 工藤三段
高山さん待ちに待った4勝、久方ぶりに勝ち得ましたね。高山氏が何よりも欲しかったのはあと1勝、この1勝がいかに遠いものであったことか。親愛なるぽかじいが久しぶりに入賞して雲爺ことのほかうれしいです。ぽか爺の打ち方はとても厳しいけど、心は優しすぎる稀有な方なんだよね。雲爺なんかあと1勝もぎ取るのに命さえ削って行く方だからね。
Cリーグ 横澤三段 対 樟山四段
Cリーグ 横山五段 対 結城五段
Cリーグ 広瀬五段 対 渋谷六段
Cリーグ 金子二段 対 平吹3級
平吹さん前回まで好成績でしたが今回は運もあったんでしょう、思うような結果にならなかったようです。
Cリーグ 横澤三段 対 片平3級
片平さん前回までの戦績を勘案して点数を通常以上にアップして臨みましたが、運もあったんでしょう、思うような結果が出ませんでした。
Aリーグ最後の取り組みに周囲が見入っています
えくぼプラザに夜が来て恒例のイルミネーションのライトアップが始まりました。
◎12月大会は12月1日(日)白鷹大会です。
11月6日
県南囲碁会事務局 平吹
山形県・県南囲碁リーグ戦
川西町の常念寺の境内にお地蔵様のやさしいお顔が、いいでしょう
神亀五年(728)創建の古刹、常念寺。伊達政宗が仙台に移り、その後徳川家康から越後高田城の普請を命ぜられ、その帰途にここ川西町の常念寺を宿所としました。ふるさと置賜を懐かしく思い歌を残しました。
故郷は夢にたにさへ疎からす現になとかめくり来にけり
10月の長井大会において
喜多方市の庄司惣一郎四段が五段に昇段されました。
実力者庄司さんは現在はすでに六段のレベルで活躍中です。
又、長井市の平吹登4級も3級に昇級しました。同じ3級の米沢市の片平正幸さんも平吹さんと同様、ポイントを大幅に伸ばしており先輩方に肉薄しております。
11月南陽大会では最下リーグに新しく子供さん2名が参加されます。若さとベテランの両パワーが新たな変化を生み出すことでしょう。おじさま方心しましょう。
【解説はたかはた伊達の会、伊達な旅2024の資料よりお借りしました】
山形県・県南囲碁リーグ戦
上山城から見た上山の歴史・④古道金山越探索
2024.10.22(17:51)
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上山城から見た上山の歴史・④古道金山越探索
上山市の東側には奥羽山脈が走っています。そこには金山峠がありその峠に向かって「金山越」と言われる古道が伸びています。このたび上山市教育委員会では史跡保全活動を実施され雲爺はそれに参加してきました。金山越は江戸時代以前から存在する古い山道で上山市では定期的に作業に当たられています。パンフレットではおおよその道を示します。
【画像は上山市教育委員会のパンフレットです】
雲爺は昔上山市の金山峠に向かう車道を歩いたことがあります。その時はこれが昔の羽州街道であると思っていましたが、最近ここではなくそのそばを本物の羽州街道金山越が伸びていることを知りました。これではどうしてもそこを歩かねばならぬと思い至りました。
右側の山道車道は明治期に作られ戦後に車が通れるように改修されています。
【画像は上山市教育委員会より】
10月19日 上山市役所に集まりました
参加者は地元上山の方が多いんでしょうね。もちろん爺さんが多いですが若い方もそれなりに多いです。向こうの山は上山のシンボル、虚空蔵山です。天気は良好、でも午後からは崩そう。
楢下宿の脇本陣、大黒屋に立ち寄る
ここで昼食をいただきます。地元のお母さんが自慢の料理を提供してくださるとのこと。
金山峠に着きました
ここから金山越の山道に降りて下山しながらゴミや木の障害物などを取り除くことになります。
雲爺は訳があって一行とは別に逆行動になりました。出発点に降りてきてここから一人で歩いて登ります。ここは金山宿といって昔は簡易な宿場でした。入口に廃屋となった人家が残っているのですが、この家も江戸期にはお宿だったものでしょうか。このような家が数件ありますがここもすでに廃屋同然です。離村という限界集落の次の姿がここにありました。ここに立っていれば誰でもが心がかきむしられ、悲しさとともに今後の日本の縮図に引き込まれてゆくような感覚になります。こういう体験は貴重です、一度行ってみてください。これからこの道をまっすぐ歩いてゆきます。
斜面を伸びる山道
この辺は道は少し狭くなっていますが、おおむね金山越は道幅は広くなっています。この金山越はいやしくも江戸期に参勤交代や湯殿山参詣を始め多くの方が行き来した羽州街道です。宮城県側の奥州街道にアクセスする重要な街道でもありました。
山道に沿って小さな川が流れています。ここを渡るのですが今は丸太を渡して橋代わり。
平成26年に山形県南部が大雨で洪水が起きました。その時この金山地区も被災し街道も壊れたようでした。それ以来上山市では毎年復旧保全活動を行っています。この金山越は「史跡 羽州街道楢下宿・金山越」として平成9年に国の史跡に指定されました。
江戸時代に参勤交代が始まるとこの金山越の整備が行われました。地元の上山藩はもとよりでしょうが、一番改修に力を入れたのが秋田の久保田藩だったと言われています。遠い久保田藩がなぜと思いますね。工事は道幅の拡張が行われたのでしょうし、路肩の弱いところは玉石で補強されています。それにしても大行列がこんな奥深い山道を行くなんて今ではなかなか考えられないです。
そうそう、大事なこと忘れていました。金山峠は標高が低くこの個所に道路を通したものと思われます。したがって金山越の道も傾斜が緩やかですから上り下りはおおむね楽だったはずです。参勤交代も上手に動けたと思われます、道幅も広いしね。ただ最後の七曲がりという所だけは急ですが。そして位置的には沢沿いに道を通しています。これは水の便宜を考えての事だったと思います、頭いいですね。でも一番大変なことは雪があるうちはほとんどが不通になるということです。これだけはどうしようもありません。それにしても人間という者は動物と同様に偉いですね。時代や状況に沿ってたくましく生きてきたのですから。
人の往来に加えて物の運搬も人力や動物を使って凌いできました。一方海の向こうの西洋では産業革命が起き蒸気機関が発明されて新たな動力の恩恵に浴すようになりました。これ絶対に大きいですよね、我々は現在自動車抜きでは何も出来なくなっています。動力様様です。
ここに昔茶屋があったようです
山形県の女性の方でこの金山越をユーチューブに挙げていました。同じような方がいるものだなあ。その動画では道に草がけっこう生えていましたが今回はきれいでした。ボランティアの方が除草をしてくれているのでしょうか、ありがたいことです。
お殿様はこんな所でも駕籠にお乗りなんでしょうかね。駕籠というものは楽なようでも実際は不自由で気分も悪くなるだろうし牢屋同然なんじゃないかなあ。殿様が牢屋・・・実際は江戸まで獄門の日々だったりして。
強烈な縛りの刑
峠に近づき水量は少なくなってきています
強烈な爪痕
勿論、熊さんの仕業です。今時熊さんは町中だけが棲み家なのではありません。杉の木の皮をはがし何を食べたものなのか。でっかいずうたいで何ほども食べないでおれんでしょうに。二井宿の峠でも同じところを見ています。熊鈴は丸必かも。
杉の美林
まっすぐ伸びる見事な姿に枝一つありません。枝降ろしがなされ日光が入り生育が良くなります。市役所の方に聞いたら雪で枝折れするのではなく枝落としによるものらしいです。いったいどなたが作業されているのでしょう。地元の方なら金山宿は離村しているし、他から来られているのでしょうね。こんなに立派な杉林、日本の林業に幸あれと願うばかりです。
ここからは金山越の難所「七曲がり」に差し掛かりました。
右に曲がり
左に曲がり
ようやく向こうに車道のガードレールが見えてきました、終点です。
苦労してようやくたどり着いた旅人は道中の無事に感謝して金山不動尊にお参りをしました
10月23日
県南囲碁会事務局 平吹
山形県・県南囲碁リーグ戦
上山城から眺めた上山の歴史・③春雨庵、武家屋敷、明新館、楢下宿
2024.10.21(17:21)
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八月からスタートした上山城シリーズは3回目を迎えました。昨年雲爺の旧友である茨城県の高見の翁さんと上山城へ行きましたが、早いものであれから1年以上月日が経過しています。今回も自分なりに上山藩の歴史をピックアップしてみました。
江戸期に取り壊された城の旧本丸跡に建てられた月岡神社
上山藩藤井松平家七代の信通公が上山城主に転封となり、城内本丸内に東照宮を建立し併せて祖先の利長公、信一公の神霊を合祀し、徳川の恩義を追慕し、祖先の遺徳を仰ぎ藩士一同厚く崇敬しました。明治期になり廃藩の際東照宮は旧藩主の上京とともに東京の松平氏邸に奉還され、藩祖の神霊は上山市湯町の日枝神社に奉還されます。その後産土の守護神として祈願すべきとの議が起こり、新たに神社の建設が行われ月岡神社が誕生しました。
【解説はMY神社のホームページをお借りしました】
寛永六年(1629)京都大徳寺の僧、沢庵が紫衣事件で上山藩に流されました。上山城主、土岐頼行は沢庵に帰依して教導を仰ぎ、上山藩政史上顕著な治蹟を挙げ領民より名君と慕われました。沢庵は頼行に「上中下三字説」を説きました。
「上は君であり、下は民であり、中はその間を取り持つ臣の意である。上の地を逆さにすれば下の字になる。下の字を逆さにすれば上の字になる。口の字を貫通すると中の字になる。口は言葉であり言論であるから、国を治めるものと治められる者とは言論が自由に行き来しないといけない」と為政者としての心構えを上中下の三字を巧みに使って説いたのです。これは現代の国家は言うに及ばずあらゆる組織にも通じることです。この時代には珍しい先進的な思想家でもありました。
【画像、解説は上山城資料館に基づいています】
春雨庵より上山城の旧城山、虚空山が望める
沢庵和尚の庵、春雨庵
訪ねた時は残念ながら屋根の葺き替え中でした。ここはずいぶん前に一度見学しているように思います。
伝統的な習わしとして紫色の法衣や袈裟は朝廷が下賜することが通例でしたが、慶長20年に江戸幕府が「禁中並公家諸法度」を発布しこれを禁じました。これに対し沢庵は反対運動を起こしたことで幕府が処罰を与え上山藩に流罪としました。藩主の頼行は沢庵に厚く帰依し厚遇しました。春雨庵に3年間起居した後、3代将軍家光が沢庵に帰依するに及び江戸に召喚されます。
武家屋敷のある仲丁通り
上山城が天文四年(1535)に築かれるとその西、北部一帯は武家屋敷となり、この仲丁通りには藩の要職にあった家臣が居住しました。現在は四屋敷が残っています。
森本家
森本家は代々藩主随伴役が主な役職で藩主の移動に伴って江戸、上山、大阪と転勤し、上山には宝永三年(1706)に定住しているが、現屋敷には文久年間(1861~3)に引っ越している。九代は長柄奉行で御側目も兼ね、十一代は藩校明新館の助読や藩主の訓育掛を務めるなど、漢学の造詣も深く文筆にも長じていた。現当主は十五代目。
三輪家
三輪家は豊前国中津藩奥平氏に仕えていた。寛政八年(1796)に藤井松平氏の家臣となり江戸藩邸上屋敷に勤務、後に側用人準参政となった。上山三代藩主に仕え側用人と勝手方を兼ね、後に参政となり藩政に直接参画した重鎮である。藩校明新館の教師としても勤務している。現在の当主は十五代目。
山田家
先祖は常陸の国茨城群笠間の出身で元禄十年(1697)ごろには藤井松平家の家臣として現屋敷に居住している。代々惣領席馬廻席のほか、寺社、町郡、勘定などの各奉行、者頭、大目付を務め、特に藩主の御側務めや随伴役が多く、江戸、大阪あるいは上山と勤務し国元との間を頻繁に行き来している。五代目は弓道の師範となり教導方、藩校明新館の都講にも昇進している。戊辰戦争にも出役し藩政改革の時には官制上山藩民務局勧農司事を務めた。現在当主は五代目。
曽我部家
初代は宝永五年(1708)藤井松平氏七代信通の家臣となり宗旨奉行や馬廻役を務める。二代目は役頭を務め、三代目は大目付となり昇進し代々要職についている。曽我部家は初代からこの地に居住した。
【解説は関連資料よりお借りしています】
藩校明新館跡
武家屋敷の近くに藩校明新館がありました。
文化六年(1809)上山藩七代藩主、松平信行によって開かれ、当初は広福寺の境内に学問所を設け天輔館と称しました。公私には当時の高畑藩の藩主織田家の家臣武田孫兵衛(鳥海山人)を召喚し、伊藤仁斎、荻生徂徠なども藩主の教育に当たり、その後米沢藩の藩士が引き継ぎ、さらに上山藩士などが教鞭をとっています。天保11年(1840)にさらなる学問所の充実を図り現在の地に移りました。
【解説はホームページ dewatabiよりお借りしました】
立地図、現地看板より
楢下宿駅・現地看板より
上山の町中南東に進むと宮城県の県境を迎えます。その途中に羽州街道の楢下宿なる宿駅がありました。楢下は藩政時代、青森、久保田、山形の諸大名十三藩の参勤交代の宿駅として本陣・脇本陣・番所・問屋・旅籠屋・茶屋などを備えて賑わう羽州街道の要衝でした。楢下の先には県境の金山峠が控えており、楢下宿はあらゆる意味で重要な宿駅でした。
街道沿いに面影を残す宿が佇む
左手に旅籠屋の武田家
楢下宿にはかつて塩屋斎藤家などの本陣の他秋田屋粟野家、庄内屋粟野家、滝沢屋丹野家、宮地屋佐藤家、鈴木嘉内家の脇本陣、問屋、旅籠屋、番所などがありましたが多くは失われ、本陣庄屋家など十棟ほどが古い町並みの面影をとどめています。
【楢下宿の解説は上山市教育委員会のパンフレットに基づいています】
武田家の内部
囲炉裏の残る勝手。いつの頃まで生活が行われていたでしょう、雲爺の生家も農家でしたが家の構成は大体同じでした。むしろ敷きはどうでしょう、大げさだわね。土間もありました。
楢下宿の中心部、下町
昔はここに本陣、脇本陣が並んで建っていました。一部が残って見えています。
観光用に整備された脇本陣、滝沢屋
現在は元の位置から移されたところにあり、当時の遺品等が数多く展示されており本陣などの姿がより分かる建物です。専属ガイドさんがおり詳しい話をしていただけます。
滝沢屋の内部、専属ガイドさんと雲爺の愚息
貴重な遺品の説明がありましたが、湯沸かし鉄瓶については仰天するほど何と高価な代物であることか、それにまつわるお話は面白いものでした。
本陣から見つかった各大名の関札が両脇に並べられています
あれもこれも宝物と言えそうなものが数多くありますからぜひ一度見学してみてはいかがでしょう。遺品の多さや建築物の保存状態の良さなどでは全国的にも少なく貴重で楢下宿は国の史跡に指定されています。
納戸、中間、上段などの座敷は雲爺の生家も同じです
茅葺屋根は窓を開ければ風通しが良く夏は涼しいです。そのかわり冬は涼しいを通り越していたでしたかね。
脇本陣、大黒屋
ここでは地元上山市のイベントなどではよく利用されているところのようです。今日は楢下の先にある古道の清掃イベントに参加したのですがここは昼食の場になります。地元のお母さま方の手作り料理をいただくことになっています。
大黒屋の内部
本陣、旅籠などには馬小屋があります。江戸時代では問屋の役目として馬は各種運搬に利用されていたわけでしょう。
明治期に石で作られた新橋
10月22日
県南囲碁会事務局 平吹
山形県・県南囲碁リーグ戦
喜多方秋季大会で県南代表の太田重人九段がAリーグ歴代初制覇
2024.10.21(13:40)
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秋の会津磐梯山
10月20日に喜多方秋季大会が開催されました。
Aクラスで山形県県南地区代表、山形市の太田重人九段が初優勝を果たしました。
これは県南側としましては待ちに待った快挙です。何を隠そう県南勢はAクラスは平成28年の初参加以来一度も優勝を記録していません。まして秋季以外のすべての大会においてもAクラス優勝はないのです。我が県南精鋭勢は過去に幾多の挑戦を重ねてきましたがその都度喜多方、会津地区の厚い壁に跳ね返されてきました。それがようやく太田九段が打ち破ってくれました。大きな穴を開けてくれたことに感謝します。
今大会の参加者はAクラス10名,Bクラス10名、Cクラス12名、Dクラス10名、計42名。
県南勢は今回はメンバーが集まらず太田重人九段のみの参加となりました。孤軍奮闘での優勝ですからまさに快挙です。
本人曰く、2局は相手の時間切れで命拾いをしたので自慢出来ないとのことですが、実力のなせる結果ですから堂々の優勝です。次大会は我々は一丸となって挑戦せねばなりません。
◎併せてご報告
10月14日、二回目となる新潟県村上支部での県南との親善試合では団体、個人ともで村上支部が勝利しました。県南では船山九段、石上七段、加藤、小松、平吹四段が参加しました。個人優勝は村上支部の方でした。
10月21日
県南囲碁会事務局 平吹