戦国時代東北最大の石垣の城 柏木城跡を訪ねる
2022.10.26(17:03)
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8月11日、お盆前の夏盛りの日に喜多方市まで車で行ってみた
8月3、4日に山形県の南部に集中豪雨があり米沢市と喜多方市の間の国道121号線が決壊し不通になった。
そこで雲爺は山岳道路のスカイバレー経由で喜多方市まで行けるものか、その確認のために出かけたのだった。
9月以降の県南囲碁リーグ戦に福島県の方々がどうすれば参加していただけるものか、その辺の事情が絡んでいた。
ここは裏磐梯の交差点。向こうに磐梯山が見える。
スカイバレーはここまで道路に異常は見つからない。森の中を快適なドライブが楽しめた。
喜多方市へ向かう大塩街道を進んでいたら思わぬものを目にした。山城、柏木城跡の看板である。
山城に興味を持つ雲爺が福島県の山城に初めて接したのが柏木城である。よし、帰りに探索してやろうと思い、急に楽しさと興味が沸き上がってきた。
道路地図はあるが現地に入るとそんなものでは位置関係がとんと呑み込めない。大久保部落という所に車を止めて入り口を探す。早くも戦国時代の場所に踏み込んだという雰囲気を感じ壮大な過去現在の時間と空間に浸ってみた。
小さな案内看板と感を頼りに民家の門の脇にある登り口を見つけた。
心臓に疾患を持つ身じゃけん、後はゆっくり、のんびり歩めばいいだけじゃないか・・・楽勝やなんて。
おおっ、年季の入った大木に心が癒されるわなあ。
夏が来~れば思い出す~ ♪
熱気の中に茂盛る草木が目を覆う、遠い青空と一本の杣道、
蝉の声はすれども人気はまるで無い
一人は自由でいいけど寂しいものでもあるなあ・・・・・と、と、と 突然看板に出くわす 🐻 🐼
こりゃいかんぜ!思わず我に返る。町中でもクマさん、タヌキさんに出くわす時代なのだ。ここで出会わないはずがないではないか。ここでしばし考えを整理し、進むか、戻るか・・・・結論は木の枝を見つけて握り、ドキドキしながらも慎重に進むことだった。山城好きが撤退などありえないのじゃ。
さあ着きました、ここが杉の林に覆われた柏木城である。所要時間は20分ぐらい。
これが縄張り図と称されるやつで、城や地形を詳細に記したものである。
概説すると右側の点線が歩いてきた道で今は現在地にいるとしましょう。ここは曲輪と称して殿様や兵が居る平たい場所。主郭または天守または一の丸と称される曲輪①は城の中心部に当たる。ここではA、B、Cと3つのブロックに分かれ主郭の周りには2、3の曲輪がある。曲輪の周りは土を削って傾斜を作り敵からの攻撃を防ぐ。柏木城は左の北側に幾重もの帯曲輪が作られている。これは主敵の伊達氏を意識したものである。
曲輪3の入り口には虎口と称する表口が置かれた。このような巨石が残されている。
虎口を内側から見たところ。数多くの石組が残っている。
柏木城は東北一の規模を誇る石垣の城であった。虎口は敵の襲来を防ぐため鍵型に曲げている。枡形虎口と言う。
表口の枡形虎口を通ると曲輪3に来る。平場の左手の岸を上がれば主郭の区画Cである。時は午後の3時頃、あたりは木陰に覆われて暗いから不気味で正直怖い、クマさんかお化けが出そうだぜえ~ 🐹 💀
曲輪3にある「弧状石積み」
ここは武器庫(矢倉)、見張り場所(櫓)、蔵、宗教施設、馬屋など様々な意見が出される謎の空間だった。
★大手道土塁の石積み(このカットには写っていないが移っていないが向こうの岸の崖の部分に施されていたものか、
これは時間が無く確認出来なかった)
大手道の南土塁に配された石積みは平成27年の発掘調査で初確認された。虎口1から虎口2に至る道の土塁の壁として約200メートルにわたり石積みが施された。登城するものは近在に無い石造りの城構えに驚き、蘆名氏の武威を強く感じる
こととなった。
馬出曲輪群への出入り口
「馬出」とは城の出入り口の形態の一種であり出入り口の空間の平場を土塁と塀で囲んで味方の安全を確保して、土塁、塀に出入り口を設けたもの。
馬出は変化に富んで面白いところじゃよ、この先には曲輪4がある。この辺に来ると興味が深まって怖さが徐々に遠ざかっていったな。よし、もう大丈夫だ、こうなったらどんどん見てやったろやんけ! 😰 🐙
主郭遺構と石積み
虎口2から上がると主郭。主郭は区画A、B、Cと3区画されている。土塁や段差には石積みがされており主郭の威儀を整えているかのよう。
主郭の土塁には石を巧みに取り入れている
発掘調査
発掘調査 石を多用している。
主郭(曲輪1)のA区画入口
平成26年、柏木城に初めて発掘調査の手が入った。掘立小屋建物の柱跡や竪穴状遺構、石組などが検出され、中国産青磁器や国産陶磁器の破片、釘などの金属製品なども出土し大きな注目を集めた。
主郭の土塁
柏木城は蘆名氏が伊達政宗の会津侵攻を阻止するために天正12年(1584年)に築いた巨大城塞である。旧米沢街道を
押える狙いがあり三瓶大蔵を城番にして守らせた。1589年6月、政宗が摺上原の戦いで蘆名氏を滅ぼすと、ここを守備していた三瓶大蔵、穴沢俊次らは白に火をつけて退却し、伊達勢がこの城に入った時はからであったと言われている。
主郭の土塁のところどころに石が使われていた
柏木城は要所に石垣を取り入れ、曲輪間を巧みに空堀で分断する他、横堀、竪堀、土塁、石型虎口、馬出しの設置など様々な築城技術を駆使した優れた縄張りとなっている。北斜面の腰曲輪群は藪化して以降の確認は容易でないが、中枢部は高度な縄張りを堪能できる。主郭内部は石塁で囲まれた塀が建てられていた区画や門の跡があり、土塁などにも石積みが今でも散見される。往時は全周を石垣で武装していただろう。中枢部の周辺にも城域は広がりその範囲は東西1キロにも及ぶ。
政宗の脅威が蘆名氏をしてこの巨大要塞を築かしめた。せっかく築いた巨大要塞も不発に終わった。結局、戦国大名の没落と言うのは、信玄の言葉ではないが、『城によらず人心の離反によってもたらされるもの』なのだろう。
城を降りてくると天日がかんかんに当たっている草枯れ場にワラビがぞろぞろ伸びていた。
真夏にもワラビが育つもんかのうと不思議に思いながら一握り程持ち帰った。又ワラビのお浸し食せるぞ。
夕方近くでもまだ明るい。下りにはメルヘンな道をくぐる楽しみがあった。
北塩原は山の中、向こうには棚田が。うれしいですね!山国日本にはこのように心にしみ入る風景がたっぷりあるのです。
◎画像は一部グーグルマップより、解説は現地の案内看板、ブログ・春の世の夢からお借りしました。
10月26日
県南囲碁会事務局 平吹
山形県・県南囲碁リーグ戦
若き伊達政宗、吾妻を越えて檜原を攻める
2022.10.24(20:41)
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数少ない隻眼で描かれた政宗像 (東福寺霊原院蔵 ウィキペディアより)
伊達氏第17代当主、伊達政宗は永禄10年(1567年)に出羽の国米沢城で父輝宗と母最上義守の娘・義姫の嫡男として生まれた。幼名は梵天丸。生誕地は同じ米沢の館山城との学説もある。
天正5年(1577年)で元服をし、2年後の13歳で福島県の三春城主、田村清顕の愛姫を正室に迎える。
伊達郡の梁川城で輿の引継ぎが行われ、家臣の伊達成実、遠藤基信らに守られて、雪深い板谷峠を避け、小坂峠・七ヶ宿・二井宿峠を経て米沢城に入輿した。
雲爺は南陽市から車で国道113号線を白石市方面に向かい、七ヶ宿ダムから福島県の国見町へ通ずる昔の小坂街道を2回ほど通っている。この小坂街道は江戸期には参勤交代の重要な道となる。その昔心に残る歴史がここにあったことを知りこのルートが益々好きになっています。
天正9年(1581年)5月上旬、13才にして隣接する戦国大名・相馬氏との合戦で伊具郡に出陣、初陣を飾る。
この頃から輝宗の代理として田村氏や蘆名氏との外交を担当している。なんという早熟ぶりだ、天下の政宗は早くも抜きん出た存在感を発揮していた。
明日をも知れぬ戦国時代、大名の家中ではどんなことが起きていたものか・・・
天正12年(1584年)父・輝宗の隠居に伴い家督を相続し、17歳で伊達家第17代当主となる。
伊達氏と会津の蘆名氏とは婚姻関係で結ばれる関係にあった。ところが10月に蘆名氏では当主盛隆が家臣に暗殺されるという事件が起きる。政宗の父輝宗はかつて盛隆の養父の盛氏との間で政宗の弟、小次郎が成長したら養子にするという約束を交わしていた。ところが盛隆に遺児、亀王丸が出来ると、常陸の佐竹義重は蘆名家中に対して亀王丸の家督相続を支持する書状を送った。これにより小次郎の入嗣が失敗し、それが引き金になって蘆名氏との同盟は破棄へと進む。さらに伊達氏と蘆名氏の間で各々同盟関係にあった田村氏、大内氏との和睦策も成立に至らず両者は完全に敵対するようになった。
ここで鳥の目になって伊達領と蘆名領を見てみよう。
手前の平野は伊達領の米沢市街地である。目を彼方に転ずると県境の吾妻山が聳え、その彼方に磐梯山が見える。米沢の市街地には米沢城があり伊達軍はこの吾妻の峯を越えて蘆名領へ侵攻して行くことになる。この頃米沢には市街地の右手に山域が2つあり、ここには館山城と天狗山館、左手に早坂城という大型の山城が築かれていた。他にも数多くの山城が置かれており、主に南からの攻撃の防御陣営としていた。しかしこれらの強力な砦群は戦場になることはなかったようである。
備えあれば憂いなし、宝の持ち腐れ・・・・軍備と言うものは本来こういうようであってほしいものだ。しかし翻って今日の日本を取り巻く国防環境を見てみれば、まるで正反対の状況に置かれている。運を乗り継ぎ平和主義と経済発展に専念してきたことの反動に今になって直面せざるを得なくなっているのである。
中国共産党大会が終わった。民主主義を異質な思考で解釈し軍事に妄執する隣国の習近平皇帝は自分の低さが解らず逆に有頂天になる始末。こりゃもう付ける薬は無いぞなもし 💉💊
天正12年(1584年)血縁関係の深い蘆名氏を常陸の佐竹氏に取られたくないとの思いから10月に会津侵攻を決意する。
まず蘆名氏の内部を抱き込むことから蘆名の最前線基地、県境にある桧原地区の砦を襲撃する。福島県に入るには2000mの吾妻山を越えなければならない。
米沢から桧原地区に向かうには綱木街道の山道を進むのが最短である。
現在は車道が通じているが、昔は草木繁茂する険しい軍道が伸びていたであろう。山里の民家が今も静かに佇んでいる。
頂上の桧原峠付近の山道。
武具をまとった兵が険しい登りを経て頂にたどり着けば、しばしの休息の中で見る景色に我を忘れたかもしれない。
綱木からの山道は檜原湖の北端の岸辺のところに降りてきている。
明治21年に磐梯山噴火があり檜原湖が出来たが、戦国時代には山道はそのまま伸びていた。旧桧原村は湖底に沈み現在の村は湖の西岸に移っている。軍道は村を経て左下方面の大塩村に通じている。右上から右岸を延びる道路はスカイバレーである。
岩山城
裏磐梯は会津蘆名氏の黒川と米沢伊達氏と結ぶ最短の距離、国境の最前線であったため、古くからたびたび伊達の攻撃を受けた。米沢街道を見据え伊達氏に対する抑えと檜原金山統治のために蘆名氏は湖の中寄りに岩山城を築いた。
永禄7年(1564年)4月伊達の侵攻を察知した穴沢俊恒は国境の桧原峠に空堀を掘り、その下に大木を切り倒して枝を下に向けた逆茂木を並べ物見を置き、騎馬17、総勢480余人で待ち構えていた。伊達勢は騎馬200、総勢1500で攻めたが、大木や一斉の弓の攻撃で撃退され、多くが谷に落ち、穴沢側の勝利となった。俊恒は伊達の再攻撃に備え檜原村の北西に戸山城を築き一家の者が交代で詰めた。檜原は冬になると2メートル以上の積雪がある日本有数の豪雪地帯である。
翌年(1565年)7月に戸山城は北の堀切から伊達勢約800人で不意に攻められた。城内にはお盆に当たることからわずかに20人と女房どもだけがいたとされ、大防戦し敵味方双方約70人が討死したものの落城しなかったという。この城は背後から攻められると弱いことがわかり、破却して新たに檜原湖の中に位置し米沢街道を正面に見据える堂場山に岩山城を築いくことになった。岩山城は現在では半島のように突き出たところにあるが、明治の噴火によって檜原湖が生じる前は独立丘陵に築かれた山城であった。
左岸に現在の檜原村の集落がある。
もともとの集落は湖の中程に位置していたが明治の噴火によって湖が生じ水底に没している。
檜原村から見た檜原湖
政宗が旧檜原村を襲撃した(現在の村はここに移転した)
いよいよ政宗は蘆名氏の最前線に位置する檜原氏を攻撃することになった。
桧原の領主、穴沢俊光にはかなわないという米沢領、綱木一族の意見を取り入れ、まずは俊光の従弟、四郎兵衛を抱き込むことに成功する。天正12年(1584年)10月26日にこの桧原村に風呂屋が来て桧原地区を守る穴沢一族が遊興する情報を得た政宗は1500人で桧原村を急襲する。当時の風呂は一般化せず、サウナのような臨時のものであった。そのため芝居や料理も出た一大娯楽であり、一族は酒を交わし中には裸の者もいてこの無防備に近いところを政宗軍は襲った。風呂屋は猪苗代道に小屋を建てられていたことから、すぐに近くの岩山城から応援部隊が下ったものの、鉄砲や弓で待ち構えられ多くが討ち死、道路の大塩方面の道は塞がれ、行き場を失った一族は館に立て籠ったが、女子供まで奮戦したものの雨のように鉄砲と弓、火が放たれ、力尽き、堀の近くに枕を並べて討死するという悲惨なありさまだった。俊光と父の俊恒も自害した。
桧原を手にした政宗は天正13年(1585年)湖畔北の小谷山に桧原城を築城する。
蘆名氏は政宗が最も侵攻する可能性が高いと考えられた檜原口を防御するため、北塩原村大塩に大規模な守りの城「柏木城」を築き、三瓶大蔵を置いた。
蘆名氏の予想通り政宗は雪解けを待ち、天正13年(1585年)5月10日に前年に反乱を起こした松本一族の関柴備中を誘い、その手引きで原田左馬介、新田常陸ら3000人を北方に送り込み50余の村を焼き払った。原田氏は岩月町の『稲田白山社前』に陣取り、蘆名方は三方からこれを撃退した。又、12日には政宗が桧原口から穴沢氏の居城、岩山城を攻め、念願であった蘆名領内の桧原を支配下に収めた。それから54日間政宗は檜原に留まり桧原城を築いた。この戦いが政宗の会津侵攻の始まりとなった。
政宗はまだ完成しない檜原城を拠点に5月10日、会津盆地に攻め込んだ。
画面上では磐梯山が聳え左手の峯の奥に檜原湖がある。檜原が落ちて次なる狙いは北塩原郡大塩村の堅城、柏木城(右手に見える)と思いきや、政宗の胸中はすでに福島全土に移っていた。
◎ 写真映像はグーグルマップ、解説はウィキペディア、石田明夫氏の考古学から見たブログ「会津の歴史」桧原城と伊達氏の城館、伊達政宗 よりお借りしました。
10月25日
県南囲碁会事務局 平吹
山形県・県南囲碁リーグ戦
喜多方ひめさゆり支部秋季大会
2022.10.15(20:09)
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すべすべ真っ白、採りたて大根どうじゃ、頬ずりしたくなるでせう。
それはそのはず、福島県は桧原湖畔、北塩原村の名産早稲沢大根なんであります。
その日はスカイバレー経由で喜多方の秋季大会に参加したんじゃが、我が車に同乗した南陽囲碁会のグルメ橋本会長は直売所を目にすると、帰りにはこれをしっかり買って帰らにゃならんとたちまち落ち着きを無くしました。運転する雲爺の方はと言えばこれが名産だとは知らないからまるで気にはならない。帰りに暗くなって立ち寄ると男4人が冷たい水でジャージャー洗っていました。買った2本を女房に見せたら大喜び、この辺ではわざわざ車で買いに出かけるんだぞと強まれたです。
10月9日、3年ぶりで喜多方のひめさゆり支部の秋季大会があり、Aクラスでは喜多方市の
小野高志八段が5戦全勝で優勝しました。
これは山形市の太田八段との対戦です。小野さんは中央に大地を築き、太田さんは周りに勢力を張りました。結果は白の小野さんに残りました。両者はライバル同士でいつも白熱戦が展開されるから見ている方は本当に楽しいですじゃ。
会場は支部の本拠地「サロン 北の森」
ABCDの4クラス 34名が参加
山形県側からは橋本九段、太田八段、鈴木五段、平吹四段が参加。
受付
会場は広い
山形勢が参加したクラスでの対戦結果は
Aクラス
優勝 小野 八段 喜多方市、 準優勝 太田八段 山形市、 三位 橋本九段 南陽市
Bクラス
優勝 福西四段 会津若松市、 準優勝 遠藤四段 喜多方市、 三位 鈴木五段 米沢市
Aクラス 橋本九段 対 福島八段
Aクラス 会津若松市 対 飯塚さん 福島市
申し訳ありません。お名前など確認しませんでした。
Aクラス 小野八段 喜多方市 対 大竹七段 南会津町
Aクラス 飯塚さん 対 江川七段 喜多方市
Bクラス 齋藤六段 喜多方市 対 鈴木五段 米沢市
Bクラス 齋藤六段 喜多方市 対 伊藤四段 喜多方市
クラス 井上四段 喜多方市 対
クラス 対 樟山さん 喜多方市
10月15日
県南囲碁会事務局 平吹
山形県・県南囲碁リーグ戦
秋の夜空はアンドロメダ座☆祝・ 地球防衛作戦成功
2022.10.14(15:56)
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吹(ブキ) 吹(ブキ)コンビの星空講座
おまっとさん! 忘れたころにお出ましは 御存じ(でない?)両平吹の星空講座です。
秋の星空を代表するのがアンドロメダ座です。平吹登がご紹介。
まず星座にまつわる神話から
古代エチオピア王家のケフェウス王とカシオペア王妃には、美しいアンドロメダ姫がおりました。カシオペア王妃はアンドロメダ姫の美しさをいつも自慢していました。ある日、カシオペア王妃は「私の娘アンドロメダ姫は、どの海のニンフ(妖精)より美しい」と自慢してしまいました。それを聞いたニンフたちは海の神ポセイドンに訴えました。ポセイドンは怒りエチオピアの国に、お化けくじらティアマトを送り込み、大津波を起こしたりして人々を苦しめました。ケフェウス王は海の神の怒りをおさめるため、娘のアンドロメダ姫をお化けくじらの生贄としてささげることにしました。アンドロメダ姫は海岸の岩に鎖で繋がれてしまいました。お化けくじらティアマトが迫り、アンドロメダ姫が恐怖で目をつぶったとき、怪物メデューサを退治してきたばかりのペルセウスが天馬ペガサスにまたがって通りかかり、メデューサの首を掲げて、ディアマトを大きな岩に変えて海に沈めて退治しました。恋に落ちたペルセウス王子とアンドロメダ姫はめでたく結ばれ、幸せに暮らしました。
へ~雲爺平吹です。 古代エジプトなら天文学の先進国なのをわかるが、ここでエチオピアが出てくるもんかのう。でも考えてみればエチオピアはエジプトの隣の国だしやはり進んでいたんじゃろうな。それに比べ日本などはこの頃はまだ縄文時代真っただ中だったりして、こりゃもう降参だわな。右の腰のあたりにかの有名なアンドロメダ大銀河があります。
アンドロメダ座は姫の頭のところに2等星アルフラッツがあります。名前の意味は「馬のへそ」。かつては隣にあるペガスス座の星でへその位置にあったためなのです。姫の腰の部分にあるアンドロメダ大銀河は230万光年離れたところにある形が整った大きな渦巻銀河で、我々の地球のある天の川銀河からは一番近いところにあります。空の条件が良ければ肉眼でもかすかに見ることが出来ます。アンドロメダ座には1等星が無いため北斗七星みたいに見つけるのは少し大変かもしれません。ぺススガ座のマルカブ、アンドロメダ座のアルフレッツなどと結んで秋の大四角形を構成しています。しかしのう、雲爺なんぞは目が悪く短気だから正直星座見てもよく見えんのじゃよ。馬や姫の姿も一緒に夜空に浮かんでいれば星座観察は一気に人気出て来るぜえ。
祝 地球防衛作戦成功
雲爺平吹が担当です
9月下旬にアメリカ航空宇宙局(NASA)が無人探査機(DART)を小惑星に衝突実験を行いました。そしてその結果地球からの観測で周回軌道が変わったことが判明しました。小惑星はディモルフェスと言う直径163mの岩石の宇宙体でディディモスと言う直径780mの大きな宇宙体の周りを回っています。19mの探査機DARTはディモルフォスの中心を17mのみはずして衝突しました。そしてこの衝撃によりわずかですが周回軌道が変わりました。この実験はまさに地球の運命を握る偉大な第一歩となったのです。今や月や火星を目指そうと宇宙開拓へ本格的に乗り出しているのに、片や地球の片隅を見れば何の恨みか訳の分からないウクライナ戦争があったり、隣のわが国を威嚇するおっつぁん連中がうごめいて悪さをしおってます。ほんま人間って進歩ねえ動物やでぇ。泣きたくなるほど情けないです。
10月14日
県南囲碁会事務局 平吹
山形県・県南囲碁リーグ戦
リーグ戦はSDGsを体現しとるんじゃ・・・10月南陽大会
2022.10.03(20:26)
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ええ天気じゃ。南陽市赤湯駅(新幹線停車駅)西口に新しい住宅が立ち並んでます。
赤湯駅の正面は赤湯温泉、旧市街方向の東口。
雲爺が立っているすぐ近くに消防署があります。これが生で見る訓練塔なんかのう。
後ろを振り向くと南陽市沖郷公民館が入る防災センター
10月2日(日)第80回県南囲碁リーグ戦南陽大会がここを会場に行われました。
Aリーグ
優勝 高橋六段 米沢市 ( 中)
準優勝 加藤七段 高畠町 (右)
三位 太田八段 山形市 (左)
太田氏は4勝1敗の好成績を挙げ大台の400点に到達しました。400ラインは最高位、九段の領域でいよいよ正真正銘の九段位を目指します。
Bリーグ
優勝 平吹五段 南陽市 (中)
準優勝 工藤三段 上山市 (右)
三位 須貝三段 南陽市 (左)
雲爺こと平吹氏は三度目の優勝を飾りました。しかし長いだけ長いキャリアのわりに上達が遅く、ここ10数年間は鳴かず飛ばずの万年五段が続いてます。その上リーグ戦の厳正な評価によれば、正確には五段位に定着してないんだから、こりゃやばかとぉ~。もっとも福島、宮城県で対戦する場合は一段下げなければ厳しいです。それだけこの世界は広いです。リーグ戦にはお手本を示してもらえる先達がおられるし、これからもさらに出直して研鑽を積むつもりです。人生残る時間は限られとるけん、冥途の土産に昇段なぞ出来たら、そりゃあ本望でごんすわ。昇段か、うう~ん 超極品じゃのう。
参加者は22名
今年は参加者予想が難しい年じゃ。コロナ、災害が重くのしかかりまるで外れっぱなし。お蔭でゆったり空間とコロナ対策は十分に出来てます。
今回は会場が新しく、いつもの前日の会場準備作業も当日になり、南陽囲碁会会員を招集して執り行うことになりました。
SDGs ・・・・ Sastainable ・Developments・Goals (持続可能な開発目標)
世界の未来に向けた目標、SDGsの中に「すべての人に健康と福祉を」「質の高い教育をみんなに」があります。
囲碁のリーグ戦はこの理念に沿ったものとして自認します。共通の囲碁という趣味を通しながら切磋琢磨し腕を磨くことで、幸せな気持ちと健康を作り出すことが出来るのです。周りから助けてもらうのでなく自ら自分を鍛え上げるのだから、自律的なSDGsと言えるかもしれないです。そのためにも持続可能なリーグ戦でなければなりません。続けることに意義があるのです。ウィズコロナで大いに羽ばたいていこうじゃあ~りませんか。
会長挨拶
久方ぶりの2リーグなので大幅なハンディ戦となりました。リーグ戦では以前総当たり戦を行いましたが、九段対初段戦で九段が負けたものでした。
Aリーグからご紹介します
橋本九段 対 石上五段
石上氏 いつも新潟県胎内市から遠路ご苦労様です。
以前こちらでは新潟遠征を企画しましたが不調に終わりました。リーグ戦の理想の姿は置賜を中として東西南北のエリアと交流することです。南と北は喜多方、会津、山形と整っています。東は宮城県白石地区が現在未完の状態になっています。いずれ国道113号線シルクロード一帯一路(ヌハハ)構想・・・・・おもろいよなあ。最近は岩手県や、宮城県から若い方が来ていただけるようでうれしいです。間もなく高速道が開通するし、車ですいすい往来して道場破りをする世の中になってきたのかもしれませんな。一泊企画でうまい地酒にも出会えますぞ、こりゃ 🍶 🎶
高橋六段 対 江川七段
太田八段 対 島津六段
太田氏唯一の一敗はこの島津氏から。島津氏好調で同じ4勝を挙げ大幅にポイントを稼ぎました。盤面ではお互い紳士をかなぐり捨て死屍累々のウクライナ戦争を繰り広げておりました。見てたもれ、恐ろしや、3か所で壮烈な殺戮戦があったようです。そんで広大な地原を築き上げ、肚の底で「どっちやねん」と言い張っております 💀 (^-^)🍙 😸
大竹七段 対 佐藤六段
大竹氏は福島県の南会津町から来られました。朝は五時半に家を出られたそうです。「お客様は神様です」本当にご苦労様です。
佐藤氏、体調不良を押しての一戦でした。
加藤七段 対 北野五段
加藤氏4勝1敗の好成績
太田八段 対 高橋六段
高橋氏優勝を飾る。唯一の1敗は太田氏から。
昼食
ロビーで一服タイム
Bリーグ
須貝三段 対 大友五段
仲田初段 対 太田六段
太田氏は太田八段のお父さんで人もうらやむ父子鷹。いつもお車で一緒にお出でいただいております。最近体調を崩されておられるとのことですが、お好きな囲碁で元気を戻されています。
小松四段 対 金子二段
半田三段 対 工藤三段
どちらも好きなんですな、仁義なき戦いが。
盤上真っ二つとなる大殺戮戦が行われたようです。身震いするぐらいで本当にプーチンさん核を使うのか否かみたいな、お先真っ暗な今日この頃みたいな一戦でごした ☢ 🍙 (^-^) 👣
工藤三段 対 平吹五段
平吹氏唯一の1敗が工藤氏から。いや~、重厚でした工藤氏の攻守。懐の深さに参りました。
◎次回11月3日の南陽菊まつり県南大会は大会形式を県南囲碁リーグ戦11月大会とし、試合はポイント制を採ります。
10月3日
県南囲碁会事務局 平吹