2010年03月
2010年03月29日
輸入予定車両の紹介です。
天気の悪い日が続きますねえ
今日は雪まじりの雨でしたね
ポカポカ天気が恋しいですねえ
さて、5月に入荷予定の車両です。価格は未定です。
あと他にも8台入荷します。内容は秘密です。後日発表します。
これらの車両の予約は受付中です。
本当はHPの[COMING SOON]にアップしなければいけないんですが、ちょっと慣れないもので手間取っております。近日中にアップします。
1979年FLHと1984年FLHXです。これもいつもの通りにオリジナルです。
1971年FLHと1981年FLHです。オリジナルパーツはすべてあります。
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ポカポカ天気が恋しいですねえ
さて、5月に入荷予定の車両です。価格は未定です。
あと他にも8台入荷します。内容は秘密です。後日発表します。
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2010年03月28日
野口健 池田ライオンズクラブ50周年記念講演
昨日は「野口健 池田ライオンズクラブ50周年記念講演」が池田市民文化会館でありました。
で、私も参加してきました。
講演内容は二部制で、一部が健さんが一人で環境問題で1時間とその後、池田市長 倉田薫氏とのパネルディスカッションが行われました。
講演中に事件は起りました。
こちらの池田ライオンズクラブが行ってきた堤防に花壇を備え付ける事業を10年も継続されて、その結果、池田市に流れる猪名川が非常に綺麗になったという良い話だったんですが、
野口健さんは何度も何度も「このロータリークラブの行った・・・。」
「このロータリークラブの・・・。」「このロータリークラブが・・・。」
と繰り返すので、私は「カンペ」があれば飛んでステージ前まで行きたかった位でした。
もう会場はせっかく良い話なのに、
「野口健さん、ロータリークラブと間違ってはるわ!」「わざとやでえ後でオチがあるんと違うか」
ざわざわとあちらこちらでコソコソ話が始まってしまいました。
健さんは全く気付かないで、話は進んでしまいました。
1部が終わり、二部が池田市長 倉田薫氏とのパネルディスカッションです。
そこで舞台ソデで指摘されて、頭をかきながら
「スミマセン!昨日は都内でロータリークラブの講演だったもので間違えてしまいました。
池田ライオンズクラブですよね!本当に申し訳ありませんでした。」
会場は爆笑に包まれました。これも彼のキャラですべて良し!です。
次に事件が起ったのは、倉田市長とのパネルディスカッション中です。
勿論、子ども達への環境問題の話で進んでいたんですが、
倉田市長が「野口健さんには、わがまち池田市の環境大使となっていただいて、実践的に子ども達に指導をお願いしたい。」
野口健さん「えっ・・・・・・・・」
とえらいこっちゃという雰囲気。
「子ども達と言っても実際に学校教育には教育委員会があり、ここでは決められないでしょうし、すぐには実践できないのでは?」という健さんの問いに・・・・・。
倉田市長「ノープロブレム全く問題ありません。教育委員会は、私が1週間あれば説得します。野口健さんが忙しければ、インターネットで子ども達に直接授業を行っていただけます。ここにご来場のみなさん、どうですか?野口健さんに池田市の環境大使になっていただきましょうよ。」
もう会場は割れんばかりの拍手に包まれてしまいました。
倉田市長「ここの1000人以上の方々からご承認いただきました。野口健さんお願いしますね」
野口健さん「・・・・・・・・・」
私はマネージャーの小林君に「えらいこっちゃなあどないする」
小林君「このパターンは今まで経験ありませんこの流れはお断りするのは無理でしょう」
このときに、めでたく野口健さんは、池田市の環境大使に就任されました。
「困ったなあ」って感じでした。
講演が終わり、健さん「あんな完璧な話の流れを作った市長は初めてだよ。まいったなあ今回は受けないと仕方が無いよね」
池田市長の倉田薫氏という人物、本当に凄い政治家だと実感しました。
実は野口健さんをこの講演にリクエストしたのは市長だったんですって
池田ライオンズクラブのメンバーです。会場をうろうろしていたら、「藤岡さんと違いますか?」って声を掛けられました。
なんと池田JCのOBの方々が沢山おられました。世の中は狭いものです。
彼はチベットで野口健さんと会ったという方で、世界118カ国も自転車で回っておられる方です。今回は近くに住んであられるので、会場へこられました。
健さん「チベットでお会いしたときは、てっきり現地の人が日本語を話ていると思ったんですよねえ!」
野口健さんは超多忙です。この講演が終わり、すぐに札幌へ講演に出発されました。
で、私も参加してきました。
講演内容は二部制で、一部が健さんが一人で環境問題で1時間とその後、池田市長 倉田薫氏とのパネルディスカッションが行われました。
講演中に事件は起りました。
こちらの池田ライオンズクラブが行ってきた堤防に花壇を備え付ける事業を10年も継続されて、その結果、池田市に流れる猪名川が非常に綺麗になったという良い話だったんですが、
野口健さんは何度も何度も「このロータリークラブの行った・・・。」
「このロータリークラブの・・・。」「このロータリークラブが・・・。」
と繰り返すので、私は「カンペ」があれば飛んでステージ前まで行きたかった位でした。
もう会場はせっかく良い話なのに、
「野口健さん、ロータリークラブと間違ってはるわ!」「わざとやでえ後でオチがあるんと違うか」
ざわざわとあちらこちらでコソコソ話が始まってしまいました。
健さんは全く気付かないで、話は進んでしまいました。
1部が終わり、二部が池田市長 倉田薫氏とのパネルディスカッションです。
そこで舞台ソデで指摘されて、頭をかきながら
「スミマセン!昨日は都内でロータリークラブの講演だったもので間違えてしまいました。
池田ライオンズクラブですよね!本当に申し訳ありませんでした。」
会場は爆笑に包まれました。これも彼のキャラですべて良し!です。
次に事件が起ったのは、倉田市長とのパネルディスカッション中です。
勿論、子ども達への環境問題の話で進んでいたんですが、
倉田市長が「野口健さんには、わがまち池田市の環境大使となっていただいて、実践的に子ども達に指導をお願いしたい。」
野口健さん「えっ・・・・・・・・」
とえらいこっちゃという雰囲気。
「子ども達と言っても実際に学校教育には教育委員会があり、ここでは決められないでしょうし、すぐには実践できないのでは?」という健さんの問いに・・・・・。
倉田市長「ノープロブレム全く問題ありません。教育委員会は、私が1週間あれば説得します。野口健さんが忙しければ、インターネットで子ども達に直接授業を行っていただけます。ここにご来場のみなさん、どうですか?野口健さんに池田市の環境大使になっていただきましょうよ。」
もう会場は割れんばかりの拍手に包まれてしまいました。
倉田市長「ここの1000人以上の方々からご承認いただきました。野口健さんお願いしますね」
野口健さん「・・・・・・・・・」
私はマネージャーの小林君に「えらいこっちゃなあどないする」
小林君「このパターンは今まで経験ありませんこの流れはお断りするのは無理でしょう」
このときに、めでたく野口健さんは、池田市の環境大使に就任されました。
「困ったなあ」って感じでした。
講演が終わり、健さん「あんな完璧な話の流れを作った市長は初めてだよ。まいったなあ今回は受けないと仕方が無いよね」
池田市長の倉田薫氏という人物、本当に凄い政治家だと実感しました。
実は野口健さんをこの講演にリクエストしたのは市長だったんですって
池田ライオンズクラブのメンバーです。会場をうろうろしていたら、「藤岡さんと違いますか?」って声を掛けられました。
なんと池田JCのOBの方々が沢山おられました。世の中は狭いものです。
彼はチベットで野口健さんと会ったという方で、世界118カ国も自転車で回っておられる方です。今回は近くに住んであられるので、会場へこられました。
健さん「チベットでお会いしたときは、てっきり現地の人が日本語を話ていると思ったんですよねえ!」
野口健さんは超多忙です。この講演が終わり、すぐに札幌へ講演に出発されました。
小ネタ集
先日のTV番組で、小ネタが連続でありました。
一つは前にクラブハーレーのカメラマンで鼓動館ブログにもアップしました伊勢さんです。奥さんの「汚い!」というクレームの番組でTV本番中に彼がなんと髪の毛と髭をカットしてしまいました。
使用前と使用後です。
強烈に印象が変わりましたねえ!
続きましては、鼓動館の客さんで旧車好きで、某学校で美術の先生をやっておられる藤岡さん(同じ名前です)から以来で、「是非、鼓動館で飾ってください。」と
日本画タッチで描かれた1948です。
これが先日「所ジョージさんの世田谷ベース」で取り上げられてました。
所さんの乗っているバイクを描いた物で、凄く所さんは気に入ってました。
だからどうなのって話なんですが、偶然のTV放映2連ちゃんでした。
一つは前にクラブハーレーのカメラマンで鼓動館ブログにもアップしました伊勢さんです。奥さんの「汚い!」というクレームの番組でTV本番中に彼がなんと髪の毛と髭をカットしてしまいました。
使用前と使用後です。
強烈に印象が変わりましたねえ!
続きましては、鼓動館の客さんで旧車好きで、某学校で美術の先生をやっておられる藤岡さん(同じ名前です)から以来で、「是非、鼓動館で飾ってください。」と
日本画タッチで描かれた1948です。
これが先日「所ジョージさんの世田谷ベース」で取り上げられてました。
所さんの乗っているバイクを描いた物で、凄く所さんは気に入ってました。
だからどうなのって話なんですが、偶然のTV放映2連ちゃんでした。
2010年03月26日
HOT BIKE 113号「STURGIS、YELLOW STONEの旅」 発売
先程、宅急便にてHOT BIKE 113号が届きました。
話はてんこ盛りだったんですが、結構、コンパクトにまとめられていました。
また表現が標準語の為なのか?(出版物は決して大阪弁ではありませんが・・・・)
淡々と書いてくれています。
鼓動館ブログの方がもっと詳しく、もっと画像たっぷりだったので物足りないと思いますが、限られたスペースで表現するのは非常に難しいもんですねえ!
これで今回の旅の本質は何%伝わるんだろか?
まあ鼓動館ブログをHOT BIKEの読者が全員見てる訳ではないんですけれどね。
何かちょっとでも現地の雰囲気みたいなものが伝わればOKとしよう!
鼓動館現地スタッフのスコットが「10冊送ってくれ!」と言ってたので、すぐにアメリカへ送ります。
話はてんこ盛りだったんですが、結構、コンパクトにまとめられていました。
また表現が標準語の為なのか?(出版物は決して大阪弁ではありませんが・・・・)
淡々と書いてくれています。
鼓動館ブログの方がもっと詳しく、もっと画像たっぷりだったので物足りないと思いますが、限られたスペースで表現するのは非常に難しいもんですねえ!
これで今回の旅の本質は何%伝わるんだろか?
まあ鼓動館ブログをHOT BIKEの読者が全員見てる訳ではないんですけれどね。
何かちょっとでも現地の雰囲気みたいなものが伝わればOKとしよう!
鼓動館現地スタッフのスコットが「10冊送ってくれ!」と言ってたので、すぐにアメリカへ送ります。
2010年03月22日
納車記念日3連発
みなさま、納車まで大変お待たせしました。
この連休はポカポカ陽気だったり、寒かったり、黄砂が飛び交っていたりでややこしい天気でしたねえ!
先日、納車させていただいた千葉様です。
この1998年FLSTSは170台のみの限定色です。
貴重なFLSTSの中でも貴重価値は満点ですよ。
程度も申し分なしでした。大切に乗ってくださいませ。
続いては1984FLHXの吉田さまです。
鼓動館の近くにお住まいなので、整備経過をじっくり見ていただけました。
TC88のロードキングからのお乗換えです。
乗り味はいかがですか?
今日、納車だった1979FLHの山本さまです。
奥様が鼓動館で納車した1998FLSTS95周年モデルに乗っていただいて、
山本さんはショベルです。どうですかあ?乗り味はショベルも面白いでしょ?
とブログを書いていたら、たった今、山本さんから電話がありました。
「もう、あきませんわ完全にショベルにハマッテしまいました。最高です。ありがとうございます。」
という内容でした。これで更にハーレーライフが楽しくなりますよ。
みなさん、またいつでも鼓動館へ遊びに来てください。
お待ちしております。
この連休はポカポカ陽気だったり、寒かったり、黄砂が飛び交っていたりでややこしい天気でしたねえ!
先日、納車させていただいた千葉様です。
この1998年FLSTSは170台のみの限定色です。
貴重なFLSTSの中でも貴重価値は満点ですよ。
程度も申し分なしでした。大切に乗ってくださいませ。
続いては1984FLHXの吉田さまです。
鼓動館の近くにお住まいなので、整備経過をじっくり見ていただけました。
TC88のロードキングからのお乗換えです。
乗り味はいかがですか?
今日、納車だった1979FLHの山本さまです。
奥様が鼓動館で納車した1998FLSTS95周年モデルに乗っていただいて、
山本さんはショベルです。どうですかあ?乗り味はショベルも面白いでしょ?
とブログを書いていたら、たった今、山本さんから電話がありました。
「もう、あきませんわ完全にショベルにハマッテしまいました。最高です。ありがとうございます。」
という内容でした。これで更にハーレーライフが楽しくなりますよ。
みなさん、またいつでも鼓動館へ遊びに来てください。
お待ちしております。
2010年03月21日
遺骨収集 エピソード2
これからの話は帰国してからの話になります。
今回は帰国してからの方が何かと大変です。
様々な問題が津波のように野口健さんに襲い掛かってきます。
先日3月19日に帰国してから東京へ山際大志郎政治資金パーティーがあり出席してきました。
打ち合わせた訳じゃないんですが、野口健さんも出席されていました。
自民党本部で行われた山際大志郎先生のパーティーへ200名もの地元の支援者が駆けつけてくれていました。
バッジを付けていない(前回衆議院選挙に落選)政治家 山際先生への熱い期待感が会場を埋め尽くしていました。彼の実力と人気度が判るパーティーでした。彼の話は、遺骨収集の現状を行って見てきたままの話を十分にしてくれました。きっと日本一高いカレーライス(2万円)を食べながらの講演でした。
本日のゲストの石破茂先生の講演です。
今の政治、自民党、民主党の抱える問題点を非常に判りやすく講演してくれました。
非常に判りやすい講演だったのですが、一旦、マスコミを通してしまうと伝わってこないんですよねでも講演内容としては完璧でした。
講演が終わり、野口健さんとすぐに衆議院議員会館へ足を運びました。
城内みのる代議士の部屋で遺骨収集の現状と協力をお願いしてきました。
手作りの遺骨収集の資料を基に、熱心に説明をする野口健さんとそれを受け止める城内みのる代議士。
説明をし終えると外務省OBの城内みのる代議士がその場で外務省へ電話していただき、フィリピン担当の課長を紹介していただき、すぐに会いに行きました。
それだけいつも健さんは遺骨収集については真剣に取り組んでいます。
私は時間があったので、いつもの靖国神社へ手を合せに行きました。
遊就館へも立ち寄りました。
初めて行ったときには零戦や戦車や遺留品に目を取られていましたが、毎回、感じるもの見るものが違っていて、今回は遺影に釘付けになってしました。
遺骨や遺留品は現地でも沢山見てきました。
ただフィリピンの現場で頭蓋骨だけを見て、どこの誰かも判らない英霊の方々の当時の彼らの兵士の姿は想像するかありませんでした。
今回、実際に靖国へ飾られている遺影を目の当たりにすると、この方々の遺骨だったのかも知れないと思うと、ただじっくりと脳裏に焼き付けるように見てしまいました。
そこには当時の遺影と共に、戦死した日と場所があり、レイテ島カンギポットにて、とかフィリピン ポロ島、セブ島、沖合いにてとか書いてあると本当に今までの現場の事と遺影が重なり、実に立体的になってきます。あの遺骨が、この方かも知れないという気持ちになりました。
更に遺骨収集への決意が固まりました。
その日はお決まりの金多楼寿司へ予約しており、山際先生と一緒に行きました。
そこへはまたまた打ち合わせなしで健さんも仕事でスポンサーとの打ち合わせに来られました。
という事になれば、いつものお店で2次会です。
しかし、今回だけは様子が全く違います。全員真剣そのものなんです。
週刊文集の件で様々な事を真剣に話合いました。
しかし、山際大志郎氏、野口剛氏は全くアルコールがダメなんですが、健さんもその日は運転なので飲んでおらず、空気を読めない私だけ、お酒を飲んでしまっておりました。
真剣に今後打ち合わせをしながら、メールを確認する健さん。
しかし、全く目が笑っていない金多楼寿司の野口剛くんです。
お茶で乾杯の山際先生です。彼は政治家なので打たれ強いとご自分では言っておられます。「いちいち気にしても仕方がないよ!」っていつも健さんにアドバイスしてくれていますが、健さんはそれには全く耳を貸しません
その理由は野口健の責任感です。
私が「そんなに一人で背負い込まなくってもいいじゃないか?」と言うと、
ただ健さん自身、遺骨収集事業を国を巻き込み、多くの支援者を募り、多くの支援金を集つめ、各公演活動で毎回繰り返し訴えてきた、その責任っていうのは非常に重たい。と言い切ります。
だから健さんは毎夜、眠れない日々が続く。ということです。
これはオーバーに言っているんじゃないんですよ。
その日に12時過ぎまで一緒にいて、夜中の1時に私と分かれて、その日に彼が私のブログに書き込んだ時間を見ても判ります。
毎回いつも東京へ行って野口健さんと一緒に食事をして呑む事は楽しい事だったのですが、今回だけは違っておりました。私の性格上、あまり気にしないタイプですが、そばにいる健さんが余りにも背負っている姿が痛々しい。
フィリピン人の骨を買っているという事について
健さんはフィリピン、レイテ島、ポロ島、セブ島等、5度の遺骨収集へ現場へ入っています。私は同じく3度目です。
絶対に言える事は、現場での「やらせ」的な行為や、どう見てもおかしい遺骨はありませんでした。健さんのブログにもあるように、せっかくジャングル奥深くまで入り、その骨が明らかに子どもの骨だったときには、倉田宇山さんは、全くその骨には手も付けないで、その山を降りてきました。
しかし、現実にはフィリピンだけでも38万体以上の未帰還の英霊の方々の遺骨が放置されています。
今回の週刊文集で報道されていた事で、遺骨収集事業が足止めされるような事があってはいけないという気持ちは野口健さんも私も同じです。
彼の責任感の強さと逃げない姿勢には、本当に感心させられます。
しかし、余りにも背負い過ぎる部分もあり、現場へ一緒にいった者として、小さな援護しかできませんが、実際にあった事を有りのまま、感じたままに伝えようと思います。
まず、繰り返しになりますが、現場では、フィリピン人の骨を買う行為、及びそのような疑わしい行為は私も健さんも全く感じませんでした。それどころかそうような事が無いように最大限の注意をしている倉田さんの姿の方が印象的でした。
「射撃場で遊んでいる」という表現について
倉田さんの意図は、参加者に本物の銃とはどういう物かを実感して欲しいということです。面白半分でやっていることでは決してありません。
銃の危険性を肌で感じろ!こんなもんで打ち合いしていたんやぞ!」
という事を参加したメンバーに判って欲しいという主旨です。
遺骨収集で戦闘現場を実際に見て周り、実弾射撃というのは全く趣きが違います。
当時、日本の将兵たちが洞穴へ身を潜めて、迫り来る米兵やゲリラに怯えて、三八歩兵銃を身構えるが、一発打ってしまうと、自分達の居場所が瞬時に判ってしまい、打つことが出来なかった。という生き残った日本兵の方の証言がありました。
実際にセブ島、レイテ島のジャングルの中にある観光客用の射撃場で(ちゃんとした有料の射撃場です。現場にはレイテ島では警官も立ち会っていました。)実弾射撃をすると、こんな危ないもので打ち合っていたという感覚と余りにも大きな音がジャンブルに響き渡りました。
当時一発必中でも、敵兵の人数が多すぎて一発も打てないのも理解できます。
射撃をする行為自身は同じでも、遺骨収集してから、現場を見てからの射撃の重みは全く違います。
だから決してハワイやグアム島の観光客が「射撃をして楽しむ」主旨とは全く違いました。
私自身も今まで銃が好きなこともあり、扱いはモデルガンで知ってはいたのですが、現場を見てからの重みは全く違いました。
「こんなライフルで撃ち合っていたなんて」と実感しました。
フィリピンは日本では考えられない程の治安が悪い国です。実際にジャングルに入る際には空援隊メンバーは勿論、倉田さんも丸腰です。その為にガイドを雇って彼らにその担いを任せてジャングルや今回のような島々へ渡っています。
彼らは合法で銃を所持しています。
実際に我々が遺骨収集するのに、倉田さんや空援隊現地スタッフが下調べと安全確保の為にどれだけエネルギーを使っているかが、痛い程わかります。
レイテ島も本当は非常に治安が悪く、その為の危機管理は尋常では考えられない程の警備体制を引いていました。
毎回、何事も無く無事に帰国しているので、余り実感は伝わらないとは思いますが、私は初めてレイテ島のカンギポットという山へ入るときに、私が急に意識を失い、同行していた間島さんの奥さんも同じ場所でダウンしてしまい倉田さんと富田さんがその場にいてくれてまいた。それは安全確保の為です。
健さんとカメラマンの平賀淳さんと間島さんのお父さんだけがガイドたちと現場まで行き、遺骨収集しての帰りました。
その途中、急にスコールが降って来て、平賀さんがビデオカメラが濡れるのを避ける為にシャツでカメラを包んで、健さんと地元ガイドだけになってしまった時があり、それに気づいた空援隊現地スタッフのジェシーが必死になって戻ってきて、肩で息をしながら、健さんと平賀さんに「大丈夫か?」と聞いている姿を見た健さんは、初めてシャレにならない状況下に自分の身があったことを悟りました。現地ガイドが万が一、彼らを襲ったらという事です。また違う部族のゲリラが襲ってきたらという事も考えられる場所です。
ミンダナオ島は現在も外務省は渡航禁止をしている場所です。そこは武装ゲリラ同士が現在でも対立している紛争地域です。
しかし、その島には手付かずの遺骨が沢山あるのも事実です。
今までの遺骨収集活動で、空援隊スタッフが、明らかに違法(現地の法律)な事は、全く行っているのを見たことも感じた事もありません。もしそんな危険な団体、空援隊であるならば、私も健さんも、まして政治家の山際さんも参加していません。
私が初めての参加した遺骨収集は出来ないで、調査のみとなり、日本政府に対する怒りでした。
2度目でやっと遺骨収集と焼骨式も出来、無事に417体の英霊が帰国出来ました。
今回の3度目はフィリピン政府や地元行政に許可書1枚出すのにも現金やODAを要求され、まだまだ問題が山積する中、今回も発見した遺骨は帰国できないでいる現状です。
それにも増して、今度は国内で今までとは全く違った論争が始まろうとしている。
なんだか本当に空しい気持ちになってしまいます。
今回は帰国してからの方が何かと大変です。
様々な問題が津波のように野口健さんに襲い掛かってきます。
先日3月19日に帰国してから東京へ山際大志郎政治資金パーティーがあり出席してきました。
打ち合わせた訳じゃないんですが、野口健さんも出席されていました。
自民党本部で行われた山際大志郎先生のパーティーへ200名もの地元の支援者が駆けつけてくれていました。
バッジを付けていない(前回衆議院選挙に落選)政治家 山際先生への熱い期待感が会場を埋め尽くしていました。彼の実力と人気度が判るパーティーでした。彼の話は、遺骨収集の現状を行って見てきたままの話を十分にしてくれました。きっと日本一高いカレーライス(2万円)を食べながらの講演でした。
本日のゲストの石破茂先生の講演です。
今の政治、自民党、民主党の抱える問題点を非常に判りやすく講演してくれました。
非常に判りやすい講演だったのですが、一旦、マスコミを通してしまうと伝わってこないんですよねでも講演内容としては完璧でした。
講演が終わり、野口健さんとすぐに衆議院議員会館へ足を運びました。
城内みのる代議士の部屋で遺骨収集の現状と協力をお願いしてきました。
手作りの遺骨収集の資料を基に、熱心に説明をする野口健さんとそれを受け止める城内みのる代議士。
説明をし終えると外務省OBの城内みのる代議士がその場で外務省へ電話していただき、フィリピン担当の課長を紹介していただき、すぐに会いに行きました。
それだけいつも健さんは遺骨収集については真剣に取り組んでいます。
私は時間があったので、いつもの靖国神社へ手を合せに行きました。
遊就館へも立ち寄りました。
初めて行ったときには零戦や戦車や遺留品に目を取られていましたが、毎回、感じるもの見るものが違っていて、今回は遺影に釘付けになってしました。
遺骨や遺留品は現地でも沢山見てきました。
ただフィリピンの現場で頭蓋骨だけを見て、どこの誰かも判らない英霊の方々の当時の彼らの兵士の姿は想像するかありませんでした。
今回、実際に靖国へ飾られている遺影を目の当たりにすると、この方々の遺骨だったのかも知れないと思うと、ただじっくりと脳裏に焼き付けるように見てしまいました。
そこには当時の遺影と共に、戦死した日と場所があり、レイテ島カンギポットにて、とかフィリピン ポロ島、セブ島、沖合いにてとか書いてあると本当に今までの現場の事と遺影が重なり、実に立体的になってきます。あの遺骨が、この方かも知れないという気持ちになりました。
更に遺骨収集への決意が固まりました。
その日はお決まりの金多楼寿司へ予約しており、山際先生と一緒に行きました。
そこへはまたまた打ち合わせなしで健さんも仕事でスポンサーとの打ち合わせに来られました。
という事になれば、いつものお店で2次会です。
しかし、今回だけは様子が全く違います。全員真剣そのものなんです。
週刊文集の件で様々な事を真剣に話合いました。
しかし、山際大志郎氏、野口剛氏は全くアルコールがダメなんですが、健さんもその日は運転なので飲んでおらず、空気を読めない私だけ、お酒を飲んでしまっておりました。
真剣に今後打ち合わせをしながら、メールを確認する健さん。
しかし、全く目が笑っていない金多楼寿司の野口剛くんです。
お茶で乾杯の山際先生です。彼は政治家なので打たれ強いとご自分では言っておられます。「いちいち気にしても仕方がないよ!」っていつも健さんにアドバイスしてくれていますが、健さんはそれには全く耳を貸しません
その理由は野口健の責任感です。
私が「そんなに一人で背負い込まなくってもいいじゃないか?」と言うと、
ただ健さん自身、遺骨収集事業を国を巻き込み、多くの支援者を募り、多くの支援金を集つめ、各公演活動で毎回繰り返し訴えてきた、その責任っていうのは非常に重たい。と言い切ります。
だから健さんは毎夜、眠れない日々が続く。ということです。
これはオーバーに言っているんじゃないんですよ。
その日に12時過ぎまで一緒にいて、夜中の1時に私と分かれて、その日に彼が私のブログに書き込んだ時間を見ても判ります。
毎回いつも東京へ行って野口健さんと一緒に食事をして呑む事は楽しい事だったのですが、今回だけは違っておりました。私の性格上、あまり気にしないタイプですが、そばにいる健さんが余りにも背負っている姿が痛々しい。
フィリピン人の骨を買っているという事について
健さんはフィリピン、レイテ島、ポロ島、セブ島等、5度の遺骨収集へ現場へ入っています。私は同じく3度目です。
絶対に言える事は、現場での「やらせ」的な行為や、どう見てもおかしい遺骨はありませんでした。健さんのブログにもあるように、せっかくジャングル奥深くまで入り、その骨が明らかに子どもの骨だったときには、倉田宇山さんは、全くその骨には手も付けないで、その山を降りてきました。
しかし、現実にはフィリピンだけでも38万体以上の未帰還の英霊の方々の遺骨が放置されています。
今回の週刊文集で報道されていた事で、遺骨収集事業が足止めされるような事があってはいけないという気持ちは野口健さんも私も同じです。
彼の責任感の強さと逃げない姿勢には、本当に感心させられます。
しかし、余りにも背負い過ぎる部分もあり、現場へ一緒にいった者として、小さな援護しかできませんが、実際にあった事を有りのまま、感じたままに伝えようと思います。
まず、繰り返しになりますが、現場では、フィリピン人の骨を買う行為、及びそのような疑わしい行為は私も健さんも全く感じませんでした。それどころかそうような事が無いように最大限の注意をしている倉田さんの姿の方が印象的でした。
「射撃場で遊んでいる」という表現について
倉田さんの意図は、参加者に本物の銃とはどういう物かを実感して欲しいということです。面白半分でやっていることでは決してありません。
銃の危険性を肌で感じろ!こんなもんで打ち合いしていたんやぞ!」
という事を参加したメンバーに判って欲しいという主旨です。
遺骨収集で戦闘現場を実際に見て周り、実弾射撃というのは全く趣きが違います。
当時、日本の将兵たちが洞穴へ身を潜めて、迫り来る米兵やゲリラに怯えて、三八歩兵銃を身構えるが、一発打ってしまうと、自分達の居場所が瞬時に判ってしまい、打つことが出来なかった。という生き残った日本兵の方の証言がありました。
実際にセブ島、レイテ島のジャングルの中にある観光客用の射撃場で(ちゃんとした有料の射撃場です。現場にはレイテ島では警官も立ち会っていました。)実弾射撃をすると、こんな危ないもので打ち合っていたという感覚と余りにも大きな音がジャンブルに響き渡りました。
当時一発必中でも、敵兵の人数が多すぎて一発も打てないのも理解できます。
射撃をする行為自身は同じでも、遺骨収集してから、現場を見てからの射撃の重みは全く違います。
だから決してハワイやグアム島の観光客が「射撃をして楽しむ」主旨とは全く違いました。
私自身も今まで銃が好きなこともあり、扱いはモデルガンで知ってはいたのですが、現場を見てからの重みは全く違いました。
「こんなライフルで撃ち合っていたなんて」と実感しました。
フィリピンは日本では考えられない程の治安が悪い国です。実際にジャングルに入る際には空援隊メンバーは勿論、倉田さんも丸腰です。その為にガイドを雇って彼らにその担いを任せてジャングルや今回のような島々へ渡っています。
彼らは合法で銃を所持しています。
実際に我々が遺骨収集するのに、倉田さんや空援隊現地スタッフが下調べと安全確保の為にどれだけエネルギーを使っているかが、痛い程わかります。
レイテ島も本当は非常に治安が悪く、その為の危機管理は尋常では考えられない程の警備体制を引いていました。
毎回、何事も無く無事に帰国しているので、余り実感は伝わらないとは思いますが、私は初めてレイテ島のカンギポットという山へ入るときに、私が急に意識を失い、同行していた間島さんの奥さんも同じ場所でダウンしてしまい倉田さんと富田さんがその場にいてくれてまいた。それは安全確保の為です。
健さんとカメラマンの平賀淳さんと間島さんのお父さんだけがガイドたちと現場まで行き、遺骨収集しての帰りました。
その途中、急にスコールが降って来て、平賀さんがビデオカメラが濡れるのを避ける為にシャツでカメラを包んで、健さんと地元ガイドだけになってしまった時があり、それに気づいた空援隊現地スタッフのジェシーが必死になって戻ってきて、肩で息をしながら、健さんと平賀さんに「大丈夫か?」と聞いている姿を見た健さんは、初めてシャレにならない状況下に自分の身があったことを悟りました。現地ガイドが万が一、彼らを襲ったらという事です。また違う部族のゲリラが襲ってきたらという事も考えられる場所です。
ミンダナオ島は現在も外務省は渡航禁止をしている場所です。そこは武装ゲリラ同士が現在でも対立している紛争地域です。
しかし、その島には手付かずの遺骨が沢山あるのも事実です。
今までの遺骨収集活動で、空援隊スタッフが、明らかに違法(現地の法律)な事は、全く行っているのを見たことも感じた事もありません。もしそんな危険な団体、空援隊であるならば、私も健さんも、まして政治家の山際さんも参加していません。
私が初めての参加した遺骨収集は出来ないで、調査のみとなり、日本政府に対する怒りでした。
2度目でやっと遺骨収集と焼骨式も出来、無事に417体の英霊が帰国出来ました。
今回の3度目はフィリピン政府や地元行政に許可書1枚出すのにも現金やODAを要求され、まだまだ問題が山積する中、今回も発見した遺骨は帰国できないでいる現状です。
それにも増して、今度は国内で今までとは全く違った論争が始まろうとしている。
なんだか本当に空しい気持ちになってしまいます。
遺骨収集 エピソード1
今回の遺骨収集は帰国してからの方が色々とあり、昨日はブログを書き込む気力すら無い程、気分が滅入っておりました。
詳しくは後で述べます。
さて、今回のフィリピン遺骨収集エピソード編です。
繰り返しになりますが、毎回遺骨収集の旅は楽しい旅では決してありません。
楽しみは食事の時位です。でも今回から禁酒です。
やはり亡くなられた英霊のご遺骨を目の当たりにしてしまうと、ワイワイ楽しい訳もなく、昼間は黙々と遺骨収集を行い、夜には65年前の彼らの置かれた立場や日本へどれだけ帰りたかったんだろうか?
内地に残してきた親、兄弟の家族にどれだけ会いたかったんだろうか?
お国の為と言いながら、実際には病気や飢えで死に行く目の前の戦友たちを見ながら、自分にも、すぐ必ず来るであろう「死」をどのように受け止めて亡くなられたんだろうか?
そんな事を帰国してからの方が、ずっと考えてします。
実際には現場では、メンバーは疲れ切っていて、夜の8時や9時にはベッドに入ってしまっておりました。
すべての遺骨収集の日程を終えて、マニラへ向う為に小さな小型機に乗った時の事です。
エンジンが掛かり、すぐに窓に黒いオイルがベタベタと飛び散っていました。
私は「どこからのオイルが漏れているんだろう?」と翼の下に付いているエンジンを眺めていると、明らかにエンジン周りからオイルが漏れています。
そのまま、すぐに飛び立ったときです。
私の2列前に野口健さんが座っていて、「藤岡さん、これって燃料が漏れているの?引火したら危ないじゃない?何?これはなんの?Harley屋さんだからわかるよね!僕にわかるように説明してよ!」
もう健さんは必死で私に聞いてきます。
この画像をその時の画像です。健さんはフライト中、ずっとエンジン周りから漏れるオイルを眺めていました。
横に座っていた学生の宮地くんも不安一杯です。
私は席を移って、たまたま健さんの前の席が空いていたんで、そこへ場所を移して、健さんを落ち着かせようと必死で知っている限りの知識を絞りきりながら説明しました。
健さん「今、離陸したばかりだから、引き返すべきだよ。これが燃料なら本当に危ないよ。早くパイロットへ知らせなくてはいけないよ。添乗員に早く言ってよ。」
私「燃料じゃ絶対にないですよ。この窓の淵に付いた後を見てよ。まだ黒い液体が残っているでしょ。これは絶対にオイルです。航空機の燃料は非常に揮発性が高く、もし燃料が漏れているのであれば、霧状になっているはずです。万が一エンジンが燃えても消化装置が付いていますし、片側のエンジンが止まったとしても、双発機なので、1つのエンジンでも飛ぶことが出来ますよ。」
健さん「じゃあ、パイロットはオイルが漏れている事が判っているの?」
私「通常、ある程度、オイルが減ると絶対に警告ランプが付くはずです。」
健さん「じゃあ、早く知らせてあげないと、本当に危ないよ。引き返すべきだよ」
周りの空援隊メンバーは全く気にもしていませんでした。
倉田さんは「フィリピンの飛行機はそんなもんや!」
山際さんは「日本の政治家を乗せた飛行機は今まで墜落したことが無い、それだけ政治家って人間は悪運が強いんですよ。」と言ってイビキをかきながら寝てしまいました。誰にも健さんの危機感は伝わりませんでした。
そんな会話をしながら、添乗員に「この状態はヤバイんじゃないの?」って私が聞くと思いっきりの作り笑顔で「ノープロブレム。ジャスト ウォター!」と言うんです。
おい、おい、今まで私が健さんに説明していた事が根底から覆す説明やないか!
水な訳ないやろ!もう少し小ましな説明できないのか?と思いましたが、そんなやり取りを聞くと健さんはもっと危機意識が高まってしまいます。
嫌な空気が漂いました。
しかし、彼女が操縦席に入って、再度窓越しに確認したのを健さんも私も見逃す訳がありません。しかも2度も操縦席に出入りしてました。
不安感はドンドン増してきます。
そのやり取りを見聞きしていた周りの白人の乗客も窓の外を凝視しる様になり、いつまでも漏れ続けるエンジンをみんなが見る事態になってきました。
健さん「藤岡さん、見てよ。まだまだ漏れているよ。本当に引き返すべきだよ。本当に危険だよ。今までヒマラヤでもこんな事が沢山あって、嫌な予感だしたときは絶対に乗らなかったんだよ。でもその飛行機やヘリが必ず墜落してきたんだよ。今回も本当にヤバイよ。」
私「このオイルはブレーキオイルかも知れませんし、油圧で車輪を下ろすのに使うオイルかも知れません。こればかりは降りてエンジン周りを実際に確認しないとわかりませんが、通常の航空機は、バックアップと言って一系統だけではなく、万が一の際にはもう一系統のオイルラインが設計されているんで、大丈夫ですよ。」
私は飛行機の事は何も知らないくせに、精一杯の知っている限りの情報を健さんを落ち着かせる為にしゃべりまくっていました。
もう我々の不安感はピークになっておりました。
こんなフライトは初めてです。
その時です。我々がその漏れ続けるオイルを必死の思いで、見ていると
そのエンジンから
「ガャシャン」という大きな音がしました。
あれだけ必死に大丈夫と説明していた私が、その音を聞いた瞬間に!
「ギャ〜アアアア」と機内に響き渡る大声で、一番驚いてしまいました。
健さん「なんだよ。一生懸命に説明している藤岡さんが一番驚いているじゃないの?」
私「・・・・・・・・」
その音は車輪を下ろす為にパッチの開く音でした。
不信感は更に続きます。
こんな高い高度で通常車輪は降ろしません。普通はもっと高度を降ろした時です。
絶対に何かが変でした。
しばらくそのままの高度で飛び続けていて、超緊張感の続く中、やっとの事で無事に着陸しました。
でも話はこれからまだまだ続きます。
着陸して、一度エンジンを止めて、再度エンジンを掛けたとき
「ブルブル〜ン」というエンジン音と止まっている機体の窓にまたオイルが飛び散りました。明らかに異音がそこには混じっていて「カン、カ〜ンカン、カ〜ン」という嫌な音が混じっています。
これは明らかにエンジンもオイルが切れたときに起る音です。
すぐにエンジンが止まり、結局40分も全く動かないまま待機してました。
健さん「なんで滑走路に止まっているの?」
私「多分、駐機場が一杯なんでしょう」と訳の判らない説明をしておりました。
結局、牽引車両に引っ張られて滑走路を離れる事になり、やっとの事で40分待たされて駐機場に止まったときです。
すぐにメカニックがエンジンガードを開けて、チェックしているではありませんか
健さん「だから言ったでしょ。俺の感は本当に当たるんだから」
私「ほんまでしたねえ!」
あれだけの危険な登山を繰り返し、野口健は足も手も指は10本づつある事が痛い程に理解出来ました。
彼は本当に危機意識とそれを感じる「感」が人よりも数倍高い方です。
ちなみに山際大志郎先生は着陸してから起きられて「もう付いたの俺は鈍感だからなあ」という具合でした。
でも全員無事にマニラへ着き、何よりでした。それにしても私の「ギャ〜」という叫び声は不甲斐なかったです。
エピソード1はこれで終わります。
エピソード2へつづく。
詳しくは後で述べます。
さて、今回のフィリピン遺骨収集エピソード編です。
繰り返しになりますが、毎回遺骨収集の旅は楽しい旅では決してありません。
楽しみは食事の時位です。でも今回から禁酒です。
やはり亡くなられた英霊のご遺骨を目の当たりにしてしまうと、ワイワイ楽しい訳もなく、昼間は黙々と遺骨収集を行い、夜には65年前の彼らの置かれた立場や日本へどれだけ帰りたかったんだろうか?
内地に残してきた親、兄弟の家族にどれだけ会いたかったんだろうか?
お国の為と言いながら、実際には病気や飢えで死に行く目の前の戦友たちを見ながら、自分にも、すぐ必ず来るであろう「死」をどのように受け止めて亡くなられたんだろうか?
そんな事を帰国してからの方が、ずっと考えてします。
実際には現場では、メンバーは疲れ切っていて、夜の8時や9時にはベッドに入ってしまっておりました。
すべての遺骨収集の日程を終えて、マニラへ向う為に小さな小型機に乗った時の事です。
エンジンが掛かり、すぐに窓に黒いオイルがベタベタと飛び散っていました。
私は「どこからのオイルが漏れているんだろう?」と翼の下に付いているエンジンを眺めていると、明らかにエンジン周りからオイルが漏れています。
そのまま、すぐに飛び立ったときです。
私の2列前に野口健さんが座っていて、「藤岡さん、これって燃料が漏れているの?引火したら危ないじゃない?何?これはなんの?Harley屋さんだからわかるよね!僕にわかるように説明してよ!」
もう健さんは必死で私に聞いてきます。
この画像をその時の画像です。健さんはフライト中、ずっとエンジン周りから漏れるオイルを眺めていました。
横に座っていた学生の宮地くんも不安一杯です。
私は席を移って、たまたま健さんの前の席が空いていたんで、そこへ場所を移して、健さんを落ち着かせようと必死で知っている限りの知識を絞りきりながら説明しました。
健さん「今、離陸したばかりだから、引き返すべきだよ。これが燃料なら本当に危ないよ。早くパイロットへ知らせなくてはいけないよ。添乗員に早く言ってよ。」
私「燃料じゃ絶対にないですよ。この窓の淵に付いた後を見てよ。まだ黒い液体が残っているでしょ。これは絶対にオイルです。航空機の燃料は非常に揮発性が高く、もし燃料が漏れているのであれば、霧状になっているはずです。万が一エンジンが燃えても消化装置が付いていますし、片側のエンジンが止まったとしても、双発機なので、1つのエンジンでも飛ぶことが出来ますよ。」
健さん「じゃあ、パイロットはオイルが漏れている事が判っているの?」
私「通常、ある程度、オイルが減ると絶対に警告ランプが付くはずです。」
健さん「じゃあ、早く知らせてあげないと、本当に危ないよ。引き返すべきだよ」
周りの空援隊メンバーは全く気にもしていませんでした。
倉田さんは「フィリピンの飛行機はそんなもんや!」
山際さんは「日本の政治家を乗せた飛行機は今まで墜落したことが無い、それだけ政治家って人間は悪運が強いんですよ。」と言ってイビキをかきながら寝てしまいました。誰にも健さんの危機感は伝わりませんでした。
そんな会話をしながら、添乗員に「この状態はヤバイんじゃないの?」って私が聞くと思いっきりの作り笑顔で「ノープロブレム。ジャスト ウォター!」と言うんです。
おい、おい、今まで私が健さんに説明していた事が根底から覆す説明やないか!
水な訳ないやろ!もう少し小ましな説明できないのか?と思いましたが、そんなやり取りを聞くと健さんはもっと危機意識が高まってしまいます。
嫌な空気が漂いました。
しかし、彼女が操縦席に入って、再度窓越しに確認したのを健さんも私も見逃す訳がありません。しかも2度も操縦席に出入りしてました。
不安感はドンドン増してきます。
そのやり取りを見聞きしていた周りの白人の乗客も窓の外を凝視しる様になり、いつまでも漏れ続けるエンジンをみんなが見る事態になってきました。
健さん「藤岡さん、見てよ。まだまだ漏れているよ。本当に引き返すべきだよ。本当に危険だよ。今までヒマラヤでもこんな事が沢山あって、嫌な予感だしたときは絶対に乗らなかったんだよ。でもその飛行機やヘリが必ず墜落してきたんだよ。今回も本当にヤバイよ。」
私「このオイルはブレーキオイルかも知れませんし、油圧で車輪を下ろすのに使うオイルかも知れません。こればかりは降りてエンジン周りを実際に確認しないとわかりませんが、通常の航空機は、バックアップと言って一系統だけではなく、万が一の際にはもう一系統のオイルラインが設計されているんで、大丈夫ですよ。」
私は飛行機の事は何も知らないくせに、精一杯の知っている限りの情報を健さんを落ち着かせる為にしゃべりまくっていました。
もう我々の不安感はピークになっておりました。
こんなフライトは初めてです。
その時です。我々がその漏れ続けるオイルを必死の思いで、見ていると
そのエンジンから
「ガャシャン」という大きな音がしました。
あれだけ必死に大丈夫と説明していた私が、その音を聞いた瞬間に!
「ギャ〜アアアア」と機内に響き渡る大声で、一番驚いてしまいました。
健さん「なんだよ。一生懸命に説明している藤岡さんが一番驚いているじゃないの?」
私「・・・・・・・・」
その音は車輪を下ろす為にパッチの開く音でした。
不信感は更に続きます。
こんな高い高度で通常車輪は降ろしません。普通はもっと高度を降ろした時です。
絶対に何かが変でした。
しばらくそのままの高度で飛び続けていて、超緊張感の続く中、やっとの事で無事に着陸しました。
でも話はこれからまだまだ続きます。
着陸して、一度エンジンを止めて、再度エンジンを掛けたとき
「ブルブル〜ン」というエンジン音と止まっている機体の窓にまたオイルが飛び散りました。明らかに異音がそこには混じっていて「カン、カ〜ンカン、カ〜ン」という嫌な音が混じっています。
これは明らかにエンジンもオイルが切れたときに起る音です。
すぐにエンジンが止まり、結局40分も全く動かないまま待機してました。
健さん「なんで滑走路に止まっているの?」
私「多分、駐機場が一杯なんでしょう」と訳の判らない説明をしておりました。
結局、牽引車両に引っ張られて滑走路を離れる事になり、やっとの事で40分待たされて駐機場に止まったときです。
すぐにメカニックがエンジンガードを開けて、チェックしているではありませんか
健さん「だから言ったでしょ。俺の感は本当に当たるんだから」
私「ほんまでしたねえ!」
あれだけの危険な登山を繰り返し、野口健は足も手も指は10本づつある事が痛い程に理解出来ました。
彼は本当に危機意識とそれを感じる「感」が人よりも数倍高い方です。
ちなみに山際大志郎先生は着陸してから起きられて「もう付いたの俺は鈍感だからなあ」という具合でした。
でも全員無事にマニラへ着き、何よりでした。それにしても私の「ギャ〜」という叫び声は不甲斐なかったです。
エピソード1はこれで終わります。
エピソード2へつづく。
2010年03月18日
遺骨収集 Part4
昨日は鼓動館が定休日だったんですが、体調がほんまに悪くなってしまいました。
発熱までしたので、病院へ行き、薬をもらってきたので、もう大丈夫です。
先ほども今回の遺骨収集に参加されたくどみさんから連絡がいただいたんですが、彼も同じようにお腹の調子が最悪だと言うことでした。
昨日も山際先生からも連絡をいただき、私が「体調、大丈夫?」と聞くと
「君たちは柔なんだよ。私は全く問題なし」
との事でした。ちょっと安心しましたが、でも私は柔なんかなあ
本当にフィリピンの遺骨収集は体力的にも精神的にもハードな旅なんですよ。
前置きはさておき、つづきです。
その日の夜の厚生労働省の梅原室長から連絡があり、
「本庁から今、連絡があり、明日の週刊文春に空援隊への批判記事が4ページに渡り載るそうです。詳しい詳細はわかりません。」
それから全員の空気が一変してしまいました。
まず、明日発売と言うことで、しかもスクープ記事なので現地では情報が全くなく、インターネットで調べても掴めない状態でした。タイトルのみ判っただけです。
私は3度の遺骨収集へ参加させていただいているので、フィリピン人の骨が混じる事をどれだけ注意しながら空援隊の倉田隊長が配慮しているか、また遺骨を買うという行為も全くなく、それ以上に、「遺骨を買う」行為と現地の方々が勘違いしない様に最大限の配慮をしているのを、毎回そばで見てきたので、ただのゴシップ記事なんだとそんなに心配はしていませんでした。実際には人件費と言うことでジャングルに一緒に入り、手伝ってくれた現地の方々への報酬は払っています。これは現場にいて、ごく当たり前の事だという認識です。
しかし、倉田さんの憤りはかなりのものでしたし、そばにいると悔しさと腹立だしさが伝わってきます。
倉田さんは、この遺骨収集を通してお金儲けなんてめっそもない話で、厚生労働省から予算が付いたと言えども、今までの出費が帰ってくる訳でもなく、予算内で出来る遺骨収集でもありません。ビジネス的に言うと収支は絶対にどうやっても赤字です。
しかし、そばにいると彼の「本気」がどれだけか?
毎回、遺骨収集という大義の為に真剣に命を掛けるってどういう事かを背中で見せ付けられています。
野口健さんは、怒りもありますが、何故?という疑問と週刊文集に裏切られたというショックといままで講演活動で多くの方々へ訴えてきた責任があると言うのです。
まとめると下記の通りです。
1.週刊文集は非常にまじめな雑誌社でエベレスト初登頂の学生時代からのお付き合いだったにも関わらず、野口健さん自身に全く取材をしていない点が納得がいかない。
それよりも今まで文集との信頼関係を裏切られたショック。
2.現在、野口健さんの講演内容は環境問題と遺骨収集の話題と常にセットで訴えてきた。今まで様々な方々からのご支援やご寄付をいただいている。
その多く方々がその記事を読むと動揺するのではないか?
3.遺族会や戦友会は全く思いは同じなのに、何故日本国内で足を引っ張り合わなければいけないのか?それ以上に現場のフィリピン国内では、解決しないといけない問題が山積しているのに、遺骨収集はもう限られた時間しかないのに、お互いに他団体と批判している場合ではない。
4.上記の問題点に対する対処を1日も早く手を打ちたい。しかし、今のこの小さな島のホテルでは全く動けないもどかしさ。
今回、遺骨収集へ参加した全員に動揺が走り、今まで体力的に疲れたというだけだったんですが、不必要なエネルギーを全員が使っているのが、本当は無駄とは判っていても対応しなければいけないもどかしさ、そのやるせない空気が蔓延しました。
このときの画像が、夕食の集合時間に現れた健さんに倉田さんが「週刊文春」の第一報を入れた瞬間です。それと必死で対応策を練る野口健さん
私は「出る杭は打たれる」というたとえ通りで、こちらに全く非がないので、問題は余り無いと、私はこのときは思っておりました。
ただ具体的に何を書かれているかという不安は全員にありました。
特に厚生労働省の梅原外事室長は「私が遺骨収集の責任者にも関わらず、現場にいる時に何故、発売日なのか?この対応で帰国したら数日徹夜が続く。また私のコメントも出ているようなので早く確認したい。」
野口健さんは必死で対応策を練っていました。
現在考えらうる、あらゆるパターンを想定して対策をみんなで考えていました。
いよいよマニラへ出発です。
このときに倉田さんが週刊誌ネタの冗談で「健さんは空援隊に巻き込まれた被害者やからなあ」と言っているシーンです。
勿論、みんな大笑いでした。
結局、翌日マニラに渡り、ホテルに着くやいなや、週刊文集の記事を入手して、確認しました。
私の感想は「どれもこれも推測の域を脱していない、くだらない記事内容だ」という印象でした。
現場で実際に見て来た内容とは、全く違う記事内容がそこにはありました。
でもこれは今まで私は3回参加したから言える事であって、実際に初めてこの記事を読んだ方々がどのような感想を持たれるかという不安はありました。
マニラに着いて「アメリカ墓地」を見てきました。
そこは余りにも広大な敷地に管理が完璧に行き届いた芝生があり、何万という米兵の墓地がありました。
本当に敗戦国の日本兵の英霊の遺骨の現状と勝戦国のアメリカの英雄として各墓地に名前が掘り込んでいる現状を見て、違いをまざまざと見せ付けられました。
今回の遺骨収集は80体程でしたが、また1体も日本へ帰ることが出来ませんでした。
今回はフィリピン政府と行政の問題です。しかし、現地で倉田さんが許可書を取れるように手配してくださり、一応の解決は見たものの、その80体は現地へ置いていかなくてはなりませんでした。
全員非常に悔しい思いは同じでした。しかし、少しの明かりが見えたのは幸いでした。でもまだまだ遺骨収集へのハードルは沢山あります。微力でしが、私も今後も遺骨収集への活動は続けていく覚悟です。
やっと成田に到着しました。参加者全員がやっと日本に帰ってきた喜びと手ぶらで帰ってきた悔しさが込み上げてきました。
成田へジャンボ機がタッチダウンして降りるのを待っていたときでした。
ジャンボ機なので、倉田さん、私、野口健さん、鳥羽さんという順番で座っていました。健さんはフライト中、殆どブログをずっと書き込んでいました。
倉田さんが携帯の留守電を確認した時です、我々にも聞けと言わんばかりに無言で携帯を回してもらったんですが、
西村真吾先生からの独特の声でメッセージがそこにはあり、
「くじけるなマスコミって奴は逃げればいつまでも追いかけて来よるあいつらは堂々と対峙すれば尻尾を巻いて逃げて行きやがる決して負けるんじゃないぞ」
その短いメッセージには西村真吾先生のやさしさと思いやりとマスコミに対する怒りがたっぷりと込められていていました。
そのメッセージを聞いた4人とも涙が溢れて止まりませんでした。
今でも思い出すと涙が込み上げてきます。
こういう時って人にやさしさが本当に身にしみるもんです。
しかもあれだけマスコミに叩かれたご経験のある西村真吾先生の言葉は余りにも重く受け止めてしまいました。
小西理事長も成田までわざわざ迎えに来てくれました。
翌日、東京の空援隊事務所で今回の遺骨収集の報告会を行いました。
本当に沢山の参加者が来ていただいておりました。
今回はここまで、次回はエピソード編でアップします。
乞うご期待。
発熱までしたので、病院へ行き、薬をもらってきたので、もう大丈夫です。
先ほども今回の遺骨収集に参加されたくどみさんから連絡がいただいたんですが、彼も同じようにお腹の調子が最悪だと言うことでした。
昨日も山際先生からも連絡をいただき、私が「体調、大丈夫?」と聞くと
「君たちは柔なんだよ。私は全く問題なし」
との事でした。ちょっと安心しましたが、でも私は柔なんかなあ
本当にフィリピンの遺骨収集は体力的にも精神的にもハードな旅なんですよ。
前置きはさておき、つづきです。
その日の夜の厚生労働省の梅原室長から連絡があり、
「本庁から今、連絡があり、明日の週刊文春に空援隊への批判記事が4ページに渡り載るそうです。詳しい詳細はわかりません。」
それから全員の空気が一変してしまいました。
まず、明日発売と言うことで、しかもスクープ記事なので現地では情報が全くなく、インターネットで調べても掴めない状態でした。タイトルのみ判っただけです。
私は3度の遺骨収集へ参加させていただいているので、フィリピン人の骨が混じる事をどれだけ注意しながら空援隊の倉田隊長が配慮しているか、また遺骨を買うという行為も全くなく、それ以上に、「遺骨を買う」行為と現地の方々が勘違いしない様に最大限の配慮をしているのを、毎回そばで見てきたので、ただのゴシップ記事なんだとそんなに心配はしていませんでした。実際には人件費と言うことでジャングルに一緒に入り、手伝ってくれた現地の方々への報酬は払っています。これは現場にいて、ごく当たり前の事だという認識です。
しかし、倉田さんの憤りはかなりのものでしたし、そばにいると悔しさと腹立だしさが伝わってきます。
倉田さんは、この遺骨収集を通してお金儲けなんてめっそもない話で、厚生労働省から予算が付いたと言えども、今までの出費が帰ってくる訳でもなく、予算内で出来る遺骨収集でもありません。ビジネス的に言うと収支は絶対にどうやっても赤字です。
しかし、そばにいると彼の「本気」がどれだけか?
毎回、遺骨収集という大義の為に真剣に命を掛けるってどういう事かを背中で見せ付けられています。
野口健さんは、怒りもありますが、何故?という疑問と週刊文集に裏切られたというショックといままで講演活動で多くの方々へ訴えてきた責任があると言うのです。
まとめると下記の通りです。
1.週刊文集は非常にまじめな雑誌社でエベレスト初登頂の学生時代からのお付き合いだったにも関わらず、野口健さん自身に全く取材をしていない点が納得がいかない。
それよりも今まで文集との信頼関係を裏切られたショック。
2.現在、野口健さんの講演内容は環境問題と遺骨収集の話題と常にセットで訴えてきた。今まで様々な方々からのご支援やご寄付をいただいている。
その多く方々がその記事を読むと動揺するのではないか?
3.遺族会や戦友会は全く思いは同じなのに、何故日本国内で足を引っ張り合わなければいけないのか?それ以上に現場のフィリピン国内では、解決しないといけない問題が山積しているのに、遺骨収集はもう限られた時間しかないのに、お互いに他団体と批判している場合ではない。
4.上記の問題点に対する対処を1日も早く手を打ちたい。しかし、今のこの小さな島のホテルでは全く動けないもどかしさ。
今回、遺骨収集へ参加した全員に動揺が走り、今まで体力的に疲れたというだけだったんですが、不必要なエネルギーを全員が使っているのが、本当は無駄とは判っていても対応しなければいけないもどかしさ、そのやるせない空気が蔓延しました。
このときの画像が、夕食の集合時間に現れた健さんに倉田さんが「週刊文春」の第一報を入れた瞬間です。それと必死で対応策を練る野口健さん
私は「出る杭は打たれる」というたとえ通りで、こちらに全く非がないので、問題は余り無いと、私はこのときは思っておりました。
ただ具体的に何を書かれているかという不安は全員にありました。
特に厚生労働省の梅原外事室長は「私が遺骨収集の責任者にも関わらず、現場にいる時に何故、発売日なのか?この対応で帰国したら数日徹夜が続く。また私のコメントも出ているようなので早く確認したい。」
野口健さんは必死で対応策を練っていました。
現在考えらうる、あらゆるパターンを想定して対策をみんなで考えていました。
いよいよマニラへ出発です。
このときに倉田さんが週刊誌ネタの冗談で「健さんは空援隊に巻き込まれた被害者やからなあ」と言っているシーンです。
勿論、みんな大笑いでした。
結局、翌日マニラに渡り、ホテルに着くやいなや、週刊文集の記事を入手して、確認しました。
私の感想は「どれもこれも推測の域を脱していない、くだらない記事内容だ」という印象でした。
現場で実際に見て来た内容とは、全く違う記事内容がそこにはありました。
でもこれは今まで私は3回参加したから言える事であって、実際に初めてこの記事を読んだ方々がどのような感想を持たれるかという不安はありました。
マニラに着いて「アメリカ墓地」を見てきました。
そこは余りにも広大な敷地に管理が完璧に行き届いた芝生があり、何万という米兵の墓地がありました。
本当に敗戦国の日本兵の英霊の遺骨の現状と勝戦国のアメリカの英雄として各墓地に名前が掘り込んでいる現状を見て、違いをまざまざと見せ付けられました。
今回の遺骨収集は80体程でしたが、また1体も日本へ帰ることが出来ませんでした。
今回はフィリピン政府と行政の問題です。しかし、現地で倉田さんが許可書を取れるように手配してくださり、一応の解決は見たものの、その80体は現地へ置いていかなくてはなりませんでした。
全員非常に悔しい思いは同じでした。しかし、少しの明かりが見えたのは幸いでした。でもまだまだ遺骨収集へのハードルは沢山あります。微力でしが、私も今後も遺骨収集への活動は続けていく覚悟です。
やっと成田に到着しました。参加者全員がやっと日本に帰ってきた喜びと手ぶらで帰ってきた悔しさが込み上げてきました。
成田へジャンボ機がタッチダウンして降りるのを待っていたときでした。
ジャンボ機なので、倉田さん、私、野口健さん、鳥羽さんという順番で座っていました。健さんはフライト中、殆どブログをずっと書き込んでいました。
倉田さんが携帯の留守電を確認した時です、我々にも聞けと言わんばかりに無言で携帯を回してもらったんですが、
西村真吾先生からの独特の声でメッセージがそこにはあり、
「くじけるなマスコミって奴は逃げればいつまでも追いかけて来よるあいつらは堂々と対峙すれば尻尾を巻いて逃げて行きやがる決して負けるんじゃないぞ」
その短いメッセージには西村真吾先生のやさしさと思いやりとマスコミに対する怒りがたっぷりと込められていていました。
そのメッセージを聞いた4人とも涙が溢れて止まりませんでした。
今でも思い出すと涙が込み上げてきます。
こういう時って人にやさしさが本当に身にしみるもんです。
しかもあれだけマスコミに叩かれたご経験のある西村真吾先生の言葉は余りにも重く受け止めてしまいました。
小西理事長も成田までわざわざ迎えに来てくれました。
翌日、東京の空援隊事務所で今回の遺骨収集の報告会を行いました。
本当に沢山の参加者が来ていただいておりました。
今回はここまで、次回はエピソード編でアップします。
乞うご期待。
2010年03月16日
遺骨収集 Prat3
今回の遺骨収集も毎回内容が非常に濃い旅でした。
参加していたメンバーも「まだ2日め?」「3日しか経ってないの?」って言うほど、日々の非日常的な出来事が毎日余りにも多く考えさせられる事がありました。
予想通りに初日だけが、のんびり気分でした。
翌日からはホテルへ帰っても全員何かを引きずって、アルコールの全くが無い夕食をし、倉田隊長が当時のここフィリピンでの戦史を語ってくれ、参加者全員が、毎夜65年前に気持ちがタイムスリップしてしまいます。
私は晩酌は毎日やり、夕食でいきなりご飯を食べるという習慣の無い人間にとってみれば、非常に肝臓にやさしい旅でした。
現場で遺骨収集するときには毎回、凄い崖に上り、収集することだけに集中していて、当時のことや亡くなられた将兵の方々への感情移入ができない程、余裕がありません。
私は毎年元旦に、鹿児島の知覧へ手を合せに行っていますが、彼らの遺書を毎回読むにつれて、彼らの気持ち、即ち、明日絶対に来る死への恐怖、それを打ち消す程に国を守る、家族を守るという大義を感じない訳にはいきません。
ただ、彼らの遺書も名前も遺影や部隊名もすべて残っており、それを毎年何万人という方々が知覧へ訪れて、涙を流し、現在の平和な日本の礎となられた事への感謝の気持ちで一杯になる事事態が彼らへの最低限の鎮魂になっていると私は思います。
一方で、ただ赤紙一枚で、召集され、命令で南方戦線へ送られて、激しい戦闘で戦死するならともかく、補給が途絶えて、武器弾薬もなく、一番必要な食料まで途絶えて飢えて死ぬ彼らの無念さが、現場に足を入れるとと感じざる終えません。
ただ人ってこの様な環境で飢えて病気でじんわりと死ぬときにでも、自分の死の理由付け、すなわち大義を必死で考えていたと思います。
実際に今までジャングル奥地の洞窟の中で戦死した将兵の方々や今回の沈められた船から命からがら泳いで現地人ゲリラや米兵に怯えながら、戦死していった将兵の方々は、「野垂れ死に」という状況です。
そんな状況下で大義を必死で考え、遺書を書き残す手立てもなく、ただ65年という月日が流れ、完全に今の日本人に意識から忘れられようと現実。
だから当時の将兵の方々のご苦労に比べると、今回私のの15kgダイエットにも自分なりに真剣に取り組み、高額な費用を捻出して参加することは彼らの比じゃありません。
しかも、名前も部隊名も現在の日本では具体的な記録もなく、更に平和な日本で現在暮らしている我々がその歴史的な事実すら知らない事への無念さ、怒りがご遺骨を目の当たりにすると感じてしまいます。
毎回の遺骨収集で、正月やお盆休みやまして、ゴールデンウィークでもない時期に1週間休める立場にある事や今回チャーター機の手配等一人40万円という高額な費用を費やしても参加できた事への感謝の気持ちにもなり、だから事実を知ってしまった数少ない我々が、遺骨収集を続けなければならない責任感と現場での事実を伝えることの重要性と責任を本当に感じてしまいます。
ただ、毎回決して楽しい旅ではありません。行程は過酷ですし、重いんですよ。
しかし、倉田さんや現地の富田さんがどれだけ一生懸命に参加者への安全の考慮とスムーズな行程を考えていただいているのかが、痛い程伝わってきます。
本日はサンガットアイランド周辺へ行きます。
行き先を地図で確認してチャーター機での移動です。
今日は沈船へ行きます。そこへ日本軍の軍艦や輸送船、駆逐艦が無数に沈められている場所です。浅いところだけを今回はシュノーケリングで見に行きました。
私は丁度ダイバー暦20年で、しかも耳抜きという事をしないでも、結構な深度まで潜る事ができる特殊な体質です。
だから息の続く限り、5m位ならヘッチャらでした。しかし水中カメラは持ってないので、画像はありません。
やまぎわさんが立つ事が出来るほど、足の届くところに沈船があり、潜ると船首が爆弾で吹き飛ばされていました。
Tシャツに日本軍の各沈船の名前が入っています。
明らかに観光資源になっており、ダイビングスポットになっていました。
参加者全員が複雑な気持ちになってしまいました。
倉田隊長も潜られました。
しかもご覧のとおり下記の絵面で、今回参加していただいた厚生労働省 外事室長の梅原一豊さん、外事室フィリピン担当班長の千葉克美さんまでもが同行していただきました。彼らの熱い思いが伝わってきました。
室長「何十年ぶりの海水浴ですわ〜」と言いながら潜られてました。
非常に厳しい崖の上までも、梅原室長は必死で付いて来られ、必ず画像を撮っておられました。こんな厳しい旅を一緒にすると、メッキは必ず剥がれてしまいます。
遺骨収集に対する気持ちが、どれだけ本気モードかが、すぐに伝わってきます。
上記の今回唯一の学生の宮地彬君です。バイトで30万円貯めて10万円を親から借りて参加です。彼の本気が伝わってきます。しかも野口健環境学校の卒業生でした。
こんな崖を慎重に登り、遺骨収集して再度、慎重に降りて来る事を何度も何度も繰り返しました。
また船で移動し、信じられない程、綺麗な島へ着きました。
そこは白人ばかりの観光客で一杯でした。
こんな綺麗な場所は本当に戦闘があり、ご遺骨が今でもあるようには絶対想像しにくい場所でした。
そこの島の山頂付近には湖があり、そこへ向う途中で生きた大トカゲが目の前が横切りました。
ビビってしまった私はシャッターを押すチャンスを失ってしまい、
健さんに「何で大事なシャッターチャンスだったのに撮らないの!」
私「・・・・・・・・」
もうそのオオトカゲはジャングルに入ってしまった後でした
洞窟に入り遺骨調査と湖にも再度、シュノーケリングで遺骨調査しました。
山際大志郎さんは昔トライアスロンにも出場していたアスリートです。
彼はもうバンバン泳いでおられました。さすがです。
この綺麗な湖には温泉も湧いていて、本当に最高の景色でした。貸切状態で各所を真剣に遺骨がないか?潜ってさがしましたが、透明度は20mほどあり、非常に綺麗な水質でしたが、奥へ行くと切り立っている山肌がそのまま海中深くまでつづいていて、ボンベなしでは遺骨の捜索は無理でした。
もう今日のメニューもてんこ盛りで、ホテルへ帰ると全員クタクタです。
日焼けと泳いだ疲れが一気に出てしまいました。
健さんは写真部だったこともあり、写真好きな事も事実ですが、伝えなければという気迫が伝わってきます。
彼のアングルのセンスは抜群です。
私は健さんにいつも写真の構図を指導してもらっておりました。
その日の夜に厚生労働省の梅原室長から連絡がありました。
「本庁から今、連絡があり、明日の週刊文春に批判記事が4ページに渡り載るそうです。詳しい詳細はわかりません。」
それから全員の空気が一変してしまいました。
つづく
参加していたメンバーも「まだ2日め?」「3日しか経ってないの?」って言うほど、日々の非日常的な出来事が毎日余りにも多く考えさせられる事がありました。
予想通りに初日だけが、のんびり気分でした。
翌日からはホテルへ帰っても全員何かを引きずって、アルコールの全くが無い夕食をし、倉田隊長が当時のここフィリピンでの戦史を語ってくれ、参加者全員が、毎夜65年前に気持ちがタイムスリップしてしまいます。
私は晩酌は毎日やり、夕食でいきなりご飯を食べるという習慣の無い人間にとってみれば、非常に肝臓にやさしい旅でした。
現場で遺骨収集するときには毎回、凄い崖に上り、収集することだけに集中していて、当時のことや亡くなられた将兵の方々への感情移入ができない程、余裕がありません。
私は毎年元旦に、鹿児島の知覧へ手を合せに行っていますが、彼らの遺書を毎回読むにつれて、彼らの気持ち、即ち、明日絶対に来る死への恐怖、それを打ち消す程に国を守る、家族を守るという大義を感じない訳にはいきません。
ただ、彼らの遺書も名前も遺影や部隊名もすべて残っており、それを毎年何万人という方々が知覧へ訪れて、涙を流し、現在の平和な日本の礎となられた事への感謝の気持ちで一杯になる事事態が彼らへの最低限の鎮魂になっていると私は思います。
一方で、ただ赤紙一枚で、召集され、命令で南方戦線へ送られて、激しい戦闘で戦死するならともかく、補給が途絶えて、武器弾薬もなく、一番必要な食料まで途絶えて飢えて死ぬ彼らの無念さが、現場に足を入れるとと感じざる終えません。
ただ人ってこの様な環境で飢えて病気でじんわりと死ぬときにでも、自分の死の理由付け、すなわち大義を必死で考えていたと思います。
実際に今までジャングル奥地の洞窟の中で戦死した将兵の方々や今回の沈められた船から命からがら泳いで現地人ゲリラや米兵に怯えながら、戦死していった将兵の方々は、「野垂れ死に」という状況です。
そんな状況下で大義を必死で考え、遺書を書き残す手立てもなく、ただ65年という月日が流れ、完全に今の日本人に意識から忘れられようと現実。
だから当時の将兵の方々のご苦労に比べると、今回私のの15kgダイエットにも自分なりに真剣に取り組み、高額な費用を捻出して参加することは彼らの比じゃありません。
しかも、名前も部隊名も現在の日本では具体的な記録もなく、更に平和な日本で現在暮らしている我々がその歴史的な事実すら知らない事への無念さ、怒りがご遺骨を目の当たりにすると感じてしまいます。
毎回の遺骨収集で、正月やお盆休みやまして、ゴールデンウィークでもない時期に1週間休める立場にある事や今回チャーター機の手配等一人40万円という高額な費用を費やしても参加できた事への感謝の気持ちにもなり、だから事実を知ってしまった数少ない我々が、遺骨収集を続けなければならない責任感と現場での事実を伝えることの重要性と責任を本当に感じてしまいます。
ただ、毎回決して楽しい旅ではありません。行程は過酷ですし、重いんですよ。
しかし、倉田さんや現地の富田さんがどれだけ一生懸命に参加者への安全の考慮とスムーズな行程を考えていただいているのかが、痛い程伝わってきます。
本日はサンガットアイランド周辺へ行きます。
行き先を地図で確認してチャーター機での移動です。
今日は沈船へ行きます。そこへ日本軍の軍艦や輸送船、駆逐艦が無数に沈められている場所です。浅いところだけを今回はシュノーケリングで見に行きました。
私は丁度ダイバー暦20年で、しかも耳抜きという事をしないでも、結構な深度まで潜る事ができる特殊な体質です。
だから息の続く限り、5m位ならヘッチャらでした。しかし水中カメラは持ってないので、画像はありません。
やまぎわさんが立つ事が出来るほど、足の届くところに沈船があり、潜ると船首が爆弾で吹き飛ばされていました。
Tシャツに日本軍の各沈船の名前が入っています。
明らかに観光資源になっており、ダイビングスポットになっていました。
参加者全員が複雑な気持ちになってしまいました。
倉田隊長も潜られました。
しかもご覧のとおり下記の絵面で、今回参加していただいた厚生労働省 外事室長の梅原一豊さん、外事室フィリピン担当班長の千葉克美さんまでもが同行していただきました。彼らの熱い思いが伝わってきました。
室長「何十年ぶりの海水浴ですわ〜」と言いながら潜られてました。
非常に厳しい崖の上までも、梅原室長は必死で付いて来られ、必ず画像を撮っておられました。こんな厳しい旅を一緒にすると、メッキは必ず剥がれてしまいます。
遺骨収集に対する気持ちが、どれだけ本気モードかが、すぐに伝わってきます。
上記の今回唯一の学生の宮地彬君です。バイトで30万円貯めて10万円を親から借りて参加です。彼の本気が伝わってきます。しかも野口健環境学校の卒業生でした。
こんな崖を慎重に登り、遺骨収集して再度、慎重に降りて来る事を何度も何度も繰り返しました。
また船で移動し、信じられない程、綺麗な島へ着きました。
そこは白人ばかりの観光客で一杯でした。
こんな綺麗な場所は本当に戦闘があり、ご遺骨が今でもあるようには絶対想像しにくい場所でした。
そこの島の山頂付近には湖があり、そこへ向う途中で生きた大トカゲが目の前が横切りました。
ビビってしまった私はシャッターを押すチャンスを失ってしまい、
健さんに「何で大事なシャッターチャンスだったのに撮らないの!」
私「・・・・・・・・」
もうそのオオトカゲはジャングルに入ってしまった後でした
洞窟に入り遺骨調査と湖にも再度、シュノーケリングで遺骨調査しました。
山際大志郎さんは昔トライアスロンにも出場していたアスリートです。
彼はもうバンバン泳いでおられました。さすがです。
この綺麗な湖には温泉も湧いていて、本当に最高の景色でした。貸切状態で各所を真剣に遺骨がないか?潜ってさがしましたが、透明度は20mほどあり、非常に綺麗な水質でしたが、奥へ行くと切り立っている山肌がそのまま海中深くまでつづいていて、ボンベなしでは遺骨の捜索は無理でした。
もう今日のメニューもてんこ盛りで、ホテルへ帰ると全員クタクタです。
日焼けと泳いだ疲れが一気に出てしまいました。
健さんは写真部だったこともあり、写真好きな事も事実ですが、伝えなければという気迫が伝わってきます。
彼のアングルのセンスは抜群です。
私は健さんにいつも写真の構図を指導してもらっておりました。
その日の夜に厚生労働省の梅原室長から連絡がありました。
「本庁から今、連絡があり、明日の週刊文春に批判記事が4ページに渡り載るそうです。詳しい詳細はわかりません。」
それから全員の空気が一変してしまいました。
つづく
2010年03月15日
遺骨収集 Part2
いよいよ今日から遺骨収集に向います。
今回から空援隊の遺骨収集はノンアルコールです。
私の人生で1週間も禁酒生活は初めてです。
それだけにまじめに遺骨収集を取り組もうという空援隊の意気込みです。
今回はジャングルに入るのではなく、軍艦や駆逐艦、輸送船が米国の戦闘機によって沈められて、命からがら泳いで近くの小さな島へ逃げ込んだ帝国海軍の水兵さんの遺骨を回収します。
だから、小さな島々をボートで回って、各島に無数に点在する洞窟にある水兵さんのものと思われる遺骨を収集してきました。
しかし非常に残念な事に、今回はそこの地域の村長が許可書を出してもらえなくて、今回もまた、ご遺骨を日本へ持ち帰る事が出来ませんでした。
全員、悔しさが込み上げて来ました。
結論から言うと、結局はすべてが高額なお金を許可書1枚にも求めてこられるので、日本の役所とは全く異なる文化とルールがそこにはあります。
はっきり言って裏金です。
空援隊の倉田さんは絶対に無駄なお金は払いません。
そこで結局は交渉になるんですが、厚生労働省の方々も参加されていましたが、こればかりは、日本政府の役人には絶対に出来ない交渉です。
以前にも書きましたが、日本政府のODAと遺骨との交換条件なんて有りえない話ですし、そこは絶対に譲ってはいけない部分です。
こんな感じで、島には無数の洞穴があり、その中にご遺骨があります。
ただこの島には、川もなく、水をどうやって入手したのか?という疑問は残りました。対岸には川がある島には、ナパーム爆弾が随所へ投下されていて、65年たった今でもそこには木が生い茂ることができません。コールタールが含まれてして、土の上にそれが覆い被さり、65年経っても木が生えないと言うことでした。
これは米国の政治力でそんな話は抹殺されているんだそうです。
実際に対岸の島の山々は今でもハゲヤマでした。
その理由は米軍機が日本の船を沈めて、泳いで逃げる日本兵を発見し、その逃げ込んだ兵士を掃討する為に、島の上空からナパーム爆弾を投下したそうです。
それによって米国海軍だけで作戦が完結でき、米国陸軍に依頼して、わざわざ逃げ込んだ日本兵を掃討する為に上陸する手間が省けるということです。
非常に合理的なアメリカらしい作戦です。
だから対岸の島へは潜むことが出来なかった日本兵の方々はこの小さな島の自然洞窟に身を潜めるしか無かったんでしょう。
今までのジャングルには小銃や弾薬や手榴弾が沢山、遺骨と一緒に出てきましたが、彼らは武装していない水兵さんなので、遺骨だけというのも納得が行きます。
それにしても周りの風景は綺麗でした。
各島の岩は花崗岩で出来ていて、ナイフのように切り立っています。
軍手を持ってこなかったんで、崖へ上る際にも、手を慎重に痛くない岩を選んで上らなければ行けません。
私はクロックスのサンダルで登っていたので、靴底に穴が開きそうでした。
健さんはスポンサーのニューバランスのナイスなさんサンダルとシューズの合いの子の靴を履いてました。次回からあれをGETします。
ここの縦穴にもご遺骨がありました。
そのときです。「ドス〜ン」と大きな音がして、
下で山際先生が「健ちゃん、もう少しで死ぬところだったよ
100kg程もある鍾乳洞が頭上3メートル以上ある所から、健ちゃんの頭をかすめてリックサックにだけ当たって落ちてきたんだよ」
もし健さんに当たってしたら、もうシャレになりません。本当に危険がすぐそこにありました。
私も知らない間に足や手が傷だらけでした。
空援隊スタッフが「もう時間が無いので、その辺で次へ移動しましょう。」
というんですが、その洞窟の下の土を手で掘ると、幾らでも骨が出てきます。
私も夢中で、手が切れても手で掘ってしまいました。
本当にスコップが欲しかったです。
骨の一片でも持ち帰りたいという気持ちが全員が一致した気持ちでした。
福岡から参加された久富さんも頭から血を流してしまい、健さんからマキロンを塗ってもらっているところです。
一番やばかったのは、私が崖に上っている時に踏み込んだ岩がグラッと動いて、下にいた倉田隊長に目がけて落ちてしまいました。
倉田さんのとっさの判断で太ももで、その大きな岩を避けて、足の上や頭の上には落ちませんでしたが、一歩間違えれば大惨事になっていました。
ここは決して観光地ではありません。そんなことは100も承知です。
みんなそれよりも何よりも1体でも多くの遺骨を日本へ帰したい一心で参加しているメンバーばかりです。
島を捜索しては、次の島へ渡って行きました。
しかし、本当に波もなく、美しい景色が続きます。
地元ガイドが、生きたオオトカゲを捕まえて、ご馳走してくれました。
私は「殺生はだめですよ。止めましょうよ」
と言っても誰も耳を傾けてくれません。
そうこうしている間に、そのオオトカゲは美味しい料理となってしまいました。
でも、信じられない程、メチャクチャ美味しくって全員で完食してしまいました。
バス?で移動して、また捜索です。
川を渡って、また山へ登って行きました。
そこにもご遺骨が沢山ありました。
一旦、回収した遺骨をまとめて、対岸にある東屋のような小屋で、人数のカウントを行います。その作業はフィリピン国立博物館の客員のエルニーさんが人数のカウントを行います。
遺骨収集もその日は終えて、借り切ったパワーボートで(普通の船にエンジンが2つ付いただけの高速船)ホテルへ帰りました。
つづく
今回から空援隊の遺骨収集はノンアルコールです。
私の人生で1週間も禁酒生活は初めてです。
それだけにまじめに遺骨収集を取り組もうという空援隊の意気込みです。
今回はジャングルに入るのではなく、軍艦や駆逐艦、輸送船が米国の戦闘機によって沈められて、命からがら泳いで近くの小さな島へ逃げ込んだ帝国海軍の水兵さんの遺骨を回収します。
だから、小さな島々をボートで回って、各島に無数に点在する洞窟にある水兵さんのものと思われる遺骨を収集してきました。
しかし非常に残念な事に、今回はそこの地域の村長が許可書を出してもらえなくて、今回もまた、ご遺骨を日本へ持ち帰る事が出来ませんでした。
全員、悔しさが込み上げて来ました。
結論から言うと、結局はすべてが高額なお金を許可書1枚にも求めてこられるので、日本の役所とは全く異なる文化とルールがそこにはあります。
はっきり言って裏金です。
空援隊の倉田さんは絶対に無駄なお金は払いません。
そこで結局は交渉になるんですが、厚生労働省の方々も参加されていましたが、こればかりは、日本政府の役人には絶対に出来ない交渉です。
以前にも書きましたが、日本政府のODAと遺骨との交換条件なんて有りえない話ですし、そこは絶対に譲ってはいけない部分です。
こんな感じで、島には無数の洞穴があり、その中にご遺骨があります。
ただこの島には、川もなく、水をどうやって入手したのか?という疑問は残りました。対岸には川がある島には、ナパーム爆弾が随所へ投下されていて、65年たった今でもそこには木が生い茂ることができません。コールタールが含まれてして、土の上にそれが覆い被さり、65年経っても木が生えないと言うことでした。
これは米国の政治力でそんな話は抹殺されているんだそうです。
実際に対岸の島の山々は今でもハゲヤマでした。
その理由は米軍機が日本の船を沈めて、泳いで逃げる日本兵を発見し、その逃げ込んだ兵士を掃討する為に、島の上空からナパーム爆弾を投下したそうです。
それによって米国海軍だけで作戦が完結でき、米国陸軍に依頼して、わざわざ逃げ込んだ日本兵を掃討する為に上陸する手間が省けるということです。
非常に合理的なアメリカらしい作戦です。
だから対岸の島へは潜むことが出来なかった日本兵の方々はこの小さな島の自然洞窟に身を潜めるしか無かったんでしょう。
今までのジャングルには小銃や弾薬や手榴弾が沢山、遺骨と一緒に出てきましたが、彼らは武装していない水兵さんなので、遺骨だけというのも納得が行きます。
それにしても周りの風景は綺麗でした。
各島の岩は花崗岩で出来ていて、ナイフのように切り立っています。
軍手を持ってこなかったんで、崖へ上る際にも、手を慎重に痛くない岩を選んで上らなければ行けません。
私はクロックスのサンダルで登っていたので、靴底に穴が開きそうでした。
健さんはスポンサーのニューバランスのナイスなさんサンダルとシューズの合いの子の靴を履いてました。次回からあれをGETします。
ここの縦穴にもご遺骨がありました。
そのときです。「ドス〜ン」と大きな音がして、
下で山際先生が「健ちゃん、もう少しで死ぬところだったよ
100kg程もある鍾乳洞が頭上3メートル以上ある所から、健ちゃんの頭をかすめてリックサックにだけ当たって落ちてきたんだよ」
もし健さんに当たってしたら、もうシャレになりません。本当に危険がすぐそこにありました。
私も知らない間に足や手が傷だらけでした。
空援隊スタッフが「もう時間が無いので、その辺で次へ移動しましょう。」
というんですが、その洞窟の下の土を手で掘ると、幾らでも骨が出てきます。
私も夢中で、手が切れても手で掘ってしまいました。
本当にスコップが欲しかったです。
骨の一片でも持ち帰りたいという気持ちが全員が一致した気持ちでした。
福岡から参加された久富さんも頭から血を流してしまい、健さんからマキロンを塗ってもらっているところです。
一番やばかったのは、私が崖に上っている時に踏み込んだ岩がグラッと動いて、下にいた倉田隊長に目がけて落ちてしまいました。
倉田さんのとっさの判断で太ももで、その大きな岩を避けて、足の上や頭の上には落ちませんでしたが、一歩間違えれば大惨事になっていました。
ここは決して観光地ではありません。そんなことは100も承知です。
みんなそれよりも何よりも1体でも多くの遺骨を日本へ帰したい一心で参加しているメンバーばかりです。
島を捜索しては、次の島へ渡って行きました。
しかし、本当に波もなく、美しい景色が続きます。
地元ガイドが、生きたオオトカゲを捕まえて、ご馳走してくれました。
私は「殺生はだめですよ。止めましょうよ」
と言っても誰も耳を傾けてくれません。
そうこうしている間に、そのオオトカゲは美味しい料理となってしまいました。
でも、信じられない程、メチャクチャ美味しくって全員で完食してしまいました。
バス?で移動して、また捜索です。
川を渡って、また山へ登って行きました。
そこにもご遺骨が沢山ありました。
一旦、回収した遺骨をまとめて、対岸にある東屋のような小屋で、人数のカウントを行います。その作業はフィリピン国立博物館の客員のエルニーさんが人数のカウントを行います。
遺骨収集もその日は終えて、借り切ったパワーボートで(普通の船にエンジンが2つ付いただけの高速船)ホテルへ帰りました。
つづく
2010年03月14日
遺骨収集から無事に帰ってきました。Part1
昨夜、フィリピンから第6回空援隊遺骨収集団に参加して、無事に帰ってきました。
2008年の10月に初めて参加してから私は3度目の参加です。
今回も毎回同様、非常に濃い遺骨収集になりました。
3月6日に岡山で講演を終えた健さんと京都駅から合流しました。
野口健さん「藤岡さん、本当に痩せたよねえどうやって痩せたの?」
と言うことで私の行っているダイエット方法を健さんもやることになりました。
この話題は後日、アップします。
しかし、彼のブログに対する責任感と情熱は半端じゃありません。
発信しなければ、という使命感が満ちています。
新幹線の中でもずっとブログを書き込んでいました。
後に詳しく述べますが、本当にフィリピンの小さな島のホテルの一室で、携帯からブログを打っている彼の姿は本当に感動しました。
毎度毎度の「金多楼寿司」です。
本土最後の晩餐はやっぱりここです。しかし私が健さんの車を成田まで運転しなければならないのでお酒はNGでした。これから1週間、ノンアルコールの生活に突入です。
金多楼の若旦那の野口剛くんは私に気を使ってくれて少しのお寿司だけ出してくれたのですが・・・・・
もう我慢の限界でした。トコトン食べてしまいました。
それから橋本龍太郎先生のお墓参りに立ち寄り、全員が無事に多くの亡くなられた将兵の方々と一緒に帰国できるようにお願いしてきました。
そのお墓のすぐ近くの「かおたんラーメン」にてシメのラーメンとなんと餃子まで食べてしまったのは本当に不覚でした。
今回は体重制限があり、なんとしても85kg以下にしなければならず、乾燥重量では本当にカラカラの状態(サウナ)で力石徹並みの減量で達成したものの、この最後の晩餐がえらいことになってします。
この時、私はもう乾き切ったスポンジ状態でした。
藤村健さん(橋本龍太郎元秘書・野口健事務所元環境アドバイザー・橋本大二郎現秘書)とラーメン屋さんにて
翌朝7時に成田で集合し、いざ出発です。
マニラまで成田から4時間で到着し、すぐに近くの小さな空港へ移動。
いよいよ体重測定です。昨夜のゲップが出るほど食べてしまったのが祟ったてしまいました。
体重は毎日フルチンで計測していたのですが、今回はブーツ履いて、フル装備の格好で計るので、90kg以上もあり、倉田隊長から
「ええ加減にせえよ」とこっぴどく怒られてしまいました。
今回、それまで体重オーバーだった前衆議議員のやまぎわ大志郎さんは84kgでクリアーでした。
このナイフがそれです。野口健さんと2本もいただいてしまいました。本当に気持ちのこもったナイフです。「是非、フィリピンでお役立てください。」と花咲かGで有名な榮技研の谷口社長が友人の盛高刃物という熊本県に700年の伝統を誇る刀鍛冶に特別に作っていただいた物です。
宮本武蔵もここの刀を使ってました。切れ味も凄く良いんです。
個人的にここで包丁を何本も注文して、最高の切れ味の包丁ですよ。
本当は常にジャングルに入っておられる倉田隊長に必要だったんですが、あつかましくってそれ以上は言えませんでした。
ただ銃刀法の問題もあり、今回は現地では使えませんでいした。
いよいよ小型飛行機に乗って出発です。
この画像を見てもらってもお判りの通りに、信じられない程、綺麗な海と景色で、遺骨収集に来ていることを全く忘れてしまいそうな雰囲気でした。
しかし、健さんと私は遺骨を目の当たりにすると空気が一変するのを知っていましたが、明日から遺骨収集へ行くので、今日は明日からの遺骨収集の為にゆっくりしていました。
空港と言ってもコントロールタワーもなく、バラックの小屋があるだけの飛行場は、なんと地道でアスファルトではありませんでした。
これってラバウル航空隊で零戦が発着していたものと同じ風景だったと全員が思ってしまいました。それから船に乗ってホテルへ移動です。
この楽園そのものの島々に風景は、65年前も殆ど同じでしょう。
そこで、アメリカと日本が戦争という名の下で殺りくが繰り返された場所とは非常に想像し難い程、綺麗なところでした。
その日だけは、参加者みんなが、のんびり気分でした。翌日から空気は一変してしまいます。
今日は日曜日だったので、多くのお客さんが来られていて、時間切れです。
続く。
2008年の10月に初めて参加してから私は3度目の参加です。
今回も毎回同様、非常に濃い遺骨収集になりました。
3月6日に岡山で講演を終えた健さんと京都駅から合流しました。
野口健さん「藤岡さん、本当に痩せたよねえどうやって痩せたの?」
と言うことで私の行っているダイエット方法を健さんもやることになりました。
この話題は後日、アップします。
しかし、彼のブログに対する責任感と情熱は半端じゃありません。
発信しなければ、という使命感が満ちています。
新幹線の中でもずっとブログを書き込んでいました。
後に詳しく述べますが、本当にフィリピンの小さな島のホテルの一室で、携帯からブログを打っている彼の姿は本当に感動しました。
毎度毎度の「金多楼寿司」です。
本土最後の晩餐はやっぱりここです。しかし私が健さんの車を成田まで運転しなければならないのでお酒はNGでした。これから1週間、ノンアルコールの生活に突入です。
金多楼の若旦那の野口剛くんは私に気を使ってくれて少しのお寿司だけ出してくれたのですが・・・・・
もう我慢の限界でした。トコトン食べてしまいました。
それから橋本龍太郎先生のお墓参りに立ち寄り、全員が無事に多くの亡くなられた将兵の方々と一緒に帰国できるようにお願いしてきました。
そのお墓のすぐ近くの「かおたんラーメン」にてシメのラーメンとなんと餃子まで食べてしまったのは本当に不覚でした。
今回は体重制限があり、なんとしても85kg以下にしなければならず、乾燥重量では本当にカラカラの状態(サウナ)で力石徹並みの減量で達成したものの、この最後の晩餐がえらいことになってします。
この時、私はもう乾き切ったスポンジ状態でした。
藤村健さん(橋本龍太郎元秘書・野口健事務所元環境アドバイザー・橋本大二郎現秘書)とラーメン屋さんにて
翌朝7時に成田で集合し、いざ出発です。
マニラまで成田から4時間で到着し、すぐに近くの小さな空港へ移動。
いよいよ体重測定です。昨夜のゲップが出るほど食べてしまったのが祟ったてしまいました。
体重は毎日フルチンで計測していたのですが、今回はブーツ履いて、フル装備の格好で計るので、90kg以上もあり、倉田隊長から
「ええ加減にせえよ」とこっぴどく怒られてしまいました。
今回、それまで体重オーバーだった前衆議議員のやまぎわ大志郎さんは84kgでクリアーでした。
このナイフがそれです。野口健さんと2本もいただいてしまいました。本当に気持ちのこもったナイフです。「是非、フィリピンでお役立てください。」と花咲かGで有名な榮技研の谷口社長が友人の盛高刃物という熊本県に700年の伝統を誇る刀鍛冶に特別に作っていただいた物です。
宮本武蔵もここの刀を使ってました。切れ味も凄く良いんです。
個人的にここで包丁を何本も注文して、最高の切れ味の包丁ですよ。
本当は常にジャングルに入っておられる倉田隊長に必要だったんですが、あつかましくってそれ以上は言えませんでした。
ただ銃刀法の問題もあり、今回は現地では使えませんでいした。
いよいよ小型飛行機に乗って出発です。
この画像を見てもらってもお判りの通りに、信じられない程、綺麗な海と景色で、遺骨収集に来ていることを全く忘れてしまいそうな雰囲気でした。
しかし、健さんと私は遺骨を目の当たりにすると空気が一変するのを知っていましたが、明日から遺骨収集へ行くので、今日は明日からの遺骨収集の為にゆっくりしていました。
空港と言ってもコントロールタワーもなく、バラックの小屋があるだけの飛行場は、なんと地道でアスファルトではありませんでした。
これってラバウル航空隊で零戦が発着していたものと同じ風景だったと全員が思ってしまいました。それから船に乗ってホテルへ移動です。
この楽園そのものの島々に風景は、65年前も殆ど同じでしょう。
そこで、アメリカと日本が戦争という名の下で殺りくが繰り返された場所とは非常に想像し難い程、綺麗なところでした。
その日だけは、参加者みんなが、のんびり気分でした。翌日から空気は一変してしまいます。
今日は日曜日だったので、多くのお客さんが来られていて、時間切れです。
続く。
2010年03月06日
2010年03月04日
2010年03月01日
3月6日より、フィリピンへ遺骨収集
今週の3月7日(日)AM7:00成田国際空港集合で、フィリピンへ遺骨収集へ行ってきます。体重も12kg落として、あと目標まで4kgです。
これから1週間は真剣に4kg落とす為に更に頑張らなくてはいけません
朝の7時に成田と言うことは前日より成田に集合しなければいけないので、どうしようと思案していると、野口健さんのマネージャーの小林君から電話で
「野口は岡山で講演して、新幹線で東京へ向かいますので、京都駅から一緒に行きませんか?」
て連絡が入りました。
じゃあ、と言うことで前日からこれで成田へ無事に行けそうです。
でも人生でこれだけ真剣に減量したのは初めてです。しかしあと4kgを一週間で達成しなければいけないのかあ
でも、絶対に達成したる
と言うことで3/6(土)夕方より3/13(土)一週間留守いたしますが、鼓動館は平常通り営業しておりますので、よろしくお願いします。
これから1週間は真剣に4kg落とす為に更に頑張らなくてはいけません
朝の7時に成田と言うことは前日より成田に集合しなければいけないので、どうしようと思案していると、野口健さんのマネージャーの小林君から電話で
「野口は岡山で講演して、新幹線で東京へ向かいますので、京都駅から一緒に行きませんか?」
て連絡が入りました。
じゃあ、と言うことで前日からこれで成田へ無事に行けそうです。
でも人生でこれだけ真剣に減量したのは初めてです。しかしあと4kgを一週間で達成しなければいけないのかあ
でも、絶対に達成したる
と言うことで3/6(土)夕方より3/13(土)一週間留守いたしますが、鼓動館は平常通り営業しておりますので、よろしくお願いします。