いしずえ

第一巻春雪の巻

 ブロードウェーマンションでの少憩

 彼はよくわたくしを外出にさそった。

 彼は大股ですたすたあるくので、ついて行くのがなかなか骨が折れる。そのため、わたくしは彼と一緒に出歩くのを好まなかった。時間が惜しいのか、のんびり出来ない性格なのか、すいている電車をゆっくり待つなどということはしない。満員の電車に、わりこむようにしてでも乗ってしまう。そのあとからわたくしも、半分泣き顔で、おしつぶされそうになりながら乗っていかねばならなかった。

 その上、あの人の家、この人の事務所というように次々と用件をすませた上、一番最後にわたくしを連れ出した目的である散歩にうつるのであった。別に用件がなくても、知人の家の近くを通れば、必ず立寄って声をかけるのも彼の特徴であった。

 とにかく彼と外出するには、いくつかの覚悟を要したのであるが、しかしごく稀には、ゆっくり歩きまわることもあった。

 呉亜男女史から結婚祝に男女一対の支那服がとどいた時、彼はすぐ、これを着て写真をとり、上海の中心街である南京路へ行ってみようと云い出した。

 わたくしはこの中国服を記念としてもっていることだけにとどめ、それを着用して出歩くことなど考えても見なかったので、

 「そうですねえ」

と渋った声を返すのみであった。

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  1. 2014/12/01(月) 21:14:32|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 こういう時の彼は、返事を待つより先に自ら支度をしはじめる。純白の裾のひらいたズボンをはいて、長いゆったりした上衣をつけると、本物の中国人のようになってしまった。

 わたくしも仕方なく、内心不承不承にピンクの中国服にきかえ、やはり呉夫人から送られたサンゴのネックレスやイヤリングをつけた。またたく間に若い中国人夫婦に化した二人は、上海の宵を味わうべく電車路へとあるいていった。

 虹口で写真をとってから、わたくし達は電車で南京路にむかった。

 丁度、ガーデンブリッジにさしかかった時、近くにテロがあったと見えて交通止めになり、電車は止められてしまった。上海ではこういうことは度々の事であったから、人々は黙々として電車を下り、それぞれワンポーツをひろって別の橋にまわっていった。

 「ここで一休みしよう」

 戸松は橋のたもとにある高層ビルディング、ブロードウェーマンションの中にどんどんと入っていった。

 エレベーターで三階にのぼり、いくつも並んでいる部屋の一つに入っていくと、安楽椅子でたばこをふかしていた小柄な男が、

 「やあー」

と、たばこをもったままの右手をあげて、くるりと椅子ごとこちらに向きなおった。

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  1. 2014/12/02(火) 23:58:21|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 「村木さんというんだ。ピストルの名人でね、日本人にも中国人にもこわがられているんだよ」

 戸松はその小男をわたくしに紹介した。じっと目を見すえる時には一瞬凄みが走るが、そう強そうな男には見えない。一おしで倒れそうな、やせて小さなこの男のどこにそんな力がひそんでいるのであろう……わたくしは人のよさそうな笑顔をしている村木を、不思議なものでも見る思いでながめた。

 「いやあ、この間のは面白かった……」

 村木は椅子からのり出すようにして、何人かの中国人相手に撃ちあった時の話を、身ぶりを交えて、語り出した。

 上海というところは、実に奇怪な都市である。政治でも軍隊でも解決されないような問題が、村木のような喧嘩上手なピストルの名手によって処理されているのである。

 ピストル以外に能のない彼が、一流のビルディングの一室を事務所とし、一かどの事業家然としてかまえている。不思議な人生もあるものだ。

 部屋にそなえつけられたバスルームで汗を流し冷たいサイダーに喉をうるおし、すがすがしい気分になったころ、チンチンと電車の動き出したらしい音がきこえてきた。

 立去ろうとするまぎわになって、村木ははじめて気がついたように、

 「お二人とも中国服がよく似合うなあ」

と、しげしげ眺め出した。

 ピストルにかけては鋭敏な顔も、外の事には人一倍うといのかも知れない。彼もやっぱり、その道の名人気質の人なのであろう。

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  1. 2014/12/03(水) 13:42:50|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 夜の南京路

 ブロードウェーマンションの前で、わたくし達は次の電車をまった。ガーデンブリッジの彼方の空は、沈まんとする夕日に映えて明るい色にそめられていた。

 「彼には頭山秀三さん(頭山満翁の息子)の事務所で何回かあったことがあるんだよ。頭はよくないが、けんかだけは強いらしいなあ。とにかく上海には面白い奴がいるよ」

 戸松は、村木の、子供のようにけんか好きな話を思い出したのか、ニヤニヤ一人笑いしながら云った。

 電車がガーデンブリッジから黄浦江岸を走る時の気分は爽快である。

 路幅は広く、建物は整然と並び、南西は公園から江につづいて視野がひろびろとひらけ、大陸の都市という感を抱かせる。

 高徳性に鈍感な中国人をよせつけないこの公園は、明るい清潔さにつつまれていて、かろやかな服装をした西欧人が、のどかに歩き且つベンチに腰を下して夕映をたのしんでいる。

 このあたりに来ると西欧人の姿がぐんとふえて上海の中のヨーロッパという感がつよくなる。アメリカ人やイギリス人が多勢いた戦争前は、もっとそうした色が濃厚であったにちがいない。ここからは中国的なものは、完全にしめ出されているのである。

 電車は黄浦江岸をしばらく走って右にまがり、南京路に入っていった。

 「ここがパークホテル、ぼく達がよく会を持つところ、ここが……」

 戸松がしきりに説明してくれるのであるが、わたくしにはチンプンカンプンでよくわからない。眼にはっきり入るのは、堂々たる店舗の中に並べられた豪華で豊富な品物ばかり……これが戦争をしている国の商店であるとは考えられないほどである。

 電車を下りてそぞろ歩きすると、今度は道行く人に眼がうつる。ここでは滬西のように、てんそくで足を小さくした老婆がよちよち歩いているのは見かけない。やはり眼をひくのは、花のようになよやかな若い女性である。彼女らは伝統の悪弊から解放されて、すこやかに育った日本の足で、たかだかと胸をはってあるいていた。

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  1. 2014/12/04(木) 09:26:11|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 その昔、「女子と小人はやしないがたし」と嘆いた大聖孔子の女性観は、そのままこの民族の女性観となっていたから、長い間女子は男子にれいぞくする弱い存在として生きてきた。中には楊貴妃や西太后のように、権力ある男子をふりまわしてきた女性もあったが、一般には男子の庇護の下に咲きにおう花としての楚々たる生き方をしてきた。彼女らは女性の本文は男子にまもられつつ果していくべきものと信じていたから、素直に満足して生きてきたものらしい。

 ところが、清朝未葉から急速にしのびこんできた西欧帝国主義の侵略の手は、中国の国土をねらうばかりでなく、若い人々の頭をも占領してしまった。彼らは祖国を蹂躪されながら、蹂躪した者に迎合し、その文化を慈雨のごとく求めて止まないのである。

 女性も、ヨーロッパ化というよりはむしろアメリカ化しているといえる。彼女らは中国服だけは自信をもって放さないが、その他の点は伝統を惜し気なく蹴とばしているように見える。

 彼女らはたしかに古い習慣から解放された。だが、自覚をもたない人間の解放は、己をくずす方面にむかうのみである。

 解放された若い男女が、一番先に向かうのは本能的慾望のめざめである。彼らは二匹の蝶がたわむれあうように、人眼もはばからず親しみ合う。この国の大人達は一体どちらをむいて、何を見ているのであろうか。

 真赤なくちびる、赤い爪、赤いハンドバッグ、多くの女性が一種の伝染病にとりつかれたように同じ類型にかたむいている。

 文化がたいはいした時には、民衆の風俗が軽薄で奢侈になるときいているが、この国もすでに思想的腐敗の中によどんでいるといえよう。

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  1. 2014/12/05(金) 09:24:30|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 時々「あっ」とおどろかされるのは、体格のいい西欧の婦人が、短いショートパンツに、背中をくるりと深くくりぬいたアンダーシャツのようなものを着て、勇ましく歩いているのに出会った時である。これでは、まるで裸体であるいているようなものだ。

 他国の都市の中心部を海浜にいるようなかっこうで歩くのは、一体何国人の神経であろうか。わたくしは戸松にきいてみた。

 「あれはどこの国の人かしら」

 「さあ、どこの国の女かねえ、昼間はあんなのはざらにいるよ」

 戸松には珍しいことではないらしい。

 上海は、実に他国人がいばってまかり通る都市である。

 長い南京路をあてもなく歩いている中に、いつしか夏の日も暮れ果てて、町は美しい夜の色に包まれていった。戸松も今夜はいつになくゆっくりかまえている。中国服をきたので、気分まで悠長になったのかもしれない。

 立派な喫茶店の前にとおりかかった時、子供の泣きさけぶ声におどろいてその場にたたずんだ。見ると、倒れている中年の男にとりすがって、三人の子供が、なにやら叫びながら身もだえしている。倒れた男の口からは、黄色い泡のようなものが流れ出していた。

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  1. 2014/12/06(土) 13:45:51|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 これは乞食のゼスチャーなどではない。あきらかに往き倒れである。男が死んでいるのか、まだ生きているのかはっきりしないが、死につながる状態であることはたしかである。

 三人の子供の必死の叫びにもかかわらず、往き交う人々はチラチラと眼を送るだけで黙って通りすぎていく。

 喫茶店の入口には灰色の中国服を着た男が、迷惑そうな顔をして黙然と子供達を眺めていた。

 一体これはどうしたことであろう。わたくし達までが、このまま冷淡に通りすぎて行っていいものであろうか。

 「あの子供達はどうなるんでしょう。あのままにしておいていいのかしら」

 「死にかけているようだね。上海にはああいうのが沢山いるんだ。今にああいう連中をあつかう係りが来て、適当に処理してしまうだろう」

 後に心を残しつつ、わたくし達はその場を通りすぎてしまったが、言葉が通ずるならば一言でも子供達に同情の言葉をかけてやりたかった。

 それにしても、なんという人間の冷淡さであろうか。誰一人温かい言葉をかけてやる人もいないというのは……この国の神は人の心には宿っていないのであろうか。

 このように最大の不幸に沈んでいる人々をも内包しながら、町は時刻がすすむにしたがって華やかに、にぎやかになっていく。

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  1. 2014/12/07(日) 11:30:00|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 思わずはっとするような、すらりとした。あでやかな婦人がわたくし達の前を横切っていく。

 「あれはダンサーだよ。向こうに見えるあの大きな建物がダンスホールだ」

 なるほど、前方にあかあかと光をただよわせている大きな建物が見える。

 いつか松下夫人が云っていたことを思い出す。

 「上海ってすごい所があるんですよ。表看板はダンスホールや酒場だけど、内部は賭博や麻薬や売春で大変なんですってよ。とても手がこんでいてまるで夢の国に行ったようなところがあるんですって、またとてもこわいところもあるんですよ」

 実際これだけ各国の人間が入り乱れ、勝手なことをしている以上、かくれた場所では何がおこなわれているかわかったものではない。あらゆる悪徳、あらゆる犯罪が、毎夜のようにくりかえされていることであろう。

 この快楽のかげで、ひそかにとりかわされる密談が、密貿密売となり、この都市の繁栄をたすけているのかもしれない。

 悪と堕落と享楽によって支えられた繁栄は、父を失い嘆き狂う少年には、なんらの恵みも同情もあたえない。これは正義とか、同胞愛とか、祖国愛とは全く縁のない、無計劃で気儘で貪欲な繁栄なのである。

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  1. 2014/12/08(月) 13:14:32|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 夫の求めるもの、妻の求めるもの

 上海公園の樹木のみどりが一段と濃くしげりあい、花壇のサルビアが赤いかたまりをなして咲きそろうようになると、上海の夏もいよいよ本格的である。

 終日喉がかわく、しかし上海の水は浄化が不完全であるから生水をのむことができない。その上水温もたかいから、口にふくんで爽快さを味わうというわけにもいかない。

 或暑さのきびしい夜、ねられないまま、わたくしたちは町にでて氷水をのんだ。戸松は余程内臓に熱をもっていたと見えて、金時という小豆の入ったのを三杯もたてつづけに食べてしまった。

 なにしろ時間がわるかった。それに小豆も少し、悪くなっていたのかもしれない。

 翌日から彼は猛烈な腹痛と下痢で立てなくなってしまった。軍医に見てもらったが、どういうわけか下痢だけは一向にとまらず、三四日も泡のような便がつづいて、針金のようにやせ細っていった。

 周仏海とのていけいによる日中事変解決の具体案もなり、方法論を研究しているときであったから、肉体がおとろえるのに反比例して、彼の精神はいよいよするどくとがっていった。彼は常にいらいらし、一日一日無為にすぎていく時間の流れをおしんだ。

 戸松が行動をおこすのを待っていた熊将軍は、牧谷の連絡で彼の病気を知り、さっそく大きな果物籠をもって滬西の家に見舞にきた。熊はわたくしたちが虹口に移ったことを、まだ知っていなかったのである。

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  1. 2014/12/09(火) 09:10:25|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 その果物が虹口の七友小築にとどけられ、毎日それをジュースにしてのんでいるうちに、一週間ほどもすると下痢もとまり、再び食欲がおこり、体力が復活しはじめてきた。

 健康の回復次第彼はまず南京にとび、当時支那派遣軍の間に、その名をとどろかせていた辻政信大佐に会い、事変解決案をもって大佐を説得する計劃をたてていた。

 その頃の中国大陸では、この二年あまり戦いらしい戦いもなく、全軍が弛緩と虚脱の状態にあり、太平洋戦争の直前はことにひどかった。支那派遣軍総司令部の第三課長をしていた辻大佐は、夜毎夜毎に蜜蜂のように上海の料亭にあつまってくる日本人将校の無自覚さに腹をたて、人をつかって料亭に火をつけさせ、酒におぼれている不心得者を大いにあわてさせたことがあった。

 実行力があり、真面目で、話のわかる愛国者として、戸松はまず最初の一指をこの辻大佐をえらんで折ったのである(戦後の辻氏にはあまり感心しなかったが)。

 大佐との話合いの情況によっては、南京からただちに重慶にとび、蔣介石に直接に会って彼の真意をたしかめてみたいという勇壮な希望もいだいていた。それは少なからず危険をともなうことであったが、自分の信ずる道にたっては、彼はすでに生死を超越していた。日本の歴史を健全にまもるために、五尺五寸の身体と魂が役立つならば、すすんでその人柱となろうという、純粋無垢な情熱が彼の内部から発散していた。

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  1. 2014/12/10(水) 13:31:42|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 わたくしの事など、彼はなにも考えてはいないように見える。万一のことがあった時には、自分の魂をいだいてこういう人生をたどれというような指示などは何もしない。~お前のことはお前の自由にまかせる~といったようなあいまいな空隙が二人をへだてていた。

 彼が仕事にたいするそうした峻厳な態度をはっきりしめしだすと、わたくしの心もそれにひきずられるように、彼への魂の所属をつよくもとめていた。

 「どんな場合にたちいたっても、戸松の妻として一生をつらぬけよ」

という、夫の言葉がほしかった。しかし、わたくしのこの願いにもかかわらず、このことについては彼の心は空々漠々たるものだ。

 「あなたに万一のことがあったら、わたし修道院に入って尼になろうかと思います」

 少女の頃から神をもとめて、カトリックやプロテスタントの教会をめぐりあるいてきたわたくしは、未亡人となって、純粋に生きていけるところは、修道院しかないと考えていた。その言葉は、半分は自分の信念であり、半分は彼へのうっぷんの発散であった。

 「修道院の尼さんか、あんな苦しい修行は、あなたにはとても出来ないよ。尼さんになることはないだろう。あなたには、生きぬいていけるだけの立派な才能があるよ。自分にははっきりわからんだろうが、ぼくはその点大丈夫な人だと思っているね」

 なんという女の神経に鈍感な男だ。常に二人だけの魂の密着をもとめている女の気持など彼にはわからない。彼にとっては、夫婦の精神的結合など、ことさらに意識する必要のない類のものであった。わたくしは心のそこまで冷えきっていくように感じた。男と女では、おたがいの愛情の根底がてんでちがった次元にあるのだ。この根底を同じ線上にあわせようとすれば、少なからず彼の心をわずらわしい男女の感情のもつれの中にひきこまねばならない。そうしてまで、彼の情にすがりつくような態度は、わたくし自身にできそうにもない。

 そこで、わたくしはそのまま黙してしまった。こんな調子では、彼はおそらく一生の間情緒てんめんたる恋愛などできないであろう。そしてわたくし自身も、おそらく一生の間、自分の愛をうったえることもなく終ってしまうだろう。「二人とも変った性質だな」とひそかに思った。

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  1. 2014/12/11(木) 10:27:59|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 中国の武人・熊剣東

 固い粥を食べるようになると、彼は熊将軍に会わねばならないというので滬西に行くといい出した。散歩がてらついてこいというので、わたくしも暫らくぶりに滬西に行くことにした。

 一時間半もマッチ箱のような電車にガタガタゆられて、終点の西安寺でおりると、真直に熊剣東の邸宅をおとづれた。

 木造の門の両わきに、濃い鶯色の服をきた兵隊が七、八名、ものものしく警護している。鄭重に案内されて、広い応接間にとおされた。

 この家は周仏海や潘三省、傅式説などの邸宅のように、芝生の広い庭が見あたらない。門から玄関までの前庭はせまい方で、樹木によって形をととのえられている。熊将軍は花のにぎやかな色彩よりも、樹木の落ちついた陰影の方を好んでいるのであろう。

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  1. 2014/12/12(金) 10:15:20|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 家屋そのものも、しゃれたフランス建築ではなく、東洋的渋さをもった木造で、精神の安定をあたえるような質朴さがみなぎっていた。虚飾のないおちついた応接間は、しっとりと垢ぬけていて、この家の主の人柄がにじみ出ていた。これは傳式説の邸宅と共通した雰囲気であって、潘の邸宅のように客を威圧するような豪華な感じはぜんぜんない。潘の家が西洋的な物質にものをいわせた華やかな表現をしているとするならば、傳式説や熊剣東の家は、東洋的な、精神的内面の美をただよわせているといえよう。

 熊将軍は白の開衿シャツの軽装で、らいらくな笑顔をうかべながら出て来た。彼と戸松との間は、すでに親交がむすばれていたから、特別にかたくるしい挨拶などはない。

 戸松はわたくしを簡単に紹介すると、背後のソファーに腰かけているように命じた。熊も軍人であるから、女性は苦手だとみえ、ただにこにこ笑顔で好意をしめすだけである。二人の男は、早速むきあって用談にはいった。

 熊将軍は日本語が話せる。ときどき、飴が上顎にはりついた時のような、間のびた発音をすることもある。それは主として独学で修得したためであろう。彼の日本語の勉強は、日本軍にとらえられて獄中につながれている時ものにしたのだという。

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  1. 2014/12/13(土) 14:02:11|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 彼は広州の黄浦鎮にある黄浦軍官学校の第一期生であった。この学校は、孫文が辛亥革命ののち、ソ同盟を視察しかえった蔣介石の進言をいれ、ソ聯から顧問をまねいて、その援助によって設立した士官学校である。蒋介石はここの初代校長であるから、熊は蔣からもっとも熱情をこめた教育をうけたわけである。

 蒋介石から期待されていただけあって、彼は重慶軍の中でもっとも有能な軍人で、彼自身遊撃隊長として部隊をひきい最も危険な南京の周辺に出没し、日本軍を悩ましていた。神出鬼没のすばやさで、地勢になれた中国の各地を縦横にはしりまわり、各所で日本軍に打撃をあたえたのである。

 その中肉中背のがっしりした身体には、千軍万馬の中を荒れまわってきた敏活さが、ぴたっとひそんでいるようにも感じられる。

 容貌も、中国人には珍しい闘争的な強い線と鋭敏さをそなえている。敏捷に適格にうごく頭脳のはたらきは、その眼の光と動きにあらわれており、闘争的な精神はその口に表現されていた。

 この精悍な感じは、悠揚せまらざる中南支のものではなく、猛敏な北支の山岳地帯のものである。

 熊将軍も北の出生なのであろうか。それとも、ソ同盟の軍事学校の形式をとり、日本士官学校出身の蔣校長の指導になる黄浦軍官学校の教育のたまものか。

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  1. 2014/12/14(日) 13:02:13|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 彼に徹底的に手こづった日本軍は、正攻法ではとても捕えることが出来なかったから、中支の各地に網をはって、彼がかかってくるのを待っていた。彼が戦闘の間に間に平服を着て、庶民と化して立寄りそうなホテルのボーイは、すべて日本軍に買収されていた。

 そんなことを知らない彼は、或日ふらりと中国服姿で上海にあらわれ、ホテルで入浴中をとらえられてしまった。ボーイからの知らせを受けた日本軍は、なんなくこの荒武者をとらえることが出来たのである。

 沢山の日本軍人をころした彼のことであるから本来ならばすぐにも銃殺されるべきところであった。だが日本軍は彼を味方にひき入れて、彼の能力と勢力を利用することをかんがえた。彼は獄につながれ、そこで日本の大東亜建設の理想を説ききかされたのである。

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  1. 2014/12/16(火) 15:37:16|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 熊将軍の転向

 この理想は西欧の帝国主義からアジアを解放し、アジア民族によるアジアの繁栄をめざすという遠大なものであったから、帝国主義の植民地化してしまった母国に悲憤をかんじていた彼の心は、少しづつ動いていった。

 三十年前、中国全土をあげて闘いとった孫文の三民主義革命は、腐敗政治の清朝をたおすことはできたが、新皇帝となった袁世凱は依然として外国勢力に依存して、中国民衆の念願をかなえてはくれなかった。討袁革命となって江の南西にもえさかったが、西欧勢力を背景にもつ袁の力はなかなか強大で微動だにもしなかった。しかし彼が帝政を樹立して初代皇帝をめざすようになってから、内外の反袁勢力は強力となり彼は遂に悶々の中に死んでしまった。

 だいたい中国の民主主義革命は、きずなを断ちきるべき外国勢力に頼っておこなわれたところに、そもそもの矛盾があったようだ。日本にたよるか、西欧にたよるか、かれらは自分の足で立つことをしなかった。そのため革命は次の革命をよび、中国は永遠におのれの歩むべき道をうしなったかのような状態になってしまったのである。

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  1. 2014/12/17(水) 11:39:02|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 自立のない国は、いたずらに外国勢力の策動をほしいままにして、戦争の発火点の役割を演ずることになる。自己を見失った中国は、こうした混乱とあせりをくりかえしてきたのであった。

 蒋総統といえども、中国の民衆と国土が渇望しているものを、はっきり把握していたわけではない。彼も又外国資本に動かされ、これと結び、その足は中国の大地から浮きあがっていた。

 民衆は自分達の真の救い主は誰であるか、さっぱりわからなかった。こうした民衆を熱心に指導し、ひきずっていきつつあるのが中国共産党であった。

 「だるまさんだるまさんあんよをお出し、自分のあんよで歩いてごらん」これは山本有三の「路傍の石」の一節であるが、中国は今こそ自分の足で立つべき時にきていたのである。

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  1. 2014/12/18(木) 13:43:45|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 「日中事変は、侵略ではない。アジアの諸国が手をむすんで、アジア民族の自立をはかる大業なのだ」と日本軍は、動揺しはじめた熊の心にこんこんと説ききかせた。事実、理想はそうであった。だが、日本は自分の足下をたがやすことをおろそかにして、理想に走りすぎていた。

 しかし、熊将軍は、すっかりこの理想に傾倒した。彼は懸命に日本と日本語を学んだ。そして日本軍のはからいで、直接日本内地にわたり、政界や軍関係の指導的人々に会い、いよいよ心をかためたのである。

 転向した彼は、南京政府の和平軍の中にあっても重要視され、汪精衛や周仏海からもふかく信頼されていた。

 彼の夫人も、女ながらなかなかのピストルの名手で、百人近くの日本軍人を射殺したのだという。夫人がねらうのは、日本軍将校であった。色々の女に変装して将校がちかづいていくと、女であるから相手は油断をしている。そのすきをねらってピストルをはなち、ピストルはその場にすてて逃げ去ってしまう。つかまってもピストルをもっていないのであるから、民衆にまじってしまえばわからなくなってしまう。彼女はとうとう一度もつかまることなく目的を果しつづけたのである。

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  1. 2014/12/19(金) 09:19:34|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 日本軍にとってはまことに恨み多き夫妻であったが、日本は彼らを殺すことをせず、生かして自分の陣営に活躍させることに成功した。

 事変のはじめの頃ならば、あるいは銃殺してしまったかもしれない。だが、日本は武力一点ばりの戦いにはすでに行き詰っていた。殺しても殺しても、撃っても、撃っても、蔣介石の兵力は一向におとろえない。中国の大地の中から湧き出てくるかのように、つぎつぎと用兵は補給される。攻めても攻めても、搗きたての餅のように、おしただけ後へ退いて、さっぱり手ごたえがない。支那事変は政治か外交にたよるより、もはや方法がなかったのである。そこで軍も政治性を発揮して、殺すべきものを生かして活用することにした。熊将軍などは、その手でまんまと成功したよい例であろう。

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  1. 2014/12/20(土) 00:16:34|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 成すべきことを成さねばならぬ時

 志を一つにするということは、国籍とか交友の年月の深さなどに関係なく、固くむすばれるものらしい。戸松と熊将軍とはわずか二ヵ月足らずの交りであるが、すっかり心を許しあっていた。彼らは和平案の具体的方法を熱心に語りあった。

 長く蔣介石の側にあって日本をながめてきた熊は、今までいくつも持上っては水泡のように立ち消えになっていた和平工作の例からみて、まず日本側の軍部と政府の意見の統一を、先決問題とした。

 せっかく現地で芽をのばしても、東京の指導部の中に対立があり、中途でうやむやにされたらなんにもならない。第一、東京を通らない話に蔣総統が乗気になる見込もうすい。そこで結論として、戸松が現地の指導的軍人を説きつつ東京に向かい、さいごに東条首相に会って、現実の実状にてらして説得するということに決した。

 もちろん、これにも決死の覚悟が必要である。軍部内の主戦論者が、まっ先に戸松を反戦主義者としてねらうであろうことはわかり切っている。東京へ行きつく前に、この世から抹殺されるかも知れない。首尾よく東条に会えても、あのがんこな首相が簡単に話に同じるなどとは考えられない。反対に反戦分子としてにらまれ、彼の毒舌と毒芽のむくいを受けねばならないかも知れない。

 だが、機はすでに熟しきっている。成すべき事をなさねばならぬ時はきている。成る成らぬは、すべて日本の宿命にゆだねることにして、志ある者は敢然として生死をふみこえて進むべきであった。

 熊将軍と戸松は淡々とした顔つきで、こうした重大な問題を語りあっていた。

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  1. 2014/12/21(日) 01:14:50|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 語学の達者な中国婦人

 突然、背後に足音がして、中年の夫人が入ってきた。熊夫人である。さきほど、熊将軍が紅茶をはこんできた召使いに中国語で二言三言話していたが、夫人に出て来るように命じたのであろうか。

 三十七、八歳と思われる夫人は、グレーの地味な中国服を着ている。傅式説夫人と同じように、耳飾りや首飾りのような装飾品はなにも身につけていない。体格のいい上体を真直にのばし、思慮ふかそうな顔は眼鏡によって一層理知的な印象をあたえた。

 日本軍将校を百名近くも殺した女性とは見えない上品な物腰で、彼女は小さな声でなにやらわたくしに話しかけてきた。又わたくしには一向に通じない言葉である。

 「奥さん、英語とフランス語のどちらで話しますか。家内はどちらでも話せますから、どうぞ」

 熊将軍が向こうから、戸松の肩越しに声をかけた。

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  1. 2014/12/22(月) 21:24:06|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 呉亜男夫人宅でも、傳式説宅でも、又ここでも、とにかく女性があらわれると必ずイングリッシュとフレンチが登場し、わたくしをまごつかせる。

 半植民地の中国では、西欧の言語を語れるということが、女の教養の一つになっているようである。彼女らは花嫁修業の一つとして、西欧の言語を身につけているのかも知れなかった。他国の蹂躪をうけたことのない当時の日本の女性には、不必要な努力を彼女らは強いられているのであった。

 わたくしが未だ二十歳ばかりの若かりし頃、学校時代英語と数学を得意とした自惚れからぬけきらず、末の兄に「会話の上達する学校をさがしてくれ」とたのんだことがあった。その時、兄はそれに応えず、黙ったままリルケの詩集とジードの「田園交響楽」と夏目漱石の「心」と森鴎外のもの二、三とを送ってくれた。それを一通り読んだ頃にきた兄の手紙は、永久にわすれることのできないほど、心にぐさりと強く突き刺さるものがあった。

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  1. 2014/12/23(火) 21:32:08|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 「直接あなたの人生に必要のないことにのぼせるよりも、自分の抱きかかえている心を豊かに磨くことに力をいれなさい。語学の才能というものは、そう上等の部類のものではない、つまらぬことにうぬぼれてはいかん。女の一番大切なことは顔を磨くことでもない、才をみがくことでもない、心を磨くことだ。その他の美や才能はそこから自然ににじみ出てくるものだよ」

 これが、その頃の日本の大部分の父や兄の娘にたいする教訓であった。西欧の言葉を二種類も三種類も、教養の第一たるもののごとく女性に背負わせている中国の男性は、その無見識と無力を恥とすべきである。

 「どちらも駄目ですよ。日本語の外は……
 日本では学校を出たら女は家庭婦人になるための勉強ばかりやりますから、四、五年たつと英語はほとんどわすれてしまうんですよ。それに外語はきく機会も話す機会もほとんどありませんからね」

 戸松は家庭に慎ましく生きている日本の女性の立場を、笑いながら弁明した。

 「それでは奥さんに、なにか外の飲み物を持ってこさせましょう。サイダーなんか飲みますか」

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  1. 2014/12/24(水) 13:09:22|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 熊将軍は夫人にかわって、細かく気をつかっている。二言三言夫人に何やらいうと、夫人はうなずいて引下っていったが、間もなくサイダーと果物を運んできた。夫人自らが客のために立ち働くところは、客に顔すら見せない潘の夫人達と違って、解放的な近代教育をうけているからであろう。

 わたくしはこの夫人と少し話しあってみたいという気持にかられた。しかし彼女は日本語が語れない。そして、わたくしは北京語も上海語も話せない。しいて話したいと思ったら、熊将軍に通訳してもらうか、ほかに文字による意志の交流の方法もある。これは呉夫人がよくつかう手だ。どうも発音が通じなかったり、言葉がわからない時には、紙に漢字をかいて見せる。一句一句を漢字であらわすと大体見当がつく。漢字は日本と中国とを結ぶきずなである。これ程精巧に宇宙観から人倫、事物の形態までを包含した文字が外にあるであろうか。この点だけでも中国の先覚には敬意を覚えずにはいられない。

 夫人は黙々としてサイダーをぬき、コップについで二人の客と夫に配ってあるいた。元来無口な人だと見えて、夫にたいしても返事以外はあまり語らない。

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  1. 2014/12/25(木) 16:48:41|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 彼女自身、日本の若い夫婦にたいして、どういう態度をとっていいのかわからないのかもしれない。儀礼的に座に列しているといった風な固苦しさがあった。夫人から見たら、わたくしも又うぶうぶしく窮屈に見えたかもしれない。わたくしは夫人に親しみたいという気持を持ちつづけながらも、黙ったままサイダーを口にあてた。

 熊将軍と戸松の話がおわったら、彼らをまじえてにぎやかに談合が出来るのではないかという期待があった。それをひそかに待っていたのであるが、用談がおわると戸松はすっくと立上り、熊夫妻に挨拶をはじめた。わたくしもサイダーのコップを下へ置くやいなや、あわてて立上った。

 なにしろこんな時の彼の態度はびしびしとして早かったから、ゆっくり馬鹿丁寧に挨拶などしていると間に合わない。彼は常に二度三度と頭を下ることをいましめていた。一回以上頭をさげる必要はない、そのかわりきちんとした立派な礼をするようにというのが彼の持論であった。わたくしはうやうやしく一礼すると、急いで戸松の後を追った。

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  1. 2014/12/26(金) 13:12:42|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 断食の決意

 その夜はしばらくぶりに滬西の家で、牧谷の家族や堀下夫人と一緒に食事をとった。堀下はすでに香港にいっていなかった。

 「ぼくは内地へ帰ることにきめたよ」

 「?……」

 突然の戸松の宣言にみなぽかんとしたまま、返す言葉がない。

 「われわれの日中和平論をひっさげて、関東軍、朝鮮軍の指導級を説き、内地にいって東条まで意見具申してくるよ」

 「ほう……それで、出発はいつ?」

 こういう話になると、牧谷は上体をつき出すようにして眼をかがやかせる。

 「うん、その帰国許可をとることが難関なんだ。この春、結婚する時に帰ったばかりだからね。」

 「なるほど……」

 「ところが、いい考えがあるんだよ」

 戸松は得意そうな顔で一座を見わたした。熊将軍宅からここまで来る間に、彼の胸の中にはすでに計劃が次々と組立てられていたのである。

 「この間下痢でひどい目にあった時、軍医に二回ほど見てもらったが、下痢がひどいのと衰弱がはげしいのに彼びっくりしていたんだ。あれっきり見てもらっていないから、あのまま長びいたことにして内地へ転地療養を申出ようと思うんだ」

 「うーん、そいつは名案だ」

 牧谷はうなるような声で賛同し、婦人達は様子がはっきりつかめないながらも、もっともらしい顔をしてうなずいて見せた。

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  1. 2014/12/27(土) 12:38:43|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 「それには、もっと衰弱しなきゃならん。そこでね、これから二十一日間の断食をしようと思う。目的は二つだ。一つは今いったように転地療養の必要な身体になること、もう一つは心身の鍛錬と沈思熟考のためだ」

 二十一日間の断食ときいて、わたくしはびっくり仰天した。

 病気のために食べられないとか、災害のため食べ物がないとかいうならば我慢することも出来よう。だが一つの目的のために、自発的にそんな長期間食を断つことが人間にできるであろうか。ガンジーが五十日間も断食して、英帝国主義に無抵抗の抵抗を試みたことはきいていたが、それは超人的な聖者の場合だと思っていた。

 この人は大変な夫だ~自分には手のとどきそうにもない所に、彼が立っているように思えた。

 「そんな事をして死んでしまわないかね」

 病気上りのげっそりこけた顔を、みんな心配そうに見つめている。

 「大丈夫だ。昔からえらい奴はみな断食修行したものだ。断食すると一切の病根がとれ、古い細胞が生まれかわるから、かえって健康になる。それに頭がすんで良くなることもたしかだ。ぼくはこれまでに二度体験したよ。最初は満鉄にいる時だ。その頃、熱河省に中共軍が出歿してね、満鉄社員が狙われてよく殺されたものだった。

 ぼくのいるところへもやってくるらしい噂がたったとき、ぼくは断食と無言の行で中共軍と対決してやろうと思った。無抵抗ではあるが、断食と無言の行で中共軍に応対するんだということを紙にかいてね、その前に一週間座っていたんだ。

 外の人は夕方になると、日本軍の警備している地区へ引きあげていくんだ。ところが、高橋亀吉という勇ましい男がいてね、そいつもがんとしてがんばっていたよ。二人で決意して待期していたのに、中共軍はぼく達のところへはとうとうやって来なかった。二度目は陸軍省にはいる時、郷里の山奥にある古い神社で二十一日間の断食をした。

 高い石段の下にきれいな出水があってね、ときどきそこへ下りてビンに水をつめ、それを飲みながら坐っていた。全然人里はなれている上に、何百年もたった杉が全山鬱蒼と茂っているんだ。最初の一日二日は、真夜中になるとさすがに気味が悪かったね。だが、一週間もたって腹がすききって頭だけがさわやかになって来ると、一切の恐れも心配も欲望もなくなってくる。ただ、天地と純一な自己があるだけだ。人間はこういう体験をしてみないと、本当に自己をつかむことは出来ないよ。

 あの時は父や母が心配してね、絶対にくるなといっておいたのに、それでも父が毎朝こっそり様子を見にきたそうだよ。その山の下にある部落の連中は、ぼくが気違いになったといっていたそうだ。

 今度は三回目だ。一生の中に四、五回はやってみようと思っている。この次はどんな機会にやるようになるかな。」

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  1. 2014/12/28(日) 15:44:17|
  2. 永遠の道 戸松登志子著

第一巻春雪の巻

 断食を礼讃し、楽しんでいるような話ぶりである。

 「病気のあとでそんな事していいのかしら?」

 わたくしは内心まだ納得できない。

 「なにを云うか、あと二、三日したら元通りの体力にかえるよ。まず、身体をととのえておいて、それから改めて断食だ。役所は引きつづき病欠にしておけばよい」

 「どこでやりますか?」

 「七友小築でいいだろう、あんた、いやなら滬西へ来ていなさい。まわりでうろうろ心配されるよりぼく一人の方がいい」

 こういう場合の彼の決意を誰がうごかすことが出来ようか。わたくしは彼の邪魔にならないように、七友小築にとどまることに心をきめた。

 その翌日、彼は呉夫人からもらった白絹を出すように命じた。

 「これで着物をつくってくれ」

 「白い着物?」

 白絹の着物をつくって一体なにをする気だろう。わたくしはとっさに武士の切腹の装束を連想して、胸にひやりとするものがあった。

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  1. 2014/12/29(月) 20:56:35|
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國 乃 礎

Author:國 乃 礎
   綱 領
政官財・癒着根絶
マスコミ横暴撲滅
国賊売国奴殱滅
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