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酒田の遺跡研修旅行・春編

2024.06.18(11:21) 336

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逆さ鳥海山

いいねえ、いいねえ
山中湖に映る逆さ富士に勝るとも劣らない逆さ鳥海

もう1か月も前になりますが田植えが始まる頃に酒田に行った時の写真です。
5月19日、山形県立「うきたむ風土記の丘考古資料館」研修事業で酒田地区の遺跡を見学しました。マイクロバスに乗って25名が参加しました。


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最初に着いたのが飽海郡松山にあった松山城の本丸跡

ここに江戸時代、庄内藩の支藩松山藩の藩庁が置かれました。最初は飽海郡中山村に松山陣屋を構えていましたが、天明元年(1781年)に新たな築城が始まり7年後に松山城が完成しました。戊辰戦争では宗家の鶴岡藩と行動を共にして奥羽列藩同盟に加わり敗れました。建物は取り壊され、現在は松山歴史公園となっています。
【以下記事は研修資料やウィキペディアを参照しています】


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大手門

松山城大手門は東北に残る最古の城郭建造物です。大手門と言われていますが三の丸の櫓門です。築後八年後に落雷で焼けます。でも酒田の本間家三代目、本間光丘の援助ですぐに再建されました。



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松山文化伝承館で保管、生石2遺跡の土器

生石2遺跡は弥生時代と平安時代の遺跡です。
県指定の土器は弥生時代前期のものとされ、3つの系統が混在しています。1つ目は東北北部の砂沢形土器で縄文文化の名残を色濃く残す。2つ目は西日本の影響を強く受けた遠賀川系土器。3つ目は両方の特徴が混じり合った折衷系土器。これら3つの系統は同一の時期に共存し縄文文化と弥生文化が巡り合い、戸惑いながらも一つになろうとしたことがうかがえます。これらの資料は東北の弥生時代の開始期に北九州の弥生文化の遠賀川形土器が日本海を北上して伝播するための基点となった形跡を示す第一級の資料と言われています。



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史跡 城輪柵(キノワサク)と鳥海山


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城輪柵の東門


今回の研修でここが一番見たかったところ、城輪柵です。

酒田の市街地から北東方向に八幡町城輪地区があります。今は広大な田園地帯ですがその一角に平安時代に作られたであろう出羽国府の復元施設が朱色の門構えで雲爺に迫ってきました。一辺が720メートル方形の総面積約52万平方メートルあります。昭和6年(1931年)に国の史跡に指定されました。


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ロ形の区画の内郭に政庁が置かれています。
下側の外郭から内郭の南正門へ向かい南大路が通じています。右手も東門に通じています。


【画像はグーグルマップより】

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発掘風景


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政庁の建物配置

中央に正殿、東西脇に両脇殿、後ろに後殿、後殿の両脇に脇殿が発見され、この周囲を一辺115メートルの築地塀が巡る政庁であることがわかりました。


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政庁の基礎柱址

城輪柵に来てみて中の感動と大の落胆を覚えました。落胆は築地塀と称される塀が外郭内郭共にめぐらされていなかったことと、朱色の門が四門あるのに二門しかなかったことです。建物が無いのは致し方ないとしても、せめて塀と門は当時を再現してほしいですね。往時の鮮やかな政庁としてのイメージが持てません。羅生門、地獄門みたいでは情けない、もったいないです。こんなところあったの、知らなかった、ぜひ行ってみたいという方いっぱいおられますよ。平安ブーム、インバウンドブームの中、山形県の新たな地方観光の目玉になり得ましょう。 国指定じゃろが、国は金出してやれよ、酒田も新たに目覚めんとな。😂 


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外郭東門の柱根

昭和30年に大量の建築材などが発見され遺跡であることが判明しました。



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建築部材、資材


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出土土器

文字が書かれた墨書土器もあります

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奈良時代に入り712年(和銅5年)山形県域も国の行政組織の中に組み入れられました。内陸部の置賜郡や最上郡(今の山形市付近)はそれ以前は陸奥の国に属していましたが、間もなく庄内地方を中心とした出羽の国に編入されました。そして8世紀中頃から今の山形・秋田両県を含む領域が出羽の国と言われました。それでは平安期からの出羽の国の国府と言われる城輪柵の以前にはどこに国府が置かれたのでしょうか。日本書紀に現れる「出羽柵」と同じ場所で庄内地方のどこかにあったらしいのですがわかっていません。鶴岡市南部や最上側河口付近などの説はあります。



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その後国府は天平5年(733)頃一挙に北進して秋田市高清水(秋田城)に移り、しばらく機能していましたが、北辺にえみしの動きが活発化したことなどにより、奈良時代の宝亀の頃に南に移すことが検討されました。その間「河辺府」をへて、815~819年の間に建置された「出羽郡井口」の地にある国府が城輪柵であろうと考えられています。

その後城輪柵は変転しますが、律令制が衰退する11~12世紀にはこの地も荒れて、国府政庁は近くの元楯の新田目城又は以前から懸案である内陸部の山形市近くに移ったらしいとされています。城輪柵は墓地に変わったようでした。


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堂ノ前遺跡        【画像はグーグルマップより】


城輪柵の近くの田んぼの中に堂の前遺跡があります。
昭和30年に大量の建築材が発見されて遺跡であることが判明しました。
2010年に堂ノ前遺跡の伽藍配置が「鎮護国家の伽藍配置」である説があり9世紀前半に国府機能が秋田城から城輪柵に移った後の付属寺院であるとされました。

私が乗ったマイクロバスは今度はどこ行くのかなあと思ったら、細い農道を脱輪せんばかりに巧みな運転で前進するのでした。国分寺跡と推定されるすごいところに着きました。



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現地の看板


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次に訪ねた八森遺跡         【画像はグーグルマップより】

八幡町地区の高台に旧石器時代、縄文時代、平安時代の複合遺跡があります。上方に見えますね。

昭和52年から継続して発掘調査が行われ、その結果、1辺約90メ年のートルの方形に板塀で囲まれた中に古代官衙の建物配置を持つ6棟の礎石あるいは掘立柱による建物跡が発見されました。850年の庄内大地震で城輪柵の近くまで津波が来たため、一時的にここに八森に移したという説があります。



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向こうに跡が残っています。



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出土石器

旧石器時代では後半期の東山型ナイフ形石器を持つ石器群と、西日本に中心を持つ国府型石器が単独で出土しています。


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旧石器時代終末期から縄文時代草創期の石器群は両面加工尖頭器、掻く・削器、石斧からなります。



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酒田の歴史 【画像は酒田市文化資料館の資料から】

庄内藩を揺るがした天保の「三方領地替」が取り消され藩を上げて喜び祝う様子を描いた「大壽和里大催事」絵幕

酒田の町は古くは向酒田といい袖ケ浦(宮の浦)のあたりにあったようです。酒田は平泉より落ち延びて来たと言われる藤原秀衡の妹の徳尼公とその家来36人がこの地に来たことが発祥の由来と伝えられています。徳尼公亡き後36人の遺臣は向酒田の地侍となり船問屋を家業とし、町政を担当したと言われます。室町時代頃にはすでに泉州堺や播州などと廻船による物資の交流はありましたが、最上側の流路の変化とともに袖ケ浦は船着き場としての条件が悪くなりました。そのため船着き場として便利の良い最上川北岸への移転が三十六人衆によって計画されました。江戸時代の寛文12年(1672)出羽の国の御城米を運ぶため、川村瑞賢によって西回り航路が整備されました。最上川の河口に位置し、航路の基点になった酒田は日本海交易の拠点として発展を遂げ、日本有数の湊町として知られるようになりました。


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山居倉庫

2021年3月に国指定史跡となった山居倉庫は明治26年旧藩主酒井家によって建てられたコメ保管倉庫です。白壁、土蔵造り12棟からなる倉庫群の内9棟は2022年まで農業倉庫として使用されていました。コメの収容能力は10,800トン(18万俵)。夏の高温防止のため背後にケヤキ並木を配し、内部の湿気防止には二重屋根にするなど、自然を利用した先人の知恵が生かされた低温倉庫です。






6月18日
県南囲碁会事務局  平吹


山形県・県南囲碁リーグ戦


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コメント
内田康夫著。沃野の伝説。

浅見光彦が新潟県の魚沼群から、米を運ぶトラックを追跡して酒田市にある大きな米貯蔵倉庫にたどり着きます。山居倉庫。ここだったのすね。本ではイメージが湧きませんでしたが、この写真を見て実感しました。日本の原風景を感じます。
【2024/06/19 20:30】 | やじ馬。 #- | [edit]
ご投稿ありがとうございます。
山居倉庫発見出来、お役に立ててうれしいです。

内田康夫氏、推理作家なんですね。私も推理小説好きですが読む機会少なく
名前知りませんでした。沃野の伝説 早速読んでみたいです。

日本史、地方史にしても知らないこと多く逡巡の日々が流れ、
振り返ればもう80歳まじかです。
最近歴史の会に入って逡巡を壊してくれる機会が持てたから、
自分では実現出来ないチャンスを手👍に入れることが出来ました。
ご投稿のお陰で内田氏を読む機会が出来ました。
人生ほんと、人のお陰で生きられるんですね。
【2024/06/20 10:03】 | きりちがい #- | [edit]
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