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行錄(10)「汝向後北去」(あなたはこの先、北へ向かうといいでしょう)「臨済録」より
臨済は黄檗のもとで修行をしていましたが、大悟するためには大愚と出会う必要がありました。 大悟の後、自らの禅風を確立するためには首座とともにする修行が役立っています。 さらには、普化との出会いもとても大切なのですが、そのきっかけは溈山と仰山のもとを訪れた時に与えられています。 臨済の修行は、この
行錄(9)「賊是小人、智過君子」(賊は小人ですが、その智は君子以上ということでしょう)「臨済録」より
黄檗が持っていた鍬を臨済がさっと取り上げてしまいます。 この場面は、どのようなことを私たちに伝えようとしているのでしょうか。 溈山にその意味を問われた仰山が答えます。 鍬を取り上げた者はまだまだ小人だが、その知恵は十分で君子以上です、と。 ここでもやはり、その後の臨済の活躍を予言しているよう
行錄(8)「兩彩一賽」(一度の勝負で二度勝ち)「臨済録」より
臨済は僧堂で居眠りをしています。 一方の首座は僧堂で坐禅を組んでいました。 そのどちらもが、黄檗を相手にして動じる素振りを見せません。 後に、仰山が言います。 この場面では、二度の勝ち目が出ている、と。 それはどのように解釈したらいい言葉でしょうか。 黄檗は二人の良き後継者を得た。 そ
行錄(7)「首座云、知即得」(首座が言った、それを知っているならまあいいでしょう、と)「臨済録」より
臨済は、黄檗が来たのに気づいて、目を閉じました。 その様子に黄檗は恐れをなしたようにして、方丈に帰ります。 黄檗の後について方丈に行った臨済は、黄檗に礼拝します。 自分を認めてくれた黄檗に感謝を示しているようです。 黄檗はまだ若い臨済の資質を認めていました。 そのような黄檗と臨済の振る舞い
行錄(6)「正賊走卻、邏蹤人喫棒」(賊本人は走り去り、取り締まりの警邏が棒をくらったようなものです)「臨済録」より
臨済は、黄檗の棒の一打をとらえ、押し返して、黄檗を倒してしまいます。 黄檗を助け起こした維那(いな:僧堂に集まった僧たちの取りまとめ役)が、かえって黄檗の一打を受けてしまいます。 これを後に溈山と仰山が話題にしています。 賊本人はその場から逃げてしまい、残っていた警邏が棒で打たれたようなものだ
行錄(5)「師侍立德山次、山云、今日困」(師が徳山のそばに立っていると、徳山が言った、今日は疲れた、と)「臨済録」より
徳山は坐禅を終えて、疲れた、と言ったのでしょうか。 それを聞いた臨済は、徳山がなにか寝言で言ったぞ、と返します。 徳山は臨済を打ちます。 臨済は徳山が腰を下ろしていた坐禅用の椅子をひっくり返します。 徳山は、その時、一緒にひっくり返ったのかもしれません。 そのまま徳山は居眠りでも始めたので
行錄(4)「深山裡栽許多作什麼」(こんな深山の奥に松を数本植えて、それでなにをしようというのか)「臨済録」より
黄檗は、岩山に松を植え、後に続く人たちのための道標にするというのを聞き、臨済の修行の到達点を見たのかもしれません。 松は、紅葉樹が散った後も葉を残すもの。 そのような松の木を、黄檗のもとで育てたのは臨済である。 後の人たちは、臨済の業績を松の木に見立てて書き残した。 そのようにも読み取れる文
トラウマセラピストの花丘ちぐさです!昨日から回避性愛着障害のことについて書いています。もちろん、状態が深刻な方から、ちょっとはいってるな~、という方まで幅があ…
行錄(3)「非但騎虎頭、亦解把虎尾」(虎の頭に乗ったばかりか、虎の尾まで捕まえていたのです)「臨済録」より
臨済は、黄檗が大愚に一撃を喰らわせたいものだと言うのを聞いて、それならこの場で喰らえと平手打ちをします。 黄檗は臨済の変化や成長をそこに見たのでしょう。 侍者に、臨済を参堂に連れて行かせます。 そのあとに溈山と仰山とのやり取りが書かれています。 臨済は虎の頭に乗っただけではなく、尻尾も掴まえ
行錄(2)「元來黃檗佛法無多子」(もともと黃檗の仏法にややこしいことなどなかったのだ)「臨済録」より
臨済が黄檗に仏法の根本義を尋ねたところ、黄檗はただ棒で打っただけでした。 それを大愚に話したところ、大愚は、黄檗は老婆のような親切心で教えているのだ、と説明します。 その言葉を聞いたとたんに、臨済は大悟します。 このときから、臨済は自身の禅風を発展させるようになります。
行錄(1)「汝向高安灘頭大愚處去、必為汝說」(高安灘頭の大愚の所に行け、必ず汝のために説いてくれるだろう)「臨済録」より
首座は、まだ若い臨済に、将来性を見ていました。 その言葉を理解した黄檗は、自分のもとを去ろうとする臨済に、大愚の所に行け、と言います。 臨済は黄檗と大愚との間を行き来することで大悟します。
勘辨(22)「祇聞空中鈴響、隱隱而去」(ただ空中に響く鈴の音が、ありありと耳の底に聞こえ、それが遠ざかって行くのみであった)「臨済録」より
陰々と鈴の音が聞こえ、それが遠ざかっていく。 そのようにこの「勘辨」編は終わります。 「勘辨」で語られたことから、私たちはどのようなものを感じとれたでしょうか。 それを振り返るとき、耳の奥で微かに響く音が聞こえているような気がします。 そして、それは次第に遠ざかっていきます。
勘辨(21)「徑山五百衆、太半分散」(径山にいた五百人の僧たちは、その大半が立ち去ってしまった)「臨済録」より
径山のもとに着いた臨済は、挨拶もせず、旅装を解くこともなく、振り向こうとする径山に一喝を浴びせます。 径山が一言を発するひまも与えず、臨済はその場から去ってしまいます。 そこでなにが起こったのか。 それを問う僧に径山は答えます。 「あの男に直接聞いてみろ」 それで多くの僧たちは径山のもとを
勘辨(20)「肯即深肯、要且無祖師意」(認めることはとても深く認めているのだが、つまりはそこにも祖師西来意はないな)「臨済録」より
還暦前後から老後の暮らしを豊かにするための東洋、西洋、仏典などの古典の紹介。
臨済が説く四種類の喝を整理すると次のようになります。 ・金剛王の宝剣:ズバリと本質に切り込むもの ・金毛の獅子:迫力で身の危険を感じさせるもの ・見せかけの餌:チラチラ見せておびき寄せるもの ・役立たずの一喝:ただの大声 臨済はこれらの喝を、使い分けているということでしょうか。
勘辨(18)「定方禮拜、忽然大悟」(定上座は礼拝をしたその時、忽然と大悟した)「臨済録」より
定上座は臨済に祖師西来意、つまり仏法の根本義を問います。 臨済は言葉で返さずに、定上座に平手打ちを与えます。 礼拝をしないのかと側にいた僧に言われ、礼拝をしたときに大悟します。 麻谷は十二面観音の顔の中でどれが正面を向いているのかと問います。 臨済は立ち上がり、麻谷をつかまえて十二面観音
勘辨(17)「州便問、如何是祖師西來意」(そこで趙州は問うた、如何なるかこれ祖師西来意、と)「臨済録」より
趙州は、たまたまどこかへ出掛けた先から戻ったところの臨済に会います。 そこで、いわゆる「祖師西来意」を問います。 祖師西来意とは、達磨大師はどうして中国に来たのか、という質問ですが、これは同時に仏教(禅)の本義はなにか、という問いでもあります。 臨済は、今帰って来たところで、足を洗っているのだ
勘辨(16)「覺云不審」(大覚は言った、ごきげんよろしゅう、と)「臨済録」より
臨済は大覚を呼び出し、お前は先ほど、あいさつをしなかったのか、と問います。 大覚は、即座にあいさつをして下がります。 そのあいさつは、二人の間の親しさのようなものの表現ではなく、むしろ「なんでもない」ということを意味しているように思えます。 そして、そのような振る舞いこそ、臨済が求めていたもの
勘辨(14)「普便喝。師乃打。」(楽普はそこで一喝した。師はすぐに打った。)「臨済録」より
「ある者は棒を用い、またある者は喝したものだ。お前はいずれかを自らのものにしたか」 臨済の問いかけに、楽普はまだどちらも自らのものになっていないと答えます。 その次の瞬間、臨済と楽普は一棒と一喝を交わします。 この短い対話は、まるで剣術の立ち合いをみているようです。 一瞬の隙をうかがって
勘辨(13)「如何是露地白牛」(露地の白牛とはなんだ)「臨済録」より
露地白牛とは、仏教の故事に由来する言葉です。長者が子供たちを火から救うために、白い牛が引いた車を用意し、子供たちはその言葉に誘われるように外に出ます。露地は仏教者が集まって修行をする場所、白牛は仏であり、仏教者が求めているもの、と解釈されます。二人は、その露地白牛について、それぞれ「モー、モー
勘辨(12)「金屑雖貴、落眼成翳」(金の屑は高貴だといっても、眼に入れば翳りとなります)「臨済録」より
仏や祖師というものは高貴なもの、僧たちが目指すべきものかもしれません。しかし、それを目の前に置いて、それに達するべくここで過ごしているのであれば、それは僧たちの目にはただの翳りを生じる邪魔ものになるのではないか。それは、普段の臨済の言葉とは矛盾があるように思われます。そこを王常侍は言っているように読
勘辨(11)「道得也三十棒、道不得也三十棒」(言い得たとしても三十棒、言い得なくても三十棒)「臨済録」より
德山は、言い得たとしても三十棒、言い得なくても三十棒と言いました。しかし、楽普とのやり取りでは、棒で打つことをやめ、方丈に戻りました。臨済は、德山を「なかなかやるものだ」と評価しました。一方で楽普は、自分自身の経験から何を学んだのか、速やかに言うことはできませんでした。それで臨済から一棒を受けました
勘辨(10)「適來是汝喝老僧」(先ほど汝はこの老僧に一喝したのか)「臨済録」より
楽普の「座主、今いるところをどのような場所と思って、同じだと言い別だと言うのですか」は、どのような意味でしょうか。同じ、とか、違う、というのは、区別するときに使う言葉。そのような区別は不要である、と言っているようにも読めます。座主を送って来た臨済に、先ほどの一喝は誰に対したものか、と尋ねられます。
勘辨(9)「師以杖面前畫一畫云、還糶得這箇麼」(師は杖で面前に一線を書いて言った、さて、これも売ることができるか、と)「臨済録」より
臨済録の一節「院主は、臨済の「どこに行ってきたのだ」という問いに、「街中でもち米を売ってきました」と答えました。 それに対し、臨済はさらに、地面に杖で線を一本書き、「これは売ることができるか」と尋ねます。
将校と臨済のやり取りから、いくつかのことが読み取れます。 まず、将校が答えなかったことには、理由があるかもしれません。臨済の話をすでに聞いたことがあれば、「聖か凡か」という問いに簡単に答えるべきではないと考えたでしょう。あるいは、ただ戸惑っただけかもしれません。 次に、臨済は将校が答える前に、さ
勘辨(7)「官馬相踏」(立派な馬同士の蹴り合いだ)「臨済録」より
老和尚が臨済に尋ねます。そなたに礼拝したらよいのか、しないのがよいのか、と。これはどのような意味の質問でしょうか。臨済が礼拝に値する段階まで進んでいるのか、それともいまだ不十分な段階なのか。そういう、臨済を試すような質問だったのでしょうか。「賊」という言い方がここでも出てきます。これは普化に対しても
勘辨(6)「明頭來、明頭打、暗頭來、暗頭打」(明で来たなら、明で打ち、暗で来たなら、暗で打ち)「臨済録」より
街中で話している普化のところに、臨済は従者を行かせます。 そして普化を掴まえて、問わせます。 それに対する普化の答えは、やはり何ものにも囚われないところからの言葉でした。 これを伝え聞いた臨済は、普化の存在が、自分自身の禅に欠かせないものであることを、改めて知ったのかもしれません。
勘辨(5)「普化云、汝且道、我是凡是聖」(普化が答えた、それは汝が言え、我は凡愚か聖者か)「臨済録」より
普化は臨済の一喝をものともせず、臨済の懐に入り込み、逆に臨済を投げ飛ばしています。臨済は普化のことを「賊」と言いますが、これは臨済が修行僧たちに繰り返し説いていた「経典の言葉、教義などに囚われないありのままの自分自身」で生きている人のことではないでしょうか。
勘辨(4)「瞎漢、佛法說什麼麤細」(どこを見ている、仏法は雑だの細かいだのと説いてなどいないぞ)「臨済録」より
普化は、臨済の問いに、食事の載った膳を蹴り倒して答えました。毛や芥子粒はとても小さいものなのに、巨海や須弥山が入ってしまうのはなぜかという臨済の問いに対する、普化なりの答えでした。普化は、言葉で説明できるようなものではなく、今、ここにそのままの姿でいることだということを言いたかったのかもしれません。
勘辨(3)「和尚前日打普化作什麼」(和尚は前日、普化を打ったのはどうしてですか)「臨済録」より
還暦前後から老後の暮らしを豊かにするための東洋、西洋、仏典などの古典の紹介。
勘辨(1)「大似勾賊破家」(まったく勾賊破家、捕まえた賊に家財をすっかり持ち去られたようなものです)「臨済録」より
還暦前後から老後の暮らしを豊かにするための東洋、西洋、仏典などの古典の紹介。日記や昔の思い出など。
示衆(47)「爾但自家看。更有什麼」(君たち、ただ自分たちの目で見よ。それ以上の何があろうか)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の47回目です。 語り続けた臨済の言葉が、ここで一旦終了します。 さて、どのような言葉で終わるでしょうか。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」の声が戦乱と混沌の世に響いた 臨済の生きた時代 ...
示衆(46)「龍象蹴踏、非驢所堪」(龍象の一蹴りは、驢馬の耐え得るところではない)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の46回目です。 臨済の言葉の真意をいまだ理解できない様子の修行僧たちに、それでも臨済は語り続けます。 自分も修行を始めた頃はなにもわかっていなかった、と。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」の声...
示衆(45)「飢來喫飯、睡來合眼」(腹がへったら飯を食い、眠気がきたら目をつぶる、それでいい)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の45回目です。 自分たちがこれまで一所懸命に学んできたことや、自分の身分などにすがり続ける僧たちに、臨済はさらに語り続けます。 そんなものは、私は認めない、と。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!...
示衆(44)「若人求道、是人失道」(もし人が道を求めれば、人は道を失う)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の44回目です。 臨済の下に集まった修行僧たちへの言葉が続きます。 いつまでも自分自身を認めることができない人たちに向かって語ります。 無駄なことはするな、と。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」...
示衆(43)「殺父害母、出佛身血、破和合僧、焚燒經像等、此是五無間業」(父を殺し母を害し、仏身から血を出させ、和合僧を破り、経象を焼き捨てる、これが五無間業である)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の43回目です。 ここでは臨済は修行僧の問いに答える形で「五無間業」を説明しています。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」の声が戦乱と混沌の世に響いた 臨済の生きた時代 問、如何是...
示衆(42)「一心不生、萬法無咎」(一心が生じなければ、何があっても問題なしだ。)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の42回目です。 祖師達の言葉や経典の文字を学ぶことで、その先に何かが得られるという修行僧達の思い込みはなかなか解けません。 臨済は言葉を続けます。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」の声が戦乱と混沌の...
示衆(41)「佛常在世間、而不染世間法」(仏は常に世の中にありながら、世の中の物事に染まることはない)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の41回目です。 修行僧たちは、相変わらず修行の先に自分たちの思い描く何かが得られると思っています。 そしてそれをなんとかして確かめようと問い続けます。 しかし、臨済は繰り返し、そんなものは無いのだと説きます。 臨済録の原文全文は...
示衆(40)「為爾向一切處馳求心不能歇」(君たちがなにかを求めてそこら中を駆け回るということをやめないからわからないのだ)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の40回目です。 修行僧たちと臨済との対話は続きます。 僧たちは繰り返し、修行で得られるものは何かを確かめようとします。 それに対して臨済はどのように答えるでしょうか。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「...
示衆(39)「如何是真佛真法真道」(真の仏、真の法、真の道とはどのようなものでしょうか)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の39回目です。 ここでは、改めて「真の仏、真の法、真の道とはどのようなものでしょうか」と修行僧が問います。 それに、臨済はどのように説くでしょうか。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」の声が戦乱...
示衆(38)「真佛無形、真道無體、真法無相」(真の仏は無形であり、真の道は無体であり、真の法は無相である)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の38回目です。 「心心不異處(心と心が異ならないところ)」とはどのようなものか。 その問いに答える臨済の説明の、終わりの部分になります。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」の声が戦乱と混沌の世に...
示衆(37)「大德、爾莫認衣」(諸君、衣に気を取られたりするな)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の37回目です。 師や先達のもとを訪れる修行僧たちは、誰もが彼らの様子であったり、言葉であったりするようなものに捕らわれてしまいます。 そんなものはどれも無意味だと臨済は言います。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください...
示衆(36)「幻化空花、不勞把捉」(幻想の現れや空に浮く花を、つかみ取ろうと苦労などするな)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の36回目です。 臨済はここで、自らの修行で学んだ教えがどのように形作られてきたものかについて述べています。 それは臨済自身の修行の道筋でもありました。 どのように臨済の修行は遍歴していたでしょうか。 臨済録の原文全文は以下のリン...
示衆(35)「幻化空花、不勞把捉」(幻想の現れや空に浮く花を、つかみ取ろうと苦労などするな)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の35回目です。 臨済はこの部分で、生き生きとしている私たちの本体について説いています。 そして、無駄な苦労ばかりするな、と繰り返し話しかけています。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」の声が戦乱...
示衆(34)「擬心即差、動念即乖」(心を働かせるとずれ、動こうとするとそれてしまう)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の34回目です。 ここでは根器(根は感覚器官。眼、耳、鼻、下、身、意の六根)の使い方について説かれています。 臨済は、これらをうまく使いこなすことができるとはどういうことだと説明しているでしょうか。 臨済録の原文全文は以下のリンク...
示衆(33)「譬如潛泉魚、鼓波而自躍」(たとえるなら泉に潜む魚が、水面を波立たせて躍り上がるようなものだ)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の33回目です。 ここでは臨済は「動くもの、動かないもの」について説いています。 これらのどちらにも実体はないと言います。 そのことを用いて、臨済はどのようなことを教えようとするのでしょうか。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご...
示衆(32)「道流、如禪宗見解、死活循然」(諸君、禅宗の見方とは、死活は循然、その場その場で決まるというものだ)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の32回目です。 ここでまた、臨済は師と呼ばれる者と修行僧との対話の場面を四通り語ります。 コミカルな場面のようにも読むことができますが、私たちが何かを学ぼうとしている時の姿にも見えてきます。 四通りのものとはどのようなものでしょう...
示衆(31)「爾一念心歇得處、喚作菩提樹」(君たちの一念心が静まり得たところ、それを涅槃と呼ぶ)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の31回目です。 臨済は、三界にありながら、何ものにも囚われない在り方について説いています。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」の声が戦乱と混沌の世に響いた 臨済の生きた時代 大德...