「戦理に反するいくさ」なぜ?未公開録音で迫る戦艦大和沖縄特攻の謎

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太田啓之
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 戦艦大和が1945年4月、水上特攻作戦で沖縄へと向かう途中、米艦載機の攻撃を受けて撃沈されてから来年で80年。特攻に赴く大和部隊の指揮官が「戦理に反する戦(いくさ)」と断じたほどの無謀な作戦は、なぜ計画・決行されたのか。防衛庁(現・防衛省)の公式戦史も「詳細を知ることはできない」としたその謎に、記者が自ら発掘した元参謀の証言を手がかりに迫ります。鍵となるのは、特攻作戦に影響を与えたとされる「天皇のご下問」の時期です。

 この水上特攻作戦では、大和および軽巡洋艦「矢矧(やはぎ)」や駆逐艦「雪風」など計10隻の艦隊が4月6日、激戦中の沖縄に向けて出撃したが、翌7日に鹿児島県坊ノ岬沖合で米軍艦載機の約2時間にわたる猛攻を受け、大和など6隻が沈没。戦争中の航空機による特攻の全戦死者数に匹敵する約4千人の戦死者を一度に出したが、戦果はほぼ皆無だった。

 当時、「航空機の護衛なしに水上艦艇が作戦を行うことは不可能」というのは自明のことだった。大和を擁する海軍第2艦隊内でも、特攻作戦が命じられる数日前の作戦打ち合わせで「水上部隊をもって最後の突入を企図しても途中において壊滅は必至」とし、水上部隊を解散して人員や兵器弾薬を陸上の戦闘に回した方がよいと結論づけたほどだった。

 特攻作戦を命じる側も赴く側も「成功の可能性は皆無」と考えていたのに、作戦はなぜ決行されたのか。戦後、生き残った海軍首脳は明確な経緯を説明せず、防衛庁のまとめた「戦史叢書(そうしょ)」も「海上特攻隊に関する経緯については、明確なことを知ることができない」と記している。

 今回、記者が発掘したのは、連合艦隊司令部の参謀だった三上作夫さん(1907~96)が88年、旧海軍・海上自衛隊の親睦団体・水交会で証言した録音だ。録音は非公開の扱いだったが、遺族の許可を得て聴くことができた。

 証言によれば、三上さんは鹿…

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