砂のクロニクル 上 (小学館文庫)
船戸与一
小学館
2014-05-23






最初、タイトルが洒落ているなと感じながらも何を意味しているのかピンと来なかったが、
今読了してみると、これぞまさに名と実が一体となった壮大な物語だったと感じ入っている。

1979年のイラン・イスラム革命から、その後イランがどのような道を歩み、
そして10年後の1980年代末の「今」、何が起きようとしているのか?

イランとその周辺の地域で、それぞれの民族や国の歴史(ヒストリー)を軸に、
別々の時間(クロニクル)が流れている。

・グレゴリオ暦(西暦)
・ヒジュラ歴(イスラム暦:太陰暦、メッカからメディナへ移住した聖遷の622年が元年)
・ジャラリ暦(ペルシア暦:太陽暦の一種、ウマルハイヤームが作った。622年が元年)

3つの暦の中で (物語では章ごとに暦が変わる。ここでは、章を奏と表現している)主人公が入れ替わり、
互いに反目し闘争し合う登場人物たちがそれぞれの属する社会で”同じ時”を刻んでいる。

・ハッサン・ヘルムート:イランのクルド人ゲリラ指導者
 イラクのクルド人ゲリラ指導者のサラディンとその妹ハリーダ
・サミル・セイフ:イランの革命防衛隊の小隊主任
・シーリーン・セイフ:イランの人民戦線 (フェダイン・ハルク)のメンバー。複雑な過去。サミルの姉
・駒井克人:日本人の武器商人「ハジ」と呼ばれる。巡礼者ハッジュの意味から
・おれ、わたし:もう一人の「ハジ」。パレスチナからフェダイン・ハルクに派遣されてきた過去をもつ

まず、人口2,000万人以上を有し、国家を持たない最大の民族であるクルド人たちがイラン、イラク、アゼルバイジャン、アルメニアなど彼らが居住する地域からイラン領内の西アゼルバイジャン州のマハバード (クルドの聖地)に独立国家実現を目指すところが発火点となっている。
そこに彼らの武装蜂起のため2万挺のカラシニコフを運び込むため国際的なネットワークを持った武器商人たちが暗躍する。
しかし、それだけが火種ではない複雑な事情が絡み合うのが中東地域の特性だ。
特にイランのホメイニ・イスラム体制維持がその後の変遷をどう辿って来ているかが、内外ともに大きな影響力があり大勢の行方を握る最大要因だ。

イスラム革命後、イランの80年代はアメリカ大使館人質事件と国交断絶、革命の波及の防波堤となったイラクと8年間に及ぶ泥沼の戦争と続き、これまでの道のりは極めて波乱万丈だ。
ホメイニ師の個人的なボディガードから始まった革命防衛隊は次第にイラン国軍と力関係が逆転するほど権力を拡大し、同時に内部から組織の腐敗がはじまっている。

「権力の本質は粛清と乱費だ」
「いつの時代だってどんな体制下でも権力の本質は変わりはしないのだ」
場所は変わるが、武器商人の駒井克人が活動途上でソヴィエト外務省本部の綺羅びやかな建築様式を見て感じとった心象は、歴史、即ち人間がたどってきた道の「真実」を垣間見た風景といえるのはないか。

そしてクライマックスへ

イスラム革命の理念をもう一度取り戻そうとするサミルと、クルドの国家実現を悲願に戦うハッサンの対極の2人が、運命の糸で手繰り寄せられていく。

皆それぞれに自分の<生>をかけた信念と正義がある。
それが革命の幻視のなかにだけ<生>を見つけたとしても。

最後に、このクロニクルの現場を観察することを使命と感じていた わたしは死を前にして回想する。

「結局のところ、わたしは革命という幻だけを追って生きてきたのだろう。
 そのことに何の後悔もない。
 逆だ、むしろ誇りに思っている。
 人間に与えられたもっとも豊潤なものは幻想なのだ。
 他のことはほとんど取りに足らないと言っていい。」

砂に書いたクロニクル。
歴史に記録されることなく、風に飛ばされてしまうのか。

人間とは何か、生き様とは何か、と掲げると大仰すぎるかもしれないが、
個人としても集団としても、そんなことまで考えさせられるような心に残る大作だった。

[補足]
かつて、サルマンラシュディ「悪魔の詩」が神への冒涜としてホメイニから著者へ死を要求される事件があった(その余波で日本語翻訳者の学者は殺害された)。
本作もイスラム革命に対する冒涜とは言わないまでも批判的にならざるを得ない印象があったが、発表当初どうだったのだろう。勇気のいる一面もあったのでは。

[余話]
物語に出てくる土地柄、人柄が「世界を知る」のに面白かった。
カスピ海の西側、黒海との間にある回廊地帯のアゼルバイジャン、アルメニア、グルジアはこのクロニクルにも大きな影響を持っている。

イラクとの国境地帯のザクロス山脈。ここに住むクルドの山岳民族はこの物語の主役のひとつである。
ザクロの語源になっているという一節もある。また地下資源も豊富だそうだ。

マハバードは一時期、短期間クルド人国家ができたことがある
マハバード共和国(クルド語: Komari Mehabad、英語: Republic of Mahabad)は、パフラヴィー朝イラン領内の西アーザルバーイジャーン州西部に1946年、ソビエト連邦の傀儡政権として短期間存在したクルド人国家。大統領はカズィー・ムハンマド。

腐ったリンゴ理論
組織が崩壊していくプロセスは、樽の中にある腐ったリンゴが伝播していくことに例えられ、それをどう防ぐかが問題となる。
金八先生のドラマでは「腐ったリンゴ」ではなく、「腐ったミカン」だったことを思い出した。
「われわれは、ミカンや機械を作っているんじゃないんです。人間を作っているんです!」
組織運営の永遠の課題か。