今日の午後TOEICの試験を受けた。

前回の受験から2ヶ月しかたっていないので、スコアはそんなに上がらないだろうけど、readingの問題を最後まで目を通せたので、ちょっと満足。

しかし、一回の聞き取りで質問に答えるのは難しい。。。語彙不足と英語が耳に慣れていないからなんだけど。。。

来月にまた受験する。そのときのスコアで「その後」を決めないといけない。

 

以前、私は、才能は一瞬のきらめきだと思っていた。しかし今は、十年とか二十年、三十年を同じ姿勢で、同じ情熱を傾けられることが才能だと思っている。

何かに挑戦したら確実に報われるのであれば、誰でも必ず挑戦するだろう。報われないかもしれないところで、同じ情熱、気力、モチベーションをもって継続してやるのは非常に大変なことであり、私はそれこそが才能だと思っている。

一つのことに打ち込んで続けるには、好きだということが根幹だが、そういう努力をしている人の側にいると、自然にいい影響が受けられるだろう。さらに、ぺースを落としてでも続けることだ。一回、一回の集中力や速度、費やす時間などを落としても、毎日、少しずつ続けることが大切だ。

私は、将棋を指す楽しみの一つは、自分自身の存在を確認できることだと思っている、人生は食事をして眠るだけの繰り返しではない。「こういうことができた」「こういうことを考えた」という部分がある。それは楽しさであり、人生を有意義にさせてくれる。何かに打ち込んでいる人には、そういう発見があると思っている。・・・年齢にかかわらず、常に、その時、その時ベストを尽くせる、そういう環境に身を置いている―それが自分の人生を豊かにする最大のポイントだと思っている。

最近、私は色紙を頼まれると、「玲瓏」とよく書く。玲瓏は四字熟語の「八面玲瓏」からとったもので、周囲を見渡せる状況を意味している。同時に、そういう心の状況を表す言葉でもあり、いつも透き通った心静かな気持ちをもいう。

では、それだけある将棋の指し手のうち、人間は、どれくらいわかっているのだろうか。実は、将棋のプロでも将棋のことは意外にわかっていない。亡くなられた芹沢博文先生は多く見積もっても、「(わかっているのは)6,7パーセントくらい」と答えている。最近は体系化が進み、進化したといっても、その数値は今後もほとんど変らないだろう。まさに氷山の一角にすぎない。もし、私が将棋の神様と対局したら、香落ちでは木っ端みじんにやられてしまう。角落ちでやっと勝たせてもらえるだろう。未知の領域はまさに無限の世界なのだ。

将棋には怖いところがある。将棋だけの世界に入っていると、そこは狂気の世界なのだ。ギリギリまで自分を追いつめて、どんどん高い世界に登りつめていけばいくほど、心がついて行かなくて、いわゆる狂気の世界に近づいてしまう。一度そういう世界に行ってしまったらもう戻ってくることはできないと思う。入り口はあるけれど出口はないのだ。私自身、アクセルを踏み込むのを躊躇してる部分がある。経験からも、一年なり二年なり、ずっと毎日将棋のことだけを考えていると、だんだん頭がおかしくなってくるのがわかる。入り口は見えるけれど、一応、入らないでおこうと思っている。

羽生善治 「決断力」

来週、京都でシンポジウムがある。楽しみだ。