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    【 『方丈記』 全訳】 2021.10.30 (Sat)

    『方丈記』全訳⑬/なぜ都会にしがみつくのか

    ≪13.大かた此所に住みそめし時は~鴨長明 『方丈記』 原文と現代語訳≫
    『方丈記』2

     大かた此所に住みそめし時は、あからさまとおもひしかど、今ま(すイ)でに五とせを經たり。假の庵もやゝふる屋となりて、軒にはくちばふかく、土居に苔むせり。
     おのづから事のたよりに都を聞けば、この山にこもり居て後、やごとなき人の、かくれ給へるもあまた聞ゆ。ましてその數ならぬたぐひ、つくしてこれを知るべからず。
     たびたびの炎上にほろびたる家、またいくそばくぞ。たゞかりの庵のみ、のどけくしておそれなし。ほどせばしといへども、夜臥す床あり、ひる居る座あり。一身をやどすに不足なし。


     だいたい、ここに住み始めた時は一時的なものだと思っていたが、今日まですでに五年も経ってしまった。仮の庵もやや「ふるさと(「古い家」「故郷」)」になって、軒には枯葉が深く積もり、土台は苔むしている。
     たまたま用のついでに都の様子を聞くと、私がこの山に籠ってのち、高貴な人が亡くなったとの話をよく聞く。まして下々のたぐいともなると数知れないだろう。
     たびたびの火災でほろんだ家はどのくらいあるだろうか。ただこの仮の庵だけは、のどかで恐れることはない。所は狭いといえども、夜に臥す床があり、昼に居(すわ)る座がある。ひとり身を宿すのに不足はない。




     がうなはちひさき貝をこのむ、これよく身をしるによりてなり。みさごは荒磯に居る、則ち人をおそるゝが故なり。我またかくのごとし。身を知り世を知れらば、願はずまじらはず*、たゞしづかなるをのぞみとし、うれへなきをたのしみとす。(*「まじらはず」を「わしらず」=走らず→あくせくせず、としている版もある。)
     すべて世の人の、すみかを作るならひ、かならずしも身のためにはせず。或は妻子眷屬のために作り、或は親昵朋友のために作る。或は主君、師匠および財寳、馬牛のためにさへこれをつくる。
     我今、身のためにむすべり、人のために作らず。ゆゑいかんとなれば、今の世のならひ、この身のありさま、ともなふべき人もなく、たのむべきやつこもなし。たとひ廣く作れりとも、誰をかやどし、誰をかすゑむ。


     ごうな(ヤドカリ)は小さな貝を好む。これは身の程をよく知っているからである。ミサゴ(タカの仲間)は荒磯で暮らす。すなわち人を恐れているからである。私もまたこのようなものだ。身の程を知り世間を知っているので、出世を願わず人と交らわず、ただ静かでいることを望みとして、憂いがないことを楽しみとしている。
     まったく、世の人が住み家をつくる目的は、必ずしも自身のためではない。ある者は妻子一族のために作り、ある者は知人や朋友のために作る。あるいは主君、師匠および財宝、馬牛のためにさえこれを作っている。
     私はいま、自分自身のために庵をむすんだ。人のためには作っていない。なぜかと言うと、今の世の習わしとこの身のありさまを考えれば、伴侶とする人もなく、頼みとする召使いもいないのに、たとえ広く作っても、誰を泊めて誰を住まわせようというのか。

     

    【続き・・・】

     

     「大かた此所に住みそめし時は、あからさまとおもひしかど、今すでに五とせを經たり。」
     ・・・この方丈庵に住んで5年を経たということは、1212年の 『方丈記』 成立から逆算して、1207~08年ごろに住み始めたことになる。先に長明は「こゝに六十の露消えがたに及びて、さらに末葉のやどりを結べることあり。」 と記しているが、実際は50代前半(1155年生)。
     ・・・なお、「あからさま」 の語はもともと 「少しの間、一時的に」 という意味。現代の 「露骨に」 という使い方は誤用が定着してしまったもの。



     ≪鴨長明と周辺の人々について≫
     【鴨家】
     代々 「賀茂神社」 を運営する鴨家の中でも、もともと長明の血筋は下鴨神社の次官 「禰宜(ねぎ)」 になれない傍系(“氏人家南大路”)だったが、長明の「父方の祖母」 は二条天皇后・高松院の近従をつとめた人だったらしく力があり、その子・長継が異例の禰宜就任を果たす。長継の次子である長明も幼くして「従五位下」に叙位されるなど前途洋々だったが、長明18歳ごろに父が急死(1172)すると暗転。禰宜職は本来の鴨祐季・祐兼の系に戻り、長明は 「縁かけ、身おとろへ」 ることになる。(兄の長守については長明著 『無名抄』 に逸話がある程度でほぼ不詳。長里という子がいた。)
     鴨祐季・祐兼の親子は、長明50歳ごろの下鴨神社系列 「河合神社(ただすのやしろ)」 の禰宜就任にも反対。『方丈記』 読者からは憎まれ役として名が挙がるが、彼らにとっても後継ぎは死活問題。あるべき筋に戻しただけであり、それどころか一族と交わらず、神官職をおろそかにして歌道にうつつをぬかした長明に、後継ぎの資格はないと断じるのは当然であろう。 ただ、彼らは長明のとある和歌の内容を批判したかと思えば、同じ一族として活躍を喜んだりもしているので、何が何でもの目のカタキだったわけではなさそうだ。

     【後鳥羽上皇】
     長明は新時代の歌人のひとりとして多くの和歌集にたびたび入選していたが、官職もない在野の身。必ずしも活躍と呼べるほどではない半生であった。
     転機は(当時はすでに老年期の)40代半ば、後鳥羽上皇の歌会(“正治後度百首”)出席から。歌合戦で当代一の歌聖・藤原定家を打ち負かす活躍を見せて後鳥羽グループの常連となり、『新古今和歌集』 編纂事業の一員に大抜擢された。(和歌所の「寄人(よりうど)」という事務職。実際の選集は定家ほか。)
     長明は 「神官職の出世が叶わず、世捨ての歌楽に生きた」 イメージで語られがちだが、当時は文芸も重要な政治的分野で、彼とて人並みに功名心に燃えていたことだろう。なおざりな神官業とは裏腹に、和歌集編纂にははりきって 「朝夕に奉公した」 との記録が残っている。
     ただし、もとより処世に長けた人ではなかった。出家のきっかけとなったとされる「河合神社就職失敗」事件も、そもそもが後鳥羽の強引な横やり推薦によるもので、一族と交わらず本業をおろそかにしていた長明の就任には、鴨家から総スカンを食らって当然であった。
     はじめは亡父の遺志を継げると感激していた長明も、そこではじめて(!)一族の本音と、自分が置かれた立場を知ったに違いない。(対宗教界の手駒としてか、)後鳥羽からはなおも別の神官職をあっせんされたため、両者の板挟みになった長明は進退窮まって出家した、と見る説がある。
     後鳥羽天皇は長明の25歳下。(源平合戦で壇ノ浦に入水する異母兄・)安徳天皇の在位中に擁立されて即位。『新古今和歌集』 編纂など朝廷権威の復興をめざす一方、武家の鎌倉幕府と対立して 「承久の乱(1221)」 を起こすも敗北、隠岐に流されて没した。

     【その他の著名人】
     長明は 『方丈記』 成立の前年(1211年秋)、鎌倉幕府第3代将軍・源実朝の和歌の師に推薦され、鎌倉に入っている。実朝とも数回謁見しているが、若い実朝はスター藤原定家に心酔していたため、長明の出る幕はなくむなしく帰京している。(『方丈記』 は原稿用紙20枚程度なので、この秋の帰京後から翌1212年旧三月末までの間に書かれたか?)
     また 『方丈記』 のまさに同時期、「浄土宗」の開祖・法然が1212年旧一月に没している。法然・親鸞とは東山~大原~伏見日野という地縁で重なっており、長明自身、浄土教・宗にいくらか傾いていたことはあちこちで伺えるので、法然の死が 『方丈記』 執筆の何かしら原動力になってはいないだろうか、どうか。

     
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