あけましておめでとうございます。
年が替わっても私の生活は大して変わりません。今年もクラシック音楽を聴き続けて行きます。去年変わったことと言えば、何と言ってもネット・ラジオでストリーミング放送を聴くようになったことです。最近CDを聴く割合が凄く減って、ほとんどパソコンで音楽を聴いています。CDを買わなくなったのでお金の面では助かっています。この傾向はたぶんしばらく続くでしょう。今年の最初の記事も、ネット音源によるものです。
では、今年もよろしくお願いします。
オーストリア放送協会のウェブ・サイトでラトル指揮、マーラー「大地の歌」を聴いた。オーケストラはベルリン・フィルではなくて、ウィーン・フィル。2018年にベルリン・フィルの音楽監督を辞任することが決まっているラトル、ベルリンの次なる目標はウィーンか?などと勝手な推測をしてしまうけど、クラシック音楽界においてベルリン・フィルと見合うだけの地位となると、ウィーンしか考えられないのでは?。ラトルはベルリン・フィルとマーラーのチクルスを行っていて、大地の歌も演奏しているようなので、ただ手の内に入った曲を持ってきただけかもしれないけど。
ソリストはミヒャエル・シャーデとマグダレーナ・コジェナ一。シャーデの大地の歌は先日ハーディング指揮のボストン響のライブでも聴いた。あっちこっちで大地の歌を歌っているようだ。
シャーデの印象はボストンの時と変わらない。隈取がハッキリしていて、迫力十分。よく通る輝かしい声で立派な歌を聴かせる。第5楽章「春にありて酔える者」で、乱暴な酔っぱらいの風情を巧みな表現で聴かる所も同じように面白く聴けた。
ハーディングとボストン響が透明感のある繊細な表現を追求していたのに対して、ラトルとウィーン・フィルはもっと雄弁で灰汁の強い表現をしている。第2楽章「秋に独りいて寂しき者」ではもうちょっとしんみりしてくれた方が私が持っているイメージに近いんだけどな~と思ってしまった。
オーケストラは凄く立派な演奏で、立体感もよく出ているし、楽器間のバランスにも配慮が行きわたっている。楽章最後に盛り上がる所の表情も多彩でバッチリだけど、どこか力技で、押し切っている印象が残った。それはコジェナーの歌声にも感じられて、枯淡の表情よりは真っ直ぐな美声を瑞々しく聴かせることで表現しているような気がした。
それも真っとうなやり方なんだろうけど、私の中のイメージ、また曲を聴くときの心境がラトルの演奏と噛み合わなかったということで、多分仕方のないことなんだろう。別の機会に同じ演奏を聴いたら、全く違った印象を持つかもしれない。
オーケストラの表現の巧みさは第4楽章「美について」でも十分発揮されていて、特に中間部で主役が馬を駆る少年に切り替わる所では、唖然とするほどの巧みさだった。テンポの急変を含めて、キャラクターの描き分けは大胆にして繊細。全く惚れ惚れさせられる。
長大な第5楽章「告別」は、冒頭から思いっきりしんみりしてくれて、私のイメージ通りだ。その中で雰囲気がほんのり明るくなったり、急に不穏になったりと心の微妙な揺れまで感じることができるのは、ラトルの指示の巧みさだろう。ウィーン・フィルの弦の純粋な音も美しいし、時々管楽器が表現主義的にゾッとする様な表現をしたりする。コントラパスの捻り声なんかは凄かった。
コジェナーも声量&美声一辺倒でなく、静かに繊細な歌を聴かせる。もっとも全体的にはスッキリ伸びる美声が前面に出てくる。これだけ声が美しければ、そうしたくなるのも領けるけど。
第5楽章で突然音が飛んだところがあったのが玉に暇だった。
グスタフ・マーラー(Gustav Mahler)「大地の歌(Das Lied von der Erde)」
テノール:ミヒャエル・シャーデ:(Michael Schade)
メゾ・ソプラノ:マグダレーナ・コジエナー(Magdalena Kozena)
指揮:サイモン・ラトル(Sir Simon Rattle)
演奏:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(Wiener Philharmoniker)
収録:2013年12月15日ウィーン、ムジークフェラインザール(aufgenommen am 15. Dezember im Großen Musikvereinssaal in Wien)
オーストリア放送協会 この演奏の紹介ページ
年が替わっても私の生活は大して変わりません。今年もクラシック音楽を聴き続けて行きます。去年変わったことと言えば、何と言ってもネット・ラジオでストリーミング放送を聴くようになったことです。最近CDを聴く割合が凄く減って、ほとんどパソコンで音楽を聴いています。CDを買わなくなったのでお金の面では助かっています。この傾向はたぶんしばらく続くでしょう。今年の最初の記事も、ネット音源によるものです。
では、今年もよろしくお願いします。
オーストリア放送協会のウェブ・サイトでラトル指揮、マーラー「大地の歌」を聴いた。オーケストラはベルリン・フィルではなくて、ウィーン・フィル。2018年にベルリン・フィルの音楽監督を辞任することが決まっているラトル、ベルリンの次なる目標はウィーンか?などと勝手な推測をしてしまうけど、クラシック音楽界においてベルリン・フィルと見合うだけの地位となると、ウィーンしか考えられないのでは?。ラトルはベルリン・フィルとマーラーのチクルスを行っていて、大地の歌も演奏しているようなので、ただ手の内に入った曲を持ってきただけかもしれないけど。
ソリストはミヒャエル・シャーデとマグダレーナ・コジェナ一。シャーデの大地の歌は先日ハーディング指揮のボストン響のライブでも聴いた。あっちこっちで大地の歌を歌っているようだ。
シャーデの印象はボストンの時と変わらない。隈取がハッキリしていて、迫力十分。よく通る輝かしい声で立派な歌を聴かせる。第5楽章「春にありて酔える者」で、乱暴な酔っぱらいの風情を巧みな表現で聴かる所も同じように面白く聴けた。
ハーディングとボストン響が透明感のある繊細な表現を追求していたのに対して、ラトルとウィーン・フィルはもっと雄弁で灰汁の強い表現をしている。第2楽章「秋に独りいて寂しき者」ではもうちょっとしんみりしてくれた方が私が持っているイメージに近いんだけどな~と思ってしまった。
オーケストラは凄く立派な演奏で、立体感もよく出ているし、楽器間のバランスにも配慮が行きわたっている。楽章最後に盛り上がる所の表情も多彩でバッチリだけど、どこか力技で、押し切っている印象が残った。それはコジェナーの歌声にも感じられて、枯淡の表情よりは真っ直ぐな美声を瑞々しく聴かせることで表現しているような気がした。
それも真っとうなやり方なんだろうけど、私の中のイメージ、また曲を聴くときの心境がラトルの演奏と噛み合わなかったということで、多分仕方のないことなんだろう。別の機会に同じ演奏を聴いたら、全く違った印象を持つかもしれない。
オーケストラの表現の巧みさは第4楽章「美について」でも十分発揮されていて、特に中間部で主役が馬を駆る少年に切り替わる所では、唖然とするほどの巧みさだった。テンポの急変を含めて、キャラクターの描き分けは大胆にして繊細。全く惚れ惚れさせられる。
長大な第5楽章「告別」は、冒頭から思いっきりしんみりしてくれて、私のイメージ通りだ。その中で雰囲気がほんのり明るくなったり、急に不穏になったりと心の微妙な揺れまで感じることができるのは、ラトルの指示の巧みさだろう。ウィーン・フィルの弦の純粋な音も美しいし、時々管楽器が表現主義的にゾッとする様な表現をしたりする。コントラパスの捻り声なんかは凄かった。
コジェナーも声量&美声一辺倒でなく、静かに繊細な歌を聴かせる。もっとも全体的にはスッキリ伸びる美声が前面に出てくる。これだけ声が美しければ、そうしたくなるのも領けるけど。
第5楽章で突然音が飛んだところがあったのが玉に暇だった。
グスタフ・マーラー(Gustav Mahler)「大地の歌(Das Lied von der Erde)」
テノール:ミヒャエル・シャーデ:(Michael Schade)
メゾ・ソプラノ:マグダレーナ・コジエナー(Magdalena Kozena)
指揮:サイモン・ラトル(Sir Simon Rattle)
演奏:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(Wiener Philharmoniker)
収録:2013年12月15日ウィーン、ムジークフェラインザール(aufgenommen am 15. Dezember im Großen Musikvereinssaal in Wien)
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