青カプチーノ写真日記
青いカプチーノをドライビングしながら撮りためた写真 ・青い空のポッカリ浮雲・飛行機・電車・汽車etc
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高崎鉄道ふれあいデー 2013
10月30日
ちょっと前に開催された「高崎鉄道ふれあいデー」
レアな車両を間近で見られる貴重な一日
開門前から長蛇の列
入口には、制服姿の駅長さんや
ぐんまちゃんも制服姿で出迎えてくれました。
車両展示は、デコイチ・シロクイチ・ムーミン・EF65・EF60・旧客。
ぐんまちゃんも、いろいろなイベントで大忙し
おまけの画像、近くの結婚式場の車のようです。
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レアな車両を間近で見られる貴重な一日
開門前から長蛇の列
入口には、制服姿の駅長さんや
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碓氷第三橋梁(めがね橋)
10月25日
碓氷第三橋梁(めがね橋)
通称「めがね橋」、煉瓦アーチ橋で長さ91m、高さ31mで日本最大の煉瓦づくりアーチ橋。
明治25年に完成、アプト式鉄道が運行していました。
昭和38年に信越線の新線が開通、アプトも廃止され、旧線は廃線となりました。
平成5年に国の重要文化財に指定、平成13年廃線敷を遊歩道「アプトの道」として整備、
現在は橋上を歩くことができます。
また、アプトの道として、アプト式鉄道時代の廃線敷を、横川駅~熊ノ平駅の間の約6kmを遊歩道となっており、途中には、国の重要文化財である旧丸山変電所や3つの橋梁と10の隧道があります。
この日は、昨年開通した、めがね橋から熊ノ平駅までの往復、約2.5キロメートルを歩いてみました。
隧道の中は、照明は点いているのですが、薄暗く、カーブを描いており、先が見えず、
また、結構な上り坂で熊ノ平までの行きは、結構時間がかかりました。
約30分ほどで、熊ノ平駅へ到着
熊ノ平駅は、1893年(明治26年)信越本線横川ー軽井沢間(碓氷線)が開通し、給水給炭所として設置。
当初は単線だった為、列車交換設備が造られていました。
1906年(明治39年)鉄道駅に昇格。
アプト式という特殊運転方式が取られ、常に輸送力の増大が求められ、駅に待避線や突込み隧道(一種のスイッチバック方式)など改良がなされていった。
また、トンネルが多く、煙突効果により機関車が出す煤煙が乗員や乗客を苦しめ、その解決の為に、1912年(大正元年)日本で最初に電気機関車が導入された幹線鉄道でもある。
1918年(大正7年)3月7日、横川から軽井沢方向に登っていた貨物列車の本務機関士が第20号トンネル通過中に異臭・異音に気づき列車を緊急停車。
故障は軽微であったことから再発車をしようとしたが起動せず、列車は碓氷峠の急勾配を退行。
機関士は制動を試みたが発電ブレーキが故障して効かず、10カ所のトンネルを通過、暴走し熊ノ平駅の引き込み線へ突っ込んだ。
第10号トンネル終点側出口壁に衝突し、脱線転覆した。
これにより乗務員、駅員合わせ4名が死亡、4名が負傷した。
列車の牽引機の10000型電気機関車はドイツから輸入され、当初から故障が頻発していた中での惨事だったという。
1937年(昭和12年)熊ノ平変電所が設けられた。
変電所は、アプト式廃止後も改良され、横川ー軽井沢間が廃止されるまで使用された。
1950年(昭和25年)6月に碓氷峠周辺で降雨が続き、150㎜雨量が観測された。
6月8日の午後8時半頃、熊ノ平駅構内第10号トンネルで約3000立方メートルの土砂が崩壊、本線、突込線が埋没。
この時点で人的被害は無かったが、含水量が多いことから復旧作業が難航し、翌6月9日午前6時6分頃にその上方で7000立方メートル程の崩落が発生、作業中の人員や宿舎4棟8戸が埋まった。
その後、手作業での救出作業が行われたが、11日午後11時半頃に3回目、12日午前7時24分頃に4回目の崩落が発生。
この災害による死者は50名、重軽傷者は21名に上がった。
押しつぶされた宿舎からは、乳飲み子を抱えた若い母親の遺体が見つかったという。
遺体は22日までに全てが回収され、23日に完全復旧した。
一周忌になる1951年(昭和26年)熊ノ平殉難碑が建立された。
その後、熊ノ平駅は1963年(昭和38年)アプト式の旧碓氷線の廃止と1966年(同41年)碓氷新線の複線化により、信号場に降格となり、1997年(平成9年)長野新幹線開通に伴う碓氷線(横川-軽井沢間)の廃線により、その役目を終えた。
帰りは下り坂、
あっと言う間に、めがね橋に到着
めがね橋からは、新線の橋梁が見えた
新幹線の橋梁は、約3キロ山の中に入るらしい。
めがね橋に戻った頃には、青空が広がっていた。
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碓氷第三橋梁(めがね橋)
通称「めがね橋」、煉瓦アーチ橋で長さ91m、高さ31mで日本最大の煉瓦づくりアーチ橋。
明治25年に完成、アプト式鉄道が運行していました。
昭和38年に信越線の新線が開通、アプトも廃止され、旧線は廃線となりました。
平成5年に国の重要文化財に指定、平成13年廃線敷を遊歩道「アプトの道」として整備、
現在は橋上を歩くことができます。
また、アプトの道として、アプト式鉄道時代の廃線敷を、横川駅~熊ノ平駅の間の約6kmを遊歩道となっており、途中には、国の重要文化財である旧丸山変電所や3つの橋梁と10の隧道があります。
この日は、昨年開通した、めがね橋から熊ノ平駅までの往復、約2.5キロメートルを歩いてみました。
隧道の中は、照明は点いているのですが、薄暗く、カーブを描いており、先が見えず、
また、結構な上り坂で熊ノ平までの行きは、結構時間がかかりました。
約30分ほどで、熊ノ平駅へ到着
熊ノ平駅は、1893年(明治26年)信越本線横川ー軽井沢間(碓氷線)が開通し、給水給炭所として設置。
当初は単線だった為、列車交換設備が造られていました。
1906年(明治39年)鉄道駅に昇格。
アプト式という特殊運転方式が取られ、常に輸送力の増大が求められ、駅に待避線や突込み隧道(一種のスイッチバック方式)など改良がなされていった。
また、トンネルが多く、煙突効果により機関車が出す煤煙が乗員や乗客を苦しめ、その解決の為に、1912年(大正元年)日本で最初に電気機関車が導入された幹線鉄道でもある。
1918年(大正7年)3月7日、横川から軽井沢方向に登っていた貨物列車の本務機関士が第20号トンネル通過中に異臭・異音に気づき列車を緊急停車。
故障は軽微であったことから再発車をしようとしたが起動せず、列車は碓氷峠の急勾配を退行。
機関士は制動を試みたが発電ブレーキが故障して効かず、10カ所のトンネルを通過、暴走し熊ノ平駅の引き込み線へ突っ込んだ。
第10号トンネル終点側出口壁に衝突し、脱線転覆した。
これにより乗務員、駅員合わせ4名が死亡、4名が負傷した。
列車の牽引機の10000型電気機関車はドイツから輸入され、当初から故障が頻発していた中での惨事だったという。
1937年(昭和12年)熊ノ平変電所が設けられた。
変電所は、アプト式廃止後も改良され、横川ー軽井沢間が廃止されるまで使用された。
1950年(昭和25年)6月に碓氷峠周辺で降雨が続き、150㎜雨量が観測された。
6月8日の午後8時半頃、熊ノ平駅構内第10号トンネルで約3000立方メートルの土砂が崩壊、本線、突込線が埋没。
この時点で人的被害は無かったが、含水量が多いことから復旧作業が難航し、翌6月9日午前6時6分頃にその上方で7000立方メートル程の崩落が発生、作業中の人員や宿舎4棟8戸が埋まった。
その後、手作業での救出作業が行われたが、11日午後11時半頃に3回目、12日午前7時24分頃に4回目の崩落が発生。
この災害による死者は50名、重軽傷者は21名に上がった。
押しつぶされた宿舎からは、乳飲み子を抱えた若い母親の遺体が見つかったという。
遺体は22日までに全てが回収され、23日に完全復旧した。
一周忌になる1951年(昭和26年)熊ノ平殉難碑が建立された。
その後、熊ノ平駅は1963年(昭和38年)アプト式の旧碓氷線の廃止と1966年(同41年)碓氷新線の複線化により、信号場に降格となり、1997年(平成9年)長野新幹線開通に伴う碓氷線(横川-軽井沢間)の廃線により、その役目を終えた。
帰りは下り坂、
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D51・C61 高崎駅 同時発車
10月21日
毎年、恒例となったD51とC61の高崎駅同時発車。
D51の「快速SL・DLググっとぐんま碓氷」とC61牽引の「SLググっとぐんまみなかみ」が爆煙を上げ並走しました。
20日9時56分、汽笛と共にゆっくり、ゆっくり動き出したD51とC61。
爆煙で、姿が見えないほどでした。
昨年も雨が降っていましたが、線路の両脇とも、物凄い人出、
上り線側に構えた人達は、普通列車に被られたことからか、今年は、新幹線高架下は、がらがら。
ところが、雨の影響なのか、写真撮影のアングルが限られることからか、
下り線側も、空き空きの状態
発車、20分程前に現地に到着し、今年は三脚を設置せずに手持ちで撮影
撮影者が写し込まれてもイベント写真っぽく撮れるところ、
ということで、駐車場の2階からの撮影となりました。
発車直前、降っていた雨も止み、
そんななかを、爆煙を上げ、ゆっくり目の前を並走していきました。
大型SL2台、迫力に圧倒されます。
SLの街・高崎
SL運行が日常のことで、警備の人もJRの人も慣れているのでしょうか、
街中の撮影地としては、喧騒もなくいつもゆったり撮ることができます。
また来年、今度はどこで撮ろうか、
ゆっくり撮影場所を探してみようと思います。
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20日9時56分、汽笛と共にゆっくり、ゆっくり動き出したD51とC61。
爆煙で、姿が見えないほどでした。
昨年も雨が降っていましたが、線路の両脇とも、物凄い人出、
上り線側に構えた人達は、普通列車に被られたことからか、今年は、新幹線高架下は、がらがら。
ところが、雨の影響なのか、写真撮影のアングルが限られることからか、
下り線側も、空き空きの状態
発車、20分程前に現地に到着し、今年は三脚を設置せずに手持ちで撮影
撮影者が写し込まれてもイベント写真っぽく撮れるところ、
ということで、駐車場の2階からの撮影となりました。
発車直前、降っていた雨も止み、
そんななかを、爆煙を上げ、ゆっくり目の前を並走していきました。
大型SL2台、迫力に圧倒されます。
SLの街・高崎
SL運行が日常のことで、警備の人もJRの人も慣れているのでしょうか、
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