永遠を過ごす刹那の私をつかまえて
~第2部~

作者 匿名希望 

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3章-Call my name

~side-h~
懐かしさと戸惑い。
心を埋める感情が溢れては消えていくのと同じように、駅前の広場は行き交う人で溢れかえっていた。
記憶の中にあるこの時期の街より、また一段と忙しくなったみたい。
私は外縁に並べられたベンチに沿って市場まで行くと馴染みのある脇道へと逸れる。
確かこの先に彼女のお店があったはずだ。
見慣れていた街も見飽きていた風景もひとり、誰にも気づかれずに歩いてみるとなんだか不思議な感覚に包まれて、つま先から伸びる影を過去の自分に置き換えて時間を合わせるように歩いていく。
街の片隅に、飾られている木々や花々に、違和感を覚えるのは気のせいじゃない…。
うっすらと忘れかけていた遠い記憶が頭の中を巡っては弾かれ、巡っては弾かれを何度も繰り返す。
はっきりと絵を持たない記憶遊びも程ほどに、丸みのある石碑を目印に角を曲がると懐かしい店構えが見えて足が止まった。
白地の壁に木製の扉と窓枠。屋根はオレンジ。窓からは深緑色をしたカーテンが揺れている。外観の持つ温かさと優しさは彼女の性格に似合っていて…。

あなたが街外れのこの場所にお店を開いてからというもの、私は毎日のようにこの場所に通い詰めた。それは単純にこの場所が温かかったというのではなくて、たぶん不確かになっていく自分と重なるようにして視えなくなった自分のほんとうの居場所を知りたくて、薄れていく記憶や感情を無理やり手繰り寄せ、逃げていかないように、消えてしまわなようにと願いながら、1日の終わりにここで1杯のお茶を飲むのを支えにしていたから。

無くしたはずの思い出が扉を開けようとする指先から躊躇いを連れてきて、伸ばした腕が地面へと垂れて息が詰まった。
止めておこうか。覚えていないかも。そもそも私なんて…。
逃げてしまいたくなる後ろめいた気持ちが心を包みそうになった時、浮かんできたのは慈愛に満ちた優しい彼女の笑顔。
記憶とはやっぱり厄介だ。いつでも決めたはずの逃げ道に疑問符を投げかける。
この手を伸ばせば…。
きっと彼女は驚くだろう。
だけど何も聞かずに微笑んでくれる。
そして強く受け入れてくれる。
それが、あなたの優しさだから。
それが、私の知っている。信じている深川麻衣という大切な親友だから。

小さく、だけど深く深呼吸をして強張った体の力を抜く。何度も繰り返し癖付いた笑顔の形を思い出すと、緩んでしまった決断が体を奮い立たせ手のひらに届いた。
扉に触れた指先から空けてしまった時間の重さが伝わってくる。
目を閉じて力込めてゆっくり押すと迎えてくれる鈴の音が思い出の空間に散らばった。

「いらっしゃ・・・。もしかして、奈々…橋本さん?」

声を聞かなくても癖のない真っ直ぐに伸びた黒髪とその美しい後ろ姿で。
声を聞くと何もかも包み込んでしまうその優しい声色で…
あなただとすぐにわかってしまう。

「おかえり…って言ってもいいのかな?」

「たぶん…。久しぶりだね…深川さん。」

気持ちの強張りは素直に言葉に表れる。
お互いに名前で呼び合うことが出来なかったのは時間のせい。緊張で詰まった声に俯きがちだった顏を上げて長い間見ていなかったあなたの見ると、その瞳からは今にも涙が溢れて零れ落ちそうだった。

「うん…ほんとに久しぶりだね。えっと、その。とりあえず、どこか適当に座って。ほら、ここ私のお店だから、何か持ってくる。ちょっと待ってて。」

頬を伝いそうになる涙を手の甲で拭い、早足にキッチンへと駆け込もうとするあなたに「こんな季節だけど、温かいものが欲しい。」と告げる。
息の足りていない震え声になってしまったけど、あなたはこっちを振り返るとあの頃と変わらないくしゃっとした笑顔を向けてくれた。
私を救ってくれた笑顔が変わらずそこにあって安心したかと思うと、私まで涙がこぼれてしまいそうになり、慌てて天井を仰ぐと、高ぶった感情を抑えるように窓際の席へと腰を下ろした。
もうすぐ時計は12時を指す。
空調が効き薄い上着を一枚羽織るとちょうど良い温度に感じる店内と違って、ガラス一枚隔てて広がる世界は太陽の熱がいっぱいで暑そうだ。地面に映った影の色が濃くなった気がする。店内には他のお客さんは見当たらない。

「お待たせしました。一緒に飲もっか?」

ほうじ茶とお団子が仲良く並んだお盆を両手でしっかりと抱えながらテーブルまでやって来ると、ひとつを私の前に、もうひとつを私の向かいに置いた。

「お昼時なんだけど、お腹すかしてるかわからなくて…甘いものなら食べやすいかなって。」

「うん。ありがとう。いただきます。」

湯気の立つ熱いお茶をやけどしないように飲むとお団子を小さく口へ運ぶ。

「甘いものは落ち着く。お茶も美味しい。」

「どういたしまして。お店もね、もうちょっとお客さんが来ると賑やかになるんだけど…。だけど、今日は静かでよかった。」

「そっか。中心から外れるとすぐに住宅街だしね。今も変わらない?駅前は相変わらずの賑わいだったけど。」

「そだね。いろいろと変わってはいるけど、ここは変わらない。」

お互いを探るように、傷つけないようにと。まるで初めて知り合った時と同じ。沈んでしまった結晶を隠した水面を撫でる言葉が繰り返される。違うのは、形は変わってしまったかもしれないけど、その結晶が確かにあることをお互いに知っていること。
串に刺さったお団子を1本食べ終え、シーリングファンが回る天井へと昇っていく白い湯気を追って視線を上げるとあなたと目が合った。
揺れ動く躊躇いと固い意志が浮かんだ瞳。
そんな表情にも柔らかさが消えないのはあなただから。
静寂に見つめ合う一瞬が流れ、テーブルに置かれていた湯飲みに手を添えるとあなたはゆっくりと口を開いた。

「あのね…その。またさ。奈々未って呼んでもいいかな?」

慎重に選ばれたであろう言葉に、その誰でも惹きつけてしまう無垢な笑顔は反則だ。不安だとか躊躇いだとかを愛しさで包んでしまうその顔で頼まれたら誰だって頷いてしまう。
勿論、私だって。さっきまで心の奥に潜んでいた後ろめたい感情は、懐かしさと至近距離で見つめられた恥ずかしさによって上書きされ、顔が火照るのも隠すように頷くのがやっとだった。
「よかった。」という一言に浮かべた安心した表情は新雪のように柔らかい。

「時間が空いちゃうとね。ちょっとね…ちょっとだけだよ。お互いの関係とか距離感がさ、感じにくくなったりするから。分かるかな…?でも、またこうやって名前を呼ぶことができて嬉しい。ねぇ…おかえり、奈々未。」

「うん。ただいま…麻衣…さん。」

気づかないうちにほつれてしまっていた糸をひとつずつかけ直すため丁寧な言葉を紡ぐあなたに、私はまだ自分の気落ちが追いつかなくてあの頃の呼び方が思い出せない。
前はどんな気持ちであなたの名前を呼んでいたのだろう。

「それでいいよ。それでいいんだよ。私は、昔の奈々未とか、今の奈々未がとかじゃなくてさ。奈々未、あなた自身がずっと大好きなんだから。それは出会った時から変わってない。だから、心配しないでゆっくりと…ね。」

本当の距離感や関係を見失っていたのは私の方。そんな弱い私のせいでできてしまったひび割れもあなたは決して見捨てることなく、曖昧で不安定で脆いカケラを集め直して結晶にしようと飛び込んできてくれる。
もう何度目だろうか。
この優しさという強さに救われたのは。
強がりな私に、ほんとうの強さを持ったあなたは、とてもとても眩しく見える。
これは出会った頃から変わらない。

火照った頬の熱が去り、震えていた心に落ち着きが戻った後、私は麻衣とゆっくりとたくさんの会話を繋げた。
くだらない話。私がいなくなってしまった後のこと。今のこと。そして、私に懐いていた後輩のこと。勿論、駅で出会った君のことも。
言葉をひとつひとつ交わしていく度に、懐かしい距離感が記憶を通して甦る。
時々、次の音を忘れたかのように言葉が途切れ沈黙が訪れたけど、その時間にすら心地よさを感じる。誰かと分かち合える時があるだけで素敵だ。
目の前に置かれたお茶もなくなり、手持無沙汰になった私と麻衣は揃って窓越しに変わっていく街並みを眺める。

「外、暑そう。日光浴は気持ちいいけど、この気温だとね。」

「だね。夕方になれば、少しは落ちつくだろうけどお日様は、ね。」

「夕方か…まだ、時間あるね。」

時計を見ると14時を過ぎた頃。1日で最も暑い時間帯。涼しい場所を知っているものたちは、内緒の隠れ家に逃げ込んでしまう。

「何か、冷たいものでも持ってこよっか?」

「お言葉に甘えて。ハーブティお願いしてもいい?冷たいの。」

「ふふ。わかってる。まだあると思うから好きだった果実の砂糖菓子も持ってくるね。」

さわやかな笑顔が白いシャツと深緑のエプロンに映える。
ようやく、麻衣の姿をしっかりと見ることができた気がする。キッチンへと向かう後ろ姿は会った時より軽やかだ。
麻衣が戻ってくるまでの間、手のひらに顎を乗せ、窓から見える景色を見るわけもなく物思いに耽る。何かを思い出そうとしたわけではないけど、「その恰好はミステリアスな奈々未っぽい。」と言ってくれたのを思い出した。
カランコロンと氷のぶつかる音がする。
冷ましたハーブティをグラスに注いだら、いつもの麻衣がやって来る。
私はそれを飲みながら、麻衣との時間を味わうのだ。

そんな思い描いていた予定調和を乱すように入口の扉が開く。
大きな音を立て呼び鈴が響いた。

「いらっしゃいませ。」

突然のお客さんに驚いたのか、半音高くなった麻衣の声が店内を通る。
窓から目を離すと、そこには駅で出会った君が立っていた。
いつの間にかこの街へ来てしまったと言っていた君は、どうやら知らぬ間に私の居場所にまで来てしまったらしい。

~side-?~
肩にかけていた鞄からハンカチを取る。
額や首筋に垂れる汗を拭き、扇子代わりにと扇いでみるけど涼しくはならない。
一息つきハンカチをポケットにしまうと目の前のカフェをもう一度見る。
お洒落な外観に、いつもの自分なら似つかわしくないと思ってしまいそうだけど、振り返った道にもう逃げ水は見当たらなくて、まるで僕をここに連れてきたような気にさせる。
あれもこれも、この不思議な街のせいだ。
投げやりな理由と一度の舌打ちで渦巻く気持ちに片をつけ扉を押し開けた。

どんな場所にいてもその人の声だとすぐに気づいてしまう軽やかで透き通った声が賑わいのない店内を通る。
お洒落な人達でいっぱいだったら場違いになるかもなんて心配を他所に店内にはお客さんの気配はなく、壁際の落ち着けそうな場所はないかと探していると、窓際に1人座っている女性がこちらを向いていた。
やはりポスターの印象とは表情も雰囲気も異なって見える。それでも、縁取りのように残る面影に、何故だかあの人だという確信は変わらない。
これが3回目の出会い。
“偶然を重ね続け 運命の輪にしていく”
耳に残っていた歌詞の一節。果たしてそんなことはあるのだろうか…。
わざわざ離れた席を選ぶのも失礼かと思い軽く会釈をすると彼女の隣にあるテーブルに座った。

「また、お会いしましたね。駅ではありがとうございました。」

「いえいえ。」

「あれ?奈々未、知り合いの方なの?」

透き通った声とは一転。髪型から靴先までふわぁっとした柔らかな雰囲気の人。
お盆に乗っている鮮やかな色に染まったハーブティと二皿の砂糖菓子は、もしかしたら隣の彼女と一緒に食べようとしていたのかもしれない。

「うん。さっき話したでしょ。駅であった人。」

「あぁ!あなたが迷子さんでしたか!ふむふむ…。あっ、私、深川麻衣です。この店のオーナーをしていてって、そうだった。ご注文はお決まりですか?」

「ええ、たぶんその迷子さんです。それで…手に抱えているお菓子はいいんですか?」

「それなら大丈夫です。後でゆっくり食べますから。」

にこやかや笑顔の彼女とは正反対に、隣からは微かに引き笑いが聞こえくる。迷子さんと名付けたのは間違いなくこちらだ。歩き回りお腹も空いていたのでメニューからおすすめのハンバーグは頼むと、深川さんは「かしこまりました。」と頭を下げてキッチンへと戻っていった。

「あの…迷子さんとは?」

ガラスポットからハーブティを注いでいる彼女に尋ねる。

「ふふ。ごめんなさい。さっき、麻衣とあなたの話をしていた時の呼び名みたいなもので。彼女も気に入っちゃって。悪気はないんですよ。彼女、普段からとてもしっかりしてるし。だけど、気に入ったことには視野が狭くなるというか、天然になるんです。」

「そうでしたか。聞いてしまった僕が言うのも変ですが、そんな気にしないでください。特に嫌だったとかではなくて、なんとなく気になっただけですから。でも、深川さんは天然さんなんですね。傍から見ていると若くでお店のオーナーをしているなんて、とてもしっかりした方なんだって思っちゃいます。」

「そうですよね。いつもは誰よりもしっかりしているんですよ。ただ、時々…時々ね。」

氷で冷え切った水を喉に通す。店内が涼しかったこともあって汗はすっかり引き、皮膚と洋服が貼り付く不快感はなくなっている。そういえば、深川さんは彼女のことを“ななみ”と呼んでいた。それはたぶん、ポスターに映っていた女性と彼女が同一人物であるということなんだろうけど、この状況で、土足で誰かの過去に踏み込むなんて度胸は僕にはないし、おそらく相手だって嫌なはずだ。それでも心の片隅には気になってしまう部分のあり、相反する感情を相殺するように氷を噛み砕いた。

「お待たせしました。」

深川さんがキッチンから出来立てのハンバーグと一緒に戻ってきた。
「いただきます。」と一言添えて肉厚のハンバーグを口にしようとすると、彼女のテーブルに座った深川さんが、小首を傾げながらにこやかな笑顔をこちらに向けている。
迷子話の続きが気になるのだろう。誰一人、僕のことを知らないこの街で出会う純粋な好奇心と親切心はあまりに眩しくて温かくて、「食べ終わったら話しますので。」と返してしまっていた。
「ご馳走様でした。」とナプキンで口元を拭いハーブティのお裾分けを頂くと、僕は自己紹介も兼ねて今日の出来事を語り始めた。
いつの間にか電車に揺られていたこと。
駅で隣の彼女に出会い、街を散策したこと。
このお店には逃げ水を追って来たこと。
自分で話していても可笑しなことばかりなのに深川さんは真剣に聞いてくれて、話の途中、隣の彼女の名前がやはり“橋本奈々未”であったこと。そして彼女もいつの間にかこの街に戻ってきてしまったことを知った。

「たまにね…居るんだよね。」

会話の隙間を探るように深川さんが躊躇いながら告げた。

「何か目的があってこの街に来るんじゃなくて、突然来てしまう人。奈々未がいなくなった後くらいからかな。時々そんな噂を聞く。みんな自分にしかわからない探し物しているんだって。だから、奈々未も迷子さんも、もしかしたらそうなのかも…。」

溜息をひとつ橋本さんは細めた瞳で天井を眺める。

「なるほどね…。でも探し物か。私、何か忘れものでもしてたのかな…。ねだったものはさ、ここには何もないはずだったんだけど…。」

「僕は心当たりすらって感じです。困りましたね…。」

重たい空気が三人を覆う。無機質に冷風を送り出す空調とシーリングファンの回転だけがやけに大きく空間を占めた。時計は進み、外の日差しが傾いた。いくら悩んでも答えのない問いに、考えるのも言葉を発するのも億劫になり始めた頃。
本日2度目。入口の扉が勢いよく開いた。


「こんにちわー。深川さん居ますかー、これが今月のスケジュールなんですけ…あれ?……もしかして橋本さん!?」

「久しぶりだね…齋藤さん。」

「うぅ。ほんと久しぶりです。もう会えないと思ってたけど、会いたかったんですよ…ほんとうに…。」

重たい雰囲気を吹き飛ばした少女。背丈は高くないが覗いた顔立ちはここの誰よりもくっきりとしていて、それは感情や考えを畳まない言葉遣いにも表れていた。

「ごめんごめん。私も、また会えて嬉しいよ。」

諭すような微笑みで目線を合わし駄々をこねる子をあやすように髪を撫でる姿は、ここから見ていると姉妹のよう。

「“飛鳥”でいいですよ。先輩のことだから、すぐには難しいかもしれませんけど…。また呼んでくれると嬉しいです。」

「ごめんね。って私謝ってばっかりだね。少しずつ慣れていくからさ。ありがとね。…飛鳥。」

「先輩、それは…ズルいです。」

見ているこっちが照れてしまいそうな微笑ましい場面を誤魔化すように手元にあるカップに意識を向けていると唐突に不穏な言葉が飛んできた。

「あ!…当たり屋さん!?」

気まずい沈黙が店内を流れる。

「えっと…どこかでお会いしましたか?」

質問に質問で返してしまった答え。
何故だか隣に立っている橋本さんからは冷たい視線を感じる。

「駅前の交差点。信号待ち。すれ違い。わかりますよね?」

物事の善悪を決めていそうな猫の瞳に圧倒され、迷子さんと名付けられた自分でも数時間前の記憶なら引きずり出せた。

「もしかして交差点でぶつかってしまった方ですか?」

「はい。女の子にぶつかっておいて謝らないのはよくないです。」

「すいません。誤ったつもりでいたのですが、本当にすいません。怪我とかありませんでしたか?」

年下の女の子にたじたじになっている様子を面白そうに眺めている橋本さんの横で、彼女は自分の肩を指さして

「そっれはもうこの辺りが痛くて痛くて、なんて嘘ですよ。ふふっ、印象通り真面目な方なんですね。はい!」

満足げな顔をして差し出された片手。
悪戯が好きなのは先輩と呼んでいる彼女の影響かもしれない。
そんな彼女の無邪気さに引っ張られ自然と手を重ねた。

「これでおしまいです。特に気にしてはなかったんですけど、先輩がいたからつい。そうそう。自己紹介がまだでしたね。齋藤飛鳥です。よろしくお願いします。後、敬語は使わなくていいですよ。私、年下ですし。それに…また会うと思うので。」

重ねていた手が離れる。齋藤さんは一言二言告げると扉の前で「橋本さん、深川さん、また今後です。旅人さんも。」と手を振るとたちまちいなくなってしまった。

嵐の去った店内に流れ始めたクラシックが穏やかな雰囲気を運んでくる。
弾む声も、思ったことを包まない言葉選びも、夏の日差しが似合いそうな笑顔も、とても印象に残る人。最後に言った「また会うと思うので。」の意味はなんなのだろうか。彼女のいなくなってしまった扉を眺めていると、不意に口から「明るくて、だけど慌ただしい人だった。」と声が漏れていた。

「飛鳥はね、昔から頑張り屋さんなの。でも…張り切りすぎかな。」

彼女の髪を撫でていた指先を差し込む日差しに重ね合わせ、テーブルに映った影を懐かしむように瞳を落とす。きっとこれ以上の言葉は紡がれない。

氷が溶けコップの底に溜まった生ぬるい水を飲み込むと、そっと「今日はありがとうございました。」と声をかけて席を立つ。会計を済ます時、深川さんが大変だからとおすすめの宿や街のことを教えてくれた。

「ご馳走様でした。いろいろとありがとうございます。」

「いいのいいの。また困ったら来てください。待ってますから。」

「それなら、すぐに来てしまうかもですね。」

冗談が小さな笑い声となり店を出る。
電柱の影が長くなり外の気温も真昼に比べると落ち着いていた。この街のどこかで遊んでいたのか、充実した一日を過ごせましたという仮面を被った観光客が同じ方向へと様々な足取りで歩いていく。その先には確か川を挟み宿泊施設があったはずだ。
どうせ行く当てもないのだからと行列に混じる。
住宅と観光地の狭間に来ると川の音がして石橋が見えた。
土手から続く河川敷に挟まれた大きな川に架かる石橋は長さにして7.80mはありそう。
対岸には暮れていく空に湯けむりが煙る。
なんだか風景に足止めされた気がして橋の手前にある小さな公園のベンチに座った。
川べりの向こうに広がる煌めきも幸せも今の自分には不釣り合いに見える。
まるで街に取り残さてしまった感覚がして、この街に来て初めて心が痛んだ。
僕の探し物はなんなのだろうか。


4章-Jewel fish

君を見つけ、麻衣に会って、飛鳥が来た。
君は偶然。麻衣は必然。飛鳥は突然だった。
“人は必要な時に必要な人と出会うと思う”
昔語った自分の言葉が、今になってもう一度、自分自身に降りかかってきた。
こんなことになるなんてなぁ…。
後悔か諦めか。判別のつかないもやもやした感情に襲われる。
時刻を示す時計が鳴り響いたのをきっかけに私は店を出る。麻衣は「晩御飯も一緒に食べる?」と聞いてくれたけど、今は私のことを知っている人と過ごすのがなんだか億劫で「また、来るから。」と明るさを取ってつけたような笑顔で断った。表情を変えないのは苦手ではないけど、ありもしない感情を膨らますのはいつになっても得意になれない。
外では日差しが斜めに降り注ぎ、街がだんだんと淡いオレンジ色に染まりだす。
影に染まったビル群は昼間に比べ空との境界線がくっきりしている。
街外れを流れる川を渡ると観光客への温泉街が広がっている。泊まる気など更々ないのだけど、旅人気分になれるならと足を踏み出した。
見知らぬ人達に先導されて見慣れた街を歩く。
きっと彼らは既に決まっている場所に行き、疲れた羽を休めるのだろう。
私の行き先はどこなのか。不安が覗いた足元は暗く、振り払おうと微かに青みの残る空を見上げると黒い点が紛れ込んだ。
空を舞う者たちは、いつ眺めても自由な気持ちにさせてくれる。
高いところが好きだった。
そこには自分の可能性なんていう曖昧な言葉に酔いしれる自由があったから。
もし私が羽を持てたら、空を飛べたら、海を渡れたら。きっと、こんな不自由な自由を持て余したりはしなかったのに。

川に架かる橋に近づくと、山から吹き下ろしてくる風に髪がなびく。
咄嗟に手で押さえ風に背を向けると小さな公園が目に留まった。
1本の高木の揺れる葉に隠れてしまいそうな小さな公園。錆びついたブランコとシーソー。滑らなそうな石の滑り台。公園の隅、川沿いに続く遊歩道に面した場所にベンチが2つ隣り合うように並んでいて、君の背中がそこにあった。

「隣、いいですか?」

肩越しにかけた声に驚いたのか、足を組み浅く腰かけていた君は、慌てて姿勢を正すと振り返った。
目元が潤み、瞳には赤みが差していた。
駅であった時も、喫茶店で過ごした時も。感情の起伏が平坦で、なんとなく諦めに縋っていそうな人だと思っていたから、一瞬言葉を失いそうになる。

「橋本さんでしたか…。変なとこ見られてしまいましたね。気にしないで座ってください。」

輪郭がぼやけた声は、すぐさま取って付けた明るさで保たれたけど表情は崩れたまま。平気なのを装っているのも、2度目の二人きりで距離感が掴めないのもお互い様みたい。

「川、綺麗ですね。」

何を話していいのか。目の前の光景を言葉にした当たり障りのない話題。
それなのに流れる川が放つ鱗状の輝きは混じりけのない美しさで、何かを紛らわすことを許してくれそうにない。

「そうですね。」

ありきたりな返事。
湖へと抜けていく風が止むと木立のじゃれあう声が消え沈黙が訪れた。君は手持無沙汰になった両手を膝の上で握りしめると、遠慮がちな瞳で私を見た。

「橋本さんは、この街の人だったんですよね?」

君が私について投げかけた初めての質問。
街を良く知っていて、深川麻衣という知り合いが居て、齋藤飛鳥が先輩と呼び、また会えたと言った。気づくのには十分すぎるし、気づかないはずはない。
それでも、今になって踏み込んできたのは君が優しくて、だけど臆病だからかな。
返す言葉を考える。

「ええ。懐かしいなぁ。」

若く青い日々を振り返るような気安い返事に、気楽な言葉で返してくれると思っていたから言葉が途切れた少しの間に不安を覚え、君の顔をちらっと見た。

「もしかしてですけど…この街を飾っていた人でしたか。」

嫌な予感は当たる、悪戯に信じていなかった迷信が脳裏を掠めた。
今日、口にした言葉の端々を思い出す。差し込んでくる日差しがこんなにも痛く感じるのは、夕暮れに別れた過去が映るからだ。

「そっか…。気づいていたんですね。それとも、知っていたのかな。」

零れた声はあまりに軽く頼りない。

「街の至る所で華やかに着飾っている齋藤さんがいて、その彼女があなたのことを先輩と呼んでいたので…。」

「あぁ、そこか…。ねぇ、飛鳥って呼んであげてよ。飛鳥、喜ぶから。」

私の大好きな後輩ちゃん。
ちゃんと真っ直ぐに好きだと伝えてきた数少ないうちの1人。
そんな彼女を振り返り自分を保つ時間が欲しくて、返事に困るお願いをした。
駅前で見上げた飛鳥は美しかった。昔「私には夏色は似合わないんだよ。」なんて拗ねていたのに、この飾られたまちで、今夏、誰よりも輝いていて、憧れを抱かれた懐かしい自分の姿がほんの僅かに重なって見えたけど、私には到底届かない、届けない姿だった。

「…その、えっと。とりあえず、飛鳥…さんにしておきますね。もう一度会えたらの話ですが。」

やっぱり年下の女の子でも呼び捨てには抵抗があるみたい。
からかいも束の間、避けるように逃げ込んだ話題も、いつまでも私を逃がしてはくれない。

「それと…湖畔まで下りた時に不思議なお店があったんです。時間が止まったような、古い飲食店みたいな場所でした。そこで、橋本さんに似た方が映っているポスターが残っていて。」

「ポスター…。名前か。なるほどね。ふふ。まだ残っていたんだ。ねぇどんなのだった?」

「その、橋本さんが独りでたくさんのトランクというか旅行鞄に囲まれている一枚で。」

「あぁ、それね。それかぁ…。それはさ、私が最後に撮ってもらったもの。今でも覚えてる。」

隠しているつもりなかったけど、知られるつもりもなかった。
それでも気づいてしまった君がいて、苦しかった訳でも辛かった訳でもないけど、あの頃の私を知らない誰かに知ってもらえることが何故だか懐かしく、昔の私を紛らわそうとしていた私が崩れ始めた。

「橋本さんは、この街に何か忘れ物を?」

「どうだろ。ちゃんとお別れしたつもりだったんだけどなぁ。」

そっと吐き出された取り繕わなくなった言葉は、焼けたオレンジ色の空に届く。
思い出す記憶と巡りゆく思い出に触れてみる。頭の中の鍵を回し、映し出された情景はいろいろな色が混ざり合って曖昧になってしまっていた。
その中で唯一、サヨナラと告げ誰かの腕と別れた自分がいた。

陽が沈み暖かさを失っていく空に密度の濃い青が滲む。
ブルーモーメント。神秘的な言葉で彩られた時間帯は、逢魔が時と呼ばれたりする。
川に架かる橋、観光客で賑わいだす宿、道を照らす外灯にひとつ、またひとつと明かりが灯り、まちの明かりが増えるたび、闇夜がだんだんと浮かび上がる。
もう、向き合える過去も記憶も遠ざかり、なんだか君の心を突いてみたくなった。

「ねぇ。旅人さんはどうなの?手がかりは?」

「それ、齋藤さんが呼んできた呼び方・」

「ふふっ、飛鳥ね。」

「えっと、飛鳥さんがって、なんで笑ってるんですか。もしかして、からかってます?」

「ごめんごめん。からかってないよ。でも、こういうの苦手なんだと思って。」

「やっぱり、からかってるじゃないですか…。」

自分の弱さに諦めてしまった返事。だけど、唇が少し尖っている。
君にも自分のために取り繕おうと思う人間らしい一瞬があることに可笑しくなる。

「違うんだけどね。ちょっと面白くて。で、続きは?」

「手がかりは、まったくですね。」

「そっか。私みたいに、ここに居たことがあるとかは?」

「この街も、この場所も初めてですよ。それに僕の日々は、橋本さんと違ってあまり変わり映えのしない感じでして…。っ、それにしても、ここは金魚鉢みたいですね。」

「何それ?」

沈んだ気持ちを誤魔化すように君は俯きがちだった顏を上げたけど、表情には願うことを手放してしまった寂しさがいた。

「別に水の入ったグラスでもいいですけど、金魚鉢を眺めるとその先の空間が歪んで見えますよね。歪んでしまった空間は怖くもあり不気味なものでもあるのに、そのフィルターが金魚鉢になるだけで、その歪みが美しいものになる。なんだか、そんな場所だなって。」

「なるほどね。案外間違ってもないかも。そういうのなら、私も似たような例え話をひとつ知ってる。いつか教えてあげられるかもね。」

話の途切れは時間の終わりを強く意識させる。

「じゃあ、私はこの辺で。」

先に別れを告げたのは私の方。

「えぇ、もう日暮れですしね。わざわざ、話しかけてくれたのに楽しい話ができなくてすいません。」

「それは期待してないから大丈夫。」

「そうでしょうね。」

君の自虐的な笑いに引っ張られ、私も思わず笑みがこぼれる。
これがちゃんとした笑い顔なのか愛想笑いなのかわからないけど、二人して笑えたことが嬉しかったりする。他人と優しい時間を分かち合えたことに心が安心したのか体がほのかに温かい。

「僕は川向こうの旅館に行ってみます。橋本さんは?」

「私は、麻衣がとまる場所を用意してくれているから。」

「帰る場所があるのはいいことです。それでは、今日はいろいろとありがとうございます。」

「いえいえ。こちらこそ。」

躊躇いもなく背を向けて歩いていく君。
“さよなら”とも“また今度”とも言えなかった。
“また会えますか?”と口にしたくなったのは私だけだろうか。
きっと必要な時には会えるだろうなんて甘い考えに支えられて色の落ちた川べりの遊歩道を歩く。等間隔に照らされた地面だけが前に進んでいることを教えてくれる。
空を見上げると1等星がぽつりとひとり輝いていた。
ありがちな絶望感に目を隠されてしまわないように、強く生きていけるようにと、儚い願いを込める度に、孤独の意味を知っていくのは、もう何度も繰り返したこと。
遊歩道から住宅街へと折れると明かりのない家が見える。
私は財布の小銭に紛れ捨てられなかった2つの鍵のうちの1つを取り出すと、「ただいま。」と呟いた。