永遠を過ごす刹那の私をつかまえて
~第3部~

作者 匿名希望 

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5章-A crown

夏へと飛び立とうとする季節を遮るように空を覆った灰色の雲に、朝から夜までゆったりと降り落ちる雨が道端に咲いていた紫陽花を濡らし染めていた。そんなじれったい梅雨を終わらせるかのように大雨が降ったのが昨日のこと。朝起きると晴れ渡った東天からひらりと朝陽がカーテン越しに滑り込んできた。本格的な夏がはじまりそう。

あの日、橋本さんと別れた後、勧められた宿に何日が泊まってみたものの、観光客が集まる場所に生まれる独特な高揚感に馴染めずに、結局このアパートの一室を借りることにした。
閑静な住宅街の一角。部屋の窓を開ければ湖が見通せる。
読みかけの新聞に、書きかけのメモ。きっかけが欲しくて集め始めたチープな贋作。部屋を埋めるものが増えるにつれて、この街で過ごした時間が積み重なっていくのを感じる。
朝一番、目を覚ますために淹れた濃い目の紅茶を飲むと玄関に向かう。立て掛けられた傘の先には昨日降った雨の跡が残っていた。
両手を自由にして玄関を開けると、昨日までと違い爽やかな眩しさが至る所から顔を出していた。道すがら香ばしい香りが漂ってくるパン屋さんにお邪魔して朝食を買うと、以前から行ってみようと思っていた湖のほとりにある高台を目指す。ちょうど砂浜が終わりを迎える浜辺の端。なだらかな湖岸沿いの地形が高い崖へと変わり、湖へと突き出した岬の先にその高台はある。
朝早い時間帯だからか周りには誰もいなくて、初夏の風が気持ちいいこの場所を独り占めすることができた。
朝食を取ろうと丸椅子に腰かける。紙袋の中で眠っている、まだ焼き立ての温かみがあるパンに噛り付くと口の中に香ばしさが広がり、朝の香りがした。
羽ばたく水鳥を追い、広大な湖をただ眺める。
雨の日には終わりの見えない、とても大きな水溜まりに見えていたけど、今日は微かに浮かび上がる対岸の街並みと線を引く連絡船の航跡が果てしない広さの終わりを教えてくれていた。
この街に来て何か探すように繰り返した行動は、だんだんと当たり前が多い生活へと変わっていた。向き合わなければいけない問題がわからずに、向き合った気になって避けているだけではないだろうか。何も進んでいない現実を誤魔化すように残りのパンを放り込む。
湖岸沿いに連なるお店が次々と開きだし、今日もいつもの日常がやって来る。
“消えていく毎日の中 立ち止まってみなきゃわからないこともある”
なんて思いたくて、目を瞑り太陽を全身に浴びていると遠くから尖がった声が飛んできた。

「こんな場所にも来るんですね、旅人さん。暫く見かけなかったので、てっきり帰られたのかと思ってましたが。ふふ。また会いましたね。」

ここで出会うことを知っていたであろう確信めいた表情をした少女が高台へと登る階段から悪戯に現れた。

「飛鳥さんですか。おはようございます。そうですね…また会いましたね。」

「ははっ。それ先輩の仕業でしょ?相変わらずだなぁ。さてさて、おはようございます。隣、座りますね。」

「すいません。気に障りましたか?」

「全然。てか、むしろ気を遣われる方が困ります。それに旅人さんは謝りすぎ。とりあえず、敬語止めましょう。」

「それはちょっと…なるべく頑張ります。」

困り顔で曖昧な答えを返しても会話のペースは彼女から離れない。

「ふっ。まぁ、そんなことはどうでもよくて。気も遣わないというか、偽らないでいてくれるのが嬉しいのは本音ですけど…。さて、朝食も終わったみたいなので行きましょうか。着いてきてください。」

「急だね。何所へ行くの?」

「上出来、上出来。歩きながら話すんで、とりあえず行きますよ。」

そう告げると、飛鳥さんは一足先に階段からこちらを振り返ると頬を膨らませ、まだ動けずにいる僕に手招きをした。
「早くしてくださ~い。」と叫んだ声は、夏の日の澄み渡る空に線を引く。昨日の雨はもういないのに、周りの草木が輝いて見えた。たった一人、その人がいるだけで、色のついて完成した世界に、再び深い意識を向けることが出来る感覚を何故か唐突に思い出した。

「すいません。朝なんでぼぅーっとしちゃって。」

「また謝った。それに。朝苦手な人はこんな場所にいませんよ。」

「それは…」

「言い訳、下手ですね。」

先を歩く小さな背中を追い、高台から湖岸沿いの道へと降りると歩道も広く平坦になり自然と二人並んで歩くようになる。
右へ左へと肩を揺らしながら歩く姿は、鋭い口調の彼女どどこかミスマッチな気がする。

「あの。飛鳥さん?話の続きなんですが…。」

「あっ、そうだった。えっと…旅人さん。偶然の落とし穴に落ちてみませんかっていうお誘いをしたくて、っていうか落ちませんか?」

意図を探り当てるのが難しい質問に困惑する。どのように答えるべきか、はたまた質問で返してみるか。悩む時間をくれないのか彼女が続ける。

「とりあえず、大切なのは直観です。落ちるか、落ちないかを決めましょう。Yesかno。やるかやらないか。簡単な二択です。どうしますか?」

「それじぁ、落ちますか…落ちてみましょう。」

強がりに任せて言ってしまった回答は高台で魅せた手招きに騙されたみたい。

「落ちるんですね。それでは、私のお願いを聞いてもらいますね。」

「お願い?」

「はい。今度、街全体で大きなお祭りがあるんです。その始まりとして小さくはあるんですが劇をするのが恒例でして、旅人さん。その台本というか物語を創ってもらいます。…駄目ですか?」

「物語?お話を書くという意味ですよね。」

「そうです、そうです。私たちが演じる劇のお話を書いてくださいっていうお願いです。命令ともいいますね。」

無理難題をあたかも日常会話の感覚で突き付けてくる。彼女たちが過ごす世界ではこれが当たり前なんだろうか。隣を歩く彼女の視線は遠くを見つめていて、それはまるで僕が断らないことを知っているような横顔だった。

「落とし穴って落ちてしまったら抜け出せるのかな?」

「どうでしょう。お願いを実行してくれたら助けるかもしれないですね。」

口元に手を当ててクスクスと笑う仕草は、先輩と呼んでいた橋本さんの見せたものと重なり合い、少しだけ彼女の過去が垣間見えた。きっと、その背中を追いかけていた時に見た面影が消えてしまわないようと思っていた時があるのだろう。

「飛鳥さんは…誰かさんに似てちょっぴりイジワルですね。」

感じたことをそのままぶつけてみても、彼女は気に留める素振りも見せずに何かを楽しみにしている微笑みを崩さない。

「落とし穴は、お願い事のことなの?」

「なんていうか…なかなかに無理なお願いごとのことですね。」

「なんで、この言葉を?」

半歩先を歩いていた彼女が不意に立ち止まった。

「それはですね…。」

珍しく返す言葉を選んでいる。

「一言で言えば、私が落ちて見たかったからですね。」

「僕に頼んだのに?」

「そうですよ。正確には、私はこれから落ちる予定ですけど。決められた道をなぞるように走って生きていると時々、偶然できた落とし穴に嵌まってみたくなるんですよ。生きているって実感するのはとても難しいことだから。」

「今日出会ったのは、偶然?」」

「偶然なんて視点を変えればただの必然です。もしも、お互いの純粋な偶然が重なりあえば、それは運命なんて呼ばれるかもしれませんが。それでもきっと美しいことは、空を見上げて吸い込んだ今日が、まだ何処へ行くのかわからないと思えることで…私はそんな夢のような1日にもう一度出会ってみたいんです。」

くるっと元に戻り「語りすぎました。」と呟いた彼女は恥ずかしくなったのか一歩前をスタスタと歩き出す。湖畔に沿って走る路面電車に乗り、あの大きな坂道に近い停留所で乗り換えると駅前へと向かう上り方面の電車を待った。

「その…どこへ行くんですか?」

「あっ、あのレンガ造りの建物わかりますか?あそこに行きます。」

言い終わると同時に電車がやって来て、降りてくる客と交差するように乗り込むと、電車はゆっくりと坂道を上っていく。確か学園みたいな場所だったなと思い返していると、電車はすぐに建物前に着き、飛鳥さんが飛び降りるのに倣って僕も電車から飛び降りた。

宗教的な彫刻が施された荘厳な門をくぐり学園へと進む。真っ直ぐに伸びる道を挟むように木々が植えられ、その足元には青々とした芝生が敷かれている。左右にはレンガ基調の大きな建物が並び、その隙間を埋めるように小さな石造りの建物が点在していた。
突き当りまで来ると、飛鳥さんは迷うことなく建物の中へと入っていく。
4階ほどはあるだろうか。校舎内は重厚な外観とは異なり、僕にも馴染みのあったごく一般的な大学の雰囲気だ。廊下からでも教室の中が見通せる造りは校舎内特有の閉塞感を和らげる。授業中なのかすれ違う学生は少ないが、すれ違った人の多くに挨拶や会釈をされる彼女はやはり有名人らしい。
一番奥の教室のさらに奥へと続く廊下の隅にある扉。
そこに着くと彼女は「少し待ってくださいね。」と鞄から一葉のアクセサリーが付いた鍵を取り出した。
「先に入っていてください。鍵閉めるので。」と言われ中へ入ると、そこには自分の背丈程しかない緑のトンネルが続き、その先に手入れの行き届いた小さな中庭が現れた。
降り注ぐ太陽が明るく照らした芝生にパラソルが差せる白色のガーデンテーブルとタイル張りの椅子が置かれている。
重たい椅子を引くとレンガと擦れる音がした。
今日は朝から可笑しなことが続いている。あの高台で飛鳥さんと出会ったのも、劇の話を持ちかけられたことも、不思議なこの街では、どこまでが自然の出来事で何処からが仕掛けられた出来事かはっきりしない。

「隠れ家みたいでしょ?奥には温室もあるんですよ?。」

校舎の反対側。ちょうどトンネルの出口の対角線上に、地面から生えている木々の影になっているが、白柱をベースとしたガラス窓が特徴の建物が見える。

「あれも、飛鳥さんが管理しているんですか?」

「今はそうですね。先輩がいた頃は、先輩が。確か、大切な人から預かった場所なんだって話していた気がします。」

「先輩って、橋本さんのこと?」

「えぇ。それにしても、なんで戻って来たのかな…。」

大切にしまってあった思い出と今とを照らし合わせるように、昔を懐かしむ彼女の表情は時間を忘れたかのように変わらない。
不意の会話、交わした言葉、懐かしい曲、特別な香り。
あまりに日常に溶け込み忘れ去ってしまった記憶の断片を唐突に思い出すきっかけがある。
そのきっかけに触れて舞い戻ってきた思い出たちは、今の自分に必要なものなんだよ。
そうしないと自分をなくしてしまうから。
誰かの声が聞こえた気がした。

「ごめんなさい。ちょっと考え事をしていて…」

「いえいえ。自分も少しぼぅーっとしていたので、お互い様です。」

「ふふっ。旅人さんもマイペースな人なんですね。そうだそうだ。物語の件なんですけど。」

彼女は手のひらより一回り大きい黒皮の手帳を取り出すと、罫線だけが引かれたページを破り取る。

「そうは言ってもあんまりお話しする内容はないんですが。この街では、夏にあるお祭りの期間に合わせて、街の施設とか建造物とかを使って演劇やミュージカルみたいなことをするんです。規模の大きな文化祭みたいなものです。文化祭はわかりますよね?」

「さすがにね。」

「ですよね。で、今回は私たちで物語を創っていいことになったんですけど、折角なら旅人さんに頼んでみようということになって。」

「一応聞きますが、それ誰が決めたんですか?」

「私ですよ。ん?…考えているような問題はないですよ。きっと。」

まるで一切の不安などないかのように答える彼女。
朝に歩いた湖岸沿いの道で落とし穴に落ちると約束するかどうか。彼女にすれば、それが最初にして最後の賭け的な要素だったのだろう。出演者も講演場所もどうにでもなるようで、物語ができたら彼女に一度見せに来ることを約束すると。校舎の鐘が鳴り響いた。

「私そろそろ行かなくてはいけないので。良かったら温室も寄ってみてください。面白いものがいろいろあるので。ハンモックでひと休みとか最高ですよ。」

腕にはめたアラビア数字が可愛らしいシンプルな時計を確認すると、彼女はトンネルへと駆けて行った。
最初に出会った時も時間に追われて去っていく背中を眺めていた気がする。
彼女はきっと今、そうやって生きているのだろう。
テーブルの上に残された手帳の切れ端にはブルーブラックの崩れた丸文字。
彼女のいなくなったこの庭は、僕ひとりには少し広すぎて、鐘の音が遠ざかった空間は自然が音を吸い取ったような静寂が包む。
彼女は、この庭をひとりで手入れしていたのだろうか。二人の時には感じなかった寂しさが心を巡った。
自分勝手に作り出した寂しさを押し付けてしまわないうちにと、僕は木々の先に見える温室へと足を向けた。


6章-in little time

枝葉のカーテンをくぐり花壇に彩られた小道を抜けると、植物園などでよく見かける温室へと辿り着いた
ガラス窓からは室内に植わっている南国風の植物が見える。
ドアノブを回すと太陽の熱で温められた空気が体を取り囲んだ。もう夏も近く温室内の気温はかなりのものだと思っていたけど、どうやら天井に取り付けてある喚起窓が開けられ風が通っているおかげか過ごしやすい。
南陽植物が植わっている一画には、適当に置かれた大理石の彫刻に地面から伸びたつる草が巻き付いている。足元に続くレンガの道に枯れ草や落ち葉は溜まっていないが、大きな石で縁取られた花壇の中には古びたイーゼルスタンドと画材用具が草花と一緒に散らばっている。
錆びついてしまった昔懐かしい前輪が大きな自転車の脇を通り、天井からの光が真っ直ぐ差し込んだ先にあるハンモックの近くでは誰かがお茶会でもしていたのか、色鮮やかな敷物とピクニックバスケットが忘れられていた。
敷物に気をつけながら奥へ。暖簾のように重なり合っているヤシの葉を押し上げると、遠目でも存在感を放つ深い色合いをした木製の本棚が並び、手前にある軽い風合いの机には分厚い本を枕に若草色のブランケットをかけて眠るあなたがいた。
川べりで分かれたのが最後。
お互いにこの街に居ると知りながら出会わなかったのは、また会えますか?なんて甘い願いを口にできなかったから。それでもこの街の悪戯か今日もう一度会うことができた。
心に灯った確かな暖かさに、何かが動き始めた気がする。
美しい女性の寝顔を落ち着いて見ていられるほど僕は大人ではないので、本棚に手を伸ばし一冊一冊を手に取ってみる。
ページを捲る度に紡がれていく物語に惹き込まれ、つい先の情景を追いかけたくなる。描写に感情を織り込み、心揺さぶる言葉を連ねた文章に久しぶりに触れて焦がれるように文字をなぞる。勿論、新聞やパンフレットで活字を目にする機会はあったのだけど、この街の本といえば観光案内所にある地図やパンフレットのことで、小説などの物語文学を見かけたことがなかった。それは街が抱える際限のない物語が今も街の至る所で起きていて、空想の世界で描かれる物語など必要ではないからかもしれない。
誰かが書き記した言葉の世界に入り込んでいると後ろで人の動く気配がし振り返ると、ついさっきまで眠っていたあなたが、ふぁ~ぁと体を伸ばすし、こちらを不思議そうに見つめてきた。

「おはようございま…す?」

無防備な寝起きの姿にドキッとしつつ、朝でもないのに可笑しな挨拶をする。

「うん。おはよ。その顔、久しぶりに見たんだけど、飛鳥は?」

まだ頭が冴えていないのか、いつもより一段と低い声が返っていた。

「飛鳥さんに連れてきてもらったんですけど、これから用事があるみたいで校舎の方に。」

「うん、そっか。」

一言呟くと彼女は徐に立ち上がりハンモックの辺りまでのろのろと歩いていく。
きっと、太陽を浴びながら体を伸ばしているのだろう。

「ふぅーっ。よし、目覚めた。本読んでたら眠くなっちゃってね。起きたら飛鳥じゃなくて違う人がいたからびっくりしたよ。で、久しぶりだね。どうだった?」

余裕を見せる含みある疑問の投げかけは、どことなく曖昧な雰囲気で飄々としている彼女らしい。

「まぁ、それなりに。ひとつ季節が回ったのに気がつく程度には過ごしてましたね。」

「詩的だね。気に入った本でも見つかった?」と笑いながら、食器棚として使っている本棚の片隅からグラスコップを取り出すと、机に置かれていたお茶を注ぐ。
「いただきます。」と口をつけるとハーブの仄かな香りとレモンの酸味が舌を転がった。

「これハーブティですか?」

「そう。もしかして苦手だった?」

「いえいえ、美味しいですよ。ただ、ハーブティはなんだか橋本さんらしいなって気がして。」

僅かに目線が交差して、橋本さんははぐらかすような微笑みを周りの瑞々しい植物へ向ける。お互いに熱くもないお茶を時間をかけて飲み進める。言葉のない時間が過ぎる。
橋本さんが2杯目を注ぎ、僕が空になったグラスに光を当てて影遊びをしていると、彼女がゆっくりと口を開いた。

「飛鳥にさ…なんか頼まれたでしょ?」

「物語のことですか?」

「うん。私も飛鳥から聞いてじゃなくて、頼まれていたんだけど、断ったんだよね。君はどうしたの?」

「半ば強制的に。でもほんとのところは自主的だったかもしれません。落とし穴に落ちてみたいなって思ってしまったのは事実ですし。」

「落とし穴?もしかして、偶然の落とし穴のこと?」

「えぇ。なんで橋本さんが知ってるんですか?」

「やっぱり飛鳥は飛鳥か。それね。私が昔、飛鳥に使った言い回し。」

懐かしむように本の表紙を指でなぞり「そっかそっか」と呟き終えると、橋本さんは、何か困ったことがあればここに来ると私がいること、そして本棚になる本は自由に使っていいことを伝えてくれた。

「それにしても、橋本さんの言葉遊びだったんですね。」

「そうだね。私も君にまで影響するのは予想外。」

ちょうどお昼時になり、街へと戻ろうとした帰り際、ふとあの疑問が浮かんできた。

「あの橋本さん?どうしてこの街には小説のような本が置いてないか知ってますか?」

「あぁ、それね…。」

顎に手を当てて何か考える仕草をすると

「それは、この街で過ごす人には自分自身を物語にしてもらうため。来てもらう人には、街の物語だけを見てもらうため。なんて聞いたことがあるっていう、今思いついた作り話。私も本当のことは何も知らないよ。」

「なんですかそれ。でも、ちょっと面白かったです。」

軽く手を振ると、トンネルを抜けて校舎へと戻る。お昼時、学食や中庭に向かう生徒に混じって学園を出ると停留所で電車を待つ。
何か書きたい。
書かなくてはいけない。
いけなくなってしまった。
願望と迫りくる強迫の狭間で、とりあえず目に映る風景に言葉を当てはめる作業から始めてみようと空白の手帳を開く。幸いここは観光地だ。人の数だけ物語があるなんて聞いたことがある。お祭りが近づく頃には、今よりいろんな風景に気づけているだろう。
何かの始まりを胸に秘めて僕は電車へと乗り込んだ。