永遠を過ごす刹那の私をつかまえて
~第4部~

作者 匿名希望 

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7章-夕立の庭

「私は…先に行くね。」
「しーちゃん…ごめん。私には…」
「それは…ななみんらしいね。」

記憶が巡った。
懐かしくでも思い返すつもりなどなかった情景に微睡んでいた目元が潤んでいた。
君に“らしい”と言われたあの日から、私は遠くに行ってしまった彼女を-私の親友のことを考えることが増えた。
許しだったか、諦めか。
思いやりだったか、慰めか。
やさしさという短い4文字に込められた幾重もの感情は、時が経つほどに重く苦しくのしかかる。辛かったことや苦しかったことは、振り返る頃には軽く触れてしまえるものなのに。
ただ、あの日。
夕陽に照らされた校舎の屋上。
私に向けられた、しーちゃんの全てを受け入れたかのような柔らかな微笑みは心の裏に焼きついて離れてくれない。
今、どうしているだろうか。
もう、会えないとわかっているはずなのに、会いたいような会いたくないような、どっちつかずの感情が私の中を泳いでいる。

あの日、温室で君の背中を見送った日を境に、まちで君を遠目に見かけることが何度かあった。広場でひとり佇んでいるかと思えば、肩から提げた鞄からノートを取り出し何かを必死に書き込む姿。麻衣のお店で二人して話し込んでいる姿。学園や駅前で飛鳥と一緒に歩いている姿も見かけた。
勿論、私がいる温室にも。
物語を参考に、自分が見つけた1コマになんとか色をつけようと頑張っているのが傍からでもわかった。時折、本を閉じて悩みがちな視線を送ってくることがあったけど、麻衣なら包み込む励ましを、飛鳥ならまだ知らない好奇心を与えてくれるけど、私には返せる言葉の持ち合わせなんてなくて、専ら君の話を聞いていた。
そんな日々が続き、上空に広がる雲の白色度が日に日に増していき風に飛ばされない重さを身につけると、空一面に貼りついた爽やかな青空が主役となる季節へと入っていった。

外の気温はとっくに真夏日を超え、照りつける太陽の日差しで熱くなった路面では卵でも焼けてしまいそう。
私は、紫外線除けにねずみ色をした薄手のパーカーを羽織り、黒のキャップを被ると真夏のまちへと繰り出す。意識しない間に道行く人の服装が一段と軽くなり、色味も淡くなった気がする。日傘を差して歩いている人も多くなった。
駅前の広場を横切るとファッションビルに着く。若者向けのブランドが多くを占めるビルだけあって、若い子達が絶えることなく吸い込まれていく。
私が目指すのはビルの上層階。
時計やアクセサリーが並ぶフロアを抜けてエスカレーターに乗る。途中カジュアルブランドが占めるフロアでは、今を駆け抜ける若い子らが流行りの服を探していた。
上りのエスカレーターが途切れるとビルの6階。
フロア一面、端から端まで邦楽、洋楽、クラシック問わず、アニメやゲーム音楽やライブ映像まで収めたCDやDVDがところ狭しと並べられている。
聴いたことのない曲が店内を流れ、あいうえお順に置かれた何人もの知らないアーティストたちの前を通りすぎると、ようやくお目当ての品を見つけた。
もう解散してしまったバンドのカップリング集。桜色の花びらが散っているジャケットは、もしかしたら終わりを伝えたかったのかもなんて今だから思う。
指先で引っかけるようにCDを抜くとレジで支払いを済ませて楽しみを鞄の中にしまった。
レコードが主流の時代では、楽しみはきっと胸に抱えられて家まで運ばれたのだろう。今ではパソコンやスマホの画面ひとつで楽曲を手に入れ聴くことができるけど、大切な曲がくれるわくわく感を抱えて落ち帰る時間にも幸せがあるのだと店内を出る。
そんな自分勝手な価値観に浸ったせいだろうか、下りのエスカレーターで不意に昔抱いて感情が甦った。
初めて出会ったのは幼い頃の図書館。読み切れない本の山にまだ宝石が埋まっている気がして、読み切れない自分が悔しかった。それを母に話すと「選ぶことで人は個人になれるのよ。」と言われた。その意味を実感するようになったのは他人と比べ自分とは何かを意識しだした頃。いろいろとさ迷った結果、人は自分の世界に入ってくるものに好きと嫌いと無関心を突き付けて自分を知っていくものだと知り、だからこそ、自分が思う好きを支える正しさを見失わないようにしようと決めた。
記憶が途切れるのと同時にエスカレーターは1階に着き外へと出る。駅前のモニターに流れる天気予報には、“午後も晴れ間が続きますが急な夕立に注意してください”という文字が最高気温の下に流れていた。
私は鞄にしまった小さな幸福を先送りにいつものカフェへと行くことにした。

「いらっしゃいませ~」
キッチンから顔を出した麻衣は続けざまに私の名前を呼ぶ。
最近は学園内でも何度かすれ違うことがあったけど彼女の方は忙しいらしく、二人でゆっくりと話したり過ごしたりする場所は、結局このカフェになっていた。
鞄を隣に座席に座ると、嬉しさを隠さずにやって来た麻衣に温かいお茶を頼む。

「なんか良い事あったでしょ?」

斜め前に座りお盆に載せてきたほうじ茶とビスケットを渡しながら聞いてくる。
いつも以上に大きく見える麻衣の瞳に昔から他人の幸不幸に人一倍敏感だったのを思い出した。

「ん…どうして?」

「だって奈々未の考え事している時の顔が可愛らしいから。」

「可愛らしいって…別ににやけてないでしょ?」

「ふふ。にやけてないよ。でも、楽しいことを考えている時の顔は、普段の奈々未よりちょっぴり柔らかく見えるの。」

自分の頬に触れてみる。特段、口角が上がっていた訳でも、目元が緩んでいた訳でもないと思うけど、気づいてしまうのが彼女の凄いところ。
「気をつけなくちゃ。」と返して、今日買ったCDを見せる。
懐かしそうに曲目を確認する姿を見て、二人して過ごした日々を思い出す。
いや、あの頃は三人だった。
どんどんと変わっていく街を背景に私たちの日常は過ぎ去っていった、上昇気流の淡い日々。体験する全てのことから自分の足りなさに気づかされ、隣を歩いてくれている友人が嫉妬によって敵に思えたりした。映像に残る外見も、伝えられる言葉の選び方も、多忙な毎日を生き抜く体と心の強さも。他人と比べ落ち込んで、ないものねだりをしていた毎日。ひとりで過ごすようになって振り返れば、こんな自分も確かに存在したのだと懐かしい。

「懐かしいね。聴いてた頃を思い出した。」
麻衣は窓から覗く街並みを眺め呟いた。
聴いていた頃とはいつだろうか。
聞いてしまえば分かることなのに、その一言を口にはできない。
もし同じなら、あの頃に分かち合った感情が消えてしまいそうで。
もし違ったら、分かち合えていなかったことになりそうで。
でもこんなことは後付けの理由で、本当は麻衣とあの頃の話をするのが怖いから。
CDを返してもらった後、私は残りのほうじ茶とビスケットを食べながら文庫本を、麻衣はお気に入りの雑誌を読んでいる。
距離にして1メートルちょっと。二人でいるのに、それぞれお互いの時間がコツコツと流れていく。波長が合う人としか生まれない私の好きな空間だ。
読んでいた本がひと段落し、時計を見るとおやつの時間を過ぎた頃。
読み疲れてうたた寝をしていた麻衣を起こさないように「また来るね。」と静かに扉を引いた。
自宅へと帰り音楽を聴くか、温室に寄って読みたい本を探すか。
どちらにしようか迷っていると「あっ!」という跳ねあがった声と一緒に夏の香りが転がってきた。
不格好な円形。爽やかな香りだが食べるととても酸っぱい。
どうやら、紙袋が破れて中に詰めていた夏ミカンが落ちてしまったらしい。
道に散らばった夏ミカンを拾い落とし主に渡すと、川向こうへ行くという彼女に「お気をつけて」と言い学園に向かうことにした。

学園の門をくぐり慣れ親しんだ構内を進むと何度も通った校舎に入る。
その奥にある扉は秘密の場所に繫がっている。そこが私達の居場所だった。
初めて教えてもらったのは校舎の屋上から二人で見下ろしたあの日。
目まぐるしく変わっていく新しい環境で、時間をかけてゆっくりと関係を築いていく私のやり方は合わなかった。知らないうちに誰かと誰かが仲良くなり、不思議な、まるで言葉通りの空気なような塊が出来上がっていく。私もなんとか表面上の仲良しは手に入れたけど、心で感じる距離感は日に日に冷え込み、独りになって周りを眺めることが多くなった。
そんな時に「ねぇ、素敵な場所見つけたの。一緒に来ない?」と突然、声をかけてきたのがあなただった。
訳も分からずに連れて来られたのが屋上。何かされるかもしれないなんて不安と高い場所から眺める景色の自由さに私の心はドキドキしていた。
ここがあなたの言う素敵な場所なのかなって開けて見える湖を眺めながら考えていると、何故だかあなたはこっちこっちと手招きし、二人して落下防止の安全策を越える。
「危ないよ」と心配すると「大丈夫だから、ほら。」と手を差し伸べて支えてくれた。
そんなあなたに誘われて屋上の隅っこから覗き込んだ先には、今も残る白い支柱が印象的な温室があった。

「もしかして、あそこが素敵な場所?」

「うん。どうやったら行けるのかなぁ…ななみんわかる?」

真顔で聞いてくるあなたの顔を見て抱いていた不安が面白さに変わり笑いとなって飛び出した。

「え!?どうしたの?」

「だって、ふふっ。見つけたから来てって言われて着いてきたら、まだ行けない場所なんだもん。白石さんって面白いね。」

「あっ、そっか。確かに!」

二人の笑い声が青空へと響く。
人と笑い合える時間なんて久しく過ごしてなかったから、笑いながらも膨れ上がる心の暖かさに泣きそうになったのを覚えている。
それから、二人でよく屋上に来るようになり、あなたの呼び方が自然と“白石さん”から“しーちゃん”へと変わっていた。
温室への扉を見つけ鍵を手に入れたのは、ちょうどその頃。
夜中に忍び込んだ学園。いつも通っている空間が異世界に思え、僅かな光に怯えながらも先を照らす光を頼りに宝探しをした。
鍵を見つけた次の日に、わたし用にと2本目となる合鍵を作り、それが最後には3本になった。

その1本がこれだ。
私は黒ずんだシルバーリングが付いた鍵を鍵穴に差し込み扉を開ける。
中庭を渡り温室まで行こうとした時、昨日まではなかったはずのアンティーク調の秤がガーデンテーブルに置かれていた。
古びた木台から縦に伸びる錆びた銅の支柱は十字架の形をしていて、先端はチェス駒のような装飾。左右にから吊り下げられた三角錐の形を成す3本の細い鎖の先には丸みを帯びた皿が繋がっている。
これは昔、まだ手付かずの温室を片付けている時に見つけたもので、私が気に入って捨てずに飾り物として残しておいたもの。
そして、あの頃は左右に揺れ動く天秤を眺め重たい思いを量っていた。
思いつきで花壇にある小石をいくつか手に取ってみる。
左の皿にひとつ入れると天秤が左へと鈍い音を上げ傾いた。
右の皿も同じよう。すると傾きは緩くなったが、まだ左に傾いている。
もうひとつ足してみると、今度は右に傾いてしまった。
なんとか水平にできないかと小さな石ころと悪戦苦闘していると、頭上に広がっていた青空に灰色の雲が迷い込み地面に影が出来たかと思うと流れるような雨が降り出した。


背中に打ち付ける雨が痛い。
突如降り出した夕立は、世界に雨音のカーテンを掛けて静かで孤独な空間を創り出す。
私はどうすればよかったのだろう。
泣きたいのか、泣いているのか。自分でもわからなくてわからない。
掴めると思っていた未来が指先からすり抜けるように遠退いていき、何時からか描ける風景が限られていった。
目の前で傾いていた天秤には雨水が貯まり、もうどちらにも傾かない。
“やれる”と“やれない”が“やりたい”と“やりたくない”へと変わり、
今では“できる”と“できない”で分けてしまうことが多くなった。
私にはできない…。
逃げでもなんでもなくて、誰にでもある先天的に背負ってきた、受け入れることしかできないと感じるものが私にもあった。
このまちに来なければ、この風景を見てしまわなければ、私の歩んできた生という時間の中、まるで歩く影のように憑いてきていたことにすら気づかなかったかもしれない。だけど、私は意識してしまった。考えを巡らし重ねた時間自体が重さとなり生活から離れない。
きっと、その頃から。
私は揺れ動く天秤に、唐突に出会う運命と重ねてきた毎日を秤にかけ自分にとっての幸せとは何かを問い続けていた。
「私は…先に行くね。」
そうやって未来を語るあなたはとても晴れやかで美しく自信と楽しみに満ちていた。
そう。あなたはまるで海を渡り旅をする鳥のよう。
まだ見えない何千キロと離れた土地へと躊躇いもなく飛び立っていく。途中で嵐にも遭うだろう。先を飛ぶ仲間に着いていくのが苦しくなることもある。もしかしたら、飛びつかれて羽が動かなくなる時が来るかもしれない。
それでもあなたは気高く海を臨む崖に立ち、辿り着けるかわからない場所へと何度も何度も飛んでいく。
隣を飛べた頃が懐かしく。
引っ張り合った頃が美しい。
支えてもらうようになってからは自信や楽しさより不安や誤魔化しが波のように押し寄せた。
なんて返事を返そうか…。泡沫のように浮かんでは消えていく言葉たち。
残るのはいつもこの科白。
「しーちゃん…ごめん。私には…」
仰いだ空は目も開けられないどしゃ降りで、足元には泥交じりの水溜まりが広がっていた。
数時間前までそこにいた太陽はすっかり雨雲の向こう側へと去ってしまい、今地球はとても頼りなく、このまま何処かへと流れ出してしまいそう。
天秤に貯まった雨水を流すと、保たれていたバランスが一気に崩れ傾いた。
心に決めたことがある。
あなたのせいでは傷つきたくない。
胸に残る喜びが憎しみに変わってほしくない。
大切など思う正しさを見失いたくはない。
だけど…だけど…。
色んな想いが混ざり合って、ただ涙みたいにとまらない。
きっと大切な日々を過ごしてる。
ずっとあなたの横を歩きたい。
もっと見たかった景色がある。
それなのに、そこに自分の姿は浮かんでこない。


雨を弾く音がする。
目の前の天秤は石の重さで小さく傾いたまま。

「橋本さんっ。濡れてるじゃないですか。どうしたんですか?とりあえず、温室に行きますよ。」

君の焦った声を初めて聞いた。持たされた傘には力が入らなくて、君に掴まれた手首の感触だけが捨て去っていない私の一部だと感じられる。
温室に着くと私の鞄を慌てて置き、君はまた傘を持って外へと駆け出して行く。
湿った机に耳を当てると、君の靴音が遠ざかっていく。揺れた髪先から垂れた水滴が顔の前に水玉模様を描き、肌に貼り付き濡れた服が体温を奪ったのか少し寒い。
扉が開くと君の息切れがした。走った姿なんて見たことないのに。
動かない私を起こし、帽子を取り、パーカーを脱がすと大きなバスタオルを頭と肩にかけてくれた。「拭くのは自分でしてくださいね。」と食器棚にある電気ケトルでお湯を沸かし始めたのか、水のぽこぽこという音が雨音と重なる。
暫くして、何もしていない私に気づいたのか、困った表情が伝わる足取りでこちらにやってくると、ゆっくりと頭を拭いてくれる。

「今日はなんだか、らしくないですね。」

「うん、そだね…。でも、これも私なんだ。」

言葉を探すように止まった手。静かな時間が自分が感じているよりもっと遅く流れていく。息を吐く気配がして、君が何か言いかけたのをお湯の沸いた音が遮った。
陶器の音は急須と湯飲み。缶から茶葉を移してお湯を注いでいる。迷わない動作に私の知らない君を見つけた。机に並んだ湯気が2本昇っていく。君はまた後ろにまわると包むように髪を撫でてくれた。

「やっぱり僕と違って髪が重たいですね。ドライヤーあったら良かったんですけど、コンセントがないか。」

「充電式のやつもあるんだよ。」

「それは、知らなかったです。」

君が熱いお茶を一口飲む。


「わかりますなんて簡単には言えません。“美しい”とか“好き”だとかを他人とは大きな枠組みでしか共有できないのと同じで、外から作られた印象は自然と共有とか共感がしやすいものになってしまうんだと思います。」
「だから…他人から見た自分の印象と、自分が抱える意識が違って感じるのは、たぶん当たり前なんだと思います。少なくとも僕はそう思ってます。だからこそ、知らない自分に出会うこともあって、それはきっと大切にしたい自分を知ることにもなるんだと…って話がうまく纏まらないですね。」

「ううん。ありがと。」

満ちては引いてを繰り返していた心の波が穏やかになり、周囲の世界がだんだんとクリアになっていく。頭で触れ合った手を合図に君は私の隣へと座った。天井に降り注ぐ雨粒は、ガラス窓を伝って地面へと流れて、外の景色はまだ歪んでいる。もう暫く雨が続きそう。

「色がね。視えなくなった頃を思い出していたの。」

両手で包んだ湯飲みは暖かい。

「家族、友達、仲間。それにこのまちと自分。与えられた色はどれも大切で、でも抱えきれないほどの色を抱えてしまうと、分かれていたはずの色が混ざり始めて、このままでは全部が真っ黒になってしまいそうだった。だから、ほんとに大切な色は無くさないように必死だったんだ。無くさないでいられたかはわからないんだけどね…。」

その後、少しだけ昔話をした。
駅もまちもまだ立派ではない時のこと、上昇気流が吹き始めた時のこと。
君はただ黙って聞いてくれていた。
雨音が止み、灰色をした雲が流れる。
空には夏の青と白が帰ってきた。濡れていた服も乾き、気持ちが軽くなった。
湯飲みを片付けようと立ち上がると君も一緒に席を立った。
「もう大丈夫ですか?」心配げに聞くので「大丈夫だよ。なんかごめんね。」と笑って答えた。
二人で片付け終えると君は「やることがあるので。」言い残し去っていく。
私は椅子に掛けたままだった借りてきたであろうバスタオルを医務室に返しに行き、帰り際、気まぐれに湖が見渡せる教室の扉を引くと、目の前は夕陽のオレンジ色で染まっていた。
今日は何度もあの日の面影が私を呼ぶ。
心の夢に残されたあなたの柔らかな微笑みに出会うため、私は誘う記憶と頼りに教室を後にして階段を上る。

7章+α-Judy

コツンコツンと鳴り響くローファーの底と違い、今履いているスニーカーから聞こえるのは鈍く貼りつくゴムの音。こんな些細な違いにも今と昔を感じてしまう。
右手に添えた木造の手すりを支えに踊り場まで11段、踊り場回り、2階まで残り11段を数えながら上っていく。
いつか二人で話したね。失ってしまったものに出会うという遠い遠い場所のこと。
もしそんな場所があるなら「行ってみたい?」って尋ねると、あなたは遠くも見るように目を細めて悩むと「私はいいかな。だって今の仲間が大切だから。…特にななみんとか!?」って言ったね。
本音に冗談を重ねるのが癖なんだと気がついたのはずっと後になってから。
だからかな。あなたと過ごした日々は、どこを切り取ってもたくさんの笑顔で満ちていた。
失ったものがあった私と、置いてきたものがあったあなた。
僅かな違いは最初は糸のほつれみたいに見えにくいものだけど、最後には決して交わらない別れ道となって現れた。

校舎をまた一つ上がった。
眺める景気は高さを増し遠く地平の彼方まで広がっていく。
4階の上はあの屋上。
最後の11段。目を閉じて想像の中、あなたと一緒に歩いてみる。
(ねぇ、ななみん。何してるの?)
1段ずつ足をかける度に忘れていた記憶が漫画の1ページにように甦る。
(こっちおいでよ。ほら。)
浮かんでくる瞬間
(私たちはズッ友だね。)
抱いていた鮮明な想いは
(ななみんが隣にいてくれてよかった。)
会えなくなってからも私の中で
(大丈夫?無理してない?)
色褪せることなく息づいていた。
(聞いて。私は…ね。ななみんが好きだよ。)
あぁ、よかった。まだ無くしてはいなかった。
別れの孤独を消すために抱いてしまう憎しみや妬みなんてこれっぽっちもなくて、心の中の私はただあなたのことが好きだった。

ずっと支えにしてきた手すりを離して屋上への扉を開ける。
広がった風景は一時の幻想。
紅く染まった西空は東にゆくほど月夜を誘う夜の藍色へと色づき、空高く浮かぶわた雲は風に乗り、その色を白から黒へと自在に変えていく。山稜から対岸の街並みまで、皆等しく塗りつぶされたシルエットに、落ちていく太陽だけが湖に一筋の光柱を残していく。
記憶の紙が空を舞う。
私の周りを踊るように舞い上がる。
真っ白な紙にコマ割りの枠ができ、瞬間の想いに物語が重なっていく。
描かれた幸福な時間は、今ではもう触れられない儚い輝き。
遠くで繰り返す波音に、風が吹き抜ける。
足元に迫る影も、グランドに響く呼び声も。
今、何もかもの懐かしさがあなたへと変わっていく。

「私は…大切な自分でいられてるよ。回り道したけど、ちゃんと失ったものに出会えたから。ねぇ?…しーちゃんは、どうしてますか?」

あの日。あなたに別の道に進むと伝えたあの日。
別れの言葉は、この場所で、空は紅く燃え上がっていた。
私が最後に選んだ言葉は「しーちゃん…ごめん。私には…できない。」だった。
涙を堪えた瞳に見たあなたは、ただ1回頷くと私をそっと強く抱きしめた。

「大切にしたい自分があるんだね。それは…ななみんらしいね。私の知っているななみんらしい。でも、私は、ここでの思い出を忘れないから。一緒にいてくれてありがとう。」

伝えてくれた言葉があまりにも穢れなくまっすぐで、あの頃の私には嬉しくも痛くて、ただ涙がこぼれてしまわないように頷くことしかできなかった。

不自由な自由の中、私は自分らしくなれたのだろうか。
麻衣は、そんな私自身を好きだと言ってくれた。
飛鳥は、先輩の私が好きなんだと思う。
あなたは、なんと言ってくれる?
湖へと吹き下ろす風が背中を押す。止っていた鳥たちが一斉に湖へと飛び立った。
今だけ、あなたのことで涙を流すことを許して、弱虫だった私が言えなかった言葉をあなたに届けよう。

「しーちゃん、ありがとう。いつまでも友達でいさせてね。」

瞳から零れ落ちた涙がガラス糸となり舞い踊る記憶のページに結びつくと一緒になって消えていく。またひとつ、またひとつ、消えていく。
今なら、いつか他の場所であなたと出会えた時に瞳を逸らさずに笑える気がする。
その時はまた、お互いが好きでいられますように。