永遠を過ごす刹那の私をつかまえて
~第5部~

作者 匿名希望 

シリーズ一覧はこちらから

62ff7034c6f3e0bc2247ff48dfea6e1f_s
8章-夏の幻

原稿用紙を1枚指先で抜き取ると蛍光灯に透かしてみる。ソファーから投げ出した両足をバタつかせてみても空を切るだけでなかなか良いアイデアは浮かんでこない。
私は顔に落ちてきた原稿用紙を吹き飛ばすとソファーから跳ね起きた。
それもこれも全ては旅人さんが持ってきた物語のせいだ。
まさか、童話や絵本にあるようなストーリーにしてくるとは。

「はぁ…どうすっかなぁ~」

「飛鳥。口調が男の人みたいだよ。」

ソファーにもう一度なだれ込むと、隣でのんびり本を読んでいた先輩が突っかかってくるので、肩にでも寄りかかって読書の邪魔でもしてやろうかと思う。

「いやだって。これだと演劇は無理なんですよ。階級を超えたロマンスみたいな喜劇でも、貴族の没落を描いた悲劇でもない…。」

「でも、任せたのは飛鳥でしょ。それこそ“偶然の落とし穴”なんじゃない?」

「いや、そうなんですけど、って話したのか旅人さん。」

「ふふっ。私が聞いたの。」

「むぅ。それはちょっと恥ずかしい…。それで、奈々未さん?」

「ん、私はもう見知らぬ人だよ。自分で考えなさい。考え事するの好きでしょ?」

今日の先輩は意地悪だ。私が好きなのは価値観だったり生き方だったりを適当な距離から考えることで、今しているような作業じゃない。そんなこと知っているはずなのにと頬を膨らませてみる。

「…はいはい。手伝ってあげるから。」

甘えてみると、照れを隠すように一呼吸置くのは昔から一緒。
片側の髪を耳にかけて活字と向き合い落ちていく横顔は美しくて私の憧れだ。

「飛鳥って舞台もやるんだっけ?」

読み終えた原稿用紙の束を紙紐でまとめながら声だけで尋ねてくる。

「ですね。最終日だけは野外のライブステージがあります。」

「じゃあ、演劇は止めだね。飛鳥の言う通り舞台向きの作品じゃないから、なんなら大きな紙芝居みたいな見せ方にしたら?背景の色彩をはっきりした方が面白そう。」

そんな先輩の思いつきで決まってしまった紙芝居型人形劇。
舞台の演出とかはやってあげるからと言って、裏方の仕事を楽しそうにしている先輩。私は私で人形の動きに台詞を合わせたり、言い回しの調整をしたりした。
久しぶりに先輩が隣にいてくれた作品。
「落とし穴に落ちたかったのは飛鳥の方でしょ?」と演じ終えてからポツリと言われ、なんだか心の隅を覗かれたみたいだった。
今はここに居るのが心地よい。だけど、自分だけの物語をなんて我儘が心をさ迷う。
夕闇が迫った坂道をひとり、先輩たちが待つ砂浜へと向かう。
「なりたい自分なんて、よくわかんないよ。」
坂道を蹴り飛ばし、呟いた言葉を頼りに伸ばした手。
空高く輝く一番星を掴めないことは知っている。
(期待してんじゃねぇよ。)
悪態とは裏腹に小さな希望が心に灯り、無性に話がしたくなった。
今、先輩と話がしたい。遠くから私を呼ぶ声がする。
でもその前に、劇のお話を少しだけ。

~ marionette fantasia~
隣町まで場所で30分という山あいにある小さな村。森と湖に囲まれた自然豊かな土地では多種多様な果実が育ち、多くの村人は農家であった。
主人公は年頃の少年少女。午前中は村にひとつしかない教会で勉強をし、午後からは両親の手伝いで隣町まで交易品の取引をしに行く生活を過ごしていた。
そんな長閑な村を嵐が襲ったのが1つ目の災い。
大切に育てていた果実は土に還り、木々の葉が一枚と残らない酷い嵐だった。
家しか残らずに困った村人達。
どうしたものかと何もなくなった果樹園を見に行くと、畑の土が果実色に染まっていた。
林檎の赤に葡萄の紫。蜜柑の橙と檸檬の黄色に桃色。
柘榴や柿、枇杷のような繊細な色もそのまま土に色づいていて、それはまるで虹色の世界だった。
当然村人たちは、この色土が売り物にならないかと話し合い、翌日には両親に頼まれて少年少女は町へ色土を売りに行った。
物珍しさも相まってか初日こそ金になったものの、経済弱国のそのまた辺境の地だったのが運の尽き。生きていくために必要であった果実と違い、物珍しさしかない色土はすぐに売れなくなり、数日後には帰りの馬車に乗るのも難しくなった。
そんな苦しい日々を繰り返し、数枚の銅貨しか貯まらなかった麻袋を握りしめトボトボと二人帰っているところ「君たちが持ってきた色土のある村はどこにあるんだい?」と黒っぽいマントを纏った男が話しかけてきた。
普段なら両親の言いつけを守り、決して村の場所を教えることなどなかった二人だったが、お礼にと渡された金貨と元気のない村人の顔が心に隙をつくり、村へと案内してしまった。
これが2つ目の災い。
村を遠目に見て帰った男が再び現れたのは少し経ってからのことだった。
その時、ちょうど村人は色土を耕し、もう一度果実を育てていこうと決めたとこだった。
そこに黒マントの男がやって来ると、村人に不思議な鏡を渡してこう言った。
「この村にある色はとても素晴らしいので、この鏡に写し取ってほしい。素晴らしい色を写した鏡には翌日、代わりに金貨が映っているだろう。」
話半分、適当な色を写したか鏡を枕元に一晩が過ぎると、村中が騒がしい声に包まれた。
鏡の中に映っている金貨が手のひらに転がり落ちたのである。
それから村中が大騒ぎ。1色より2色。色の組み合わせによっても金貨の枚数が変わるという噂が瞬く間に広がった。
今では果実のことも忘れ、一日中どの切り取り方が素晴らしいか、鏡と景色を必死に見比べる者から、いっそ映える絵を自分で作ってしまおうとする者まで現れた。

知らない誰かが燃やしたキャンプファイヤーを囲んで舞い踊る村人の中、少年少女は屋根裏部屋でふたり昔の風景を思い出す。
彼らも初めは鏡を持って村を駆けまわった。けれど、鏡を落として割ってしまう。
そのことを大人たちに話してみるも、誰も鏡に夢中で耳を貸さない。
これが3つ目の災いにして、1つの奇跡。
それからふたりは屋根裏でふたりだけの村の美しさを語り合い、少年は言葉で、少女は絵でその美しさを書き残すことに決めた。
村の変化は目まぐるしく、少し前の記憶にも朝靄がかかる。忘れかけていく、失いかけていく色を必死に探し思い出し、空白の1ページを拙い言葉と絵で埋めていった。
ちょうど1冊のノートが絵本になった頃、村人たちは突如、色が視えないと言い始めた。色が視えない村人たちにはわからないが、まだ色が視えるふたりには、村から色が去り白黒の世界が近づいていることがわかった。
自分たちのせいだと絵本を抱えふたり寄り添って昼を過ごす。
光の少ないこの時代。夜は色が支配できない時間だった。
白黒が動けない時間帯。お伽話に出てくる化け物に怯えながらも、二人は勇気を閉じ込めた手を繋ぎ夜の世界へと飛び出すと、村の中央に色鮮やかに輝く大きな鏡が浮かんでいた。
もしかしたら金貨がなくなるかもしれない。
それでも、失いたくないものがあるからと、ふたりは大きな石を投げつけて鏡を割る。
遠く城に住む魔女の髪は白に戻り、男のマントは黒くなった。
色が戻った村人だが変わりすぎた村を前に、昔の記憶が甦らない。
そんな村人一人ひとりに二人は絵本を読み聞かせる。
あの頃の、切り取らなく飾らなくても、そのままをただ美しいと感じられた村に戻りたくて。


劇が終わり観客席に居た二人が舞台裏へと来てくれた。
「浜辺で待ってるから。また後でね。」と言葉を交わすと、お互いに二人分の幅を開けて歩いていった。そんな数時間前の出来事に、深川さんを加えた3人が私を待ってくれていた。

「飛鳥。お疲れ様。楽しい時間だったよ。ありがとう。」

最初に声をかけてくれたのはやっぱり先輩だ。深川さんは隣で観に行けなかったことをしきりに謝ってくれた。別にいいのにと思いながら旅人さんの様子を伺うと、なんだか夜風に当たって黄昏れていたので脇腹を突いてやった。

「どうでしたか。お話が劇になった気分は?」

軽く聞いたつもりなのになかなか口を開かない。
何度目かの波音が湖へと帰り訪れる一瞬の静けさに遠く浜辺の賑わいが聞こえた。
「そうですね…」躊躇いがちにゆっくりと。

「良い物語だったのかなんてわかりません。ただ風景を言葉に置き換えるのと似ていて、自分の書いた文章が、また絵に戻り音が吹き込まれると、それはまるで、幻を見ているような気持ちになりました。飛鳥さんの声が響く度、もうこれは飛鳥さんのものなんだなって…わかりますかね?」

「なるほど…。」

単純に“楽しかった”とか“良かった”みたいな当たり障りのない返事でも構わなかったのに。今度から真面目さんなんて呼んでやろうかと考え込んでいる私に困ったのか「何か買ってきますね。」と祭りのはじまりとともに湖岸沿いに立ち並ぶ屋台へと走っていった。

「行っちゃいましたね。」

「だね。とりあえず座ろっか。」

三人横一列で砂浜に座る。
他人に深く入ることが苦手な私。深川さんがカフェを開くときも、先輩がいなくなってしまった時も、ただ理由も聞けずただ眺めているだけだった。それは勿論、自分のことも。
湖から吹く一陣の風に身を任せ、体の重さを捨てるように寝っ転がると、夜空は満点の星で埋め尽くされていた。一番星の輝きを求め、無数の星が深い夜へと集まりだす。
もう、どの星が一番星がわからないや。

「この季節がやってきましたね。」

「だね。飛鳥は忙しくなるね。」

「もう十分に忙しいですよ…」

「飛鳥ちゃん、無理はダメだよ。また好きなもの作りにいってあげるから。」

「いつもすいません。助かります。」

「ふふっ。まだ甘えたいお年頃?」

「違いますよっ!もう。…。」

呟いてしまいそうになった疑問を音になる寸前で飲み込んだ。
聞いていいのだろうか。返ってくる言葉は本物か。不安な気持ちを代弁するように、浜辺に遊びにやってくる海の家から聞こえるラジオに乗って音楽が流れだした。

「それで、先輩。…奈々未さん、探し物は見つかったんですか?」

呟くことのできた疑問。砂時計がひっくり返り、止まっていた時間が動き出す。

「そうだね…。なくしたつもりなんてなかったんだけどね。」

夜空へと抜ける先輩の声は涼やかだ。
ある時は背中合わせで。ある時は肩に頭を乗せて。今は月明りが照らした背中を見て。

「人はね。時に求めすぎてしまうんだよ。心は身勝手だから。なくして気づいてまた寂しがる繰り返し。そうして何が自分に大切なのかを決めていく。勿論、幸せなんていう曖昧なものもね。」

先輩がそっと近づくと優しく髪を撫でてくれる。

「飛鳥、珍しいね。なんかあった?」

手のひらで伝わるやさしさは、強く生きると決めた今の私には温かすぎて瞳が揺れる。

「ううん。なんでもない…」

「そっかそっか。」のリズムに合わせて先輩の細い指が髪を梳く。砂を握りしめていた手は、いつの間にか深川さんの両手に包まれていた。

「ひとつだけ。誰かのためにと思う力はいつかは消えてしまうものだから。それに惑わされないようにすること。ありたいと思う自分が好きなこと、大切なことを見つけて見失わないように。飛鳥なら、ちゃんと見つけられるから。」

夏は幻だ。
もう聴けないと思っていた声が、触れられないと思っていた手が、会えないと思っていた人がそこにいる。このまま海に浮かんで、目を閉じて感情のままに流されていきたい。そこは、きっと私の好きな場所だと思うから。
『みんな余りにも簡単に本心を隠してしまうから、私にはあなたの言葉が必要なの。』
ラジオからそんな歌詞が聞こえた。

「ここだよ~。遅かったけど大丈夫だった?」
深川さんの呼び声で意識が冴えると両手いっぱいに袋を提げた君が戻ってきた。
焼きそば、焼き鳥、たこ焼き。クレープにかき氷まで。
お祭り初心者かよって笑いながら、溶けてしまう前に急いでかき氷を食べる。大切な人の側で食べるかき氷は頭が痛くなっても美味しかった。
お腹がいっぱいになった後、先輩たちが片付けに行ってくれたので君と二人きりになった。
屋台が閉まり、浜辺にいた人達も順番に引き上げて帰っていく。
残った熱気と食べ物の香り、それらが浜辺を漂うだけで、ここがお祭りの時間だったことを教えてくれる。夜に落ちていく湖を眺め、ずっと不思議に思っていたことを尋ねた。

「どうして…童話みたいなお話にしたんですか?」

「いろいろ考えたんだけどね。心打たれるものに出会ったからが理由かな。」

「出会ったって…どういうことですか?」

「それは。」と旅人さんが言いかけた時、ちょうど先輩たちが帰ってきた。
「またいつか。」と言葉を切られ4人で他愛もない話をしながら家路に着く。
私と深川さんは学園へ。先輩と旅人さんは街外れの川の方へと向かうのでここでお別れ。
久々に過ごした懐かしい時間。 
寮の前まで送ってくれた深川さんにお礼を言うと部屋へと戻る。昔は嫌いだった写真を下敷きにカメラが置いてある。今では、いつか先輩に見せたいと思って撮った写真が沢山ある。
この話もできるといいんだけどなぁ。
また明日からは舞台の主役。頂いたものを返す日々が続いていく。
ありのままの自分でいられるようになった環境でありたい自分を見つけられようにと言葉を胸に仕舞い込み夢の世界で夢を見る。


9章-夢のひとつ

空を突き破る鮮やかな青空に一筋の雲が走っていく。
ひこうき雲。懐かしい曲が頭を巡る。
空に憧れて、空へと駆けて上がっていく無垢の少女。
浮かぶのは干からびた向日葵畑に忘れられた麦わら帽子と終わりゆく夏空の風景だ。

窓にそっと指を這わせ、ひこうき雲をなぞってみる。
この雲が消える頃には、この街に訪れた夏という魔法も暑さだけ残して飛んでいくのだろうか。そんな感傷的な気分さえも、外から聞こえてくる賑やかな音にかき消された。
今日で祭りも最終日。小さな人形劇で幕を開けたお祭りも街全体へと膨れ上がると、止まらない人々の熱気と歓声が、街外れのこの部屋まで訪れるようになった。
ただでさえ暑いこの季節。街の至る所で局所的に幾度となく発生する熱狂の渦は僕を酔わせ、しんどくなったここ数日は涼しくした部屋を隠れ蓑にのんびりと過ごしていた。
冷蔵庫を空け、凍らせておいた濃いめのコーヒーを包丁で砕く。牛乳を注ぎメイプルシロップで甘さを整えると、ミルク色に黒飴色が溶けだした飲み物の出来上がり。夏によく飲む一品だ。スプーンで氷をかき混ぜているうちにコーヒーが溶け、ちょうどよい甘さ加減になる。ミルクの風味が好みの人は飲み干してからもう一度牛乳を足すと、溶け残ったコーヒーがちょっとした苦みをもたらし2度目の美味しさが味わえる。
確か最終日は、ともらったメモの切れ端には“学園ライブがあります。”と書かれていた。その横に慌てて書いたのか“花火もあります”と擦れた文字が付け足されていた。そういえば、湖面に映る花火が綺麗なんですよと言っていた気がする。
ただ、湖での打ち上げ花火ならここからでも見えるしなと消極的な考えでスプーンを回していると呼び鈴が突然鳴り響いた。この部屋で初めて聞いたピンポーンという音。あまりに久々だったので、2回目でようやく鳴っているのが自分の部屋なのだとわかり、慌ててグラスを置くと玄関を開けた。

「こんにちは。…ふふっ驚いているね!」

「橋本さん!?どうしてここが?」

「さて、どうしてでしょう。そんなことより飛鳥のライブ観に行くから、早く準備して。」

整頓されていない部屋は見られたくないもので、彼女を待たせないように急いで薄手のカーディガンを着ると、鍵と財布を持ち靴を履く。
玄関に縁取りされた彼女は手すりに肘を乗せて湖を眺めていた。
やっぱり絵になる人だ。初めて会った時には、なんだかその立ち姿がぼやけているように感じることがあったけど、あの日を境にふと見せる姿や表情には鋭い輪郭の線が引かれたみたいにはっきりとした印象になった。
「何してんの。行くよ。」
急かす声に僕は慌てて靴ひもを結び、細い路地を進む彼女の後を追いかける。

「あの、どうしてこのアパートを知ってたんですか?ってなんで来たんですか?」

「前者は秘密。後者はさっき言ったでしょ?飛鳥が『旅人さん、絶対に来ないから、来たとしても人混み嫌いだからすぐ帰っちゃうと思う。』って。どう当たってるの?」

「それはそうでけ「仲良いね。ほら着いた。」

細い路地を抜けると、カーニバルの衣装に身を包んだ人で溢れかえる坂道に出た。学園前にも人だかりができ、訳の分からない楽器があちらこちらで鳴り響いている。
これは入るまでも一苦労だぞと思っていると「ちょっとごめんね。」と手首を掴まれて人混みの中へと連れ込まれた。四方八方へと秩序なく動く人波に押されること数分。やっと周りが見えるようになると、そこがレンガと鉄柵が組み合わさってできた塀に沿って続く学園の小道だとわかった。
肩で暫く息をする。彼女が「はぁはぁ…ごめんね。はぐれると…面倒だったから。」と掴んでいた手首を離す。

「いえ。それにしてもすごい人ですね。歩くだけで疲れます。」

「ほんとに。私も人混み得意じゃないからさ。そうだほら、飴いる?」

包み紙の両端を引っ張り、口に放り込むと甘い味がする。
そのまま塀沿いの一本道を進むと女子寮と書かれた看板のある建物が見えた。
躊躇なく入っていく彼女に「あの、女子寮って」と指さすと「ん?私といるから大丈夫でしょ。」とスタスタと歩いていく。
階段を降り、地下にある食堂を抜けて廊下を渡る。誰かに見つかったらと周りの目にビクビクしていると「今日はみんな忙しいからね。この時間は誰もいないよ」と笑われてしまった。
突き当りにある、聖書の物語が彫られた扉を開けて地上へと戻ると、校舎に囲まれた中庭広場に設置されたステージには観客が集まりだしていた。
期待に満ちた空気が香りとなって広がるのを感じる。
子供の頃。1年で何回か出会っていた香り。
体育祭や文化祭での実行委員の開会挨拶。夏休み前、最後に聞く校長先生の長い話。
大人になると出会わなくなったのは、純粋な期待や喜びが、どれも自分の物ではないような気がしていたからだろう。
広場のステージが見下ろせる建物に入ると階段を上がる。2階より先は関係者以外立ち入り禁止と記したテープが引かれていた。最上階に着くと、教室の扉を引きベランダに出る。
ちょうど上手寄りからステージを見渡せた。

「どう?いい場所でしょ。椅子は適当に選んでね。」

もう卒業したはずの学校の椅子に座る。
椅子の足を引っかけて背もたれを曲げ怒られていた頃が懐かしい。。

「遠いけど良く見えますね。それに涼しい。」

言葉が独り言のように目の前を駆けていった。
降り注ぐ陽の光は、時間が経つほどに鋭く色濃くなっていく。
ステージには観客の熱狂を煽るようにリズミカルな低音が響きだした。
吸った息を吐きだす時、人は一瞬、無防備になる。
そんな瞬間を見つけたか、爆音が空へと炸裂し白煙の中を着飾った少女たちが駆けてくる。客席から聞こえる歓声も一際大きくなり、この距離でも体が熱くなるのを感じる。
この熱で心を騙せたなら。
そんな願いを秘めながら何曲もの曲と踊りで時間は進む。音が変わり、色が変わり、衣装が変わると、人が変わる。それに釣られて観客も変わっていき、一曲一曲が過ぎていく度に空間全体の一体感が増していった。
音が止み、舞台を照らす明かりが落ちると一時の静寂が訪れる。
目を閉じて瞳に映る世界を闇で覆っても、頭の中で鳴りやまない音楽は、すぐに眩い光を連れてきてしまう。

「意外と熱くなるんだね。表情とかあんまり変わらないと思ってたから驚いた。」

「たぶん。この距離間だからですよ。もっと近かったら焼け死んでいます。でも、この距離だとさすがに飛鳥さんからはわからないですね。」

少し休もうと手すりから身を離し深く椅子にもたれ掛かる。

「いや、そんなことないよ。みんな変わっていくから。次々に変わっていくから。意外と変わらないものの方が見つけやすかったりする。私はよく、そんな場所探してた。だから、飛鳥もきっと気づいてる。」

力強い言葉の終わりは幕切れへの始まり。
最後の盛り上がりへと人々の想いは舞い上がる。遠く舞台を歩く飛鳥さんの手がこちらに振られたと思ったのは気のせいだろう。もう太陽は稜線へと欠けていく時間帯。彼女から見える僕らの姿は茜色の空に混じった黒い影だ。
観客の手の中で輝く光が夜の空へと帰る頃、音楽は緩やかに終わりを奏でる。
横一列で語られる感謝の言葉は温かい拍手に包まれて長い舞台の幕が下りた。
喧騒が遠のき徐々に人の気配が消えていくにつれて訪れる物寂しさに、僕は夢の残り香を探すよう、ただぼんやりと誰もいなくなったステージ眺めていた。

「喉乾いたでしょ?飲んでいいよ。」

頬に触れた冷たい感触に振り向くと、橋本さんが冷えた水を渡してくれた。

「楽しかったですね。」

心の熱が収まると、湿っぽい夏の夜が顔を出す。

「そうだね。でも、これからだよ。」

嬉しそうに手招きをする彼女に連れられて夜の校舎は歩く。月明かりが窓から淡く差し込んでいる。いつもなら学生で溢れているこの場所も、今は誰とも出会わない。普段過ごしている空間が不思議な世界になってみたい。迷い込んだ小さな不安に懐かしい思い出を思い出し笑ってしまった。

「どうしたの?」

半歩先を行く彼女が振り返る。

「いつかは忘れたんですけど、こうやって誰もいない校舎を歩いたことがあって。確か、全校集会の日に遅刻したんだっけな。勿論、教室には誰もいなくて、だけど僕は浮かれ気分で。物語の主人公にでもなった気でいたんでしょう。でも、体育館まで歩いてる途中、ほんとにみんながいるのか不安になっちゃって。扉を開けてすごくほっとしたのを思い出したんです。」

「寂しがりやさんだったのかな?今日は、君のいろんな顔が見られて面白い。」

「確かに。真っ暗にして寝るのも遅かったです。」

「そうなんだ。でも…記憶は不思議だからね。些細なことで甦る。そういえば…まだ言ってなかったね。君のお話…嬉しかった。ありがとう。それじゃ、お返しにと。さて、着きました!」

そこは夜空に近い場所。
遮っていた天井は消え、雲ひとつない群青色をした空に白い月が浮かんでいる。雨のような星たちはペン先で払った輝く線を残して次々に湖へと流れ落ちていく。湖上では半球のスクリーンがカーテンのように揺れていた。

「もしかして、花火って作りものですか?」

「正解。音に合わせて設定された光の映像が半球の中を飛び回るの。上から下へ。その反対も。本物と違ってすぐには消えないんだよ。なのに、消える時は名残惜しそうに消えていく。それでも人は感動するんだ。創りモノだと知っていてもね。そろそろ時間かな。ほら、手を握って。」

伸ばされた繊細な手。
彼女の真剣な眼差しが宿った横顔は月明りの影となる。
湖畔で流れていた音楽がとまり、街全体が一瞬にして暗転する。
月明かりと夜の青が占める世界。
山から吹く風は森へと戻り、波音は湖底へと吸い込まれた。
触れあっていた手が力を込めて握られた一瞬、彼女は空へと駆けあがった。
微かな銀笛を頼りに、体の奥底まで震えるような重たい音で花火が綺麗に咲き乱れる。
街明かりが一斉に湖畔から山際へと流れるように灯っていった。
足下には街に埋もれた人の波。地面に支えられている安定感など全くなくて、初めて薄氷の上に立たされたみたいに、あなたの指先を頼りに滑るように歩いていく。

「は…橋本さん!?空を歩いているんですけど?」

「だね。動く城に住んでいる魔法使いの映画見たことある?あんな風に跳ねて歩くの。」

指先から伝わるリズムに乗って、右へ左へと一歩一歩あるはずもない道を恐る恐る踏み進める。力を入れ過ぎて何度もバランスを崩しそうになる度に、手首を引っ張られ体勢を起こされる。

「道を歩くのと同じだから。見えないけどちゃんとあるから。疑ったらダメ。強く信じるの。」

不安を隠すひと匙の期待を支えに信じた一歩を踏み込むと、確かな感触が靴に返った。
隣を歩く彼女がくれる安心感に、次第に緊張がほぐれ、歩幅が重なり合うと、そこはもう夜に落ちた湖上。
パっと咲いた花火の音に振り返る。
浜辺を埋め尽くした人々。それを祝うかのように舞い踊る少女たち。次から次へと伸びていく銀笛の音色に誘われて花火が鳴り歌声が響く。
歩き進める先に揺らめく波の道が見え始めると「もう大丈夫だね。」と彼女の手が離れていく。二人だけの散歩道。自由になった彼女は、聞こえてくる曲に合わせて宙を舞った。

「意外と上手でしょ。記憶では忘れたと思っていても、体は覚えてくれているみたい。」

白い羽の天使が行く波の道の先、ガラスの階段が僕らを花火が映る半球型のスクリーンまで連れていく。湖畔からたいぶ離れたのか、聞こえていた曲が遠退くと彼女がそっと天使が舞い降りるように戻ってきた。

「ここは…とても静かなんですね。」

空の絨毯に座り込み、足元で飛び回る花火を眺める。

「うん。ちょっとビックリしたでしょ?」

隣に座った彼女が問いかける。
湖畔に広がるオレンジ色は宴の明かり。夜空を挟み、遠く聳え立つビルは今日は特別な紫色。

「遠くで見ているとすごく綺麗だった。だからもっと近くで見てみたくなった。けれど、音の欠けた花火は、美しいけど心が騒がない。」

流れ星が照らした彼女の横顔は、魔法の夜には似合わない冷めた表情。

「もしかして、僕の言った…」

「そう。金魚鉢。私にとっては音の欠けた花火。偽りの美しさ。だからかな。ここで私は私を騙せたの。自分でも美しく魅せることができるかもって。結局、私は音の欠けた花火のままだったけどね。…ねぇ?ここって不思議な場所でしょ。そうは思わない?」

過ぎ去った過去を諦めた笑顔で話す彼女が纏う美しさは本物なんだろうか。何かやさしい言葉でつなぎ止めておかないと今にも消えてしまいそうで、だけど浮かんだのは、どれも口にしてしまえば嘘っぽく聞こえる安いフレーズで、言葉にできなかった想いが伝わるようにと手を重ね合わせた。
花火が終わると瞬く間に暗闇が辺りを覆う。
「帰ろっか。」の一言に、お互いゆっくりと歩き出す。
会話のない帰る道は、湖を渡る風が頬を撫でる。
夏の宵は、何かが終わっていく寂寥感と何かを得られた充実感でできている。
伸ばした手のひらに浮かんだ街並みは、逃げていく夏を惜しむように淡く輝き、掴むように閉じた手に残ったのは自分を騙す夏の夢。
僅かに手が触れ合うと、彼女は夜へと溶けてしまいそうな微笑みをして、そのまま僕の先を歩いていく。
夏の幻。一夜の夢。
そんな1日がもうすぐ終わる。

〇夢のひとつ~side-S~
奇跡なんて起こらない。
幸せは不幸を連れてきて、不幸は幸せを見せてくれる。誰かと一緒に過ごす時間を知らなければ、孤独をなど感じずに済んだかもかもしれないけど、孤独を知ったからこそ隣に居てくれるあなたのことが大切になった。
物事はいつも裏表。だから一方的な奇跡なんて信じない。
今日以外は、ね。

学園でのライブが終わり、湖畔に設営された特別会場へと走る。衣装を着替え、見栄えを確認すると、呼吸を整えステージ裏で出番を待つ。
耳を澄ますと花火の始まりを煽るざわめきが聞こえてくる。
耳から流れるカウントダウン。震え上がりそうになる心を落ち着かせるのはいつもの記憶。
人が嫌い。その癖、自分も嫌いで、何もかもに期待することを止めてしまい、生きることを投げ出してしまいそうになったあの日。
「ねぇ、飛鳥。奇跡ってあると思う。」
先輩はたったこの一言で、私に無条件で信じられる奇跡をくれた。
ブラックアウト5秒前。3…2…1…。
明かりが落ちて視界が消えると音を探す。
空へと昇る銀笛に花火の弾ける音がしたらステージへと駆けあがる。
人の渦に割れんばかりの歓声。右耳に流れる音を頼りに踊っていく。
自分の歌声なんて聞こえない場所。正しさを測る物差しはなくて、不安な気持ちが襲い掛かる。“大丈夫だから”と唱えて見上げた夜空には、手を繋ぎ歩く二人に姿。
お願いだからそのままで。私の信じられる奇跡のままで。

湖へと飛んでいく二人にそんな願いを込めたことを二人はきっと知らないだろう。
期待などしない私が奇跡を期待してしまう夜。
一夜の夢。先輩の奇跡。
いつか私も飛べるようになりますか?

〇夢のひとつ~side-F~
校舎の屋上には飛んでいく二人の後ろ姿。
私も一度だけあなたと一緒に飛んだことがあった。
あの日。あなたは突然、私の教室にやって来ると飴を渡して、「月が見えたら屋上に来て」なんて告白みたいな誘い方で私を誘ってくれたね。屋上にいくと真剣な顔で月を見るあなたがいて「どうしたの?」って声をかけると、いきなり手を掴まれて空へと放り出された。
さすがの私でもびっくりしたんだよ。その後は、二人でじゃれ合いながら遊んだね。
私が湖まで行こうと誘うと、奈々未が少し寂しい顔をして「麻衣はダメ。危ないから。」と言ったことが今でも忘れられない。

カフェ兼自宅に戻る途中。花火に願い事をするカップルを見かけた。
どうか素敵な1日を。心で呟いた私の願いは届くかな。
部屋に戻り、シャワーを浴びて、お気に入りのパジャマに着替えると幸せになれる。
花火も終わり、街にはいつもの静けさが戻ってきた。
ベット脇に置かれたガラスの小瓶。入っているのは、あなたがくれた飴の包み紙。
それは、奈々未が初めて私にくれたもの。
きっと、覚えていないでしょ?
一緒に過ごす時間が増えると、自然に分かち合うものが多くなったからね。
一夜の夢。あなたからの贈り物。
大切な思い出は意外な場所に眠っているものね。
奈々未、あなたはどうですか?