永遠を過ごす刹那の私をつかまえて
~第7部~

作者 匿名希望 

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12章-もうちょっとサガシテみましょう

色褪せた落ち葉が風に吹かれて道の隅に溜まっている。ケヤキ並木は小麦色になり、桜紅葉が散り始めた秋の終わり。帰りの切符が見つからない日々が続き、部屋に積み重ねられた贋作は増えたり減ったりを繰り返す。忘れ物はどこにあるんだろうか。初めてこの街を歩いた時より、自然と上がっていた目線は秋の象徴を見つけてくれた。
「紅葉か…。」

手袋を広げたような形をしたその葉は、秋の終わりに残された僅かな時間だけ、色鮮やかに染まり、そして散っていく。そんな紅葉に誘われて見つけた山へと向かう小道を進む。見慣れた街でも、1本知らない道に入るとどこへ行くのかわからない期待と不安がやって来る。今もそうだ。
高架線をくぐる細いトンネル。屈んで覗き込んでみると先に出口の明かりが見える。大人二人がなんとかすれ違えそう幅で、反響する足音を聞きながら外へと戻ると田畑に挟まれた一本道の農道が続いていた。
刈り取られた稲の根元がぶっきら棒に立っている田んぼの土にはまだ冬を越す前の柔らかさが残っている。誰もが懐かしさや安心感といった感情に包まれる-原風景と呼ばれるような風景が広がっていた。道端の草花や小鳥のさえずりに自然と足が止まる。

「この街にも、こんな場所があったのか…。」

誰も通らない道を進み、茅葺屋根の家を過ぎると山麓に沿うように道が続いている。
暫く行くと、竹の垣根に古い木で作られた小さな山門が現れた。側に建つ石碑には寺の文字彫られているが、他の文字は風化してしまったのか読み取れない。
門をくぐり、竹林を抜ける石畳の階段を上がると今度は立派な山門があり、その先には茶屋のような建物が見える。

「お寺というよりは山荘みたいだな。」

山門を跨ぎ玉砂利の敷かれた道を進むと、引き戸が少しだけ引かれた背の低い玄関があった。
腰を落とし中は入ると、靴を脱いで紙箱に拝観料を払い景色が映り込むまでに磨かれた床板を歩くと、四季折々の自然と造形で彩られた庭園を一望できる畳の間に出た。
吸い込まれるよう庭園へと近づくと柱の影から樺茶色に白菊が描かれた着物が覗く。
結い上げられた後ろ髪は黒く艶やかで、その後ろ姿からは凛々しさと侘しさが感じられる。

「もう、冬ですね。」

床をも染め上がる真紅の紅葉を前にして、こんな言葉を選ぶのはあなたしかいない。

「着物、とてもお似合いですね。橋本さん。」

僕が来たことを確認するように顔だけこちらに向けると、座ったらと畳を指さした。
二十畳はあるであろう座敷でふたり、あなたの横に座ってみると見頃を迎えた紅葉が山肌一面を染めていた。

「綺麗でしょ…とても。でも持って次の雨まで。2度目の雨が訪れたら散ってしまうみたい。だからかな、こんなにも美しいのは。」

冷えた空気に冬を想像させる着物を着たあなたが呟く言葉は水と氷の間のように曖昧で、一時の美しさに惑わされることなく、絶えず進んでいく自然とは対照的だ。
森林を縫って迫りくる風に波音を感じ、通りすぎていく時に広がる騒めきは鳥の羽ばたきに似ている。庭を流れる小川のせせらぎを割るようにししおどしが鳴った。

「秋は短いですから。それにしてもこれは…。」

言葉を飲む光景を前にししおどしが刻む時間だけが流れ、時折吹く強い風に一葉の紅葉が舞っては散っていくのを眺めていると、隣のあなたも次第にいなくなっていく。
呼吸を追いかけて意識がさ迷う時、決まって思い出すのは絡み付けた棘の鎖。

幸せという2文字は厄介だ。
誰かに決められて願われた“それ”は自分では触れることの出来ない蜃気楼-甘い幻想。
自分で形づくる“それ”は今の自分がそうであると思い込むための自画像-飾りの現実。
そんな柔らかな鎖を鋼の茨に変え、諦めの盾に生きていくと決めてしまったあの日から、僕は自分に降りかかる“それ”を求めることを止めた。
それしか出来ないと思ったから、思いたかったから。
だからこそ、明日1日を繋げていたというのに…。

「なんで泣いているの?」
あなたの声で両目から涙がこぼれていることに気づく。
「ちょっと眠くなって。」なんて誤魔化しにもならない誤魔化しを素直に受けとめてくれる優しさに心が痛む。
「お抹茶飲む?」と茶菓子と茶碗が置かれた。
涙の塩味が砂糖の甘さで和らぐと、抹茶の苦味が襲ってきた。

「苦いでしょ?でも、この場所に甘さは似合わないから。綺麗なものには苦味を、苦しさや辛さには甘さを、そうやって現実を眺めるの。そうしたら自分がここにいるって思えるの。あんまり洒落た言葉なんて使うもんじゃないね。ひとり歩きしてしまう。ねぇ、君に必要なのはどっちなの?」

さつきの葉影が足下まで伸びてくると、日が暮れるのが早くなった季節、世界は紅葉色へと変わりだす。苦味が混じった景色の先に寒さに耐える冬枯れの木々を見た気がした。

「どっちなんでしょうね。でもだからチョコレートは甘くて苦いんだ。なんて言葉を知っていたような気がします。もう、冬ですね。」

期待してしまう。こんな自分にも幸せがあるかもしれないと。諦めたはずの光景が心の奥底にしまった感情に触れてくる。次の季節は白い冬だ。

何回かに分けて頂いた茶碗も戻し、お礼を言って立ち上がると足が痺れた。「玄関で待ってて。」と言われたので、山門近くに立っていると摺り足であなたが駆けてきた。

「ごめんね。受付の人と話してて。」

着物の裾を踏まないように丁寧に歩くあなたの歩調に合わせて進む。
時折、下駄が鳴りやむので肩を貸して履き直す。
茅葺屋根の家を過ぎて田畑を抜けるともうそこはトンネルの手前。

「ちょっと待って。」

足が痛くなったのかと心配するとあなたは首を振る。

「もう少ししたら電車が通るの。だから、好きなことひとつ叫んでみない?」

両手に下駄を持ったあなたが走り出す。
駅員のアナウンスが聞こえる。
「ほら、早く。」
誘うように向けられた笑顔にあの夜のことを思い出す。
物語の主導権はいつもあなたに握られている。
線路から決断を迫る音が近づき、なんとか間に合った暗闇の中、轟音を奏で電車が通りすぎる。

「----------」
「----------」


街には冬の歌が流れ出していた。
「あのね。この街に雪が積もったら、君を迎えに行くから。だから、楽しみにしておいて。それにしても、紅い着物にすればよかったかな。」
「何でですか?」と聞くと
「だってさ。」と言いながら枯れ木に近づき着物の袖を広げてみせる。
「紅色だったら、誰かが秋を見つけてくれるかもしれないでしょ?」


13章-たとえば12月の夜に

蛇口の水が冷たくなり、暖められた部屋の中で窓が白く曇っている。指で引いた1本線から見えるのはどんよりとした曇り空と誰もいない校舎。この時期はもう冬休み。夏休みがあってないようなこのまちでは、年の瀬を挟んだ数十日を冬休みという形でのんびり過ごす生徒や学生が多い。
私の膝を枕にしてふかふかのソファーで寝てしまっている彼女もそのひとり。
数時間前まで、「奈々未に見せたいものがあるの!!」とはしゃいでいた私の後輩。また、以前と同じように私のことを呼んでくれるようになったのが嬉しい。本当はこのまちに住んでいる期間が私より長い飛鳥が“先輩”だったりするんだよね。
午後から出掛けようなんて言ってたけど、このままだとお部屋でお祝いかなと思っていると猫の鳴き声のような甘い声がした。

「飛鳥?まだ眠そう。今日はお部屋でのんびりする?」

寝起きでぼんやりしているのか、開かない目をこちらに秒針の動く音がこだまする。
コツッ、コツッ、コツッ、コツッ。
5回目で閉じてしまった瞼が10回目で再び開き、15回目で体が起きた。
「起きるんだ。」と笑うと、飛鳥は眠たげな眼をこすりながら「どのくらい?」と尋ねてくる。

「小一時間くらいかな。」

「そんなに。ごめん、奈々未。」

「いいよ。飛鳥、疲れてるんだから。それより、お出掛けはどうする?」

「う~ん…。外行こうかな。人多いかもしれないけど。」

ねずみ色のコートを羽織る私に、紺色のコートを着込んだ飛鳥。首元にマフラーを巻き、持っていくか迷い手に取った傘を傘立てに戻すと玄関を出る。
今日は良い子にはプレゼントが届く日の1日前。悪い子には配られるのは石炭だったかな。そんな特別な日には、灰色の雲から落ちるのが雪であることに賭けるのも悪くはない。まちは夜でもないのに至るところで人工光源が点滅し陽気な音楽が流れている。すれ違う人も皆、寄り添い合って幸せそうな顔をしている。

「奈々未って、クリスマス好きだっけ?」

「どしたの急に。普通に好きだよ。」

口を尖らしてテクテク歩く飛鳥。
そういえば、街が幸せそうにする12月は好きになれないんだって言っていたような。
悲しい時にしか大きく表情を変えない飛鳥から些細な喜びや嬉しさを見つけるのは難しい。
今はどうなんだろうか。
海風から山風へと移り、辺りは急に暗くなる。
晩御飯を兼ねて豪華客船のホールをイメージして設計された喫茶店に寄った。
赤ビードロの木椅子。壁には絵画が飾られて、客同士の話し声を上書きするようにクラシック音楽がかけられている。
案内されたのは奥まった座席。足元を暖めてくれる暖房がありがたい。
紅茶に軽いサンドウィッチ、食後にブルーベリーソースが添えられたチーズケーキを頼むと夜も更けて、私たちを包む空気もしっとりとした重さが滲む。
他人と馴染むのに時間がかかってしまう私。それは同じで友達と呼べる間柄の人であっても、プレゼントを渡す時は一度遠回りしないといけなかったりする。

「飛鳥。メリークリスマス。私からのプレゼント受け取ってくれますか?」

渡したのは木彫りの青い馬。白い正しさにも赤い抵抗にも属さずに、青い道をゆっくりと歩いてほしいと願う。人とのつながりに怖がりなあなたに、独りでいることに慣れてしまった後輩に、傷つかないようにと殻にこもりがちな飛鳥が。どうか素敵な道を歩けますようにと。

「えっ!?奈々未がプレゼントなんて珍しい。貰っていいの?」

「いいんだよ。私が渡したいだけなんだから。」

胸の前で大事そうに抱える姿が可愛らしい。他の人がくれる善意や好意もそんなふうに素直に受け取って大丈夫なんだよと伝えてあげたいけど、「奈々未からだからだよ…。」と返されてしまいそうでやめておいた。
温かい紅茶でほっこりすると店を出る。
飛鳥は、最後まで残しておいたケーキの切れ端を大事そうに食べていた。

外は雨。夜の雨で冬の雨。
帰り道で濡れてしまうと体が冷えて困るから、「傘、探してくるね。」と言うと腕を掴まれ、「すぐに風邪を引くのはどっちだ。」と言われ、小走りに探したお店で傘を1本買った。
濡れた路面に映る光は、涙目でみた世界。淡く滲んで、だけど確かに光っている。
傘に寄り添い歩く恋人。店先にとどまり雨が雪へと変わるのを待っている人もいる。
人と人との距離が縮まる夜の魔法に、飛鳥を寮まで送ろうとすると傘を持っていた手を掴まれた。

「あのね。寄りたいとこあるの。」

持ち主が変わった傘が私を先導する。飛鳥の持つ傘はいつもより低くて、目の前の風景が半分隠されてしまっている。
人通りの多い駅前広場。大きなもみの木には暖かな橙色が巻かれ、葉の落ちた木々の枝には光の粒が引かれている。
雨に濡れていないベンチを探すと飛鳥は静かに傘を閉じて座る。
私も少し間を空けて座った。光に照らされた雨はまだ、はっきりとした線を持たない。

「ねぇ、奈々未。私はまた奈々未に会えるかな?」

半径1メートルにも満たない世界。お互いの横顔しか見えない距離で、何もない空間に語りかけるとき、それは飛鳥にとって大切な話だ。

「クリスマス…好きじゃなかったね。部屋でみせてくれた写真もそう。…今日、私に会いたいって言ってくれたのは私のため?」

「ううん。私のため。きっと次のクリスマスには、奈々未はこの街にいないと思ったから。」

強がりと本音が重なった言葉に押しとどめていた想いが伝わる。

「飛鳥が会いたいと思ったら会えるよ。理由なんてなくても、会いたいと思うだけで…きっと会えるんだよ。」

「そっか。じゃあ、会いに行くね。私が、私自身が会いたいと思えるようになったら会いに行くから。だから、それまでは忘れないで、いてください。」

私が一方的に作ってしまったふたりの境目。傷ついてしまった飛鳥にはどうすること出来なかったはずなのに、また隣で笑ってくれることが嬉しくて、でも苦しくて、辛かった。
あなた達のやさしさに甘えていられる日々は長くなくて、2度目のお別れはもうすぐだ。
クリスマスツリーの下で星を探すカップル。
傘の下でしっかりと繋がれた手には相手を思いやる強さがある。
いつか境目がなくなるようにと飛鳥の肩に寄りかかる。
あの時も今までも言えなかった気持ちが聖なる夜に溢れ出す。

「飛鳥、ごめんね。もうすぐね。何時とは言えないんだけど、もう一度、飛鳥とお別れしなくちゃいけない。」

銀色の雨が途切れ暗闇に線が描かれると、その色は次第に白く白くなっていく。

「うん。知ってた。」

傘がひとつまたひとつ閉じていき、みんな次々に寄空を見上げる。

「でも、私嬉しかったんだ。声が聞けて、隣にいてくれて、星を見れて、花火もできた。だからね…奈々未、ありがとう。もう一度、会いに来てくれてありがとう。」

途切れた白い線がまた途切れ、地面に落ちる水滴から音が消えた。
丸みを帯びた白い水滴は雪となった。


14章-この冬の白さに

寒い、ただただ寒い。服をいくら着込んでも外気に晒される顏から気温の低さが伝わってくる。雪で濡れた前髪は凍り付き、ポケットから暫く両手が出せそうにない。
歩きはじめて20分は経っただろう。山奥にある神社へと向かう道を足取り重く進む。
明かりがない夜道、隣を流れる川の音が山肌に跳ね返り響いている。
滑りやすい足下に注意しているとぽつぽつと旅館のようなものが見えてきた。

「もうすぐ着きそうですね。大丈夫ですか?」

「うん。ありがと。明かりがあると楽になる。」

雪が積もった日。あなたが会いに来たのはお昼を過ぎた頃。雪深いところに行くと言うので服や靴を買いに行った。そのまま早めの夕食を取り、トンネルを抜けて山奥へ。
旅館には小さな人だかりがあり、流れが緩やかになった川には灯籠が浮かべられている。

「もう少し行けば着くみたい。看板に書いてあった。」

雪の日だけのライトアップ。山奥の神社が灯りに包まれる特別な日。
旅館にさよならをし、河谷に沿って蛇行する道に従い更に奥地へ。冬枯れの木々に積もった新雪が風に吹かれて散っていく。空を覆っていた鈍色の雪雲は流され、星を射るように下限の月が鋭く夜を照らしている。

「あれですか?」

思わず声が大きくなった。黒い森が裂くように光の階段が浮かび上がる。

「あっ!たぶんそう。」

立派な御神木の側に朱色の鳥居が聳え、奥へと上っていく石階段の両端には灯がともった赤灯籠が道をつくる。雪の白に鳥居の朱、夜空の紺と木々の褐色を月明りと灯籠が包む。
「綺麗…。」
ため息のような声がした。
息を整えて向かい合った光景は自分を飲み込んでしまいそうなほどに美しい。
“綺麗なものには苦味を“その言葉がなければ、圧倒する美しさを前に感じる自分の醜さに負けていたかもしれない。
鳥居をくぐり、雪で滑りやすくなった石階段の参道を慎重に上っていく。時折、視界の片隅で残雪が空を舞い風が抜ける。サァ、サァーと音を立て御神木から粉雪が滑り落ちた。
境内では踏みつけられた雪に灰が混じり、焚火がパチパチと燃えていた。

「暖かい。薪の火を見るなんて小学生以来かもしれません。」

「私も。燃える音が心地いい。でもちょっと、目に染みる。」

「風下だからですよ。」

煙と反対側に屈みこむと手のひらを炎へとかざす。自然に囲まれた場所で感じる火の暖かさは自分が人であることを強烈に認識させられる。指先を動かし、心地よい暖かさを求めて靴一足分後ろへ下がったり、また戻ったりしていると、何人かの参拝客が暖をとっては去っていく。
「一緒の火を囲むと、知らない人なのになんだか仲間に感じるね。」なんて話をする。
絶え間なく揺れる炎に燃えていた薪は次第に消炭色となる。
背中に積もった雪をそのままに二頭の白馬と黒馬がずっと焚火を見つめていた。

屈んでいた足が疲れ、温まった手を手水舎で清めると、長椅子の置かれた舞台に座る。谷間に開けた景色。新緑が深緑へと深まり山一面を夕焼けに染めると、今は枯れ木に雪を添えている。谷底を流れる川の音がここまで昇ってくる。

「お参りしますか?」

「そうだね。せっかく来たんだし。」

境内の階段を上り奥まった本宮へと進む。途中に“奥宮へはこちら”という看板があり顔を見合わせると後で行くことに決めた。
賽銭箱に数枚の硬貨を投げ入れて鈴緒を揺らす。二礼二拍手一礼。目を開けると、あなたはまだ、細く白い指先を僅か鼻先に当たるところで合わせ静かに願い事と向き合っていた。

「ごめんね。待たせちゃって。」

「いえいえ。何かお願い事でも?」

「うーん…願いより祈りに近いかも。」

雪が覆った玉砂利の参道を通り奥宮へ。ひとつふたつと灯籠の灯りとサーチライトの明りが交差する夜の森をひた歩く。

「祈り…ですか?」

「うん。願いは叶うときも叶わないときも、自分でしっかりと見てあげないと終わらないものだから。“なりたい”とか“なってほしい”だとか言葉にすれば数秒の世界に、誰しも、もちろん私もね。その言葉の中に隠された、まだ見えるはずもない結果を勝手に求めてしまう。」

古典と呼ばれる時代。恋を祈ったとされる橋を渡る。

「だからね。祈りでもいいかなって。願いは時にとても重たいものになってしまうからね。」

森が分かれて空が開くと石鳥居の先にお社が見える。

「そうなんですね…。」

「うん。」

境内に入ると張り詰めた空気が満ちていた。湖から姫君を連れてきたとされる船形岩の横を通ると、誰もいない奥宮に着いた。

「君は何か願ったの?」

峰の向こうへと去っていった雪雲から止んでいたはずの雪が舞う。

「何時からだったかな。願い事なんてしなくなったのは。」

掴みかけていた鈴緒を離す。

「小さい頃は賽銭箱に握っていた5円玉がきちんと入るのかが大切で、高校生になる頃には自然と手を合わせて何かを願っていた気がします。でも今は…ご挨拶に来ましたという感じで、願い事を忘れたのか、しなくなったのかはもう覚えてないですね。」

言い終えるともう一度、拝殿に向かい合う。
今が夜でよかった。でないと歪んでしまった表情が伝わりそうだから。
神様がいないなんて思わない。ただ多くの願い事を託される前で、いつからか自分なんてと思うようになっていた。無邪気に願いを抱けた日は遠く、願いを抱ける生き方だったかと言われれば…。
いつものように何も考えずに鈴緒を手に取ると、後ろからあなたの手が重なり鈴の音が静寂の夜空へと響き渡った。

「君に素敵なことがありますように。」

柏手とともに輪郭のくっきりとした言葉が渡る。

「え!?なにしてる」

「いいの。これでいいの。私の願い事なんだから。」

「でもさっき、願い事はしないって。」

「だから、これが私の最後の願い事。ちゃんと叶えて見せてよね。」

いたずらに笑うあなたの笑顔に懐かしさを覚えるようになっていた。
初めて出会った駅でもこんな笑顔をしていたっけ。
僕はもう一度、鈴緒を掴む。

「橋本さんにも、素敵なことがありますように。」

願いの等価交換。重たければ分かち合い。軽かったのなら叶えてしまえばいい。少しは驚いた表情をするかと思ったけど、振り返って言えたのは優しく微笑んでいる姿だった。

「なんだ願い事、忘れてないじゃん。」

隣に並び来た道を戻る。下りは上りよりも滑りやすいので、自然と歩みも慎重になる。

本宮まで戻ると、橋本さんは桂の側にある社務所へと入っていく。知り合いでもいるのかと思っていると「扉、開けて―!!」とこもった声が聞こえた。
どうしたのかと引き戸を引くと、体の前で毛布を抱えあなたが玄関で詰まっていた。

「プーさんみたいですね。どうしたんですか?」

「いや寒いかなと思って、借りてきた。蜂蜜は食べてない。」

時々、思いもつかない行動をする人だ。毛布を受け取ると舞台の長椅子に腰掛ける。「シュラフとかないんですか?」と尋ねると「贅沢しない」と返ってきた。焚火を寄せて、首元を締めるように毛布に包まると柱に体を預ける。
指でなぞった木目にはところどころにささくれのような棘があり、喉を通り肺に落ちる冷たい空気に自分が今呼吸をしているのだと感じる。
柱の距離は5メートル。お互いに柱に寄りかかっているのでふたりの距離は4メートル。あの夏の花火では…。焚火の音が眠気を誘い知らぬ間に眠りへと落ちていた。


-始発電車の最後尾。ロングシートの隅に座り連結部分に体を預けて50分。高層ビルに埋もれ、沢山の革靴を眺めて歩いていく。聞こえてきた笑い声に体が震えてイヤホンを着ける。街路樹のベンチに足が並び、店先の鉢植えにゴミが落ちていた。-

夜明けを告げるように東の空が白む。
車両から覗く朝陽の眩しさを思い出した。

「何時?」

「どうだろ?時計してないから。でも、もうすぐ朝だね。」

「だね。朝陽を浴びると健康に良いって言うけどさ、あれめっちゃ痛いよね?」

「ほんとに?私、朝弱いから、あんまり浴びたことないよ。」

「ほんと、ほんと。眠い目に朝陽は強敵で…。」


微睡みの中を意識が彷徨っていると、瞼が開き光が差し込んできた。
「おはよ。」「おはようございます。」
まだ靄のかかる頭で挨拶をする。腰や首がやたらと重たい。

「んっ…キャンプ気分でなんとかなるかと思いましたが、結構堪えますね。」

「だね。私も節々が。」

早朝の境内に鳥たちのさやずりが聞こえる。包まっていた毛布を畳むと、体を動かし血の巡りが良くなったのか体の隅まで体温が行き渡った。冬なのにぬくもりを持つ御神水で顔を洗い口をゆすぐと、意識がはっきりし、朝陽を反射した雪に照らされた眩しい光景にも目が慣れてくる。
「ちょっと寄りたいとこがあるの。」
社務所に毛布を返した後、あなたの言葉に連れられて幻想的な神社を後にする。
蛇行する河谷に沿って森を抜けると街に聳えるビル朝陽に紛れて微かに見えた。
「こっちこっち。」
道を外れて線路を辿り、柔らかな雪を踏み進める。暫く進むと小高い丘が現れた。深い雪を靴底で踏みつぶし頂上まで来ると、そこには湖まで突き抜けた風景が広がっていた。

「まちが…白い。」

白い光が溢れた街。
線路を超えて、湖岸まで続く家の屋根はどれも雪を被り、駅前に聳え立つビルは鏡のように朝陽を反射し眩い空へと溶け込んでいる。並木の雪は道路を覆い街にあるはずの黒が消えていた。太陽と風だけが自由で、ここから見える街は写真のように美しい時間が動かない。

「ほんとうに綺麗…。」

湖に揺れるまばゆい光が対岸の景色を遠ざけて、湖が果てしなく続く雲海となった。

「知らなかった…このまちを美しいと呼びたくなる瞬間があるなんて。」

あなたの横顔に一筋の涙がこぼれた。

「そうですね…。」

涙を拭った瞳はとても真っすぐで、だけど僕にはその瞳で何を決意したかがわからない。

「美しさは難しいですね。人によって違うから。だけど、どの場所に立っていても、それを見つけられる人は素敵だなって思います。僕も子供の時は美しい思うものにもっと純粋に向き合っていたような気がします。」

新雪に寝転がったあなたを追いかけて、僕も雪に寝そべってみると背中から冷たさがやって来た。真上に広がる青空は迷いが飛んでいきそうな寒空だ。

「今、素敵って言ったね。」

雪に埋もれながらあなたが言う。

「あっ…確かに。」

僕らよりお寝坊だった街がようやく動き出す。

「橋本さんは、素敵なことありましたか?」

小さく頷くと、あなたはまた空を眺めた。


「冬なのに…寒いのに雪は溶けるんだね。」

手に取った雪は、指の隙間から白さをなくした水滴となって雪へと還る。
服を払い立ち上がると歩き出す。

「雪、無くなった。」

何も残らなかった手のひらに笑うと、あなたは丘の斜面を両手を広げながら滑るように下りていき、その度、マフラーに包まれていた長い髪がスカートの裾のようにふわぁっと広がった。

「ねぇ。約束してくれませんか?」

突然、前を行くあなたが斜面の途中で振り向いた。
いつもとは違う上目遣いになった目線に心がざわつく。

「何を…ですか?」

ポスターに映っていた熱を帯びた瞳が僕の目を捉える。

「私に、君の1日を1回だけくれませんか?」

「えっと、いつですか?」

あなたは手帳を取り出すと挟んでいた切符を取りだした。

「入場券、ですね。2月20日ですか。」

「はい。駅前で待っています。」

「それは、偶然の落とし穴ですか?」

「いえ、そうだな。2度目の戯曲です。」

「2度目の戯曲?」

「ええ。これは、私の2度目の戯曲なんです。」

この街であなたと交わした初めての約束。忘れないようにと財布に入場券をしまう。
「では、またその日に。」と再会のある別れの挨拶をしたのも初めてだった。