『永遠を過ごす刹那の私をつかまえて』
~最終部~
作者 匿名希望
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15章-夢見たあとで
息を切らしながら小走りで駅前広場へと急ぐ。
朝が弱いのはいつものことだけど、気を抜いてしまうと起きた時に枕元にある時計を二度見する羽目になる。慌てて身だしなみを整えると起きてから30分後には出掛ける準備が整った。それでも約束の時間には遅れていて、何もなくなった床に置かれた最後のペットボトルを掴むと家を出る。
途中、麻衣のカフェに寄り郵便受けに手紙を入れると君の待つ場所へ走る。
「ごめん。待たせちゃった。」
広場のベンチに紺色のロングコートを着た君を見つけて声をかける。青とねずみ色を組み合わせたチェック柄のマフラー、後ろ髪がちょこんと跳ねているのが可愛らしい。
読んでいた本を閉じると、君は取り繕わない苦笑いで振り向いた。
「おはようございます。なんとなくですけど、待つと思ってました。」
「ごめんごめん。それじゃ、行こう。」
君を連れて駅舎へと向かう。姿かたちが変わらない駅舎に、この場所からまちが出来上がっていったのだとしみじみと思う。改札横にある通路を通りホームへと上がる。思い出の中で入場券とセットだった藤棚を背に、ホームの端まで来ると行き止まりの線路に降りる。
「入っても大丈夫なんですか?」
「うん。この駅が終点だから。こっちに電車はやってこないよ。」
錆びたレールを辿りのんびりと小高い丘を登る。レールの下に敷かれたバラストが歩いていくうちに土へと変わり、鉄線は自然に埋もれていく。
「昔はね。ここから先にも鉄道を延ばそうとしてたんだって。だから、線路が残ってるの。」
役割を果たすことがなかった鉄の道。その先にあるのは古びた遊園地。街が大きくなる前は、近隣の住民が記念日になるとよく遊びに来ていたという話をよく聞いた。正しさではなくて、僅かな距離や小さな運が、これからの未来を変えてしまうことがある。きっと、街も人も似たもの同士なんだろう。
丘のてっぺんから遊園地が見えた。時間の止まった建物たちは、最後に見た風景と変わらない。
「遊園地ですか?ずいぶんと年季が入ってるような。」
「だね。ここが別れ道だった。街には人が沢山集まってどんどん大きくなったけど、昔からあった遊園地は少しだけ、あの駅から遠かった。」
「だからですか線路があったのは。繋げようとはしたんですね。でも…そう考えるとこの距離は近いのにすごく遠く感じます。」
水平線は8㎞。それよりもずっと近い距離にありながら届かなかった。ちょうど、この丘はその境目。美しく咲いていく物語と終わっていく童話。変わらないのは、私が行くのは童話の世界だということ。
―――――
「深川さん急いで。絶対に今日だから。」
「ごめん。今行くから、ちょっと待って。」
奈々未がサヨナラをした日から今日で2年。
私は走っている。時計にはもう24回鳴る猶予はなくて、限られた時間が刻一刻と迫ってくる。泣きながら、行かないでという気持ちを押しつぶされて、伝えたい気持ちが言葉にできなかったのは以前の私。
あの頃は行ってしまうことを、ただ眺めていることしかできなかったけど、今は違うんだ。
少しは伸びた身長。目に見える世界は広がって出会えた人は数えきれない。
諦めに溢れていた心に火が付いたのは奈々未のせいだ。
会いに行きたいと思えるようになってよかったと思う。
いつもそばにいた時は知らなくて、会えなくなってからは暴れる気持ちに整理がつかなくて、これからはきっと私の支えになってくれるはず。
だから、今日は奈々未を驚かして泣かせてやるんだ。
私が泣くのはその後でいい。
――――――
レトロと言えば恰好がつく。廃墟とまでは呼べないのは園内の花壇や草花がほったらかしになっていないから。それでも時間が止まってしまったこの場所に人の賑わいが来ることはなく着ぐるみやスタッフの姿はひとつもない。
「遊園地とかあまり行かないですが、ここまで人がいないと不気味ですね。」
「知った場所じゃなかったら私も怖いよ。でも、観覧車だけは1日2回動くんだよ。まぁ、変わっていなければの話だけどね。」
人形劇をしたあの小さな劇場。あの場所で私たちも初めての舞台を演じた。お客さんは多くはなかったけど、ひとりのお爺さんがお礼にとみんなに遊園地のチケットをくれた。
それから何度か見に来てはチケットをくれていたある日。「今日で最後かもな…」とお爺さんは言った。みんなどこかで気づいていた。街が活気づくのと反対に遊園地が寂れていくことに。お爺さんは、みんなに来てもらえて嬉しかったと感謝を述べて、これからは1日に2回この思い出を忘れないように観覧車を動かすんだと語った。「君たちの生きる世界は速すぎるから自分とはぐれないようにするんだよ。たまには遊びにおいで。」と笑ってできた目じりの深い皺と優しい瞳を今でも覚えている。
「良いお爺さんですね。」
観覧車の脇にある塗装の剥げた白屋根の管理室。コンコンとノックをすると、小さな丸メガネをかけたお爺さんがロッキングチェアに座り分厚い本を読んでいた。
「また来たのか…。」
低く枯れっぽい声が埃の溜まった部屋に響く。
「覚えているの?たいぶ前の話ですよ?」
「そりゃ覚えとるよ。私の世界は君らよりもゆっくりだからね。ほぉ、今日はふたりだね。」
「うん。この人に付き合ってもらって。さすがに独りだと心が折れそうだから。」
「確かにな。」
客のいない遊園地を見ながら豪快に笑う。
「で、何か用かね?」
「観覧車に乗りたくて。まだ、動いてますか?」
「あぁ、もちろん。でも、まだ早すぎる。夕方になったら動くからそれまで適当に過ごしてくれ。生き急ぐのも大変だから、ぼちぼちな。求めすぎるとしんどくなるぞ。」
「うん。ありがと。」
「なに、じじいの戯言だから気にするな。観覧車が動いたら適当に乗ってくれ。ん、そっちの若いのも元気でな。」
なんでも見抜いてそうで、だけどほんとうは何も知らなそうな人。もしかしたらって思っていたけど、そんな心配は必要なさそうだった。お爺さんはお爺さんの世界をゆっくり過ごしている。
それにしても求めすぎか…。
外に出ると冬一色だった乾いた風に春の訪れが紛れ込んでいる。
「不思議な人でしたね。」
「うん。でもいつもあんな感じだった。どこまでも穏やかな人。それよりも、私にしたら君の方が不思議さんだったよ。駅に可笑しな人がいたと思えば、カフェで再会するし、私のことも知ってた。」
「それを言うなら橋本さんもですよ。夜空を歩くなんてどこの魔法使いだよって話です。こんな話はきっと誰も信じてくれないですよ。飛鳥さんは羨ましいって言ってましたけど。」
「ふふっ。お互い様だね。でも、楽しかったでしょ?」
「それは…そうですね。」
肌寒いけど眺めの良いベンチを見つけ「座ろっか。」と言うと私は温かい紅茶を、君はココアを持って座る。
「もしかして苦いの苦手なの?」
「あーそうかもですね。特にコーヒーのブラックは駄目です。」
「ほんとに?」と迫るも「面白い話なんてないですよ」と軽くあしらわれた。
「甘いのは?」
「ほどほどに。浅いほうじ茶とか好きですよ。」
「お年寄りみたい。」
「よく言われます。」
上空を筆で払ったような雲が浮かんでいる。
「そういえば君の好きなもの、私知らないね。」
「そんなものじゃないですか?僕も橋本さんの好み知らないですよ。」
「それもそっか。」
なんだか納得してしまい、それでもなにか物足りなくて嘘を混ぜていいことを条件に好きなものをひとつずつ好きなものを言っていくことにした。
音楽、紺色、緑色、自由、海鮮、睡眠、それ一緒、……。
君が“言葉”と呟くと錆びた鉄の悲鳴が聞こえゆっくりと観覧車が回りだした。
――――――
湖岸沿いの砂浜に煙突状の筒が並べられて、側には花火玉が置かれている。
「うん。良い感じ。上手くいくといいですね。」
「そうだね。紐のロープはこっちまで持ってくるんだっけ?」
「はい。導火線のようなものなので。お願いします。」
本物の花火が打ち上げるなんて思ってなかったけど、なんとか間に合いそう。天候もばっちりで、いつもと違うのは肌寒い気温だけ。仕掛けた準備が整う度に、またひとつ終わりが近づいたんだと思って寂しくなって、それを消すために作業に戻る。
全てが終わるとブルーシートをかけて隠す。
もうすぐ、季節外れの花火大会。
――――――
「知ってますか?語尾に“気のせいじゃない”ってつけると、その言葉に本当と嘘が混ざったように聞こえてしまうんです。」
「なにそれ。言葉遊びなの?」
夕暮れが包んだ観覧車がゆっくりと動く。
君はそれを眺めながら好きだと言った言葉を連ねる。
-本を続きを知りたいのは気のせいじゃない。
-少し寒いのは気のせいじゃない。
そうです。そうです。
-あなたがこの遊びに付き合ってくれているのは気のせいじゃない。
-君が一緒にいるのは気のせいじゃない。
動いていない回転木馬。誰の手にも渡らなかったぬいぐるみが窓に並ぶ。鉄柵を引き、観覧車の乗り場に着く。管理室からしわくちゃな右手が振られた。
「乗ろっか。」
私が伸ばした手に連れられて君も乗り場に立つ。
-今日も摩訶不思議なことがあると思っていたのは気のせいじゃない。
-自分で乗るのは難しいと思っていたけど気のせいじゃない。
目の前を流れるゴンドラに目を取られ、扉を開けて乗り込むタイミングが掴めない。
隣に来てくれたお爺さんが慣れた手つきでゴンドラの側に立つ。
「扉閉めるのと、降りるのは自分たちでな。何事も降り時を自分で決めんとな。」
紫色のゴンドラの扉を開け「ほれ。」と誘導してくれた手を頼りに乗り込むと、ゆっくりと景色が上がっていき、目に見えるものが増えていく。窓から差し込む夕日が君の顔に影をつくり、その瞳は懐かしむように寂しく遠くを見つめている。
「気づいてますよね?“気のせいじゃない”ってつけても、その言葉に嘘が混ざらないことに。ただ本当のことをただ嘘っぽく聞こえるだけだって。橋本さん…今日、あなたがこの場所を選んだのは、気のせいじゃない?」
疑問符で終わる言葉に熱を秘めたまなざしが私の心に挑んでくる。終わらせる言葉を選ばなくては、人はいつまでも夢の旅人ではいられない。
「私がここを選んだのは…気のせいじゃない。」
「今日であなたとお別れするのは気のせいじゃない。」
「うん。あの日の私を重なるように過ごした自分がいたのも気のせいじゃない。」
嘘と本当の混ざった世界でゴンドラが動く。隙間から吹き込んだ風に髪が揺れ、やがて、そのふたつでは分けることのできない真実だけが残っていく。眼下に広がった遊園地は、この高さまでくるともう全てが視えてしまっている。
「まだ夜でもお客さんが大勢いたとき。私ひとりでこれに乗ったことがあったの。」
12時の場所。魔法が消えると言われるその場所で魔法のような世界にいた頃を思い出す。
「だんだんと上っていくとね…光の世界がどんどんと広がっていったの。それは頂上に来ても変わらなかった。それはここがあまりに明るかったから。外の世界が光に沈んでしまってあるのかないのかわからない。だから、きっとこの明かりはどこまでも広がるものだと思ってた。」
「だけどね。閉園するときに見たここからの景色は柵に囲まれたただのお伽噺だった。それからかな。自分の居場所と遊園地は一緒で、白い柵が現れては違う方に進んで、また現れての繰り返し。それでも観覧車は上っていって、高い場所で気がついたのは、残り少なくなった自分の居場所。」
静かに夕方に沈んでいく遊園地。ゴンドラは再び上昇し始める。
「ちょうど2年前かな。これ以上は何もないって遊園地を飛び出したの。その時の私にあったのは、やっと外の世界に戻れる安心感とお伽噺が終わった安堵感。もう怖かった白い柵を見なくてよくなったからね。それでもね。ようやくね。私にとってもそれなりの時間がかかってしまったけど、ここにいた自分を、この場所を、受け入れられるかもと思えるようになったの。捨ててしまわなくても、なくしてしまわなくても大丈夫だってね。だから今日、私はもう一度この景色を確かめに来たの。」
広がっていく視界に埋まっていく遊園地は飛び出したあの頃と何ひとつ変わっていないはずなのに、きらきらと回り続けると回転木馬を、園内を駆けまわるパンダの乗り物を、ぬいぐるみを握りしめ観覧車を待つ人影を。あの頃に怖がっていた白い柵に囲まれた小さくて、だけど大きかった輝きをやさしく抱きしめられた気がして、ゆっくりとまるで勿忘草を積むように置いてきてしまった時間が繋がっていく。
「それで…あなたは救われましたか?」
思いもしなかった言葉に息を呑むと君の瞳が揺れていた。この表情を見るのは確か2度目で…あぁ、そうだったのか。君は探し物があったわけでも、忘れ物をしたわけでもなくて…きっと…
「救いが欲しかったの?」
君の頬に涙が落ちた。月明かりに照らされたあまりにも儚げな涙が落ちた。
「そんな大袈裟なことではないのかもしれません…美しい風景に触れることも、摩訶不思議な体験をすることも、物語を創ることも、夢見ることも。捨ててしまいそうだった自分を結びつけておきたくなるものだったから。そう思えるようになることを、もし救いだというのなら、僕はもうあなたから救いをもらっています。」
きっと、私がこの答えに気がついたのは、心のどこかで、置いてきた自分を救うことで今の自分を許したかったから。似た者同士はお互い様。
だけど、私に君は救えない。救えるのはきっとただひとり。
どうか君が君を救えますように。
言葉なくゴンドラはゆっくりと乗り場へ戻る。遊園地を出て駅前まで帰ってくると、最後だからと温室に行くことにした。黒ずんだシルバーリングに人差し指をかけて鍵を回す。
懐かしい校舎ともこれでお別れ。ハーブティでも淹れようかと中庭へと続く扉を開けた。
――――――
寂しくはない。それよりもきっぱりと去っていく姿を見送るのが不安だった。私はいつだって優柔不断だから。
ふたりのいる温室まであと少し。なるべく笑顔で柔らかく。不安な気持ちが伝わってしまわないように。
飛鳥ちゃんから預かった一葉の鍵。奈々未はシルバーリングで、私のは十字架。
話すことはなかったけど、私も3人で過ごした時期が時々懐かしくなって、この鍵を眺めていた。ふたりからいつでも見つけてもらえるように、わたしはまだこの街にいる。
一番目立たないのは、私だったからね。
あの頃も楽しかった。そう言えるようにと心で呟き私は扉に手をかける。
――――――
夕刻が迫る温室。湯気が昇っていくティーカップがふたつ。どうやら君は猫舌みたい。手に持ったカップから啜るようにお茶を飲む。
本棚に並べられた背表紙たちはいつだって私に思い出を語りかけてくれる。席を立ち本棚に寄り添うと背表紙をなぞる。文章が流れてくる本。表紙が思い浮かぶ本。読み切れなかった本。いろんな物語で私は埋め尽くされている。
「あっ!奈々未。やっぱりここにいた。」
麻衣の声。柔らかく丸い麻衣の声がする。
振り返ると何度も見たくしゃっとした笑顔。
「旅人さんも一緒だったんだ。何処かへお出掛けでもしてきたのかな?」
つぶらな瞳が三日月のように笑ってる。
「まぁね。」
「ふ~ん。良い事あったんだ。」
「どうかな。それで?」
「そうだった。飛鳥ちゃんが呼んでるよって言いに来たの。」
「そっか…。行かないとだね。」
「うん。行ってあげなきゃだめだよ。」
「麻衣は?」
「私は大丈夫だから。ちゃんとお別れしなくちゃね。」
「うん。わかってる。今回はね。」
「良い顔してるよ、奈々未。」
「どんな顔よ。」
「え!?カッコいい感じかな?」
締まらない言葉に笑うと、ティーカップを片付けて温室を閉める。
2年といつぶりだろうか。3本揃った鍵がサヨナラを後押しする。
「ありがとね。麻衣。」
「こちらこそ。いつでも待ってるから。それしかできないけど、待ってるからね。」
「ほんとに、ありがとう。でも、次は簡単に会えるかも。」
「そうなの。」
「どうかな?」
この季節。陽が沈むのがとても速くオレンジ色の空は一瞬だけ輝く小麦色を残し深い群青色へと変わっていく。気温が一段と冷え込んだ。
隣を浜辺に向かう電車が追い越していき、それでも私たちはゆっくりと坂道を下る。
青い帳が湖にかかる。砂浜には人影が見えた。風に乗って飛んできたポスターを掴むと“真冬の花火大会”という文字に目が留まり、隣から控えめな笑い声がする。
「知らなかったでしょ?気づかれないようにするの、案外大変だったんだよ。」
悪戯に成功した表情が夜によく似合う。月明かりが落ちる砂浜には、私の可愛い後輩が待っているはずだ。
「奈々未―!!」
遠くから腕を目一杯伸ばし手を振る姿が見える。
なんだか恥ずかしくなって片手をそっと上げ返すだけでいると麻衣に背中を押された。
冬の砂浜に夏祭りが遊びに来たみたい。
屋台にレジャーシート。花火へと期待と喧騒が渦巻く中、私は人混みをかき分けて飛鳥が待つ場所へと走る。ロープの張られたその先で飛鳥は両手を差し出し私を待っていた。
「飛鳥…。」
ロープ越しに包まれた両手。大きな瞳は薄っすらと揺らいでいる。
そんな姿を目の前にすると何も言葉が出て来なくて、ただ名前を呼ぶだけになってしまった。
「ねっ!ご飯食べよ!」
ひとつ大きな瞬きをすると、飛鳥は私をそちら側へと連れて行ってくれる。
寄り添って歩く砂浜で、肩にかかる小さな重さが心地よい。ヤシの根元に敷かれたレジャーシート。後からやって来た麻衣と君も合流して鍋を囲む。時間は時に意地悪だ。楽しく過ごしているとあっという間に過ぎていき、食べ終える頃には月が高くなっていた。
「飛鳥ちゃん、そろそろ。」
「そうだった。奈々未こっちこっち。旅人さんも。」
期待と興奮を感じながら浜辺の中央へとやって来る。行ったり来たりする波の音が近くなり、砂浜には見慣れない筒が並んでいた。
「飛鳥…あれ何?」
「さて、なんでしょうか?」
半音上がった声。頬には隠せない笑みが浮かぶ。何か企んでいるなと顔をじっと見つめてみると、返された瞳に強く揺るがない意志があった。
あの夜をなぞるように街の明かりが暗転する。夜凪が訪れてチリチリと何かが燃える音が離れていく。筒の底で爆発音がすると、銀笛とともに夜空に一筋の光が飛んでいく。音が止み僅か数秒の静寂の後、体にぶつかってくる深く重たい音が弾けて炎の華が咲き落ちた。
熱い。冬だというのにとても熱い。
頭上に降り注ぐ雨のような残り火に心が締め付けられる。
「本物だ…。」
ただ吸い込まれ消えていく火花を仰ぐ。
このまちで。創りモノばかりだと思っていたこのまちで。
私は燃える恐怖を胸に抱き、本物の花火を眺めている。
またひとつ。満天の星空を目指し飛んでいき、道半ばで美しく咲いて散っていく。
「驚いた?」
飛鳥と麻衣が隣に並び聞いてくる。
「うん。熱いね。ほんとに熱い。それに耳が痛い。」
泣かないと決めていたのに、満開の夜空を仰いだ瞳から堪えきれなかった一粒の涙が零れ落ちた。
「ありがとね。ふたりとも。」
「うん。」「どういたしまして。」
時計の針が別れを告げる。
花火大会はまだ終わらないみたい。
「じゃあ、行くね。」
「うん。お見送りできなくてごめんね。」
「そんなことないよ。ありがと…麻衣。」
固く握った手を離す。
「いってらっしゃい。奈々未。」
「ふふっ。飛鳥…強くなったね。」
「そりゃまぁ。もう大人ですから。」
「そっかそっか。」
抱き寄せて頭を撫でると鼻を啜る音がした。
「泣いてるでしょ?」
「泣いてない。」
「踊り子に泣き顔は似合わないよ。」
小さく頷く飛鳥に見られないように、私も暫く夜空を見る。
「もう時間だね。」
体を離して手を握る。
「ありがとう。飛鳥。忘れないから。」
私の言葉で手が離れ、お互いに背を向けて歩き出す。
今日一番の重たい音に振り返ると、何本もの枝垂れ花火が湖へ吸い込まれていく。
「飛鳥っ!!」
叫んだ声が飛鳥に届く。
これを最後の言葉にしよう。
「別れをあげる。もう何もかもが忘れられずに残っていく世界だから飛鳥に別れをあげる……だからっ…会いに、私に会いに来なさい。」
まちが…ね。私を置いていったの。
口からそっと零れ落ちた言葉は白んだ吐息となって深い夜空へと吸い込まれた。
やさしく包んでくれていた二重の月明りは湖を漂い浮かんだまま動かない。
路上を照らす外灯。
行き交う人たちが見つめる手元。
行き先を決めるかのように信号機が赤から青へと変わった。
強くまっすぐな光が増えていく。
湖畔から届く風に乗って聞こえた喧噪は季節外れの花火への期待か、それとも一時のまぼろしを夢見てか。
冬空が連れてきた冷たい風に背を押され私は今この坂道を昇っていく。
白い家並みを過ぎ、懐かしい校舎を横目に、蜂蜜色の家を渡ると坂道も終わる。
頭上を埋め尽くしていた満点の星々は、夜空を割って聳え立つビルの屋上で光る赤色灯や窓から漏れる蛍光灯に吸い込まれた。
寂しさを悟ったように一陣の風が頬を掠めて長い髪がなびく。
ふと振り返り瞳に映った世界は、夢を見たみたい。
さっきまで指先で触れられる距離にあったものが、今では伸ばした手のひらが覆い隠して届かない。
打ち上げられる花火も、
これから流れる音楽も、
歌い踊る美しき人々もこの街も。
みんなみんな何かを飾る創りモノ。
きっときっと誰かが願う創りモノ。
だけど今日は親友がくれた本物を。
線路を伝い電車の音がやって来る。
長い夢路を終えるかのように電光掲示板には旅立ちの時間が灯された。
10時20分。
残された時間はもうあと僅か。時計の針は止まることも逆転することもなく、ただひたすら円を描き進んでいく。
風が止み、流れていた思い出が途切れる。
一瞬の静寂に見えたのは、轟音を上げホームに入ってくる電車の窓に映ったコマ送りの私の顔に涙はない。
これに乗って私は去るのだろう。
雪が舞い、遠く花火が咲いた。
今、このまちとの2度目の別れがやってきた。
改札の前はふたりだけの世界。
「行くんですね。」
静かに君が尋ねてくる。
「うん。」
言葉少なな返事は今にも雪へと吸い込まれそう。
「楽しかったです。」「こちらこそ。」
そういえばと君が呟く。
「あの日、夢をみていいのかって叫んだんです。」
「私は、もう離さないからって叫んだ。」
駅前にある時計台の針がひとつ進む。
別れにならない言葉を探しても夢見る時は終わっていく。
「サヨナラは言いにくいね。」
「そうですね。」
「でも、このままだとお互いに彷徨うだけだから…」
ホームのアナウンスが私を急かす。別れの言葉を探さなくては。
「ねぇ、サヨナラの意味はなんだろうね?」
「サヨナラの意味ですか?」
「うん。ここで出会った私と君、君と私の…サヨナラの意味。君はどう思う?」
遠く花火が空に咲き、弾けとんだ音が空気を揺らしここまで届く。
細雪が牡丹雪に変わると、夢のカーテンが閉じられた。
“また会うための約束”
“未来を信じる御呪い”
言の葉が輝く蝶になり舞う踊る夜の静寂を列車が駆ける。
思い出は遠く、夢は去った。
夜の車窓は鏡となり、指先を合わせてみると、私は私を見つめていた。
-これでよかったの?
-もちろん
-なんで来たの?
-気になる人がいたから
-また来る?
-あなたが連れて来たんじゃない?
-それもそっか
-やっと連れ戻せた
-夢売りをしててもいいだけど
-私がダメなの
-じゃあ妖精稼業は暫くお休みだね
-そうしなさい
-そろそろ眠たい?
-夜だしね。どっか行かないでよ。
-うん。それじゃあ、お休みなさい
-おやすみ
必要な人と出会うということは、必要な言葉を見つけるということ。
明日の君にも素敵な言葉が届きますように。
終章-Butterfly knot
春の柔らかな日差しが温室の窓ガラスで折れ曲がりここまで差し込んでくる。好きな小説を途中に、微睡みが訪れたので、栞を挟んで机に伏せると瞼を閉じる。眠りの狭間で誰か会ったような気がして目が覚めた。
手首を返し頭上に伸びをすると頭もすっきりし、机に置いたままだった書きかけの手紙に取り掛かろうと藤紫のガラスペンを執る。ペン先をブルーブラックのインクボトルに浸し、続きを書こうか迷ったけど、本棚から真新しい棘模様の便箋を取り出して、インクの染みたペン先をボトルの淵で軽く拭う。
書き出しはいつも些細なきっかけが連れてきた思い出から。
そうしないと手紙から自分がいなくなってしまうからね。
――――――
齋藤飛鳥さまへ
橋本奈々未より
――――――
インクの乾ききってない手紙の端を本で押さえつけると、インクの残るペン先を水で流して布巾で吹いていると温室の扉が開く音がした。
「ななみん、いる~?」
女の子の可愛らしさが残る声がして、私は慌てて手紙を本で隠す。「いるよー。」と何気なく答えガラスペンを片付けていると、ヤシの葉くぐり麻衣が歩いてきた。
「あっ、ごめん。お手紙書いてたの?」
「ううん。今書き終わったとこ。しーちゃんは?」
「午後の予定が変わったから伝えにきたの。あれピアノ流しているの?珍しいね。」
「ちょっと筆が進まなくてね。」
「へぇー。ななみんが苦労して書いた恋文をゲットするのは誰なのかな?」
麻衣が答えを欲しがるように聞いてきたので、相手ぐらいはいいかなと思い答える。
「飛鳥だよ。飛鳥への手紙。」
「むぅ~。私じゃなくて、後輩ちゃんか。で、果たしてその中身とは。愛の告白ですか?」
「はいはい。茶化しても見せないよ。今度、しーちゃんにも書くから。」
「ほんと?ななみんからのお手紙なんて超レアじゃん。嬉しいなぁ~。」
満面の笑顔で変わったはずの午後の予定を見事に伝え忘れて去っていく。
素敵な人とはきっとこんな人なんだろう。しーちゃんを見ているとそう思う。
常に完璧を目指し頑張っているからこそ、抜けているとこがあると、それが欠点ではなく長所になり可愛げになる。だから、誰かも好かれ、そして可愛げをきっかけに誰とでも仲良くなっていく。
私には無理だなと思い直し、飛鳥への手紙を封筒に閉じて本棚に差し込む。
代わりに取った紺色のノート。
長くゆっくりと、そして細々と綴られてきた物語ももう終わり。
エンディングは穏やかに、でも少し不思議に終わらせようかな。
~The Someone's Tale~
夢を見ていた気がする。
瞼の裏側には湖に落ちていく花火の奇跡と白雪の輝きが残っている。
誰かとても美しい人が、可愛らしい少女に別れを告げていた。
定まらない記憶に揺られ最寄り駅に着く。もう夜中の12時近く。
明日も始発だなと考え見上げた夜空には下限の月が浮かんでいた。
「あなたが迷子さんですか!」住宅街にぽつんとある喫茶店の前を通る時に懐かしい声が聞こえた気がした。
自宅の布団に潜り、短い睡眠を挟むと始発電車の最後尾に座り体を預ける。高層ビルが車窓から見え始めると重たい意識をなんとか覚まし電車から降りる。スーツ姿の人波に押されて改札を抜けるとスクランブル交差点へとなだれ込む。信号が赤になった直後なのか、待ち時間を示す赤い横線はまだ10本残っている。
それにしても梅雨が近づき気温が上がったせいか、上着を着ていない人が増えた。僕もこの暑苦しさを紛らわそうと、鞄に入れていたペットボトルの水を飲みながら、空いている手でスマホを操作してメールを確認する。
君が信号の待ち時間が残り僅かだと気づくまで…あと15秒
君が慌ててスマートフォンを終い歩き出すまで…あと20秒
君の右手にあるペットボトルの水が揺れるまで…あと30秒
君が、ぶつかってしまった彼女の手を取るまで…あと40秒
君が、その彼女の目をみて謝るまで…あと46秒
君が彼女と再び出会いお喋りするまで…あと…
君が彼女のことを意識するまで…あと…
君が彼女の鍵に気づくまで…あと…
おしまい。
作品受領日 10月23日
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