乃木藩南町捕物帳
~最終部~

作者 よしあきら(@yoshiakira2ndg1) 


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第十章 約束

結局、少しまどろんだだけで、よく眠れないまま朝を迎えた。冬の晴れ間が妙に忌々しい。姿を隠せるように曇天のほうが、都合がいいのにと恨めしく思う。
ただの使者として、桜井家を訪れるのであるが、珠美には周りが気になって仕方がなかった。
教えてもらった屋敷への道程も何度も確認しながら歩を進める。自分の心が拒絶するのか、奉行所から対して離れてもいないのに時間がかかった。
屋敷に着くと家人に南町奉行の使者だと名乗る。いつものことなのか、証を見せただけで快く通してくれた。案内された部屋は広く、香が焚かれていて優美な雰囲気だが、今の珠美には落ち着いて鑑賞する余裕もなかった。しばらくすると、玲香が入ってきた。
「あれ、見ない顔だね。新しく入った子かな」
興味津々といった様子で珠美の顔を覗く。彫りの深い顔に笑みをたっぷりと浮かべており、こちらは筆頭家老の余裕を窺わせる。珠美は口上を述べ、佑美からの書状を手渡した。玲香はそれを嬉しそうに受け取ると早速中を改めた。
「ふんふん、なるほどね」
そう言って書状を大切にたたむと、引き出しにしまい込んだ。見れば書状が山のように積まれている。すべて佑美からのものであろうか。珠美が戸惑いを覚えていると、
「香が尽きちゃったみたいだね。新しいのを焚こうかな」
と言って、傍に置かれた漆塗りの箱から、桃色の懐紙を取り出し、白い結晶を入れ始めた。
「ああ、書状の返事だけど」
席に着くと姿勢を正して玲香が告げた。
「必ずいくから、そちらも覚悟しておいて」
と威厳をもって言われると珠美は平伏した。伝えておいてね、と愛嬌を出して言われた言葉は耳にも入らなかった。
ふと甘い香りが鼻についた。さきほど玲香が新しい香を焚いていたことを思い返した。桃色の懐紙。そうだ。お松が持っていたのも桃色の懐紙ではないか。であればその中身は。
頭を下げたまま、挨拶を終え、急ぎ部屋から退出する。ここで自分が捕まってしまえば、と考えるだけ恐ろしくなった。無礼を承知で屋敷から飛び出し元来た道を走って帰った。

奉行所に着くなり、美月が出迎えた。
「どうしたの、そんなに息を切らせて」
普段通り笑う美月の笑顔さえ、珠美には怪しく思えて、しどろもどろになりながらその横を潜り抜けた。ほうほうの体で佑美のいる部屋に駆け込んだ。
「御奉行、た、ただいま帰りました」
「その様子だと玲香の屋敷で何かあったか」
息を整えながら先ほど家老屋敷で見たことを伝える。
「御家老が桃色の懐紙の懐紙から白い結晶を香炉に入れたことを思い出して、急いで戻って参りました」
突然、佑美が拳で畳を叩いた。珠美は驚いてのけぞる。
「どこまで腐っているんだ、あいつは」
「やはり、阿芙蓉でしょうか」
「そうだ、そうに違いない。珠美まで手にかけようとするとは」
言葉に詰まり、歯噛みして悔しそうな顔をしている佑美。珠美にはかける言葉もない。
「それで、書状の返事は」
「必ず行く、覚悟しておいて、と」
そうか、と言ったきり佑美は目をつぶり押し黙った。沈黙は長く続いた。いや、続いたと感じただけで本当は一瞬だったのかもしれない。佑美の次の一言が待ち遠しかった。
「書状の中身、見ていないね」
「は、はい。誓って見ていません」
「そっか。珠美は素直だね」
「え」
突然褒められたことに恥ずかしくなる。言葉を紡げずにいると、佑美が書状を取り出した。
「これを託せるのは珠美しかいない。三日後の夕刻、これを持って目付の花奈の下へ駈け込んでくれ。いいね、誰にも見つかっちゃいけないよ」
「御目付の中田様ですか」
「そう、士分は町奉行には裁けない。花奈なら公平に扱ってくれるだろうしね」
「御奉行がされればよろしいのでは」
「大切な用があってね、行けないんだ。頼んだよ」
そういって、書状を手に握らせる。顔をあげれば優しい笑顔がそこにある。共に仕事をしてわずかだが、佑美の人柄は珠美を惹きつけていた。義に篤く、悪を憎み、情を理解し、公を重んじる。そういう人が自分を頼りにしてくれることが単純に嬉しかった。しかし、状況が珠美を感傷に浸ることは許さなかった。
「御家老に会われるのですね」
「ああ」
「その時、もし、これまでのことをお認めにならなかったら」
「士に反する振る舞いをするならば、斬る」
珠美は震えていた。佑美の相貌には「鬼」が現れていた。


第十一章 往く道

「おはよう、今日は寒いね。雪、降るかな」
美月がいつもの調子で声をかけてきた。珠美は、おはよう、と応じながらも上の空だった。
今日が、佑美が玲香に会うと決めたその日である。この三日は仲間の与力や同心に気取られぬように何とか平静を保っていたが、内心は気になって仕方がなかった。
「おはよう」
佑美が平時と変わらない挨拶をする。珠美は飛び跳ねるように反応したが、佑美はそのまま自室に向かった。日常がここにある。それはすぐにでも壊れてしまう日常だった。
朝から珠美は仕事が手につかなかった。しばしば、佑美の様子を伺いに行くが特段変わった様子もない。軒先から見れば、美月の言う通り雪でも降りそうな黒い雲が垂れ込めている。その中を白い鳥が一羽、羽ばたいていった。今、どこかに飛んでいけたらどんなに楽か、と鳥にさえ嫉妬してしまう。
昼を過ぎたころ、雪が降る中を筆頭家老からの使者が来た。奉行所の面々が集まり、申し渡しを聞くことになった。
「御家老曰く、今回の槍奉行襲撃の件、家老衆預かりとし、奉行所の訴状、書面、証拠の品、一切を引き渡すよう伝えおくとのこと。よろしゅうございますな」
奉行所が騒がしくなる。佑美はこれらを戒めると向き直って言った。
「承知いたしました。御家老のおっしゃる通りにいたします。ただし、引き渡しには時間が必要ですので、明日、こちらからお屋敷に運び入れます」
使者が帰ると佑美の卑屈ともいえる判断に不平があちこちで聞こえたが、肝心の佑美は意に介せず業務に戻るように言い渡した。
「珠美、出かける用意を」
いよいよ来た。珠美は急いで支度を整えた。急な出立に美波が尋ねた。
「御奉行、どちらに」
「今回の件、家老衆預かりになったと愛未や陽菜に伝えておきたくてね」
「それでは、私が」
「いや、いいよ。自分の責任だからね。そうだ、美波は引き渡しの用意を整えておいてほしい。帰ってくるまでに頼むよ」
美波はそれで納得したのか、玄関から二人を見送った。

奉行所から大通りに出た。濠のそばにある、城へ向かう道と町の外へ向かう道の分岐点。城の方に向かえば、花奈の屋敷がある。
「ここで別れよう。頼んだよ」
そう言って、佑美は城とは反対の方へと歩き出す。寒い。雪は相変わらず降り続いている。珠美は震えている。寒さとは別の震え。嫌な予感。振り切って城の方へと歩き出す。濠を渡る。
日常が壊される。わずかな時でも確かな日常。
橋の途中、足が止まった。自分の勘を信じることにした。佑美を追いかけることにした。
どんな理由であれ家老を斬ればただでは済まないであろう。それでも、佑美を守りたかった。自分を信じてくれた人を守りたかった。
剣の腕には自信がある。もし、佑美が玲香を斬ろうとすれば代わりに自分が。それで、罪に処されるのであれば仕方ない。
ありったけの勇気を振り絞り、町の外への道を進んでいく。佑美の背中が見えた。気づかれないようにこっそりとつけていく。都合のいいことに雪はだんだんと激しくなっていた。
突然、後ろから口をふさがれる。刺客かそれとも。頭を巡らす前に小路に引きずり込まれた。
「ぐぐぐ」
「静かに」
美月だった。後ろから口をふさいでいるのは美波だ。
「何、なんで」
「それはこっちの台詞。ここ数日、珠美の様子がおかしいと思ったら、今日は御奉行まで」
「どういうことか説明してくれる」
「それより御奉行は」
幸い遠くには行っていなかった。しんしんと降る雪の向こうに背中が見える。
「黙ってついてきて」
長々と説明している時間はない。三人で佑美の跡をつける。町の外に出るまで一本道だが幸い隠れる場所には不自由しない。
町を出て、小さな祠があるところで佑美が休息を取った。思いつめた顔をしている。
「それで、さっきの理由は」
美月がたまらず尋ねてくる。さすがにここで説明しておかなければ、二人を巻き込むことになる。佑美に見つけられないように、小声で事件のあらましを説明した。二人は絶句する。
「御奉行は御家老を斬る決心をされている。もしその決心に賛成できないなら、帰った方がいい。私は、御奉行についていく」
自分の覚悟を言葉で表し、改めて決意を固めた。
「どうして止めなかったの、どうして相談してくれなかったの」
今まで見たこともないような形相で美月が怒鳴った。怒っているようでもあり、悲しんでいるようでもあった。
「そんな大事なこと、一人で抱え込んで御奉行は苦しまれている。それなら、南町全部で背負うのが与力の努めでしょ」
美月の声は雪に吸い込まれていく。辺りは誰もいないように静かだった。
自分を信用してくれた御奉行を救いたい、そう言いたかった。しかし、事態は最悪の方向へ向かいつつある。御奉行からの役目も果たせていない。珠美は自分の無力さに呆然となった。
「ねえ、御奉行いないよ」
美波が指さす先にはさきほどまでいた佑美の姿がない。美月とのやり取りで気づかれたのだろうか。急いで道の奥に進んでいく。そこは分かれ道になっていた。
「どっち、どっちに進んだの」
「場所はお聞きしてない」
「もう」
美月は怒っている。佑美のことを心配している。つまり、こちらの味方だ。そう思うと、少し安心した。落ち着いてくると、見えていなかったものが見えてきた。
「こっち、川の土手の方、足跡が少しだけど、残ってる。雪の降った後に、通った人がいたのだとしたら御奉行しか」
言い終わる前に、二人は駆けだしていた。美波も味方だ。二人を信用できなかった自分を反省しつつ、遅れないようについていく。
走りながら美月が思い出したように呟く。
「桜井様は藩の中でも随一の剣の腕。いくら御奉行でも」
そういえば、屋敷での玲香の振る舞いには一分の隙も無かった。それでも今は足跡を追うしかない。雪の積もる土手を駆けていく。
足跡が途絶えていた。ここから河原の方へ降りていったのかもしれない。ちょうど、川へ続く階段がある。三人で駆け降りる。

二人がそこにいた。佑美は太刀を手にしていた。


第十二章 告白

「あれ、真面目だね。さすが、南町の与力だ」
気づいたのは玲香が先だった。佑美は走ってくる珠美たちを背にしていた。
「御奉行」
「手出し無用」
佑美の大声に三人の足が止まる。雪の降り積もる河原に声はよく通った。
「抜いたね。家老の私に奉行が刀を向ける。どういうことか分かってる」
「ああ。腐った性根は斬らなきゃ治らないってことだ」
玲香はまだ刀を鞘に収めたままだった。顔には余裕の笑みがある。
「あらぬ疑いをかけられて何もせずに斬られたら、御家のみんなが泣いちゃうよね」
「くっ」
「忠義の心のない奉行には躾が必要ってことかな」
玲香が声を落として言い放つ。抜刀し下段に構えた。
「何が忠義だ。忠義は信頼のおける関係にしか成り立たないんだ。それをよくも」
佑美が地面を蹴る。玲香は、佑美が振り下ろした一撃を寸でのところで後ろへかわす。一歩踏み込み、薙ぎ払った一閃も飛び退いて届かない。佑美がまた上段から斬り下ろすと受け流すように右に躱し、玲香は踏み込んで斬り上げる。体を回して、反撃を阻止した佑美が再度上段から振り下ろすと、玲香も接近戦を選んで鍔迫り合いになる。
「そんな遮二無二突っ込んできて勝てると思ってるの」
「実践から離れたお前にはこれで十分だ」
へえ、と一言残して玲香は後退し間合いを取る。回り込もうと走るのに合わせて佑美も並走する。突然、一歩踏み込んで突きを繰り出すと、三連撃を上段から浴びせ、小手を狙って袈裟斬りに振り下ろす。佑美は玲香の手首を取って強引に引きずり込み、柄で刀を叩き落そうとするが、逆に勢いを利用されてくるりと体が宙に浮く。受け身を取り、迫ってくる玲香に雪を浴びせてひるませ、体勢を整えた。
一気呵成の剣術をなんとか凌いだ佑美だが、見れば袂が斬られていた。思わず、珠美ら三人は前のめりになる。佑美は手出しするなと言わんばかりに両手を広げた。そのまま、じりじりとあとずさりするとおもむろに刀を鞘にしまい、左足を引いた。
「その構え、久しぶりに見た」
懐かしむように玲香が言う。佑美は無言で応えない。そう、と玲香は右足を引き左手一本で刃先を佑美に向かうように構えた。互いに自信のある形を作り動かなくなる。
しんしんと降る雪。無音の空間。見つめる三人は喉を鳴らすのも憚られた。
佑美が動いた。真っ直ぐ玲香へと向かっていく。
玲香がすっと刃先を下げる。隙を作るかのような動き。
佑美は果敢にそこへ飛び込んでいく。玲香が左足を一歩出した。
お互いが間合いに入った瞬間、佑美の刀が一閃した。玲香は右手の力で刀を跳ね上げる。
交錯した身体が入れ替わるような形になった。
時が止まる。
次の瞬間、佑美の身体が雪の原に崩れた。
「御奉行」
三人が叫び声をあげる。雪が朱に染まっていく。珠美は衝撃のあまり、座り込んでしまった。
「御家老、お覚悟」
美月が刀を抜いて、立ち上がった。目は尋常ではない。決死の覚悟で向かっていく。美波もそれを追うように叫び声をあげて駆けていく。
玲香はそれを見てうっすらと笑った。
身体が雪へと沈んでいく。
「あ、相討ち」
佑美と同じように朱に染まる玲香の周りの雪。それを見て、?然とする三人。
「御奉行」
力を奮い立たせて立ち上がった珠美が駆けていく。
美月は警戒しながら、玲香の身体を仰向けにする。血にまみれ、もはや意識はなさそうだ。
美波が佑美の身体を雪から引きはがす。
「御奉行、しっかりしてください」
「美波か、すまない。美月、珠美と共に後のこと頼む」
最後の声は聞き取れないほどか細かった。
なぜだか満足そうな笑みを浮かべて目を閉じる。
「そんな、そんな、ああ―」
珠美の声が河原に響き渡った。

黒い影が立ち去ったのはそのすぐ後だった。

山が連なる乃木藩北部の寺町、影はその寺の一つへと消えていった。
「それで、どうだったのだ」
「は、河原で決闘を行った模様。どうやら相討ちにございます」
「それは、それは。望外の成果だな」
密偵の報告を聞き、その男は満足そうに顎を撫でる。
居室での派手な装束は幕府の大目付であった頃の矜持であろうか。
賀俣大蔵守雅臣は乃木、二木両藩への処置に不当なものがあったとして、大目付の要職から外され、さらに蟄居を余儀なくされた。乃木藩に煮え湯を飲まされたこともあり、混乱を引き起こし、それを自ら平定することで幕府要職への返り咲きを狙っていた。
「まもなく、門前町に火の手が上がるでしょう。それに対処しようとすれば、次は城下町、寺町と火は広がっていきます」
密偵の正体は雅臣の御庭番、益野成吾で乃木藩の内訌も画策した美男だ。賀俣家の裏の仕事を任されている。
この度の決闘の決着はすなわち乱の始まりの合図になっていた。
「筆頭家老と町奉行を同時に失うのだ。対処なぞできまい」
「そこを近隣の兵を率いて賀俣様が鎮圧されるのです」
「役職の復帰と同時に我が心に突き刺さった小骨を抜き去るとはさすがよな」
「ありがたきお言葉」
「しかし、筆頭家老と南町奉行の仲を裂くとは考えたものよ。どちらかがいなくなればよいと思っておったが」
「信を置くもの同士、仲を裂けば行きつくところまでどこまでも行きます」
「なるほどな。しかし、桜井というもの、以前も幕府の威光に平伏しておった。生かしておけば、この乱に右往左往して泣きついてくることもあったであろうに、惜しいことをしたかもしれぬな」
そう言って、不敵に笑う雅臣の耳に甲高い声が響いた。
「誰が泣きついてくるだって」
「何奴」
「乃木藩筆頭家老、桜井玲香」
「な、なんだと」
驚く雅臣に追い打ちをかけるように、後ろからもう一人が進み出る。
「南町奉行、若月佑美、鬼が悪を地獄に送ろうか」


第十三章 すべての悪は地獄に行く

「な、何故生きている。貴様らは死んだはず」
成吾が叫ぶように言う。
「詰めが甘いね、自分で確認とらないから」
そういって玲香は赤い液体の入った袋を雅臣の足元に放り投げた。雅臣が慌ててよけると、袋は破裂して血のような染みを作っていく。
「装束一式、台無しだよ」
佑美は呆れるように言った。

男が立ち去った後の河原では、北町の史緒里がぶんぶん手を振って合図を送っていた。
「御家老、もういいみたいですよ」
美月が耳元で玲香に伝えた。ぱちりと目を開けて、にんまりと笑ういつもの玲香。
「ええっ」
珠美は驚きのあまり、飛び退いてしまう。
「冷た。本当に死んじゃうかと思ったよ」
むくりと立ち上がる佑美。生きていた。安心のあまり腰が抜ける。
「ごめん、ごめんよ、珠美。悪かったよ」
そういう佑美の装束は血で真っ赤に染まっている。だが、よく見れば斬った跡がない。
「騙したんですね、ひどい」
少しもひどいなどとは思っていない。安心のあまり口が軽くなっただけだ。笑顔と涙で自分の顔はぐちゃぐちゃになっているだろう。そんな珠美に佑美は優しく微笑みかける。
「くそ寒いのに、こんな茶番を見せるために呼びやがって」
「まあまあ」
寒さに思わず口が悪くなっている小百合とそれを窘めている一実が物陰から現れた。
「茶番はひどいなあ。反目しあう家老と奉行の名演でしょ」
「もういいから。二人には奴らの仲間を捕縛してほしい。今、後をつけさせているから、どこに隠れているかはすぐに分かると思うよ」
「南町の指揮も執っていいのか」
「美彩の了解も取ってあるからね。ここに筆頭家老もいるし」
問題なしという表情で頭を立てに振る玲香。嬉々として史緒里に指示を与え始める小百合。
「で、門前町にも怪しい奴がいるんだね」
「そこで一実の出番だよ」
「任せておいて。いろいろと連れていきたい人もいるし」
この人の笑顔は人を安心させる。奉行衆の中で門前町を任され、町衆から信を得ているのも納得できた。
「さあ、時間との勝負だよ。乃木藩の強さ、見せよう」
筆頭家老らしく、玲香が号令をかける。佑美は珠美たちの方に振り向いて告げた。
「私たちも行こうか」

「今頃、門前町と城下町では大捕物になっているでしょうね」
「ちっ」
玲香の一言に顔をしかめる雅臣。あることに気づき嫌な笑いを浮かべる。
「ふん、二人で来るとは、飛んで火にいる夏の虫とはこのことよ」
「今は冬だけどね」
「うるさい。出会え、出会え、この者らを斬って捨てい」
雅臣の声に剣士たちが乱入してきた。数十人はいるだろうか、雅臣が隠れてしまうほどの人数である。一斉に刀を抜き二人の方に向けてきた。
「ちょっと多くない」
「勘定、間違えたかな」
そういいつつ、二人も刀を抜いて八艘に構える。互いの背を守るように立った。
「ええい、やってしまえ」
雅臣の号令一下、剣士が飛びかかってくる。佑美は角に向かって走りながら、勢いのままに一人、二人と打ち倒す。玲香の方は、動きは最小限に相手の間合いを読みながら、腕の筋を狙って斬っていく。お互いの進む道に何人かが転がったところで、角に追い詰められる形になった。
「押し包んで、討ち取れ」
成吾が命じる。注目が二人に注がれたその時、門の前の剣士が一人、吹き飛ばされていた。
「南町奉行所与力、梅澤美波。御奉行、助太刀いたします」
美波の長太刀は幅が大きく、どちらかといえば直刀に近い。長身と腕の長さを生かして、打ちかかってくる者どもをまとめて吹き飛ばしていく。
「痛いよね、あれ」
玲香はそう言いながら、相手の小手や脛を狙い地面に這いつくばらせていった。相手の人数も考えあくまで最小限の体力を使うよう努めているのだろうか。佑美は討ちかかってくる敵をある時は投げ、ある時はみぞおちに拳を叩き込むなどして臨機応変に対応している。
三人の奮闘に恐れをなしたのか、剣士が一人、裏口から逃げ出そうとした。闇からおもむろに剣先が伸び、のけぞるようにしておののく。
「一人、逃げようなんて卑怯。駄目すぎて話にならない」
その声の主は剣士を平手打ちで沈ませると、さらにかかってきた二人を、跳ねるようにして右に左に打ち倒す。端正な顔に似合わない豪快な剣さばきだ。ふう、と一息入れて名乗る。
「同じく与力筆頭、山下美月、参上しました」
庭の中心で奮闘する美波が美月の方を振り返って叫んだ。
「危ない」
寺の屋根から狐面の刺客が斬りつけてくる。咄嗟に受け身を取って躱す美月。だが、前後を挟まれてしまった。美月の顔から余裕がなくなる。
風を切る音がして、美月の前の狐面が悶えた。隙を見逃さず小刀を弾き飛ばし、後ろから襲ってくる狐面を振り向きざまに打ち据えた。
「助かりました。」
美月の足元には火箸が転がっていた。佑美が投げたものだ。
「あいかわらず行儀悪いわね、それ」
剣士を倒していく中で佑美と背中合わせになった玲香が指摘する。
「命がけの中で言う台詞がそれなの」
佑美の言葉に、くくく、と笑って玲香が敵に向かっていく。
突然、玲香の前を苦無が通り過ぎた。動きが止まるところを、剣士に抑え込まれる。足を払って体勢を立て直すが、またも苦無が飛んできて飛び退く。
「もう、鬱陶しい」
「高所を取られたか」
見れば、寺の屋根には数人の狐面がいて得物を構えていた。
次の瞬間、たん、たん、と屋根の上を飛ぶように狐面の下に突き進み、それぞれの得物を弾き飛ばす姿があった。得物を失った狐面が慌てて飛び退き、小太刀を構える。
「南町与力、阪口珠美、参上しました」
珠美の周囲には多数の狐面がいるが、臆することなく前に進み、その小太刀を打ち落としていく。そのままの勢いで屋根から落ちる狐面を見て、寺の中にいる雅臣は慌てた。
「もうよい、あとは任せたぞ、成吾」
そういって、そそくさと裏口を目指す雅臣。
「逃げるよ。珠美、裏口」
「はい」
返事をした珠美は折り返して狐面の集団を突っ切ると、一旦刀を鞘に収め屋根から飛び降りて雅臣の前に出た。再び抜刀し、切っ先を雅臣の方に向ける。
「待て、私が誰であるか、お主にも分かっておろう」
「はい、あなたは乃木藩に不幸をもたらす悪人です。よって、成敗します」
雅臣に刀を抜く暇も与えず、珠美は斬り下ろした。眉間から血が出たことに驚き、死ぬ、と連呼してのたうち回る雅臣。実際のところ、珠美はさして深く斬ってはいない。

「ちっ」
ほとんどの刺客が目の前に転がり、主君も情けない姿をさらす今、成吾は己が身を考えていた。ちょうど正面が空いている。雅臣に視線が集まっている今なら。そう思った時には駆けだしていた。
「お前も卑怯か」
吠えた美月が打ちかかるが、刀でいなし、振り回すようにして戦っている美波の刀を躱した。玲香が走り寄って斬りかかるが、力で押し返すように弾き飛ばす。
門の前には佑美がいて正対する形になった。佑美は河原での抜刀術の形になった。すると、成吾は左手に刀を持ち右足を引いた。薄ら笑いが浮かんでいる。
「玲香の形」
佑美は迷いなく一歩踏み込み、刀を抜く。成吾の刀が振り下ろされる。弾き飛ばした。そう思った時には、佑美の首元に脇差が当たっていた。
「太刀の方は囮」
佑美が呟くと、勝ち誇ったように笑う成吾。
「この女を死なせたくなければ、刀を捨てよ」
これでも数人は刺客が残っていた。立場が逆転してしまう。玲香がそこにいた。何も言わず刀をこちらに向ける。
「玲香、構わない。私ごと、こいつを斬って」
「こいつら、正気か」
成吾の口調に焦りが見える。じりじりと門から寺の隅へと迫っていく。
「分かった。こいつの命だけは助けてやる、だから」
「もう、遅いよ」
玲香がそう言った瞬間、成吾の肩には矢が突き刺さっていた。苦悶する成吾を投げ飛ばして、組み伏せる佑美。見上げると、門の上には純奈が弓を構えていた。
「同心のみんな、縛り上げちゃって」
そう号令をかけると、郡奉行の同心たちが一斉に寺内に突入し、刺客たちを捕縛していった。
「遅くなりました」
「いやいや、助かったよ」
「この前の借り、少しは返せましたかね」
純奈は少し照れくさそうに笑った。玲香が純奈の居場所に気づき、佑美とともに成吾を射貫きやすく誘導したのだ。
与力の三人もそれぞれに労いの言葉をかけられ、帰路についた。
夜も深くなっていく。雪に月の光が移り、輝いていた。


終章 今日

乃木藩総出の捕物は、一晩で終わった。
城下町の方は、小百合がしらみつぶしに隠れ家を見つけ出し、そのうちのいくつかで成吾らが金をやって武装させた押し込みの類をひっ捕らえた。
門前町の方は、一実が愛未や陽菜らを誘って、雨井神宮の財物も奪おうとしていた者どもを未然に捕まえ、その話から町に侵入しようとしていた雅臣の手の者を一網打尽にした。
捕縛された雅臣らは幕府に引き渡しされた。その功を認められて、乃木藩に加増という話もあったが、飛鳥はあっさりと断った。引き換えに、家臣の労をねぎらいたいと、宴のための肴を用意できるよう要請した。
それからしばらくして、玲香の屋敷で宴の席が設けられた。

「それでね、敵がわっとかかってきたから、愛未がばっと打ち倒して」
愛未は身振り手振りを交えながら、自分の武勇譚を披露している。
「そんなのだから、傷口が痛いって未だに言ってるんでしょ」
「痛い、痛いってば」
一実が茶化すように脇腹をつつく。大げさなふりで痛がる愛未を見て、
「またやってるよ」
と、陽菜が呟いた一言に、そこに集まった一同は大笑した。
また別の席では、小百合が史緒里に言い寄っている。
「それでね、日向座の平仮名手本忠臣蔵、いい席とれたから、どうかなって」
「え、いや、いいですよね、日向座」
と、史緒里が答える間もなく、美彩が史緒里の手を引き寄せて、
「欅家志ろくのけやかけそば、絶対面白いから、聞きに行こう、ね」
「は、はい。落語、聞きに行きたいな、行きたい、はい」
酒が入っているのか、強引に話を進める二人に、しどろもどろの史緒里。
美月は、そんな様子を知ってか知らずか、饗された膳を楽しんでいる。
「こんな豪華なもの、いただけるなんて、よかったね」
「そうだね。うん、どうしたの、珠美」
美波が辺りを見回している珠美に尋ねた。
「御奉行と御家老がいらっしゃらないなって」
「そういえば、そうだね」
「さっき、お二人で席を立たれたけど」
美月が何気なく言うと、珠美はさっと立ち上がった。
「探してくる。お二人の分、もったいないし」
「ちょっと、もう、珠美の分も冷めちゃうでしょ」
美波の声が聞こえる前に、珠美は外へと飛び出していった。

桜井家の家人に聞いた話を頼りに、二人がいるであろう城内の庭園へ向かった。
珠美の足が止まる。そこには二人のほかに、七瀬がいた。肩に鳩が泊っている。三人で餌をあげているようだ。
物音が聞こえたのか、七瀬がこちらを振り返り、微笑みかけてくる。
「お迎えが来てるで、二人は帰らな」
七瀬と別れを告げ、二人がこちらに歩みを進める。
「ごめんね、七瀬たちに礼を言いたくってね」
玲香が告げると、三人の時間を邪魔してしまったようで、珠美は恐縮した。
「そうだ、珠美。花奈への書状、渡さずにどうするつもりだったんだい」
「え」
突然の佑美の質問に珠美は答えに窮した。二人がのぞき込むように珠美の顔を見つめる。
「あの時は、御奉行をお助けしたいと思って、勢いでついて来てしまいました」
「やっぱり」
「まだまだ、与力の手懐けがなっていませんな、南町奉行殿」
玲香が茶化す。笑顔には屈託がない。屋敷に訪れた時とは大違いだ。
「そういえば、御家老様の屋敷で拝見した桃色の懐紙はなんだったのですか」
「あれはね、南蛮の菓子で、金平糖というんだって。甘くて、おいしいよ。佑美から桃色の懐紙の話は聞いていたから、あれを使ったら騙されてくれるかなって」
渡した書状にだいたいの計画が書かれていたのだろう。珠美がふくれる。
「それで、いつ賀俣たちは懐紙を手に入れたんだ」
「幕府の要人をもてなす茶会があって、そこで出したのよ。まさかそれを利用されるとはね」
お手上げといった格好をした玲香が、何かを思いついたように指を立てた。
「私からは佑美に質問」
「何」
「もし私があいつらの計画した通りの人間だとしたら、佑美はどうする」
「斬るよ」
「即答かい」
あっさりした佑美の答えに珠美も驚きを隠せなかった。
「友人でも関係ないのね」
「そんなことをする玲香は友人とはいえないし、第一、自分が友人と考えている玲香はそういうことをしない人間だから」
言って、佑美はすこし顔を赤らめる。玲香も同様に無言になる。その無言を嫌って、佑美が口を開いた。
「珠美の姿勢は間違ってないよ。自分の正しいと思うことは常に考えておくこと。実現できるかは別にして、それがみんなを救ったりするからね」
「こらこら、主君への忠義が第一でしょうが」
「あれ、次席家老を焚きつけて、家中の反対を抑えるためとか言いながら、藩主交代を引き延ばし続けていたのはどこの誰でしたかね」
「ふーん、そんな人いたんだ。知らない人だな」
丁々発止のやり取りが続いていく。
そこにある日常。守りたかったものがここにある。
珠美は空を見上げた。冬の晴れ間がどこまでも広がっている。
穏やかな光はどこか暖かかった。