この物語はフィクションであり、実在の人物及び団体とは一切関係ありません。


第5回ノギザカッション小説コンテスト
エントリーNo4

小説『隅田川』
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隅田川が好きだ。 
荒川の分流だが、それとは全く異なる佇まいを見せるこの川は、多くの物語とともに流れ続けている。 

 

僕が彼女に出逢ったのは、両国橋のたもと、神田川との合流点だった。 
柳橋の上から、一見無表情にも見えるスンとした顔で、なだらかに合わさる川面を見つめる少女。 
後ろを通り抜けようとした時、微かに歌声が聴こえてきた。 

 林檎の花ほころび川面に霞立ち 
 君なき郷にも春は忍びよりぬ 
 君なき郷にも春は忍びよりぬ 

ロシア民謡『カチューシャ』。 
背後からは伺えないが、恐らく虚ろな…そう虚ろな瞳で口ずさんでいるであろう哀愁を帯びたメロディーに、思わず足が止まった。 
ややあって、立ち止まった僕の気配に気づいたらしく彼女は振り返り、そして真っ赤な顔でペコリと会釈した。 
端正な顔立ちの美少女がそこにいた。 

「失礼ですがロシア民謡がお好きですか?思わず聴いてしまいました」 
「お恥ずかしいです…ロシアが好きなんです」 
「お若い人にしては珍しいですね」 
「私、浅草橋のロシア民芸品のお店に勤めていますの」 

私仕事に戻らなくちゃ、と独り言のように呟き、会釈して立ち去る後ろ姿を、僕はその場に立ち尽くし、見えなくなるまで見送っていた。 

 

彼女の言っていた民芸品店はすぐに判った。 
神田川のほど近くにあるその店には、本当にこじんまりとした空間に、マトリョーシカを始めとした民芸品と、ロシア軍の装備品と思しき味のある品々が並んでいた。 

しかし、そこに彼女はいなかった。 
手持ち無沙汰にマトリョーシカを眺めてみたりしたが、当てもなく待ち続ける訳にもいかず、意を決して店主に先日の柳橋での出来事を話してみた。 

「そりゃ運が良い。彼女もうすぐやってくるよ」 

訊けば彼女は、本業の合間を縫った不定期な時間にしか店に来られないらしい。 
店主の御厚意に預り、ロシアンティを飲みながら待たせてもらえることになった。 

茶飲み話に、マトリョーシカは人間というものを批判しているのではないか、という咄嗟に思いついた戯言を店主と話した。 
マトリョーシカは、大きな人間には包容力があることを示しているのか、それとも、いくら虚勢を張っても本当は誰も皆ちっぽけな存在だということを示しているのか、などなど駄説を開陳してみた。 
話に夢中になっていたら、背後から声がした。 

「遅くなってすみませんでした」 

振り向くと、彼女がいた。 
脳裏に、可憐という単語が浮かんだ。 

僕の顔を見てすぐに思い出してくれたようで、彼女はにっこり笑い、いらっしゃいませ、と言った。 

「いらしてくださったんですね、嬉しい」 

僕は照れを隠すように、可笑しいほど早口で先程の与太話をかいつまんで話してみた。 
彼女はふふと微笑みながら耳を傾けていたが、ひとしきり聴いた後にこう言った。 

「私は、マトリョーシカをいじってると、本当の自分ってなんだろう?って思うんです」 

僕はハッとして、言葉に詰まった。 
瞬間訪れた沈黙の中、つぶやくように彼女がポツリと漏らした。 

「人が生きた証って、なんでしょうね」 

初めて柳橋で会った時に見た瞳の色を感じた気がした。 

 

それから月に何度か、時間が取れた折りに店を覗いてみるのが、僕の楽しみになった。 
もちろん、彼女がいるとは限らなかったけれど。 

彼女がいないある日、すっかり仲良くなった店主が他言無用として彼女の身の上を話してくれた。 
彼女が実は、とあるアイドルグループのメンバーであること。 

ある日、店番に使って欲しいと訪ねて来たこと。 
断ろうとしたが、真剣な眼差しに感じるところがあって、承諾したこと。 
良い娘なので、今は自分の孫のように思えること。 
時折、遠い目で何事か考えていること… 

そして、店主の話の締めは必ず「あの娘は『恋愛禁止』ですからね」で終わった。 

彼女と話せる時は、あの日のように生きることについてなどではなく、いつも他愛のない話ばかりした。 
彼女が好きなアニメやロシアについて熱弁を奮っている時に、キョトンとした顔をしていた僕は叱られることも多かったが。 

そう、二人とも無意識に重い話は避けていたのだろう。 
特に彼女の本職であるアイドルに関する話題については、僕は一切触れないよう慎重に気を付けていた。 
なんとなくそれが別れの合図になりそうな気がしたからだ。 
それでも僕にとって、そんな日々はとても楽しいものだった。 

 

東京に桜の便りが届いた頃、彼女から隅田川の桜が見たいので案内して欲しいと頼まれた。 
それでは、ということで僕の一番好きなコースを案内することにした。 

待ち合わせ場所はいつもの民芸品店。 
そこに現れた彼女の格好が、変装も何もしていない、いつものままの姿だったのには驚いた。 
案外アイドル本人はそんなものなんだね、と思わず言いかけて、慌てて言葉を飲み込んだ 

浅草線で浅草まで行き、吾妻橋の西詰から水上バスの乗り場を過ぎて、隅田公園の西岸へ。 
見事な桜が連なっていた。 
日本に生まれて良かったと思える瞬間である。 
金色の雲のようなものを載せたビール会社のビルの向こうに、スカイツリーがそびえ立っていて、いかにもTOKYOという感じだった。 
彼女もこの風景には感銘を受けた様子で、一先ず僕のお役目は果たせたようであった。 

東武伊勢崎線の線路を越える頃には、気分が良くなったのか、彼女は歌まで歌い始めた。 

「はーるのーうらーらーのーすみだがーわー」 

歌詞がうろ覚えのようなので、小声で教えてあげた。 

「かーいのーしずくもーはなーとちーるーながめをなーにーにたとーうーべーきー」 

上機嫌に歌いながら歩く。 
すれ違う人々が皆振り向くのも気に留めていなかった。 
山の宿の渡し跡の石碑を見て、渡し船も乗ってみたいなあ、などとはしゃいでいた。 

「『上り下りの船人が』ね」 
「いやいや、渡し船だから上り下りではないような…」 
「うるさーい!」 

やがて、言問橋を過ぎると、もうひとつの石碑が立っていた。 
東京大空襲戦災犠牲者追悼碑だった。 
そう、この公園は、あの大空襲で亡くなった人たちを仮埋葬した地でもある。 
うららかな風景は、哀しみの歴史を乗り越えてきていた。 

彼女は、石碑をしばらくじっと見つめた後、問いかけてきた。 

「ね、なぜ人は争うのかな。悲しくなるだけなのに」 

僕は反射的に答えた。 

「だからこそ、君が歌って踊る意味がある」 

しまった。自らの禁を解いてしまった。 
彼女は、動揺も見せずじっと聴いていた。 
いつも心に温めていたこと。もう避けて話す必要は無いことを悟った。小さな覚悟とともに… 

「君は……アイドルは、歌と踊りとその輝きで、人々に安らぎと歓びをもたらせる存在だと思うよ」 
「私が…?」 
「そう、その煌めきは誰かのために」 
「でも、争いなんて無くせるのかな」 
「君たちには……乃木坂46にはきっとその力があるよ」 
「何もできる気がしないわ」 
「たとえ、一握の砂でも握って積み上げることに意味があるはずさ」 

彼女は押し黙って歩き始めた。 
ほどなく『雪の日の隅田は青し都鳥』と刻まれた正岡子規の句碑の前を通った。 
彼女は考え込んだまま、碑には気づかなかったが、私は『都鳥』か…と考えていた。 

右に曲がり、桜橋の上に出た。歩行者専用の、X型をした美しい橋である。 
彼女は中程で下流側の欄干にもたれかかった。 
右側に今まで歩いてきた西岸の桜、左側に東岸いわゆる墨堤の桜並木が見えて、壮観だった。 

「『笑顔は愛の処方箋 みんなをしあわせに』か」 

僕は黙って頷いた。 
彼女はくるりと回って、川面を見つめた。 

「じゃ、本当の私、私が生きた証って何なのかな」 

僕は、川岸の桜に目をやった。一羽のゆりかもめがすうっと飛んできて、橋の街灯の先端にとまった。 

「『恋をするのはいけないことか?』」 
「えっ?」 
「恋をしなさい。鳥のように、心を自由の彼方へ」 
「でも」 
「ゆりかもめ、またの名を都鳥」 

彼女は空飛ぶかもめたちを見上げた。 

「都鳥?」 
「『名にし負はばいざ言問はん都鳥 我が思ふ人はありやなしやと』」 
「誰の歌?」 
「在原業平が隅田川まで来た時の歌だよ。千年以上前の話、平安時代のこと。さっきの言問橋の名前の由来」 
「恋人を想っての歌なのね。素敵」 
「実は業平が、当時の都の京都を離れて、遠く東国まで来たのは理由がある」 
「理由…?」 
「業平は、『恋愛禁止』を破ったんだ」 
「…!!」 

彼女は、もう一度ゆりかもめを見た。彼らは自由に空を飛んでいた。 

「業平を主人公にした『伊勢物語』の、隅田川の話の少し前に、業平が伊勢神宮に行った話がある」 
「題名が『伊勢物語』なのと関係があるのね」 

僕は、大きく頷いて先を続けた。 

「彼が伊勢に行った時、神に仕える斎宮という役目の女性と恋をしたのさ」 
「えっ、それって…」 
「当然、許されざる恋だった」 
「その報いとして東国に?」 
「そういうことになるね」 
「……」 

僕も欄干にもたれて、川面と舞う花びらたちを見た。 

「それなのに、業平の物語が『伊勢物語』と呼ばれ、千年も語り継がれてきたのは、なぜだと思う?」 
「誰もがこの恋に憧れた…から?」 
「きっとそうなんだろうね。人それぞれの理想の恋愛の影を映しながら、物語は生き続けてきたのだろう」 
「千年か…」 
「同じようにはできなくても、恋する心を持つことはできる」 
「恋する心…」 
「自由な心」 
「自由の彼方へ…」 
「真実はありふれた愛の中に」 
「真実…?」 

僕は頷きながら続けた。 

「本当の自分って、自分の心に正直にならないと見えないんじゃないかな」 
「『恋愛禁止』は?」 
「そんなものは、ただの仕組みってだけさ」 
「でも」 
「そう、現実はなかなか上手くいかない」 
「だから、物語が煌めいて見えるのかな」 
「恋の人は、千年過ぎてなお人の記憶に残る、生きた証を遺した」 
「……」 
「心の羽根を持った、素敵な女性(ひと)になるんだ」 
「……」 
「君ならきっとなれる」 

背中に軽い重みを感じた。 

「ずっと見守っていてください」 
「ああ」 

彼女の手の甲に、そっと僕の手のひらを重ねた。 
細い指先は小さく震えていて、少し冷たかった。 
桜の花びらがここまで舞ってきていた。 

 

彼女が虚ろな目をすることは一切無くなった。 

赤とんぼが街にも降りてくる頃、彼女から本業が忙しくなるので、当面店には行けない、という連絡があった。 
翌年の花見にも行けなかった。 

 

七月末、墨堤通り沿いで花火を独り見上げる。 
よく晴れた空に大輪の花が開いては閉じ開いては閉じする。 
ごった返す人混みの中、腹に響く音が、自分の存在を確認する瞬間である。 

焼きそば屋の兄ちゃんが点けっぱなしのラジオ。 
懐かしい声が聴こえてくる。 

「さてさて、私も参加した乃木坂46の新曲をお届けしましょう!いつも私を見守ってくれているあなたに、心を込めて送ります!乃木坂46で『……」 

一際大きな轟音とともに、観客からどよめきが起こる。 
視界いっぱいに星のように煌めきが拡がっていった。 

 
(完)