この物語はフィクションであり、実在の人物及び団体とは一切関係ありません。


第5回ノギザカッション小説コンテスト
エントリーNo8

りんどうの栞
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「終点ですよ」恰幅(かっぷく)のある壮年の車掌が、僕の視界に明かりを点けた。

「そうでしたか。乗り継ぎはありますか?」

「いいえ。今日はこれが最終です」

「そうですか…ありがとう」網棚に乗せていたトランクキャリーを抱えて車両を降りた。

(一体どこまで来たのか…)

社員寮の退去手続きを済ませ、着替えと通帳と印鑑、何冊かの本をトランクに詰めて下りの鈍行に乗り込んだ。
乗り換え駅で、先延ばしにした母親への電話を、入れようとして直前でスマホを閉じた。

僕は実家に戻る電車とは違う方向の車両に乗り込んだ。

咽(む)せ返る暑さが続く八月の終わり、僕は会社を辞めた── 






改札を出ると外は真っ暗闇だった。取り敢えず遠くに見える明かりを目指して歩く。

民家の玄関で瞼の重そうな女性が言うには、駅から北に1キロほどの所に集落があり、避暑地を求めてやって来るお客向けの民宿があるそうだ。

『1本道だから迷わない』そう言われて歩いて来たがトンネルに突き当たった。
センターラインは引かれているが歩道は無い。背の低い煉瓦(れんが)づくりの入口。ぽつぽつと橙色の電灯が天井に続いて、向こうから流れて来る風は低い呻き声を連れている。

粘い唾液をいなした喉が、奇妙な音を上げていた。

ひんやりとしたトンネルの中に、トランクのキャスターの音は大きく響く。
真ん中を過ぎた辺りだろうか。声を上げていた風がぱたりと止んだ。歩みを緩めると訪れた静寂に、僕は息を潜めた。

直後に仄かに甘い気配が鼻先をなぞって行って、僕の全身に痺れが波を打つ。振り向かず、脇目を振らずに一気に出口まで早足で歩いた。

トンネルを抜けると、坂を下って行った先にまばらな明かりが灯っていた。僕は鼻から肺一杯に吸った空気を、ゆっくりとまた鼻から吐き出した。

集落の中をあてもなく歩いていると、煌々と明かりを灯した大きな洋館が目に入った。

(ここなら空いている部屋がありそうだ。事情を話して一泊させてもらおう。最悪、玄関の軒下でも構わない)僕はすがる思いで玄関扉を叩いた──






翌朝、僕はアンティーク調のテーブルの上に散らばったパンくずを人差し指でさらっていた。暖炉のある広いダイニングで1人、朝食を頬張る。
廊下から、パタパタとスリッパの音が迫って来たのに気がついた。

「おはようございます」

丸い瞳の愛らしい少女が僕を覗き込んでいた。中々喉を通らない固いパンは、僕をそそくさと頷かせた。

「ふふっ」少女が白い頬を上げて笑う。

「ここのお嬢さん?昨日は泊めてくれてありがとう」

「いえいえ、お客様がいらしたのは久しぶりなので歓迎です!」

言葉が嬉しく思えた。「おいしい朝ご飯まで…お世話になりました。宿代をお支払いしたいんだけど──」

「そんな、いただけません!それより東京からいらしたのですか?今朝、家政婦さんが教えてくれて」少女の澄んだ瞳が輝いていた。

昨夜に玄関を開けてくれたのも、ここの家政婦さんだった。この家は何人かそういった人を雇っているようだ。

「…東京が珍しいの?」

「珍しいですよ!こんっな田舎まで、お1人でいらっしゃる方は特に」

なるほど。避暑地にわざわざ1人で訪れる変わり者は、偏屈な作家か社会から逃げ出した者くらいかもしれない。

「私、高等学校を卒業したら東京の大学に行こうと思うんです。だから、東京のことが知りたくって。良かったらお話を聞かせていただけませんか?」

言葉を交わす度に少女の顔は近づいていた。
彼女の真っ直ぐに見つめた瞳と屈託のない表情に、僕は気圧された。

「…分かりました。宿代の代わりにはなりませんが、僕の話でよろしければ」

「やったぁ!嬉しい。私は、みなみと言います」

「みなみさん。素敵な名前ですね。僕は波人(なみと)と言います」

「波人さん!宜しくね!折角なのでお散歩に行きましょう。私、準備してきますね!」そう言うと、みなみさんは食堂を出て行った。

食事を下げに来た家政婦に、屋敷の主人に会いたいと伝えたが留守だった。主人は病院で医師をしているそうだ。昼には戻って来ると言うので、挨拶とお礼はその時にすることにした。



白いワンピースの洋服にツバの広いストローハット。

みなみお嬢様と僕は、屋敷のある集落を抜けて山間(やまあい)の湖に来ていた。
木陰からきらきらと太陽光線を反射する水面を眺めて2人は歩いた。湖畔には薄紫色の小さな花が絨毯のように広がっていた。

今朝、顔を洗った洗面台の上にも同じ花が挿してあった。屋敷を出る時に庭でも見たが…。

「紅姫竜胆(べにひめりんどう)と言うんです」みなみさんが薄紫の絨毯を眺めながら話してくれた。

「母がこの花を好きで…小さい頃、母と良くお散歩に来ていました。このお花は、家の庭師さんが毎年種をまいて育ててくれるんです。私も大好きなお花です…」

みなみさんの笑顔は幸せで溢れて見えた。
湖畔に揺れる紅姫竜胆は、優しい香りを僕たちに運んでくれていた。

屋敷に戻るとお昼をとっくに過ぎていた。
またすぐ仕事に戻る主人にお礼を伝えると、東京から来たことを喜んでくれて、もう一泊するように勧められた。

その日の夕食は、親子揃って僕への質問攻めだった。主人は西の山側にある病院に勤めていた。僕の話を肴(さかな)にお酒が進んでいるようだった。せめてもの宿泊のお礼に、僕は晩酌に付き合った。

みなみさんの母親は美しく優しい人で、主人と同じく医師をしていた。みなみさんの母親は、主人とは別に集落の中にある医院で小児科医をしていた。



21時を過ぎた頃、主人の晩酌相手からやっと解放された。ワインやブランデーをいただいき、元々お酒に強くない僕は夜風にあたろうと屋敷を出た。

大きな月から青白い明かりが注ぐ静かな夜であった。

西側の山へと続く坂道を上る僕には、ある思惑があった。

この辺りの地形は西にある山から集落に下り、東の湖に向かってなだらかに開けている。
月明かりに浮かんだ景色を見下ろして、のぼせた頭を夜風に冷ますというのは何とも風流ではないか。

そう思って傾斜のある道を上って行き、何度も来る曲がり目を折り返した。すっかり息が上がった頃、漸くお誂(あつら)え向きのベンチが先に見えた。

蛍光灯が照らしたベンチに向かう僕は、思わず息を潜めた。ベンチには先客がいて、それが女性だと分かったからだ。

(こんな時間、何でこんな所に──)

疑問はあったが、吸い寄せられるように近づいて声を掛けた。残った微酔(びすい)に好奇心を掻き立てられ、僕の胸は高鳴っていた。

「こんばんは」

「…こんばんは」

身を縮めて応えた彼女は、怪訝(けげん)な瞳で僕を映した。
黒く艶やかな髪が胸元まであり、よく見ると彼女はセーラー服を着ていた。想像していたよりも随分若い女性だった。

「こんな所で本を読んでいるのですか?」少女の膝の上で開かれた本が目に入った。

少女は訝(いぶか)しげに僕を睨んで、漏らした溜め息と一緒に目を逸らした。
少女の視線は、ぽつぽつと灯る集落の蛍火と青い月が溺れた湖を映していた。

「ここで読んでいると落ち着くんです。いけませんか?」

「いいえ。僕も本が好きです。ここは素敵な場所ですね…」

「そうですか」本を閉じた少女は立ち上がり、目を合わせずに軽く会釈した。

「またここに来ますか?」

「そんなことは分かりません!あなたはもう、来ないでください」

坂を上った彼女の姿は、すぐに暗闇へと消えて行った。月影が映した白肌と瞳に藍色が射す美しい少女だった。






翌朝、食事を済ませ部屋に戻る途中で、廊下の窓の外にみなみさんを見つけた。
庭から門に出て行く後ろ姿を見送っていると、僕の後ろから声が掛かった。

「時々、お1人でお出掛けになるんです」若い家政婦だった。

みなみさんは時々ふらりと出掛けて行く。早いと30分程で戻るし、遅い時には正午頃になるそうだ。
どこに行くのか詳しい場所を知る者はいないが、毎回、『竜胆峠(りんどうとうげ)』の方に向かって行くとのことだった。



竜胆峠──

集落の西にある山を抜ける道の名前だそうだ。
10年ほど前、山の中腹に長期療養患者を受け入れる医療施設が建てられた。
当時から集落には、みなみさんも血縁である星野の家系が代々医院を構えていた。そのため、山あいにできた病院の者を貶(おとし)める人は少なくなかったと言う。
だが、2年前にみなみさんの父親が病院に勤めるようになってから、そういった悪風も無くなった。むしろ、患者の回復を山あいに咲く竜胆に願って、竜胆峠と呼ぶようになったのだと言う。



昼食まで予定はない。僕はみなみさんの行く先に興味を湧かした。部屋に戻ると急いで着替えて、屋敷の玄関を飛び出した。
門を出て塀伝いに行くと、ツバの広いストローハットが見えた。

僕はお嬢様と距離を取って歩いた。

竜胆峠は予想通り、昨夜に上った山道のことだった。麓(ふもと)から見上げた山の中腹に、黒い屋根と白色の壁の建物が見えた。覗いているのは一部だが、随分と大きな病院に思えた。

みなみさんに気づかれぬよう、曲がり目を折り返す彼女の後ろ姿が1つ前の曲がり目から見えるようにペースを計る。
昨夜、セーラー服の少女と出会ったベンチのある道に入った時だった。

曲がり目で見るみなみさんの姿が忽然(こつぜん)と消えた。束の間、僕は足を止めていたが慌てて木の影に身を潜めた。

道の途中の脇から出て来たみなみさんは、道路を横切ってあのベンチに腰を掛ける。
暫く様子を窺(うかが)っていたが、一向に動き出す様子がない。痺(しび)れの切れた僕は、みなみさんに声を掛けた。

彼女は驚いていたが、直ぐに人懐こい笑顔を見せた。「波人さん、どうしてこんな所に?」

「竜胆峠に見晴しの良い場所があると聞いて、散策です。みなみさんは、ここで読書ですか?」

僕は、彼女の膝の上で肩掛け鞄に隠れる本に視線を向けた。

「えぇっと、これは…」みなみさんは俯(うつむ)き少し考えた後に顔を上げた。「波人さん、聞いてもらいたい事があります。でも、他の人には言わないとお約束をしていただけませんか?」

「…分かりました。秘密はお守りします」

陰ったみなみさんの顔は、蕾が花を開くように明るさを取り戻した。



「私には大好きな友人がいるんです。その子とはここで良くお話をしたり、本を読んだりしていました。でも、2年前に友人は病気で入院してしまって…それから会えなくなりました。
代わりに手紙のやり取りをしていて、ある日その子が『また一緒に本を読みたい』て、言ってくれたんです…」

みなみさんは言葉の終わりを滲ませた。

鞄の上に乗せた白いブックカバーの本をみなみさんは見つめる。その横顔には寂しさの絡んだ微笑みが映し出されていた。

分厚い本には桜色、み空色の2本の栞(しおり)紐が見えた。桜の方はみなみさん、み空はその友人のものだそうだ。
会うことができない友人と、どうやって本のやり取りをするか聞いた後、僕は息を呑んだ。

「…時々、病院を抜け出しているみたいなんです。本は私たちの秘密の場所に隠してあって。こっそりここで読むか、病院に持ち帰って読んでから、またその場所に戻してくれるんです。
最近は体調が良いみたいで、友人の読むペースが速くって…私も夏休みが終わる前にたくさん読まなくちゃと思って」

「2人のお気に入りの場所で同じ本を…とても素敵ですね。僕もご友人にお会いしたくなりました。病気が良くなるといいですね。その方のお名前を伺っても?」

「ありがとう!波人さん。きっと良くなります…。その子の名前は、明日香ちゃんって言います」

日方(ひかた)に揺れるみ空色の栞。
本の丁度半分にある桜色と比べてそれは、随分と終わりの方に挟んであった。
僕にはそれが、明日香さんの甲斐甲斐しさであるように思えた。





みなみさんが正午を過ぎて屋敷に戻った日、午後からは雨が降った。雨は夜になっても降り続き、僕は部屋の窓に垂れる雨粒と真っ黒な竜胆峠を眺めていた。

あくる日の夜、僕はあのベンチに向かった。みなみさんの所にお世話になって、もう4日が過ぎようとしていた。

(明日、発とう)そう思うと、もう一度だけ藍色の瞳の少女に会いたくなった。今夜も主人の晩酌に付き合って遅くなってしまったのだが…。

蛍光灯が照らすベンチに着いたが、彼女の姿はそこに無かった。ハンカチで汗を拭い腰を掛ける。
背伸びをして大きく息を吐(つ)く…どうやら今夜は満月のようだ。

ベンチから見える煌々と灯りが降りた景色に、暫く心を奪われていた。時間は21時30分…今日は会えないのかもしれない──



「何で居るんですか?」

脅かされた猫の様に、僕の体はベンチから飛び上がった。振り向いた先にはセーラー服を着た黒髪の少女。
月影を帯びた藍色の瞳は、この前にも増して神秘的に見えた。

「…『来ないで』て、言ったのに」怪訝に僕を睨み付けた後、視線を暗闇へと逸らした彼女は向きを変えて歩き出した。

「待って!本を読んで行かないんですか?」

「貴方が居ると読む気になれません!」

「大丈夫!大丈夫です。病気ならうつりません!きっと…」

慌てた僕は粗野に言葉を漏らしていた。

「…何で病気のこと…うつらないって、いい加減なこと言わないで!」

明日香さんが自分の病気のことで、僕を避けようとしていたかは分からない。ただ、僕の言葉は明日香さんを傷つけ、酷く動揺させてしまっていた。
正直を言うと病気のことは、僕にも確証が持てないことではあった。

「予防接種…していると思うんです」

「予防…?そんなの聞いたことがない!私を揶揄(からか)って面白いですか!?」

「揶揄ってません!貴方の病気のことは、…みなみさんから聞きました。
僕はみなみさんの所でお世話になっていて、昨日から屋敷で病気のことを調べていたんです。だから、適当なことを言っている訳では無いんです」

「みなみ…みなみが私のことを話したんですか…?」

「…はい。全て内緒にする約束でした。お二人の秘密を話してくれたのも、東京から来た僕に聞いておきたい大事なことがあったのだと思います」

「そう、ですか…」

「だから明日香さん、少しだけお話を聞いてくれませんか──」

僕はこの村に来た経緯を簡潔に話し、みなみさんの明日香さんへの気持ちや彼女が話してくれた将来の夢の話を伝えた。
それを明日香さんは、ベンチから見える景色を瞳に映して聞いていた。時折、目尻を拭う明日香さんの横顔は、嬉しさと寂しさが混ざり合っているように見えた。

「──だから明日香さん、病気に負けず待っていてもらえませんか?」

「…ありがとう。波人さん。それが波人さんの優しさだったとしても、私は嬉しい…」そう言って明日香さんは微笑んだ。

僕はそれ以上、明日香さんの誤解を解く言葉を持っていなかった。
ベンチに流れた涼風(すずかぜ)は、彼女が耳に掛けた長い髪から仄かな甘い匂いを運んで来た。

(…今晩はそんなに飲まなかった筈だ…)急に襲われる強い睡魔に、僕の視界は暗い帳(とばり)に覆われるのだった──





ぼんやりとした薄暗い部屋。
膝を合わせる僕の向かいに、中年の夫婦が仲睦まじい様子で並んで座っていた。
口ひげを蓄えた青年が隣で新聞を広げるせいで、僕は壁際に身を寄せて窓から見える景色を眺めていた。

なだらかな田圃と山並みが続く窓の風景。どこに向かっているかも分からないこの部屋だが、僕の気持ちは弾んでいた。

どれくらい同じ景色を見続けただろう。
不意に、遥か後方からする無数の唸(うな)り声に気がつく。
それは、あっという間に何百何千と重なり大きな雄叫びとなって押し寄せて来た。

小さな部屋は轟音を上げる地面の津波に呑み込まれ、僕の体は宙を泳ぎ出すのだった。



(…明日香ちゃん…)






慌てた体は既に起こした後だった。幸いなことに、どこも怪我はしていない…。

(夢を見ていたのか…)どうやら寝入ってしまったらしい。

握っていたハンカチで汗を拭う。
座っているベンチには僕1人…少女は帰ってしまったか…。
夜風に乗って来た異臭が鼻を衝いた…。そしてまた、あの唸り声に僕の心臓は止められる。

振り向きに見上げた竜胆峠は、黒い煙と火の粉を巻き上げていた。

(あの方向…病院が──)僕は道を駆け上がった。

少女の仏頂面(ぶっちょうづら)や髪を耳に掛ける仕草、儚げな微笑みが頭を過(よぎ)る。

(明日香さん、無事でいてくれ…)

坂を上り切ると、黒煙で塗られた建物が炎を噴き出していた。
病院の東から中央に火の手が上がり、煙は建物全体で上っていた。

敷地の庭には疎(まば)らに人が居て、泣き崩れたり立ち尽くしたりしていた。その中に明日香さんの姿は無かった。

中央の玄関からこちらへ逃げ出してくる人たちが見えて、僕は駆け寄った。患者の肩を抱える人の中に、みなみさんの父親がいるのが分かった。

「星野さん!明日香さんは…明日香さんはどこですか?」

「君は…波人君か??」

「何を言っているんです!明日香は?明日香さんはどこです!?」

「…明日香と知り合いなのか…彼女らの部屋は2階の奥なんだ。この煙で逃げ遅れているのかもしれん──」

「明日香!!」僕は煙を吐き出す玄関に向かい走った。

吹き出して来る熱風に肌が焼かれるようだった。
みなみさんの父親の叫ぶ声を振り払い、大きく息を吸い込むと建物の中へと飛び込んだ。

椅子が並ぶ待合いホールは、天井を煙が蠢(うごめ)いていた。電灯の灯りが辛うじて見えるが、薄い煙が床にも充満していて足元も見え難い。
ホールの右手の通路からは異様に明るい橙色が白い壁に揺れていた。

熱い──

外とは比べものにならない灼熱が、皮膚の水分を一気に蒸発させる。

2階に上がる階段を探す。
噎(む)せ返る煙と吐き気を催す異臭に、鼻と口をハンカチで覆って僕は西側の通路に入った。

廊下はホールよりも濃い煙に覆われている。次々に涙が漏れ出し、目を開けていられなくなった。
天井を悠々と流れる黒い煙を避ける為、僕は身を屈(かが)め這(は)うようにして進んだ。
壁を伝っていた左手が、それの終わりを教えていた。階段だ──

(急がないと…)4本の足で階段を駆け上ると通路が左右に分かれる。どちらも煙で覆われていて先が見えなかった。

「明日香さん!どこだ!明日香さん!」

叫んだ声は虚しく響いた。息を吸い込んだせいで僕は大きく噎せ返す。
嘔気(おうき)が繰り返し押し寄せ、切れかけた電灯のように視界がチカチカとして狭くなった。粘った涎(よだれ)が口からだらりと床に落ちる。
体が折れて床に蹲(うずくま)る。

(息をするのが苦しい…目が見えない…頭がぼうっとする…)

鼻水とまた涙が漏れ出してきて、僕は肺に溜めていた息を抜き目蓋を下ろした。



暗闇が、仄かに甘い花の香りを連れていた──

 

跳ね起こした体。手足は勝手に這い出していた。
なるべく呼吸ができるように頭を屈(かが)める。

暗がりの中を必死に目を凝らし、藻掻(もが)く様に進んだ。僕は、廊下の端でうつ伏せに倒れる明日香さんを見つけた。

「明日香さん!明日香さん!しっかり…」明日香さんの体を半分背負うようにして担(かつ)ぐ。

ぐったりとした明日香さんは目を瞑(つぶ)ったまま動かない。
僕の目の前に無数の粒子が弾けて、狭い視界を揺らした。奥歯を噛み締めて意識を保つ。
感覚などとっくに奪われた手足で、這いずる僕は出口を目指した──





目覚めた僕は、見覚えのある軒下を眺めていた。

(生きてる…)

ぼうっとする頭と体をゆっくり起こす。目を落とした先には、強い日差しにじりじりと焼かれる庭の砂と植木と草花が見えた。
僕はお屋敷の庭先に戻って来ていた。

「…おい、あんた大丈夫か?」

声がした方に顔を向けると、驚いた様子で老年の男性が覗き込んでいた。
ようやく働き始めた僕の脳は、赤い炎と圧(の)し掛かる黒煙を映し出す。

「明日香さんは!?僕と一緒にいた女の子はどうしました!?」

老年の男性は首を傾(かし)げる。僕はここに1人で眠っていたのだと老人は言った。
それどころか、昨夜に竜胆峠の病院で火事があったことを知らないのだそうだ。困惑する僕の隣で、老人が口を開いた。

「変な男だなぁ…アンタ、ここの人の知り合い?」

僕は屋敷に暫く泊めて貰っていることや、屋敷の主人、みなみさんのことを話した。だが、老人の顔は益々険しくなった。

「儂はここの人と昔からの知り合いじゃ。屋敷の管理をお願いされとるけど、主人は何年も前に引越して行ったよ。
その後は空き家。アンタが言う星野さんではあるけれど、ここに住んでいたのは一人暮らしの婆さんじゃて」

老人が僕を騙そうと嘘を言っているようには思えなかった。僕の頭がまだ混乱しているのだろうか。

「ご親切にありがとうございます…」呆然とする頭で屋敷を出ようと歩き始めた僕を、老人が引き留めた。

「星野さんのことを知りたかったら霊園に行ってみな。さっき、星野のお墓の場所を聞いてきた女の子がいたから…親戚なんじゃないか。あとこれ、アンタのだろ?置いて行かれちゃ困るよ」

僕のトランクキャリーだった。老人に霊園の場所を聞き、トランクは必ず取りに戻ると約束をして僕は走り出した。
屋敷を出る時、横目に見えた紅姫竜胆は可憐な姿で庭に咲いていた。



霊園は村を北に出たところの山肌にあった。
走りながら僕は記憶を巡らせたが答えは出なかった。だが、老人の言う通りその人に会えば何か分かる気がしていた。



「こんにちは」

「…こんにちは」

身を縮めてその人は応えた。
薄紫色の花に囲まれた墓碑(ぼひ)の前で、黒いワンピースを着た艶やかな髪の女性が立っていた。

「失礼ですが、ご親族の方ですか?」息を上げたまま僕は質問した。
彼女は少し驚いていたが、目の前の墓碑(ぼひ)を穏やかに見つめて話してくれた。

「ええ、曾祖母(そうそぼ)のお墓です…私が小さい時に良く可愛がってくれて…」

彼女は少しの間目蓋を下ろしてから、僕に尋ねた。

「貴方も…何かご関係が?」

「ええ…まぁ…」

答えに戸惑ったが説明はしないことにした。

「僕は波人と言います。お名前を伺っても良いですか?」

「はい。…飛鳥と言います。
祖母がつけてくれて、曾祖母と同じ名前なんです。『美しく聡明な女性になりなさい』と…」

そう言うと飛鳥さんは僕の顔を見つめていた。

瞳が藍色を帯びていて、僕の視線も暫くそこに留(とど)められた。

「波人さんと仰(おっしゃ)られるのですね…曾祖母が言っていた人と同じ名前…」飛鳥さんは嬉しそうに微笑んだ。

木陰に吹く風が、彼女が耳に掛ける髪から仄かな甘い匂いを運んで来るようだった。

「良ければ、その人のお話を聞かせてくれませんか?」

「不思議な人…」と、また微笑んで飛鳥さんは聞かせてくれた。



「私の曾祖母には、ずっと会いたい人が2人いました…その中の1人が、波人さんと言う方です。
命を救ってもらった恩人だったそうで、曾祖母が入院していた病院が火事になった時、火と煙に包まれた病院から曾祖母を助け出してくれたんです。
でも、火事の後から行方が分からなくなってしまって…」

「そうでしたか…では、もう1人の方には会えたんですか?」

僕の問い掛けに、飛鳥さんは首をゆっくり横に振った。

「…いいえ。もう1人は曾祖母の親友でした。医者を目指していて、大学で学ぶ為に東京に出ていたそうです。
そこで大きな震災にあってしまったらしく、その方も行方知れずになりました。曾祖母は医師であったその人の兄と結婚して、その後もこの村で親友の帰りを待っていました。
結局、曾祖母が逝くまでにその方と会うことは叶いませんでした…」

「そうでしたか…」

「すみません…こんなお話で。曾祖母に聞いていた方と、波人さんが何だか良く似ている気がして…」

「ありがとう…飛鳥さん。今日ここで、あなたに出会えて良かった──」

 

飛鳥さんの話を聞いて思い出したことがある。

小さい頃、両親に連れられて行った母方の実家。

古い日本家屋の裏庭に薄紫色の花が咲いていた。

その花の仄かに甘い香りは、吹き込んで来る涼風に乗って僕の鼻を優しく擽(くすぐ)っていた。


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