大晦日 ~与謝野晶子~
- 2008/12/31(Wed) -
与謝野晶子

父のいない静かな年の暮れである。
金や黒、白や緑、赤や青…いつもの年なら部屋を飾る賑やかな彩りもない。
父も一人、淋しい年の暮れを迎えていることだろう。
玄関も常のままにして掃除を施す。
それでも賀する意味ではなく、新しい年を迎えるにふさわしく家の中を整えよう。
掛け軸も色のない水墨画にする。

与謝野晶子の小色紙を出して眺める。
女性らしい繊細な筆の運びである。
知られるような意志の強い彼女とはまたひと味違う歌である。
 「露の畑 やがて曲がれば 君見えず もろこしの穂の こおろぎなきぬ」

ネズミの足は速い。脚が細かに激しく動く。
今年の世相はまさに干支の如きであった。
牛の歩はゆっくりだ。大地を踏みしめてがっちり進む。
来る年は多くの人に平安な年であって欲しいと願う。

父逝きしこの年の瀬の青き空 (田中鬼骨)

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羅漢 ~伊藤若冲~
- 2008/12/30(Tue) -
羅漢

泊した目白のホテルには2万坪という広大な日本庭園がある。
都会にありながらその喧噪を忘れさせる閑静さである。
山、川、滝、池ありの自然を巧みに取り入れた回遊式の庭は、眺めてよし、散策してもよしである。
その一角にいくつもの木訥とした愛らしい石彫を見つけた。
職人的といった技の冴えはない。彫りも平面的で粗くむしろ素人の表しに近い。
しかし、なぜかその素朴さがまた何とも言えず、惹きつけ思わず立ち止まらせる。
横に立てられた木札はこう説明している。
「『羅漢石』若冲(じゃくちゅう)作の五百羅漢にて洛南鳥羽某寺に在ったのを大正14年頃当荘に移築したものです」
若冲といえば、先日北陸の旧家で「白象と黒鯨」が発見されたばかりである。
そういえば数年も前になるが、家族を連れて京都国立博物館の「若冲展」を観に行ったのを思い出す。
「若冲の作…」と、その時観た「動植綵絵」や「群鶏図」を思い起こしながらしばし佇んだ。

庭はホテルの名にもなる膨大の数の椿や山茶花に埋め尽くされている。
歩を進め、上りきった一番高いところにあるのは三重の塔、周りの松には雪吊りがしてありそのコントラストが美しい。
小山を下る小径の至るところに珍しい山茶花をいくつも目にする。
滝の裏を通り、大黒に迎えられ再び羅漢の前へ出て周遊を終える。
鳥の鳴き声以外聞こえない静かな朝の散策であった。

耳も目もたしかに年の暮るるなり (阿部みどり女)
 
雪吊りと三重の塔

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新宿中央公園 ~年の暮れの出来事~
- 2008/12/29(Mon) -
島木赤彦阿部次郎

ホテルの窓からは新宿中央公園が目の前に見える。
昼食をとりながら何気なく眺めていると、そこにホームレスの人々の列が徐々に長く伸びていく。
いくつもの段ボールの箱が次々に運び込まれる。にわかに山が築かれ、堆くなっていく。
慈善団体の炊き出しなのだろうと、ダージリンの紅茶を口に運びながら目をそこに置いて見続ける。
ふと、車から降りた数人の集団が歩を進め近寄っていく。
列の人たちはいかにも待っていたかのように拍手したり手を大きく振っている。
灰色のトレーニングスーツを着た大柄な人物がゆっくりと前を歩き、その周りをカメラが取り巻く。
後ろ姿からは誰だか見当がつかないが、格闘技系の著名人であることが読み取れる。
人々の列が前へ前へと動き始め、何やら受け取り、別の場所へ移動を始める。それぞれの手には白いカップが見える。
ほどなくして、くだんの人が戻ってくる。取り巻きの中を通る彼の人の顔が大きくなってその輪郭がはっきりする。
「あっ」と思わず声が出る。長い赤のマフラーにあごの突き出た大きな顔、まぎれもなくアントニオ猪木その人だった。
見送る人々は深々といつまでも頭を下げていた。
翌朝の新聞には「『元気持て』闘魂の炊き出し」という見出しで、食事を配る彼の写真とともに「猪木さんに500人の行列」という活字が載っていた。
記事によると、猪木氏の炊き出しは8年前から続いているという。

私は島木赤彦、阿部次郎、木村素衛の古い本を手に取り、ぱらぱらとめくりのんびりとした時間を過ごす。
いずれも大正から昭和初期の発行本である。その中から赤彦の「歌道小見」を読んだ。
特に大隈言道の歌に関して、赤彦が佐佐木信綱ときわめて強い口調でやり合っている一文はとても興味深いものがあった。
明日は阿部の「美学」をひもとくことにしよう。

  我身こそ何とも思はね妻子らの憂してふなべに憂きこの世かな (大隈言道)
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石田徹也~僕たちの自画像展~
- 2008/12/28(Sun) -
ishida.jpg

中村橋駅を出て左手に進むと目指す練馬区立美術館があった。駅から歩いて2~3分、着いたのは3時少しをまわっていた。
28日が最終日という「石田徹也ー僕たちの自画像-展」をどうしても観たくて出かけたのである。
中に入るとさほど大きくない館内は大勢の人であふれていた。若い男女が多い。あるいは中年の女性も目だつ。

展示された70点の作品に登場するのはどれも同じ顔をした若者である。
髪は短髪で時にはスーツにネクタイ、時には裸で、彼はいつも何かを手にしたり何かに変身したりして画面に現れる。
視線の定まらないような若者の表情に笑顔はない。
むしろ多くは憂いに満ち、悲哀や苦悩の目と、声に出すことの無い言葉を飲み込んだ口が象徴的に描かれる。
絵画が単なる造形模写でないことを、心の深層を汲み上げた内なる表現であることを彼の絵は思い知らせる。
彼にとっては絵がコミュニュケーションの手段であり、一冊の思いをまとめた文章であったのだろう。
それぞれの絵の中に込められたメッセージ、あるいは視覚としての言葉を我々はそれぞれの社会経験をふまえ感じ取る。
重く暗く悲しくそして切ない絵、まるで混沌とした今の世相をまさに訴えかけているかのように。
鑑賞しながら気がついたのは、多くの展覧会に見られるような館内での話し声が聞こえないことだ。
それは観る者にある種の同時性をもった共感を与え、現下の社会状況を鋭く抉りだした若者への共鳴を意味しているのではないか。
ここで私はこの展覧会が石田の「僕の自画像展」でなく「僕たちの自画像展」という副題が付いていることにようやく気がついた。
僕たちというのは、そう、今ここにいる僕たちなんだと。

会場の一番最後、出口近くに掲げられていたのは、「文字」というタイトルの作品。
あのミイラの棺のように、眠りにつく自分の中にいくつもの自分が存在する姿を描き出す。
そして最後の一人だけが起き上がり、透明の姿で描かれる。
大きな絆創膏が貼られた左手には黒い手帳、右手には黒のボールペン。
まるで自らのこの世からの別れを暗示するかのような絵である。
享年31歳。

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ゼラニウム ~仕事納め~
- 2008/12/27(Sat) -
八重咲きゼラニウム

雪が降った。
仕事が終わった。
忘年会があった。
寒い日だった。
年の終わりというものは、うきうきと心を躍らせるものがある。
それは、過ぎ去りし日々の多くの出来事への回想であり、述懐であり、惜別であったりする。
また、それは新しい年へ期待であったり、新たな決意へ向けての自己確認であったりする。
私も自分自身の『生きる中味』のリニューアルを心がけよう。

薔薇の花のような、淡く色を染めた八重のゼラニウムが咲く。
花には年の瀬もなく、花はたんたんとしている。

掛け替へて暦めでたし用納 (佐藤眉峰)

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サザンカ (A sasanqua)
- 2008/12/26(Fri) -
白山茶花

木の間の日山茶花をつづけけり  (高野素十)
 
木漏れ日の中で、風の流れが八重の花を光に当て、八重の花を翳らせる。
花が少なくなった庭に、まるで帰り花のように咲く山茶花。
わびしくもあり、寂しさの顔にも見えたりする。
3輪剪って、彫刻像の前に置く。

ふと「山茶花はなぜサザンカか」という外山滋比古の本を思いだした。
それによると次のようにある。
古くはサンサカ、あるいはサンザカであったらしい。
それが「変化」「転じて」サザンカになった。
これは「音位転倒(メタセシス)」の例だと考えられる。
そして山茶花という名自体が誤りだと次のようにも書かれてある。
「山茶花は実はつばきの花なれども、古来、誤用し来れり」(『言泉』)
「本来は茶梅と書くのが正しい」
だんだんややこしくなってきた。

「山茶花」と書けばヤマチャカ、ヤマチャバナ、サンチャカ…普通にはサザンカとは読めない。
これがまた日本語の楽しく妙味のあるところなのだろう。

また逢へた山茶花も咲いてゐる (種田山頭火)

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ゼラニウム ~失敗に学べと~
- 2008/12/25(Thu) -
西日のゼラニウム

 マリナーズのイチローが、出身地の愛知県豊山町で開かれた「第12回イチロー杯軟式野球大会」の開会式に出席し「失敗から学ぼう」と野球少年らに語りかけ激励した。
彼は日米通算3000安打を達成したシーズンを振り返り、こう述べている。
「この記録の陰には6000回以上の失敗があった。失敗には原因があって学ぶことが多く、失敗を重ねることも意味がある」と。
-中日新聞12/24より-

彼はプロになっての1年目は24安打、打率253、2年目は12安打、打率188だった。
2年合わせて36本しかヒットを打てなかった。
それが3年目にいきなり210安打、打率385を記録し、それ以来15年連続3割を続けている。
打席の三分の二の失敗があり、その失敗に学んだ残りの三分の一の結果が3000安打だと彼は言う。

失敗とは、次に失敗しないことを学ぶための大事な学習教材なのである。
失敗したからこそ、その原因を知り改善の工夫を試み新たなチャレンジが生まれる。
失敗の経験は、おなじ過ちを繰り返さないことへの体験指標といえる。
人は多くの失敗を積み重ね、多くの過ちを繰り返す。
しかしそれらは、よりよい結果を導くための代価だと考えることにしよう。
何もしなくては何も生まれない。失敗を恐れてはどんな結果も生まれない。
何もしない後悔より、何かした後悔の方がいいのである。
求道士イチローの言葉に触れながら「失敗学」を考えた日であった。

西陽を受けたゼラニウムが光と影のコントラストを映し出す年の暮れである。

叱らるゝ人うらやましとしの暮れ (小林一茶)
 
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クリスマスローズ (ニゲル パウロ) 
- 2008/12/24(Wed) -
クリスマスローズパウロ

  クリスマスローズ気難しく優しく (後藤比奈夫)

クリスマスローズの花言葉を見ると「私の不安を救いたまえ」とある。
荒俣 宏によると
「アダムとイブが楽園を追われた時、きたるべき罪の浄化の象徴として持ち出したのがこの花であり、
以来西洋においては,この花を『楽園の思い出』の象徴とする美意識が生まれた」のだと解説される。

今日はクリスマスイブ、街は華やいだ灯りと軽快な音楽で賑わう人々の心を一層煽る。
楽しげな会話、ロマンチックなムード、温かな団欒、人々は夢心地の時に包まれる。
それぞれに、それぞれのイベントとして個々の思いの中で盛り上がることだろう。
私は音楽を聴きながら静かな夜を過ごすことにする。やはりイブの夜には『くるみ割り人形』がいいか。

時に合わせ、自らの1年を振り返れば、「ああ、あれもこれも、ああすれば、こうすれば」との反省。
心に背負う重い荷物と汚れたガラスは早々に片付け、軽くクリヤーにすることだ。
残された僅かな今年の日の中で、体も心もできるだけ大掃除をしよう。

不況解雇により住む場所を失う人々がいる悲しい年の暮れ、「多くの人々の不安を救いたまえ」と願う。

吾が罪をよく知ってをりクリスマス (上野章子)
 
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紫陽花・野菊~冬の花のあはれ~
- 2008/12/23(Tue) -
冬野菊

   霜にさめて跡や枯野の花の夢  (宗長)

色を捨てた冬の花々、そんな姿にしみじみとしたもののあはれを見つける。
生きとし生けるもののはかなさ、色在るものの形を移ろうおもしろみ。
よろづのものの今はすでに過去になり、過去がまた過去を連ねて今の姿となる。

それはまた、人の心の跡にも似る。
今の自分の顔は過去の自分が作った顔であり、今の自分は過去を生きた自分の延長線上にあるのだ。

冬の紫陽花と野菊を見ながら少し感傷的になった。

折節の移りかはるこそ、ものごとにあはれなれ  (吉田兼好『徒然草十九段』)

枯紫陽花
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リュウノヒゲ・ジャノヒゲ(snake’s beard・lily‐turf)
- 2008/12/22(Mon) -
リュウノヒゲ

誰がための深き瑠璃いろ竜の玉 (鈴木二郎)

「竜の髭」の実、いや、正しくは種子であるという。
英名でもsnake’s beard(蛇のひげ)とそのままである。
またlily‐turf(芝百合)とあるようにユリ科の植物だというのもちょっとおどろきだ。
浴びる日射しを艶々と照り返すその名も竜の玉。
もし真珠に瑠璃色があるとしたら、こんな感じなのかと思う。
寒々とした季節に実を結ぶというのもえも言われぬゆかしさを感じる。
かぐや姫が求婚者に探し求めさせたものは果たしてこんなものだったのではないかと思ったりする。
辺りが枯れ草色に染まる中、このリュウノヒゲは細葉を青々として叢生する。

昨日は冬至だった。習わしに従いカボチャを食べた。
木に残っていた柚子を採って湯船に入れた。
いい香りがした。揺れて広がるのをそばに寄せては手に取り何度も香りをかいだ。
年の暮れを恙なく過ごせるいい伝えに、ゆったりと風呂につかった。
温まった。

  風雲の少しく遊ぶ冬至かな (石田波郷)  

柚子湯
 
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凍てつく朝 ~薔薇と菊と~
- 2008/12/21(Sun) -
霜を受ける薔薇

昨朝は氷点下3.2度、今月一番の冷え込みだったかも知れない。
木々を集め火を起こしながら、庭や畑の片付けをする。
分厚い防寒具、ネックウオーマー、深めの帽子、冬用の長靴で身を包む。
重ねて履いた靴下を通してからも、土の冷えが足に伝わる。
厚手の手袋をしていても作業をする手はすぐに悲鳴を上げる。
数分おきに焚き火にあたっては作業をするを繰り返す。
ジョウビタキはそんな私を応援するかのように近くの枝で声を出す。
ようやく、山脈(なみ)を越した朝陽が庭に届く。
一休みしてぐるりを歩く。
花姿を僅かに残すのは薔薇と菊。
後はセピアの写真のような世界。
近寄ると、薔薇も菊も霜を纏っている。
しっかり着込んだ私と霜を黙って受ける薔薇と菊と、そしてジョウビタキ。
見上げる青空には一本の飛行機雲が西に向かって伸びていた。

ほゝつゝむ手の冷たさにうづくまる (高木晴子)
 
霜寒菊

霜の葉
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干し柿 ~白い粉の恵をいただきて~
- 2008/12/20(Sat) -
干し柿

爽やかな秋の日に柿を捥り
皮むき干し色簾にしての一月余
軒より降ろし手揉み繰り返せば
すでに白粉(こ)を吹き、頃もよし
何思わず考えず、ひたすらに刃を回す手の渋に染まりし灯りの下
今ここに自然の甘き恵をいただけるありがたさとなりぬ
何かを為せば何かと成るも何も為さねば何とも成らぬ
見るだけ言うだけにては何にも至らず
思いを凝らし手を掛け地道な歩を進ませばこそ成るものなり

干柿の金殿玉楼といふべけれ (山口青邨)
 
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ゼラニウム(トムガール)~今が本番~
- 2008/12/19(Fri) -
トムガール

先日の会で東井義雄氏のことが取り上げられた。久々に聞く名である。
私がはじめてその名を耳にしたのは20年以上も前のことだったような気がする。
そしてそこに散りばめられた言葉の中に「ある種の本質」を見つけた思いに駆られ、その著を求めた。
「生きる」「育てる」「教える」「学ぶ」「人生」…それらにかかわる明瞭な道標、そのいくつかは心の中にスタンプされている。

  今が本番、今日が本番、今年こそが本番。
  明日がある、明後日があると思っているうちには何もありはしない。
  肝心な今さえないんだから。 (東井義雄)

明るいイルミネーションに飾られた師走の賑わい、軽やかなメロディーが街中に溢れる。
そんな華やいだ周りの空気の中で、ちょっと立ち止まって「今」を見つめる。
「あとみよそわか」為すべきは首尾良く為されたのかと。
肝心な今を見失わないように今この時、今日(こんにち)を地に足を付けて過ごそう。

射し込む日射しを背中に受けて咲く赤紫のゼラニウム、花たちはまさに今を生きている。

日脚伸ぶどこかゆるみし心あり (稲畑汀子)
 
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クレマチス(ドクターラッペル)~冬は冬の相で~
- 2008/12/18(Thu) -
冬のクレマチスドクターラッペル

庭には花びらに色を持った花がめっきり少なくなった。
そのかわりに目に付くのは、綿毛のようなものたち。
あるいは赤や黒い実に形を変えたもの。
彼の時の瑞々しい鮮やかな容貌とは結びつかぬほどの彩りを失った終末の姿。
ひたすらに静かに年明けるを待つこの時期ならではの哀れとわびさびの造形がそこにはある。
白に縁取られた赤紫色のクレマチス(ドクターラッペル)の今はやわらかな羽毛を付けたかざぐるまのように。
それはそれでまた、心を惹きつける。
そんな花たちの後の姿が好きで、冬の部屋に置いたりする。
アジサイのライムライト、蓮の実、シンビジウム、儚い月下美人もとさまざまなものを。
この風車もコレクションの一つに加えよう。

草も木も心のまゝに枯るゝま (高浜虚子)

花後の姿


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シャコバサボテン ~花後の姿を遊ぶ~
- 2008/12/17(Wed) -
シャコバサボテン

シャコバサボテンの花が一つ一つとしおれ、縮みその美しき時を失っていく。
それらを捻るように摘みとっていく。残る花は僅か二つ。
透き通るほどに薄くやわらかな白淡色の花びら。
絹糸のような艶やかな雄蘂に囲まれてゆるやかに伸びるビビットマジェンタの雌蕊。
トリミングされた絵はまるで空飛ぶ鳥のよう。
その優美な姿は年の瀬とともにシャコの姿だけに変わっていく。
摘み取った花をフクロウのそばに並べる。
こうして私は花後の姿を部屋の中で時々楽しむ。
ヒオウギ、君子蘭、紫陽花、月下美人…色を失ったその姿も味深くいとおしい。

梟の視界は深紅かもしれぬ (杉良介)

フクロウとシャコバサボテン

 
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ナンテン(紅白の南天)~牛こそよ転じてくれまし~
- 2008/12/16(Tue) -
南天

清水寺の貫首が太筆で一気に書き上げた漢字は「変」であった。
今年の世相を象徴的に表した肯ける一文字である。
予想も付かない通り魔的殺人の数々、偽造偽装、事故米に毒物混入と理不尽なできごとが次々に起こる。
この暮れに来て、内定取り消し、人員削減、解雇解雇の文字が躍る。
世界をリードする一流企業ですら赤字決算、生産縮小、工場閉鎖のマイナス発表のオンパレードだ。
あの夏の日、北島の活躍で楽しく盛り上がった北京五輪の話題も霞むほどである。
日本の社会は経済は政治はやはり「変」になった感は否めない。
「変」の意味に、かわる、あらたまる、うつりかわる、いじょうのできごと、みだれ、わざわい、ふしぎ、うごく…とある。
変心、変色、変乱、変貌、変相、変事、変造、変格、変動、変異、変節、変説…辞書のすべての言葉が実際のできごとになる。
来年こそはこんな世の中を「変革」して欲しいものである。

   「牛」   高村光太郎
牛はのろのろ歩く 牛は野でも山でも川でも  自分の行きたいところへはまっすぐに行く
牛はただでは飛ばない、ただでは躍らない がちり、がちりと牛は砂を掘り、土を掘り、石をはね跳ばし
やっぱり牛はのろのろ歩く 牛は急ぐことをしない 牛は力いっぱい地面を頼って行く
自分を乗せている自然の力を信じ切って行く ひとあし、ひとあし 牛は自分の道を味わっていく
踏み出す足は必然だ 上の空のことではない 是でも非でも 出さないではいられない足を出す
出したら最後 牛はあとへは帰らない (略)                  
牛はがむしゃらではない けれどもかなりがむしゃらだ (略)
牛は非道をしない 牛はただ為たい事をする 自然に為たくなる事をする 牛は判断をしない けれども牛は正直だ
牛は為たくなって為た事に後悔をしない(略)
何処までも歩く 自然を信じ切って 自然に身を任して
けれども牛は馬鹿に敏感だ 三里さきのけだものの声をききわける 最善最美を直覚する
未来を明らかに予感する 見よ 牛の眼は叡智にかがやく その眼は自然の形と魂とを一緒に見ぬく
形のおもちゃを喜ばない 魂の影に魅せられない 
うるほひのあるやさしい牛の眼 まつ毛の長い黒眼がちの牛の眼 永遠を日常によび生かす牛の眼 牛の眼は聖者の目だ
牛は自然をその通りにぢっと見る 見つめる きょろきょろときょろつかない 眼に角も立てない
牛が自然を見る事は牛が自分を見る事だ 外を見ると一緒に内が見え 内を見ると一緒に外が見える
これは牛にとっての努力ぢゃない 牛にとっての当然だ そしてやっぱり牛はのろのろと歩く

この後“牛”の詩は長々と続いていく 115行の長い詩である。

紅白の南天が仲良く実を付けている。この世の「難を転じて」くれよ。

白南天
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ジョウビタキ ~日の出と如心~
- 2008/12/15(Mon) -
松田光司「如心」

近くに彫刻公園がある。
なだらかな丘陵の正面には南アルプスが屏風のように横に広がる。
いくつかの作品はその山々に対峙するかのように据えられている。
日の出にはだいぶ早いがそこへ出かけてみた。
コートを羽織った自分が黒い影となる公園でじっと遙かを見つめる。
徐々に山なみのシルエットに明みがさしはじめる。
誰一人いないしじまの時間は刻まれ、そして若き裸体に曙光が届く。
頬と手は冷え切った空気に凍えこわばる。いや、彼女はもっと寒いのだ。
一刻一刻と彼女を包む光が大きくなる。ああ、美しい。

こんな田舎のはずれに「彫刻公園を作ろう」などという発想を誰がしたのだろうか。
彼女らは初めからここが自分の居場所として作られたかのようにあまりにもその風景に馴染んでいる。
山と彫刻が織りなすコラボレーション、このような素晴らしい光景を味わわせてくれた発想の彼の人に感謝したい。

シルエットの彼女は「如心」という名である。(29歳松田公司作)
作品の解説には「静かな想いを馳せる乙女は永遠に開花を待つ蕾のふくよかさを漂わせて、
躍動する若き生命に、未来を切り拓いていく勇気と希望を託している」とある。
説明は説明として、私は乙女の美しいラインとこうごうしい朝陽に満たされて帰途につく。
家に戻るとジョウビタキが電線の上で迎えてくれた。

寒暁を覚めての息の快し (篠田悌二郎)
 
じょうびたき
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チョロギ ~冬支度の畑仕事~
- 2008/12/14(Sun) -
ちょろぎ

すべての大根を抜いた。
ほうれん草も、カブも京菜も芽キャベツもブロッコリーも抜いた。
大型ダンプで耕土を運び入れて、新しい耕作環境にするからである。
畑全体を20センチほどかさ上げする予定だ。
ニラやアシタバ、パセリなどの宿根草は別の場所に移動して、整地が済むまで待機してもらう。
おせちの色物、ニョロニョロくねくねのチョロギも出てくる。
夏に赤紫の可愛い花を咲かせるシソ科の多根草で、毎年この愉快な姿に出会えるのが楽しい。
ジョウビタキがすぐ側にやってきてはそんな私の働く姿を励ましてくれる。
彼はいい奴だ。彼とはもう20年ほどなる長い付き合いだ。
しばらくは淋しくなる畑だが、朝早くからやって来る彼のおしゃべりを春まで楽しもう。

 大根(だいこ)引き大根(だいこ)で道を教へけり (一茶)

畑で農作業をする人に訪ねる家を聞く。
ちょうど抜いたばかりの大根を手にその老婦は(私にはそう見える)腰を上げて行く道を指し示す。
のどかな暮れの一こまが浮かぶ一茶の句である。
しかし、これは単なる情景を歌ったものではないと教わったことがある。
一茶が様々な葛藤で悩み苦労していた時、故郷の知人が今後進むべき道を教えてくれたという。
そしてその教えの中にひとつの明かりが自分で見つけられた時に詠んだ句であると。
大根を抜くとき私はこの句をいつも思い出す。

ジョウビタキ


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ゼラニウム ~酔い顔で夜咲く花を見る~
- 2008/12/13(Sat) -
八重ザキゼラニウム

少し早いが職場の忘年会があった。
同じ仕事仲間による少人数だけのものだ。
久しぶりに飲む生ビールが口を滑らかにする。
気心知れた者同士、楽しい会話が盛り上がる中で時間はあっという間に過ぎる。
帰る夜空にはコンパスで描いたようなまん丸い月が浮かんでいた。
家に着いた頃には時計の針はいつもの寝る時間をだいぶ廻っていた。
部屋ではいくつものゼラニウムが酔い眼の私を迎えてくれる。
夜のしじまでシャッターを押す。
その花が昼間の顔とひと味違うように見えるのは脳髄にしみ込んだアルコールのせいか。

仕事もうまくはかどり、今期の提出資料やまとめなどもすべて終わって、仕事も一段落である。
今年は余裕を持って1年の締めくくりができそうである。

  年忘れ乱に至らず終りけり (大橋櫻玻子)
   
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バラ(赤いミニ薔薇) ~いっぽ、一歩~
- 2008/12/12(Fri) -
赤いミニ薔薇

あと3週間もすれば、お宮にはたくさんのネズミが牛を引いてご挨拶にやって来る。
時は誰の頭の上にも同じように無表情にして確実に針を刻んでいく。
同じ1年を、同じ月を、同じ時間を与えられた中で何を成し遂げられたのだろうか。
私の時は大きなかたまりとして残ったのか、消え失せそうな点線としてかろうじて見えるのか。
未だやり残したものはないのか、じっくりレ点を入れながら考えてみよう。

光太郎は歌う
 「僕の前に道はない 僕の後ろに道はできる」と
そうだ前に向かっていてさえいれば、積み重ねられた時間はそれだけで後ろに道を作ってくれるはず。
いっぽ、一歩、いっぽ、一歩。

赤い一輪のミニバラが目の前にある。
もう2週間ほども散らずに咲き続けているのだが。
冬故のことなのだろうか。

よき言葉聴きし如くに冬薔薇 (後藤夜半)
 
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カゲツ(金のなる木) 
- 2008/12/11(Thu) -
金のなる木

最近教わった正受(しょうじゅ)老人の言葉である。
  今一日暮す時の勤めを励み努むべし。
  如何程の苦しみにても、一日と思へば堪え易し。
  楽しみも亦、一日と思へば耽ることもあるまじ。
  一日一日と勤むれば、百年千年も勤め易し。
  一大事と申すは今日只今の心也。
  それを疎かにして翌日あることなし。

松代藩主真田信之の庶子として生まれ十九歳で出家したとの紹介があるが、師の詳しいことはよく知らない。。
「僧は三衣と一鉢あれば足りる」と、半僧半農として「一日暮し」を実践したとある。
欲すればなお欲すという、満たさればなおも足らざるというのは世の人の常。
今一日、今一時、今この場所の勤めを励み、努めよう。

5弁5蕊の可愛い花が咲いている。「金のなる木」という。
私は「豊かな心のなる木」があればいい。
透き通るような冬の空には寒々と冴ゆる月が浮かんでいた。

よき夜ほど氷るなりけり冬の月 (浪化)
 
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ゼラニウム ~白があるから赤が冴える~
- 2008/12/10(Wed) -
ゼラニウム

最近重厚長大な本が読めなくなった。
手にするのは短い章に区切られ、どこからでも読んでもいいようなものばかりである。
そんな中に人の生き方に触れる言葉を見つけては書き留めておく。

「只今が其時、其時が只今」とは山本常朝の言葉である。
其の時々の一時、一瞬一瞬が大事であり、其の時々が自分の未来の道につながっていると説く。
小さく些細なことであっても、其の時々のなすべき事や判断を疎かにしてはならないと諭す。
人は誰でも明日を夢見、将来に希望を抱く。
しかし、「明日とは、実は今日という一日の中にある」(亀井勝一郎)のだ。
今立つ自らの足下を正視し、「只今の其時、其時の只今」を着実に過ごしていくことが求められる。
「今日まで自分を導いてきた力は、明日も自分を導いてくれるだろう」(島崎藤村)

師走も旬日を過ぎるというのに昨夜は雨が降った。おかげで温かい朝である。
今日の空の青はなおさらその色を深めることだろう。
部屋では白いホシザキゼラニウムが溢れるように咲く。
それを背景として赤いゼラニウムも一つ二つと控えめに。

冬空の青極まれば音の無き (沢木欣一)
 
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アイビーゼラニウム ~窓を通す日射しの中で~
- 2008/12/09(Tue) -
アイビーゼラニウム1

「不惜身命 惜身命」とは道元の言葉である。
青山俊董師はその言葉を次のように我々に説く。
「前後を裁断して今日、只今、今ここをなせ。法のために道のためにいのちを惜しんではならない。
しかしまた法のために道のためにいのちを惜しまなければならない。
いつどこにあってもこのところ、是道場なれば、前後を裁断して今日、只今、今ここをなせ。
いつどこにあってもここが勝負どころである。今の途中途中の一歩が自分自身の道場である。
過ぎ去れを追うことなかれ、未だ来たざるを思うことなけれ。
過去そは過ぎし、未来そはまだ来たらず。今日、まさになすべきことをなされ。
誰か、明日死のあることを知れ」
師走のピッチが速くなってきた。仕事納めに合わせて慌ただしさが増す。
こんな時こそ、「過去そは過ぎし、未来そはまだ来たらず。今日、まさになすべきことをなされ」ということだろう。

ジョンレノンの「イマジン」を聴く。
彼が憧れていた瞑想の世界、インドではテロで多くの人々が亡くなった。
窓から射し込む日射しがアイビーゼラニウムを温かく包む。
そんな日射しのようにぽかぽかな気持ちを持てるようになろう。
 
冬晴をすひたきかなや精一杯 (川端茅舎)
 
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空の青さをみつめていると ~山を見る~
- 2008/12/08(Mon) -
仙丈ヶ岳4   【仙丈ヶ岳】

かなり冷え込んだ朝だった。霜柱が10センチほど伸びていた。
雲一つ無い真っ青な空だった。山を見に行こう。
5分ほど車を走らせ、私の展望スポットに行った。
東に南アルプス、仙丈、間ノ、農鳥、塩見、荒川など赤石山脈の高峰が連なって見える。
天竜川を挟んで西に中央アルプス、空木、南駒、越百などの木曽山脈の南部が見える。   
アイスクリームをスプーンすくったようなくぼみは空木のカールだ。
ほんの僅かな時間の目の癒し。雄大な自然がそこにある。
家へ戻って、車のタイヤを冬用に替える。

 -空の青さをみつめていると-58(谷川俊太郎) 

遠さの故に 山は山になることができる
近くを見つめすぎると 山は私に似てしまう
広い風景は人を立ち止まらせる
その時人は自らをかこむ夥しい遠さに気づく
それらはいつも 人を人にしている遠さなのだ
だが人は自らの中に ひとつの遠さをもつ
そのために人は憧れ続ける……
いつか人はあらゆる遠さに犯された場所に過ぎぬ
もはや見られることもなく
その時人は風景になる

塩見  【塩見岳】

中央アルプス空木  【中央アルプス南部】


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ハイビスカス(レッドスター)~暖の中でみだれ髪~
- 2008/12/07(Sun) -
レッドスター

   乳ぶさおさへ神秘のとばりそとけりぬここなる花の紅ぞ濃き

山から雪が飛んできた。あの雪虫を思わせるふわふわと漂うような雪だった。地面はうっすらと白くなった。
雪はやんだが、風は未だ強く冷たい。いよいよ白い季(とき)と生活をともにしなくてはならない。
暖房の機械音が休み無く響く温かい部屋の中で、取り入れた南の地の花々も色香を広げる。
赤いハイビスカスはいくつもの蕾を持っている。この先いつまで咲いてくれるやら。

今日は与謝野晶子の生誕の日、寒々としたこんな日には「みだれ髪」など読んでみよう。
   夜の帳にささめき尽きし星の今を下界の人の鬢のほつれよ
  今はゆかむさらばと云ひし夜の神の御裾さはりてわが髪ぬれぬ
明治期にあって彼女は大胆にも、大らかに情愛の世界を歌う。しかも官能的に艶めかしくそしてダイレクトに。
面と向かって、口にすることは憚れても歌の世界なら心の声を詠むことができる。
それは、昔万葉の世から許され受け継がれてきた文字文化の世界。
読み深めれば、その直接的な言い回しに少しドキドキ顔も赤らむ。
彼女は言う。「歌は歌です。誠の心を歌わぬ歌に、何の値打ちがあるでしょう」と

   やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君

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ガイラルディア ~出会いは宝~
- 2008/12/06(Sat) -
ガイラルディア

忙しかった仕事も一段落して帰途につくと、冬には珍しい雷を伴った激しい雨も上がり、雲間からは澄んだ月が見え隠れしていた。
空に漂う塵を洗い落としてくれた雨が夜の月を美しく見せてくれる。
クリアな輪郭の月を見ながら、自然にあるすべては連鎖しているのだとあらためて思う。

『出会いは宝である。何に出会うかによって人生もかわる。月そのものは光はないが、太陽によって光り輝く。良き師に出会い、良き教えに出会うことによって我が非に気づき、もう一人の自分に気づく』(青山俊董)

人は自分で何もかもができたような錯覚におちいったりするが、輝く月には太陽の存在が常にあるように、自分一人の力では何も成し遂げられないことの方が多いのである。
こうして、自分は自分一人で存在するのでなく、他によって生かされているという視座で周りを見、見渡し見つめる。
そしてじっくりと思考を巡らせ、皮相な現象にとらわれることなく、しっかりと揺らぐことのない根っこの部分を見つけられる自分でありたい。

ガイラルディアを切って花瓶に挿した。花瓶の中でも長くその姿を保ってくれるありがたい花である。
夏の盛りからずっと咲き続けたこの花も、冬を迎え花数が少なくなり一つ一つの花の大きさもひとまわり小さくなった。
切り取れば、部屋に明るく温かな色合いをもたらしてくれる。

  ぬばたまの夜渡る月のさやけくはよく見てましを君が姿を (万葉集12巻3007 作者不詳)
 
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カリン(花梨・榠樝)
- 2008/12/05(Fri) -
かりん

2本の花梨の木がある。それぞれに多くの実を付ける。
枝に刺さるようにして大きな実がなる様は見るだけでも楽しい。
洋梨のような形から、やわらかで甘い果実を思わせるが実際の所、果肉は硬く生食できない。
こんなにたくさんなってよりどりみどりなのに、あのヒヨドリさえ寄りつかないのだからその堅さは鳥たちにとっては手強いのだろう。
私はそれらを収穫するということは希で、熟して地に落ちてきたのを拾うのが常である。
落下したとしてもほとんど傷がつかないので、労せずして手にすることができる。
漢方では咳止めに効があることは古くから知られ、まめな人は砂糖漬や果実酒にするというが、その手間も掛けたことがない。
ファミリードラッグなどで、子ども向けにのど飴やシロップなどにも加工されているのをよく見かける。
どんな成分が含まれているかはよく知らないが、何か喉にいい薬効があることだけは違いない。
その実から放たれる芳香は何とも言えない。しかもその香は長く保たれる。
手に取ると艶々した果皮からその香はすぐに手にも移り、手がいい香に包まれる。
そんなカリンを私はいつも車に一つ入れておく。ドアを開けた途端に鼻にその香が広がるのが嬉しい。
集めたその多くは籠に入れて家の至る所に置く。自然の芳香剤だ。
そこから一つ二つ取って徐々に風呂に入れる。それはまた湯船に浮かべて自然の入浴剤となる。
隣家の奥様が砂糖漬けの仕方を丁寧に教えてくださったが、今年もその仕事への時間はできそうもない。

手離してなほ掌に残りかりんの香 (麻生孝雄)

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バラ(冬薔薇) ~未来は今にありて~
- 2008/12/04(Thu) -
黄色い薔薇

  過去が咲いている今、未来のつぼみで一杯な今 (陶芸家 河合次郎)

愛知専門尼僧堂堂長、青山俊董師の著がいくつか手元にある。
師の講話を何年も続けてお聞きし、そのたびに耳に届く言葉の深さに心を洗われ磨かれた思いで帰途につく。
先の河合の言葉もその中に見つけたものである。
私のノートに、2002年12月2日の日付で師の言葉を書き留めたのがある。
『  美しき人 すなわちそれは人格のうるわしである
女あり 二人ゆく
若きはうるわし
老いたるは なおうるわし (ホイットマン)
シワがなくて美しいのでも白髪がなくて美しいのでもない。誰の人生にも山坂がある。その山坂をどう越えてきたか、その生き方が、シワや白髪に光る。うちからにじみ出る人格の輝き、それが「老いたるはなおうるわし」なのである。』
『人の目はごまかすことはできても、刻々をどう生きてきたかという事実は一点のごまかしもなく私の人格を刻み続ける。それぞれの歳月の生き方の総決算が今の私の生き方であり、同時にそれが明日を開いていく姿でもある』
時折、その著を開くと、自分の中の時間がゆったり流れていくのを感じる。

黄色い薔薇がある。 
過去の繋がりで今咲き、未来に咲くつぼみが今ある。
冬薔薇を見つつ思う。師走の今を心穏やかに一つ一つ成し遂げていこうと。

冬ばらの蕾の日数重ねをり (星野立子)
 
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サクラ(大阪冬桜) ~凍む日もやわらかく~
- 2008/12/03(Wed) -
大阪冬桜

日本画家、東山魁夷はその著の中で次のように述べている。
「絵になる場所を探すという気持ちを棄ててただ無心に眺めていると、相手の自然の 方から私を描いてくれとささやきかけているような風景に出会う。その何でもない情景が私の心をとらえ、私の足を止めさせ、私のスケッチブックを開かせる。この一見、単純な出会いは偶然なのだろうか。風景との無言の対話の中に、静かに自己の存在を 確かめながら、こつこつと歩いていくという生き方は、今の複雑な高速度の時代の歩みからは外れているかもしれない。しかし美を素朴な生の感動として見る単純な心を、私は失いたくない。」   『風景との対話』より
-美を素朴な生の感動として見る単純な心を、私は失いたくない。-
ある事象、ある風景、あるものと出会ったとき、自からの感性にその目や心がいかに働きかけられるかなのだろう。
ありふれた日常の中にも何かを見つけ、何かを感じ、何かを思う、そんな心持ちをいつも蓄えておきたい。

冬桜が咲いている。毎年この時期から新しい年を挟んで、寒の侯に咲く白い小さな八重桜だ。
春の賑わいの中で咲く「桜」とはまたその趣が違う。
人それぞれのように桜にもそれぞれ個性がある。

冬桜空の碧とさとかかはらず (馬場移公子)
 
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ユズ(柚子) ~夜は暗くていい~
- 2008/12/02(Tue) -
柚子

以前、『夜は暗くていい』そんな見出しのコラムを読んだ。(中日新聞編集局長加藤幹敏)
そこに谷崎潤一郎の「陰翳礼賛」が取り上げられている。
その中で谷崎はこう述べているという。
「美は陰翳のあや、明暗にある」
「夜光の珠も暗中に置けば光彩を放つが、白日の下に曝せば宝石の魅力を失う如く、陰翳の作用を離れて美はない」
コラムは次のように結ぶ。
『どうやら私たちは「濃い闇」も「はかない光も」ない「明るい夜」によって、貴重なエネルギーばかりか、別の大切なものまで失っているようだ。…夜は暗くていい』と。

仕事の帰り際、空に三日月と木星と金星が寄り添うように並んで浮かんでいた。
それは漆黒の夜空の中で光り輝く三つの宝石、忙しいとてそれを見れば誰しも心穏やかになり時を忘れてしまう。
しかしそれも、見ようと思ってみなければ何も見えない。
見ようと思ってもそれを見せる環境がなければ何も見えない。
街明かりをハンドルを握りつつ、先のコラムを思いだしたのだった。

寒くなればなるほどにユズの実も黄色を増す。
いよいよ師走、大きく息を吸い、静かに長く息を吐くが如く「あとみよそわか」。
急がず休まず、心亡くさず、そして心荒くせず、じっくりと確かな歩を進めて最後をしめよう。

うつくしや年暮きりし夜の空 ( 一茶)
 
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ビワ(loquat) ~枇杷の花に蜂遊ぶ~
- 2008/12/01(Mon) -
枇杷の花

  蜂のみの知る香放てり枇杷の花 (右城暮石)

枇杷の花に朝から多くの蜜蜂が遊やって来て、チョチョッと顔を突っ込んでは移り渡る。
芳香のある花穂にひかれるかのように、ほかの昆虫も代わる代わるに寄り集まって遊ぶ。
花が少なくなるこの時期、彼らにとって枇杷は冬に体を休める前の命を繋ぐ貴重な花なのかもしれない。
生成の白い5弁花は砥の粉色の綿毛に覆われた苞や萼を伴い、大きな葉に隠れるようで目立たない。
そこにその花あると人知れずの淋しげな花である。
そして半年後、ここ寒冷の地にあっても日射しが強くなる頃には味わい得る甘い実を付けてくれるのである。
枝をバサリ剪って、大きな花瓶にどばっと挿した。

 生花に事欠く頃や枇杷の花 (賀瑞)

ビワの花
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