小高千早の毎日生ハム

まいにち生ハムな小高千早の日記! 自由にやりたい放題散らかします! ことしこそ小説家デビューですのよ!

■小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■完結

もくじ■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■

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■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■
もくじです✿˘︶˘✿ ).。.:* ♬*゜

★第一章★ボクとぼくと僕の出会いなどについて
1*アヒトとイチル
2*トワ
3*新しい監察官
4*桜の樹の下で
5*目覚めたらイチルがいて
6*ブラックバイトお断り


★第二章★ボクはとてもなつかしくてひどくかなしいことを思い出した
1*燐とマナ
2*学校風景
3*医務室
4*おかいもの♪
5*ねえ、おぼえていますか
6*からっぽのおひめさま
7*土曜日
8*にちようび

★第三章★いちばん近くて遠い誰か
1*カフェテラスへ行こう
2*とけないハート
3*居眠り厳禁
4*旧友
5*ネコネコナコ
6*異変
7*水曜日のミカサ様
8*今日の終わりはとても残酷で

★第四章★ゆらぐノスタルジア
1*ひどいゆめ
2*ココロが壊れそうだよ
3*さいごにいちどだけ
4*そうだね、アルマ
5*ミカサ、あるいは
6*嵐の前
7*心が疼くんだよ

★第五章★たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても
1*母さん、俺は
2*遠くへ行きたい
3*アヒトとプリンセス
4*ゆらゆら由良
5*兆候
6*いやだよ
7*邂逅
8*邂逅2
9*裏切りのプリンセス
10*消えないの
11*大丈夫
12*あやまちのあやまち
13*それでも行くんだ

★第六章★せかいのしくみ
1*はじまりと逃亡
2*オフホワイトの世界
3*オーガニックの杏樹さん
4*解るさ
5*螺旋〈仮完〉

小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■第一章-1

170617たときみタイトル2たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても
小高千早

   第一章*ボクとぼくと僕の出会いなどについて

 生まれたときからかたわらに あなたがいた
 みなもに映る たましいの双子
 空たかく 真白き雲が描く わたしたちの天使
 幾千の夜を越え また夢で あいましょう
 いちるののぞみ いま叶えたもう……

 高い鈴の音のような声が響いている。ゆっくりとしたテンポの賛美歌のようだが、その歌詞はどこか稚拙で、歌い手が即興でこしらえているものだとすぐにわかる。行き交う街のひとびとは、ただでさえ花で溢れかえる店の前に陣取ったかぼちゃパンツの少女を迷惑そうにひと睨みして避けるか、物珍しそうに一瞬立ち止まるかのどちらかだ。オレンジ色の小さな傘を開いてさかさまに投げ出してあり、中には銅貨が三枚、申し訳程度に入っている。だいたいその傘が、恵みをもとめて置かれているものだと気づく者もほとんどいない。

 いちるののぞみ いま叶えたもう
 いちるの、いちるの、……えーと……

「ねえあんた」とうとう花屋の女主人が出てきて、あきれ顔で少女に声をかけた。だぶついた腰に両のこぶしをあて、ためいきをつく。「もうやめてちょうだい。お昼までに銀貨十枚稼いで、しかもお客を集めるだって? かえって迷惑だよ。たのむからもうどっかに行っておくれ」
「……えっ」
 けんめいに歌詞の続きを考えていた少女は、目をまるくして女を見上げた。
 二本の小さな角が生えた独特のデザインの毛編みの帽子に、薄く赤みがかった長い髪を無造作に詰め込んでいるので一見男の子のようだ。ピンク色のかぼちゃパンツから蔓草柄のブーツへとつづく脚のラインもすらりとしていて、まだまだ発達途中の子どものような印象である。たちまち瞳をうるませ、でもぉ、と泣きそうな声を発する。
「でもそれじゃあ、だいじな夢が叶わなくなっちゃうんです。あのう、ぼく、この街ではたいせつな用があって、まだ……」
「知らないよ。だからって一日中、うちのまえででたらめな歌を歌われても困るんだよ」
「はあ……」少女は肩を落とす。「それも、そうですよね、はあ」
 と、そのとき、
「ねえおばさん、このガーベラ、いくら?」とやわらかな男の声がかかった。
 オバサン……? と女主人は一瞬絶句し、次には声のした正面をにらんでぶっきらぼうに「銀貨一枚だよ」と返事をした。
「ふうん。じゃあ、濃いピンクのを十本ちょうだい。包み紙とリボンはおまけしてくれるよね?」
「あ。ああ、いいよ。ちょっと待っておいで」
 女は面食らいながらも、慣れた手つきで花籠からガーベラを一本ずつ抜き取り、束にすると、店の奥へ消えていった。
「いい声だね。向かいのカフェテラスでずっと聴いていたんだ」
「え」
 少女は青年の顔を見上げるも案外背が高く、逆光でよく見えない。はっと気づいてともかく深いお辞儀をした。「あっ、ありがとうございますっ!」
「いやあ、それにしても」青年は首を傾けて太陽を仰いだ。きらり、と目元が光り、眼鏡に反射したのだとわかる。「ここは年中肌寒く、色彩の薄い石造りの街、なんて友達が言っていたけど。春の初めだっていうのに暑いくらいだね。どうりで桜の開花も早いわけだ」
「サクラ?」
「そうだよ、知らないの? 遠い国からこの街まで見に来るひともいるくらいさ」
「あのう、あなたは旅を……?」
「ううん、生まれも育ちもこの街さ。今は気ままな学生生活ってところかな。……そうだ、街外れに一等大きくて綺麗な桜があるんだ。今から見に行かない? それとも夜桜にする?」
「ええと、ヨザクラってなんですか」
「この世界でいちばん神々しくて儚い、ロマンチックな桜のこと。……あ、どうもありがとう、おばさん」
 青年は、花々をかき分けるようにして戻ってきた女主人から金色のリボンのブーケを受けとり、空いた片手でポケットから銀貨をつかみ出すと、ろくに数えもせずに渡した。
「でも、君にはガーベラ。はい」
「……え?」
 少女は芝居がかった仕草で差し出されたブーケを見て、目を瞬かせる。「でも……」
「いいから」青年は今度はすこし強引に少女のやわらかな手をとって、金色のリボンのあたりを掴ませた。「ほら受け取って。男に恥じ、かかせないでよね」
「でもっ」
「じゃあ、またね」
 青年は左手を軽く振って少女に背を向けた。みるみるうちに人混みに飲まれ、その背は遠ざかってゆく。
「……えと」
 少女は青年の後ろ姿とガーベラを交互に見比べ、呆然としていたが、ぶんぶんととんがり頭を振ると「だめ」と呟いて駆け出した。 
 ごめんなさい! ごめんなさいと人の間を縫いながら、花束を抱いた少女はまろぶように、懸命に青年を追いかけてゆく。
「まって、まってください!」
「え?」
 無造作にひとくくりにしたゆるい癖のある金髪に、艶やかなエメラルドグリーンの瞳。眼鏡のせいで一見素朴に見えるが、近寄ってみるとなかなかの美青年である。
「ああ、ごめんね、ガーベラきらいだった?」
「そうじゃなくて!」
「なら、なんだい?」
「だめです。こんなに綺麗なお花、もらえません。だって銀貨、十枚もっ……」
「どうして? 君の声にはそんなはした金より、もっともっと価値があるよ。それにね、自慢じゃないけど、お金には困っていないんだ、だから遠慮なく、ね?」
「でも、なにかお返しを……」
「何かって?」
「ええと……まあそれは、……うーん、なにもできないかもしれないけど、なにかあれば言ってください、なんでも!」
「君ってば」青年は顔をくしゃくしゃにして笑う。「大人の男に向かってそんな不用意な事言っちゃいけないよ、危険じゃないか」
「え。なにが。どこがですか」
「いや、うん、君はそのままでいいかもね」
「そのまま?」
 少女はじぶんの帽子の角に触れ、胸のあたりを触り、足の先を見つめてただ戸惑う。
 青年は今度は優しく微笑んだ。
「じゃあお言葉に甘えてお誘いするよ。やっぱり行こうよ、桜を見に」
「ええと、ヨザクラ、ですか?」
「またまた。夜がいいだなんて大胆だなあ」
「あっ、ヨザクラって夜の、サクラ」
「そうだよ、よく解ったね、偉いぞ」
「うー……」少女はほっぺを膨らませる。「子ども扱いしないでくださいっ」
「ごめんごめん、冗談だって。ではあらためて」冗談と言いつつ青年は、まるで小さな子どもに説明するかのように自分自身を指さしてみせる。
「僕はアヒト。君は?」
「……ぼくは、イチル……」少女はどことなく自嘲気味に答える。
「へえ、いまどきボクっ娘なんだ。嫌いじゃないよ、そういうの」
「……ボクッコってなんですか」
「君のこと」アヒトは自らをさしていた左手の人差し指をイチルに向け、クスクス笑った。「じゃあ月がのぼったら、例の桜の樹の下で落ち合おう。実際それがいちばん簡単なんだ。旧市街側に向かって歩くと、大きな樹が見えてくるから、そこをめざすといい」

つづく
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小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■第一章-2

170617たときみタイトル2   *

 ボクの名前はトワ。T・o・w・e・r。太古の昔に人間たちがつくった、高い高い塔のことなんだって。天上に近づこうとした愚かなひとびとの奢りに激怒した神さまは…………、そう、みんな知ってる有名なオハナシだ。だけど――
 この物語を終わらせることができるのはボクだけだって、もうずうっと前から、そんな予感がしていて。
 ボクはその日のことを、ひとすじひとすじ、まるで手首に細かい傷を刻んでいくように、鈍い痛みと闘いながら、ひたすら待ち続けていたんだ。

 おおかたの授業が休みの土曜日だった。
 夕方、トワはスラムの地下にあるという病院へと向かった。
 裏通りは昼間でも日光は差さず、薄暗い。中でも特によどんだ空気の、色褪せた石畳を歩いてゆく。行き止まりに廃墟のようなビルがあるが人の気配は無い。しかしすぐに少年は建物の右端に、白のチョークで『ARIA』と殴り書きされたブラックボードを見つけた。地下へつづく細い階段に明かりはなく、入り口からのほんの数段しかうかがえない。
「……」
 トワは一瞬躊躇して立ち止まる。が、深々とかぶった黒のパーカーのフードで顔を隠すようにますます顎を引くと、一歩一歩、階段を降りていった。
 かつん。かつん。防寒用のショートブーツの底が、無機質な冷たい音を立てる。一段降りるごとに数を数えていたが、途中で電球がひとつだけ灯った狭い踊り場があり、あまりの様相に思考は停止した。コンクリートは黒ずみ、割れた酒瓶や塵くずが散乱している。ところどころに吐瀉物が乾いたような跡があった。本当に病院なのだろうか。目を背け、こんどは早足で階下まで降りる。
 ぎぎ。
 エントランスの重たい硝子ドアを細く開け、小柄な肢体を滑り込ませるようにして中に入る。フロアの奧に溜って瓶から酒をあおっていた数人の男たちのあいだに低いざわめきが起き、それはつぎの瞬間にヒヒヒという下品な笑い声に変わった。物珍しそうにトワを見る目はひどく猥雑な色を孕んでいる。
 少年は男たちを一瞥さえすることなく、つかつかと中心の通路を歩んでゆく。なるほど、もともと病院受付だったところをカウンターバーのような使い方にしてそのままにしてある。おまけに白衣の上からピンクとブラックのストライプ柄のマフラーを巻き付けた、場に不釣り合いなのかその逆なのか判別のつかぬコスプレの青年がひどい姿勢で簡易注射器の品定めをしていた。完全に面白がっている口調でトワに声をかける。
「いらっしゃいませこん、にちわー? ようこそミカサ様の診察室へー。お嬢ちゃんなーに、お買い物でちゅかー?」
 見た目の割には若々しい声音だが、言葉のイントネーションはずたずたに崩壊している。伸び放題の色褪せた金髪を、さらにボサボサにスタイリングしているのでプードル犬か何かのようである。その髪の毛のせいで目元はうかがえない。
 トワは臆せず、澄んだ眼で青年をまっすぐに見た。
「D。あるだけほしいんだ」
「ああ?」
「D。あるんだろ、くれないと殺す」
「あああ?」
 ミカサはしばしあっけにとられていたが、すぐにヒステリックな声を立てて笑い出した。奧にいる男たちの下卑た笑い声もいっそう増してゆく。
「お嬢ちゃんお嬢ちゃん、なになに、正気? だいじょうぶー?」
「D。くれってば」
「お嬢ちゃんてばさぁ」ミカサは一転して諭すような口調になり、下あごを突き出してふうっと前髪を吹き飛ばす。憐れみを含んだ一重の目をしているのがわかる。「こういう場所も、ニンゲンも、クスリも、どれも危険なの。お願いだから痛い目みる前に帰ってね」
「帰らない。Dがほしい」
「困ったなあ、じゃあさ」ミカサは両手を広げて目の前のアタッシュケースを示してみせた。簡易注射器が整然と並ぶ。「ここにあるDと交換に、お金ちょうだーい?」
「ない。だからくれって言ってる」
「オマエさあ、」青年はついに苛立ちをあらわにする。「いい加減にしないと……」
 そのとき男たちのうち一人から声が飛んだ。
「カラダで払ってもらったらどうよ! なあ可愛いお嬢ちゃん、遊んでくれたら俺が代わりに金を出してやる」
 えええ、まじ趣味悪ィし、というミカサの声をよそに、トワは初めて男たちの方に興味をあらわし、すっと向き直った。
「……ボクは男だ」
「坊ちゃんか。だが俺らには女だろうが男だろうがどっちでもおんなじさ」
「そう。ならボクもかまわない」
 少年は目元まで引き下げていたパーカーのフードを無造作に除けた。プラチナブロンドに染め上げた髪がいっそう輝きを増し、華奢なおとがいと細く未発達な喉があらわになる。
 投げやりな口調や態度と、その容貌はまるで一致しない。
 廃墟に降り立った天使のようだった。
「……あ、オマエ、もしかして……」
 ミカサのかすれたつぶやきが、男たちのヒュウという口笛にかき消される。
「トワだ! トワだぞ、中等科のトワだ! 氷の王子様、トワ!」
「……」
 少年はあからさまに不愉快そうにし、男を睨みつける。
「そのばかみたいな呼びかた、やめてくれる」
「馬鹿みたいだとお? 中等部のガキどもにはそうとう有名じゃないか。完璧すぎるまなざしでひとの心を傷つけるって本当? なあどうなんだ、トワちゃんよ」
「……」
「おっと。睨めっこなら負けねえぜ。それとも笑い出す前に、俺の心は傷だらけ?」
「おにいさん。さっきの話、その気がないのなら他の相手をさがすけど」色素の薄い瞳が、舐めるように残り三人を見まわす。「アンタたちはどう」
「……お、オレにやらせろ……」
 ひとりが早くも荒い呼吸をしながらトワににじり寄ってゆく。「トワちゃん、お前、男に抱かれたことはあるのか、え?」
「さあ、どうだろうね」
「正直言って、オレ、優しくするのは苦手だぜ」
「好きにすれば」
「生意気だな……ホントに可愛いじゃねえか」
 男はもったいぶってトワのまわりを四分の一周すると、華奢な肩を強引に抱き寄せ、白い頬をべろりと舐めた。
 少年の表情には何の変化もない。無表情そのものである。
 その様子を見ていたミカサは「あーあ、俺もう知らねぇし」、と顔を背けるとカウンターの端に移動し、酒瓶の並んだ棚に背をあずけて煙草に火をつける。無視を決め込むつもりらしい。
「もうちょっと怖がってくれると、嬉しいんだけど……な!」
 ブチ、ブチ……
 普通に脱がせる気も無いらしい。男の節だらけで脂ぎった手が、乱暴にパーカーのジッパーを厚手の生地ごと一気に引きちぎった。勢いで少年の肢体は大きく揺らぎ、その場に力なくくずおれる。
 あらわになった細くしなやかな手脚に男はますます鼻息を荒くし、ズボンを下ろそうとベルトのバックルに手をやった。
 ――が。
「……んっ、なんだよ?」
 少年は助け起こしてくれとでもいうかのように、男に向かってすっと白い手を差し伸べていた。「あの……」上目遣いで恥ずかしそうに言う。「やっぱりここじゃ、いや、だな、」
「へえ、急に素直になりやがって。お兄さんそういうのもキライじゃないぜ」男はにんまりと満足げに笑って少年の手をとった。
「なあミカサちゃん、二階の部屋借りて、……あ?」
 ぐん。手に少年の全体重がかかり、次の瞬間にはふっと軽くなる。つないだ手を支点に少年が素早く起き上がったのだと認識する間もなく、がら空きになっていたふところに小柄な体が飛び込んでくる。ガツッと鋭い音がして、気づいたときにはショートブーツの踵でおもいきり顎を蹴り上げられていた。
「……が、」
 のけぞった男の顎からぱたぱたと血液が滴った。鋭利な刃物で切り裂かれたような傷になっている。みるみるうちにその顔から血の気が引いていった。「痛え、痛ってえ、痛えよおっ!」
「ごめんね」やや斜めに着地した少年は涼しい顔で言う。「滑り止めのスパイク、当たっちゃった」
「てめえ、最初からそのつもりで……ッ!」
 痛みと怒りに頬をゆがめた男は、握りこぶしを勢いよく振り上げる。節くれだった大きな手だ、当たればただでは済まない。それを瞬時に判断した少年のまなざしもふたたび鋭いものとなる。
 まさしく一触即発――そのとき、
「タクちゃんターンマ」。ふたたびカウンターに戻ってきていたミカサの声が飛んだ。あくまでつまらなそうな口調。だがその声色にはこれまでうかがえなかった不気味な低音が混じる。
「なんで止めるんだよ!」タクと呼ばれた男は宙で静止したままのこぶしをぶるぶると震わせた。「なあ見てくれよこの血! ふざけやがってこのガキ……!」
「その血が問題なの。ARIAで流血沙汰はノーグッド。ルールは守ってね」
「それはこのガキが……!」
「あんな手に乗ったタクちゃんの負けだし」
「でもよう!」
「ああもうしつこいし。出禁にしちゃうよ? 薬ももう提供しなーい」
「……う、」タクはあからさまに戸惑いをあらわにした。「ま、待てよミカサ、お、俺」
「冗談冗談、たとえばのオ、ハ、ナ、シ。分かればいいのよ分かれば。でさ、プリンス様?」
「……」
 トワは無言でミカサの方を振り向いた。彼の言葉でとたんに戦意を喪失したタクからは素早く一歩、飛びのいて距離をとっている。
「そういうわけだから特別に後払いってことで、もってけどろぼーだし」
「……え」
「え、ってなによ、欲しかったんでしょ、D」
「……そう、だけど」
 トワの瞳から警戒の色は消えない。それを尻目に、ミカサはボサボサの前髪越しににっこりと笑顔を作って見せた。
「ほーら、こっちおいでよ」ぱし。アタッシュケースを左手で閉じる。「きっちり一ダース、今ならセットでお買い得ー」
「そんなうまい話、」
「めんどくさいなあ。このままもたもたして男五人にあんなことやこんなことされたいってわけ? さすがにそれじゃあ分が悪いと思うけど? ねえ、いるのいらないの、どっち」
「……」
 トワが動いた。ためらいがちにカウンターへ近づき、おずおずと手を伸べて強化プラスチックのグリップを掴む。そこまでしてもミカサが手を出してこないのを確認するとひったくるようにしてケースを奪い、次の瞬間には全速力で出口へ駆け出した。フロアの真ん中の何も無いところで躓き、倒れそうになりながらも軋む防音扉に肩からぶつかって押し開け、走り出てゆく。
 ミカサはその一連にはまったく興味を示さず、左手を軸にしてひょいとカウンターを乗り越え、仲間の方へ向かった。
「タクちゃん傷、だいじょうぶー?」
「畜生っ! なあミカサ、みてくれよこれ、血がとまんねえ、どうすりゃいいんだ!」
「ああほんと、痛そー、だ、……ね!」
 ――!
 鈍い音がした。ぎゃっと声を上げ、タクはもんどりうってフロアに崩れ落ちる。
 ミカサが傷のうえから容赦無い殴打を浴びせたのだ。
「な、んで……」
「オマエのせいだし。ばーか」
 そのまま無表情に、倒れ込んだ友人の腹に何度も何度も蹴りをぶちこむ。「ばーか、ばーか、ばーか、ばか、ばか、ばか、ばか、ばか、ばーか……」
 しなやかな脚にこもった力は加速度的に増してゆく。
 フロアの端にたまっていた三人の男たちは、震えながらただミカサの暴挙を見守った。こうなると手がつけられない。
 鈍い音とつぶやきは、タクが気を失っても続いた。
 ばーか、ばーか、ばか、ばか、ばか、ばか、ばーか……。

つづく
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小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■第一章-3

170617たときみタイトル2   *新しい監察官

「う……」
 トワはシャワーを浴びながら嘔吐いた。
 男の脂ぎった手、酸っぱい体臭と酒くさい息、下卑た笑い声。そして蘇る、
 ――身体の奥を切り裂かれるような痛みの繰り返し。
 ざあああああああ。トワは蛇口をひねり、シャワーの水圧を最大にした。もちろんそれは錯覚だけれども、過去の鮮烈で生臭い感触がいくらお湯で流しても消えない。殺し合いで浴びた返り血のようだ。熱い湯が体に勢いよく降りそそぐまま、うつむいてただ立ち尽くしていた。

 ようやく気が済むとバスルームを出、おざなりに髪の毛と体を拭うと、今朝届いたクリーニング済みのの黒いカットソーに着替えた。アームカバーがついているのが唯一洒落たところだ。身長や体重と言った基本的なデータは二週にいちど医務課からチェックされているので、トワの細身の体にぴったりとフィットする。支給品として定期的に服飾関係の電子雑誌も送られてくるのだが、これまで黒い色の服しか選んだことが無い。
 と。
 ピポパポピポ、と子どもっぽい音色で訪問者を告げるアラームが鳴る。トワの大嫌いな音だ。いつものように顔をしかめかけ、だが少年はアラームに設置されたモニターを見て目をまるくした。
 『Yu-ra』。ユラ? 訪問者の識別名に違いなかったが、今まで医務課の職員がトワに名前を明かすことは一度たりとも無かった。いぶかりつつも、少年の足は惹かれるように玄関へ向かう。
 『ユラ』はトワが自らの手でドアを開けるまで、入室しようとはしなかった。これも異例のことである。職員たちはこの部屋のカードキーはもちろん、無断で侵入する権限までも所有していて、それを行使することを何とも思っていない。
「……」手動でも自動でも開閉可能なスライド式のスチールのドアをおそるおそる細く開け、トワは訪問者をうかがった。背が高く、すらりとした体つきの青年だ。驚いたことにトワと同じプラチナブロンドの髪色をしていた。襟足をやや長く残して丁寧にカットしてある。まだ夜は冷え込むというのに外套は着ていない。手入れの行き届いたシャツにリンネルのベスト、一見スーツのズボンのようだが動きやすそうな細身のカーゴパンツ……それらは純白や銀灰色を微妙なグラデーションで織り交ぜてあり、青年のセンスの良さがうかがえる。片手で小さなクラフト紙の袋を抱えていた。
「初めまして。医務課の由良と申します。ミキ・杏樹の後任です」
「……あ」
 思いのほか物腰やわらかな様子に、少年は戸惑う。前任女性の名前が『ミキアンジュ』だったということも今知った。
「おや」由良は色素の薄い瞳を細めて外側から部屋の番号を確かめ、またトワを見た。「管理番号726815-023135373、T・o・w・e・r、トワ、で間違いはありませんか。それとも予定の時間を五分も遅れてしまったのでお気を悪くなさいましたか。すみません、約束というのが苦手なもので、いつも周囲を苛つかせてしまいます」
「……あ、いや、いえ、違う……んです」
 慣れない丁寧語に詰まりながら、トワは慌ててドアのオープンパネルにタッチした。
「失礼します」
 由良は軽く会釈をすると、ゆっくりでも焦るでもなく、ごく自然な様子で入室した。
 ふわり。トワの脇をすり抜けるときに、珈琲の匂いがした。だがトワは別のことに目を引かれていた。ケースまで白で統一されているのでよく見なければ分からないが、青年の骨盤のすぐ上辺りには小型のスタンガンらしきものが横向きに収納されている。医務課職員が武器? まったくどういうわけなのか分からない。
「ほう」青年は、必要最低限の設備しか無く、年頃の少年の部屋にしてはひじょうに閑散としたフロアを眺め、続いて吹き込む風でカーテンがはためいているバルコニーを見た。
「月が綺麗ですね。ご覧になっていたのですか」
「え……」
「いい部屋だ。広いし、なにしろ方角が素晴しい。これなら月がのぼってから沈むまで、一晩中楽しめるでしょう。斡旋住宅という呼び名のせいで私は甚だしい勘違いをしていたようです」
「……」
 トワはその言葉で不意に我に返った。ついさっきまで自分がどんな気分であったか、まるで胃液が逆流するように、急激に思い起こされる。
「定期検査にいらした、んですよね。だったら早く……」
「珈琲をお持ちしました。遠い南国の豆で、深煎りにしないと酸味が残るものですから思ったより時間がかかってしまったのです。ミルがあるかどうか分からなかったのでとりあえず粗挽きにいたしました。ディスポーザブルのパックもご用意しましたので、よろしかったらマグカップをふたつ……」
「いいかげんにしろよ」
「は……」
「アンタほんとうに職員か? コーヒーなんかいらない。さっさと端末を出せ」
 トワの反応ももっともであるといえる。二週間分の脈拍や体温、それに食事の摂取量や睡眠を含む生活パターン、都市での活動範囲等をデータ化して読み取り、保存するための端末らしきもの(最近はリストウォッチ型が主流である)を由良は所持していなかった。ただひとつだけ手にした小さな珈琲の紙袋にしまっているとも思えない。
「そうですか、自慢の手鍋焙煎だったのですが。残念です」青年はトワの苛立ちと不信の目をよそに、袋を大事そうに部屋の左に位置するキチネットのクッキングユニットへ置いた。
「……」
「そう怖い顔をしないでください。お望みなら今すぐに説明を始めます」
「なんの」
「端末は私の身体に内蔵されています。プロトタイプを移植されてしまいました。職員だって被検体とそう変わりはありません。といっても選択の余地は与えられましたが。私は大きな鞄を持ち歩いたり、無骨な時計を身に着けたりするのを好みませんので、願ったり叶ったりというところでしょう」
 由良が少年の眼前に、右の五本の指をかざす。それぞれ指紋の中心辺りに青いひかりが、皮膚から透けて見えた。
「……そう」
 正直どうでもよかった。トワはいつものように無造作に髪をかき上げ、端末接続用のちいさなジャックのある首の左側を由良に見せた。
「まっすぐ前を見ていて結構です。今回からプラグは必要ありませんので、医務課へ除去手術の申請をおすすめします」
「べつに、このままでいい」
 ふて腐れた口調とは裏腹に、トワは素直に由良の方を見た。
 由良はゆっくりと右手を伸べてくる。指の先に接続状態を示す点滅信号が現れた。額にでも触れるのかと思いきや、顎のあたりから耳の方へするりと五本の指を差し入れ、少年の頬を包むようにする。ひやりとした指の感触に、トワは思わず小さく震えた。
「髪が濡れていますね、風邪を引きますよ」
「……かまうな」
「実は杏樹女史からの引き継ぎは、ごく簡単にしか行われなかったのです。お互い何かと忙しいもので。ですから今日の検診はすこし時間がかかります。大切な実験体のあなたに風邪でもひかれては」
「かまうなったら」
「わかりました。ではまず、メディカルスキャンとウイルス転送から開始します。今回は試験的に私が処置しますが、のちほど私とは別の専門スタッフがこちらへ派遣されてくる手はずです」
 由良は「検体用プログラム起動」と早口で呟くようにする。トワに触れていた五本の指先がごく僅かに熱を帯びてきた。
 青年のうすい銀灰の瞳の奧で、継続時間のひじょうに短い電気信号・パルスが点滅し始める。瞬きはすくなくなり、トワはそのどこか神秘的な色とりどりの数字の羅列に魅入った。けっきょく青年の瞳から読み取れたのは自分の被検体番号だけだったことに、なんとなく落胆を覚える。
 ――が、それはつかの間。どくん、と心臓はおろか全身が拍動するような感覚に包まれる。眼球が発光しているような錯覚におそわれ、みるみるうちにトワの視界は血のような赤に染まってゆく。それはトワの意志とは関係なく、先ほどフラッシュバックした父親の記憶へとリンクした。愉悦に見開かれた血走った目、腐ったような手の匂い、焼けつく痛み、痛み、痛み、痛み――。
 ……ああああああああああっ!
「トワ」
「……!」
 顔をのけぞらせた少年の肩を、由良が両手でしっかりと支えていた。
 今しがた響いた叫び声が自分の口から発せられたものだと、一瞬遅れて理解する。由良の手を振り払い、トワは衣服の胸の辺りをわしづかみにして荒い息を繰り返した。
「大丈夫ですか。やはり内蔵端末では感情面のシンクロ率が変動してしまうのでしょうか」
「……い、や」最後のひと息を吐き出して、トワは弱々しくかぶりを振った。「いつも、こんなかんじ、だ」
「しかし、」青年は何か言いかけ、やめた。次にはもとの無機的な表情に戻っている。「……さすがですね、医務課のプログラムへの適合よりも、私はあなたの感情抑制機構の方に興味があります」
「……どういういみ」
「まあとりあえず、座りませんか。窓も閉めましょう、これでは本当に風邪をひく」 
 トワの返事を待たず、由良は足音をほとんど立てずにバルコニーの方に行き、ドアを閉めた。力なく小さな食卓の椅子にかけた少年を見、無表情とも言えるような目で僅かに頷く。自らも少年の正面にかけ、テーブルに右手をかざした。青色だったひかりが橙色に変わり、モニター状のフレームが投影される。
「管理番号726815-023135373。識別名、トワ。実父からの虐待が判明するにあたり五才から小児医療保護施設にて生活。十三才で新市街斡旋住宅へと転居、現在に至る。既往症無し、しかしながら精神面の推移、要観察。非常に脆弱なメンタル面を有するためコンタクトには注意を払うこと。詳細については、調査中?」
「……どうしたの」
 由良が言葉を切ったので、トワは思わず尋ねた。
「いえ、十年近くも監察下に置いていていまだ調査中とは、随分ずさんだと思いましてね」
「……そう、」
 機械のような言動をするかと思えば、これだ。青年のことが読めない。
 それにしても、記録の内部を簡単にトワに伝えるなど、前代未聞のことだ。ミキ・杏樹を含むこれまで担当になった職員は、就寝時だろうがお構いなくカードキーを使って部屋に侵入し、トワのデータを無断で端末にコピーし、注射による投薬等を終えると何事も無かったかのように去って行くのが常だった。
「退屈ではありませんか」
「え」
「新型の端末だから楽しみにしていたのですが、これでは書類を読んでいるのと一緒だ。今日からは私が文書を作成してじかに担当へ送信します」
 由良はテーブルに長々と投影された文字の一覧をぴんと弾くような仕草でクローズした。次に投影されたのは小型の文字入力用キーボードである。「メディカルスキャンと投薬は今まで通り義務となりますが、その他のサポートに関しては問診形態への変更をしてよいかどうか、戻ったら医務課で申請してみることにします」
「問診……?」
「ええ、週に一度程度、会って話をするだけです。慣れるまでは一回に六十分。いかがでしょう」
「な、んの必要があってそんなことを」
「まあ、先ほども申しましたが個人的興味ですね。たとえば、データからあなたが摂取した食物が分かり、計測数値で改善をうながしたり、ある栄養成分の禁止を言い渡したりといったことは簡単にできますが。退屈なのは嫌いです」
「よくわからない」
「では少しだけ、シミュレーションしてみましょう。今日は、食事はどうされましたか」
「……は」
「まずはステロタイプな話題から入るのが一般的です。答えるか答えないかは随意ですが」
「……食べて、ないけど」
「それはいけませんね。食欲が無いのですか」
「わからない」
「それはきっと、本当に美味しいものを食べた経験が無いからです。来週はなにか栄養のあるものをお持ちします」
 由良はテーブルに指が触れるか触れないかのところで、投影されたキーボードを操作している。思わずのぞき込むと、なんと『ほうれん草のキッシュ』と入力されていた。
「……ふざけてるの」
「いえ、あくまで候補です。医務課に戻ってから再度検討します。それともご迷惑でしょうか」
「ボクは監察官には逆らえない。むりやり食べさせたいなら好きにすればいい」
「ふむ」由良はまた指を動かして入力する。
 ――職員への不信感。これは被検体のせいではなく我々の側に非があると考える。ただちに改善策を講じるべき。
「ということは、ほうれん草がとりわけ嫌いなわけではないのですね」
「……」
「卵にもアレルギーは無いようですし。なによりキッシュは焼き上がるまでの待ち時間が長いのは難点ですが、下ごしらえはごく簡単なのです」
「…………」
「ああ、ご心配には及びません。冷めても美味しいレシピを心得ておりますので」
「………………あのさ」
「ところで、先ほどスキャンしたときに見つけたのですが」青年は唐突に話題を変える。「十六時過ぎ、旧市街へ行きましたね。何故です」
「答える義務があるの。だいたい問診形態にすると言っておきながら、当然のようにデータを引用して……」
「すみません。カウンセリングは信頼関係が重要ですが、申請前の段階ではその点を最優先というわけにもいかないのです。たった一瞬ですが、攻撃的なメンタルフローの痕跡があります。検査の根幹に関わりますのでお聞かせ願いたい」
「ひとを……殺してもかまわないと思ったんだ」
「何故」
「……う、鬱憤が、たまっていた。この街にも、うんざりだ」
「なるほど。スラム街には住基番号を割り振られていない者も多い。だから通報が無かったので機関において把握はできなかったわけですね」
「……そういう、問題なの」
 殺人を犯しかけたというのに眉ひとつ動かさぬ青年のことが、やはり読めない。トワは途方に暮れかける。由良もまた、よくわからない、といった様子で小さく首をかしげてみせた。
「あなたのいう『ひとを殺そうとした』という行為が、あなたによって何度行われたのかについてには多少の興味はあります。しかしナンバーを与えられていない人間は、この街では人間に値しません。それが機関のスタンスです。……それにしても、私には理解しかねます。この住宅でひとり暮らしを始めて一年間。データによると今回のような事例は初めてだ。その鬱憤とやらがどうして今になって行動として発現するのですか。街にうんざりしているとおっしゃいましたが、そもそもあなたは周囲の環境どころか自分自身のことにさえ無頓着なところがある」
「……なにがいいたい」
「察するに、あなたには何か目的があった。例えば、わざわざ自分の身を危険にさらすことを選択してでも引き替えに得たいものが……」
 この調子ではクローゼットに隠した大量の『D』に話が及びかねない。トワは「そうだよ」とやや語気を強めて吐き捨てた。「……死にたかったんだ。裏通りのジャンキーどもにいたぶられて、犯されて、殺されたかった」
 まあ、あながち嘘でもない。由良も今度は、
「ご無事でなによりでした」とそれ以上の詮索はしてこなかった。
「それは過去から継続的に、憤怒あるいは悲哀としてデータに記録されているでしょうが、『死にたい』というたったのひと言はどこにも残らない。私が機関のシステムを完全には信頼していない理由はそういった面にあります。そんなわけですから、検査方式の変更をあなたの方でもご承諾いただけますか」
「承諾って、どうやって」
「口約束で結構です。もちろんあなたの発言を逐一データ化する気もありませんし、今後、検査はスキャンと投薬を除いて任意受診へと変更する予定です。予約後のキャンセル、具合が悪いときや気乗りしないときはこちらへご連絡を」
「……?」
 流れるような動作でベストの内ポケットから取り出された小さなカードを、トワは不思議そうに受け取った。『Yu-ra 00007930-8858』とだけ記されている。通称ゼロナンバーズ。特権階級を表す。これまでの監察官たちもそうだったのだろうが、実際に四桁のゼロを目にしたのは初めてだ。
「通信ターミナル等より番号を入力すると、私の内蔵端末に繋がります。ではこれから、監察官兼主治医としてよろしくお願い申し上げます」
「まって、受診に、主治、医……?」
「主にメンタル面のサポートを専門としております。いずれまた参ります。お疲れさまでした」
 由良は長い睫毛を伏せ、すっと立ち上がる。トワははっとして、青年を呼び止めた。
「由良……監察官」
「なんです」
「今夜の、外出許可をください」
「もう遅いですし……昼間のことを鑑みると正直心配です。今夜でなくてはいけないのですか。話せる範囲で理由を」
「…………桜が、見たいんだ」
「ほう」
 由良は初めて笑顔を見せた。子どもを慈しむような、優しい表情だった。
「許可します。髪をきちんと乾かして、上着をもう一枚だけ羽織って行きなさい」
「……」
 不意に泣きそうになってしまった。トワはそんな顔を悟られまいと、早足でキチネットまで行くと由良が置いた紙袋を手にとろうとした。
「それから、ごめん……その、ほんとうは、コーヒーは苦手なんだ。だから……」
「お友達にプレゼントされてはいかがでしょう」
「ともだちなんか、いるわけ、ないだろ」
「わかりませんよ」青年はやわらかな笑みを崩さない。
「言い古されていますでしょう。春は出会いの季節、と」

 ……。
 由良が去った後、トワは彼が残していったカードをダストボックスに捨てた。

 ――桜が、見たいんだ。…………最期に――。


つづく
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小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■第一章-4

170617たときみタイトル2   *桜の下で

 ふたたび、トワの独白に戻る。
 ……。
 ママは、いつも泣いていた。
「あの氷のような瞳……どうしてわたしたちの子が、あんなふうに生まれてきたのかしら。ねえ聞いて、あの子の手に触れたとたん、小鳥はしんでしまったの。お花だってそうよ、あなた、あのガーベラを見たでしょう? あの子が顔を近づけて香りをかいだだけで、みるみるしおれてしまったわ。おそろしい……。ねえあなた、わたし、あの子のことが怖くてたまらないの。あの子、このまま大きくなったら、きっと人を殺すわ。わたしたちだって、きっと殺されてしまうの。ねえあなた、いったいわたしたちが何をしたというの。これはいったい、何に対する罰なの?」
 細く開けたドアのすき間から、泣いている母親の痩せた背中を見て、ボクも思ったんだ。
 ねえママ、ボクだって同じきもちだよ。ボクがいったい、何をしたっていうの?
 ボクはびょうきの小鳥にお水をあげようとしただけなんだ。ガーベラの真っ赤な色がとてもきれいだったから、もっと近くで見てみたいって、思っただけなんだ。それなのに……。
 ねえママ、もう泣かないでよ、ボクだって、とってもとってもかなしいんだ。
 ママに抱きしめてもらって、だいじょうぶだよって、言ってほしいんだ、父さんのことだって、我慢するから、だから、だから……。

 そんなふうに、ボクも母親と同じでまいにちまいにちかなしんで、泣いて、願っていた。
 だけどいつのまにか、かなしみの気持ちは薄れ、泣く方法も忘れ、ほんのささやかな願いもあのガーベラの花びらのように儚く散って、かさかさの欠片になって、こなごなになってきえていった。
 ボクはそうやって感情っていうものを捨て、心を閉ざした。
 そうしてついに『その日』はやってきた。さいしょに話した、世界の終わりの日。
 ――だけどそれは、終わりではなく、始まりだった。由良が言ったとおり、出会い、という名の。
 ……。


 冴えたひかりの満月が、煌々と輝いている。
 アヒトの言ったとおり、街で一番の桜はすぐに見つかった。遠くからでも、まるで薄桃色のかたまりがどんどんおおきく膨らんでいくような錯覚に陥る。それほどの大木だった。
「わあ」
 桜のもとまで続く古びた石段を前に、イチルは思わず声を上げる。
 月明かりの青に透ける、薄く儚いが気品のある花々。それが何層にもなってほのかな風に揺れている。なぜ葉っぱが一枚も無いのか、イチルには理解できない。だが本能が知らず高ぶる。
 美しい、と。
 さらさら、はらはら、風に乗って小さな花びらが散り、流れてゆく。
 そのとき――
 さらさら、はらはら。その天の川のような一連の合間、樹の根元近くに、イチルは人影をみとめた。
「いけない。アヒトさん、待たせちゃった!」
 とんとんとん。少女は軽い足どりで石段を一段飛ばしで登ってゆく。
「ごめんなさい、アヒトさ……わっ」
 さあああああっ。一陣の風が吹き、花びらの嵐がイチルを飲み込んだ。少女は思わず瞳を閉じる。
 そして嵐が去ると、また澄んだ月の光が戻ってきた。
 おそるおそる目を開け、イチルははっとした。
 樹の下にいたのはアヒトではない。
 服こそ黒で統一されているので、かろうじて少年だと分かる。だが華奢な身体と、幼くも気高い顔立ちは、イチルの知るどの『少年』とも似つかない。プラチナブロンドのやわらかな髪を僅かに風へなびかせ、陶然と、桜を見上げている。
 綺麗だった。
 イチルはどうしてか泣きそうになって、瞳をうるませる。一歩、また一歩、少年に近づいた。
「……きれい……」
「……ん……」
 舞い散る夜桜のなか、たたずんでいたトワがゆっくり振り返る。初めて会ったはずなのに、イチルを見て懐かしそうな微笑みを浮かべた。
「うん、ふしぎなんだ。ボクなんてとっくに、美しいなとか、きれいだなとか、そんなふうな感情はなくしてしまったって思っていたんだ。でも、この桜の花はとても……」
「ちがうの」
「え?」
「きれいなのは、あなた。髪が月の光を反射して銀色に光ってて、瞳は透きとおった水色で、肌は雪のように白くって……とてもきれい……まるで、まぼろし……」
「……ボク、は……」
 少女へ、桜へ、月へ。トワの視線はふわふわとうつろう。言葉をとめた少年を異世界から呼び戻そうとするかのように、イチルはしっかりと問いかける。
「ぼくは、イチル。あなたは?」
「イ、チル……ボクの真似をしているの? きみ……女の子、だろう?」
「ぼくは、ぼくだよ。それに、あなただって女の子みたいだし」
「そう。きみは、きみなんだね」
「えっ」
「きみは、きみのままでいて、いいんだね」
「あの、どういういみ……」
「きみは、どこへでもゆけるんだね。自由なんだね」
「なに、言って」
 ゆら、ゆら。少年はイチルに近づいてゆく。微笑みを絶やさず、しかし足もとはおぼつかない。
「ボクももう、自由になるんだ。ハカイの、塔じゃない。えいえんの、トワに……」
「トワ? あなたは、トワ?」
「ごめん……もう、なにを言っているのか、わから、ない……」
 ふわり。少年がゆっくりと倒れかかってくる。白い額がイチルの肩に触れ、銀の髪が僅かに香る。それが桜の花のものなのか、少年自身のものなのか、イチルには判別できない。ついには水色の瞳をすうっと閉じた少年の肩を、必死に掴んで揺すった。
「ねえ、どうしたの? ねえ、ね……」
 ぱきぃん。
 少年の体重を支えきれず、ふらりと後ずさった少女のブーツが何かを踏み、砕いた。
 はっと、少女は足もとに目をやる。
 粉々になった、ペン型をした硝子の簡易注射器。
 使用済みの注射器は、いくつもいくつも、数え切れないほど落ちている。
「これ……何……?」
 カラン、少年の手から、最後の一本が滑り落ち、月の光を反射して地面に転がった。
 そこではじめてイチルは、トワが左の袖だけをまくり上げていることに気づく。
 弛緩してだらりと下がった細い腕には、僅かに血の滲んだ針の痕が無数に浮かび上がっていた。
「……やだ……」少年を抱きしめたまま、少女はかくりと地面に両膝をつく。「やだよ、起きてよ、ねえ起きてよ! トワ! トワ! トワあっ……!」
 ――と。石段の下から「イチルちゃん?」と呼ぶ声が聞こえた。
 アヒトだ。
「イチルちゃん。イチルちゃんなの?」
 少女は溢れる涙をぬぐおうともせず、青年を呼んだ。
「アヒトさん、どうしよう。どうしよう!」
 アヒトは急いで石段を登ってくる。少女よりも数段敏感に、状況を察した。
「……これは……」
 アヒトはしゃがみ込んで注射器の一本を取り上げ注意深く観察すると、次はあたりを見回してその数をかぞえた。
「D。最近この街で出回っているドラッグさ。大丈夫。幸い致死量には達してない」
「……ほん、ほんとう?」
「言ってなかったね、僕は学生で、薬学が専門なんだ。まあ、そんな話は後にして、とりあえず僕が住んでいるアパートメントに運ぼう。さあ、僕が負ぶってやるから」

つづく
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小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■第一章-5

170617たときみタイトル2   *目覚めるとイチルがいて

 暑い。それなのに寒い。身体中が痛い。震えがとまらない。息が苦しい。
 暗い。なにも見えない。怖い。怖い。怖い。
 ――Dっていうのはね、
 ひやりと額に何かが乗る。やめろ、暑いけど、寒いんだ、やめろやめろやめろっ!
 ――ああもう、困ったなあ。ねえイチルちゃん、どうしてこの子、見た目の割にこんなに力が強いんだろう。いっそ縛っちゃおうか、冗談だけど。
 ――冗談でもそんなこわいこと、言わないでくださいっ。
 ――君こそ泣きながら怒るのやめてよ。どうしていいか分からないじゃないか。
 ――おこってません!
 ――つまり、泣いてるのは認めるわけね。
 ――だって、だってだってだって……
 ひっく、ひっく、少女のしゃくり上げる声が聞こえる。それが今は遙か遠くにいる母親を連想させた。泣かないで。泣かないで。おねがい、泣かないでよ、ママ……。
 ママ……っ!
 ――はい。つーかまーえた。
 しまいに、ばたつかせた両の手首をがっしりと捕らえられてしまう。のんびりとした口調とは裏腹に、どんなに力を込めてもびくともしない。大人の男の手だ。
 ――イチルちゃん今だよ、タオルとって。
 ――お花のお水、替えてきますっ!
 ――ええっ?
 ばたん。
 ――ちょっとイチルちゃん、医療は連係プレーなの! 基本中の基本!
 はなせ。はなせはなせはなせっ! でなきゃ殺せ、殺せ、殺してくれっ!
 ――まったく。イチルちゃんさえああでなきゃ、医務局送りにしたってよかったんだからね。拘束具って知ってるかい? ほらもう、無駄だから暴れないの。……おかしいなあ、精神賦活系の成分まで入ってたのかなあ、あの出来損ないのゾロに? いや、それはないな、うん、ない、絶対ない。
 イチル……? どこかで聞いたっけ。トワは不意に思い出した。
 今にも泣き出しそうな瞳でボクを見ていたあの子。
 どこへでもゆけそうな、自由の色をまとったあの子。
「イ、…………チル」
 気づいたらその名を呼んでいた。自分の口から声が出たことで、トワははっと目を覚ます。とたん金髪に眼鏡の青年の顔が、異様なほど眼前に迫っているのに気づき、驚いて息をのんだ。思わずはねのけようとするが、両手が動かない。
「やあ、おはよう、というかこんにちは、かな。それともはじめまして?」
「……?」
「あ、押し倒したわけじゃないよ、変な誤解しないでね」
「……」青年の言葉で、両手首を押さえられていることを思い出す。あの暑くて寒い悪夢は現実だったのだ。「……はな、せ……」とようやっと呟いた。
「やれやれ、第一声が命令口調? まあいいけど、もう暴れないって約束してよね」
「…………ん」どうにか頷いてみせると、青年はあっけなくトワを解放してベッド脇に立ち上がり、うんと伸びをした。
「この二日間大変だったんだよ? 大声でうなされたり、熱を出したり、吐いたり……まあ責める気は無いけど、どうぞ今後のご参考に」
「ふつ、か……?」
 呟いたそばから吐き気を覚え、トワは顔をしかめた。
「記憶が無いんだね? まあ、あの量じゃ仕方ないか。それに注射器、正規品じゃあなかったし、君はそうとう危ない混ぜ物を体にぶち込んだってわけ。気をつけてよね」
「正規品、じゃ、ない?」
「そう、たとえばあのタイプだと、消毒用アルコールに、歯科用麻酔に、馬の安楽死用の……これ以上聞きたい?」
「……もう、いい……」
 トワはのろのろと上体を起こして部屋を見渡した。
 壁際にもう一つベッドがあり、二人部屋だということがうかがえる。しかし奧のライティングデスクのうちひとつは使われている形跡がない。青年の部屋だとすると、独りで住んでいるのだろう。
 背の高い観葉植物に、あたたかな色の間接照明。そしてうずたかく積まれた本。トワの殺風景で金属質の部屋とはおもむきがまったく逆である。
「はい、吐き気止め」
 青年がスポイト付きの遮光瓶を手にしている。今時珍しい、リキッドタイプの薬のようだ。傍らの木の椅子を引き寄せて座り、まるで小児科医がするように、ウインクして口を大きく開けてみせた。
「口を開けて、あーん」
「……」
 ごっこ遊びの最中のようなお茶目な様子につられて口をひらきかけ、トワは慌てて首を振った。
「だめ……だ。チェッカーに、記録が、のこ、る……」
「え」青年は一瞬手をとめたが、すぐに困ったように笑った。「じゃあ二日前の薬剤大量摂取の記録は残らないって言うの」
「う……」
 そうだ。残らないわけがない。
 真っ先に浮かんだのが新しい監察官、由良のことだった。機械的な記録ではなく問診形態がどうのと言っていた。この調子では彼の提案を飲むしかなさそうだ。
 そこまで考えて、何ともいえぬ気持ちになった。
 そもそも、死ぬ気だったのだ。今さら取り繕う必要があるだろうか。
 おとなしく口を開ける。すかさず青年がスポイトから液体を数滴垂らした。花の蜜を思わせる香りの濃厚なシロップだった。ますます子ども扱いされている気がしてくる。
「どうして」知らず、だだをこねるような口調になっていた。「助けたんだよ」
「どうしてもこうしてもないよ」青年は遮光瓶をもてあそびながら笑う。「君が注射したのは致死量の半分にも満たなかった。たとえるならたちの悪い酔っ払い状態だったってこと。良心的に考えて、医務局に通報するかあったかい場所に運ぶか、そのくらいしか選択肢は無かったわけ。それともなに? 胃液をぶちまけてぶっ倒れているところを言葉も通じない外国の観光客に発見されたかった?」
 案外、辛辣なことを言う。と、そんなふうに感じた自分に少々驚くトワである。
 青年はふうっと息をつき、椅子にかけたままトワの方に体を乗り出した。
 ふたりの距離がぐっと近くなり、トワは青年の眼鏡越しの瞳が真剣な色を帯びたことに気づく。
「もしかして君は、生まれたことを後悔しているのかな?」
「……」
「別に答えなくていい。だけどさ」青年の表情はくるくるとよく変わる。次にはまた、あらゆる事を面白がっているような、もとの口調に戻っていた。「女の子を泣かせるようなこと、すべきじゃないよ、解るよね?」
「……女、の子?」
 ――ばん。と部屋の扉が開いた。
 やや赤みがかったキャラメルブラウンの髪の毛。角が生えたようなとんがり帽子。
 花瓶を抱いたかぼちゃパンツの少女は、トワを見てはっとヘーゼルの瞳を開いた。とわ、と小さくくちびるが動く。しかしその感激によるアクションはほんの一瞬で、瞳どころか体じゅうに怒りを滲ませたかと思うとつかつかとベッドに歩み寄り、どん、とサイドテーブルに花瓶を置いた。
 花開ききった濃いピンクのガーベラが揺れる。
 まあまあイチルちゃん。青年の言葉が「どうして……!」という低く押し殺したような声にかき消される。
「なんで、あんなことしたの。……だめだよ、あんなことしちゃ、だめだよっ!」
 みるみる涙をにじませ、わあっと声をあげて、少女は派手に泣きじゃくり始める。
「……?」
 どうして。トワもまた、心の中で問うていた。どうして、きみが泣くんだよ?
 そして、あの晩のことをはっきりと思い出していた。
 由良監察官と別れてからすぐ、慌ただしくクローゼットの中のアタッシュケースをを開け、手当たり次第に注射器をズボンやカットソーのポケットに詰め込んだ。入れる場所がなくなると両手いっぱいに十数本ずつわしづかみにし、それでも足りないと知ると両腕で残りを抱きかかえ、そして玄関のオープンパネルを足蹴にして外に出た。
 桜を目指して駆けているあいだは不思議な気分だった。何か新しいことが始まる、清々しい予感――。死というものに直面すると、ひとはこんなにも生を実感して嬉しくなるものなのか。どうして? どうして? どうして?
 答えが出ぬまま、巨木の根元までたどり着いた。
 最初の一本目は、やはり怖かった。震える手でプラスチックのキャップを外すと、長さ一センチメートルにも満たない細針があり、それは同じくプラ製のサークル型ガードに覆われていた。ガードごと肌に押し当て、先端と逆のプッシュボタンを押すと針が飛び出し、機能する。ペン型と呼ぶにふさわしい、筆記具のような作りだ。
 血管に刺すようにすれば、よく効くのだろうか。トワには何の知識もなかった。だが左腕をまくり上げてみると、肌は月明かりに焼かれて青い焔のような光を放っており、いったいどこが血管なのか判別がつかないほどだった。手首よりもひじ寄りの内腕部へ直角に注射器をセットし、痛みを予想してくちびるを噛み、右の親指でボタンを押す――。
 ぱしゅ。
 ちく、と『痛み』には程遠い感触とともに極細のシリンダーが作動し、ぽこぽこと微細な泡を立てながら透明な液体が腕に吸いこまれていった。意外とあっけないんだな、そんなふうに思った刹那――
 どくん、と五感が振動した。ただあわあわとしていた桜たちが色合いと輝きを一瞬にして増し、砂を巻き上げるような音を立てて散ってゆく。頬を、首元を撫でて流れてゆく花びらの一枚一枚が心地よく、くすぐったい。そのひとひらを知らぬ間に飲み込んでしまったのだろうか、喉の奥から何やら甘い香りがしてくる。
 あああ……笑いとも感嘆ともつかない声をほとばしらせていた。
 それからは何のためらいも無かった。
 ぱしゅ。
 ぱしゅ。
 つぎつぎ左腕に打ち込んでゆく。何本目からか、右手の親指だけでキャップをはじき飛ばせるようになり、トワの行為は加速した。
 ぱしゅ。
 ぱしゅ。
 気がついたら桜の花びらを浴びて、踊るようにくるりくるりと周りながら注射を続けていた。が、それが最後の記憶となった。
 そのはずなのに、
「イチ、ル……」。
 少女の名前が懐かしい想い出のように、口をついて出た。「泣かないで……イチル」
「トワのばか、トワのばか! ばかトワばかトワぁ……!」
 うわああああああん。イチルは大泣きを続けている。青年が椅子から立ち上がり、伸びやかな腕で少女を抱くようにして背中をぽんぽんと叩いた。「よしよし、イチルちゃんもよく頑張ったね。お腹空いたでしょ、僕が何か美味しい昼食を調達してくるから、ちょっと待ってるんだよ。……というわけで」
 青年はイチルを椅子に優しく導き座らせると、意味深な瞳でにっこり笑った。
「涙の責任とってあげてよね、トワ君?」
「……え」
「じゃあ。大人は楽しくお買い物。ばいばーい」
 左手で無造作にポケットの中を確認しながら、青年は部屋を出て行く。
 ぱたん。
 ……静けさがやってきて、ひっく、ひっくとしゃくり上げるイチルの声が響いた。
「イチル……あの、いまさらだけど、あのひとは」
「アヒトさん」鼻をすすりながらイチルは怒ったように答える。「あなたの命の恩人!」
「……うん……助けてくれて、ありがとう」
「だから、助けたのはアヒトさん」
「……うん……」
「ありがとうって、ほんとうにそう思ってるのっ?」
「……たぶん」
「じゃあ言って。アヒトさんが戻ってきたら、ちゃんとありがとうって言って」
「……わかったよ」
「トワ」ぐすん。イチルはまだ泣き止む気配がない。だがようやく表情を緩めた。「トワ、よかった。トワ、生きててよかった。トワ、……」
 ……出会えてよかった。
 最後のひと言はとても小さいつぶやきで、トワにはよく聞こえなかった。
「……」トワはそのまま黙り込んでしまう。薬のおかげで吐き気は治まりつつあったが、まだ今ひとつ助かったという実感がない。
 というか、助かる必要など、無かったのだ。普段の黒い孤独が胸の奥でじくじくと湧きあがりつつある。
「ほんとうに……」気づけば暗い目をしてイチルに尋ねていた。「よかったのかな」
「どうしてそんなこと言うの?」
「きみはボクのこと、なにも知らないから、簡単に、よかったなんて言えるんだ」
「じゃあ教えてよ。トワのこと、教えてよ……」
「……ボクは、監察官つきの被検体なんだ」
「……」
 少女がはっと息をのむのが分かり、トワはますます自虐的な感覚をつのらせる。
「父親からの虐待が明るみに出たことで検体リストに載った。おかげで人間扱いされたことなんて無い。しばしば、感情がコントロールできなくなる……こんな、ふうに」
 トワはゆっくりと左手をサイドテーブルに伸べ、ガーベラの花を一輪、すくい上げるようにした。
 目を丸くしてのぞき込んだイチルが「あっ」と小さく声をあげる。
 少年の手の中で花は無残に握りつぶされ、しわくちゃになった濃いピンクの花びらがはらはらと散った。
「……ひどい……」
「そうだよ、ボクはきみのことなんて、今すぐにでも殺すことができるんだ、だから」
「トワ、ひどいよっ!」
「え……」
 イチルはすこしも恐れる様子を見せない。両のこぶしを握りしめて、必死に訴えた。
「過去とかコントロールとか知らないっ。いまは、トワがお花を拒絶したんだよ!」
「……?」
 トワには正直よく解らない。
「お花が枯れるのは、トワがお花を怖がるから。たったそれだけのこと……」
 少女の手がトワの手を、枯れたガーベラの下からするりと取った。
 そんなことは初めてのことだった。母親さえ、我が子の手を恐れ、触れようとはしなかったのだ。
「ダメだッ!……やめろっ」あまりに突然の出来事に、避けるのが遅れた。懸命に少女の手を引き離そうとするが、あろうことか少女はもう一方の手を添え、逆にぎゅっと握ってくる。
「こわがらないで、トワ」
「はなせ、はなせよっ!」
「こわがらないで」
「きみを傷つけたくないんだ、お願いだから……!」
「……そう、それが、トワの本当のきもちだよ。だからだいじょうぶ」
「……?」
 トワは抵抗をやめ、おそるおそるイチルの顔をのぞき込んだ。
 ヘーゼル色の瞳は生き生きとしたひかりをたたえ、揺るがない。
「ほらね、だいじょうぶだよ、トワ」イチルは優しく笑う。「ぼくは生きてる」
「きみは、いったい……」
「ぼくは……ね」
 イチルは決心を固めたように立ちあがると、片膝をベッドにかけた。そのままふわ、と無防備な少年に覆い被さる。ふたりの軽い体重ではマットレスはまったく軋みもしない。
「もう、まてないよ。こういうときは、実力、行使っ」
「……、は」
 トワはとっさに両手を後方につき、のけぞるようなかたちで少女から逃れようとした。
 にしても、近い。
「じ、じょうずに、できるかなっ」
「……、なにが」
「じつはぼく、」イチルは頬を染めて恥ずかしそうに言う。「はじめて……なんだよね」
「だ、だからなにが」
「なにって、こんな体勢ですることっていったら、きまってるじゃない」
「こ、こ、ここじゃ、まずいんじゃ、」
「アヒトさん、いいって言ったよ」
「は、うそだろ……いや、でも、ま、まてよ」
「まてないっていったよっ、だってぼく、もうこんなに、あっつくなって」
「まっ……、あ、え……?」
 ぴた。
 イチルの両手がトワの白い頬を包んだ。言葉のとおり、熱い。それが体のぬくもりに由来するものというより、どこか無機的な温度だと気づく。内蔵端末だ。間もなくイチルは、
「ようし、メディカルスキャン、開始っ」
 と告げてますます手に力を込めた。薄い碧眼と少女の丸い瞳がぐっと近くなり、真正面から向かい合う。
 ぱっ、ぱっ、ぱっぱっぱっ、ぱぱぱぱぱぱ……ヘーゼルの中にブルーの輝きが入り交じり、それは激しいパルスとなって少年の中に入り込んでくる。
 メディカルスキャンはいつも、何度でも過去の壮絶な体験をえぐる。
 トワの体は、事後の拒絶反応を予見して固くこわばった。感情の抑制機構が発達しているという話なのに、スキャニングは痛みや呼吸困難を引き起こし、一時的ではあっても強烈な苦痛をともないながら少年に浸透してゆくのが常であった。嘔吐することも、床をのたうち回ることも珍しくはなく、そして医務課のスタッフは総じて無視を決め込むのだった。
 きみも、同じなの?
 もはや表情を失ったイチルに、泣きたいような気分で問いかけていた。
 ぱぱぱぱぱぱぱぱ、ぱっぱっぱっぱっ、ぱっ、ぱっ、ぱ。呼応するように読み取り速度が落ちてくるのがわかる。青いパルスの点滅は収束へ向かっていた。もうすぐ終わる、そして、苦痛がやってくる、いやだ、いやだ、いやだいやだいやだ――。
 ぱ。
「……あれっ、トワ……」
 光を取り戻したヘーゼルの瞳がたちまち困惑の色を浮かべる。
「ごめんなさい! 痛かった? 苦しかった? いや、だった……?」
「う……、?」
 自分よりもよっぽどつらそうな顔をする少女に、トワは我に返る。
 痛くない。苦しくない。さらに数秒待ってみたが、変調は起きなかった。あわてて首を横に振る。
「な、なんともない、よ」
「だってトワ……」
 やさしい指が、そっと少年の目頭をなぞる。さっきの熱がうそのように、ひんやりとした感触がした。
 ウイルスよりも、はるかに強い違和感。トワははっとして自らもその目元に触れた。
「あ、れ?」
 ……。
 泣きたいような、ではなく、本当に泣いていた。由良の言葉を思い出す。
 ――今回は試験的に私が処置をしますが、のちほど私とは別の専門スタッフがこちらへ派遣されてくる手はずです。
「きみ、だったんだ」
 何故か、安堵を覚える。涙は止まらない。「きみ、だったんだね」
「ねえトワ、どうして泣くの」
 少女は早くももらい泣きをはじめていた。
 トワは笑った。笑いながら泣いた。
「わからないよ、きみだって、どうして泣くんだよ」
「トワにわからないんだったら、ぼくにもわからないよっ。んもう、トワの泣き虫っ」
「おんなじだよ、おんなじじゃないか」
「ちがうもんっ」
 イチルは少年を押し倒したような体勢から一転、ベッドからぴょんと降りると立ったままひとしきり涙をぬぐい、どこか晴れやかな表情でこう言った。
「トワが破壊の塔なら、ぼくは愚者。お父さんにいつも言われるの。はじまりも終わりもない、空っぽのイチル」
「からっぽ……?」
 そんなはずはない。トワは愕然と少女を見つめる。これだけ生命力にあふれていて、本気で泣いたり怒ったり、笑ったり。初めて出会ったばかりなのにこんなにもボクのことを揺さぶるこの子が、空っぽなわけがない!
 検体の烙印を押されて育ち、そのことに何の疑問も抱かなかった自分が、愚かというより呑気に思えた。「被検体って、」と惚けたように呟いていた。
「ボクが機関に管理され続けるのは、どうしてなんだろう……」
「ねえ、トワ。約束しようよ!」
 イチルは唐突に切り出した。
「え?」
「一ヶ月後のぼくの誕生日、アヒトさんと三人でお祝いするの。ね、やくそく!」
「たんじょうび?」
「約束ったら約束!」
「どうして」
「だって、誕生日なんだもん」
「だからどうして」
「どうしてって、どうして? お祝いしてくれないの?」
「…………う、ううん」さっぱりわけがわからなかったが、イチルがふたたび丸い瞳をうるませたのを見て、トワはあわてた。首を横に振ったらいいのか、縦に振ったらいいのか判断できなくなり、けっきょく「うん」とおおきく頷いた。「する。おいわい、するよ。しよう、おいわい、三人で、うん」
「よかったあ!」
 イチルはトワの手をいっそう強くぎゅっと握った後、こんどはその手を万歳させ、蔓草柄のブーツでたん、と高く飛び上がって喜んだ。
「よかった、よかったあ! トワ! いっぱい、いっぱいお祝いしようね!」
「……う、うん」
「ケーキ、たべようね!」
「……うん」
「プレゼントも、くれるよね!」
「……そう、だね」
「トワ、ハカイっていうのはね!」
「……え」
 くるり。イチルは両手を広げてバレリーナのように器用な一回転をした。
 ヘーゼルの瞳は燦々とした太陽のようなひかりをたたえている。

「――運命が、はじまる場所、だよ」

つづく
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小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■第一章-6

170617たときみタイトル2   *ブラックバイトお断り

「でーきた」
 タシッ。青年のしなやかな指が、青く発光したキーボードを叩く。
 伸び放題の色褪せた金髪を、さらにわざと目元が隠れるほどぼさぼさにスタイリングしているのでプードル犬か何かのようである。白衣の上からピンクとブラックのストライプ柄をしたマフラーを口元まで巻き付けているので、少しくぐもった声をしている。「最終チェックよろしくー、必要無いけど」
「お疲れさまでした、チーフ」
 部下の研究員たちは十数名。いずれも青年より一回りほども年上に見える。
「第二回の締め切りって土曜日だったっけ、全然余裕、俺、天才?」
「お、おっしゃるとおりです、ミカサ様」
「それにしても邪魔だねえ」
「は……」
 ミカサは今しがた組んだプログラムである数字と記号、アルファベットの羅列を舐めるように見た。
「ここ。この感情抑制プログラムってやつ。解けないようになってるし。こんなのが働いていたらせっかく精神抉るスキャニング機構も色褪せちゃうし。思い切って取っ払っちゃおうか、組んじゃうの、解除コード」
「しかしチーフ、それでは医務課の許可が……」
「えー。なになにそれそれ。俺にご意見するわけ?」
「い、いいえ、そんな……ガッ!」
 青年はにわかに立ち上がり、部下を思いきり殴りつけた。倒れ込んだその腹を何度も何度も蹴りつける。「どうも、ありがとう、ございまーすっ! すっごく、参考に、なり、まし、た!…………あ」
 突然冷めた目つきになり、研究室の時計を見上げるミカサに、周囲もしんと静まる。
「…………み、ミカサさま、どうなさいました……」
「定時。帰る」
 白衣の襟をぴんと引っ張り、その上から幾重にも巻き付けたマフラーを少し直すと、ミカサは手ぶらで部屋を出て行く。いつものことながら、研究員たちはあっけにとられてそのすらりとした背中を見送った。

「……あ?」
 硝子張りの風除室を抜けると、鈍い銀灰色の衣服に身を包んだ細身の青年が無表情で待ち構えていた。
 由良である。
「なに、退いてくんない? 定時なんですけど。ブラックバイトお断りー」
「ミカサ、といいましたか」
「そうそう、ミカサ様、ね」
「言わずもがなですが、あまり好き勝手されては困ります。特に職員への暴力に関しては、こちらとしても黙って見ているわけにはいきませんよ」
「あっそう、じゃあ俺、辞めるわ」
「それも困ります」
「なんなの、オマエ」
「医務課の由良と申します」
「それは知ってるし」ミカサはマフラーに顔をうずめてひひひっと神経質そうに笑う。ぼさぼさの金髪がわずかに揺れるが、目元はうかがえない。「俺、オマエのこと嫌いだし」
「そうですね、正直私もあなたのことはあまり好きではありません」
「ふーん。じゃあ、喧嘩的なことしちゃう?」
 ミカサは白衣のポケットから勿体ぶった仕草で何かを取りだし、ちらつかせる。
 医療用の使い捨てメスだ。ぱきん、と慣れた手つきで刃のガードを折って捨て、そのまま横殴りに由良の顔面を勢いよく切りつける。
 が、由良はぴくりとも動かない。ただの脅しだと見切ったのだ。
「医療器具がお好きならば医務局送りにして差し上げてもかまいませんよ。一週間ほど拘束ベッドつきの保護室で過ごしていただいて、日ごろの疲れを癒しては?」
「三食昼寝つき? すっごい豪華……ッ」
 びゅ。ミカサは今度は確実に青年の頸動脈を狙った。由良は素早く反応し、右手でメスを受け流したかと思うと、間髪入れず逆の手でミカサの喉を捕らえ頭部を壁面に叩きつけた。力加減に微塵の遠慮も無い。鈍い音とともに後頭部を打ったミカサは一瞬白目をむいた。その左手からぽろりとメスが落ち、音もなく転がる。
「……い、っってえ……。オマエ、見かけによらず、すごいのね、」
「具体的にどこが嫌いなのか申し上げましょうか」ぺき。ミカサの喉を押さえたまま、由良はメスを踏みつけた。「その目ですよ。その、死んだような目」
「目つきが悪くて懲戒解雇?」
「ご冗談を」青年は口元にうっすらと笑みを浮かべた。眼は笑っていない。「あなたをスカウトしたのは私ですから、監督責任はあれど解雇は難しいですね」
「俺、どうすればいいわけ。とりあえず手、離してよ、苦しい、っつーの」
「ええ、本題に入りましょうか」
「だから、定時だって」
「これ以上痛い目を見たくなかったら少し話を聴いてください」
「あー、やだやだ、ほんと、見かけによらず横暴上司。わーかりました、お願いしまーす、手短に」
「かしこまりました」
 由良はようやくミカサの喉もとから手を離した。ミカサはたまらずむせた後、乱れたマフラーをふたたび口元まで引っぱり上げ、ぼさぼさの前髪越しに文字通り死んだような一重の目で由良を睨みつける。
「スキャニングプログラムの件ですが」
「前置きいらなーい。話題、どう考えてもそれしかないし」
「黙って聞きなさい」
 ……チッ。これみよがしに舌打ちするミカサを尻目に由良は続ける。「先日、スキャンを実行した際、被検体に著しい苦痛の反応が現れました。これまでの物理的な血液検査によるデータは詳細にわたってあなたに閲覧いただき、与えうる苦痛は最小限にするよう指示したはずです。専門外なので具体的な提案は控えますが、悪ふざけもほどほどになさいますよう」
「すっごく心外。べつに、ふざけてないし」
「でも、楽しんでいますね」
「まあさー、楽しくなかったらこんなお仕事引き受けないし」
「被検体とあなたは違う」由良はやや語気を強めた。「彼はまだ、たった十四才の少年なのですよ」
「あれれれ、なになにそれって、親心的なやつ?」
「お好きに解釈していただいて結構。話は以上です、お疲れさまでした」
「……は?」
 銀色の睫毛を伏せ、由良はくるりと踵を返した。
 足音をほとんど立てない洗練された身のこなしでさっさと施設の出口へと向かう。

「…………いい気になるなよな」

 ミカサの口調が一変した。マフラーを片手で引き下げ、立ち止まろうともしない由良の背中に向かって警告のように、低い声を発する。
「そのいたいけな少年とやらをイカレたプログラムで滅茶滅茶にして利用しようとしているのはオマエらの方じゃねえか。笑わせるな、オマエも俺と同類なんだ、それどころか嘘っぱちの感傷に浸っているぶん、オマエの方がよっぽど悪趣味だぜ、覚えておけよ……」

第一章おわり。つづく
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小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■第二章-1

   二*ボクはとてもなつかしくてひどく悲しいことを思い出した
170617たときみタイトル2
   *燐とマナ

「スラムの病院跡へ行って、確認を取りました。ARIAといいましたか、体裁はバーを装っています。トワという少年は確かに来たのだそうです」
 端整な顔立ちの男(あるいは女かもしれない)は無感情といってもよいほど静かな調子で話す。
 正面の革張りの椅子にかけた燐(りん)は執務机にほおづえをつき、ぼんやりとした顔で明後日の方向を見ている。ゆるやかなウェーブを描き角度によってシャンパンゴールドに輝く、長めの薄茶色の髪。その整った横顔は病的に青白く、なまぬるい生気を廃したような印象である。憂いと気怠さ、そして妖しげな強さを宿したラベンダーアメジストの瞳は、澄んでいるが死湖のように光を照り返さない。十ほども年下の部下とはまた違った、独特な透明感のようなものを有した外見をしている。
「またか。お前は見かけによらず酔狂な真似をする」
「ご心配には及びません」
「私がお前の心配など、すると思うのか」
「思いません」
「だろうな」
「トワに接触し、ふとしたことから興味が芽生えたのです。神託属性及びナンバーを持たない生命体とは、いかなる存在なのかと」
「それで」
「勤務中だったので深煎りの珈琲はあるかと尋ねたら、帰れと怒鳴られました。そもそもリーダー不在とのことで、冗談だと説明する間もなく叩き出されてしまい……」青年はおかしそうにクスリと笑った。「ですので次回は勤務時間外を狙って、珈琲リキュールがあるかどうか調査に」
「由良」燐は今度は子どもをたしなめるようにして青年の言葉を遮った。「そんなに暇ならば他にいくらでも任務をやる。医務課の一スタッフとしてお前を捨て置くなど、勿体ないにもほどがある」
「成人を迎えたら好きなポストに就けてくださるとお約束なさったのはあなたです。お父さんは約束をけっして違えない。尊敬に値します」
「お父さんなどと呼ばないのも約束だったはずだが」
「これは失礼」
「お前の気まぐれに付き合っていては身が持たん。さっさと報告義務を果たせ」
「申し訳ございません。書類は只今作製中でして」
「途中でもかまわない」燐は手元のキーを操作して背後の巨大なスクリーンにスイッチを入れ、椅子を反転させた。ブゥンという鈍いファンの音とともにあふれる無機的な光に目を細める。「今すぐ転送しろ。お前のことだ、どうせ愚にもつかぬ言の葉を逐一吟味でもしているのだろう」
「ご名答です」
「たとえお前にその手の才能が備わっていようとも、私は何ら感知しない、さっさと……」
「転送は不可能です」
「何?」
「そもそも現在作成しているのは報告書ではなく申請書なのです、それも――」由良は勿体ぶって言葉を切り、わざわざ燐が自分の方を向くのを待ってから言った。
「――レトロスペック社純正の万年筆による手書きの、ね」
「帰れ」
「その言葉を聞くのは本日二度目となります」
「もう一度言おうか」
「そうかっかなさらず。手ぶらで参ったわけではございません。どうぞこちらを。チューニング済みのデータをストリーミング再生、およびリワインド等も可能です」
 額に落ちかかる髪をかきあげ、手渡された小型メモリを無表情に眺める燐である。何世代も前のミュージックプレイヤー型になっていて、左から端末への接続プラグ、極小モニタ、銀色の十字キーなどが順に並んでいる。
「……何だこれは」
「さすがお目が高い。レトロスペック社の復刻レコーダーシリーズでも最新の5DSバージョンのうち、もっとも投影機能に優れた、」
「黙れ。使い道だけ聞いておこう」
「まず端末へ接続してください。自動的に同期が開始されます。手前の電源ボタンを右にスライド、未視聴のポイントに飛ぶには十字キーの左を長押しです」
「……まったく、何のための内蔵端末だ」
 ぴこ、ぴこぴこ。オズの苛立ちをよそに、メモリはまさに玩具のような音を立てる。
 とたん燐が先ほど起ち上げた執務室のスクリーンモニタが作動し、端整な顔立ちの青年が大写しになった。銀灰色の瞳の光彩は絶え間なくパルスを放ち、それを下から見上げているような形になる。
 ――髪が濡れていますね、風邪を引きますよ。……実はミキ女史からの引き継ぎは、ごく簡単にしか行われなかったのです。お互い何かと忙しいもので。ですから今日の検診はすこし時間がかかります。大切な実験体のあなたに風邪でもひかれては――
「私の顔など見飽きておられるでしょう。右キー長押しでファストフォワードを。先ほど言いかけましたが5DSバージョンの最新機能で、」
「黙れ」
 ぴこ……。
 こんどはとんがり帽子の少女の姿が一回転して映り込む。
 ――なんで、あんなことしたの。……だめだよ、あんなことしちゃ、だめだよっ!
 ヘーゼルの瞳をみるみる潤ませ、わあっと声をあげて、少女は派手に泣きじゃくり始める。
 ――トワのばか、トワのばか! ばかトワばかトワぁ……!
「……ほう」
 燐は薄く笑う。少女を投影させたままレコーダーから手を離し、スクリーンを眺めながら人差し指と親指で自らの顎を撫でた。
「一体どうやってこのような真似を」
「スキャニングついでに、彼……トワの視神経に電磁的なプログラムを組み込んでおきました。位置情報との連動は必要無いと判断し、ごく単純に映像と音声のみが中継されるだけの仕掛けです」
「悪質だな」
「そうでしょうか」
 と。
 執務室のスライドドアが開いてひとりの少女が姿をあらわした。年は十三、四というところか。だがそれにしては大人びていて、どこか艶のあるほほえみをしている。腰まであるやわらかなロングヘアを揺らして燐へと近づいてゆく。いたずらっぽい瞳で問うた。
「お父さま、ごきげんいかが?」
「マナ、おいで」
 燐は少女を自分の座る椅子の真横に立たせるとシフォンのドレスの腰に手を回して引き寄せるようにする。「ほらご覧、お前の片割れが」
 ――よかったあ! よかった、よかったあ! トワ! いっぱい、いっぱいお祝いしようね!
「やだ」少女は椅子の肘掛けにもたれかかると、スクリーンに映し出されたイチルを見てクスクス笑った。「お父さまったら悪趣味ね」
「由良の仕業だ。私もお前と同意見だよ」
「由良ったら、こんなことをしたら可哀相じゃない」
 ――ケーキ、たべようね! プレゼントも、くれるよね!
「ではお嬢様」由良はかしこまった仕草で胸に手を当ててみせた。「お望みであれば次回コンタクトした際にプログラムのアンインストールを」
「いいのよ、面白いもの」マナは由良の方を見ようともせず、燐の瞳にくちびるを寄せた。「そうよね、お父さま?」
「悪い子だな、マナ」
「だって私、お父さまの娘だもの、この子と違ってね」
「ああ、その通りだ。ここに映っているのはただの出来損ないだ」
 ――トワ、ハカイっていうのはね!
 くるり。両手を広げてバレリーナのように器用な一回転をするイチル。
 その瞳は燦々とした太陽のようなひかりをたたえている。
 ――運命が、はじまる場所、だよ。
 くっくっくっ。燐はとうとう笑い声を上げた。
「由良、どう思う?」
「想定外に画質が良く大変驚いております」
「いいかげん無理な戯言はよさないか」
「……。とにかく、現段階ではまだ調査中です。しいて今申し上げるならば、彼女は精神感応力に対して耐性がある。育ちに由来するのでは?」
「まったく滑稽だな。笑いが止まらん。破壊の申し子と愚者の組み合わせとは……」
「そうでしょうか」さきほどと同じ返答。しかし今度は何故か口調に憂いを滲ませた由良である。
「私には二人がどこか似ているように思えてなりません。特に、破壊の色に染まりきるには、トワはまだ脆すぎます。傷つき、そして癒やされることを知り、成長してゆく事を祈りましょう」
「へんな由良。こんなばかな子の肩をもつなんて」マナが賑やかな笑い声をたてる。そしてあざけるように繰り返した。
「ほんと――ばかな子」

つづく
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小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■第二章-2

170617たときみタイトル2   *学校風景

 アヒトたちのすすめもあり、体調が回復するまでもう一日休みをとって、三日ぶりに学校へ向かった。
 といってもトワの所属は夜間部であり、もともと休みがちである。少々の例外はあれど、最低限の単位を取得していれば医務課からも教員からも、特に何の咎めも無い。
 夜間部の授業は主に端末を用いた自習と、プログラムごとの単位取得試験からなる。
 服装は自由。トワはいつも黒のカットソーの上に同色の半袖パーカーを着込み、フードを目深にかぶって登校する。自分で染めたとはいえプラチナブロンドの髪や、生まれつきの薄く澄んだ碧眼は、夜になるとわずかな光をも反射してかえって際立つ。嫌だった。目立ちたくないのだ。
 ……が。
「こんばんは、トワちゃんよ。待ってたんだぜ」
 教室の後ろ側のドアから入室するなり、ナコに足止めをくらった。最も会いたくなかった人物である。ぼさぼさに伸ばされた艶やかな黒髪に、はっきりとした二重の琥珀色の瞳。背はトワよりもすこしだけ高く、すらりとした手足にはほどよく筋肉がついていて、中等部の生徒としては早熟な印象である。
「……」
 トワはパーカーのポケットに手を突っ込み、ますます背中を丸め、うつむいて素通りしようとした。
「無視すんなって、いつも言ってんだろ……!」
 ナコはもたれていた壁から一瞬ゆらりと身体を起こし、一歩大きく踏み込んでトワに接近した。
 ひゅ、と何かが勢いよく空を切る――。
「……ッ!」避けられないと即時に判断したトワは精いっぱい顔を右に背けた。
 数秒の沈黙。遅れて左の頬がぴり、としみるように痛む。
「へえ、さすがトワちゃん、反射神経抜、群」ナコは手首を返してぺろっと舌を出す。握られていたのはどこにでも売っているカッターナイフだった。「何針か縫わなきゃならないくらい切ってやろうと思ったんだけどな」
「……」
 トワは脱力したようにふただひうつむき、フード越しに瞳だけで斜にナコを見上げた。ポケットの中の手もそのまま、頬につけられた傷に頓着する様子も無い。
 ナコが苛立たしげに舌打ちをする。
「なあ、何か言えよ」
「……どいてくれる」
「――お前……!」
 ナコはナイフと逆の手でトワの胸元をどん、と乱暴に突き飛ばした。後頭部を激しく打って一瞬意識を失いかけるも、それさえ許すまいとするかのように間髪入れずみぞおちに蹴りがぶちこまれる。華奢な身体はあっけなく前のめりにくずおれた。
 うかつだった。間合いが取れない距離では、力も体格も勝るナコの方が有利である。
 鋭い痛みとともに吐き気が襲ってくる。苦しくて息が吸えない。
「……ナ、コ」
 不本意にも懇願するような声しか出ない。ナコはそれを聞いて満足したように笑い、少年から一歩身を引いた。これ以上痛めつけないという意思表示だ。トワはよろよろと起き上がり、たまらず咳き込んだ。
 普段のナコは悪ふざけを超える範囲のことは仕掛けてこないが、事情が事情である。スラムでの出来事はおおかた彼の耳に入るであろうし、またそれがたったの二晩でとなるとまさに誤算だった。しかしあの店と少年との繋がりはどこにあるのだろうか。思わずもの問いたげな目をしたトワに、ナコは当然といった口調で要求をした。
「金だよ」
「……ないよ」
「勘違いするな、お小遣いをせびろうってわけじゃない」
「じゃあ、なに」
「Dの代金さ」
「……」
 ある程度想定はしていたが、やはり動揺を隠せなかった。何故ナコが。
「少なくとも三十本。誰かに売ったんなら金があるだろう?」
「……売ってない。それからあれは、正規品じゃ、なかった」
「な……」今度はナコが動揺する番である。「お前まさか、自分で、」
 その時、
「ナコ」と教室前方の側から鋭い声がかかった。低くてよく通る、大人の男の声だ。「校内での銃火気及び刃物の所持は禁止だ。ただちにこちらへよこせ。それから根拠の無い言いがかりはやめたまえ」
 男はややウェーブがかった黒髪をわずかに揺らし、整然と並んで青いひかりを放つ端末の間をぬってまっすぐに歩いてくる。清潔なシャツの袖は無造作に肘までまくり上げ、飾り気の無い細身のタイもすこしだけ緩めている。ナコを見据える瞳はいっけん漆黒だが、モニターの光を受けてときどき深い緑を照り返す。
「慎也」ナコは平気で担当教員を呼び捨てにする。「よく見ろよ。ただのカッターだ、文房具だぜ」
「よく見なくてもわかる」慎也はふたりのそばまで来ると、堂々と差し出されたナイフではなくトワの頬を見た。すっと手を出して傷に触れようとし、トワが顎を思いきり引いて拒んだのを面白がるような表情をする。そのままナコを見ようともせず続けた。「刃を替えているな、ただのカッターナイフでこんな傷になるものか。やることがいちいち小狡いんだ。これだから君のことは好きになれない」
「べつにあんたに好かれたくてここに来ているわけじゃないさ」
「いいのか、そんなことを言って。後悔しても俺は知らないぞ」
「へえ、それどういう意味? 言葉巧みに指導室に連れ込まれちまうのかな、それとも冗談抜きにホテル?」
「残念だったな。俺のリストの中では、君は完全に守備範囲外だ」
「あっそう、ほーんと、残念だよ。それからなあ、」
 軽口を一転、ナコは語気を強める。
「根拠はあるさ、実際オレはこの目で見たんだ、こいつがバーに入ってDのケースを奪っていくのをな。おまけにひとり、大怪我させたんだぞ」
「バーというのは何のことだ。ひょっとして君の実の兄上が出入りしている場末の酒場のことか。名前は確か……タク」
「きさま、何が言いたい」
「君こそだ、堂々と示唆するわけか、親族が違法薬物の横流しに手を染めていると。言い方を変えるが、そこまでして君をここに通わせている兄の顔に泥を塗るのかと」
「……!」ナコは敵対心を剥き出して慎也を睨みつけた。濃い琥珀色の瞳が狩りのときの獣のようである。
「なんでだよ、なんでそうやって、いつもそいつをかばうんだ!」
「贔屓に理由が必要なのか?」
「……な……」
 こともなげに言ってのけた慎也に、さすがのナコもあっけにとられる。ちなみに「な」はナコが驚いたときの口癖である。
「……話にならねえ。一生そうやってろ! 変態教師!」
「始業時間を過ぎている。席に着くか早退届の提出か、どちらか選ぶといい」
 ナコはこれ見よがしに舌打ちすると、足早に廊下側の席まで行き、乱暴にキーを叩いて端末へパスワードを入力した。こうなると大人しくなる。なんだかんだ問題はあるが、授業態度だけは真面目である。
 トワも慎也から逃げるように窓際後ろの自席へ向かった。
「ところで」
 慎也は教室内を見渡し、首をかしげた。「おかしいな、今日から……」
 ――とたん、部屋前方のスライドドアが作動し、勢いよく何かが飛び込んできた。
「遅れましたあっ!」
 ……!
 末席のトワははっと目を丸くした。十人ほどの教室内の生徒たちも驚いて入り口を見ている。
 とんがり帽子にピンクのかぼちゃパンツ。少女はしばし両膝に手をついてぜいぜいと息を切らしていたかと思うと、次にはあたふたと額の汗をぬぐい、キャラメルブラウンの後れ毛を雑に撫でつけると深々とお辞儀をした。
「今日からお世話になりますっ! 転入生のイチルです! 趣味は歌うことと、おいしいものを食べることと、それから、えっと!」
「君」慎也が意地悪いほどの冷静さで声をかける。「せっかくだが夜間部での自己紹介は不要だ。とりあえず落ち着いてくれないか」
「えっ」顔を上げ、無表情で近づいてくる慎也を見て目をぱちくりさせるイチルである。「せ、先生そんな、だってぼく、お昼中ずっと、食べる間も惜しんで練習を」
「転入早々の遅刻理由ならばあとで俺が個人的に聞く。すぐに単位取得のプログラムに取りかかりなさい。パスワードのデフォルトは十二桁の1、今日中に変更しておくこと。席は」
「席は、トワのとなりですっ!」
「は?」
「取得プログラムもトワと同じがいいですっ!」
 背伸びして教室を眺めてトワを発見すると大きく手を振る。「トワ! これで昼も夜も会えるねっ!」
 ……。
 トワはあわてて下を向いた。イチルのことは勿論だが、慎也の視線も同じくらい痛い。
「イチル君といったか」
「言いましたっ!」
「声が大きい。プログラムは個人の修学レベルに応じて組むんだ。事前の提出が無かったのでこちらとしても少々困っていたのだが」
「ですからトワとぉ……」
「そういった筋の通らない要望は却下だ。急で悪いがレベル診断テストを受けてもらう。席はまあ、空いているからトワ君の隣でいいだろう。五分後にデータを送信する。初期設定を開始しなさい」
「わあ、ありがとうございますっ!」
 慎也にぺこりとお辞儀を返し、イチルはつかつかとトワの方に歩いてくる。スツールにちょこんと腰かけると九十度回転してトワの方を向き、両手を頬にあてにっこりと笑った。
「よかったあ。やさしい先生だねっ、トワ」
「……」
 甚だしい勘違いをしていることに無論イチルは気づいていない。仕方なくトワは小声で、「はやくしなよ」とだけささやいた。
「えっ、なにを……?」イチルもつられて小声になる。
「初期設定……」
「ってなに?」
「う……」トワは急いで慎也の方を盗み見た。薄暗い中、つまらなそうに自分のリストウォッチへ見入っているのを確認してからすこしだけイチルの方にスツールを寄せる。
「……どれかキーにタッチして、モニターが起ち上がったら、ウインドウに1を十二回……」
「えーと、いち、にっ、さん、し、ご、ろく……」
「も……もう、貸してよ」トワは右腕を伸ばして慌ただしくテンキーをあと六回叩いた。次のポップアップが出る。「識別ナンバーは」
「しきべつ……えっと、あ、うん」イチルは薄手のセーターのハイネックに両手を突っ込みごそごそと探る。しゃら、と音を立てて現れたのはペンダント、いや、小さなドッグタグである。数字の羅列が刻まれていた。トワは一瞬あっけにとられる。自分のナンバーを覚えていないのか……?
 結局イチルはたっぷり五分かけて数字を打ち込んだ。とりあえず端末はそれで機能する。
「時間だ。起立したまえ」間髪入れずに慎也の声がかかる。
 データの着信アラームが鳴り、イチルの眼前には診断テストのタイトル画面が広がる。あろうことか慎也は教室の大きなモニターに、フルスクリーンで同じものを表示させた。トワは思わず顔をしかめる。転入早々、皆の前で辱めようというわけだ。
「シンプルな四択だ。理数と文系のミックスで問題数は無制限、十五分間でどれだけ早く、たくさん解くかでスコアを算出する。準備は?」
「先生、えっとぉ」言われたとおり立ち上がるが困惑顔のイチルである。「じゃあ、答えが1だったら1を押して、2だったら2を押して、3だったら3を押して、4だったら、」
「それでいい。始めよう」
 慎也は最後まで聞かずに、スクリーン左側のユニットを操作した。読み込み中のバーが数秒間表示されたのちピポと音が鳴り、ぱっと『Q1』の画面があらわれる。
「……えーと、カーンバーグの、理論、について、人格発達的、見地から、説明、した文、章は?」
 ……。小声でたどたどしく文章を読みなから、熱心にモニターを見つめるイチル。カーンバーグが人名なのか何かの専門用語なのかも解らなかったが、とりあえず字は読めているという点において、トワはホッと胸をなで下ろす。だがこのペースでは……。
「きまりっ、4!」
 ピコン、ピロリン。送信音に続いてすぐさま正解を知らせる画面とアラーム。
「やったあ! えっと、次は」
 ピポ、Q2。
「以下の、数式を、とけ…………、これはぁ、1、かな」
 ピコン、ピロリン。
「わあい! ぼくって天才! 次は、と」
 ピポ、Q3。
「中央大陸標準言語、に、訳す…………」
 ピコン、ピロリン。ピポ――
 ピコン、ピロリン、ピポ、
 ピコン、ピロリン、ピポ。ピコン、ピロリン、ピコ。ピロリン、ピロリン、ピロリン――
 ……ん? 慎也が不可解な顔を浮かべ、大スクリーンに目をやる。立て続けに正解アラームしか鳴っていない。不具合だろうか。
 ……! イチルの隣。トワは慎也より先に状況を把握し、青白い光に照らされた少女の横顔を唖然として見つめていた。
 出題アラームと送信音が鳴るより早く、回答ボタンを押しているのだ――。
 もはや瞬きすら忘れ、無表情でキーを操作する少女の指先は、さらに加速してゆく。しまいに正解アラームも最後まで鳴らない速度に達し、ピッピッピッピッと無機質な音の繰り返しへと移行する。
 教室内へにわかにざわめきが広がった。そして――
 ――ピイイイイイイイイイ……。
「なんだと……」慎也は思わず呟く。心拍数停止のときのような聞き慣れぬ音とともに画面はフリーズし、『ERROR』とだけ記された簡素な表示に切り替わる。
「…………あれっ?」数秒遅れてイチルが反応した。ヘーゼルの瞳は、もとの煌めきを取り戻している。「うそ、こわれちゃったの? どうしよう! 先生、せんせいっ!」
「……驚いたな」慎也はユニットを手動で操作し、エラーの起こる直前まで回答履歴をさかのぼった時点でスコア計測を行った。
 ――回答、オールクリア。スコア、計測不能。
 ……。
「せ、先生、ごめんなさいっ! おこ、おこってますよね……」少女は慎也の沈黙を見当違いな解釈をしたうえ、さらなる無言に今にも泣きそうな声をあげた。教室中から畏怖に似たまなざしを幾重にも浴びていることにはまったく気づいていない。「えっと、えっと、ぼく、こういう機械に詳しいひと、しってます! いまから電話して、すぐに来てもらいます、だからおこらないで……」
「それは、君の家の人のことか」
「は、はいっ」
「これまでの学歴等一切が省かれていたのは、家庭内でその人物から教育をというわけかな?」
「そうです」イチルは表情を一転、得意げに胸を張る。「とってもやさしくて、お洒落で、お母さんみたいで、やさしくてお洒落で、自慢のお母さんみたいでっ」
 計測不能のスコアをたたき出した割には、驚くほど乏しい語彙のループである。
「わかった、もういい、座ってくれ。壊れたわけではないから安心しなさい。皆も各自、課題に取りかかれ」
 慎也はプログラムをリセットし、元通りタイトル画面が表示されたのを確認してスクリーンの電源を落とした。教室はまた一段と薄暗くなり、生徒たちの動揺の視線も、しだいにそれぞれの端末へと散ってゆく。
 ふうっ。少女は大きく息をついてスツールに座ったかと思うと、また九十度回転してトワを見、にっこり笑った。
「よかったあ。ほんとにほんとに、やさしい先生だねっ」
「……そ、それで……」トワはひそひそとささやいた。「どうするのさ」
「えっ、なにを?」
「取得科目……」
「あ、そっか」くる。イチルは正面に向き直り、慎也に向かって大きく手を振った。「せんせ、せんせーい!」
「……イチル君、少し静かにしてくれないか」
「先生、単位、単位です。トワと同じに、していいですか?」
「……一晩考えさせてくれ。君の端末にカーンバーグの人格発達理論についての論文を送信しておいた。今日のところはそれを閲覧すること」
「えー……」手を挙げたまま、イチルはあからさまにしょぼんとしてみせた。「そんなの、つまんないですう」
「まあそう言うな。俺の専門分野だ。君の意見が聞きたい、特別に」
「とくべつ……?」ぴか、ときらめくヘーゼルの瞳。モニターの青白い光に照らされながらも、少女が頬をうれしそうに染めたのがわかる。挙げていた手をひらりとさせたのち、ぴしと敬礼のようなサインをした。
「わっかりましたぁ、先生っ!」

 夜間部の授業は二十一時で終了となる。慎也が手短に解散を告げると、生徒たちは足早に散っていった。昼間は何らかの仕事に就いている者、病弱で日光に過敏な者、それぞれに事情があり交友関係などは希薄である。ナコも授業後に絡んでくることはまれで、しかしトワに対し嫌というほど何か言いたげな視線を投げかけてから退室していった。
「わあっ」イチルはぴょんと席から立ち上がり、うんと両腕を伸ばしている。
「こんなにお勉強したの、ぼく、はじめて! トワ、いっしょにかえろ!」
「え」
 予想していた提案だったが、トワはやはり戸惑ってしまう。イチルはというとそれをまったく解することなく、おいしい料理でも味わうかのようにうっとりとした目をして言った。
「夢だったんだぁ、こういうの、放課後って言うんでしょ?」
「いうけど……」
「あれ……?」とりあえず席から立ったトワを見て少女は表情を一変させる。「トワ、けがしてる!」
 トワははっとして左頬に手をやった。ナコに切りつけられたのをすっかり忘れていた。傷が今になってじんと痛み出すが、それよりもイチルに対する気まずさの方が勝る。
「なんでもないよ、このくらい」
「だめだめだめっ! ちゃんと手当てしないと! だいじょうぶ、ぼく、こんなときのために、えーとえーと……ほらっ」
 少女がかぼちゃパンツのポケットから探し当てたのは、黄色いひよこがプリントされた絆創膏だった。トワの顔はみるみるうちに引きつる。ナコや慎也を相手にしていたときとはまるで違う反応である。
「い、いいよ」
「だめだってば!」
「いいったら!」
「いいなら貼るよっ」
「だからそうじゃなくて……」
 ぺた。間近に迫った少女がにっこり笑う。
「これでだいじょうぶっ」
 と。
「君たち」慎也がいつのまにかそばまで来ていた。
 イチルはたちまちぴんと背を伸ばす。
「あっ、先生。論文、拝読? いたしましたっ。ええっと、カーンバーグについて論じるのにかかせない、J.F.マスターソンを対照に挙げつつ、ふたりがそれぞれ分離・固体化理論について、」
「その件は明日にしよう。どういうわけで夜間部へ転入になったのかいろいろと聞きたいところだが、夜道は危険だ、早く帰りなさい」
「トワがいるからへいきですっ」
「そのトワ君に話があるんだ、先に帰っていなさい」
「だったら、まってます!」
「俺は心配して言っているんだ、頼むから素直に受け取ってくれないか」
「あっ」イチルはとたんに真顔になる。「そっかぁ、ぼく、女の子だもんね」
「あ、ああ、そういうことだ」
「感動ですっ」
「は?」
「ほんとにほんとに、やさしい先生でよかった! 先生、トワ、またあしたね!」
 ぱたぱたぱた。入り口まで駆け、イチルは二人に大きく手を振って教室を出て行った。
 ……沈黙。
 室内は電源を切り忘れたいくつかのモニター光だけになっていた。
「さてと」慎也は両手を腰に当て、トワを見下ろした。
「心配、ですか、あなたが」
「まあそんな言い方をするな、俺は、ん?」
 ――ぱたぱたぱた。ふたたび足音が近づいてくる。
「先生、すいませんっ!」
「……」ぴく。さすがの慎也も口元を引きつらせる。「今度は何かな、イチル君」
「先生のお名前、きいてなかった!」
「慎也だ」
「わあ、素敵なお名前ですね! シンヤ先生、トワ、さようならっ!」
「ああ、今度こそな」
 ぱたぱたぱた。
 ……。ふたたび、沈黙。
「ボクも、これで」
「そういうわけにはいかないな」慎也はウェーブのかかった黒髪をゆらし、とぼけたようにトワを見ている。「単刀直入に聞く。ナコの言ったことは本当か」
「……う」
「本当なんだな」
「どうして、」
「君は嘘がつけない。精神的な欠陥でありまたその逆であるともいえる」
「……しらなかったんだ、まさかナコの、」
「本人が隠しているから知らなくて当然だ。運が悪かったな。だが君も君だ、いい加減あのたぐいの面倒、うまく交わすことを覚えろ。君はナコとは違う」
「……退学ですか」
「自分の立場をわかっているのか? 表向き機関の奨学生である君を退学にするには途方もない手順とそれにともなう労力が必要だ。わざわざ俺がそんな手間を買って出ると思うのか」
「だったら、帰らせてくださ」
 い、は痛いの『い』となって少年の口から発せられる。一歩足を踏み出したところで慎也に左手首を掴まれ、思い切りねじり上げられたのだ。反動でパーカーのフードが脱げ、プラチナブロンドの髪と苦痛に歪んだ薄い碧眼があらわになる。
「右利きだったな、Dを打ったのか」
「はなせよ」
「どんな感じだった、注射痕を見せろ」
「うるさいっ」
「本当に打ったんだな、馬鹿……」
 早口で呟いた慎也はあっけなくトワを解放し、ため息をつく。
「……」
 トワが黙ったのは痛みのせいでも横暴な教員に対する怒りからでもない。
 慎也の口調とその深緑の瞳に、深刻な憂いが滲んでいたからだ。
 ごくたまに、慎也はこういった言動をとり、トワを戸惑わせる。ごくたまにという表現は実に的確なものであり、深緑の瞳にはすぐさま加虐的な光を取り戻した。
「命令だ、念のため医務室でメディカルチェックを受けろ。それから薬物に関する特別講義が必要ならば個別指導のプログラムを明日までに組んでやろう」
「けっこうです」
「俺は暇な上に本気だ」
「しってます、あなたの本気を本気にしたらなにをされるかわからない」
「ほう、いつの間にかきちんと学習したようだ」
「帰ります」
 トワは無造作にフードをかぶり直した。慎也と端末の間をすり抜け、不意に立ち止まる。
 慎也が振り向いて意外そうに華奢な背中へ視線を送った。
「何だ」
「ばかって、どっちがですか」
「ん」
「あなたの口車に乗ったのがばかなのか、薬を注射したのがばかなのか、です」
「珍しくまともな口をきくじゃないか、どうした」
「……いえ、べつにどうもしません……さよなら」
「待て」
 ふたたび警戒心をあらわにゆっくり振り返る少年に向かって慎也は、
「質問に答えよう。――どっちもだ、馬鹿。それから医務室には必ず寄って行け」
 と言い、今度はきっぱりと目を背けた。

つづく
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小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■第二章-3

170617たときみタイトル2   *医務室

 まずもって、医務室がどこなのか探すのに手間取った。
 そしてやっとたどり着いた『Medical office』のドアをオープンして、中にいた人物に言葉を失った。
「失礼ですが入室の際にはインターホンをご利用くださ、――おや」
 今どき珍しい、本物の万年筆で診断書のようなものを書いていた由良は流れるような手つきで銀縁の眼鏡を外してデスクに置き、席を立った。わざわざ歩み寄ってきて少年を中へと導く。
「トワ、土曜日以来ですね」
「……あの、ここの、ひとは、」
「ここの人?」
「……だから、医務室の、せんせい、みたいな、」
「当分の校医は私ですが」
「え」
「夜間部の時間帯は医務課スタッフで持ち回ることが多いのですよ、特に若手で暇な私などが研修代わりに派遣されるというわけです。あなたこそ、どうしたのですか」
「……慎、いや、担当、教員、に、ここに寄れと言われて……」
「聞いておりませんが、どうかしましたか」由良は半ば強引にアイボリーの布張りのソファーにトワを座らせると、その顔をのぞき込んだ。「ああ、怪我をしたのですね、」
「そうじゃなくて」
「?」ひよこ柄のバンドエイドを手で隠すようにする少年に、由良は首をかしげる。「では、なんです」
「…………メディカルチェックを受けろって、」
「その怪我のせいで?」
「……そうじゃ、なくて」
「ふむ」青年は一瞬考え込んだが、次の瞬間にはふっと小さく吹き出していた。あっけにとられるトワを面白そうに、だがどこか優しさを含んだまなざしで見つめる。
「あなたの担当教員とやらはよっぽど支配的で横暴なのですね」
「……う、」
「そんなに嫌そうにされて、無理矢理メディカルチェックというわけにもいきません。まずお話を聞きましょうか。話せる範囲でかまいません、何なりと」
「……」
 それこそ嫌というものだ、と苦り切った顔を浮かべたのち、トワは自分にはっとした。
 普段ならば無表情に見つめ返すだけだっただろう。何故これほど正直になってしまうのか、と驚いたのだ。でも不快な感情ではなかった。ふて腐れたような声がついて出る。
「話したくないんだ、でも、スキャンすればきっとわかる、でもそれもいやだ」
「ほう」
 由良も驚きを隠そうとしなかった。「あなたは学校では少し子供らしい面もみせるのですね、意外です」
 そうさせるのが自分のせいだという事に青年は気づいているのかいないのか、判らない。トワは無視を決め込み、思い出したように言った。
「会いました。あたらしいスタッフ、に」
「スタッフ?」それも聞いていない、という顔の青年である。「誰のことです?」
「……だから、メディカルスキャンの、担当の、専門のスタッフ、」
「ああ、新プロジェクトのコードは確か、『破壊の色』」
「はかいの、いろ?」
 ずいぶんと物騒なプロジェクト名である。不安に固まるトワだが、由良はごくさらりとした説明を付け加える。
「まあ、これまでとそう変わりはありません。あなたを感情面でサポート、及びリードしてゆくプログラムです。これまでが抑制に重きを置いていたと仮定すれば、その次の段階、本来の精神機構の取りもどし、感情表現の獲得、そういった点にウエイトを置いてゆきます」
「それをイチルが担っているというわけ?」
「イチル、ですか。どんな方でしたか?」
「どんなって、監察官は知らないんですか」
「全くというわけではありませんが、さすがに内面までは、――年齢は?」
「ボクとおなじくらいの女の子だ」
「それで?」
「目が覚めたら出会ったあとで、だからよくおぼえていないんだ」
「それで?」
「瞳がまんまるで、へんてこな帽子をかぶっていて、声がおおきくって、」
「それで?」
「お、おこりっぽくて、なきむしで、かわいいけど強引で、でもいっしょうけんめいで、」
「それで」
「それで、…………あ」
 トワは憮然として黙った。青年はわざとらしく、とぼけたように首をかしげてみせる。
「もう少し聞かせてください」
「……いじわるだ。あんたイチルのこと、さいしょから、」
「ですから、詳しくは存じ上げないと」
「もういいよ」
「怒らないでください。ご気分をほぐして差し上げたかっただけです」
「どういういみ」
「そうですね、たとえば」由良はソファーを離れ、もといた奧のデスクへと戻った。スプリングの効いたチェアにゆったりと腰かけ、自然に足を組む。
「あなたは人を常に警戒しています。口調や態度がぶっきらぼうなのも、防衛機制からの言動であると考えます。そして警戒は、他人への恐怖の裏返しでもあります」
「だったら、どうすれば」
「いえ、いまのところは何も。防衛機制のメカニズムへあえて目を向けさせたり、やめさせたりといった無理を強いることはありません。私はもう長くサイコセラピーにたずさわってきましたが、例えばもう少し圧力をかければクライエントの現実適応力が高まるのか、それともこれ以上の干渉は危険をもたらすのか等といった判断には相当の注意が必要となります」
「ボクは、びょうきなの? そもそもこの間言ってた、カウンセリング、ってなんですか」
「用語自体は、臨床心理学というものにもとづきます。医務課の専門教育を受けたカウンセラーが、クライエント――これは体面上の依頼者であるあなたを指します――とのコミュニケーションを通じ、その心理的変容をうながす過程を言います。クライエントの日常生活空間から離れ、第三者のいない状況で、定期的に、常に同じ場所、同じカウンセラーにより、時間を限定して行われます」
「……」
 頭の中に専門書がそのままインプットされているような話し方だ。返答に困るトワを尻目に、由良はさらさらとナビゲーションロボのような解説を続けた。
「カウンセラーの立場についてもお話ししておきましょう。個人差はありますが、私の場合はまず、あなたに積極的に関わる意欲、また心情の理解を示し、あなたを第一に尊重します。ただし、クライエントであるあなたの側の努力は強制できるものではありませんから、良好な関係はセラピストである私が主導し、築いてゆくことが重要となるでしょう。文字として記録して欲しくないことは私の頭の中だけに留めておくことも可能であったり、そもそも話したくない事を無理に話す必要も無い。信頼関係に則ってすすめてゆくプロセスですので、チェッカーによるスキャニングとは違うものだと心得ていただければ」
「わからないよ」
「いずれ、きちんとスケジュールを組んでみましょう」
「……いや、ボクは、」
「今日の本題がまだでした。珈琲でも飲みながら話しませんか……そうだ、私が贔屓しているお店の新作トッピングフレーバーを偶然入手したばかりでした」
「あの、」
「少しお待ちください」
 由良はすっと立ちあがるとトワのいるソファーをすり抜け、入り口側のクッキングスペースへと向かった。簡易的ではあるが、ひととおりの設備と茶器などが揃っている。
 コーヒーは苦手なのだと先週伝えたはずではなかったか。機械じみた言動をするこの青年がそれを簡単に忘れるようには思えないのだが、むろん辞退する勇気も持てず、トワは「あり、がとう……」とぼそぼそと呟いていた。
 背後で僅かな音を立てながら由良が作業しているのが判る。シューシューと湯気を上げるポット、ゴロゴロとミルで豆を挽く音、それに何やらほんのりとただよう柑橘類の香り……それだけなのに、聴いていると心地よい。家庭的、という言葉はこういう時に使うのだろうか、などと思う。
 適度な疲れと、あたたかな空調と、沈み込むようなソファーの柔かさにうとうとしかける頃、青年が珈琲を運んできた。デスクには戻らず、トワの背後から珈琲のプラカップを差し出した。
「さあどうぞ」
「……」
 おそるおそるカップに触れる。まだ熱くて、だから蔓草柄のボール紙を巻かれた部分を持てば良いのだと気づく。弾けるオレンジの香りに惹かれつつ、薬のような苦みを想定して注意深く蓋の飲み口をくちびるに近づけた。
 熱がちょうど良く緩和されて流れこんできた液体の感触に、思わず目を丸くする。ミルクが入っているわけではないのにまろやかで、ツンと鼻に抜けるオレンジの奧には記憶にあるはずのないバニラアイスクリームの懐かしさが広がっていた。これまで飲んだ支給品のコーヒーのどれとも違う。
「うま…………、おい、しい」
「それは良かった」相変わらずソファーの後ろに立ったまま、青年はすこし得意そうに目を細めてうなずいた。「珈琲が苦手なのは本当に美味しい珈琲を飲んだことがないから。先週のキッシュの話と同じ理論です。そして本来はバニラオレンジのフレーバーは必要無かったのですが、苦手であるという思い込みから焦点を反らすために配合しました。フレーバー無しのこちらも試してみては?」
「……ん」
 トワは差し出された由良のカップを素直に受けとり、代わりに自らのものを手渡そうとした。そのとき――。
 背後から不意に青年の手が伸びて、する、とトワの華奢な顎を捕らえて斜め上を向かせる。拒む隙も与えられなかった。両手はカップでふさがっていて抵抗もできない。由良の瞳はすでにパルスを放っており、目が合った瞬間から高速で自分の身体データがコピーされてゆくのがわかった。
「……な、んで、」
「メディカルスキャンです」
「それは、わかるけど」
「嫌なことはさりげなく終わらせてしまいましょう」
「……」
 言っていることはわかる。だがそれが青年のやさしさに由来するのか、それとも単に時間の短縮のためなのかがわからず、ひどくもどかしい思いがした。追い打ちをかけるかのように由良は不思議なことを言った。
「少しだけ、あなたのことを理解できそうな気がします。この私のなりを見て気がつくでしょう、白は属性を持たぬ者の象徴。あなたも、本来は私と同じだったのではありませんか。髪の毛をブリーチすることで、それを心に留めたい、あるいは、」
「ボクが……みずから機関のプログラムに染まったと言いたいの、」
 そして今度は『破壊の色』だという。尊厳も何もあったものではない。あんまりではないか。
「いえ」
 スキャンを終えると、由良はさいしょからトワに飲ませる気など無かったかのように自分のカップを取り返し、ゆっくりと口に運んだ。
「すみません、忘れてください。スキャンの結果は――そうですね、土曜日の十八時にうかがってお伝えします」

つづく
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小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■第二章-4

170617たときみタイトル2   *おかいもの♪

 次の日。イチルとの約束は十五時だった。普段なら寝ている時間である。眠い目をこすりながらおざなりにシャワーを浴び、いつものように黒いパーカーを着込んで斡旋住宅を後にした。
 まだ陽の光がまぶしい。全身が消毒されるような気分だ。こんな感覚は、いったい何ヶ月ぶりだろう。
「トワっ、おはよ!」
 待ち合わせに指定された中央広場に着くなり、イチルが駆け寄ってきた。後方にはこちらへ向かって軽く手を振るアヒトの姿もある。
「トワ、おはようはっ? お昼だけど起きたばっかりなら、おはようだよっ」
「……おは、よう……」
「もうトワってば、またそんな格好して」少女は一歩引いてトワを眺める。「黒ずくめなんか似合わないよ。不良みたいだよ、不良不良、トワの不良っ。えいっ」
「……ッ」
 フードをぱっと避けられ、トワは強烈なまぶしさにぎゅっと瞳を閉じた。
「イチルちゃん、あんまりいじめないの。トワ君困ってるって」アヒトが近寄ってくる気配がある。こわごわ目を開けると、金髪の青年は「やあ」と笑ってトワの頭にぽんと手を置いた。「でも、そうだね。確かにそのパーカー、似合わないかも?」
「そういうわけでっ」イチルはふたたびトワのとなりに並び、強引に白い手をとり腕を組んだ。少年の戸惑いなどおかまいなしである。おまけにこうしてみると、イチルの方がほんの少しだけ背が高い。「いこ! お買い物っ」
「行こう行こう」アヒトも調子を合わせ、お茶目にウインクする。そういう彼は、大学部指定の制服を着ている。ボタンが無い代わりに袖口と裾にブルーのラインがほどこされた、ごく薄い灰色のブレザーとズボン。白のシャツにつけたループタイは縦に長い楕円形で、何の石だろう、青年の瞳と同じエメラルドグリーンに輝いている。「何から見ようか。こう見えてもお洒落な店、たくさん知ってるよ?」
「さっすがアヒトさん! ぼくも、おしゃれ大好き! トワ、てっていてきに、コーディネートしてあげるからねっ」
「……う」
 あまりの急な展開に、思考が追いつかない。腕を引かれるまま数歩歩んだところでようやく、「まって」と声が出た。
「まって。まってったら。言っておくけどボクはお金なんて……」
 監察下に置かれているトワは基本的に、衣服や食料、日用品などは定期に届けられる支給品によって生活している。臨時に金銭が必要になったときはその都度申請する仕組みだが、世話になったことは一度も無い。
「心配ないよ」にこっ、とイチルは得意そうに笑う。「ぜーんぶ、アヒトさんのおごり! ほんとにぜんぶ、なーんでも!」
「そ、んなずうずうしいこと」
「いいのいいの」アヒトもぴんと立てた人差し指で眼鏡を押し上げ、決めポーズをとる。「子どもたちに精一杯のご奉仕をするのは、大人の義務!」
「アヒトさんっ、トワはともかく、ぼくはもう子どもなんかじゃ……あっ」
 イチルは目を輝かせて中央広場をひとりぱたぱたと横切ってゆく。トワがやってきた住宅地側のちょうど反対に位置する半露店のところに着くと、振り返って大きく手を振る。
「ふたりとも早く早く! お洋服お洋服っ」
「イチルちゃんてば元気なうえに目もいいんだなあ」アヒトはどうでもいいところで感心している。「僕も、あそこはまあまあおすすめだよ。なんだかんだで中央広場はいい店揃ってるよね。さ、行こう行こうっ」
「……」
 困惑顔のまま、トワはさっさと前をゆくアヒトに従った。背が高いぶん歩幅も広い。自然、小走りなる。
 そして、店に並ぶ服……というかコスチュームを見て思わず立ち尽くしてしまった。
 シルバーのジャージ生地に蛍光オレンジの縁取りがされたセットアップ。飾りジッパーが全面に施されたジャケット……。半透明のマネキンが穿いている穴だらけのウォッシャージーンズからは、ブルーとレッドがストライプになったソックスがのぞいている。
「トワ、パーカーが好きなんだよねっ?」
 イチルが掲げたイエローのパーカーの胸にはでたらめな外国語がペンキを塗りたくったような字体でプリントされていた。「うーん。でもこれは……却下! あっ、お姉さんお姉さんっ、パーカー、もっとありませんか? パーカーパーカー」
「い……イチル!」髪をピンクに染めあげた店員に向かってパーカーパーカーと繰り返す少女の袖を、トワはあわてて引っ張った。「ボクはべつに、パーカーが好きなわけじゃなくて、」
「えっ、そうなの? じゃあ……あっ、これ! これこれこれ!」
 イチルが次に手にとったのは黒地に赤チェックの……ミニスカートだった。
「おっ」アヒトが背後から身を乗り出す。「さすがはイチルちゃん。目のつけどころが違うねえ、すっごくお洒落だと思うよ」
「ほらトワ、穿いてみてよ!」
「……い、いや、あのさ」トワはイチルの眼前に右手のひらを出し、せいいっぱい辞退の意を表した。「それ……どう見ても女物じゃ……」
「ええっ、トワ知らないの? スカートはいまや男子のマストアイテムなんだよっ。なんだっけ、ゆに、ゆに、」
「ユニセックスね」アヒトが言葉を引き継ぐ。「ねえお姉さん、これに合うトップス、あるかなあ――おっと、ビンゴビンゴ、あるじゃないか。さあトワ君、着てみよう」
「着てみよっ、トワ!」
「……う、ちょっと……」
 イチルは赤チェックのスカートを、アヒトは左右に同柄のポケットがついたカットソーを手に、トワを追いつめる。しまいに無理矢理おしつけられ、しぶしぶ受け取った服の値札を見て少年は水色の瞳を見ひらいた。
 ――高い!
「……まって、ふたりとも、冷静に、」
「いいから早く着てみなって」イチルはヘーゼルの瞳でぱちりとウインクして(アヒトの真似をしたようだ)、どん、とトワの背中を押して試着室に押し込み、さっさとカーテンを閉めてしまった。
 ……。
 ――でもさイチルちゃん、買い物っていうのは、もっとあちこち見て吟味してから選ぶのが鉄則なんじゃないかなあ。少なくとも僕はそっち派なんだけど。
 ――いいえっ。そうやって最初の店にもどってきて、もう売り切れっていうこともありますっ。第一印象が肝心です!
 ――あはは、イチルちゃんらしいや。
 ――えへへ、褒められちゃった。……トワ、着替えた? 開けるよっ?
「ま、まだっ」
 もう、着るしかない。試着室の中で悟ったトワは慌ててパーカーのジッパーを下ろし、脱ぎ捨てた。まず、アヒトが選んだ半袖のカットソーを頭からかぶって袖を通す。薄手のニット生地になっていて、ほどよくトワの肢体にフィットした。ふたつあるチェックのポケットにはしっかりとしたボタンがついていて、あんがい実用的である。
 そしてスカート。……に見えるのは飾りベルトのついた正面だけで、実際にはショートパンツだった。考えあぐねた挙げ句、もともと身に着けていた細身の黒ズボンの上から穿いてみた。
「……」
 どぎまぎと、そしてまじまじと鏡に映った自分の姿を見つめる。最初は赤のチェックが目を引いていたが、全体的な基調は黒なので思ったよりも違和感が無い。
 悪くない、かもしれない。と自らに言い聞かせた瞬間――、
 ばっ、と試着室のカーテンが開いた。
「トワ、時間切れだよーっ」
「い、いきなりあけるなっ!」
 思わず大声を上げてしまった。はっとして取り繕うとしたが、もう遅い。イチルはぽかんと口を開けていたかと思うと、丸い瞳をじわりとうるませた。
「トワぁ……」
「ご、ごめん、おこったわけじゃ、」
「トワ…………すごくいいよっ! ぼく、感動っ!」
「えっ」
「すごくすごく、かっこかわいいっ!」
「……な、なにそれ」
「うんうん」アヒトも感慨深げにうなずいている。「まさに格好いいと可愛いの融合! うらやましいなあ、僕もあと六歳くらい若かったらなあ」
「アヒトさん!」イチルは両のこぶしをぎゅっと握って訴えた。「アクセも買いにいかなくちゃ! すっごくすっごく、かっこかわいいのっ!」
「さっすがイチルちゃん。行こう行こうっ。ほらトワ君、ぼーっとしてないで次行くよ。さっさとレジでタグを外してもらって、そのまま行こう」
 アヒトは左手を制服の胸ポケットにやり、何かを取り出す。人差し指と中指で器用につまみ、ぴっ、とふたりの前に掲げて見せた。きらりと光を反射する。
『……わ』
 トワとイチルのハミング。
 機関のシンボルマークが刻印された、正規のゴールドカードだった。

 その後はアヒトの案内で裏通りを連れ回され、四、五軒ほどのショップを行き来した。すべて個性的なプライベートブランドであり、アヒトはどの店主とも親しげだった。彼によると『気の利いたプレゼントは大人のたしなみ』だそうである。
 最終的にイチルがトワにあつらえたのは、アンティークシルバーの透かしクロスが二連になったレザーチョーカーだった。宗教的に問題は無いのかとトワが素朴な疑問をぶつけると、イチルは「おしゃれに国境は無いよっ」と少しずれた返答をしてにっこり笑った。
 十七時きっかりに、アヒトと別れた。彼も何かと忙しいようで、「今度はすっごく美味しいランチに連れてくからね!」と宣言し、足早にどこかへ消えていった。
 そして、トワはようやくイチルの罠にはまったことに気づいた。
 そのまま二人連れ立って、学校へ行こうというのだ。
 ……着替える暇が、無い。


つづく
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小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■第二章-5

170617たときみタイトル2   *ねえ、おぼえていますか

 夕焼けが青むらさきの空に変わり、月光が強くなりつつあった。
 ご機嫌のイチルに左腕をとられ、腕組みをしたような格好になりながらトワはなるべく道の端を歩こうと努めた。ちょうど昼間部の生徒たちが授業を終え、ぞろぞろと下校してくるところだった。彼らの視線は絶え間なく二人に注がれた。自分のプラチナブロンドのせいなのか、赤チェックのスカートが珍しいのか、ちりちりと輝きを放つクロスのチョーカーが目立つのか、それともイチルとふたり恋人同士のようにくっついているからなのか、わからない。わからないがゆえに、どれも正解であるとも思えた。
「やっぱり、きょうは……」
 帰ろうかな。羽をむしられた鳥のような気分に耐えかねたトワがそう切り出そうとしたときだった。
 ぴこん、イチルのとんがり帽子の角が、何かに反応して動いた。
「あっ、トワのおともだち!」
「……え」トワはぎくりとしてイチルの視線の先を見た。
 校舎へと続く一本道のど真ん中に陣取り、琥珀の瞳を挑むように見開いて立っている少年がいる。癖のない艶やかな黒髪に、日焼けして程よく筋肉のついた肢体。
 まぎれもなくナコである。そしてトワのことを待ち構えているに違いなかった。
「ねえトワ、あの子、おなまえなんていうの?」
「あ、いや……」トワはどうにかして校舎から次々とやってくる昼間部生徒の波に身を潜ませようとしたが、イチルは動こうとしない。
「おともだちでしょ、おなまえ、おなまえっ!」
「……ナコだよ、あのねイチル……」
「ナコーーーーっ!」
 ……ッ! 愕然とするトワを残し、少女はまっすぐにナコへ向かって駆けてゆく。そしてナコの真正面で急ブレーキをかけたときのように立ち止まると、さも親しげにその肩を叩いた。
「ナコっ、おはよ!」
「……お前。転、校生……」さすがのナコも面食らっている。
「イチルだよ、ナコ、おはようはっ!」
「……お前馬鹿か、おはようの時間じゃないぜ」
「でもでもっ」少女は両手をグッと握って訴える。「学校は、おはようではじまって、さようならで終わるの、そうでしょ? 夢の学校生活、決まりは守らなくっちゃ! だからおはよっ」
「…………お、おう」
「おうって、違うもん!」
「うるせえな。ていうか」ナコは無理矢理話題を変えた。「あいつは一緒じゃねえのか」
「トワ? もちろんいっしょだよ! きょうはトワと三人でデートだったの。トワ、トワトワ! はやくこっちにおいでよ!」
 ちょうど、下校する生徒の波がとぎれていた。トワは仕方なく、一歩一歩、ふたりの前に出て行く。顔をうつむけ、赤チェックのポケットに手を突っ込んで。黒パーカーを着ていたときと姿勢はまるで変わっていない。
 ナコは一瞬、トワだと気づかなかったらしい。
「……な」と言ったきり、ごくわずかに頬を染め、口をぽかんと開けている。
「なんておしゃれな! だよねっ」
「……」
「なんてかっこかわいい! だよねっ」
「イチル、行こう」トワはイチルの薄手のニットの袖を軽く引っ張った。「遅刻する」
「え、じゃあナコもいっしょに」
「いいから、う」
 どん。ナコはもとの獣のような瞳を取り戻し、肩で乱暴にトワを阻んだ。カーキのミリタリージャケットのポケットから先日と同じカッターナイフを取りだす。チキチキとわずかな音を立てて、片手で器用に収納刃をスライドさせた。
「……いいから、じゃねえよ。無視すんなって言ってんだろ。こないだは慎也のやつに余計なお世話されちまったんでな、今日こそかたをつけてやる。正規品でなかろうがブツを受け取ったのは事実だ。金を払うか死ぬか、どちらか選ばせてやるよ」
 イチルが心配そうな声で「ナコ」と呼んだ。「ナコ、なに、言ってるの」
「優等生はさがってな」
「ぼく、けんかとか、いや」
「へえ、邪魔するのかよ、だったら……!」
 ナコがカッターを逆手に持ち替え、大きく振りかざした。
 少女のヘーゼルの瞳が恐怖に見ひらかれる――次の瞬間、
 トワは反射的に動いていた。イチルの腕を左手で引いて後退させ、間もなく一歩踏み出した自分の右足を軸にして回し蹴りを放つ。弧を描いたショートブーツは的確にナコの手元を捉えた。
 がつっ。鈍い音とともにカッターナイフが吹っ飛び、少し遅れてナコの苦痛の声が低く響く。が、それはすぐに怒りの唸りへと変わった。
「て、めえッ!」
 ナコはひるむことなくトワの細い肩に掴みかかり、猛烈な力で押し倒し馬乗りになる。激しく背中を地面に叩きつけられたトワの肺から血を吐くような息が押し出されるが、まったく意に介することなく、その白い頬を殴りつけた。何度も、何度も。
 何度も。
 ――殴打されながら、トワは安堵していた。イチルを巻き込まずに済んだ。傷つけずに済んだ。痛い思いをさせなくて済んだ。
 それなのに。
「ねえやめて、やめて、やめてやめてやめてやめてえっ!」
 イチルは泣きながら叫んでいた。
 ナコがはっとして、手を緩めるのがわかる。一方トワの五感は、ある異質なものに支配されつつあった。
 どうして? どうしてきみが泣くんだよ。どうして、どうして!

 ――あの氷のような瞳……どうしてわたしたちの子が、あんなふうに生まれてきたのかしら。ねえあなた、わたし、あの子のことが怖くてたまらないの。あの子、このまま大きくなったら、きっと人を殺すわ。わたしたちだって、きっと殺されてしまうの――

 ああ、またボクのせいで誰かが泣くんだ。
 ボクは、もう誰のことも悲しませたくないのに。
 それなのに、それなのに、それなのに――!
 どくん。全身が拍動する。熱い。眼球が発光するような感覚。視野が鮮血のような赤に染まってゆく。
「あああ、ああああああああああっ!」
 ――! ナコが異常を感じてトワから飛びのく。だが彼は重大なことを見落としていた。
 トワはゆらりと立ち上がり、瞬きを失った瞳でナコに近づいてゆく。
 いつの間に拾ったのか、ナコのカッターナイフを手にしていた――。右手で柄を握り、滑らないように左手のひらをぴたりと添える。確実に急所を狙う構えだ。
「お、おい、待て……」
 後ずさるナコを、ざりとショートブーツが地面をしっかりと踏みしめて距離を詰める。
 そして――

「トワ、だめっ!」

「…………ッ」
 ナコに飛びかかろうとしていたトワは、すんでのところで身体の動きを止める――。
 あろうことか少女はトワの正面に飛び出して両手を広げ、立ちはだかってナコをかばっていた。
「……馬鹿、お前……」あっけにとられたナコのつぶやきが、イチルの「だめ」にかき消される。
「トワ、だめだよ。だめだよっ!」
「……う……あ」
 どくん。
 紅に染まった世界が、急激にもとの色を取り戻してゆく。身体の熱は一気に氷のような温度まで下がった。トワはカッターナイフを取り落とし、胸の辺りの衣服をわしづかみにして必死に呼吸する。気持ちが悪い。
「トワ?」
「さわるな、っ!」
 すがりついてきた柔らかな手を乱暴に振り払ってしまう。それでようやくトワは我に返った。
 言葉を失う。
 イチルは溢れ出る涙をぬぐおうともせず、ただ呆然と立ち尽くしていた。
 ぽろ、ぽろ。大粒の涙はつぎつぎに流れ落ち、真ん丸の雫となって地面へ吸いこまれてゆく。
 また――イチルを泣かせてしまった。
「……ボクは……」
 少年はよろよろとふたりに背を向けると、次の瞬間には逃げるように駆け出していた。
 途中、数人の生徒たちにぶつかり、よろけながら、それでもスピードは緩めない。闇雲に走り続ける。立ち止まったら、イチルは追いついてきてくれるだろうか。いや、そんなはずはない。そんな都合のいいことなんてない。だったらいっそボクの方から、どんどん、どこまでも遠ざかってしまいたい。

 初めてだった。
 かなしみが、嘆きが、危険な力に変わった。
 攻撃的な衝動に我を忘れた。

 ――ボクの中で、一体何がおこっているの……。

 新市街斡旋住宅の目の前まで来て、少年はようやく立ち止まった。
 全速力で走ったというのに、凍えそうに寒い。いや、これは寒いんじゃない、これは、
「――とわ」
「え……」
 やさしい声。なぜかひどく懐かしい。そして、とてもかなしい。
 信じられなかった。
 振り返ると、少女は背の高い街灯の造り出す青いひかりの円の中にたたずんでいた。額にうっすら汗をかいて、頬を上気させて、胸いっぱいで呼吸をしていた。
 けんめいに、微笑んでいた。
「ぼくね、けっこう足、はやいんだ、えへへ」
 蔓草のブーツが一歩、踏み出しかける。トワは思わず強い調子で言い放っていた。
「きちゃだめだ」
 その光の輪から出ちゃだめだ。ボクといっしょの闇の中に来ちゃだめだ。
 これ以上ボクに、かかわっちゃだめだ。
 だが、
「トワ」イチルは何のためらいもなく灯りの中から出て、少年と同じ暗がりの中に溶け込んだ。「にげるなんて、トワらしくないよ。トワはなんにも、わるいことしてないよ」
「でも、」
「トワはぼくのこと、守ろうとしてくれただけだよ」
「でも、」
「もう。でも禁止っ」
「でも!」少年は両のこぶしを握りしめる。カッターナイフの感触がまだ残っている。
「ボクはまた、きみのことを傷つけて、泣かせた。自分が怖い……。怖いんだよッ」
 そう、これは寒さでは無い、恐怖だ。
 そしてイチルはすべてを知っているかのように、うん、とうなずいた。
「だいじょうぶだよ、トワ」
「簡単に、いうなよ、」
「ぼくがいるから、だいじょうぶ。ねえトワ、もしトワが両手で抱えきれないほどの怖いに押しつぶされそうになったら、そのときは……」
「……!」
 冷えた身体へ、急激に熱が流れ込んでくる。やわらかくて、あたたかくて、やさしくて、だけどちょっぴり切ない感触。それらすべてを受け入れてようやく、イチルに抱きしめられたのだと気づく。
「そのときは」まだあどけない声が耳元で鳴る。「トワの破壊の色、ぼくにちょうだい」
「……なに、いってんだよ……」
 本当に、なんということを言うのだろう。
 引き受けようというのか、このボクの闇を。烙印を。孤独のわけを。
「むりだ、そんなことをしたらきみは、」
「うん、いまは、ぼくがトワにあげる番」
 首すじから少しだけ熱が遠ざかったかと思うと、イチルは今度はトワに思いきり顔を近づけた。
 ふたりの額が合わさる。トワよりもほんの少しだけ背の高い少女は顎を引いてやや上目遣いにし、瞳を向かい合わせた。ヘーゼルの瞳に青色の激しいパルスが流れ、スキャニングとデータ転送が始まる。ぱっぱっぱぱぱぱぱぱぱぱぱ……。
 拒絶反応が起きないという安堵感は、次第にトワの中で心地よさへと変わっていった。データに物理的なぬくもりなど存在しないはずなのに、それはおだやかな眠りを誘う薬のように少年の身体のなかへと滑り込んでゆく。
 やはりどうしてか、泣きそうになる。だが今は、その訳が理解できるような気がした。
 ……涙の、温度……。
 それはたぶん、『なつかしい』温度なのだった。
 どうして? 思わず問おうとした少年の吐息は、
「ねえトワ、歌っていい?」というイチルの言葉にかき消された。
 いつの間にか転送は終了している。
「だから、なにいって、」
 ふたたび耳と首筋の中間あたりに顔をうずめてくる少女のやわらかな頬や髪の毛の肌触りに、トワの声は震え、そしてその反応とは逆に少年へ、何事か説明のつかぬ強い衝動をわき起こした。トワはぎゅっと目を閉じ、耐えるしかなかった。
 ――すう。イチルはトワの耳元でゆっくりと息を吸う。少年をぎゅっときつく抱きしめていた手が、少しだけ緩んだ。
 少女はそのまま、ごくちいさな声で、ささやくように歌い出した。

 ねえ 覚えていますか
 無垢だった わたしのこえ
 はじめてであったとき うたった歌
 せかいがどこまでも 煌めいていたこと
 秘密のほほえみが すべての鍵だったこと
 だいすきなまなざしが なによりの宝ものだったこと
 じゃあまたねって たいせつなやくそくをしたこと
 ねえ 覚えていますか
 ひかりのなかで つないだ手
 とわへとつづく ぬくもり
 とわへとつづく ぬくもり……


つづく
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小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■第二章-6

170617たときみタイトル2   *からっぽのおひめさま

 朝になるまで、ボクは、初めて泣いた日のことを思い出していた。
 あのときも手首からのびる細い管と、規則的に落ちる点滴の薬液をなんとなくながめていたっけ。部屋に窓はなくて、でも昼は明るくて夜は暗かったから、電光で調整されていたんだと思う。というか窓どころか、ボクが寝たり起きたりしているベッドと点滴のセット以外、何かが室内にあった記憶はない。だから、ゆいいつ静寂の中で、ぽた、ぽたとわずかな音を立てて滴下しつづけるしずくを見ているしかなかったんだ。
 と、とつぜん病室の白いドアが開いた。
 すこしだけ、おどろいた。施設のスタッフならかならずノックをする。べつに患者に敬意をはらっているわけではなく、そういう決まりらしかった。そのことと……、
 飛び込んできたのが、あの名前の無い女の子だったからだ。それから……、
 女の子が、ぽろぽろと涙をこぼして泣いていたからだ。
 ……どうしたの。そう言ったつもりが、また、声は出なかった。
 でも女の子はボクのところまで来ると、「ねえとわ、きいて」といってべそをかきながら話しだした。
「パパがいったの。わたしは、いらないんだって。いらないから、いつか、うんめいの王子さまがあらわれて、わたしを、こわしてくれるんだって」
 なにを言っているんだろう。こわい夢でもみたんだろうか。
「わたしはからっぽのおひめさまになって、そうしたら、パパはわたしのことをあいしてくれるの。でも、からっぽになったわたしは、もう、いまのわたしではないのね……」
 からっぽ。そのことばが、すこしチクッとした。なぜならボクは、からっぽだから。
 きみも、ボクみたいになってしまうの? そんなのなんだか……なんていうのかな、この感じ、喉がちょっとだけきゅっとなって、おくすりがうまく飲み込めなかったときのような、この感じ。
 女の子はうつむいてなみだをぬぐって、笑おうとしているみたいだった。
「こわくなんかないの。だけど、なんだかとっても、とっても……ねえとわ、わたし、わからないの、こわいんじゃないの、こわくなんかないのに、どうして涙がでるの」
 いっしゅんだけにこっとした少女の笑顔は、またみるみるうちにくずれていく。
「ねえどうして。どうしてわたしはわたしなのに、わたしでいてはいけないの」
 それをきいて、何かがわかったような気がした。
 ――ボクはボクなのに、ボクじゃない。
「……きみは、」
 じぶんの声がこんなに頼りないものだとは思わなかった。でもボクはかまわず続けた。
「きみは、きっと、ボクと同じなんだ。なみだがでるのは、かなしいからだよ」
「か、な、しい?」
 女の子ははっと顔をあげてボクを見た。そのまま壊れたオルゴールみたいに繰り返した。
「かなしい……かなしい、かなしい、かなしい、かなしい、わたしは、かなしい……」
 ぽろぽろぽろ。『かなしい』が鍵になって涙の箱を開けたみたいに、おおつぶのしずくがとめどなく、なめらかな顎のラインを伝わって落ちていった。ぽろぽろぽろぽろ。
「だめだよ」
 ボクはあわてた。気がついたらベッドから降りて、点滴に繋がれた手で女の子の涙をぬぐっていた。
「そんなに泣いたら、こころもからだも病気になっちゃうよ。泣かないで、泣かないで」
 自分の足で立つなんていつぶりかわからなくて、すこしくらくらして頭がにぶく痛んだ。饒舌になったのはきっとそのせいだ。

 いつのまにか泣いていたのも、そのせいだ。

 そうだった。あのときふたり向かい合って、一緒に泣いたんだ。
 赤ん坊みたいに大声をあげて、でも抱き合うわけでもなく、ただひたすら泣いたんだ。
 泣きながらボクは思ったんだ。
 これが泣くっていうことなんだ、って、あたりまえのことを。
 ……。
 どのくらいの時間がたっただろう。すっとまたドアが開いて、あのときの細身の少年が姿をあらわした。
「探したんだよ。いけないじゃないか、勝手に出歩いては。おや、」
 ボクたちの様子を見ても、少年はそれほど顔色を変えなかった。靴を履いていないのかと思うほどしずかに近寄ってきて女の子の頭をやさしく撫で、すこし得意げにこう言った。
「もう泣くことを覚えたんだね。どうして泣いているの。おなかがすいたのなら、いつものサンドイッチを作ってあげるよ」
「ちがうの」女の子はいっしょうけんめいに訴えた。
「わたしね、かなしいの。かなしいから、なみだが、とまらないの」
「そう。『怖い』の他にも新しいことを知ったんだね。おとうさんが言っていたよ。記憶と感情というものは、実に不可思議で厄介だ。壊しても壊しても、どんどん湧いて生まれてくるって。さあ、もう行こう、怒られてしまうよ」
「いや」女の子は泣きながら、きっぱりと言った。「わたし、とわといっしょにいるの」
「ずっと一緒に、いたいのかい?」
「ずっと。ずっとずっといっしょ」
「ふうん」
 少年はすこし考えるそぶりをして、こんどはボクのほうを見た。
「君はどうする。なる覚悟はあるかな。彼女の王子様に、」
 もう泣き止んでいたボクは、いっしゅんぽかんと少年の涼しげな顔を見あげたっけ。
 でも、すぐに女の子のことばを思い出した。
 いつか、うんめいの王子さまがあらわれて、わたしを、こわしてくれるんだって――。
 ――うん。
 ボクは大きくうなずいていた。考えたんだ。
 いつか他のだれかがきみを壊すくらいなら、ボクがそうしてあげようって。
 ボクたちはおんなじで、こんなにもいっしょに泣いて……、そう、理由はもう、十分にあるんだから、って。
「おめでとう」
 少年が言った。
「君は選ばれた。そして選んだ。敬意を表するよ」
 うん、とまたうなずいて、そのときふと、ボクは気づいたんだ。
 少年もまた、どこか『かなしい』顔をしているってことに。

 あの女の子がもしかして、イチルだったならいいのに。
 ……なんて、きっと都合のいい妄想だ。

つづく
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小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■第二章-7

170617たときみタイトル2   *土曜日

 どうしてもベッドから起きられなかった。
 そのままろくに飲み食いもせず、アンニュイな金曜日をやり過ごした。
 イチルはひとりで学校へ行ったのだろうか。ナコとはうまくやっているだろうか。
 不思議だった。たったの一週間前であったなら、きっとなにもかも、どうでもよかったのに。
 ……そうして思考を巡らせたり、うつらうつらしたりしているうち日付が変わり、土曜日を迎えた。窓硝子に下ろしたままのチャコールグレーのスクリーンはごく僅かに光を通し、朝が来て、夕方が来るのがわかった。それからまた一時間ほど眠って、こんどはハッと、やけに鮮明な目覚めがやってきた。
 そうだ、由良が十八時に来るといっていた。あと……五分もない。
「……」
 ところで彼は何をしに来るのだったか。正直顔を合わせるのもおっくうだし、気乗りしなかった。まず思いついたのが『キャンセル』の連絡を入れること。今からでも間に合うだろうか。彼は内蔵端末を移植しているから、繋がるかもしれない。
 ベッドを抜け出ると二日間飲まず食わずだった体が悲鳴を上げ、頭がクラクラした。足をふらつかせながら部屋の出入り口側にある丸テーブルへと向かい、わきに置いたダストボックスをのぞき込む。
 一週間前に投げ入れた由良のビジネスカード(と呼ぶにはかなり簡素なデザインだが)はそのままの姿で中にあった。トワはバスルームとベッドのみを使うためにここで暮らしているようなもので、無論ほかに何かが捨てられた形跡はない。のろのろと手を伸ばし、カードを拾い上げて四桁の0を眺める。部屋に通信機器は整備されていないので、連絡を入れるには一番下の階まで降りてホールの端末を使わなければならない。それこそ億劫というものだ。
「……」
 はあ……。力なく、その場に座り込んでしまった。もうシャワーを浴びる時間も気力もない。
 間髪入れずにドアのモニターには『Yu-ra』の文字が表れ、訪問者を告げるアラームが鳴り出す。
 ピポパポピポ。
 ピポパポピポ。
 ……ピポパポピポ、ピポパポピポ……、
「いま……あけ、る……」
 少年は気を振り絞ってふらりと立ちあがり、玄関に向かう。オープンパネルにタッチしたところで力尽き、重い頭がのけぞって、そのままあおむけに倒れながら意識はスパークした。

 ……。
 ――ねえトワ、もしトワが両手で抱えきれないほどの怖いに押しつぶされそうになったら、そのときは、そのときは……トワの破壊の色、ぼくにちょうだい。
 ――ねえ、覚えていますか。無垢だった、わたしのこえ――。
 ――ねえ、覚えていますか。たいせつなやくそくをしたこと……。


 ら、らー、ら、らー、らーるる、るるー……
 とぎれとぎれの歌が聞こえる。
 いや、まだこれは、歌じゃない。声はとてもとてもあどけなくて、たぶん、喉の奥から流れ出る音がめずらしくて、ふしぎで、たのしくて……そんなふうだからやめられないんだ。
 そうだ、こんなこと、ずうっとむかしにあったっけ。
 幼少期の記憶はじつに曖昧だ。切れかけの麻酔によるなまぬるい温度と怠さに目覚めると、覚えの無い包帯が巻いてあったり、それが鈍く痛んだりした。つぎに目を覚ましたときには、もう何の痕跡も残っていなくて、それを不思議に思う間もなくあらたな薬剤を投与されて眠りについた。
 自然、ボクはじぶんの身に起こるあらゆる出来事へ疑問を抱くことを忘れていった。
 ただ何度か、印象に残っている想い出がある。
 そのなかのひとつは、こんな感じだ。
 麻酔から覚め、何気なく体を起こして、じぶんの細い腕からのびる点滴の管を眺めていた。
 ら、らー、ら、らー、らーるる、るるー……
 部屋の外からちいさな声がしていた。それでボクは起こされたんだ。
 と、
「らーー」
 とつぜん声が近くなったと思うと病室のドアが開いて、すらりとした身体の少年が入ってきた。ほとんどといってよいくらい足音を立てない、洗練された身のこなしをしていたっけ。
 そして少年は、小さな女の子の手を引いていた。声はその子のものだったんだ。今となっては光景の色彩はおぼろげだけど、丸くて綺麗な瞳をしていたことだけは覚えている。
「らーららーる、」
「しーっ」
 少年がくちびるに人差し指を当て、少女に目配せして言った。「そんなに声が出るのが嬉しいの? あとでちゃんと意味のある歌を教えてあげるから、いまは静かにするんだ、いいね」
 うん。女の子は素直にうなずいて、少年とともにボクのベッドへ歩み寄ってきた。
「さあ、この子がトワだよ」
 トワ。忘れかけていたじぶんのなまえだった。女の子は魔法にかかったみたいに、とわ、とわ、とわ、と呟いた。今にも泣きそうな目でじっとみつめてくる。
 きみは? 思わず尋ねたが、声にならなかった。だれかと話をした記憶なんて、もはや片鱗すら残っていなかったんだ。
 しかし少年が、ボクの口の動きを察して答えた。
「まだ、名前は無いんだ。なにしろ生まれたばかりだからね」
 どういうことだろう。ボクは無言で女の子をうかがった。ボクと同じくらいに見えるのに。
「さあ、もう行こう、サキもまっているよ」ボクの疑問をよそに、少年は女の子をうながす。「このことはおとうさんには内緒だよ」
「とわ。またあおうね」少年に手を引かれ、女の子は名残惜しそうに何度も何度も振り返ってボクを呼んだ。
 とわ、とわ、とわ、とわ、とわ……!


「トワ、大丈夫ですか、トワ」
 ――! 突然やけに現実味を帯びた声が降ってきて、少年は我に返る。声の主が由良で、さらに冷たい床の上でその腕に抱きかかえられるような格好になっていることに気づき、あわてて身を起こそうとした。
「いけません」由良は冷静な声でトワを制する。「見たところ貧血に脱水、ミネラル不足に低血糖……、スキャンせずとも判ります。一体何があったのですか」
「いや、その、」
 返答に困る。一週間を通してはいろいろあったとも言えるし、ここ数日はただうつらうつらしていただけだ。「と、とにかく、もう、だいじょうぶだから、」と結局言葉を濁してよろよろと立ちあがった。
 今度は由良も制止することはせず、ごく自然な様子で手を貸した。少年を見下ろして「おや」と意外そうな声を漏らす。
「服を新調したのですね、とても良く似合っていますよ」
「……あ」
 二日間着たきりだったのと、そもそもデザインが恥ずかしいのとで、トワは見事な挙動不審に陥った。どぎまぎとあちこちに視線をさまよわせ、数日前に受け取ったクリーニング済みの洋服一式を偶然発見すると、早口で由良に尋ねる。
「き、着替えてきてもいい、ですか」
「ですから、とてもお似合いに、」
「着替えてきますっ」
 トワはついにそう宣言して服をクリアパッケージごとひっつかみ、バスルームに駆け込んだ。旧式の蛇口を全開までひねり、降りそそぐ水がお湯に変わるわずかな間に着ていた服を脱ぎ捨て、慌ただしくシャワーを浴びた。

 そしていつもの黒のカットソーに着替えてバスルームを出……、目を疑う。
 ……これが本当に自分の部屋であるのか、呆然と立ち尽くしてしまったのだった。
 窓のロールスクリーンは最上端まで巻き上げられ、限りなくフルムーンに近い半月に照らされて住宅街のちらほらとした夜景が広がっていた。いつも点けっぱなしにしている壁際のライトは微妙に角度を変えられ、程よい間接照明へと役割をあらたにしている。
 さらには香ばしい珈琲豆の香りや、なにやら美味そうな匂い――。
「どうぞ椅子にかけてお待ちください」
 キチネットに立った由良はにこやかに、まるで自分の部屋にトワを招いたかのような話し方をする。
「……なにを、してるの、」
「軽い夕食の準備です。総合的に判断してあなたは今、深刻な空腹状態です。幸いといっては何ですが約束のキッシュをお持ちしましたので、すぐに切り分けます。パイ生地はもちろん、チーズや卵も本物で、合成たんぱく源等は一切使用しておりません。まず、炭水化物を補うために茹でたポテトを敷き、クリームチーズと卵の生地を流し込みます。トッピングは厚切りベーコンとほうれん草。仕上げにグリエールチーズをかけて焼き上げてあります。あなたの身体データから一日の消費カロリーを算出し、朝食も昼食もおろそかにしがちであるという推測を踏まえた上での栄養量となっています。ぜひご一緒にいただきましょう」
「い、いや、あの……」
 誰かと食事をともにした経験など、皆無に等しい。そういった行為はトワに、戸惑いを超えて苦痛を連想させるばかりだ。
「これは失礼」由良はこれでもかというほど見当違いな解釈をして言った。「冷えても美味しいとはいえ、私も本当は、やはり焼きたてを召し上がっていただきたかったのです。しかし食材をお持ちして一から調理となると、どうしても待ち時間、特に焼き上がりまでの、」
「い、いい、いいんだ、食べるよ、うん」
 呆れる暇も与えられず、トワは青年のペースに飲まれていった。
 とくだん、普段からこの部屋にいて安らいだりくつろいだりといった感覚は覚えない。しかしそれにしてもこの居心地の悪さは何だろうか。ぎくしゃくとテーブルにつくと、由良がはかったようなタイミングでキッシュを運んできた。大きめの分厚いペーパーコースターに、八分の一にカットされた状態でふた切れ乗っている。
 由良は同じものをトワの対面の席側に置くと、
「迅速な水分補給のため、珈琲は食後ではなく今お持ちします」と告げる。
「……ありが、とう」
 さっと身をひるがえしてキチネットへ戻ってゆく由良を見送って、あらためてキッシュに目を落とす。青年が述べたレシピを順番に思い出していた。程よく厚みのあるパイ生地の薄いブラウン、マッシュポテトのホワイト、卵の部分は淡いイエローの層になっている。一番上のこんがりと焼き上がったチーズからのぞくベーコンのピンクとほうれん草のグリーンが鮮やかだ。なにより香ばしい匂いがたまらない。おそらく『本物の』チーズや卵に由来するものであり、トワはこの香りを的確に表現する言葉を知らなかった。
 気がつくと緊張はややほぐれ、口にはよだれがたまっていた。
「さてと」
 由良がテーブルに置いた白い蓋付きのプラカップからは、先日医務室で出されたようなフレーバーは感じられない。珈琲は克服したことになっているらしい。
 椅子を引いて席に着き、青年はとぼけたように続けた。
「どうしましょうか」
「……え」トワはなるべくそれと悟られないように唾液を飲み込む。「なにが、ですか」
「私が学んだ範囲では、カウンセリング中に飲み食いをしてはいけないという教則は無かったはずですが、どう思いますか?」
「……う、うん、」
 早く食わせろとも言えない。こまったな。
 ――と、思った瞬間、トワの胃袋はきゅるる、とついに音をあげた。
 ……。
 数秒の沈黙ののち、由良は顔を和ませにっこりと笑った。
「とりあえず、いただきましょう」
 トワに食べ方を教えるように、青年は八分の一のキッシュをすっと取り上げ、ゆっくりと口に運んだ。咀嚼しながら一瞬考え込み、小さくうなずく。「完璧ではありませんが、まあまあです」
 未だ、もしかしてアンドロイドかオートマタかもしれないと思っていたトワには、青年がものを食べている、しかも手づかみでという光景がやけに斬新にうつった。
「ああ、すみません」由良はキッシュを口に含みながら、それをまったく悟らせない話し方をする。どうやったらこのような作法が身につくのか皆目見当もつかない。「ナイフとフォークを準備するべきでしたね。紙ナプキンをお持ちしましたので今日のところは、」
「あ、いや、そうじゃないんだ、いた、いただきます」
 いくら魅力的とはいえ男性に見とれていた事実に赤面しつつ、トワはあわててキッシュを頬ばった。
 厚切りベーコンの脂が音を立てるように染み出してくる。こぼさないよう、たてつづけにふたくちかぶりつく。
 うまい……。
「お口に合いましたか」
 うん。夢中で食べながらこっくりとうなずいてみせると、青年はすこし得意そうに微笑んだ。「安心しました。成長期なのに食に関心が無いというのは深刻な問題ですから、これを機に少しでも気を遣うように心がけてくださいますよう」
 うん。
「よろしければ、もう一切れいかがですか」
 ……うん。
 それきり由良はトワが三切れのキッシュを食べ終わるまで声をかけることはせず、涼しげな顔で静かにコーヒーを味わっていた。
 そして二枚のペーパーコースターを手早く片づけ、テーブルの上をふたり分の珈琲だけにすると、青年は、
「先日のメディカルチェックの結果を聞きたいですか」という切り出し方をした。
 やや意表を突かれたトワは、しばし思い悩んだあげくこう答えた。
「そっちこそ、聞きたいことは、ないんですか、」
「あります」由良は素っ気ないほどに正直だった。「ただ私が、あなたにとってそれに値する人物であるのかについては自信がありません。お望みならばカウンセリングというかたちでサービスを提供したいところですし、今日はそのような趣向でセッティングしたつもりです」
「セッティング?」
「ええ、基本的にカウンセリングは定期、定時に非日常生活空間にて行うと先日ご説明しましたが、いかがでしょうか」
「……えと、」
 落ち着いた煌めきの夜景、ほのかな間接照明、あたたかい食事――そうか。
「この部屋はいま、一時的にボクの生活空間じゃない、んですね」
「ええ。多少の飛躍はありますが、私なりにそのような解釈をしてみたというわけです。といってもまあ、先日は専門的な解説に終始しすぎたと反省しております。簡単に申し上げると、基本的に普通に話をするだけです。今日は十九時までしか時間が取れませんのであと十分ほどしかありませんが。承諾いただけますか」
「……」
「――あっという間でしたね。この一週間は、いかがでしたか」
「え、」
 青年の口調が突然よそ行きの医者のようなものになったので、トワは戸惑う。少なくともはっきりとした嫌悪があるわけではなく、どちらかというと興味を惹かれているということを見抜かれたのだと気づいた時には、すでにカウンセリングは始まっていた。
「学校へは?」
「……い、行ったよ、二日だけ、だけど」
「いつも、そのような出席率なのですか」
「う、うん」
「そうですか、週に二日だけとなると、周りの変化も大きかったりするのでは?」
「……なにから話せば……」
「ほう、いろいろあった、ということですか」
「う……ん、ま、まあ」
「何が一番印象的でしたか」
「……」
 イチル。のひと言に集約されるであろう。どう伝えたら良いものか。
 ……。いきなりの沈黙である。気まずい。
「……う」
「トワ」決して微笑んだわけではないが、由良の目は優しい。「沈黙もある意味確固とした言葉です、ご安心を。ついでに珈琲をどうぞ、まだきっと温かいですよ」
 言動というよりその物腰が醸し出す雰囲気から、青年がこういった場面に慣れきっていることが伝わってくる。トワはようやく軽く息をつき、気を取り直した。
「……その」上目遣いに由良を見上げる。「ボクのほうから質問するのは、禁止ですか」
「いいえ、発言は常に随意です。何なりと」
 不意に、トワは由良の視線から逃れるように顔を背けた。青年は一瞬だけ、意外そうに目を丸くした。
「どうしました」
「……いやだと言ったら、」
「かまいません。すぐに面接を中止いたします」
「そうじゃなくて、」
「?」
「……メディカルスキャンとデータ転送、これいじょうはいやだと言ったら……」
 ああ、と青年はちいさくつぶやいて少し考えるようなそぶりをしたが、結局は首を横に振った。弱々しいといってもよい仕草だった。
「残念ですがそれは、叶わぬ願いというもの。あなたは一個の人格を有した人間である前に、被検体なのです。少なくとも機関の決定においては」
 いまさら落胆は無かった。ただ少年にはある興味がわきおこっていた。
「由良監察官、あなたはどうおもってるの」
「?」
「機関の決定においては、といま言った」
「ああ、私個人の認識に関してですね。そんなことに興味をしめしてくださるとは、光栄です」
 由良はトワに見本をみせるかのように、コーヒーをゆっくりと味わってから続けた。
「あなたは自身の存在意義に悩み、疑問を抱き、その頼りなさゆえに足もとは常に揺らいでいる。私はそれをよくある発展途上の少年の特徴であると、ひとくくりにするつもりはありません。トワ、あなたはただひとりの、トワですよ」
「ただひとりって、何に、だれにとって、」
「賢い子だ。そう、存在理由を獲得するには、それを確認できる対象が必要です。不思議ですね、たった一週間であなたは見違えるように変化した。……いえ、しいて言うなら思い出した、というところでしょうか」
「……そう、思い出したんだ。子どもの頃のことや、ささいな感覚、みたいなものを」
「言葉にできますか」
「なんだか、」少年の声はしだいにかすれ、だが熱を帯びたようにぼうっとしたものとなる。「ひどくなつかしくて、やさしい温度、」
「過去の記憶?」
「そう、ボクは、覚えていたんだ。だから、かなしかったんだ」
「悲しいことがあったのですね」
「というか、かなしませた」
「悲しませたくない人を、ですね。だからあなたも悲しい」
「……うん」
「何があったのか聞いても?」
「はじめはいつもの喧嘩だったんだ。でも気づいたら、自分を制御できなくなっていて……もうすこしで、ひとを殺してしまうところだった。――破壊の色が、」トワの声は記憶の奥の寒さと恐怖に震えた。「ボクの中で強くなってきてる。初めて、実感した」
「恐怖をともなう実感。だから、怖かった」
「そう……怖い。じぶんが」
「なるほど、処置を拒んだ理由がわかりました。先週は、ご自分が被検体である事に対して驚くほど無頓着な様子でしたので、不思議に思っていたのです。……おっと、申し訳ありませんが時間です、よろしいですか」
「……うん」
 うなずきつつ、残念に思った。もう少し話を聴いてもらいたかった。次に会うのが待ち遠しい。
「トワ、大丈夫ですか」由良はトワの反応を数段深刻に捉えたようだった。「気休め程度ですが、一時的に記憶をブロックする手法も心得があります。応急処置として、」
「だいじょうぶだよ」
 トワは答えながら自分に言い聞かせていた。だいじょうぶ、ボクはもう子供じゃない。
「そうですか、」
 由良は心配そうにしながらも、深追いはしなかった。
「何かあればいつでも端末にご連絡を。先日お話ししたとおり、以降は任意面談となります。今日のような面接形態をご希望の場合は一週間前までにご予約を、それ以外でしたらいつでも医務室にてお待ちしております」

つづく
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小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■第二章-8

170617たときみタイトル2   *にちようび

 そして日曜日の到来はとつぜんだった、と言ってもいい。
 ビジターホンのアラームに起こされ、低血圧でまたもや倒れそうになりながらドアをオープンすると、イチルは先日の泣き顔をまたたく間に塗り替えるような明るいヘーゼルの瞳で、「えへへ」と照れたように笑った。
「トワ、おはよ。あのね、慎也せんせいに、トワがここに住んでるってきいちゃった」
「……」
 個人情報も何もあったものではない。慎也はトワの住所を暗記しているばかりか、ごくたまに不意打ちの家庭訪問をして少年を心底困らせる。まあそれはさておき。
 学校へは行ったのか。安堵に、ほんのすこしの落胆のようなものが入り交じったような妙な気分だった。どう声をかけていいのかわからない。しかし少女は続けて、急かすような調子で言った。
「ね、トワ、いこっ」
「……ど、こに」
「お見舞いだよっ」
「……だれの」
「サキのだよっ」
「だからだれ、……?」
 みるとイチルは、両腕で大事そうに中くらいのノートを抱いていた。ダブルリング式で厚みもけっこうある。スケッチブックかもしれない。それをますますぎゅっと強く握りしめて、つぎの瞬間には「もう!」と怒ってみせた。
「いくのいかないの、どっちなのっ」
「……い、いくよ、」
「じゃあいこっ、はやくいこっ、おめかししていこっ!」
 さくじつ夜にクリーニングに出した赤チェックのハーフパンツとカットソーは、すでに仕上がって届いていた。それを着なければイチルがますます怒るのは明白だったので、ボクはイチルにひと言ことわるとクリアパッケージ入りの服を持ってバスルームに飛び込み、急いで着替えた。ダブルクロスのレザーチョーカーも同じ理由で着けた。服はともかく、初めてのアクセサリーの感触にはまだ慣れない。チョーカーって、首輪のことだろうか。なんとなく、まるでイチルのペットみたいだ、などと思ったりした。

 そんなわけで一時間としないうちに、ボクたちは医務課管轄エリアのホスピタル南端、療養棟の一室にいた。時刻は十四時を回っていた。
 実際にサキ、という少女を目の前にしても、やはりボクの記憶の扉はひらく気配を見せなかった。
 もとの毛色がわからないほどのベリーショートにニット帽。病気だというから髪が抜けているのかもしれない。瞳はイチルと似たヘーゼルだけど、イチルの太陽を宿したような輝きはなく、ずっと色素が薄い。
「あなたは、だれ?」
 サキもイチルのことは知らないようだ。でもすごく無邪気な様子でイチルの返事を待っていた。イチルは「うーん、」とすこし考えてからにっこりと笑い返した。
「ぼくはイチル。あなたのともだちになりたいの。こっちはトワ。ぼくの……ともだち。だからもう、サキのともだち!」
「まあ」説明のどこにも疑問を抱かなかったらしい。サキは点滴の管につながれた手を交差させてほほえみ、喜んだ。「すてき! わたし、ずっとずっと、おともだちがほしかったの。きっとあなたに出会うために、私は生まれたのね」
「サキはおおげさだなあ。ぼくたちだって、まだ出会って間もないんだよ」
「恋人同士なの?」
「うーん、」イチルはまたいっとき考え込む。そしてボクの腕をさっと取って引きよせると「そうだよ!」と満面の笑みで言った。待てよ、いまさっき友達だって言ったばかりじゃないか。
「すてき!」サキは同じ言葉を繰り返す。「きらきらの髪に青い瞳、まるで王子さまね」
「そう、トワはぼくの運命の王子さま! なんど引き裂かれても、生まれ変わって出会うんだ。壮大な物語だよっ」
「いいなあ。わたしはずっとここで、ひとりだから、うらやましいなあ」
「……サキ、」
 ――イチルのまっすぐな視線が、一瞬揺らいだように見えた。でもそれは、文字通り一瞬だった。
「ともだちなんてあっという間にできるんだよ? あっという間にともだちひゃくにんだよっ」
「じゃあイチル、あしたもおともだち、連れてきてくれる? ともだちと、ともだちのともだちと、ともだちのともだちのともだち!」
「うん! ともだちのともだちのともだちのともだちも、ともだちのともだちのともだちのともだちのともだちも連れてくるよっ。そのなかにいたらいいね。サキの、運命の王子さま!」
「い、イチル」ボクは思わずイチルを遮っていた。「そういう約束って、よくないんじゃ、」
「すてき、とってもすてき!」
「素敵でしょ? 運命の到来はいつも突然で必然なの! ぼくがサキのキューピッド!」
 ふたりともぜんぜん聞いていない。
 そのとき、はっとサキはまんまるの目を開いた。特別な秘密を打ち明けるようだった。
「ねえ、あなたの名前、おしえて? おともだちになりたいの」
 ……え。
 イチルはボクの手を解放すると、サキとそっくりな瞳で伸びやかな右うでを差し出した。
「イチルだよっ、サキ! そして、こっちはトワ!」
 ふたりの手がつながる。


 ……。
 病室を出るなり、イチルは立ち止まったまま動かなくなってしまった。深くうなだれて、表情はうかがえない。だけどきっとイチルらしくない、暗い顔をしているんだ。そのくらい、ボクにだってわかる。
「……」声をかけようか、それともかけないほうがいいんだろうか。でもボクは知りたい。きみの憂いのワケ。
「イチ、」
 ばさ。ボクのちいさな声は、イチルの手から滑り落ちたノートの音でかき消された。
 床にぶつかった衝撃で最後のページが開く。ノートでもスケッチブックでもない。
 それは、アルバムだった。デジタル式が主流の今では珍しい。イチルらしい趣味の、ピンクやオレンジの地にひよこやひまわりがプリントされたカラフルなテープで、フィルム写真が丁寧に貼りつけられている。
 ……。
 イチルはうつむいたまま動かない。ボクはしゃがみこんでアルバムを拾おうとした。
 目に飛び込んできた写真に、はっとする。
 イチルとサキのツーショット。イチルはいつものとんがり帽子にかぼちゃパンツ、サキは今日会ったときと同じベリーショートにニット帽、まるでつい昨日にでも撮ったような一枚だ。ふたりともとびきりの笑顔でピースサインをしている。
 ……。おもわず、次々とページをめくっていた。おもに病室で撮られたものだが、太陽の下で車いすに乗ったサキとそれを押すイチルというショットもある。
 ページをさかのぼるごとに、ふたりの姿はだんだん幼くなってゆく。そっくりなおさげ髪にしてアイスクリームを食べていたり、人工海岸でお揃いの水着を着ていたり、おおきな口を開けてサンドイッチを頬ばったりしている。
 ――ぽた。
 アルバムの上に、おおつぶのしずくがおちてきた。ぽた、ぽた、ぽたぽたぽた。
 ……また、泣いてる。
「きのうね、」ひっく。しゃくりあげながら、でもイチルはけんめいに笑顔を作っていた。それがかえって痛々しい。「いろんなとこ、いったねって、おいしいもの、たくさんたべたねって、お話ししたの。いつもいっしょだったね、なつかしいねって。それで、あした、ひさしぶりに写真見たいなって、サキは言ったの。それなのに……ずっとひとりだからなんて、きょうは言うの、ずっといたのに、ぼくがそばにいたのに」
「もう……おぼえてないんだね、」
 間の抜けた返事しかできないのがとてもはがゆい。
 イチルはこくんとうなずいて、アルバムを抱いていたかっこうのまま、こんどは自分をぎゅっと抱きしめた。
「脳のはたらきがよわくなってきたら、食べることも、呼吸も、むずかしくなるから……、そうしたらサキは、とってもとってもくるしい思いをするから、だから…………だからっ」イチルは震える声を絞り出すようにしてことばをつづける。「……はやめに楽に、してあげようって、」
「そんな……」
「ぼく、聞いちゃったの。医務課のひとが話してるの、聞いちゃったの……っ」
「……イチル、」
 ボクはいそいでアルバムを拾って立ちあがり、イチルに一歩近づいた。イチルがあまりにも弱々しい声をしていて、切ない顔をしていて、もうすこしでこわれてしまいそうだったから――。肩を抱き寄せたり、手を握ってあげたり、せめてなにかことばをかけてあげたかったんだ。
 それなのに。
「こないで、」
 イチルはそういって、ボクのことを拒む。あっけにとられるボクのわきをするりと通り抜けるとき、一瞬だけ立ち止まって、こうささやいた。
「ばかトワ……。それ、きみにあげる」

 幼いイチルとサキのあいだに挟まれ、包帯姿で無表情にこちらを見つめる男の子。
 ありふれた黒い髪、だがその瞳は――うすい青。
 ――まるで王子さまね!
「うそだろ……」
 イチルの言葉の意味をようやく理解した。
 馬鹿だ。ボクはすっかり忘れていたんだ。
 小児医療施設で、イチルとサキと三人、いつも一緒だったこと。
 ――はじめて泣くことを覚えた日、いっしょに泣いたのは他のだれでもない、イチルだったこと――。

 次の朝、アルバムを持って斡旋住宅を出、サキのところへ向かった。部屋を出るところから、施設のエントランスに入ってサキの部屋へ、たちどまることなく全速力で駆けた。
 どうしてきのう、アルバムを見せなかったのさ。写真を見たら思い出すかもしれないじゃないか。また、イチルの名前を呼ぶかもしれないじゃないか。どうしてそれを信じられないのさ、イチルらしくないよ。
 ボクは部屋にたどり着くまで、そんなふうに脳内で爆発的に叫んでいた。
 だが。
 部屋にだれかがいた痕跡はなく、ベッドは白いフレームだけになっていた。

つづく
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小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■第三章-1

   三*いちばん近くて遠い誰か

170617たときみタイトル2   *カフェテラスへ行こう

 水曜日になって、イチルはまたアパートメントを訪ねてきた。何をしに? と質問する間も与えず、いきなりトワを壁際に追い詰めると、半ば強引にメディカルスキャンとデータ転送を行った。
 これでは前任の杏樹・ミキとそう変わりはない。トワはやってくるであろう落胆を素直に受け止めようとした。それがいちばん、楽な方法だ。だが、やはりイチルによる転送が呼び起こすのは、どこか懐かしく、ほんのり湿ったような涙の温度なのだった。
 イチルは転送を終えると壁際から一歩離れ、不思議なことを言った。
「これは、物語なの」
「ものがたり?」
「感情豊かで、ときに強引なおひめさまと接するうち、王子さまの精神は次第に変化し、亡くした心を取り戻してゆく、そんな、物語」
「……」
 ――これまでが抑制に重きを置いていたと仮定すれば、その次の段階、本来の精神機構の取りもどし、感情表現の獲得、そういった点にウエイトを置いてゆきます。
 由良の説明からは逸脱しているとも、そうでないとも言える。
 返事に窮していると、イチルはぱっとヘーゼルの瞳にひかりを取りもどし、にっこりと笑った。
「こないだはごめんね、トワ!」
「……えと、ボクの、ほうこそ、」
「なんでも打ち明けられるともだちって、トワしかいないからっ」
「……」
 ほんとうに? そう心の中で問うていたら、少年はがっかりな事実に行き当たった。
 ボクはイチルのこと、まだ何も知らない。
「というわけで、きょうはランチだよっ、いっしょにいこ!」
「は、」
「スキャンでわかっちゃうんだから。トワは普段、フレーバー無しのソリッドしか食べてない、そんなのダメ、ぜったいダメ」
 ソリッドというのは固形の栄養補助食品のことである。分厚いクッキーのような形をしていて、それが四枚、セットでパッケージされている。ワンセット450キロカロリーなので、三パックか四パック食べると一日分のエネルギーはどうにか摂取できていることになる。
「……そう、悪いものじゃないと思うけど、」
「そのかわり、良いものでもないのっ。トワってばあんなぱさぱさしたお菓子、おいしいと思ってるの? もう、ぜったいぜったい禁止。とにかくいこ、表通りのお花屋さんの向かいのカフェテラス!」
 もう場所まで決まっている。
「あのさ、イチル」トワは慌てて口を挟んだ。「ボクの立場、まだ理解してないの。外食するには機関に資金の申請を、」
「だ、か、らっ」
 イチルはぴんと人差し指を立て、可愛らしく小首をかしげてみせた。
「きょうもぜーんぶ、アヒトさんのおごり!」


つづく
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小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■第三章-2

170617たときみタイトル2   *とけないハート

 ふたりが表通りのカフェに着いたのは正午すこし前だった。本名は定かではないが『ヒスイ嬢』と皆が呼ぶ若い女性がひとりで切り盛りしているという。さまざまなお茶や女主人ヒスイ嬢の手作り菓子などが楽しめる、とくに学生をはじめとする若者たちに人気の店である。
「やあ、おふたりさん」
 大学院制服姿でテラス席の真ん中に陣取ったアヒトが手を振っている。「きょうの限定ランチセットはクロックムッシュにキャラメルソースのジェラート。サラダにコーヒーもついてくるよ」
「わあい、スペシャルですねっ」イチルは嬉々として瞳を輝かせる。「トワもランチセットがいいよね、クロックムッシュ、クロックムッシュっ」
「…………ってなに?」
 うながされるまま席に着いたトワは困惑顔である。イチルはええっ、と大げさに目を丸くして、正面のトワにぐっと顔を近づけた。
「トワ、クロックムッシュも知らないの? まずパンにハムとチーズをはさむでしょ、バターをたっぷり塗ったフライパンで軽く焼いて、特製ソースを塗って、あたたかいうちに食べるの!」
「さっすがイチルちゃん、よく知ってるね」アヒトが言葉を引き継ぎ、補足する。「ここのは、チーズはエメンタールチーズ、ソースはモルネーソースを使っていて、ハムの他にゆで卵と野菜がサンドしてあるんだ。ちなみに、その上に目玉焼きを乗っけたのをクロックマダムというんだよ」
「……」
 まったくイメージが湧かない。
「もうトワったら、なに深刻な顔してるの。ぜったいぜったいおいしいんだから、食べよ」
「……う、うん」
「ヒスイさんヒスイさーん」アヒトは手を振って、忙しそうに厨房と客席を行き来する女主人に合図を送った。「スペシャルランチ、三つね」
 先日のショッピングよろしく、アヒトと女主人は顔見知りのようだった。いや、それ以上の関係であると、一瞬交わした視線が物語っていた。この青年の交友関係はどうなっているのだろう。単に『顔が広い』では片づけられないものがある。
 そして程なくして運ばれてきたプレートに、トワはしばし魅入ってしまった。
 いっけんフレンチトーストのようだが、ハムにチーズ、そしてゆで卵と野菜がはみ出るほどにサンドしてあって見た目にも鮮やかだ。食欲をそそる。
「いっただきまーす」
 向かいでさっそく食べ始めるイチルを、それと悟られないようにうかがった。流れるような手つきで器用にナイフとフォークを使って食べている。こういった作法は一朝一夕では身につかないだろう。なんだか意外だった。
「ん?」見つめられていることに気付いた少女が顔を上げる。「やだ、ぼく、なにかヘン?」
「いやその、ボクも、いた、だきます」
 おっかなびっくり、どうにかナイフとフォークで食べ始める。たっぷりのバターが染み込んだパン生地は柔らかく、不慣れなトワにもうまく切り分けることができた。
 ……うまい。
 由良のキッシュといいこれといい、いままでの食へのイメージをどんどん変化させてゆく。確かにソリッドはおいしくない、のかもしれない。
 思わず手を止めて味わっていると、正面のイチルと目が合った。ひとくち、またひとくちと食べ進めながら心配そうにこちらを上目遣いで見ている。
「トワ、パン、すき?」
「うん」
「ハム、すき?」
「うん」
「チーズ、すき?」
「うん」
「ゆで卵は?」
「うん」
「じゃあ、野菜!」
「き、きらいじゃないよ」
「じゃあクロックムッシュ、おいしい?」
「……うまいよ」
「わあい!」
 イチルはあっという間にメインを食べ終え、ジェラートにとりかかった。それもみるみるうちに平らげる。アヒトがクスクス笑いながら自分のデザート皿を差し出した。
「イチルちゃん、よかったら食べる?」
「ええっ、」イチルのとんがり帽子の角がぴこっと動いた。「いいんですかあっ?」
「……」
 トワはというと……クロックムッシュの最後のひとくちを食べた時点で静止していた。
「あれ」アヒトが状況を察して吹き出した。「トワ君はもうお腹いっぱいみたいだね」
「う、その、」
「じゃあこれは、僕がいただくよ」アヒトはぱちりとウインクしてトワのプレートからジェラートを取り上げた。
「ごちそうさまっ!」
 イチルがふたり分のデザートを食べ終え、ふうっと満足げな息をつく。
 タイミングを見計らってヒスイ嬢が食後のコーヒーを運んできた。もうどう考えても胃袋にこの熱い液体がおさまるスペースは無い。
 ……。何だろうか、この敗北感は。
「イチルちゃん、砂糖はいくつ?」
 アヒトが木製蓋の角砂糖入れを開けた。ハート型のブラウンシュガーがぎっしり詰まっている。
「わあっ」イチルは歓声を上げる。「みっつ、ううん、かわいいから、五つですっ」
 鼻歌交じりにコーヒーをかき混ぜるイチル。
 しかしその表情は次第に深刻になってゆく。
「うーん。なかなかとけないなあ」
 当然だ。五つは入れすぎである。
 ……と、イチルは思い出したように顔を上げ、トワに向かってとびきりの笑顔を向けた。
「ねえトワ、おいしいは、うれしいきもちなの」
「きゅうに、なんだよ」
「ぼくね、トワにうれしいきもち、知ってほしかったんだ」
「……」
 ――王子さまはおひめさまの助けによって、心を取りもどしてゆく。そんな物語。
 ちょっぴり、喉の奥がきゅっとした。誘ってくれたのは、単なる好意からではなかったのだろうか。
 これはイチルが担っているという、『物語』の一片でしかないのだろうか。
 ねえイチル、知りたいよ。きみがボクのこと、ほんとうはどう思っているのか。
「イチ……」
「さあさあ、おふたりさん」
 つぶやきは、ジェラートを食べ終えたアヒトの声にかき消された。「お腹いっぱいになったところで、次行こう。時間もぴったり。遅刻厳禁だし、出発しようっ」
「わあ、いよいよですねっ。トワも、いっしょにいくよっ」
「ど、どこに」
「アヒトさんにお願いきいてもらったの!」イチルの声は弾んでいる。「一度でいいから行ってみたかったんだぁ」
「だからどこに」
「それはね……」
 せーのっ。イチルとアヒトは同時に息を吸って声をそろえた。
『昼間の学校!』

つづく
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小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■第三章-3

170617たときみタイトル2   *居眠り厳禁

 都市運営機関附属の学校エリアは広い。幼稚園、初等科、トワの通う中等科、高等科、大学、大学院が学部・学科ごとに点在し、さらにチャペルや大ホールなども存在する。まるで一つの村のような様相である。
 そのなかで中心に位置する学校本部の硝子張りの建物を抜け、三人はアヒトの所属する大学院薬学部へ向かった。自然、制服姿の学生たちが増えてくる。袖口と裾にブルーのラインがある薄灰色のブレザーとズボン。アヒトによると白のシャツにつけるループタイは、ループタイという形状を逸脱していない限りは個人の自由なのだという。それが大学生と院生の僅かな違いなのだ。
「おっかしいなあ」
 エントランスでIDカードの認証を済ませ、大講堂に入ると、アヒトは辺りを見渡して首をかしげた。「妙に聴講生が多い気がするんだけど、今日は特別講義か何かだったかな。……ああ、ねえ君たち、」
 ――! 声をかけられた二人の女子学生たちは近寄ってきたアヒトを見、そろって驚きをあらわにし、続いて何故か顔を赤らめた。もじもじとしながらアヒトの質問に答えている。
 ちなみに女子の制服は男子の対をなしていて、丈の短いブレザーにブルーラインのスカート、それに丸首のブラウスにループタイというデザインである。
「意外かもっ」イチルがトワの袖を引っ張った。「アヒトさんってもしかして人気者?」
「イチルってば」トワは声をひそめる。「意外とか失礼だよ」
 しかし確かに、金髪を無造作にヘアゴムでくくり分厚い丸眼鏡をかけた素朴な青年に対する態度としては、文字通り意外な印象を受けなくもない。
「やあやあわかったよ」
 足早にやってくるアヒトを見送る女学生たちは、まるで話しかけてくれてありがとうとでもいうように深々と頭を下げている。謎だ。
「やっぱり特別講義なんだってさ。ふたりとも良かったね、面白い話、聞けるかもしれないよ。まあ、医務課スタッフの派遣なんて正直期待できないけど。さ、適当なところに座ろう」
 今時珍しい木製の席はちょうど三人掛けだった。医務課と聞いて、それまでうっとうしいくらいに積極的だったイチルの姿勢はすこし変化した。身を隠すように講堂の端の席を選んだのである。イチルとてスタッフの一員である、いろいろあるのだろう、トワはそう解釈した。どのみち目立ちたくないのでその方が都合が良かったりもする。
 そして、そんな思惑をよそに特別講義が少々波乱の展開を迎えることになるとは、少年は予期していなかった。
 十三時を五分ほど回ったところで壇上に姿をあらわした『医務課スタッフ』に、ざわめきは一部の女学生たちの黄色い声を孕んですっと収束する。
 白と銀灰の衣服をまとった、長いプラチナブロンドの青年――。
「医務課専属スタッフ、由良と申します。すみません、約束というのが苦手なもので、五分も遅刻してしまいました。すぐに本題に入らせていただきます」
 かた。演台に今時珍しい、旧型のストップウォッチを置く。携えてきたのはそれだけのようだった。
「本日は現代社会に渦巻く闇について、心理学的観点から考察してゆきたいと思います。まずは都市が抱える心理的問題について、かいつまんでお話しします」
 ――ねえねえトワ。このあとね、アヒトさんが素敵なところに連れてってくれるんだ。
 イチルがひそひそと話しかけてくる。トワは仕方なく応じた。
 ――ま、まだどこか行く気? ていうかいま、これ始まったばっかりだろ。
 ――トワってば真面目なんだあ。すっごくすっごく意外っ。
 ――だ、だって、昼間の学校にきたかったんじゃ、
 ――そう、そして、授業中にないしょのおしゃべりっ。
 ――あのさ……。
 呆れた。それがイチルの目的だったのだ。
 由良のスピーチは流れるように続いている。
「先行きの見えない社会的不安、本来安らぎの場であるはずの家庭の崩壊……、現代を生きる私たちは、心理的瑕疵が生ずる要素を多分に抱えていると申し上げてよいでしょう。具体的には高齢化による独居老人の受け入れ困難、離婚やドメスティックバイオレンス、イル・トリートメント等、家庭内の問題は、未だ過去の事案としては分類されておりません。また理解に苦しむ犯罪の増加については、これらの事と関連づけられるとの見解が現在では一般的です」
 原稿を見ることはおろか、内蔵端末の投影機能も使わずに話している。トワは知らず、その姿に見入っていた。
「――ではここで、医学・薬学を志す皆さんに、専門分野外との連係・学際性の重要性について述べておきたいと思います。医務課では、臨床心理学は心理学理論を基礎とするだけでなく、さらに広い分野との連係をなすべき学問であると定義しております。例えば――」
 由良は言葉を切り、講堂内を見渡した。声のトーンをほんの少し上げる。
「せっかくですから本日の出席学生の中から、一番の成績上位者に答えてもらいましょうか」
 ――ねえねえトワ、どんなひとだろうっ。
 ――なにが。
 ――成績上位者っ。あんがい、アヒトさんだったりして?
 由良は演台に設置された薄型モニタを操作し、座席表を表示させた。IDカードの認証により、学生のさまざまなデータとの連動が可能なようだ。
「アヒト・クライン」
 ――わ。うそっ。
 トワとイチルが顔を見合わせるのと同時、しんとした講堂にざわめきが走った。アヒト? アヒトだって? アヒトが講義に?
「……。返事がありませんね。C3列26番席、アヒト・クライン、起立を」
 席の位置を由良が読み上げたことで、学生たちの視線が一斉にこちらに集まる。トワは慌て、小声で隣の青年を呼んだ。
 ――アヒトさん、アヒトさん、アヒトさ……、
 愕然とする。
 アヒトは白目を剥いて寝ていた。かすかないびきまでかいている。
「おや」由良が状況を察し、まっすぐにこちらを見たのでトワは慌てて下を向き、顔を隠した。「仕方がありませんね、最近の若者は」
 青年はストップウォッチを手に取り、足音も立てずに洗練された身のこなしで席の間の細い通路を歩いてくる。アヒトは目の前に立たれても起きる気配を見せなかった。
 すっ。由良の右手が、アヒトの頬の辺りへ伸びる。
 一瞬、撲つのではないかと思ったトワは息をのんだ。そのくらい、この青年の行動は読めないのだ。だが。
 しなやかな手はアヒトの顎から耳の辺りまで差し込まれ、ぴたと静止する。
 ひやりとしたのかその逆か、アヒトは「ひゃっ」といって目を覚ました。由良は頭をやや傾けて、眼鏡越しに瞳を覗き込む。さらさらと白銀の髪が揺れた。
 何ともいえぬ絵面に、その筋の女子学生から黄色い声が上がる。
「……えっ、何、なんですか?」
「メディカルスキャンです。――前日の睡眠時間、トータルで二時間五十四分。単なる寝不足のようですね。勉学に励むのも結構ですが、居眠りをするようですと本末転倒では?」
「……も、申し訳なっ、ございません、」
「謝罪は結構。罰として、改めて質問させていただきます。アヒト・クライン、心理学が他分野と連係する上での重要性について、一分以内で回答を」
「……え、ええと、」
「起立」
「は、はあ、」
 いかにも眠そうな様子でゆらりと席を立ったアヒトだが、由良の手の中でストップウォッチが立てたぴっ、というアラーム音を聞いたとたん表情を一変させた。
 その声は凜と講堂内に響き渡る。
「……古くは、病理学や精神分析、精神医学、行動科学、生物学などの科学的要素、そして社会学や福祉、保健衛生等との連係が重要視されてきました。しかし現在ではこういった定義を超え、あらゆる分野・学問と繋がる学際性にスポットが当たっています。例えばクライアントの生存における背景――学問に当てはめると、文化学、人類学や歴史学、哲学および宗教学にいたるまで、カウンセラーに限らず僕たち医学を学ぶ者は常に視野を広く持つべきだと考えます」
 ――。沈黙。
「…………あの、以上、ですが、」
 ぴっ。由良はあいかわらずの無表情のままカウントを終了する。しかし目を細めて数字を確認したときには、小さくほう、と感嘆の声を漏らした。
「――三十六秒。やや箇条書き的に過ぎますが、さすがですね、完璧と言わざるを得ません。いいでしょう、着席を」
 そしてすこしだけ微笑み、付け加えた。
「アヒト・クライン、名前を覚えておきましょう」
 青年が去って行くと、アヒトは脱力したようにどさりと腰を下ろした。多くの畏怖の視線が絡み合い、やがてはそれぞれの席へ散っていった。
 ――いやあ、焦っ、たよ、ハハ……。
 ――アヒトさんっ。ないしょのおしゃべりは醍醐味でも居眠りはダメですっ。
 イチルは両のこぶしを握りしめて怒っている。
 ――よかった、イチルちゃん、楽しんでくれてる?
 ――だーかーら、居眠りは厳禁なのですっ。ね、トワ。
 ――いや……どっちもいけないんじゃ、
 ――ああ、はいはい、ごめんごめん、だって、あまりに退屈だったものだから。
「そこ」
 由良の声が飛んできた。
「少し静かに。アヒト・クライン、何ならもう一問、論じていただきましょうか」

つづく
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小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■第三章-4

170617たときみタイトル2   *旧友

 たっぷり九十分間の講義を堪能、というかやり過ごしたあと、三人は他の学生たちに混じって講堂を出た。
「はあ」アヒトは盛大なため息をついている。「思いもかけず、散々だったなあ」
 由良はあのあともアヒトに容赦なく難題の集中砲火を浴びせたのだった。見かけによらずサディスティックな一面は、学生たちに由良という人物像をかえって魅力的に、くっきりと焼きつける結果となった。もちろん標的となったアヒトを除いて。
「でもアヒトさん、かっこよかったですっ」
「冗談じゃないよ。ああ、今夜あの人の夢でも見そうだ」
 イチルのフォローも、へとへとのアヒトには届かない。
 ――と、ふたりの後を大人しくついて歩いていたトワは、エントランスの方向からやってくる意外な人物をみとめてぎくりと足を止めた。できることならどこかに身を隠したかったが、残念ながらそう都合良くはいかない。
 適度に着崩した白シャツに細身の黒いタイ。スポーツ仕様のリストウォッチをつまらなそうに確認し、こちらを見たところで視線が交わる。
「お前たち」間違いなくトワとイチルに言葉を向けている。「一体何をしに来た」
「シンヤせんせいこんにちは! ぼくたち聴講? でーすっ」
 トワの腕をとりぎゅっと引き寄せると、イチルは得意そうににっこり笑った。
「ほう」慎也はというとそんなイチルではなくあからさまに気まずそうな表情を浮かべるトワのほうを見ている。
「由良の話をわざわざ聞きにきた訳か」
「……いえ、」
 トワは口ごもった。これぞまさしく偶然である。がそう言って納得する男ではない。
「気に食わんな、監察官が奴に交代したというのは聞いていたが、もうここまで心酔しているとは」
「……」いきなりの『奴』呼ばわりである。直情的な物言いはもともとだが、トワもさすがに戸惑う。
「慎也こそ、こんなところで何を」
「馬鹿。夜間部の教員だけで食っていけるほど世の中は甘くない。意外だろうが俺の専門は心理学だ、院生たちの講義も担当している」
「……つまり、由良監察官とは……」
「そうだ、顔見知りだ」思い切り嫌悪をあらわにしてトワの言葉を遮る慎也である。「それ以上でも以下でも無い」
「……でも、」
「仕方ないから忠告してやる」慎也は態度をやや緩めると、ふと、どこか遠い目をして言った。
「奴を信用しすぎるな、何かと裏のある男だ。しかも本人はそれを何とも思っちゃいない」
「……なにか、あったんですか」
「ほう、興味があるのか?」
「……いえ、でもボクは、」
 そのとき、女子学生らに囲まれて穏やかに談笑しながら講堂を出てきた由良そのひとが、こちらに気付いて近寄ってきた。
「慎也」まるで懐かしい友人に再会して喜んでいるような呼びかけ方だった。明らかにふたりの互いへの認識は大きく異なっている。「久しぶりですね。教師になったとは聞いていましたが、でもそうですね、あなたはセラピストなどよりも指導者であり教育者が向いているかもしれません」
「……」
 やはり慎也はかたくなな姿勢を崩そうとはしない。ぶっきらぼうに「お前は」とだけ言った。
「しがない医務課スタッフです。主に心理・精神面のサポートを専門にしております」
「……それは面白いな。持ち前の身勝手さで患者を右往左往させるわけか」
「身勝手ではなくフレキシブルと言ってほしいですね。まあ、必要があると判断した場合は揺さぶりをかけることもあります、ごく僅かにね」
「お前のことだ、特定の手法や療法など何処吹く風という感じなんだろうな」
「さすがですね。私が従事しているのは厳密には医療とは違いますので、大体がオリジナルです。受容的中立的というよりは、積極支持的に進めるのが得意です。時にはこちらの感情の開示といった、」
「だからそれが身勝手だと言っている」慎也は由良の言葉を遮り、苛立ちを隠そうともせずに吐き捨てた。「お前の性格もやり方も、俺は昔から嫌いだ」
「貴重なご意見、ありがとうございます」
「相変わらず馬鹿にポジティブだな。実際クライエントはいるのか」
「ええ、暇を持て余さぬほどには」
「杏樹もそのひとりか」
「さあ、どうでしょう。業務には守秘義務がございますので。しかし彼女との関係は非常に良好であると言わざるを得ません」
「よくまあ堂々とそんな言い方ができるものだ」
「事実です」
「……俺は」慎也は鋭い目つきで右手のこぶしを握る。今にも殴りかかりそうな空気をまとっている。「俺は認めんぞ。友人の女を寝取るような奴が人の心を癒そうなどと、思い上がりも甚だしい」
「人聞きが悪いですね。彼女を傷つけ、遠ざけたのはあなたの方ではありませんでしたか。単にあの頃の彼女にとって、残された居場所は私しかいなかった、それだけです」
「だからすんなり受け入れ、自分のものにした。随分と都合がいいな」
「都合も何も、それが彼女の意思だったのです。今になっても尊重できないのですか、あなたこそ子供のようなことを言う。彼女はモノではない、確固たる人格を持った女性なのですよ」
「ここで議論しても無意味だ。だがな、覚えていろ」
 慎也はまっすぐに由良を睨みつけた。漆黒の瞳の奧でごく僅か、深緑の光がちか、とまたたく。
「杏樹は俺のところに戻ってくる」
「ええ、それが彼女の意思ならば」
「余裕だな」
「誤解しないでください」由良は少しばかり困ったような口調を滲ませた。「私はまた、あの頃のように三人で楽しく過ごすことができればと」
「それをできなくしたのはお前だ」
「……残念です」
「ああ、俺もだ」
 ……。由良は無言で慎也の脇をすり抜け、去って行く。数歩あゆんで、名残惜しそうに一度だけ旧友を振り返った。弱々しいとも言ってよい仕草だった。
 慎也もほんのいっとき物思いに耽っていたが、あっけにとられているトワを見、もとの横暴教師の顔を取りもどした。
「……というわけだ。君にはまだ早い話だったかな」
「い、いや、その、」
「当ててやろう。あの男にそんな一面があったとは意外だった、そうだな」
「う……」
「再度忠告してやる。奴はお前が思っているよりずっと人間臭い。セラピストだかカウンセラーだか知らんが、その前にありふれたひとりの男だ。ちなみに君が奴に抱いている好意は専門用語では陽性転移と言う、少々歪んだ恋愛感情のようなものだ。くれぐれもこじらせるんじゃないぞ」
「よく、わかりません」
「それでいい。何でもかんでも解明すればいいというものではない。お前はお前のままでいればいい」
「……」
 ますますわからなくなる。
 困惑するトワをよそに、慎也は「じゃあな」と乱暴に少年の白い髪を撫で、大講堂のほうへと向かう。捨て台詞も忘れない。「言っておくが昼間こんなところで油を売っておいて、今夜の授業を欠席でもしたらただじゃ置かんぞ」

つづく
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小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■第三章-5

170617たときみタイトル2   *ネコネコナコ

 イチルのいうステキな場所というのが墓地だと聞いて、ボクは完全に意表を突かれた。薬学部の研究に用いられるマウスや鳥、犬や猫まで、多くの動物たちが葬られているという。
 そして実際に足を踏み入れてみて、ようやく納得した。
 墓地というのは名ばかりに思えたのだ。広大な敷地の真ん中に御影石の墓標とさまざまな動物たちの石像があり、アヒトによるとその地下に検体となった生き物たちが共同埋葬されているという。
 それ以外は見事な植物園がどこまでもどこまでも続いていた。品種ごとにエリア分けされた薬草は大半が色鮮やかな花を咲かせていて、それを目の当たりにしたイチルは大喜びだった。
「お花! お花お花お花、とってもきれい!」
「ちょうど初夏だからね、今頃がいちばん良く咲くんだよ。おっと、」アヒトは、真っ白な一輪の花を手でたぐり寄せて香りを嗅ごうとしたイチルを制した。「イチルちゃん、それはユリに似ているけれど、花粉に猛毒が含まれているんだ、そんなに顔を近づけちゃいけないよ」
「じゃあアヒトさん、これは?」
「それはブルーマロウという薬草。ハーブとしてお茶にすると甘くて美味しいよ。喉の炎症によく効くんだ」
「じゃあ、これはっ? ポンポンみたいでかわいい!」
「ユーカリプタス。面白い形だよね。南国の植物だからここでの栽培に成功するのに何年もかかったんだよ。少量なら薬、服用しすぎると毒になる珍しい植物さ」
「じゃあ、これっ、これこれこれ!」
 ……。
 ボクは花畑の中で嬉しそうに跳ね回るイチルを見ていた。まるで目にするものすべてが初めてで、今を生きているのが幸せで、嬉しくてたまらない。そういうのを全身であらわしているようだった。
 ちょっぴり、胸の奥があったかくなった。その感覚はどこかデータ転送に似ていた。懐かしい温度。ボクが感情を捨てた人形のようなものだとしたら、こうして心を取りもどしていくのも悪くない。そんなことを思った。
「こんなにきれいなお花畑をつくることができるなんて、アヒトさんはきっと、とってもきれいな心の持ち主なんですねっ」
 子どものような笑顔で振り返るイチル。アヒトさんはというと、何かを悟ったような、ほんのすこし愁いを含んだような声で答えた。
「でも気をつけたほうがいいよ、イチルちゃん。美しい花には毒がある。実験してみれば明白なことなんだ。よく覚えておいてね。……そうだ、せっかくだから動物たちも見学していく? 人間に馴れているから危険なことは無いよ」
「わあい。それって犬とか猫とか、猫とか猫とかのことですねっ!」
「へえ、イチルちゃんは猫派なんだ。もちろんかわいい子、いっぱいいるよ。この植物園の突き当たりに検体動物センターがあるんだ、行ってみるといい」

 アヒトとはそこで別れた。『ちょっとした約束』があるという。さすがに一日の睡眠が三時間未満だけのことはあり、会うたび何かと忙しそうだ。
 動物センターはすぐに見つかった。全体を白で統一された硝子張りの建物は、病院を思わせた。自動ドアを抜けてエントランスホールに入ると、受付のカウンターは無人で、『コミュニケーションルーム開放中』と書かれたシンプルなプレートが出ていた。
 案内通りに二階への階段を上がる。広い通路の両側はボックス状に仕切られていて、強化プラスチックの窓越しにさまざまな動物が格納されていた。犬や猫はもちろん、ウサギやモルモット、ハムスターにフェレット、ヘビや陸ガメまで――まるでひと世代前のペットショップのようである。
「わあっ」イチルは立ったりしゃがんだりを繰り返しながら、ワンボックスごとにのぞき込んでは感嘆の声をあげている。「すごいすごーい、こんなのぼく、初めて!」
 突き当たりのコミュニケーションルームにたどり着くまで、たっぷり十五分はかかった。『静かに開閉のこと』と張り紙がされていたので、イチルとトワはそろって息をひそめ、ゆっくりと重い防音扉を押し開けた。そして――。
「馬鹿っ、お前ばっかり食うな!」
 ――!
 カラフルな魚型の菓子を片手に十数匹の猫たちとたわむれていた人物を見て、トワはぽかんと口を開けた。イチルはというとこのとんでもない事態にまったく臆することなく、ミリタリージャケットの少年の方へ歩いてゆく。
「ナコナコナコ、ナコだあっ!」
「……な、」
 ナコの無邪気な笑顔は一瞬にして凍りつく。「……転、校生、なんで」
「トワもいるよっ」
「……」ナコはぎくりとして、戸口に突っ立ったままのトワを見た。琥珀色の瞳にいつもの敵意を宿すのを忘れているかのようである。「なにしに、来たんだよ、」
「なにって、決まってるじゃない」イチルが得意げにひとさし指をぴんと立てる。「デートデート、デートだよっ。ナコこそどうしてこんなところにいるの?」
「……す、」
「えっ?」
「水曜日は、ね……猫だからだ」
「ええっ、ナコってば猫派なのっ? ぼくたちもう、親しいおともだちだねっ」
「う、うるせえよ」
「それにしてもナコ、ここのことに詳しいんだね、だれに聞いたの?」
「院生のアヒトってひとが教えてくれた」
「アヒトさん?」少女はますます瞳をまんまるにしてみせる。「すごいすごいっ、共通のおともだちがいるなんて、やっぱりぼくたち、もう本当に本当のおともだちだねっ」
「お前、うるせえ上にしつこいな」
 といいつつ、ナコはまんざらでもない顔をしている。
「トワトワっ」そしてイチルは自分の言動にまったく頓着していない。ぱたぱたと手を振ってトワに合図を送る。「はやくおいでよ、猫だよ、猫猫っ」
「いや、ボクは、」
「トワ、もしかして犬派?」
「そうじゃなくて、みんなきっと、怖がるよ」
 トワはしぶしぶ猫の集まる部屋の中央へ歩んでいった。生まれてこの方、動物と触れあった経験など無い。脅かさないように、足音を立てないように細心の注意を払ったが、猫たちは少年のショートブーツが近づくと一斉に飛びのいて距離を取った。
「ほらね」
 特に落胆の気持ちも起きない。しかしイチルはちがうよ、といってトワに真剣なまなざしを向けた。
「ちがうよトワ。この子があなたを怖がっているんじゃない。怖がっているのはトワのほうなんだ。ほら、そんな顔をしていないで笑ってごらんよ、この子たちにほんとうの気持ちを話してごらんよ。きっとわかってくれるよ」
「……そんなこと、いわれたって、」
「トワ、スマイルスマイルだよっ」
「……だから、」
 その時ナコが「ああもう、仕方ねえな」とため息をついてゆっくりと立ちあがった。肩に乗った黒猫はいっしゅんぴくりと驚いたが、そのまま降りようとはしない。「まずはカリカリで釣れ。手、出せよ」
「かりかり?」
「バーカ、これのことだ、次から自分で買ってこい。ほら、手」
「う、うん」
 カラフルな小魚型の乾燥フードがナコの日焼けした手からトワの白い手へ、からからと音を立てながら渡った。そのまま戸惑いの表情を浮かべて立ち尽くすトワに、ナコはあいかわらずの命令口調でエサやり指南をする。
「突っ立っててどうすんだ、蒔く気じゃないだろうな。まずはしゃがんで目線を合わせろ。ゆっくり手を出して鼻先に……って、ぼんやりするな、全部食われるぞ」
「わっ」
 あっという間だった。真っ先に寄ってきたふさふさの虎猫は凄まじい勢いでカリカリを平らげ、得意そうにニャオと鳴いた。
「あーあ。俺もさっき、そいつに全部やられた」
 猫はまだ食べ足りないのか、空っぽになったトワの手をざらざらの舌で舐め回す。
「……も、もう無いったら」気がついたら少年は、猫に向かって話しかけていた。「見て分かるだろ、また、持ってくるからさ、もうやめろよ」
 ざらざら、ざらざら。
 ざりざり、ざりざり。
 ――不意に、おかしくてたまらなくなった。
「あ」イチルが信じられないといった様子でつぶやきを漏らした。そしてその声は、たちまち大切な宝物を見つけたかのように嬉しそうなものになる。
「トワ、ほんとに笑ってる。トワの笑顔、とってもきれい」
 ……。ナコが少し複雑な表情を浮かべたのには気付いていない。
「いいな、この子たち」トワは小さな子どものように笑った。「いつでもあったかくて、ごはんもたらふく食べられて、楽しくここで一生暮らせるんだろ」
「…………ちがうよ、トワ」
「え?」
 黙り込んだイチルの言葉を、ナコが引き継ぐ。
「こいつらはもうすぐ……死んじまうんだ。アヒトさんが言ってた。ここにいる動物たちはみんな実験体で、早い奴なら生まれてすぐ、開発途中の薬を注射されて、うまくいかなかったらすぐに死んじまうんだって」
「……そんな」
 実験体。ボクと、同じなんだろうか。
「でもね、しかたないの」イチルはそういってうつむく。「ぼくたちがすこやかに生きるためには、この子たちの命が、」
「おい、転校生。何、悟ったようなこと言ってんだよっ!」
 びく。イチルの肩が震えた。
「……ナコ、おこってるの?」
「俺、今日こそはと思って決めてきたんだ」ナコは慣れた手つきで虎猫を抱き上げた。「俺、こいつ連れて帰る。今はそれくらいしかできないけど、いつか、こんな悲しい奴らが一匹もうまれない世の中を創ってやる。見てろよ、転校生」
「ナコぉ……」イチルは感動で目をうるませた。
「ナコも、すっごくすっごく、かっこかわいい!」
「かわいいは余計だ!」

つづく
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小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■第三章-6

170617たときみタイトル2   *異変

 とはいったものの、ナコは「まいったな」とぼやいた。彼に両親と呼べる人物はいない。どうにか通学資金を工面している兄のタクも、実質は薬物浸りである。
 自虐的にそんな打ち明け話をしたナコと言葉を交わすうち、トワにはすこしばかりの親近感が湧いた。これまでただ一度もそんな感情を抱いたことがなかったので戸惑いつつ、斡旋住宅はペット可だったろうか、などと考えた。
 トワとナコの間柄にそんな変化をもたらした張本人イチルは、ふたりが自分に対して向けるやや甘酸っぱく複雑な想いをまったく解することなく、とんでもない提案をした。
「学校につれてっちゃお! シンヤせんせいはやさしいから、きっとわかってくれるよっ」
 慎也に対する間違った認識もあいかわらずだし、常識に欠けること甚だしい。
 それでも何故か、もしかしてイチルになら、とトワとナコは思わずにはいられないのだった。虎猫を抱いたナコを先頭にして、三人は夜間部へと向かった。
 授業開始からしばらくは、猫はナコの膝の上で大人しくしていたし、もともと室内が薄暗いこともあり、監督の慎也にも奇跡的に気付かれなかった。
 が、三十分とたたず、猫はナコの肩や頭に乗ったり降りたりをはじめた。しまいにキーボードの上に飛び乗る。ナコがたまらず発した「馬鹿っ」という声と「ニャオ」とPCのけたたましいエラー音に、さすがの慎也もびくりとし、席を立った。
「……おい」ナコが猫を抱き上げたところでエラー音は止まったが、このありえない状況をどうにか飲み込んだ慎也は怒りを通り越して無表情だ。「君は授業態度だけは真面目だから俺としてもいろいろと優遇してやったつもりだが、今日は一体何の真似だ」
「……慎也、聞いてくれないか、これは……」
「今度は捨て猫の引き取り斡旋でも始めたのか、そこまでして、」
「話聞けよ!」暗にスラム暮らしのことを揶揄する慎也に、少年はたまらず激高する。
「聞く気は無い」慎也にも容赦する気配は皆無である。「それを連れて出ていけ」
 そのとき。
「はいはーい、せんせい、シンヤせんせいっ」離れた席のイチルが大きく手を挙げた。「愛すべき生徒のおはなしはちゃんときくべきです、これにはふかいふかーいワケが、」
「君まで絡んでいる訳か」呆れ顔の慎也は言葉を選びなおす。「というか察するに、君が首謀者な訳だな」
「せんせい、さっきのはずばり、かまって攻撃なのですっ」
「は」
「ナコが真面目にお勉強すればするほど、猫のキーボードへの敵意は高まるのですっ。猫とナコの息をのむ駆け引き、これは心理学的にもじゅうような案件となりますっ」
「なるか、馬鹿」
「ダメなんですか? ナコが授業を猫といっしょに受けたら、ダメなんですかっ、そんな校則、あるんですかっ」
「ナコだか猫だか知らんが、このクラスでは私が校則だ」
「そんなあ。シンヤせんせい、横暴教師ですぅ」
「ならば君はさながら横暴生徒だな」
「じゃあ、対決ですっ」
「は」
「先生とぼく、対決しちゃうんですっ」
「何を言っている」
「診断テストで対決ですっ! 理系と文系のミックスで問題数は無制限、十五分間でどれだけ早く正確に回答するかでスコアを算出する……高いスコアを叩き出した方が勝ちですっ」
「ほう、この俺と競おうと」
「なんなら、カーンバーグの理論に限定してもけっこうですっ」
「それはいくらなんでも君の不利に当たる。いいだろう、診断テストで対決だ。君が勝ったら、ナコと猫の同席を認めよう。その代わり俺が勝ったら、」
「トワがおうちにつれて帰りまーす」
 ……は?
 いきなり矛先を向けられたトワはイチルの隣で固まる。慎也の瞳にこれまでにない興味が宿るのも敏感に感じ取る。
「トワ、猫を飼う気なのか」
「あ、いや、ボクは」
「……」フッ。慎也は吹き出し、いったい何処に合点がいったのか、次にはニヤリと笑った。「面白い。はじめよう」
「ようしっ」イチルはぴょんとスツールから立ちあがった。「ぶっちぎりで勝たせていただきますっ」
「画面を二分割して対戦形式に設定する。君は2プレイヤー側の問題を解きたまえ」
 慎也はスクリーン左側のユニットを操作しながら、手短に告げる。まもなく読み込み中のバーが数秒間表示されたのちピポと音が鳴り、ぱっと『Q1』の画面が左右二通りあらわれた。
「ええと」
「……」
 ピコン、ピロリン、ピポ。回答送信、正解アラーム、次問の出題の順でまずは二人とも快調に音を鳴らした。そして双方、にわかに一連の動作を加速させる。ピコン、ピロリン、ピポ。ピコン、ピロリン、ピポピコン、ピロリン、ピロリンピロリンピロリン……。イチルはすぐに前回と同様、正解アラームより先に送信ボタンを押すという速度まで達した。
 慎也も負けてはいない。イチルの驚異的な速さではないが、いかにも楽しんでいると見せつけるかのように、リズミカルかつ着実にキーを叩いている。
 互角だった。スクリーンには教室内すべての視線が熱く注がれている。
 しかし――。五分経過時、そのまなざしの多くは後方の席のイチルへと移っていった。
 回答が早いからでも、その正確性からでもない。イチルは――
「ん?」異変を察した慎也が手を止めて少女のほうを伺った。
 しん。静寂が広がる。
 イチルは――回答を止めていた。ひかりを失った瞳にモニターの青色光を煌々と映してただ立ち尽くしている。
 ぱっ、ぱっ、ぱっ。スクリーンの右半分に、どれかキーを押すように催促する点滅信号が出る。しまいに『Time out』とサインが出、次の問題に移行した。
「どうした」
「……えっ?」はっと少女は顔を上げ、まばたきを繰り返す。「えっ、なんだっけ?」
「随分と余裕だな。手を抜いていいと言った覚えはないが。……何のつもり、」
「あ、れ」すらりとした身体が揺らぐ。「わたし、なんか……へん」
 すうっと、眠りにつくときのようにイチルはゆっくりと瞳を閉じ、そのまま真横に崩れ落ちた。
「イチルっ?」トワはとっさに少女を抱きとめようとしたがそれは叶わず、かろうじてしなやかな上体を支えながらフロアに膝をつく。「イチル、イチルっ」
「おい」慎也が血相を変えて駆け寄ってくる。「しっかりしろ、イチル君、イチル」
「いち……る?」肩を揺すられ、少女は舌足らずな声でのろのろと返事をする。「へんなの、わたし、イチルなんて名前じゃ、ない、よ」
「何?」
「おにいさん、だれ。ここ、どこ?」
「――誰か」慎也が低く鋭い声を発する。ふたたび目を閉じた少女の肢体をトワから奪い取るようにさっと両腕で抱き上げた。「医務室、いや、医務局へ通報しろ、早く。校舎口まで俺が連れていく」
 まもなくエマージェンシーサイレンとともにレスキューカーが到着し、慎也は医務室から飛んできた由良とまたもや顔を合わせることとなった。医療チームの当直リーダーとその部下たちにてきぱきと指示を出している。完全に医務課スタッフの顔だ。
「慎也」青年は移動するストレッチャーに付き添った教員に、無機的とも言っていい調子で尋ねた。「倒れたときの状況は」
「俺にもわからない。突然気を失って……いや」
「何です」
「倒れる前後に記憶の混濁がみられた」
「記憶……」由良はにわかに顔を曇らせたが、次にはもとの冷静な表情を取り戻した。「わかりました。ご協力、感謝します。医務局へは私が同行を」
「頼んだぞ……由良」
 ――。慎也を追いかけて校舎口まで出たナコとトワは付き添うことも許されず、ただ呆然とレスキューカーが遠ざかってゆくのを見ていた。

 車内。眠りに落ちた少女に、由良は静かに語りかけた。
「お帰りなさいませ。……お嬢さま」

つづく
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小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■第三章-7

170617たときみタイトル2   *水曜日のミカサ様

 二十一時を回るのを待って慎也は手短に解散を告げ、慌ただしくどこかへ消えていった。もちろん猫云々の話では無くなってしまった。
 トワと猫を抱いたナコは、言葉少なに帰り道をとぼとぼと歩いていた。
「なんで、ついてくるのさ」
「方向が同じだからだ。文句あるのか」
「ないけど、」
 文句は無いが、ひどい違和感だ。ナコとこうして連れ立って下校するなど、一週間前なら考えもしなかった。それもこれもみんな……
「なあ、あいつ、どうしちまったんだ。どうなっちまうんだ」
 そう、今の状況は何もかもイチルに由来する。それなのにイチルはここにいない。
 トワは弱々しく返事するしかできなかった。
「わからないよ……」
「どこか悪いのか? 病気、だったのか?」
「わからないったら」
「なんでそんな無責任なこと言うんだよ!」
「わからないんだっ!」
「あ?」
 ナコは突然大声を出したトワに驚いた様子だった。トワは立ち止まり、今にも泣き崩れそうな勢いで言葉を発した。
「ボクはイチルのこと、なんにも知らないんだ。知ろうともしなかったんだ。いつも何かを与えてもらうばっかりで、それでいい気になって。たぶんイチルのほんとうの気持ちだって、なんにもわかってなかったんだ!」
「そんな言い方、するんじゃねえよ」
「きみに何がわかるっていうんだ!」
「わかんねえよ、わかんねえけど」ナコはまるで弟に対するような口調でトワを諭す。「どう考えてもあいつはお前を選んだんだ。お前がいちばん側にいたんだぜ、少しは自信もてよ」
「……っ、」
 熱いものが、溢れて止まらなくなった。
「泣くなって」
「泣いてない!」
「めちゃめちゃ泣いてるぜ」
「泣きたいんじゃない、ウイルスのせいだ!」
「アホなこと言うなよ。俺だって泣きてえよ」
 ぽん。華奢な肩に、早熟で伸びやかな手が乗る。猫を抱いていたからだろう、とても、とても温かかった。
「なんかお前、変わったな」子どものように涙をこぼすトワの顔はあえて見ずにナコは言った。「悪くないぜ」
「……、」トワは急に恥ずかしくなって、急いで両手で顔をぬぐう。
 そのときナコの手から解放され道路に降り立った猫が、ニャオと親しげな声で鳴いた。
 ひとつ先の青い街灯の下に誰かがいる。
「ねえキミたち」白衣のポケットに両手を突っ込み、ひどい猫背の青年はゆらりと青い光の輪から出てくる。「その猫、どこで拾ったのかなぁ? もしかしてアカデミーの検体を無断で持ち出したりしてないよね」
 ……! 痛みに痛んだアフロの金髪。時季外れのマフラーは、ピンクとブラックのストライプ。トワはハッと息をのむ。覚えている、いや忘れるはずも無い。
「お、まえ、」ナコも同じような反応をしている。はっきりと青年の名前を口にした。「ミカサ、か?」
「俺? そうそう俺俺、ミカサ様だけど」幾重にも巻いたマフラーに顔をうずめてミカサは神経質そうにキシシ、と笑う。「困るんだよねぇ。たったの猫一匹でも、いなくなっちゃったらもみ消すのに大変なわけ。俺こう見えても院生なわけで、いつもすっごく忙しいのにすっごく運悪くて、今日も今日に限って検体管理のシフトだったわけ、そんでさあ、……あ、おいでおいで、猫ちゃんほらほらミカサ様だよー」
 猫は軽い足どりでミカサのほうに近づいてゆく。その邪悪ともいえる見た目と口調に、まったく警戒心を抱いていない。ミカサも長い片腕をすっと出し、慣れた手つきで猫を抱いた。
「いいよ、猫ちゃん、イイ子イイ子でちゅねー。……でさぁ」
 ぎん。一重だがまぶたは薄い、特徴的な目が少年たちを射る。
「大っ嫌いなわけ。オマエらみたいに、ぬくもりってあったかいよね? とかイノチって貴いよね? とかベタベタつるんでキレイ事並べてぬっくぬくしててしかもまだガキでとかありえないわけ」
「おい、ミカサ」さすがのナコも恐怖に声を震わせている。「何、する気だよ」
「とりあえずごくろうさーん、ナーコちゃーん」
 ――ギャッ。猫が悲鳴を上げた。突然青年がやさしく抱くのをやめ、首根っこを捕まえてぶらりと片手に吊り下げたのだ。空いた左手にはキラリと光る、ペン型の注射器。
「注射器が一本、消えました。猫も一匹、消えまーしたー。さあどうして? どうしてだか解る?」
「ミカサ、やめろ、やめてくれっ!」
「模範解答! 俺が実験に使ったからでーす。これで計算、ぴったしだし」
 ミカサは注射器を逆手に持ち替えると親指でぴん、とキャップをはじき飛ばし、ぴたと猫の首へセットする。
 ぱしゅ。ごく小さな音がするのと、ナコの「やめろ!」という叫び声が重なった。
「せーの、ナコちゃんパース!」
 ミカサは弛緩した猫の肢体を無造作に放り投げる――。
 ナコは反射的に前方へ飛び、それを全身で抱き込みながらキャッチした。止まりきれずに煉瓦の外壁へ激突する。顔を苦痛にゆがめながら、必死で腕の中の猫を揺さぶった。
「おい、うそだろ! 起きろよ、猫っ、起きろよっ!」
「――ナコ、……っ?」
 思わず駆け寄ろうとしたトワの肩を今度は後ろから何者かが強く掴んで引いた。
「待て、行くな」
「…………し、」
「お前たち、ここで何をしている」
 慎也は走って追いかけてきたとみられ、荒い息をついている。ミカサが悪さをしているとみるやたちまち口調を強くした。「見慣れない顔だな、何だ、お前は」
「オマエこそ何、」聞き返したミカサだったが次の瞬間にはぶるぶると犬のように頭を振った。「あああ、いい、自己紹介とかいいって。もうね、出会った瞬間からキライ系の匂いプンプンでーす」
「奇遇だな、俺もだ、クソ餓鬼」
「あれえ、俺様が子供に見えるってことは、オマエ、オッサン決定なんだけどそれでオッケー?」
「無論オーケーだ、くだらない質問をするな」
「俺、子どももオッサンもだいっきらいなの、ああ、やだやだオッサン伝染りそう」
 カラン。ミカサは使用済みの注射器を投げ捨て、今度は医療用のメスをポケットから出してちらつかせた。「だいっきらいだからスパッといっちゃう? ガード外すと俺、スイッチ入っちゃうけどそれもオッケー?」
「お前、そいつの持ち出しも逐一もみ消している訳か? ずいぶんとご苦労だな」
「あーこれ? これはさあ」白衣のポケットを愛しげに撫でるミカサ。他に何本も所持しているとほのめかしている。「医務課からかっぱらい放題よ、だって俺、チーフだし」
「何の」
「オッサン、デリカシー無いし。そこはやっぱり守秘義務だし。空気読んでよ」
 と、ナコの腕の中で死んだように動かなかった猫が、ギャーッと異様な声を上げた。
「痛っ!」顎のあたりをひっかかれたナコが思わず顔を背ける。「どうしたんだ、俺だよ、わかんないのかよっ!」
 ミカサの神経質な笑い声が不気味に響く。
「あ、効いてきちゃった? 過剰投与で凶暴化の恐れありまくり。これよこれ、これの研究チーフ、ミカサ様よろしくー」
「――そうか。破壊の色、か」
「あー。バレちゃったからオッサンまじ殺すしー」
「ナコ、押さえていろ」ミカサの間延びし放題な声をよそに、慎也は鋭く言い放つ。「助けたいなら絶対に手を離すな。その手の薬物の血中濃度はさほど持続しない。頑張れ」
 慎也……? 思いがけないひと言にナコは一瞬あっけにとられ呟く。だが次には目を剥いて暴れる猫をその腕いっぱいにきつく抱きしめた。噛まれないようにちいさな頭を自分の肩口へ押しつけたものの、激しく動く細いしなやかな手足はそう簡単に捕まえられない。鋭い爪に何度も何度も引っかかれ、少年の顔は痛みに歪んだ。
「トワ」今度こそ駆け寄ろうとしたトワを慎也がふたたび阻む。「お前には抗体がある可能性大だ。絶対に寄るな」
「抗体があるなら助けられるんじゃ、」
「そんな簡単なものではない。言うことを聞け」
「いやだ!」
「馬鹿、内輪もめしている場合か! 命令だ、そこを動くな」
「ボクだけが見ているだけなんていやだっ!」
 思い余った少年はナコのほうに大きく一歩踏み出した。そこで突然ミカサが距離を詰めてきたのは完全に誤算だった。ヒユッと耳もとで刃物が空を切る音がする――。
「トワ……!」
 どん! 少年の身体に激しい衝撃が走った。慎也に突き飛ばされたのだと認識する間もなく頭から路面に叩きつけられる。――! 一瞬、視界が白くスパークした。
 ……。
 目の奥で血の匂いがする。トワは必死に起き上がろうとしたが、体が言うことを聞かない。脳震盪でも起こしたようだ。ぽつ、ぽつと大粒の雨が降ってきて地面を濡らし始める。
「……だから言ったろ、オッサンのバーカ」
 ミカサの口調が少し変化している。
 トワの眼前には慎也が立ちはだかっていた。大きく右腕を広げ、突き飛ばしたときの格好のまま静止している。
 ぽつ、ぽつ、ぽつぽつぽつ、雨がまた滴る。
 ――いや、雨では無い。少年は息をのみ、慎也の足もとからどうにか視線を持ち上げる。
 慎也は吹き出す血液をトワに見せまいとするかのように手首を返し、至ってつまらなそうに内腕部の傷口を眺めた。いつもの癖でシャツをまくっていたため、もろに静脈を裂かれている。
「自分で言うほど使い慣れていないな。だが、俺を本気で怒らせた」
 無造作に左手で黒のタイを解く。
「お、オッサンが悪いんじゃん。そんなガキ、庇ったりするから」
「黙れ」慎也はタイで上腕を縛って手早く止血し、ミカサを見た。
 ――うっすらと、笑っている。
「……間近で見ると、その反抗的を通り越して死んだような目が割と好みだから特別に六秒間だけ待ってやろう」
「そんなこと言ってると、目もやっちゃうからね」
 ミカサは腕をまっすぐに伸ばし、血で染まったメスを慎也の眼球寸前まで突きつける。
 慎也はぴくりとも動かない。薄い笑みを浮かべたままカウントを開始した。
「かまわんぞ、つぶれたらまた新しい眼球を移植すれば良いだけだ、六」
「な、によ、それ、」
「医務課で世話になっていて判別できないのか。これは人工眼球だ。涙は出ないし痛みも感じない。遠慮するな、五」
「……、まじで、」
「どうした、手が震えているぞ、そんなことではメスは預けられないな、四」
「……、本気なわけ……?」
「俺の態度が冗談に見えるのか? お前こそ空気を読め、三」
「……アンタ、超、クレイジー、」
「お前に言われたくないな。二」
 ざっ。慎也は大きく足を一歩踏み出す。ミカサはひっと声をあげ、同じ歩幅ぶん後退する。ぴたりと眼球につけていたメスのきっ先が大幅にぶれた。
「……ッ、来る、なっ」
「一。時間切れ、だ……!」

 パアァン!

 乾いた音が響く。慎也がミカサの頬へ力いっぱいの平手打ちを浴びせたのだ。見かけはまさしく単なる『平手打ち』だったが、それにしては相当な衝撃だったらしく、ミカサはぎゃっと動物のような悲鳴をあげながら吹っ飛び、無様に路上へと崩れ落ちた。
 ……。さすがに傷に響いたのか、慎也は顔をしかめ数秒黙った。しかしふたたび深緑の瞳を開いたときには、いつもの加虐的な光を取りもどしていた。
「さて、どうするか」
 うずくまって何事かわめいているミカサを助け起こそうとでもするかのように、片膝をつく。血に濡れた右手で今しがた打った青年の頬を撫でた。
「悪いな、痛かったか?」
 愛撫した、といってもいい。
 ヒャッ。パニックを起こしていたミカサが我に返る。
「やめっ、てください!」
「何だ、まだ何もしていないぞ」新たな雫は絶え間なく流れ出ていて、乱れたストライプのマフラーを、白衣をぽつぽつと染めてゆく。「お前みたいな生意気な子どもには、一から教えてやらないとな。やさしくしてやるか、その逆か、どうする、選ばせてやってもいいが……」
「……ッ!」
「もうすぐ二十三時か、ああ、タイミング的にも申し分ないな。お前は明日も仕事か?」
「……そうですっ、さ、さようならっ……!」
 ミカサは這いつくばりながら慎也から後ずさったのちふらふらと起きあがり、夜道を蛇行しながら全力で逃げていった……。
「ナコ」腕に巻き付けたタイをきつく締め直しながら慎也は立ちあがる。「大丈夫か」
「……」
「ナコ……」
 少年は泣いていた。
「慎也、遅えよ、もう、動かなくなっちまったよ……」小さな子どものようにしゃくりあげ、泣き顔を隠そうともしない。「変態アホ教師、どうせならもっと早く来いよ、馬鹿野郎……まだ名前も、決めてなかったのに、馬鹿野郎……馬鹿野郎っ!」
 ナコは、猫を力いっぱい抱いたまま、そのしなやかな肢体が冷たくなっても動こうとしなかった。

つづく
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小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■第三章-8

170617たときみタイトル2*今日の終わりはとても残酷で

 猫をどうしても連れ帰るというナコに、慎也は朝になったら保健衛生課へ通報することを半ば力尽くで約束させた。そして少年が確実にスラムの自宅へ向かうのを見届けると、今度は当然のような顔をしてトワの斡旋住宅までついてきた。
 八階に到着するまでの間、慎也はエレベーターの壁にもたれて固く目を閉じていた。傷が痛むか、貧血を起こしかけているか、あるいはその両方だ。
「……医務局に行くべきです」
 トワが見かねてそう声をかけると、
「ああ、明日な」と相変わらずどうでも良さそうな返事がかえってきた。
「でも、傷、」
「血管には触れたが断裂はしていない」
「でも、出血が」
「寝室に救急箱があったな、それで問題無い」
「……」
 慎也は、強い。あらためてそんな事実を突きつけられたような気がして、トワはくちびるを噛んで黙るしかなかった。ナコや慎也に比べてボクは、ボクは……。
 部屋にたどり着くと慎也はまず、キチネットの流水で傷を洗い流した。肘から手首にそって斜めに十二、三センチメートル、幅は深いところでは二センチに達そうかというほどぱっくりと開いている。沈痛な面持ちで立ち尽くすトワに、「見なくていい。救急箱を取ってこい」と早口で指示した。
 救急箱の中には頭痛薬や胃腸薬といった基本的な医薬品の他に文字通り『救急セット』が入っていた。止血帯や三角包帯、パッケージされたアルコールコットンやハサミ、ピンセット――次々に取り出して丸テーブルの上に並べた。
「馬鹿、大げさだ」
 水を止めてやってきた慎也はちいさく笑う。やや難儀そうにスチールの椅子に腰掛けると、トワが並べたセットには目もくれず、普通のバンドエイドだけを箱から選び出し処置にかかった。
 バンドエイドを六枚、真ん中から順に傷と垂直に、微妙な加減で引っ張りながら貼り、開いた皮膚をぴたりと寄せてゆく。縫合と原理は同じだ。トワは思わず慎也の指先に見入っていた。
「なれて、いるんですね、」
「そう見えるか?」
「……はい」
「そうか」何故か自嘲的に微笑んだ慎也である。「俺のもともとの専攻は医学だった。研修医になり立ての頃、事故に遭ってな、目を駄目にした。人工眼球では医者は務まらない。それで心理学に転向した。ついでに恋人も失った」
「……昼間、言ってた、」
「そう、杏樹だ。俺は精神的に荒れてな、とてもお前には話せないような事も犯した。つまり……、由良が言ったのもあながち間違いではない、そういう事になる」
「……」
「包帯を取ってくれ。あれば圧迫包帯がいい」
「あ、はい、ええと、」
「なるべく伸び縮みしない方だ。ああ、それでいい」
 白い包帯を厳重に巻きつけ、トワの差し出した専用のクリップは無視して歯と左手を使って手早く端を裂き、結び目を始末する。まくっていたシャツを引っ張ろうとして、それが無残にも血まみれになっていることに気付き、やめた。
「……クリーニングに出せば、四時間後には……」
「ほう、泊まっていけと」
「……い、いえ、」
「冗談だ。すまない、助かった」
「え、」
 ほっと息を吐いた慎也の何気ない言葉が、痛く心に刺さった。そしてそれはすこしだけ、少年の心を良くも悪くも素直にした。
「……ボクのほうこそ、すみませんでした」
「気にするな。お前の体に傷を残すことは避けたかった、個人的な感情だ」
「そんな怪我をしてまでボクを庇う必要なんかなかったんだ」
「くどい。必要は無くとも俺はそうしたかった、それだけだ。お前がどう思おうと関係ない」
「ボクには……だれも、守ることもできない。最悪な気分だ」
「お前、いつからそんな風になった」
「なにがだよ」
「俺は、お前のためならどうとだってできるぞ。人権保護違反で医務課を訴えてもいいし、そうだな、お前を養子や配偶者にしてもいい、そうすれば監察官は必要無くなる」
「いみがわからない」
「誰も、とはナコのことか。それともイチル君のことなら、もう関わるのはよせ」
「そんなこと、あんたに指図されたくない」
「本題に入ろう。怪我を負ってまでここに来たんだ、聞いてくれるだろうな」
「……っ」
 気にするなとさっき言ったばかりではないか。本当に、横暴そのものだ。
 二の句が継げないでいるトワを尻目に、慎也はリストウォッチの端末機能を起動し、薄暗い部屋の壁に投影させた。
「まず先日と今日の診断テストのことだ。一問目だけ俺の専門分野にすり替えておいた。ちなみに大学院の修了レベルだ。おまけに引っかけ問題になっている。これまでの生徒、いや、学生たちの正解率はおよそ五パーセントだ、それを二種類もクリア。まぐれにしてはどうにも合点がいかなかったので、俺は独自にあれの調査をすることにした」
「そんなの、彼女にちょくせつ聞けばよかったじゃないか」
「俺はお前の口から聞きたかったが、どうもお前にすら素性を明かしていないようだ、そうだな」
「……う、」
「見ろ、裏で入手した住基リストだ、本来載っていない人間まで網羅されている」
 ピッ、ピッ、ピッ、慎也は無表情でサーチウインドウにアルファベットを打ち込んでゆく。
 i-chi-ru……cannot find。
 i-chi-lu……cannot find。
 i-ti-ru……cannot find。
 i-ti-lu……cannot find。
「他にも思いつく限りの綴りで検索した」やけに平坦な口調で慎也は言う。「結論から言おう。この街にイチルなどという少女は存在しない」
「……慎也、まてよ……」
「だが」ピピッ。今度はイチルのパーソナルヒストリーとみられる文書が長々と投影される。「転入時には学歴以外の詳細なデータが機関から送られてきた。何が言いたいのか解るな?」
「機関が、イチルを、でっちあげたっていうの、」
「正解だ、奴らも案外、雑なことをする」ピピッ。また画面が変化する。「そして、このフェイクのデータへ頻繁にアクセスしているのが、この人物だ」
 ピッ。慎也は膨大な量のアクセスログをわざわざ拡大表示させ、トワにしめしてみせる。
 トワの口から、思わず「……うそだ……」と消え入りそうなつぶやきが漏れた。
 きみどり色に光るアルファベットの羅列は、残酷に、少年の瞳を射ている。

 ――Yu-ra、Yu-ra、Yu-ra、Yu-ra、Yu-ra……。

つづく
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小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■第四章-1

   四*浮上矛盾ノスタルジア

170617たときみタイトル2*ひどいゆめ

「こないだはゴメンね、なんでも打ち明けられるともだちって、トワしかいないからっ」
 あれ、こんなこと、まえにあったっけ。
 それで、服を買いに……、ううん、ちがうな、クロックムッシュを食べにいったんだ。
 ――見て分かるだろ、また、持ってくるからさ、もうやめろよ。
 よかった、トワ、わらってる。トワの笑顔、とってもきれい。
 あしたもまた、あえるよね。笑顔の記憶、もっともっとつくれるよね。
 ――もうやめろよ、イチル……。
 え。
 ――うそつき。
「トワ」
 ――うそつき! ……っ。
「トワ、どうしたの、くるしいの? 胸が、いたいの?」
 ――変だ。まるでココロが、ふたつになってしまったみたいだ。……だれだ、オマエはだれだ、出ていけ、ボクのなかから出ていけッ!
「……あらがえば、その苦しみが続くだけ。ぼくとあなたのココロは、おなじ破壊の色に染まってる。だいじょうぶだよ、とわ。ぼくがあなたを愛してあげるから。心の底から、愛しすぎてくるしくて死んでしまってもいいほどに、」
 ――……ふっ、ふふふ、あははははっ。
「……とわ?」
 ――お姫さまが王子であるボクを愛するのはとうぜんのことだろ、そう言うならさっさとくるしんで死んじまえよ。
「……そんな、」
 ――愛してあげるだって? 笑わせるな、オマエこそただ愛されたいだけのくせに……!
「やめて……、やめてよっ。とわ、いつものやさしいとわにもどってよっ!」

 と、少年の後ろから、すっと白くて細い腕が伸び、その体を抱いた。薄衣のドレス、腰まで伸びる長い髪。
 いたずらっぽい瞳。

「可哀相に。こんなにくるしい思いをさせられて」
「……マナ、」
「気付いているんでしょう? 王子さまをこんなふうにしてしまったのはあなたなのよ、イチル」
「でもぼくは、ぼくはっ、」
「なんでも打ち明けられる、ですって? おかしいわ。何故ならあなたはトワに隠してる」
「……マナ、いやだよ。そんなふうに笑ったりしないでよ、トワをかえしてよ」
「こんなことをしておいて、まだ何かを欲しがる気なの? 本当にズルイ子ね」
 いやだ。いや。いや。いや。いや、いや、いや……

「いやっ!」
 イチルは声を上げて飛び起きた。とたんに冷えた両肩に大きくてあたたかな手が乗り、少女の上体を支え、それから軽く揺すった。
「お嬢さま、落ち着いてください」
 トワと同じプラチナブロンド。シルバーグレイのやさしい瞳。
「……由良。由良? 由良あっ!」
 イチルは青年の腕をたぐり寄せるようにしてしがみつき、まるで母親にそうするように、両手を伸ばしてぎゅっと抱きついた。由良はけっして拒むことはせず、少女を受け入れる。
「お帰りなさいませ、お嬢さま。これまでの働き、お疲れ様でした」
「これで、ぼくはお父さんに褒めてもらえるよね? 認めてもらえるよね? あいして、もらえるよね?」
「ええ。燐様もきっと、お喜びになっているはずです。ほら、まだ起きてはいけません、横になって」
 いまひとつ状況が飲み込めない。とりあえず青年の手を借りて、素直に仰向けになる。僅かな違和感に目をやると、左手は点滴に繋がれていた。
 ぴっ。ぴっ。ぴっ……。そして規則的に続くデジタル音に思わず青年と逆のほうに顔を向けると、ブルーのモニターに自分のバイタルサインが表示されているのがわかった。いつのまにかライトグリーンの入院着に着替えさせられていて、羽布団は腰の辺りまでしか掛けられていない。だから肩が冷たかったのだ。
「由良、さむいよ」
 由良は無駄のない動きで立ちあがると、少女の肩までそっと羽布団を着せた。
「うなされておいででした」
「……ゆめ? ぼくはまだ、ゆめをみることができるんだね」
「そのようです」
「ひどいゆめ」記憶はおぼろげだが、少女の身体は恐怖にぶる、と震えた。「でも、これで、よかったんだよね? ぼくは間違っていないよね? そうだよね、由良」
「はい、そうですとも、お嬢様」
「それなのに……どうしてこんなきもちがするんだろう。どうしてこんなに、心が痛いんだろう……」
「いいのです。それで、いいのですよ……」
「さいしょは、お父さんに喜んでもらいたいって、それだけだったの。それなのに、きえないの、けせないの、トワのこと、忘れたくないの。ねえどうして、由良。ぼく、馬鹿だからわからないの。このきもちがなんて名前なのか、わからないの」
「その感情の名は、きっと」
「きっと?」
「……いえ」青年は白い睫毛を伏せ、言葉を切る。点滴スタンドにセットされた透明な薬剤のアンプルに手を伸ばした。「知らなくて良いことだってあるのですよ、お嬢様。さあ、あまり興奮されてはお体に障ります。もう少し眠りましょう」
 ぷしゅ。小さなバルブ状の取っ手が回され、アンプルから伸びる管と点滴のラインが交わった。
 イチルの意識は、ふたたび乾いた砂の海へと、深く深く落ちてゆく。

つづく
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小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■第四章-2

170617たときみタイトル2*ココロが壊れそうだよ

 水曜以来、イチルは学校を休んでいた。そのことに関してトワ自身はもちろん、ナコも多くを口にしようとしなかった。しかし、一度は関わるなと言ったはずの慎也が、金曜の放課後になって声をかけてきた。医務課管轄ホスピタル、四階南ウイングの特別室。そう手短に告げて、釘を刺すように付け加えた。
「俺じゃないぞ。由良からの言づけだ。会いに来てやってほしいと言っている」
 土曜日の朝になるのが待ち遠しかった。ろくに睡眠を取らないまま、面会許可の下りる午前九時に間に合うように斡旋住宅を飛び出した。
 無論、イチルの素性一切に対する疑念やはっきりとしない落胆は、どうにか心の奥に留めようと努めた。そんなものよりも正直、イチルに会いたいという思いのほうが強かった。
 医務課管轄ホスピタル南ウイングというのは、サキが収容されていた場所だ。三度目の訪問となったトワだが、やはり最初に受けた『ホスピタルというよりホスピスに近い』というイメージは変わらなかった。不吉な思いを抱きながらも、一階ホールに店舗を構えた小さなフラワーショップで、濃いピンクのガーベラを二輪だけ買った。資金は前日に、初めて機関に申請したものだ。まさか二輪しか買えないとは誤算も誤算だったが。
 息を弾ませて四階の特別室に向かう。
 エレベータを降りて南へ踏み出したところで、少年はハッと足を止めた。
 特別室とみられる部屋のスライドドアのすき間から身を滑り込ませるようにして、ひとりの少女が出てきたのだ。
 レースの縁取りのある薄衣のドレスをまとっている。おまけに裸足だった。童話の一ページから抜け出てきたかのような不思議な魅力と違和感が同居している。
「……」
 少女のほうもはっと目を丸くしてこちらをうかがった。ヘーゼルの瞳はいちると瓜二つだが、すぐにそこへ、どこか艶めいた大人っぽい光を宿した。
「イチルなら今はいないわ。あなたもお見舞い?」
「え、あ……うん」
 足音を立てずにふわふわと近づいてくる少女は、バレリーナのようだった。トワのところまでやってくると、ノースリーブのドレスから伸びたしなやかな腕で少年の持っていたブーケを絡め取るようにした。
「これ、受け取っておくわね」
「え、」
 すっ。有無を言う暇も与えられない。胸元にガーベラを抱いた少女は、上目遣いでトワを見る。
「ピンクのガーベラの花言葉は、童心に返る。それも二輪……意味深ね」
「……その、」
「心配しないで、ちゃんと渡すわよ」少女はくすくすと心底楽しそうに笑う。「イチルとはそうね、双子みたいなものなの。でも彼女はただの出来損ない、失敗作だった。破壊の色の試験投与に精神を侵され、適応できずに壊れかかっている。あなたも知っているわよね、サキも、その中のひとりだった」
「ハカイの、色だって……?」
 さっと青ざめる少年の顔を、少女はひたりと見据えている。だがそれも一瞬。こんどはヒステリックといっても良いような笑い声を立てた。
「そんな顔、する必要無いのよ。だって、あなたのせいじゃないんだもの」
「……きみは、いったい」
 こんな台詞、いつかイチルにも言ったっけ。冷静に思考しながら、戸惑いは消えない。
 少女はブーケの抱き方をすこし変え、すっと細い手を交差するようにした。
 何を意味するのかは見当もつかないが、まるでバレエのマイムのようだった。
「わたしは、マナ」ふわ。いっしょに踊りましょうと言わんばかりに少女は片手をトワに向けて差し出す。「そしてわたしこそが、銀河の瞳を持つ王子と結ばれることを運命づけられた、ほんとうのプリンセス」
「……本当、の?」
「手を、とってくれないの? 王子さま?」
「だって、」
「そうよね」マナは瞳にいたずらっぽい光を取りもどす。揶揄するように続けた。「先にイチルが、出来損ないのあの子のほうが、あなたをとりこにしてしまったんですものね」
「きみはさっきから、何言って、」
「だったらあなたは」
 マナの表情はくるくると変化する。今度はいっとき、真剣なまなざしがトワを射た。
「あなたはイチルを愛していますか」
「え」
「もしすべてが、大人たちの残酷なシナリオにしたがって作りあげられた、儚い物語だとしても――あなたはイチルを愛してくれますか」
「……」
「イチルは、小さい頃からあなたと結ばれることを夢みて、あなたのためだけに生きてきたの。たとえココロ引き裂かれても、あなただけを愛することを誓ったの」
 ――わたし、とわといっしょにいるの。ずっと。ずっとずっといっしょ……。
 幼い頃のビジョンがフラッシュバックした。
 気づけばトワは、自分でも信じられないことを口走っていた。
「そう……ボクはイチルを――愛し、たいんだ」
「――!」
 マナは表情を凍りつかせた。……そしてしばらくして、ふうっと、力の抜けたようなため息をつく。
「そう、わかったわ」声には感情が宿っていない。「用済みなのは、わたしのほうなのね」
 ふわ、マナは糸の切れたマリオネットのようにフロアへ膝をつく。黙ってうつむいた。
「大丈夫?」
 思わず傍らにしゃがみ込んだトワは、目を丸くした。透明な雫が床を濡らしていた。
「やだ、わたし、泣いてる」
「……ごめん、ボクは、」
「帰って」
「え」
「不愉快だわ。帰ってちょうだい」
「でも、」
「帰りなさい! もう二度と来ないで!」
「……う、」
 激しい拒絶。トワは言われるままフラフラと立ちあがり、少女に背を向けるしかなかった。次第に速度を上げ、南ウイングを走って突っ切ってゆく。途中、プラチナブロンドの青年とすれ違ったのにも気付かない。
「……?」
 由良はすこしばかり驚いた様子で、駆けてゆくトワの華奢な背中を目で追った。
 そして振り向くと、少女が病室の前でくずおれているではないか。さすがに慌ててそちらへ向かった。
「お嬢さま、おひとりで病室を出られてはいけません、まだ点滴が外れたばかりなのですよ」
 投げ出された二輪のガーベラを見て顔を曇らせる。
「……すみません、トワが、来ていたのですね。私としたことが、」
「由良、たすけて」抱き起こそうとして自分の傍らに片膝をついた青年に、少女は全身ですがって嗚咽を漏らした。「ココロが、壊れそうだよ」
「……」もう片方の膝をついてしっかりと少女を抱きしめる由良。耳もとでやや事務的に、静かに訊く。
「あなたは今、マナですか、それともイチル?」
「わからないの」声を震わせ、少女は泣き続ける。
「……わたしは、誰……?」

つづく
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小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■第四章-3

170617たときみタイトル2*さいごにいちどだけ

 あれ以来、イチルの不在にかかわらず驚くほど穏やかな数日が続いていた。きょうも、普段通り後ろのドアから入室するとナコが当然のように近寄ってきた。
「よう。月曜から真面目に登校なんて珍しいな」
「……ほっといてよ」
 微妙な距離感は否めないが、少なくとも今はカッターナイフで脅されることも無くなった。ナコはトワのトレードマークとなった赤チェックの服を眺めて、すこし笑う。
「わかってんだぜ。あいつに会えるかもしれないからだろ」
「わるいかよ」
「へえ、トワちゃん素直になったな。すっごく意外」
「きみこそ」
「残念だったな。変態教師の嫌がらせにも負けず、俺はずっと皆勤だ」
「それはごくろうさま」
「知らないのか、目上に対する言葉遣いとしてはお疲れさま、のほうが正解なんだぜ」
「きみを目上だと思ったことなんてない」
「どこをとってみても俺の方が偉いけどな」
「どこってどこ」
「そうだな」
 頭ひとつ分ほど背が高いナコは、わざとらしく腕を組んでトワを見下ろす。
「存分に寝こけているお前と違って俺は昼間、家庭教師のアルバイトをしている。それからこのなりを見て気づかないお前は相当アホだと思うが、俺の方がひとつ年上だ」
「う、そだろ、」
「嘘だと思うなら見ろ」ナコはミリタリージャケットのジッパーを下げて手早く脱ぎ捨てる。驚くべき事に糊のきいた白のシャツに紺のタイを締めていた。胸ポケットに入っているのは黒縁、いや、黒に濃紺のドットが控えめに入ったお洒落な眼鏡である。それを慣れた手つきでかけると、無造作ヘアをさっと撫でつけた。「高等部二年という設定だ。ばれたことは一度も無い。ちなみに眼鏡は伊達じゃない。実は近眼なんだ。そして」
 レンズ越しにはっきりとした二重の琥珀色の瞳がぐっと近づく。トワはあっという間に壁際に追い詰められていた。とん。ほど良く筋肉のついた腕が伸び、耳に触れるか触れないかのところに手をついて少年の退路をふさぐ。
「何故かガキどもではなく、お受験ママ連中に人気がある」
「……う、」
「お前、出席が足りないなら俺がいろいろと教えてやってもいいぜ。見返りは別に、金に限定はしない、例えば、」
 と、フロント側のスライドドアが作動する。入ってきた慎也は無表情で口を半開きにし、動きを止めた。
「ナーコ」心底呆れている。「なんだそれは、こんどはコスチュームプレイか。つくづくお前とは趣味が合わないようだ」
 ナコはトワを解放すると、堂々と慎也に向き直った。
「悪いな、これでもちょっとはあんたのこと、参考にさせてもらってるんだぜ」
「俺こそ悪い。今、天変地異レベルでぞっとしたぞ」
「さっすが。語彙がユニークですね、せんせ、」
「子どもが食いつきそうな単語はおおかた心得ている」不毛なやりとりだが、やはり慎也の方が一歩上な印象である。どうでもよさそうに話題を変えた。「傷はもういいのか」
「あ、あんたこそ」
「お前に心配されているかと思ったら、今ごろ疼き出したぞ」
 袖口からのぞいたテーピングはごく薄いブルーだった。トワの部屋にあった包帯ではない。医務局で縫合処置を受けたのは明らかだった。
「……あの、」むきになっていて怪我をさせたことをきちんと謝罪していないような気がする。トワは慌てて言葉を探した。そのとき、
「おはよっ、トワ、ナコ、シンヤせんせいっ!」
 ……! 教室内にざわめきが走る。
 イチルはいつものとんがり帽子にピンクのかぼちゃパンツ。照れたようにえへへ、と笑った。
「ごめんね、倒れたなんてきいて、ぼくのほうがびっくりしちゃった」
「もう、だいじょうぶなの、」
 トワの消え入りそうな声に、イチルはガッツポーズをしてみせた。
「もっちろん! だいだいだいの、だいじょうぶだよっ」
「よかった。いつもの、イチルだ」
「あったりまえじゃない。ぼくがしょうしんしょうめいの、イチルだもん」
 ――イチルが、戻ってきた。
 嬉しさに、授業が手につかなかった。
 たくさん話したいことがあった。聞いてもらいたいことがあった。疑問もあった。
 しかしイチルは夢中になってキーボードを操作していて、内緒のおしゃべりをしかけてくる気配は無かった。ぴこ、ぴこ。両のひとさし指を使って、真剣に問題を解いている。トワにはその姿がとても新鮮に映った。
 ――。
 一方慎也は冷静に、イチルのディスプレイをモニタリングしていた。

 ……そして いちるは きえるの

 さいごに いちどだけ ぼくは ぼくになってみたかった

 うまく うたえたかな わらえたかな なけたかな

 とわ いままで ありがとう さようなら……

 メッセージがトワの端末に送信されることは、なかった。二十一時、授業が解散になると、イチルはぴょんと立ちあがり、うんと伸びをしてにっこりと笑った。
「トワっ」
「う、うん」
「約束したよね、たんじょうび、おいわいしてくれるって、」
「あ、え、うん」
「ナコにも声、かけてねっ」
「え」
「大勢いたほうがぼく、うれしいもん!」
「わ、わかったよ」
 もう出会ってから、そんなに時間が経ってしまったのだろうか。
 トワの戸惑いをよそに、イチルは元気に大きく手を振って駆け出していた。
「あしたのお昼、アヒトさんちでまってるね!」

つづく
つぎのおはなしへ
前のおはなしへ
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小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■第四章-4

170617たときみタイトル2*そうだね、アルマ

 一ヶ月ぶりに、医務課エリアの最南端にある医療保護施設へと向かった。
 面会だ。予約は前もってとりつけてある。
 窓口でいつものように直筆のサインを求められ、面会帳に自分の名を記した。
 アヒト・クライン、アヒト・クライン、アヒト・クライン……十年近くにわたって、アヒト以外の面会者は無い。顔なじみの中年の職員が、やあ、といってにこやかに近づいてきた。笑みには多分に憐れみが入り交じっている。嫌いだ。
「アヒト君、調子はどうだい。毎月かかさず来てくれて、アルマも喜んでいるよ」
「ありがとうございます」アヒトは嫌悪を表に出すことは無い。「院生生活も、あと一年です。もちろん無事に卒業見込み。問題はありません」
「卒業後はどうするつもりだい?」
「そうですね、医務課の試験を受けてみようかと思っています。教授陣も、僕のことは可愛がってくれていて、今のままならたぶん、」
「合格間違い無しか。さすがクライン教授の血を引いているだけある。応援するよ。その髪型も教授にそっくりだね、懐かしいよ」
「ああ」アヒトは少し照れたように自分の金髪に触れた。真ん中で分けた前髪を残して無造作にヘアゴムでくくっている。「すこしだけ伸ばしてみたんです。アルマが……喜ぶと思って」
「君はほんとうにいい青年に成長したね。……おっと、時間だ、じゃあごゆっくり」
「はい。失礼します」
 受付け口を入ると、すぐ右に面会室がある。アヒトは重い防音扉を開けて入室すると、簡素なテーブルと椅子だけの殺風景な部屋を眺めて、眼鏡越しに暗い目をした。ここに通い始めてもう何度を数えたろう。重い息をつきながら、椅子に腰掛ける。
 と、白衣の女性職員に手を引かれ、薄緑の入院着姿の老婆が部屋に入ってきた。混じりけ無しの白髪は無残にもベリーショートに刈られている。虚ろなグリーンの瞳は、アヒトを見とめたとたん、ぱあっと光を取り戻した。まるで愛しい恋人に、遙かな時を超えて再会したかのような反応だ。
「あなた……!」
 老婆は職員の制止を振り切り、青年の手をとる。老婆の手のあまりの冷たさに内心ぞっとする思いだったが、アヒトはにっこりと笑って応じ、向かいの椅子に座るようやさしくうながした。
「やあアルマ、元気だったかい?」
「ええ、ええ! わたし、ずっとずっとあなたに会いたかったの! もう何年ぶりかしら、ねえあなた!」
 一ヶ月前に会っていることも、アルマはもう思い出すことができない。いつの間にからかそうなった。アヒトももう、それが正確には何年前であるか、数えるのをやめた。機械的に、そうだね、と返事をする。
「そうだねアルマ、久しぶりだね。勉強は、はかどっているかな?」
「もちろんよ! 毎朝、花壇にお水をまくの。さっきまで菜園で、小さなトマトを収穫していたのよ。たくさん、たくさん!」
 アルマはこの収容施設を、寄宿舎制の学校だと解釈している。
「そうか。アルマはトマト料理が得意だったね」
「ええ! この学校は、お料理の時間もあるのよ? あなたにもいつか、ご馳走したいわ!」
「ああ。僕も楽しみだよ、アルマ」
 彼女が料理をしていた記憶は、実際はアヒトには無い。
 本当にこの施設内で料理によるケアプログラムを受けているかさえ、知らない。
「ねえあなた」老婆は突如、少女のような瞳をする。「ずっとずっと、考えていたことがあるの」
 始まった。また、始まった……。笑みが崩れそうになるのを、アヒトは懸命にこらえる。
「なんだい、アルマ、ずいぶんと真剣じゃないか」
「やくそく、したわよね。わたしがここを卒業したら、わたしたち、結婚式を挙げるのよね」
「そうだよ、アルマ。準備はもうととのっているよ。街外れの小さな教会で、仲間と友人たちみんなを呼んで、盛大にやろう。君は晴れて、僕の妻になるんだ」
 ……自らの言葉で、アヒトは自分を傷つけ続ける。そして苦痛は、まだ終わらない。
 老婆は頬を染めて、とっておきの秘密を告白するように、続けた。
「そうして、わたしたちは天使のような赤ちゃんを授かるのよね」
「そうだね、アルマ。とてもとても、素敵だね」
「わたし、あなたに会えないあいだ、ずっと考えていたの。赤ちゃんはきっと、あなたにそっくりな、男の子なの」
「そうか。アルマの予感はよく当たるからね、きっと、その通りになるね」
 実際は、その通りにはならなかった。赤子をその手に抱くのを待たず、クライン教授は若くして事故で死んだ。
「それでね、ひらめいたの。赤ちゃんの名前は、アヒト。すこし変わっているけれど、どうかしら、」
「そうだね……アルマ。僕も賛成だよ」
「うれしい! わたし、はやくこの腕にアヒトをだっこしたくてたまらないの。アヒト、アヒト、アヒト……。きっとあなたみたいに、やさしくて、おおおらかで、立派な青年になるのよ」
 それ以上、その名前を呼ばないでくれ! いったい僕は、誰なんだ……!
 胸の奥では爆発的に叫んでいるのに、青年は老婆を慈しむような目をして、そうだねといつもの答えをした。
「そうだね……アルマ、楽しみだね」
「わたし、この学校でのお勉強、たくさんたくさん、頑張るわ。だからあなた、もうすこしだけ、待っていてね」
「ああ……そう、だね……アルマ」
「だからあなた、また来てくださるわよね? そうよねあなた、愛するあなた、きっと来て、くださるわよね?」
 ――沈黙。
「……そうじゃ、ないんだ」
 キイ。椅子が音を立てた。アヒトは老婆の手をほどいてゆっくりと立ち上がり、うつむいて静かに言った。

「今日はお別れを言いに来たんだ。もう来ないよ。さよなら…………母さん」

 施設を出ると、まるでアヒトを待ちかねていたかのように雨が降り出した。
「……」
 振り仰いだアヒトの眼鏡に大粒のしずくがぱたぱたと降りそそぐ。
 アヒトの視界は次第に雨粒に覆われ、ぼやけてゆく。
 次にうつむいたアヒトは、片手でゆっくりと眼鏡を外し、足もとにそれをポイと投げ捨てた。ざあああああああ。雨あしが強くなりアヒトを、街じゅうを、むっとした初夏の空気が包んでゆく。そして、
 ――一瞬の無音。
「……ッ!」
 足もとの眼鏡を激しく踏みつけるアヒト。ざああああああ。雨の音で、何も聞こえない。何度も、何度も、何度も何度も何度も、原形を留めなくなるまで力いっぱい踏みつける。
 知らず、低い哄笑を発していた。両腕を伸ばして雨を全身に浴びる。笑って笑って、腹が痛くなるまで笑って、それでもまだ、笑うのをやめない。
 そのとき、雨でぼやける視界の中、正面から駆け寄ってくるすらりとした少女の姿が見えた。
「アヒトさん?」オレンジにひよこ柄のプリントの傘。イチルだ。「ねえアヒトさん、どうしたの、こんなにずぶぬれになって……。傘、持っていかなかったから、探してたの」
 粉々になった眼鏡は雨と泥にまみれ、イチルはその存在に気づいていない。
「……イチルちゃん」アヒトは転じて寂しげな笑みをすると、自嘲気味につぶやいた。
「なんだか変なんだ」
「え?」
「心の底から泣きたいと思っているのに、この声帯は勝手に笑い声を立てるんだ。こんな経験、たぶん君はしたことないよね」
「あの……」
「まあいいや」唐突に何か、吹っ切れたような口調になるアヒトである。「ごめん、ちょっと疲れているみたいだ。でも、例えばだけど、イチルちゃんがいるなら何だってできそうな気がするよ」
「アヒトさん、とにかくお部屋に戻ろうよ。風邪、ひいちゃうよ」
 差し出されたオレンジ色の傘を、アヒトは素直に受け取った。
「そうだね、帰ろうか、一緒に……」
 歩み出した長身のアヒトの顔を、いちるはうかがい知ることができない。青年のくちびるの端が、にやり、と不自然なかたちに歪んだのも、もちろん知らない。
 誰にでもなく呟いた言葉も、雨の音にかき消される。
「……最高の誕生日にしようね……」

つづく
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小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■第四章-5 ミカサ、あるいは

170617たときみタイトル2*ミカサ、あるいは

 午前中から降り出した雨は、止む気配を見せなかった。
 学院本部エントランスの窓にはひっきりなしに雨粒が叩きつけられているが、完璧な防音仕様のせいで構内は不自然なほどに静かである。僅かに事務員たちの立てるキーボードのタイピング音や、コピー機の作動する音などが穏やかに流れている。
「ミカサ、ですか、ファーストネーム? それともファミリーネーム?」
「知らねえよ」
「ミカサの『カ』の綴りはka? それともca?」
「だから知らねえって」
「失礼ですが」ナビゲーションガールはナコの態度にあからさまな不信と難色を示して言った。おまけに口調まで子供に対するそれになる。「キミね、プライバシーって知ってる? 私たちスタッフには学生ひとりひとりの個人情報を守る義務があるの。しかるべき理由と権限が無ければいくら子供でも安易な開示はできません。見たところ学院とは関係ないみたいだし、」
「オレは中等科夜間部の生徒だ!」
「夜間部ですって?」淡く、しかし隙の無いメイクをほどこした瞳には驚きと若干のあざけりの色が宿った。「知らなかったわ、夜間部なんて存在しているのね」
「てめえ、」
「とりあえずお引き取りくださる? 警備員を呼ぶわよ」
「ああ呼べよ、その前に……、っ!」
 ――何者かが力強い手でナコの二の腕を掴んだ。まるで少年の手がミリタリージャケットのポケットの中でカッターナイフを握りしめるのを知っていたかのようなタイミングだった。琥珀の目は意外な人物を認めて丸く見ひらかれる。
「……慎也」
「失礼。私の生徒がご迷惑を。なにぶん自由を重んじる教育方針なもので」
 自然なウェーブのかかった黒髪に深緑の瞳、僅かに着崩した白いシャツに細身のタイ。
 いつもと変わらぬなりなのに、昼間の明るい光にさらされた慎也は驚くほど知的で清潔感あふれる好青年に見えた。ナビゲーションガールも同じ印象を受けたらしい。とたんに頬を染めて職務中のよそ行きの顔をとりもどした。
「私のほうこそ失礼をいたしました。教員の方がご同伴とは存じ上げず、」
「中等科夜間部主任指導教員、慎也・ユキサトです」
 慣れた手つきで胸ポケットから顔写真入りのIDカードをちらりと見せる。「本来なら学院ヘッドクォーターにアポを取るべきなのでしょうが、あいにくこちらも多忙なうえに用件もごく些細なものでして」
「え、ええ」
「取り急ぎ『ミカサ』でアカウント名の検索をお願いしたい。mi・ka・sa、それにmi・ca・sa、念のためにmi・cua・sa、そんなところか?」
 いきなり同意を求められたナコは慌ててただうなずく。
「かしこまりました」ナビゲーションガールはにっこりと目を細めて笑うと、高速で端末のキーボードを操作した。数秒おきにピピッ、ピピッ、ピピッ、三度エラー音が鳴った。
「残念ですが、ご指定の登録名はございません。ご期待に添えず、」
「そんなはずはない!」ナコはたまらず声を張りあげた。「あいつ、確かにここの院生だって言ったんだ!」
「ナコ、落ち着け。あれのことだ、偽名の可能性が高い。他に情報は思い当たらないのか」
「んなこと言われても……!」
 ナコは掴まれたままだった腕を苛立たしげに振りほどいた。「いきなり現れて、なぜか猫のこと知ってて……検体管理の当番だったとかなんとか、」
「それだ。妙にそこだけ信憑性が感じられるから俺も不思議に思っていた」慎也はあらためてカウンター越しの端末を見た。「度々お手数をかけて申し訳ない。薬学部の検体管理シフトの閲覧は可能だろうか」
「……そんなのあったかしら、」と言いながら彼女の検索スキルは大したものである、数分後には見事にリストを探り当てた。「いつのシフトです?」
「先週水曜日の担当者を教えて欲しい」
「…………まあ!」女は目の色を変えて嬉しそうに薄ピンクのマニキュアを塗った指を眼前で絡ませた。「アヒト・クラインですよ、ご存じですよね? 学院主席のアヒト・クライン。彼なら滅多に学院には姿を見せないから、そのミカサっていう人に代わりを頼んだんじゃないかしら」
「……」
 ナコと慎也は思わず顔を見合わせた。
「まいったな」先に慎也が口火を切る。「事が思ったよりややこしい。さすがに交友関係までデータ化されているわけじゃない」
「なにが交友関係だ!」ナコはたまらず怒鳴った。「あの人があんなサイコ野郎と友達なはずがないぜ!」
「まあ人間何があるかわからん、腐れ縁とか、厄介な親戚とかな」
「アホ教師! あの人に限って絶対ない! 断言する、あの人には関係ない!」
「熱くなっても始まらん。じゃあ何だ、友人でも腐れ縁でも親戚でもない、つまり……ん?」
 慎也の表情が固まった。「――まさか、な」
「……おい、やめろよ……」青年の深刻なまなざしの意味を敏感に察知したナコが警告のような声を発する。「そんなはず、ないだろ……」
「お前たち、一体いつ知り合った」
「オレは最近だけど、あいつらは、」
「まずい」慎也はナコの答えを最後まで聞かず、早口で女に尋ねた。
「アヒト・クラインの住所は」
「申し訳ございません。さすがにそこまでお教えするわけには……」
 チッ。慎也は舌打ちとともに女に対して取り繕っていた教師の顔を捨て去った。
「ナコ、念のためトワを探せ。斡旋住宅C棟の802号室だ。俺は心当たりがあるから医務課に行く」

つづく
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小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■第四章-6 嵐の前

170617たときみタイトル2*嵐の前

 雨の日は学校には行かない。そうなんとなく決めていたせいて傘の用意が無かったことを、トワは心から後悔した。先日行ったヒスイ嬢のカフェや、中央通りのセレクトショップでときおり雨宿りをしながら、全速力で校舎へ向かった。
 さいわい『Medical Office』の中には人の気配があった。インターホンのタッチパネルに触れると由良が応答したので、とりあえず胸をなでおろす。昼間は不在の可能性があったが、良かった。
「こんにちは、トワ……おや」
 ドアを開けて入室すると、由良はトワが大事そうに抱いたクラフト紙の袋を見て表情を和らげた。
「置いていてくださったのですね、苦手は克服されましたか?」
「きょう、ともだちの誕生日なんだ。あなたに、珈琲のいれかた、教えてもらえないかと思って。……その、」
「ええ」
「へん、かな、」
「いいえ」青年は微笑む。「きっと、素敵なプレゼントになりますよ」
「……よかった」 
 部屋の中にトワを招き入れると、由良は袋を受け取って、中からただよう香りを確認した。
「豆は挽き立てが一番という説と、一週間後が一番という説があります。ちなみに私は後者を支持しておりまして、手ほどきをするのならばさっそく。珈琲専用のケトルがなくとも美味しくできる方法を教授いたします」
「……うん」
「まずお湯を沸かしてください。分量はきっちり二カップ分。最初のコツは、沸騰してからすぐにドリップを始めるのではなく、」
「ちょっとまった」
「ん」
「……お湯って、どうやって湧かすの……?」
 ……。
 由良は一瞬目をぱちくりさせたあと、クスクスと笑い出した。
「困りましたね、あなたにはもっと徹底した生活指導が必要なようだ。さすがに慎也も、お湯の沸かし方は教えてくれないでしょう。……ん、」
 ぴぴっ。青年のシルバーグレイの瞳の中で、チカチカと青いパルスが点滅した。
「噂をすれば、何でしょう。失礼、通話モードに入ります」
 同じく青い光を放ち始める右の指先をこめかみの辺りに当てる。
「慎也、どうしました。いえ、トワならここにいます。……え?」
 青年は黙って、慎也とみられる相手の話を聴いていた。まばたきが、次第に少なくなる。

「わかりました。護送車を手配してすぐに向かいます」

つづく
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小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■第四章-7 心が疼くんだよ

170617たときみタイトル2*心が疼くんだよ

 壁じゅうに張り巡らされた三角のカラフルオーナメント。テーブルに十数個も置かれたパーティークラッカー。そのほかに鼻眼鏡やヘリウムガスの注入スプレー、籠入りのフルーツの盛り合わせ。メインのご馳走はもう一時間もしないうちに届く手はずだ。
 部屋にたどり着くと、イチルはふたつあるベッドのうち片方にアヒトを座らせ、半ば強引にびしょ濡れの上着を脱がせた。
「いいよ、イチルちゃん」
「だめですっ、かぜひいちゃいます。タオル、どこですか、クローゼットですか」
「……そうだけど、」
「開けちゃぃますねっ」
 パタ。イチルは今時珍しい木目調の扉を開けた。ハンガーに吊された制服や白衣に並んで、アヒトらしく几帳面に折りたたまれたタオルやファブリック類が整然と積んである。一番大きな白のバスタオルを選び出すと、それを持って軽快にアヒトのもとまでゆき、ヘアゴムを解くとやや乱暴にごしごしと髪を乾かし始めた。
 アヒトはされるがままになっている。
 ……もう、どうだっていいんだよ……。
 ごく小さなつぶやきは、イチルには届かない。ごしごし、がしがし、夢中になってアヒトの頭を揉みくちゃにしている。
「これでよしっ、と。……わあっ」
 ぱさ。少女はバスタオルを取り落とし、口をぽかんと開けた。
「ごっ。ごめんなさいっ、アヒトさん、アフロになっちゃった!」
「……ん」特徴的な一重の目が、開いたクローゼットの鏡をちらりと見る。「あ、ほんとだね、」
「たいへん! もふもふですねっ」
「……そうだね」
 鏡の中のアヒトはちいさく吹き出し、気を取り直したようににっこりと笑った。
 思わず一緒になって笑ったイチルは「あれ?」といってミラーからアヒト本人へと視線を移す。「アヒトさん、めがねは?」
「イメージチェンジってところかな、どう?」
「とてもすてき」イチルは青年の隣に腰を下ろし、その顔をのぞき込む。自然、ふたりの距離は接近した。「エメラルドグリーンの瞳に、まつげだって女の子みたいに長いし……アヒトさんってこんなにかっこよかったんだ」
「そう? なんだか照れるなあ。でも、イチルちゃんもさ、こんなへんてこな帽子かぶってないで」
「え、」
 アヒトはイチルの帽子を無造作に取って傍らに放り投げ、長い髪をまとめていた大きなピンをすっと抜いた。ぱさりと流れて広がるしなやかな髪に、アヒトは指を差し入れ、優しく梳く。「ほら、こうすればずっとずっと女の子らしくって素敵だよ。もう、壊しちゃいたいくらいにね」
「アヒトさ……んっ?」
 アヒトは自分の口に何か小さな錠剤のようなものをポイと放り込むやいなや、少女の腰と肩を力尽くで抱き寄せ、強引に口づけした。
 驚きで真ん丸に見開かれていた少女の瞳が、ほんの少し苦痛に歪む。
「……!」
 けんめいにアヒトの手から逃れようとするが、青年は力を緩めようとはしない。その目には、これまで彼が一片たりとも垣間見せることのなかった猟奇的な光が宿っている。少女がたまらず口移しにされたものを飲み込むのを確かめてからようやく、ゆっくりと、くちびるを離した。
 イチルはちいさく咳き込んで、震える手で口元を、そして喉のあたりを押さえる。
「……あ、れ」
「眼鏡を外しただけで少し大胆になれるなんて、なんだか不思議だ。何でもできそうな気がするって言っただろ。オトナのキスは初めて? すごくいいよ、その表情」
「……なに……? なんだか、苦……」
「そうだね、初恋の味っていうのは大抵少しばかり苦いものさ」
「く、すり……? どう、して、」
 少女の口調はみるみるうちに緩慢になり、瞳の焦点がぼやけてゆく。
「大丈夫だよ」アヒトはイチルの細い肩に両手を伸べると、ベッドへやさしく押し倒した。「速効性がある分、持続時間はさほどじゃない。……その様子なら、効いてきたようだね。新作のドラッグ『ARIA』さ、君にぴったりな名前だろ?」
「な……んで、こんな、こと……」
「男の子みたいな格好してるからはじめは気づかなかったけど、イチルちゃん、よく見るとすごく可愛いじゃないか……。心が疼くんだよ、君のいろんな顔が見てみたいって」
 アヒトは少女に覆い被さり、今度はその首すじへくちびるを這わせる
「あ……」吐息とともにこぼれた声は熱を帯び、ふるえていた。
「ほら、ちょっと触れられるだけで、イッちゃいそうになるだろ。なんだろう。今、君のためならいくらでも意地悪になれそうな気分だよ、イチルちゃん」
 そして自由を失った身体の華奢な肩口へ顔をうずめると、ヒステリックに笑った。
「イチルちゃんは、その辺の女の子とぜんぜん違う。俺、勘違いしていたみたいだ。本当に清純な女の子って、何の匂いもしないんだね……逆にイイよ、すごく、ドキドキする」
 ――一瞬の沈黙。ひかりを失ったヘーゼルの瞳から、ひとすじの涙が伝わった。アヒトの笑みが、ギンと邪悪な色を帯びる。
 ぱん。平手打ちの音と打たれたイチルのか細い悲鳴。
「舐めてんじゃねえよ、哀れだって言いてえのか?」
 ――その時突然部屋のドアが開いて、小柄な少年が駆け込んできた――。
 その眼に映る光景はスローモーションとなって、混乱した脳に浸透してゆく。
 トワは、自分の頬にふりかかった熱い飛沫がイチルの涙だと理解するまで、まばたきを繰り返した。だがそれは、ほんの数度のことだった。
「なにを、してるの、イチルにいったい、なにを」
「何って」キシシ、神経質な笑いが部屋にこだまする。「ああ、坊やはまだ子供だから解らないんだね。邪魔しないでもらえる?」
「イチルに何をしたんだっ!」
 トワの差し迫った声に呼応するように、穏やかだったアヒトの口調が一変した。
「たのむから俺を怒らせるなよ。優しくしてあげるつもりだったけど、イチルちゃんのこと殺しちゃうよ?」
「アヒトさん、どうしてだよ!」
「邪魔してくれたお礼に、面白いことを教えてあげよう。この街に出回っているD、そして新作のARIA、これらには共通点がある。それは……開発者が俺であること。正規品もゾロも、俺が絡んでる。――ほんと、お前らって甘いし馬鹿だよな。ただの学生なのに全く金に不自由していないという時点でおかしいとは思わなかったのかよ? それともこの俺が、どっかイイとこのお坊ちゃんにでも見えたか?」
「……っ」
 ばたばたばた。数人が部屋に押しかけてくる。先頭を切ってやってきた由良は冷ややかな目でアヒトを見た。
「アヒトクライン、あるいはミカサ。この私の目まで欺くとは、敬意を表しましょう」
「あーあ。せっかくのパーティー台無し。ていうかなにそれ、」
「しらを切っても無駄です。お忘れですか、意外に間が抜けていますね。アヒト・クライン、あなたのことは隅々までスキャン済みです」
 ――前日のトータルの睡眠時間、二時間五十四分。
「ああ、あのときね。もう別に、どうでもいいし……!」
 アヒトはにわかに立ち上がり、瞬時にフルーツバスケットに添えられた簡易ナイフを手にとって由良に襲いかかった。一撃、二撃、由良は間一髪のところで、しかし余裕の表情でかわす。三撃目も受け流しながら音も無く踏み切り、ミカサのふところに飛び込む。
 アヒトはあっという間にナイフを持った手をねじり上げられていた。
「いっ、痛、え……」
「左ですか。なるほど、さっきはこの手で彼女の頬を打ったのですね。許し難いことです。スラムでの違法薬物の出どころ、片手間に調べていたのですが……わざわざ推論するまでも無かった。あなたは自ら正気のありかを打ち壊してしまった。……いや、今の状態があなたにとって正気なのだとしても、そんなものはもはやどうでも良い事です。あなたにはまだ、利用価値があると判断しました」
 バチッ。鈍い音がして、アヒトは声もなく崩れ落ちる。由良は腰のケースから素早く抜き放ったスタンガンを手にしていた。ともに踏み込んできた部下たちに無機的な調子で告げる。「すみやかに護送車へ」
 両腕を取られ引きずられてゆくアヒトと入れ替わりに、慎也が姿を見せた。雨でずぶ濡れだ。少女へ歩み寄ろうとした由良を「おい」と低い声で呼び止める。
「話がある。お医者さんごっこのまえに外へ出ろ」

 トワはおそるおそるベッドに近づいた。イチルは意識を失って瞳を固く閉じている。
 ホスピタルで出会ったマナという少女に酷似していることに、何故か疑問を抱くことはなかった。
 長く艶やかな髪、上気した頬、熱い吐息。
 今の状況を忘れたわけではない。それなのに知らず、胸が高鳴る。理性が吹き飛びそうだ。
 ごく僅かに軋むベッド。ごくりと上下する、まだ未発達な喉仏。
 もっとイチルに近づきたい。イチルのことをもっと知りたい。イチルをこの手で……
 互いの鼻先がもう少しで触れそうになる。と、そこでイチルははっと目を見ひらいた。
「ト、ワ……?」
「……イチル、」
「う」
「え?」
「……きもち、わる、い……よ」
 イチルはのろのろと上体を起こし、ベッド脇へと顔を背けると、激しく嘔吐した。トワは慌てて少女の背中をさする。完全に我に返っていた。そしてまた、あの思いがじくじくと湧きあがるのを感じていた。
 ――ボクには何も、だれも守ることもできない――。

「何か言うことはないのか」
「すみません、私としたことが。少し泳がせすぎてしまいました。……ッ!」
 鈍い音。慎也は由良の頬を思い切り殴りつけていた。
「泳がせた、だと? ふざけるな! 下手をすれば殺されていたんだぞ!」
 のけぞった色白の顔が苦痛に歪む。だが次に慎也を見たときには、その瞳に憂いと憤怒を同時に宿していた。
「私だって、お嬢様を危険にさらすことなど、したくはなかった!」
「学生時代、よく話を聞いたな。架空の妹のこと」
「架空ではない!」
「どうだかな」一転して冷ややかな口調になる慎也である。「破壊の色の一時的受け皿となるべく培養された少女たちのうち一体を手懐け、連れ回していただろう。本来の識別名はマナ、だがお前はそれをイチルと呼んでいた。人格が分裂しかけ、いずれ消えゆくさだめだと知っていても、それをやめなかった」
「その通りです、ですが」由良はいつもの静かな調子に戻った。「お嬢様はそんな私のあやまちを許してくださった。そして、彼女はいっときの自由を欲したのです。私は、お嬢様の最後の望みを叶えて差し上げたかった」
「やはり兄妹ごっこか。虫唾が走るぞ」
「あなたはおそらく計り知ることができない。肉親もなく、ただカプセルの中で培養された私たちの孤独と所在なさを、存在意義を獲得するための困難を」
「それもそうだな。そもそもお前の心情を計り知ろうと思ったことなど無い」
「そういった姿勢が私にはかえって新鮮で、魅力的でしたね」
「やめろ、もういい」
 雨が止み、太陽が雲間からぱあっと顔を出した。アパートメントの壁にもたれ、慎也はふうっと息をつく。
「お前、これからどうする、」

つづく
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小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■第五章-1 母さん、俺は

五*たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても

170617たときみタイトル2*母さん、俺は

 母さんはいつも、おくすりを飲まなくちゃ、といってピンク色の錠剤を口に運んで水で流し込んでいた。母さん、病気なの? そう訊くと謎めいた微笑を浮かべる、母さんはとてもきれいだった。
 ――それがとても危険なドラッグだと俺が知った時には、もう手遅れだった。たくさんの錠剤を、がりがりに痩せた手でひとつかみにして口に入れると、バリバリと音と立てて噛み砕き、美味しそうに食べるようになっていた。
 ある日、医療施設の職員たちが数人でやってきて、母さんを無理やり大きくて白い車に乗せてどこかへ連れていった。
 その頃から周囲の不理解が始まった。俺はまだ十かそこらの子どもで、ひとりで生きてゆく力なんて持ち合わせていなかったし、大人たちはただ俺を憐れむだけでただの一度も手を差し伸べてはくれなかった。月に一度の医務課職員の訪問もかたちばかり、事務的な生存確認でしかなかった。だから俺はいつも、恐怖と不安に震えていた。父親が残した僅かな蓄えでパンを買いに行くほかは外出することもなく、薄暗い部屋でうずくまり、ひたすら母さんの帰りを待っていた。
 二年ほどして面会の許可が下り、母さんが大好きだったガーベラの大きな花束を持って会いに行った。まるで囚人服みたいな入院着を着せられた母さん。美しかった長い金髪は無残に刈られた白髪頭となり、俺のことを今はいない父の名で呼んだ。もう母さんは、俺の母さんではなくなっていた。
 そして周囲から向けられる蔑みの目は、変わることは無かった。父の蓄えを使い果たした俺は、裏路地で開催される違法ストリートファイトに参加して賞金を稼いだり、それが自分には向いていないと知ると盗みにまで手を出した。文字通り泥水をすするような暮らしだった。
 いつしか俺は思うようになっていた。
 自分を蔑んだ奴らを苦しめてやりたい。母と同じ地獄を味わわせてやりたい、と。

 ……!
 目覚めとともにアヒトを襲ったのは全身の違和感だった。胴回り、そして両手脚を白くごわごわした分厚いベルトできつくベッドに固定されていた。拘束具だ。ためしに両腕に渾身の力をこめてみたが、びくともしない。ライトグリーンの入院着のせいで医務課管轄の場所にいるのはかろうじて解ったが、真っ白な部屋には窓はおろかドアの取っ手やオープンパネルも無い。隔離病棟だろうか、だとしたらおそらくは精神疾患者専用の。
 このありさまに、知らず、別れを告げたはずの母親を思い起こしていた。
 自分自身に失笑する。母さん、やっぱり俺は、母さんの子どもだったよ。
 と、部屋のドアがスライドし、はかったようなタイミングで由良が姿を表わした。二人の男性スタッフを連れている。その制服は濃紺に白のストライプが一本だけ入った見慣れないものだ。指示を受け、若い方がベッドのリモートコントローラーを操作し、アヒトの上半身を起こした。
「お目覚めですか、ご気分は」
 アヒトは神経質な笑い声をたて、顎を引いて上目遣いに由良を睨みつけた。
「ずいぶんとタイミングがいいな。監視カメラでもついてるのか」
「無論です。そして拘束具には僅かな動きでも反応するセンサーも付属しております」
「三人寄ってたかって何しようってんだ、あ?」
「ご心配なく。この部屋への立ち入りは、単独ではできない規則となっているだけです」
「どこだよ、ここは」
「お答えできません。脱走の参考にされては困りますので」
「脱走だって?」アヒトはヒステリックな笑いを止めない。「そんな危惧をするんならどうして殺さない? 殺せよ。俺なんか生きる価値も無ければ生きていたい理由も無いんだ。まさかだが、俺のことを救いたいだなんて思っているんじゃないだろうな」
「いいえ、私はただの傍観者でしかない。選ぶのは、あくまであなた自身です」
「選ぶ? 何を、」
「そうですね、お好きな本でもお持ちしましょうか」
「とぼけたこと言ってんじゃねえよ!」
 ギシ。拘束具が僅かな音を立てる。アヒトは忌々しげに両腕を見ると、今度は低く笑った。「でも、本か、いいかもな、童心に返ってドロドロの感傷に浸るのも悪くねえな」
「感傷、ですか。絵本でもご所望で?」
「ああ、絵みたいな化学式がぎっしり詰め込まれたやつがいいな」
「童心と今おっしゃいましたが、」
「そうさ。社会から消された子どもだった俺を救ったのは、ゴミ捨て場に捨てられていた一冊の化学書だったんだよ」
「ほう、」
「笑えるだろ、ただの紙切れの集まり。本だったんだぜ。だから今でも俺は人間なんか信じちゃいねえ。今さら信じられるわけがねェんだよ」
「はて、おかしなことを言いますね。本を書くのは人間ですが?」
「アンタと議論する気はねえよ」
「同感です」
「あれはひどく劇的な体験だった。その頃の俺は字なんてろくに読めやしなかったが、何気なく本を手にとってテキトウなページを開いたら、そこに書かれていた化学式が、するすると脳内に流れ込んできたんだ」アヒトは愉悦の表情を浮かべ、続けた。「俺はようやく気がついた。俺自身の可能性に、才能に、神から授かったたぐいまれなる力に。あのとき思ったんだ。ああ、コウコツっていうのはこんな感じなんだなって。そうして初めて、俺は欲したんだ。他人の不幸を、苦悩を、後悔を――。そして心から願ったのさ、俺なりのやり方で、大勢の人間をどこまでもどこまでもおとしめてやりたいって」
 ……。由良は、よくわからないといったように首をかしげてみせた。
「違法ドラッグをばらまくことで、その欲求は解消されたのでしょうか」
「いいや」エメラルドグリーンの瞳がぎらりとした光を宿す。「まだまだ足りねえよ。もっともっと、人を傷つけて、恐怖を味わわせてやりてえ。俺自身が飽きるか、死ぬまでな」
「安心しました。さすが、私が見込んだだけはあります」
「なにそれ、どういう意味?」
「アヒト・クライン、あなたには引き続き破壊の色プロジェクトのチーフを務めていただきます。監視は強めますが、その他はこれまで通りこちらの指示に従って研究を進めてくださいますよう」
「なーんだ、結局そんなことなわけ。あんなくだらないお仕事、嫌だって言ったら?」
 試すように呟いたアヒトに対し由良は一瞬にこりと笑ったのち、もとの機械的な調子に戻って言った。
「希死念慮を伴っているようですので、殺すという脅し文句は使用しないことにしましょう。必要と判断した場合には徹底的に痛めつけて差し上げます。死なない程度に、私どもに従う気になるまでね」

つづく
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小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■第五章-2

170617たときみタイトル2*遠くへ行きたい

 大学院、研究棟。
「お前、正気か」
 慎也は呆れて、いきなり研究室を訪れた小柄な少年を見下ろした。今しがた聞いた言葉を反芻してみせる。「喧嘩の仕方を教えてくださいだと? 俺の立場を解っているのか、教員だぞ、仮にそんな馬鹿な真似をしたら本部から、」
「ボクの力で誰かを助けることができるなら、あんたにこんなこと頼まない」
 トワの目は暗く、その口調はだだをこねる子どものようだ。
「一体どうした。その無力感めいたものは何に由来している」
「ボクはもう、何も望んでない。もうこれいじょう、何もいらない。それなのに、ウイルス転送を拒むことも許されない。そのことでイチルを……マナをどんどん壊してゆく」
「……お前」慎也は小さく舌打ちをした。「俺と由良の話を聴いていたのか」
「彼女の心は壊れかかっている。ボクに転送するための――破壊の色に晒され続けたせい、そうなんだろ」
「だがお前のせいではない。この事態はお前の幼少期からすでに仕組まれていたことだ。お前は何も、」
「なにも? なにも、何だって言うんだよ……」
「トワ、落ち着け」
「ボクのせいじゃないか、」
「違う」
「ちがわないっ!」
「いいか」慎也は意外と几帳面に片づけられたデスクを立って足早に歩み寄ると、乱暴にトワの華奢な両肩を掴んだ。「その感情の乱れも破壊の色のせいだ。自覚できないのなら護身術などかえって諸刃の剣になる。そもそもお前は何がしたい。もう何も望んでいないだと、嘘をつくな、何か馬鹿なことでも考えているんだろう」
「……慎也」荒らげた声を一変、トワの言葉は震える。「怖いんだ。これは、悪い夢なの? ボクは、どうなってしまうの」
「泣き言ならあとで聞く。質問に答えろ。正直に話せば協力してやらなくもない。前に言っただろう、お前のためならばどうとでもできると」
「……」
 陽の光が燦々と降りそそぐ澄んだ空気の中、二人の視線が交わる。深緑の瞳はこれ以上ないほど真剣に、まっすぐトワを見つめていた。少年は、『馬鹿』だろうが『子どもっぽい』だろうが、たとえ嘲笑だろうが、受け入れようと腹をくくった。
「どこか、遠くへ行きたい。この街にサヨナラして、イチルといっしょに、どこかへ」
「……そうか」
「そうかって、それだけですか」
「いや、なかなか面白いことを言うと思ってな」
「ボクは真剣だ」
「解っている。前向きにプランを練ろう。――最初の難関は由良だな。あれは例によって油断も隙もない男だ。場合によっては敵対することになるが、覚悟はあるか」
「……」
 由良。柔和で受容的、初めて自分を理解してくれた存在。ついこの間までそんなふうに思っていたのに。いや、今だって、彼に対する好意は消し去ることはできない。
 黙り込んだトワを斜に見て、慎也はフンと小さく鼻を鳴らした。
「不愉快だな」言葉とは裏腹に薄く笑っている。「俺の嫉妬心を煽ったお礼にさっきの望みを叶えてやろう」
「……え」
「今のお前に必要なのは闘いのスキルではない。まずは逃げることを覚えろ、いくぞ……!」
「う、わッ」
 いきなり胸ぐらを掴まれる。反動で頭がのけぞった。
「……! なに、するんだよっ!」
「破壊の色に飲まれるな、冷静な判断力を培え」
「……ッ!」
 ぱん! トワの渾身の回し蹴りも、慎也は難なく片手で受け止める。
「前々から思っていたが、足癖がとことん悪いな。まあ、利点と捉えることもできなくはない……!」
 間髪入れずに逆の手でデスクの学術書を掴むと、あろうことかそれで殴りかかってくる。研究室はそれほど広くない。とっさに大きく飛びのくとスチールラックに背中から激突し、書類の山が頭から降ってきた。たまらず尻餅をついた少年の前に慎也が立ちはだかる。
「さ、最初に言ったことと矛盾してる! だいたいなんでこんなところで!」
「お前の考えが甘いだけだ。教えを請うつもりなら素直に俺に従え」
 めちゃくちゃになった書類には目もくれず、今度は蹴りを放つ慎也である。トワが素早く反転して避けると、にやりと心底面白そうに笑った。
「さすがだな、素質は充分だ。感謝するぞ、これから楽しみが増える」
「くそっ」
 冷静も何もあったものではない。トワは手近に転がった分厚い本を全力で投げつけていた。
「横暴、じゃない、この、変態ドS教師っ!」

つづく
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小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■第五章-3 アヒトとプリンセス

170617たときみタイトル2*アヒトとプリンセス

「お、は、よっ」
 ……! にこやかな笑顔にスタッフ陣は戸惑い凍りつく。これまでミカサが挨拶らしい挨拶をしたことなど皆無である。たちまち姿勢を正して丁寧なお辞儀をした。
「お、おはようございます、ミカサ様」
「それなんだけどさ」微笑みを絶やすことなくアヒトはなんでもなさそうな調子で続ける。「実は偽名なんだ。そんなんとかいろいろあって、由良さんにたっぷり絞られちゃったの。改めまして、俺はアヒト・クライン、これからもよろしくね」
 トレードマークだったピンクのストライプのマフラーは、もうしていない。そのせいで頬の傷が痛々しく露出している。明らかに何者かから打擲された痕跡だ。
「……あ、アヒト様、ですか」
「様づけ禁止ー。見たところキミの方が年上みたいだし、アヒト君でもアヒトちゃんでもなんなら呼び捨てでもかまわないよ、フランクにいこうねフランクに」
「いや、しかし、」
「キミは?」霧が晴れたような明るいグリーンの瞳は無邪気ささえ感じさせる。それがかえって不気味だ。
「は、」
「キミの名前っ、教えてよ」
「……か、カズサと、申します、」
「へえ、かっこいいじゃん、すごくいいね。あ、そうだ」アヒトはとても良い思いつきをしたというように左手のひとさし指をぴんと立てた。「俺も心を入れ替えたことだし、カズサ君たちスタッフみんなのこともよく知りたいな」
「は、はあ」
「データ、くれる? アドレスとか、メディカルチェックの履歴とか、できれば詳しいのがいいな」
「しかし、」
「だーいじょうぶ。これ見なよ」アヒトは自分の顔の前に軽く握った拳を突き出し、両手首を示してみせた。金属だろうか、光沢のないシルバーの無骨なリストウォッチ型のバングルががっちりと填められており、通信状態を表わすグリーンのランプが細かに点滅を繰り返していた。まるで鎖の無い手錠を連想させる。「もし地雷を踏んだら二十四時間フル勤務の監視官様が危険なボタンをぽちっとな。静脈への自動薬剤投与で死なない程度にすっごい苦しい思いをするんだって、笑っちゃうよね」
「……」
「だからさあ、ちょうだい? デーーーータっ」
 カズサが返答に窮していると、突然エントランスから、純白のチュチュのようなドレスを着た少女が姿をあらわした。長く艶やかなキャラメルブラウンの髪は丁寧にくしけずられている。
 アヒトは一片たりとも悪びれることなくにこやかに彼女を迎えた。
「やあ、イチルちゃんじゃないか。どうしたんだい、今日は一段と綺麗だね」
「イチルですって?」少女は嘲るようにその名を反芻した。「違うわ、私はマナ」
「マナ、だって? 姉妹? ……いや違うな、」
 少女のてっぺんからつま先まで眺め、一瞬真顔になるアヒトである。「どこをどう見ても同一人物だ。ひょっとして、二重人格とか」
 マナは少し目を細めて大人っぽく微笑む。
「あんがい見る目があるのね。でも、そんな大げさなものじゃないの。王子さまに心の欠片を分け与える役割を負った、無垢で馬鹿な方がイチル。そして、その王子さまと結ばれる運命にあるのが私」
「ふうん。二面性にしては随分極端じゃないか。でも、そうか」青年の口が笑いのかたちに歪む。とっておきの秘密を暴くように言った。「キミも、俺と同じだったって訳だね」
「そうね、あなたが豹変したのには正直驚かされたわ。でも許してあげる」
 ククク。アヒトは肩を震わせた。
「嫌われちゃったかと思っていたけど、マナちゃんは大人なんだ。どうもありがとう」
 マナはノースリーブから伸びるしなやかな手を、アヒトに向けて差し出した。
「そのかわり、私のお願い、聞いてくれるわね、クレイジーなチーフさん?」
 アヒトはまた笑って、指先で少女の手を絡めとり軽く口づけようとした。上目遣いの瞳が怪しく光る。
「なんなりと、お姫さま?」
 すっ。少女はアヒトのくちびるが触れる寸前でじらすように手を引っ込めた。
「トワの心は馬鹿なイチルに囚われたまま。私、彼のことを取りもどしたいの」
「いいのかなあ、キミ、自分がすっごく病的なこと言ってるって自覚ある? しかるべき治療を受けないと、いずれ壊れちゃうよ。俺みたいにね」
「そう、正気と狂気を行ったり来たりのあなたはもう手遅れ。だけど利用価値があるから生かされている。本当にかわいそう」
 青年は今度は大きな声で、心底楽しそうに笑った。
「言ってくれるねえ。じゃあ説明してよ、俺とキミがどんなふうに違うっていうのか」
「私の場合はもっと単純なのよ。イチルを消してしまえばいいだけだもの」
 ……。笑い声が止む。アヒトは医者を演じるかのように、ワーキングチェアの肘掛けに両腕を預け、ヘッドレストに頭をもたせかける。天井を振り仰いでふうっと息をついた。ボサボサの前髪が揺れる。
「どうだろうね。俺にはキミの心の悲鳴が聞こえるけど、空耳かなあ」
 マナは思わずびくりと青年の言葉に反応した。
「……どういう意味」
「トワ君に拒絶されて焦っているね。イチルとマナ、幸せだったのは、本当はどっちかな」
「由良がたわむれに作りあげた馬鹿と一緒にしないで」
「由良? へえ、あの人にそんな趣味があったんだ。面白いな、あとでからかってあげようっと」
 話題が少しそれたことで、少女はふたたび余裕を取りもどす。
「そうしてあげて。でも気をつけなさい、怒らせると怖いわよ」
「何度も痛い目みてまーす。次は死ぬ寸前までヤられる予定さ。――まあ、あんなやつのことは置いといて、いい提案があるよ。聞かない?」
「聞くわ。そのために来たんだもの」
「まあこれまでとそう変わらないんだけれどね」
 盗聴を警戒してか、こころもち声のトーンを下げるアヒト。
「トワ君を破壊の色で染め上げて、キミだけのものにしてしまうんだ。試作中の新プログラムがあってね……といっても指示された範疇からは絶対に逸脱しないよ、だから俺もセーフ」
「やだ、かわいそう」マナは言葉とは裏腹にクスクスと笑い声を立てる。「平気でそんなことを考えるなんて。あなたきっと、誰かに心から愛されたことがないのね」
「おおっと、ほんと見かけによらず毒、舌。でもその通りさ。だから、愛してもらおうと思うんだ、キミに」
「いいわ。越えてしまいましょうか、ただの協力関係なんてつまらないわ」
「可愛いこと言うね。なんだか俺、イチルちゃんよか好みかも?」
 アヒトの伸びやかな手が、マナの横顔に触れる……。
「こないだのパーティーの続き、しよっか」
 ――とたん、両手に填められたバングルがピィィィィィィィーと警告音を立て始めた。行為を止めなければ十秒後に投薬機能が作動するという合図だ。アヒトは一転して表情を険しくし、大きく舌打ちした。マナから手を引き、にわかに立ち上がるとダン! と激しくデスクに両手首を叩きつける。無論、その程度で破壊できるようなしろものではない。それでも狂ったように、何度も何度も打ちつける。
「畜生ッ! 今に見ていやがれ、犬どもが――!」
「まあ、たいへん」マナはヒステリックな笑い声を立てた。憐れみを多分にたたえた瞳で研究室を見渡す。
「――まるで自傷行為だわ、誰か止めてあげなさいよ……」

つづく
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小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■第五章-4 ゆらゆら由良

170617たときみタイトル2*ゆらゆら由良

 インターホンを通さずに医務室の扉が開けられたので、由良は少しばかり驚いて、入室してきた女性を見た。クラッシュテーパードジーンズにコットンのシャツというラフなコーディネート。シフォンベージュの髪は肩に届くか届かないかのところでカットしてある。深いブルーの瞳が物静かな印象だ。
「杏樹」由良は部屋の時計を見た。「すみません、私としたことが予約の時間をすっかり、」
「そうじゃないの。私はただ、この間借りた本を返しに来ただけ」ナチュラルな配色のトートバッグから大事そうに今時珍しい紙の本を取り出す。「――文学は世界の醜悪さに対する闘いである――とても興味深かったわ」
「……」
「由良?」
「え、」
「珍しいわね、そんな深刻な顔して。物思いにでも耽っているよう」
「……そのようです」暗く呟いた青年は、次にはハッとして、いつもの冷静な顔を取りもどそうとした。「お時間は? 珈琲でもいかがですか」
「私が淹れるわ。時間ならたっぷり。あなたのすすめで医務課を退いたんですもの」
 杏樹は布張りのソファーにバッグを置くと、慣れた様子で奧のクッキングスペースへ向かった。シャツの袖を軽くまくり、ポットに水を注ぐと手早く電熱器のスイッチをオンにする。
「髪を切ったのですね、とてもお似合いです。そういう服も新鮮だ」
「わかってないわね。女にとって新鮮だ、は褒め言葉じゃないのよ」
「これは失礼。なんだか、学生時代を思い起こすようだったので。執筆ははかどっていますか」
 手回しのミルに瓶から珈琲豆をふたさじ入れると、杏樹は取っ手の感触を愛おしむようにゴロゴロと挽き始めた。
「そうね、今はデッサンの時期ってところ」
 クス。由良はちいさく笑った。デスクを立ち、ソファーのほうへ移動する。
「その言葉、私が言ったのではありませんでしたか」
「そうだったかしら。でも気に入っているから使わせてもらうわ。言葉を盗むのも作家の仕事なの。文句があるなら商標登録でもすることね」
 以前に由良がトワへ提供したディスポーザブルのプラカップではなく、食器棚からペアのマグカップを流れるような手つきで選び出す。一杯ずつ丁寧なドリップを終えると、ソファーまでそれを運び、片方を由良に手渡すとごく自然な様子で青年の隣に座った。
 由良は珈琲をゆっくりと口に運び、やわらかな微笑みをする。
「――美味しい」
 杏樹は困ったような顔を浮かべた。
「当然じゃない。ミネラルウォーターよりも水道水のほうがベターだって事も、沸騰直前で火を止めることも、あなたが教えてくれたんだもの」
「……当然、ですか」
「ねえ、どうしたの。やっぱりあなた、今日は少し変」
 ……。由良は珈琲をまたひとくち飲んで正面のガラステーブルに置くと、静かに言った。
「私の妹のことを、覚えていますか」
「ええ」杏樹は懐かしそうにブルーの目を細める。「忘れもしないわ。学院一クールな由良主席に突如わいたシスターコンプレックス疑惑。あなたは兄というより母親だったわね」
「実際は、そこまで微笑ましいものではありません。機関で培養された人形に名前を付け、感情とは名ばかりの精神機構を植えつけて、あたかも確固たる人格を有しているかのように仕立てあげた。その仕打ちのなれの果てがイチルです。遺伝子上実の父親である燐様に受け入れてもらえず、今度はマナとして生きることを選択した」
「そうね、彼女は病気とは違う。単純な心理的操作をされただけ」
「イチルは私の手によって作られ、私の手によって消えゆくさだめ。ですが私は、いまやそうなることを阻止できないかと……そんなことばかり考えている。本当に、身勝手極まりない」
「身勝手だなんて、」
「慎也の言うとおりなのです。私は、」
 コト。杏樹もまた、カップをテーブルに置いた。
「またそうやって、彼のことを持ち出すの。私を突き放すの?」
「杏樹、聞いてください。私からの介入があったにせよ、あなたは精神的な強さを獲得している。そしてどんなときも私を待っていてくれて、好きだと言ってくれて……私の、プラトニックとは真逆の要求も決して拒まない。そんなあなたを、私は……ふたたび壊してしまうかもしれない。……ですが慎也は……まだあなたのことを想っています。おそらくは過去の罪にも、正面から向き合っている、ですから」
「ねえおねがい、やめて」真摯な瞳が由良を射る。「癒されることを、人を愛することを、そのことで自分を受け入れることを教えてくれたあなたに、いまさらそんなこと、言われたく……」
「――すみません、」
 由良は両腕で杏樹の身体を抱いた。ゆっくりと接近したふたつのくちびるが溶けあう。
 杏樹は由良を、決して拒むことはない。
 どんなに由良が身勝手だとしても、矛盾に満ちた言動をしても、その存在が、その佇まいとは裏腹に常、揺らいでいるとしても。

つづく
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小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■第五章-5 兆候

170617たときみタイトル2*兆候

 中等科夜間部。
 長い髪をなびかせ入室してきた、ノースリーブのドレスのようなワンピースをまとった少女に、教室中から注目が集まる。首回りがやや大きく開いたフリルの襟ぐり。胸元には共布で作られた純白の大きなリボンがあしらわれている。短いスカートは腰のラインがぴったりとフィットするデザインで、裾はバレエのチュチュのように広がっている。
 ……。場に不釣り合いだという自覚があるのか、だからこそなのか、少女にはまったく臆する様子はない。ゆっくりと辺りを見渡すと、ナコをみとめて静かな足どりで歩み寄ってゆく。
「こんばんは、ナコ」
「な」ナコはあんぐりと口を開けている。「お前、転校生……か? 体はもう大丈夫なのか」
「やさしいのね。どうもありがとう。もう平気よ、トワもお見舞いに来てくれたの」
「そ、そうか」
 少年はすこし複雑な表情をした。マナはそれを見逃さず、そっと秘密を打ち明けるように言った。
「ね、いいかげん転校生っていうのはやめて、マナって呼んでくれる?」
「なんでだよ、イチルだろ」
「あんなへんてこな服、もうたくさん。ドレス、新調したの、どうかしら」
「おい、話を聞け。マナって、」
「イチルなんて」
 マナは憐れみをこめた瞳をしてみせた。しかし口元は涼しげに微笑んでいる。
「イチルなんて本当はいないの。いつも自分の生まれてきた訳に悩んでいて、父親からは拒絶されて、かわいそうに死んでしまったわ。でもこれで良かったのよ。ねえ、あなたに解るかしら、存在価値を認められず、絶望の底に沈んでしまったあの子の気持ち」
「アホなこと言ってんじゃねえよ」
 ナコはとたんに我に返ると不機嫌そうに鼻を鳴らし、琥珀の瞳で少女を見下ろした。
「認められようが蔑まれようが、生まれてきた訳なんて考えるだけ時間の無駄だ。だって俺は今、ここで生きているんだ、だったら生きるだけだ」
 ふふっ。マナはいたずらっぽく微笑んでナコを見つめ返す。
「あなたは強いのね。そして、一途でまっすぐな心を持っている。うらやましいわ。ぜんぶ、私のものにしてしまいたいくらいに」
 な。と小さく発せられたいつもの口癖。マナはふわりとナコの胸に身体を預けていた。長い髪が揺れ、かすかにローズゼラニウムが香る。
「お前……本当に同一人物なのか、いったい、」
「だきしめてくれないの?」
 からからにかすれた言葉は少女の甘えるような声にかき消される。
「だって、お前は、トワのこと、」
「見かけによらずいくじなしなのね。でもそういうの、嫌いじゃないわ」
 すっ。マナはナコにすがったままつま先立った。ふたりのくちびるが触れかける。
「……ま、てよ」
 ナコの身体がこわばる。
 と、赤チェックのポケットに両手を突っ込み、いつもの脱力したような猫背の姿勢でトワが教室に入ってきた。マナとナコを見て一瞬目を丸くしたが、すぐにそこへ暗い光を宿した。
「……マナ、だよね」
「そうよ」
 少女はようやくナコから身体を離すと、トワの反応を楽しむようにクスクス笑った。
「トワ、療養棟であって以来ね、元気だったかしら?」
「どうしてきみがここにいるの、イチルはどこ」
「絶望の湖に沈んで眠っているわ」
「はぐらかすなよ、まだ病院なのか」
「やだ」いたずらっぽい瞳がきらり、とまたたく。「あなたはまだ、何も知らないのね」
「ボクは信じない。きみとイチルが同じだなんて、信じない」
「同じですって? やめなさいよ、あんな馬鹿と一緒にしないで」
「どうしてそんな。あのとき双子みたいな存在だって言ったじゃないか」
「言ったわ。私と違って出来損ないの失敗作だってね」
「……!」
 トワは思わずマナの細い両肩を掴んだ。感情が、抑えられない。
「イチルになにをしたんだ」
「痛いわ……! 離して!」
「返せ、イチルを返せよっ」
 そのときナコが動いた。素早く駆け寄り、トワを力尽くで引き離そうとする。
「おいトワ! よせ!」
「うるさい、さわるな……っ」
 力いっぱいナコを振り払った手が、大きく逸れる――。
 ぱん!
 小さい悲鳴が、しかし教室じゅうに響き渡った。トワは唖然としてマナを見た。その頬を打った手の甲のしびれるような感触が、遅れてやってくる。
「――てめえ!」ナコが渾身の力をこめて乱暴にトワを壁際へと突き飛ばす――。華奢な体は勢いよく吹っ飛び、後方のスチールドアに激突した。トワは後頭部を打ち、あっけなくその場に崩れ落ちる。
 フロント側のドアから入室してきた慎也が鋭い声を発した。
「やめろ! お前たち、何をしている!」
 ウェーブがかった黒髪を揺らして、青い光を放つ端末をぬって足早に歩いてくる。頬を押さえてうつむくマナを見てさすがに目を丸くしたが、打ったのがナコではなくトワの方だと敏感に察してますます表情を険しくする。尻餅をついたままうつむく少年に冷たく言い放った。
「立て」
「……う……」
「立てと言っている……!」
 慎也は痛みに顔をゆがめるトワの胸ぐらを掴むと容赦なく引っぱり起こした。
「お前に指南しているのはこんな事をさせるためではない。力の使い方を誤らせるくらいならば今度からお断りだ」
「は、なせ」
「何?」
「手をはなせっ!」
「っ、貴様……!」
 とっさに振り上げられた拳。慎也はそれをいっとき震わせると、どうにか殴るのを思いとどまる。そして、まばたきもせずに自分を睨みつけているトワの目つきに気づいて顔色を変えた。
 大のおとなに殴られるのを何とも思っていない。小さな全身から凄まじい殺気を放っている。それだけではない。
 ――パッ、パッと断続的に、薄い碧眼の奧でパルスが明滅していた――。

つづく
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小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■第五章-6 いやだよ

170617たときみタイトル2*いやだよ

「……来い」
 一転して冷ややかな口調になると、慎也はトワの細い二の腕を捕まえ荒々しく誘導する。
「どこにだよ、はなせって言ってるだろ!」
「医務室だ。お姫さま抱っこが嫌だったら暴れるな」
「ふざけるな、変態野郎!」
「重傷だな、頼むから落ち着いてくれないか」慎也は苦りきった顔をしたが、口調は子どもを諭すようなものになる。「こうなったら由良に直接話を聞こうじゃないか、いいな」
「由、良……?」
 あなたも、本来は私と同じだったのではありませんか。
 トワ、あなたはただひとりの、トワですよ。
 きっと、素敵なプレゼントになりますよ。
 ――穏やかな微笑みがフラッシュバックした。初めて自分をひとりの人間として認めてくれた由良、受け入れてくれた存在。あれが全部、嘘だったというのか。慎也の言うとおり、もはや敵対する他ないのか。だとしたらあまりにも、あまりにも――
「う、あ……」頭の奥が激しく痛み出した。吐き気がする。「あああ、ああああああああ、」
「トワ?」慎也の手が緩む。
「ああああああああああああっ!」
 ドン! 少年は渾身の力をこめて慎也の腹に蹴りをぶち込んでいた。さすがの慎也も衝撃で前のめりに倒れかけ、痛みに顔をしかめた。少年はタン、とショートブーツを床に着地させると即座に身をひるがえし、ドアのオープンパネルを足蹴にして走り出てゆく。
「ま、て……!」
 慎也の声がむなしく響いた。
 ……。
「……ふ、たりとも、大丈夫か」
 頬を押さえたまま黙りこくるマナと、たまらず咳き込む慎也。ナコも面食らっている。「ほんとにあいつ、どうしちまったんだ」
「……まったく、その通りだな」慎也は荒く息をつき、どうにか体勢を立て直す。「ナコ、頼みがある。今夜の授業はお前が仕切ってくれ、何のことはない、普段通りの時間に解散させればいいだけだ。あいつをこのまま放っておくわけにはいかない、解るな」

 ナコはまず、マナを医務室へと伴った。トワにはスラムのストリートファイトに参加していた経歴があり、そこでナコとは顔見知りになったのだ。手が当たっただけとはいえ、少女にはかなりのショックだったにちがいない。あの謎めいた微笑みはすっかり失われてしまった。それとも……、ナコの頭の中は込み入っていた。ひょっとして相手がトワだったから、なのだろうかと。
 インターホンで中等科夜間部との所属を告げると、すぐに入室許可が下りた。
「マナお嬢様?」
 以前イチルが倒れた折、この由良という人物がスタッフたちに的確な指示を出していたのをナコは覚えている。彼女の二面性についても理解しているに違いない、そう解釈した。
「どうしたのですか」
「ぶたれたんだ、トワに。まあ……俺も悪かったが」
「トワに?」由良は顔面蒼白となる。マナを部屋の中央へと導いた。「一体、何があったのです。さあ、ソファにかけて。傷を見せてください」
 幸い頬はほんのり赤くなっている程度で、傷というほどのものではなかった。由良は殺菌済みのタオルを氷水で冷やして絞ると、マナに手渡した。少女がそれを素直に頬へあてがうのを見届けてから、ナコはぽつりと言った。
「何があったかって、俺が聞きたいくらいだ」
「あなたは、」
「ナコだ。認識番号は必要か」
「いいえ、結構です。トワとはお友達ですか、喧嘩でもしていたのですか」
「イチ……マナをなじるような真似するから、止めようとしたんだよ。そしたら突然、制御不能っていうか」ナコはなんとなく気まずそうに、斜め下を見る。「それから、と、友達ってわけじゃねえけど、付き合いはそれなりに長い。あいつ、どうしちまったんだろう。すこし前まで、あんなやつじゃなかった」
「あんな、とは?」
「そうだな、感情的、といえば早いかもな」
「ふむ」
 ……。ナコは、何故か訳知り顔の由良に質問を浴びせたいところだったが、ソファーに座ったマナが、どうして、と小さなつぶやきを漏らしたので黙る。由良がナコのそばから退くと、そっとマナの隣にかけた。この二人も、一体どういった関係なのだろう。
「ねえ由良、どうして」あんなに余裕たっぷりだったマナの口調は無感情とも言っていいほどに、暗く沈んでいる。「どうして私じゃいけないの。お父さまの言うとおり、私は完璧。そうでしょう、由良」
「その通りです、お嬢様」
「お父さまの言うとおりにしていれば、私はトワと結ばれる、それが物語の筋書き。そうでしょう、由良」
「ええ、お嬢さま、その通りですとも」
「由良、」マナの表情は急に移ろい始める。瞳にはそれまでの輝きと違う、生き生きとしたヘーゼルの光を宿し、そこに大粒の涙をたたえた。「由良……由良ぁっ、」
 勢いよく抱きつかれても、由良はまったく顔色を変えなかった。
「……イチルお嬢様、戻ってこられたのですね……」
「由良、たすけて」イチルはしゃくり上げて泣きはじめる。「トワがどんどん変わっていく。いやだよ、ぼく、いやだよっ」
「すみません、お嬢様、本当にすみません」
「初めてだったよ。あんなふうに、かなしい顔をむけられたの」イチルはタオルを握りしめて大粒の涙をぽろぽろと流した。「どうしてあのとき、力いっぱい抱きしめて、大丈夫だよって言ってあげられなかったんだろうって。それはとても簡単で、でもとてもとても大事なことだったのに、それなのに……! ぼく、トワのこと怖いって思っちゃったのっ」
「いいのです、それでいいのですよ」
 ……。ナコはあっけにとられてマナの変貌ぶりを眺めていた。
 現実を受け止めきれずに苦しんでいるのは、マナなのか、イチルなのか、それとも由良なのか。わからない。わからない、ゆえに彼はその場にいる誰よりも冷静でいられた。
 例えばお前らが矛盾の海にきえてしまっても、俺は、俺で居続けたい。

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小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■第五章-7 邂逅

170617たときみタイトル2*邂逅

 学校の広い敷地を出、新市街中央広場まで走ると、トワはようやく歩を緩めた。目の奥の痛みは続いている。気持ちが悪い。よろよろと青の街路灯へ背中を預けて息をつく。
 右の手の甲に残ったマナの頬の感触は生々しく、とっくに癒えたはずの痺れを想起させた。しかし自己嫌悪は、イチルあるいはマナに対する疑念と落胆に押し流され、湧いては消え、消えては湧いて、トワをやはり、不安で覆い尽くすのだった。
 車が、トワの立つ歩道側へ車線を変え、近づいてくる。ダークブルーのセダンタイプだ。このごろの一般車は電気か蒸気によって駆動するためエンジン音をほとんど立てない。そして自動運転システムの公共機関が発達した今、プライベートカーを所有する者は珍しい。
 そんなことをぼんやりと考え、珍しい車を子供心に眺めていた分、反応が送れた。
「……!」
 どこに所属するかは知らない。紺色の制服を着た男が助手席から素早く下りてきて、たちまちトワの喉を締め上げると、両腕を捕らえた。手首にひやりとした感覚が走るとともにカシャ、と機械的でいてどこか電子的な音がする。後ろ手に手錠を填められたのだと気づいたときには、自動で開いた後部座席へと押し込まれていた。
「……なん、だよっ!」
 トワは面くらい暴れようとしたが、もはや体の自由は奪われている。
 運転席の後ろ、トワの隣に乗車していた人物が車窓から差し込む青い灯に照らされて薄く笑ったのがわかった。角度によってシャンパンゴールドに輝く髪、ひかりをほとんど照り返さないラベンダーアメジストの瞳。
「出せ」
 男は、もがくトワには目もくれず運転手に合図する。セダンは滑るようなステアリングで方向転換したのち、一般車道に入って音も無く走り出した。
「なんのつもりだ、止めろっ!」
 車内は静寂と言ってもよい。トワの声はむなしく響く。
 唐突に、男が言葉を発した。
「誤算だった」
 その口調にはほとんど抑揚が無い。あらゆるものを退けるような生気の欠如は、トワへ否応なしに恐怖心を与える。少年は息をのんで次の言葉を待つしかなかった。
「お前が、愛しいマナではなく、出来損ないのイチルに心を奪われてしまうとは」
「あんたは、だれだ」
「私は燐。彼女たちの創造主、とでも言っておこう」
「そ、れは、父親、ということ?」
「そうだな、そう呼ばせている。そして君も、私が生んだ子どものひとりだ」
「……え」
「幼少期の記憶が曖昧だろう。あれは、お前にインプットされた架空の情報でしかない」
「……」
 父親からの虐待、いつも泣いていた母。メディカルスキャンによって抉られていた苦しみの過去すべてが? そんなはずはない。そんなはずが、あるわけがない! 心の中では爆発的に叫んでいるのに、トワは惚けたような声で呟くしかできなかった。
「なんのために、そんな、ことを、」
「君には、私の代理人になってもらうつもりだ。この都市を統べる、完璧な存在として。イチルが君の精神を完全なるものにし、マナはその後君の伴侶となり、永久に君のそばに居続ける。そのはずだった」
「なぜ、ボクなの」
「私を見て解らないか。感情、および生への意欲の欠如。お前は、まるで私だ」
 ……。沈黙が流れた。
 ちがう。声を大にして言えないのがもどかしい。
「……たしかに以前は、そうだった」トワはどうにかことばを紡いだ。「だけどボクは、もうあの頃ののボクじゃない。それに、イチルとマナ、彼女たちは、完全には分断されているわけじゃない。イチルだってきっと、消えたわけじゃない」
「勘違いするな、イチルに失望しているわけではない。君が望むなら、彼女を真のプリンセスとしてマナと取りかえてやってもいい」
「どうしてそう、勝手なことばかり言うのさ。本当のプリンセス? あんたたちのせいで、マナだって苦しんでいる、わからないの」
 ――。ラベンダーアメジストの瞳がトワを射る。
「では何故、彼女の頬を打った」
「それは、」
「君が誰かを守ろうだなんて、甚だしい思い上がりでしかない」トワの戸惑いを味わうかのように、燐は瞳を閉じる。「無意識だったとしても、思い出したのだろう。破壊の衝動を。植えつけた記憶の断片、それが今になって発芽した。何もかも、私の思い通りだったのだよ。――私のことを無礼だと思うかね? だがこれまで君に対して人々が向けたまなざし、嫌悪と恐怖の念……それらをかんがみた時、君はむしろ私に感謝するべきではないかな? 私は君に大いなる価値を、可能性を見出してやっているのだから」
 都市の中枢へと、車は音も無く進んでゆく。
 黙り込んだトワから視線を外し、誰にともなく燐はつぶやいた。
「……私には、もう時間が無いのだ」

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小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■第五章-8 邂逅2

170617たときみタイトル2*邂逅2

「くそっ、あいつ一体どこへ」慎也はひとり毒づいた。すぐに追いかけたというのにトワの足どりが掴めない。斡旋住宅へも行ってみたが、そこに人の気配は無かった。
 夜間部の解散時間はとうにすぎている。もどかしい思いを抱えたまま、諦めて学校へ戻った。まっすぐに医務室へ向かう。インターホンには目もくれず、オープンパネルにタッチする。
「おい」
 入室するなり敵意の塊のような声を浴びせられた由良は、困惑とともに少しの不快をあらわにした。
「いきなり何です、本当に、トワが言うように横暴なのですね」
「そのトワが消えた。心当たりはすべて探した。ここには来ていないか」
「……消えた? あなたの早とちりでは、」
「気に入らんな。それは本心からの言葉か。それとも何か知っていて隠しているんじゃないだろうな」
「心外です。そこまで言うのなら私の権限で本部に所在確認を依頼しましょう」
「権限なり地位なり好きなように使えばいい。どうせお前たちの一味が絡んでいると俺は踏んでいる、つまりその所在確認とやらはお前の義務だ、さっさと始めろ」
「少々不愉快です。嫌だと言ったら」
「無理矢理言うことを聞かせるまでだ……!」
 慎也はにわかに右腕を振り上げ、由良に殴りかかる。
 ぱぁん。破裂音と言ってもよいほど激しい音が鳴る。由良は両手を交差し、真正面から慎也の拳を受け止めていた。
「舐めてもらっては困ります。同じ手を、二度は食いませんよ」
「……」チッ。慎也は忌々しげに舌打ちをする。
「まあいいでしょう」すこしは気が晴れたのか、由良は素直に内蔵端末の移植された右手の指先をこめかみの辺りに当て、通信モードに入った。「00007930-8858、由良です。至急本部へ接続を……」
 慎也は複雑な面持ちで旧友を見守った。自分は学院の一教員にすぎない。比べてどうにかなるものではないが、同じ学生時代を過ごした由良はいまやゼロナンバーズ、特権階級だ。おまけにかつての恋人である杏樹も、由良に傾倒している。こちらの方こそ正直不愉快だ。
「……中枢部? 何故です、一体……、」由良はやや早口で通信を続けながら、次第に顔を曇らせてゆく。「そうか、……燐様、ですね。いいえ、あとは結構。シャットダウンします」
 ……。しばしの沈黙。慎也が口火を切った。
「燐、とはお前の父親のことだったな。一体何が起こっている」
「トワは、都市の中枢へ護送されました」
「拉致したというのか?」ふたたび殺気をみなぎらせる慎也である。「どこまで勝手な真似を。目的は何だ、答えろ」
「おそらく燐様は、トワを自らの後継者に迎えるつもりです。もともと感情再生プログラムもその計画に伴って組み立てられたもの。彼を完璧な器とするために」
「完璧だと?」慎也は思わず由良の胸ぐらを掴んだ。由良にしてみれば簡単にかわせたところをあえてそうしなかったのは明白だ。だがどちらでもいい。慎也はかまわず続けた。「最近のあいつの変貌ぶりを見たか。すこし前まで、あれはあんな生徒ではなかった。お前たちの指摘する感情面の欠如は確かに見られたが、そのぶん純粋で、自らの存在意義を必死で求め、揺らぐ、ごくありふれた普通の少年だった。それをお前たちは、平気で破壊しようとしている……もうやめてくれ。これ以上、トワを苦しめないでやってくれ」
「……申し訳ありません」思いもかけない慎也の言葉。由良はすまなそうにシルバーグレイの瞳を伏せるしかできなかった。「残念ですが、私にはその様な決定権など存在しないのです」
「何故だ!」
「なぜなら、トワ自身が選んだからです。お嬢様を、壊すことを」
「何を、言っている」
「一度選んだ運命は変えられない」由良は緩んだ慎也の手をすっと引き離した。
「だからこそ、運命と呼ぶのです。……私も燐様のもとへ向かいます。失礼」

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小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■第五章-9 裏切りのプリンセス

170617たときみタイトル2*裏切りのプリンセス

 燐はその部屋のことを司令室と呼んだ。
 ――燐!
 燐専用の執務机。大スクリーンモニターの中の少女は野に咲く花に囲まれて、にっこりと微笑んでいる。
 ――これも燐が作ったの? 素晴らしいわ! とってもとってもすてき!
「ああマナ、みんなお前のために作ったんだ。お前のためなら、私は何だってできる」
 ――燐、愛しているわ。ずっとずっと、あなたのこと、好きでいるわ。
「嬉しいよ、マナ。私も生涯をかけてお前を愛し抜く。これは約束だ、いいね」
 ――ええ、約束。誰にも邪魔できない、私たちだけの約束。
 ……。トワは怪訝な顔で、モニターの中の少女と言葉を交わす燐を見ていた。再生中、画面には何度も白いノイズが走った。映像は明らかに劣化している。
「……それは、」
「マナのオリジナルだ」燐の口調はたちまちもとの無感情なものへと戻った。「そして、約束は果たされなかった。彼女は若くして病で死んだ」
 ――ねえ燐、そこにだれかいるの?
「え、」少女はまっすぐにこちらを見ている。AI機能でも搭載されているのか。
「紹介がまだだったね」燐は左に一歩ずれて、トワをモニターの前に立たせる。「これはトワ。私の後継者だ。美しいだろう、まるで氷のようだ」
 ――どうして手錠なんかしているの。かわいそうだわ。解いてあげましょう。
 カシャ。言ったそばから、トワを後ろ手に拘束していた手枷が外れた。妙だ。ただの映像でもAIでもない、一体このオリジナルというのは何なのだ。
「……これは、どういうこと」鈍い痛みの残る手首に触れ、なんともないのを確かめながら、トワは思わず呟いた。
「彼女の痕跡は、この都市のあらゆるシステムに残されている。もはや何者にも支配不能だ。だが、」
 ――良かった、トワ、ごめんなさいね、痛かっ、
 ザアッ。画面はふたたびノイズの嵐に見舞われる。数秒後にはまた、花畑の映像に戻っていた。
 ――燐! これも燐が作ったの? 素晴らしいわ! とってもとってもすてき!
「……痕跡は残せたものの、母体となるデータは激しく損傷している、おそらくもう、」
 ――ねえ燐、どうしてそんなに悲しい顔をしているの、何があったのか話して。
「大丈夫だよ、マナ。私がお前を守り抜くから、何も心配はいらない」
 部屋の扉が開いて、純白のドレスの少女が裸足で入ってきた。
「ただいま、お父さま、ごきげんいかが?」
「ほら愛しいお前、新しいマナだよ」
「……お父さま、」嬉々としてモニターの中の『マナ』に話しかける燐を見て、少女は顔を曇らせた。しかしそれはほんのいっとき。いつもの謎めいた瞳を取りもどす。「またお母さまとのおしゃべりに興じていらっしゃるのね……あら、」
 突っ立ったままのトワに視線が移る。「トワ、来ていたの。でもその様子なら、連れてこられた、のほうが正解かしら」
「……きみと話すことなんかない」
「あるわ」白い手が、そっと自分の頬を撫でる。「とってもとっても痛かったんだから、謝りなさいよ」
「……」
「謝りなさいったら」
「……いやだ」
「なんですって?」
 大人っぽく微笑んでいた顔が凍りつく。
「お姫さまであるきみが、ボクに心をとりもどしてくれる、そう言ったよね」
「だったら、どうして、」
「きみこそどうしてそんな顔するんだよ。きみたちのもくろみ通り、感情は順調に芽生えているよ。ボクを助けたのも、生きることを教えてくれたのも、すべてこうなることを望んでのことなんだろう? それなのに」
「思い上がらないで」
 白い手が、トワを平手打ちしようとした。そのとき、
「マナ」燐が少女の背後にまわり、やさしくその肩に手を置いていた。「そんな下品な真似はよさないか。私を失望させてはいけない」
「……お父さま、」
「それよりも、プリンセスとしての役割を果たしてみせてくれ。さあ」
「……ええ」
 マナはパ・ド・ドゥでも始めようかというように、優雅な仕草でトワの両肩に腕を絡めた。その瞳にはすでに高速のパルスの明滅が見られる。ふたりの背丈はほぼ同じ、マナの方がほんの少し高いくらいだ。強引なウイルス転送が始まる。
 ――! トワは息をのんで体をこわばらせだ。『イチル』だったときと明らかに何かが違う。たとえるなら悲しい、さびしい、怖い、暗い、寒い、あらゆる負の感情が洪水となって流れ込んでくる、そんなゾッとするような感覚だ。しまいに強烈な痛みが現実のものとなって襲ってきた。
 母さん、泣かないでよ母さん、ボクはがまんするから、父さんのことだって。
 忘れかけていた、拒絶反応。トワはまるで血を吐くように息をつき、その場に倒れ込む。
「う、あ、ああああああああああ――ッ」
 激しくのたうち回る少年の身体を、マナは懸命に手を伸ばして抱きしめた。
「トワ、ごめんなさい、ほんとうに、ごめんなさい。イチルが返していたのは喜び、慈しみ、そして愛する心、だからあなたは苦しまないで済んだの。ただそれだけ、それだけなの」
「はなせ、その手をはなせ! はなせはなせはなせえっ!」
「抵抗すれば、苦しみが続くだけ。わたしたちは同じ破壊の色に染まっているの。あなたは私の愛を受け入れればいい、ただそれだけなのよ」
「はなせ! なにが愛だ、うそつき! ただ愛されたいだけのおまえの手なんかいらない!」
「……そんな……」
 震える声とともにマナの手が緩む。トワは荒い息をつきながら、胸を押さえてよろよろと立ちあがった。
 ……。呼吸を整えると、少年は静かな声で沈黙をやぶった。
「……ごめん、でもこれで、わかったろ……」
「何が? どうして? なぜ?」
「ボクが好きなのはきみじゃない。さっきのは、本心だ」
「イチルなんていないって言ったでしょう?」
 しかし澄んだ碧眼が少女をまっすぐに見つめる。
「目を覚まして、イチル」
「やめて。あんな出来損ないのことなんて思い出したくもないわ」
「イチル!」
「やめなさいっていうのがわからないの?」
「だって、消えないんだ、消せないんだ。イチル、きみの言ったとおりさ。きみの笑顔も、泣き顔も、温度も……きみに分けてもらった破壊の色ぜんぶ、いまもボクの中に残っているんだ!」
「やめてっ!」
 マナは今度こそ本当にトワの頬を打った。
「……わたしだって……」
 涙声。今にも消えてしまいそうな声。そのまま少女はその場に泣き崩れた。
「わたしだって、イチルでいたときのほうが……。イチルだったときのほうが幸せだった……!」
 ――何だと――?
 燐はラベンダーアメジストの瞳を見ひらき、次の瞬間には激高していた。

「――この、裏切り者――ッ!」

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小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■第五章-10 消えないの

170617たときみタイトル2*消えないの

 母さんやめてよ。もう何日も、水さえ口にしてないじゃないか。
 そんなにおくすりが好きなの? ぼくのこと、もうどうでもいいの?
 ぼくのこと、ちゃんと見てよ、名前を呼んで、だきしめてよ。
 ……。
「チーフ、どうなさいました」
「……あ?」
 アヒトははっと我に返った。闇と共にあった子ども時代。今さら思い出すなど、どうかしている。知らず、小さく吹き出していた。
 部下のカズサはヒステリックな笑い声を立てるアヒトに怯えつつ、来客を告げる。
「マナ様がお見えです。お通ししても?」
「やだなあカズサ君」アヒトは一転して邪気のない笑顔を浮かべる。「目の保養、心のオアシス。俺があんなかわい子ちゃんを無下に帰らせるわけないじゃん」
「……アヒト、ありがと」
 いつの間にかマナそのひとがアヒトとカズサの背後に立っていた。彼女にしてみれば研究室の入り口で足止めを食うなど失礼千万であり、だからといってプライドが傷つくほど重大なことでもない、その程度のことだろう。落ち着き払った様子で大きなモニタのセンターに位置するチーフ席のとなりに腰かけた。
「マナちゃんひさしぶり。元気だった? なんて、野暮な質問だよね」
「あら、どういう意味、」
「何も無かったらこんなところには来ない、そうだろ」
「そうね」マナは華奢な肩を小さくすくめた。「アヒト、たすけてほしいのよ。お礼はなんだってするわ」
「またまた、際どいこと言うんだから、痛い目みるのはこっちだってのに」両手首に填められたマットシルバーのバングルはいつものように通信状態を示すグリーンのランプがチカチカと点滅している。「まあいざとなったら死ぬよりつらい体験とやらをしてみるのもいいけどね。それで、あらたまって何かな?」
「――消えないの」
「ん?」
「出来損ないのイチルが、トワや由良に接すると、顔を出すの」
「ふうん」アヒトはつまらなそうに、だがすこしの憐れみをこめた瞳で少女を見た。「マナちゃん、それは仕方のないことだよ。だって自覚があるんだろう、二重人格とは違うって。イチルちゃんの出現は、君がマナとしてのコントロールを失ったときに限られる、そうだよね――イチルちゃん」
 少女の顔はさっと青ざめた。
「……、いま、なんて」
「イ、チ、ル、ちゃん」かくれんぼに興じる子どものように、アヒトは楽しげにその名を呼ぶ。だが眼は笑っていない。「俺、忘れてないよ、震えてたくちびる、可愛い声、頬のなめらかさ、吐息の温度、絹糸みたいな髪、ちいさいけど柔らかい胸……ごめんね、撲っちゃったりして、」
「やめてっ!」
 少女の声のトーンが突然変わった。弾かれたように椅子から立ちあがる。まんまるに見開かれたヘーゼルの瞳から、大粒の涙が滴った。「ぼく、信じてたのに、アヒトさんのこと、信じてたのにっ!」
「こんにちは、イチルちゃん。ねえ、どうして泣いているの。俺のことが怖かったから?」
「……ちがう、よ」
「そう、じゃあやっぱり」ギン。エメラルドグリーンの瞳は邪悪な色を宿す。少女を脅すかのように上目遣いで睨みつける。「やっぱり、憐れだったからなんだ」
「ちがうよっ!」
「許せないんだよね。無邪気な顔して本性は俺とおんなじ。それなのに大事に大事にお嬢様扱い? ほんと、君のこと見てるとイライラするよ。もう一発、殴っちゃおっかな……!」
 さっ、左手が振り上げられた――瞬間、バングルの警告アラームがけたたましい音を立て始める。アヒトはたっぷり九秒間、恐怖にぎゅっと目を閉じた少女の顔を眺めていた。最後のスリーカウントを示す赤ランプの三度目の点滅直前で、ぱっと手を下ろす。
 音が止んだ。とたんにアヒトの哄笑が始まる。
「危ない危ない」おかしくてたまらないらしい。腹の底から笑っている。「俺も危ないけど、この子もすっごく危ない。マナちゃん、マナちゃん、マーナちゃん、聞こえてますかー?」
 伸びやかな手が少女の華奢な肩に乗る。びくりとその身を震わせ、マナははっとアヒトを見た。
「……私、いま、」
「完璧完璧。完璧にイチルちゃんだったよ」
「どういうこと」
「君がしようとしているのはイチルの消去じゃない。マナちゃん、君は自分で自分を消しかけている。俺の推論は当たってた。マナとイチル、幸せだったのはやはり、」
 ――わたしだって、イチルでいたときのほうが……。イチルだったときのほうが幸せだった……!
「馬鹿なこと言わないで!」
 マナは悲鳴のような声をあげた。
「馬鹿なもんか」アヒトは長い指で少女の目元をやさしくぬぐった。「じゃあどうして泣いているの、さっきも聞いたけど答えられる?」
「……?」マナはじぶんが泣いているという事実に驚いたのと、アヒトの質問の意味がわからないのとで、ただ立ち尽くしている。アヒトは少女を元通り椅子にそっと座らせると、自分もワーキングチェアに腰を下ろした。
「思うにイチルとしての感情が、君を陵駕してしまったからだよ。前にも言ったよね、しかるべき治療を受けないと壊れちゃうって。分離や乖離は精神の適切な防衛機制だけど、君を待っているのはただの破滅だ。まだ遅くはない、医務局に申請を……ああ、でも、」
 ひととき真面目だったアヒトの表情は、またたちまちに砕けた。
「あのロリコンはイチルの産みの親だったね。お門違いか、アハハ」
「私はどうすれば……」
 マナは世界から見捨てられた子どものように、呆然と宙を見ている。アヒトは首をすこしだけかしげ、口の端をニヤリとゆがめた。
「この間の約束、守ってくれさえすればいいんじゃないかな」
「やくそく?」
「愛してくれるって言ったよね」
「あなたを……?」
「そう、トワみたいなガキに拒絶されて、それでも固執する理由がどこにあるのさ。俺なら君も、イチルちゃんのことも、両方愛してあげられるよ。消すとか消えるとか、悲しいこと言わないでさ、みんなでハッピーエンドにしようよ」
「……ハッピー、エンド……」
 すっ。アヒトの指先が長いキャラメルブラウンの毛先を撫でた。その仕草はまるで埃を払ってやったかのようにさりげないものだった。すでにバングルの投薬機能が作動しないギリギリを心得ている。
「考えといてね、お姫さま。その間に俺はさあ、」
 青年はマナの耳元でささやいた。
 ――俺も約束通り、君を傷つけたトワ君をどうやって滅茶滅茶にするかでも考えておくよ……。

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小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■第五章-11 大丈夫

170617たときみタイトル2*大丈夫

 トワの身柄は中枢部の一室に留め置かれた。監禁でも軟禁でもなく、建物内を自由に散策することも許可されていたが、そんなことにこれっぽっちも興味は湧かなかった。しかし植えつけられた破壊の色は、激しい攻撃的衝動となって少年を翻弄した。最初のうちは床に座り込んでうずくまり、ただひたすらに耐えていた。破壊の色に飲まれるな。意外であり幸いにして、いつかの慎也の言葉が支えになっていたのだ。しかし――
 朝、水を飲もうとしてうっかりグラスを落とした。
 きっかけはただそれだけだった。
「……」
 荒く砕けて鋭利な破片となったガラスを見て、頭の奥が疼いた。次の瞬間にはミネラルウォーターの入ったデカンターを両手で振り上げ、フロアに叩きつけていた。グラスの時とは違う、大きな音がした。無表情のままそれらをショートブーツで踏みつけ、気の済むまで粉々にすると、次のターゲットが欲しくなった。乱暴にキッチンスペースの引き出しを片っ端から開け、ついには果物ナイフを発見する。気がついたらアンティーク硝子の食卓に左手のひらをつき、ナイフを大きく振りかぶっていた。そのとき――
「トワ――!」
 聞き慣れた声。由良が部屋へ駆け込んできてたちまち少年を取り押さえた。「なんということを、」
「はなせよ」トワの口調は虚ろだ。「壊さなきゃならないんだ、なにもかもぜんぶ、そうだろ」
「しっかりしなさい!」思わず声を荒らげながら、由良は愕然としていた。トワの行為そのものに対してはもちろんだがそれだけではない、細い手首にこもった力は驚くほど強かった。大人である由良の手でもってしても完全には封じることができず、互いの腕力が拮抗してナイフは小刻みに震えた。部下を伴ってこなかったのを後悔する。部屋はカメラによってモニタリングされていたためこうして間に合ったが、これではらちが明かない。
「スタンガンで痛い思いをしたくなければナイフを放してください、お願いです」
「好きにすれば」
「……トワ、今止めなければアヒトと同じ拘束室に収容しなければなりません。私は嫌です」
「好きにすればって、言ってるだろ……!」
 トワはナイフを持つ手に渾身の力をこめ、捕らえられていた手首を内側にねじる――最悪なことにそれは慎也が指南した護身術だった。遂に由良の手が解かれてしまう。少年は自分を傷つけるそぶりをやめ、今度は刃先を由良に向けた。虚ろだった瞳が一転、すさまじい殺気を宿す。
 だが由良にしてみればそれは不幸中の幸いだった。最も避けたかったのはトワの自傷なのだ。
「そうですか、でしたら」口調にも余裕が戻る。「私を壊してみますか?」
 トワは乾いた声で笑った。
「それって、挑発?」
「おっしゃるとおりです」
「おもしろいね」少年はナイフを逆手に持ったまま、左手のひらを柄の端にぴたりと付けた。ストリートファイト時代に身につけた彼独特のファイティングスタイルだ。それを支点にするように、由良の顎めがけて回し蹴りを放つ。「――ボクに傷ひとつつけられないくせに、大口をたたくなよ!」
 ――!  ふっ、と音も無く由良は大きく一歩後退して交わす。続くナイフでの二撃目も、正面から受け止めるのは危険と見切り、身体を反転して受け流した。
 勢い込んで狙いが大きく逸れたことで、トワは一瞬の判断力を失った。その隙にたちまち由良に背後をとられる。遠慮の無い力加減で締め上げられ、喉がグッと音を立てた。
「……!」
 もはや言葉を発することも不可能だ。パニックになりかけるのを必死にこらえるしかない。
「甘い」由良の口調は憎たらしいほどに冷静だ。「子どもの喧嘩上がりのあなたと一緒にしてもらっては困ります。それに、どことなく慎也のような大ざっぱさが感じられるのですが、もしかして彼に教えを請いましたか。私ならばおすすめはしませんね」
 顔面がふくれあがるような感覚ののち、意識が徐々に遠のいてゆく。このまま死ねたらいいのに。
 しかし由良は、少年が気を失う直前で腕を緩めた。
 トワはまずナイフを取り落とし、そのまま崩れ落ちる。勢いよく肺に流れ込んできた空気にむせ、吐き気をもよおし激しく咳き込んだ。由良が傍らに膝をつきやさしく背中をさする。その手の温かさに、完全に正気を取りもどしていた。
 青年は静かに、不思議なことを言った。
「ただ抱きしめて、大丈夫だと、言えばよかった」
「……え、」
「それなのに、怖いと思ってしまった」
「なに、言ってるの、」
「イチルお嬢様がおっしゃっていました」
「イチル、が、」
「……たとえ消えゆくさだめだとしても」
 由良は言葉を切る。思わず振り向いたトワの目に飛び込んできたのは、青年の、今にも泣き出しそうな顔だった。
「どうか、忘れないであげてください。お嬢様のお気持ちを……理解して差し上げてください。そして思い出してください、お嬢様から教わったこと、癒やされたこと……流したご自分の涙の温度……」
「……イチル」
 そうだ。
 たしかにイチルはボクを裏切り続けてきた。
 それでもイチルは、ボクにいろいろなことを教えてくれた。
 ボクに何ができるの。わからない。でも、なにかしてあげなくちゃいけない。
「トワ」
 由良はトワの上半身を助け起こすと、華奢な身体を両腕でしっかりと抱きしめた。冷えた肩から信じられないほど穏やかなぬくもりがじわじわと伝わってくる。青年はトワの耳もとで静かに、だがはっきりと呟いた。
「……大丈夫ですよ……」

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小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■第五章-12 あやまちのあやまち

170617たときみタイトル2*あやまちのあやまち

 由良のすすめに大人しく従って食事を摂り、午後、司令室へ向かった。この中枢部というところはその名の通り都市の中央に位置しており、高層タワーのような造りとなっている。役割は主に市民の監視。人間の出入りは厳しく制限され、ごく少数のスタッフが運営にたずさわっている。事実ゲストルームを出てエレベーターに乗り込むまで、トワは誰ひとりともすれ違うことは無かった。
 九十七階まで、エレベーターは音もなく上昇してゆく。眼下には放射状に伸びる大道路に沿って幾何学的に形成された新市街が広がった。広い学校、アパート群、医務課管轄エリア、ショッピングモール、知っているのはその程度で、同じく建物でひしめく残りの広大な領域が何なのか見当もつかない。それに地下街やスラムに関しては、ここからは目につかなくても確かに存在している。市民もそうでない者も、おそらくこの街から外に出ては生きてゆけない、もしくはそんな事など考え及びもしない。まるで揺りかごか監獄だ。
 自動扉を抜けて以前燐と会った部屋へ向かう。あの男に対する印象は当然、良いものではない。不意打ちを食らわせるつもりでドアをオープンし、中へ踏み込む。
 しかし室内は無人だった。薄暗いなか鈍く青色光を放つスクリーンモニタがセンターに陣取るさまは、どことなく夜の学校に似ている。燐の不在に、落胆とすこしの安堵がやってきた。あらゆる事柄について抗議したかったが、それゆえに発するべき言葉はトワの脳内で未だ曖昧に渦巻いている。出直そうと踵を返した。
 そのとき、モニターのファンがぶぅんと音を立て、数度ノイズが走ったのち花畑の映像が映し出される。少し遅れて開け放していた部屋のスライドドアが勝手にクローズし、トワを閉じ込めた。
「……?」振り返るトワに、やわらかな声がかけられる。
 ――こんにちは、トワ。ごめんなさい、燐ならいないわ。
「……あのときの、」
 少年はあらためてスクリーンの中の少女と対峙した。白いワンピース、長いキャラメルブラウンの髪、ヘーゼルの瞳、それらはイチルあるいはマナに酷似していたが、彼女たちよりひとつかふたつは年上に見える。劣化により粗くなった映像であったが、におい立つような美しさには微塵の曇りも無い。
 ――私はマナ、この街のかつての管理システム。燐はオリジナルと呼んでいるわ。
「管理システム? さいしょから人間じゃ、なかったのか」
 ――察しがいいのね。そう、私はただのプログラムに過ぎない。でも燐は私を実の母として育ち、その喪失を恐れた。新システムへの移行プロジェクトに加わり、密かに私のデータをいたるところに組み込んだの。いまや私を構成しているのは、街じゅうに散ったその欠片たち。
「かけら? それってまさか」
 ――ええ。あなたに蓄積されている『感情』に似て非なるものが欠片の正体。燐は王子と姫の物語になぞらえて、この街に眠る私の断片をあなたに移植している。
「……なぜ、ボクなの」
 解らない。自分にトランスプラントするのが目的ならば、マナやイチルにわざわざ一度データを預ける必要など無いはずだ。燐というのはそこまで趣味の悪い男なのか。
 当然ながら『マナ』はトワの疑問を察知したようだ。その瞳に憂いを宿す。とてもプログラムとは思えない精巧さだ。
 ――機関の人間たちは、新システムの母体を自分たちと同じ肉体ある存在に造りあげようとした。よくあるお話ね。でも本来この街の新しいマザーとなるはずだった少女たちの培養はことごとく失敗したの。
 そうか。おぼろげな記憶しかない幼少期。自分がいたのは療養所ではなく研究所か実験施設だったのだろう。そして検体の最後の生き残りとなったのが、あの少女だ。
「……サキも、そのひとりなんだね」
 ――そのとおりよ。そして……最終形態であるはずのマナ――あなたにとってはイチルね――彼女も、例外ではなかった。
「!」何だって? と聞き返そうとしたが、あまりの恐ろしさに舌がもつれた。怒ったり泣いたり笑ったり、そして元気に跳ね回っていた少女の姿がフラッシュバックする。あれがまさか、サキと同じになるというのか。
「……そんなはず、ないだろ、」
 間抜けた返答しかできない。いや、否定以外にどうしろと。
 『マナ』はゆっくりとまばたきをして続けた。
 ――彼女はまだ知らない。遅かれ早かれ、みずからの精神と肉体が崩壊へ向かうことを。ただ王子さまと結ばれる運命を夢みて、けんめいに、あなたへ欠片を運んでいる。
「イチルはっ、マナだって、燐のいうことを信じて従っているんだぞ!」
 ――トワ、お願い。燐のことを、無慈悲だと思わないで。彼なりの愛情なのよ。
「むりだ、そんなの、ゆるせないよ」トワは両のこぶしを握りしめた。「遅かれ早かれって、いつだよ。サキみたいに身体の機能が低下して、安楽死、させられるのかよ、」
 ――崩壊は、幼い頃から始まっていたわ。事実、由良という少年が己の孤独に耐えかねてマナをイチルと呼んだ、それだけでその精神には亀裂が入ってしまった。
「由良?」
 もう泣くことを覚えたんだね。不思議な少年との出会いもまた、必然だったのか。
 ――あなたと同じ、欠片の器の候補だった男の子。でも彼はイチルを溺愛するあまり理性を失い、過ちを犯した。それが燐の逆鱗に触れ、同時に好奇を煽った。
「なんだよ……」トワの声はからからに乾いている。「あやまちって、なんだよ」
 ……。『マナ』はひととき沈黙した。それは間違いなく最も残酷な答えを示唆している。
 ――燐は由良に罰を与えた。それは、イチルとしての仮人格を維持存続させること。その破滅してゆくさまを、ただ見守ること。
「……」
 どうか忘れないでやってくれと懇願するように言ったときの弱々しい表情が脳裏をよぎった。燐による呪縛を受けていたのは彼も同じだったのだ。
 と、突然映像にノイズが走った。正確には『マナ』が意図的に発したノイズ、だ。
 ――ごめんなさい、燐が来たわ。トワ、いずれまた。
 ザザッ、ザー。花畑が揺らぎ、砂嵐のようになり、縦に横に、伸びては縮む。
「まてよっ!」無駄と解っていても、呼びかけずにはいられない。「質問に答えてない。どうして、ボクなんだ!」
「それは私が話してやろう」
 スライドドアのロックが解除され、シャンパンゴールドの髪を揺らしながら燐が姿を見せた。ゆるく微笑んでいる。「マナはときどき、お喋りが過ぎるな。せっかく、苦悩の果てに由良自身の口から明かされるはずの絶望的事実だったのだが」
「どういう、意味だよ」
 詰問しながら、脳内では警報が鳴っている。
 聞いてはいけない。
 聞きたくない!
「別に、私にとって深い意味は無いが」
 ぽん。燐の手が、トワの肩に乗る。びく、と震える少年の反応を楽しむかのようにたっぷり間を取ってから、彼は低い声で告げた。
「――お前は実の息子だ。私と――杏樹との、」
 ……!
 戸惑いと驚愕、そして吐き気が同時に襲ってきた。
 燐は許さなかったのだ。由良におとずれたささやかな安息さえも。

つづく
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小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■第五章-13 それでも行くんだ

170617たときみタイトル2*それでも行くんだ

 裏切り者。裏切り者。裏切り者。燐の声が頭の中で反響しこだまする。何度も、何度も。
 ごめんなさい。ごめんなさい、お父さま。でもお父さま、ううん、お父さんの言うことをきいていれば、ぼくはトワと結ばれる。そうでしょ、お父さん、そうしたらわたしは、じゃなくて、ぼくは、お父さんにみとめてもらえて、愛してもらえる、そうでしょ、お父さん、ううん、やっぱり、お父さま、のほうがいい? マナの方がすき? でもマナは、トワには愛されないんだよ。ぼく、ずるい? どっちの愛もほしいなんて、わるいこ?
「……お嬢様」
 え。少女は両腕で抱えた膝のうえからはっと顔を上げた。ランチプレートを手にしたプラチナブロンドの青年が心配そうにこちらをのぞき込んでいる。だれだっけ。
「……だれ」
「由良です、お嬢様」
 ゆら! そうだ、由良だ。どうしてだろう、どうしてこんな大切なこと、忘れかけたの。
「由良、ごめんさない、ぼく、なんだかこのごろ、へん」
「いいのです。ホスピタルから戻られたばかりなのですから、仕方ありませんよ。それに」
 青年はいちど言葉を切って、自嘲気味に呟いた。「あなたは本来、私のことなど記憶の奥底に葬り去ってしまっても良かったのです」
「? どういういみ、ぼく、由良のことわすれたりしないよ、どうしてそんなこというの」
「スタッフから聞きました。食欲が無いようですね、回復期だというのにそれでは身体に毒です」由良は少女の質問を聞き流し、プレートをベッドのサイドテーブルに置いた。「手鍋で焙煎した珈琲をお持ちしました。お嬢様の好みに合わせて炭焼き風に仕上げてあります。それから卵とハムのサンドイッチも。いかがですか?」
 少女はふたたびうつむく。無視されたことにも気づいていない。
「由良は何でもできるんだね。だからお父さんから大切にしてもらえるんだね、トワのことも、まかせてもらえるんだね……」
 ……。お父さん、トワ、お父さん、トワ、ここのところイチルはそればかり繰り返す。
「ならば、私がお嬢様を大切にします。一生涯かけて、あなたを守り抜きます」
「たりないよ」イチルはだだをこねる子どものように首を横に振った。「それじゃあぜんぜん、たりないよ……。だって由良はお父さんでもトワでもないんだから」
「そうですね……軽率なことを申し上げました、お許しください」
「でも由良、ありがとう。ありがとう。ありがとう……」
「……」
 形式的に繰り返される言葉に寒気がした。すべて燐の描いたシナリオ通りだ。この儚い物語が幕を下ろしたら、自分は遂に許されるのだろうか。だったらいっそ、死ぬまで罰を受け続けていた方がましだ!
 ドン。突然ドアが鈍い音を立てて軋んだ。ドン、ドン、ドン、誰かが外側から叩いている。このイチルの特別室はオートロックになっているので開かないのだ。
 ――イチル、イチルっ。
 防音設備も整った中、かすかに呼び声がする。とたんに少女の瞳に光が宿った。
「トワ?」掛け物をはねのけ、ベッドを抜け出そうとする。「トワ、トワだあっ!」
「お嬢様、お待ちください、私が開けます」
 由良ははしゃぐイチルの肩に手を置いてなだめると、入り口へと向かう。インターホンのモニタをオンにすると、汗だくの少年の顔が大写しになった。それを確認し、怪訝に思いながらもドアをオープンした。
「イチル!」
 青年をすり抜けて走り込んできたトワは急停止し、目を丸くして部屋の中を眺めた。一方にはピンクやオレンジの子どもっぽいぬいぐるみがたくさんあり、壁には由良やサキ、そしてとんがり帽子のイチルの笑顔でいっぱいの写真がたくさん飾られている。もう片方には豪奢なドレッサーがしつらえられていて、大人っぽい香水瓶や繊細な天使のガラス細工などか置かれている。室内は完全に二分されていた。
 目当ての部屋だと理解し安心したのか、少年は両膝に手を当て、ぜいぜいと息を切らした。「やっと、みつけた――」
「何故ここが」
 由良の問いに対し、トワは荒く息をつきながら得意げに笑ってみせた。
「九十七階の部屋、ぜんぶ、開けてまわった、んだ。開かなかったのは、ここだけ」
「それで、何をしに来たのです」
「イチル、行こう」
「は」
 青年の戸惑いを尻目に、トワは足早にベッドへ歩み寄って少女の手をとった。頬を上気させ、とっておきの思いつきだというように、繰り返す。
「イチル、ボクといっしょに行こう!」
「トワ?」熱い手の感触に、イチルは目をぱちくりさせる。「どこにいくの」
「遠くに行くんだ」
「どのくらい?」
「ずっと、ずっと遠くだよ」
「でも、お父さんが」
「遠くの町から、手紙を書こう。きれいな絵はがきを、いっぱい買おう」
「わあ」ヘーゼルの瞳がキラキラと輝く。「お父さん、よろこんでくれるかなっ」
「――トワ」
 由良がやや乱暴に少年の肩を掴んで振り向かせた。「一体何を言っているのです、正気ですか」
「……」トワは表情を一転、真剣なまなざしで青年を見上げた。「ぜんぶ、聞いたよ」
「全部……だと?」
 青年の顔はさっと青ざめる。トワは慎重に言葉を選んだ。
「あなたの犯した罪を、受けとめきれる自信はない。でも……あなたはイチルを育んでくれた、そして……きっと、たくさん、たくさん苦しんだ」
「――随分と解ったような事を、おっしゃるのですね」
 由良はこれまで垣間見せたことのなかった厳しい目つきでトワを睨みつけた。「そのうえで私からお嬢様を取り上げようと? そんなこと、許すわけにはいかない!」
 対するトワは冷ややかに青年を見ている。
「……それ、本性ってやつ?」
「!」由良ははっとして、しかし、次の瞬間には完全に開き直った。「だったらどうだと言うんだ。私は、お嬢様のためなら何だってできる。例えばあなたをこの手にかけることだって、私は何とも思わない。お嬢様は決して誰にも渡さない」
「由良監察官、あなたはたぶん、罰と願望を、混同してるよ」
「生意気な口を慎め!」
 ――! 鈍い音。由良はトワの頬を殴りつけていた。その瞬間――
 きゃあっ! 甲高い悲鳴が上がった。イチルだ。
「嫌っ! やめて! トワにひどいことしないでっ!」
 相当なショックだったらしい、全身ががくがくと震えている。両手で耳をふさいでそのまま叫びつづける。「嫌、嫌、嫌、嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌ああぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
「……お嬢様……!」
 我に返った由良がとっさに手を差し伸べようとした。しかし、
「さわらないでっ……!」
「……ッ」
 顔面蒼白となる青年。
 今度は呆然とした声でイチルはつぶやく。 
「どうして? なんで? トワがなにをしたの? だれ? あなたはだれ……?」
「私、は……」
  由良は両目を見開き、頭を押さえて大きくよろめいた。倒れる寸前で踏み留まる。
 しばしの沈黙。その後、青年は殴られたときの格好のまま静止していたトワへ静かに言った。
「わかりました。一時間だけ目をつぶりましょう。ただし申し上げておきますが、逃げられるなどとは思わないことですね。そして残念ながら、私がいなければ、彼女はすぐにマナへ戻りますよ」
「それでもいい」
「そうですか」
 由良はゆっくりとふたりに背を向けたかと思うと、次の瞬間鋭い声を発した。
「――行きなさい――」

つづく
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小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■第六章-1 はじまりと逃亡

第六章*せかいのしくみ
170617たときみタイトル2*はじまりと逃亡

 髪を下ろしたままとんがり帽子をかぶり、薄手のベージュのニットとピンクのかぼちゃパンツに着替えたイチルをつれて、トワは中枢部を出、闇雲に走った。闇雲といっても道なりに進むとどのルートを通っても交通ターミナルに行き着くようになっている。
 例によって資金は無かった。チケットはどうやって手に入れよう。今から申請して間に合うだろうか、それともいっそ……。建物の影や狭い通信端末室にたたずむ、移民斡旋を生業とする怪しげな男たちに目を配る。奴らに体でも売るか、いや、売るふりをして、金銭を奪うことくらい訳ない――。
 そこまで思い詰めていたとき、スポーツタイプのハッチバックが荒い運転さばきでトワとイチルのもとへ幅寄せしてきた。昼間だというのに何故か青いライトをオンにしていて、さらにそれを何度もパッシングさせる。妙だ。もう由良の手が回っているのか。
 警戒してイチルを背後に庇う。すると運転席の窓と後部座席のドアが同時に開き、思いがけぬ人物が大声を発した。
「乗れ、急げ」
「慎、也? なんで、」
「乗れと言っている、お前に選択肢は無い」
 その瞳の人工的なダークグリーンの光は、このうえなく真剣にも、どこか面白がっているようにも見えた。信用に足る、いつもの慎也だ。
「イチル、車に乗ろう」あえて何でもないようにトワは言った。「遠くへ行くんだから」
「うん!」車には慣れているらしい、少女は肢体を滑り込ませるようにして後部座席に乗り込んだ。トワも後に続く。
 驚くべき事に助手席にはナコが乗っていた。「ばーか」呆れたような声で、しかしにやりと笑う。「レディは運転席の後ろ、が鉄則だ、お前、なんにも知らねえのな」
「仕方ないだろ」思わず気まずそうに返事をして、トワは我に返る。「ていうか、あんたたち、どうして」
「由良に喧嘩を売ったそうじゃないか、なかなかやるな」ハンドルを切りながら慎也は顎で、自分のリストウォッチ型端末をさした。「本人からコンタクトがあったぞ、世紀の大鬼ごっこに参加しないかとな」
「……」つまり、いったん助け船を出しておいて、そのうえで追跡しようというのか。意外にやることがえげつない。
「そんな顔をするな」トワの思いを察して、慎也はミラー越しに苦い顔をしてみせた。「奴なりの思いやりだ、ああ見えて不器用だ、昔から自己矛盾に苦しんで、おっと、」
 ――! いきなりの急ブレーキに、慎也以外の三人は悲鳴を上げた。
「慎也、赤だぜ!」ナコが怒鳴る。
「ああ、今気がついた、もっと早く言ってくれないか、命に関わるぞ」
「運転手さんっ」イチルは存外に楽しそうだ。「運転、へたくそですねっ」
「まあな」慎也はどうでもよさそうに、どうでもよくない発言をした。「色がほとんど判別できないんだ、ばれたら免停だ」
「ちょっとまてよ!」トワは背後から慎也の肩を掴んだ。「人工眼球で、無茶だ!」
「安心しろ、少ししたら自動運転に切り替える」
「ところでどこに行く気なんだよ」
「その眼球の手術の折、世話になった保養所が街の外にある。今は運営こそされていないが、幸いまだ家主がいる。バカンスにはもってこいだ」
「バカンスだって?」トワは噛みつくように言葉を返した。「ボクは本気なんだ! ふざけたこと言うなよ!」
「甘えるな」ぴしゃりと慎也が釘を刺す。「そんなものはお前次第だ、そうだな?」
「……う、」
「運命は下されるのではない。自ら望んで勝ち取れ。破壊は再生へのプロセスでしかない。イチル君はそれを感じ取っていたからこそ、君と一緒にいたんだ。そろそろ気づいてやったらどうだ、彼女とともにつかみ取ることができる、希望というものの存在に」
 ――トワ、ハカイっていうのはね、
 出会った頃のイチルの言葉を思い出した。
 ――運命のはじまる場所、だよ!
「希望? ボクたちにはまだ、可能性があるのかな、」
「監視しか能の無い奴らに審判など委ねるな。守りたいのならそうしてみせろ、この世界につなぎ止めて、その居場所になってやれ。俺のように後悔してはいけない」
「……」
「うへえ」黙り込むトワを尻目にナコが茶化した。「慎也、気持ちわりい!」

つづく
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小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■第六章-2 オフホワイトの世界

170617たときみタイトル2*オフホワイトの世界

 車はスムーズに郊外へ、そして都市と外界の境目となる地点まで進んだ。チェックゲートで慎也は堂々と教員の証であるIDカードを出し、生徒の研修旅行だと告げた。許可は即座に下り、あっけなく市民の揺りかごである街から脱出することに成功したのだった。
 乗車早々眠り込んでしまったイチルはともかく、トワとナコとは驚愕に言葉を失った。
 ただ果てしなく、オフホワイトの砂漠が広がっていたのだ。砂以外には何も無い、いや、遠くに目をやると蜃気楼のようなものがゆらゆらと影をなびかせていた。興味本位で手元のスイッチに手を伸ばすと、同じことを考えたらしいナコがいち早く窓をオープンしていた。むっとした熱気が車内を侵食するように流れ込んでくる。
「馬鹿、子供か」慎也がたしなめた。「熱いのは開けなくとも解るだろう。まだもう少し走る。このオンボロ車は空調にやたらと燃料を食うからさっさと閉めてくれ」
「これが、外の世界……」
 惚けたようにつぶやくトワに、慎也は「いや、違うな」といって笑ってみせた。
「こっちが本来の世界だ。俺たちの生きている街は自然の摂理に逆らって無理矢理造られたコロニーのようなものだ、何百年かかるか知らんがいずれ崩壊する。皆、それを知らないか、忘れる方法を知っているかだ」
「俺たちの住む都市のようなものは、他に存在しているのか?」
「さすがだな、ナコ。それは機関において、未だ調査中と公表されているが、実際のところはどうだか。統制の邪魔となる事案は市民には提供されない。奴らのスタンスはその程度のものだ、信用には値しない。……おい、もう気が済んだろう、窓を閉めろ」
 無臭の熱気を存分に吸ってからナコはようやくクローズボタンを押した。苦笑いする。
「まるで危険因子的な発言だな。教師とは思えねえ」
「教師になどなるつもりはなかったからな」
「じゃあ何だったんだ?」
「俺は、都市の運営機構にたずさわるはずだった。由良と同じ、医務課スタッフとして」
「? なんで医務課が、運営機構に関係するんだよ」
「それって」トワははっとしてイチルを見た。砂の凹凸と慎也の乱暴な運転による不規則な振動もなんのその、気持ちよさそうに眠っている。「肉体をもつ、管理システム、」
「正解だ。状況が違えばイチル君を助ける手立ても心得ていたかもしれないが、すまんな」
「慎也は悪くないよ」
「お前の慰めなど不要だ。……少し飛ばすぞ」
 車は急激に速度を上げた。
 スポーツ仕様のカスタムカーは、タイヤが大きく車高が少し高い。もしかしたら慎也はこの砂漠を走るためにこれを選んだのかもしれない。色が判別できないといいながら、砂の悪路に慣れているのは明白である。過去に何度もその保養所とやらを訪れているのだ。
 何のために? 目の手術ならば一度で成功しているはずである。
 疑問を口にできぬまま、三十分ほど車に揺られた。
 白い砂。砂、砂、砂。
 そして非現実的な光景の中に突如、保養所は姿をあらわした。トワは目を疑う。
 ログハウス? そう、どうみてもログハウスだ。三角屋根の、丸太できっちりと組まれたバルコニーつきの大きな家が建っているのが見える。この熱砂の中に。信じられない。
 ハウスの正面にはスカイブルーの軽ワゴンが一台だけ駐まっていた。慎也はその横に自分の大型車を寄せ、エンジンを切る。「着いたぞ」
 すると玄関から小柄な女性が足早に出てきた。ウォッシャー加工のゆったりとした白いシャツにダメージジーンズ、おまけに裸足にビーチサンダルというラフな格好だ。軽い足どりで、運転席を下りた慎也に近づいた。
「慎也、ひさしぶりね。突然でびっくりしたわ」
「悪いな、杏樹、」
 ……! トワはぎくりと窓越しに女性を見た。監察官だった頃はひとくくりにしていた黒髪をシフォンベージュに染めて若々しい髪型にカットしているが、確かに杏樹・ミキだ。そして彼女は――燐の言葉が冗談で無いと仮定するならば、自分の実の母親だ。
「どうした、降りろ、気分でも悪いのか」
 慎也は助手席側の後部座席を開け、眠り込んでいるイチルをそっと抱き上げる。トワにかまっている暇など無いというかのように、杏樹へ深刻な顔を向けた。
「認知機能がかなり衰えている。今も、眠いから意識が無いのとは違うのかもしれん。診てくれるか」
「ええ、二階に部屋を用意してあるわ。そちらのふたりは生徒さん? あら、」
 しぶしぶ車を降り、おっかなびっくりナコの隣に並んだ少年を見て、杏樹は目を輝かせた。「まあ、トワ! こんなところで会えるなんて、夢みたいだわ!」
「……え、と」
「ごめんなさいね、担当が急に変わって驚いたでしょう、今、私ね、……あ、いっけない、こんな暑いなか立ち話なんて。みんな、そっちの生徒さんも早く入って!」

つづく
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小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■第六章-3 オーガニックの杏樹さん

170617たときみタイトル2*オーガニックの杏樹さん

 ログハウス内の空調は完璧に調整されていた。大型の冷却装置とともに、冷えすぎ防止のための木製サーキュレーターが天井にいくつも配置されている。どちらもほとんど音を立てない最新のものだ。旧式車の中で散々氷のような冷風を浴びていた一同はほっと息をつく。慎也はイチルを抱き、慣れた様子で二階へ上がっていった。
 杏樹はスパークリングウォーターのボトルとグラス、それに色とりどりの数種のジャム瓶を載せたトレイを運んできて、おっかなびっくりといった様子で窓ぎわのソファーにかけたトワとナコの前に置いた。
「オーガニックのジャムよ、炭酸で割るととっても美味しいの。ぜひ召し上がって」
「……」
 ジャム。思い切り子ども扱いされているような気がする。ふたりは思わず顔を見合わせていた。双方、同じことを考えているに違いない。ナコがいち早くボトルを取り上げ、「俺はこれでいい」といってスパークリングウォーターをそのままあおろうとする。
「杏樹」慎也がスプルース材の階段を降りてくる。「やはり意識が戻らない。念のためバイタルチェックを頼んでいいか」
「わかったわ、まかせて。三人ともごゆっくり」
 杏樹は軽いフットワークで慎也と入れ替わりに二階へ向かった。
 ふう。慎也は室内の空気に安心したように息をつき、ガラステーブル越し、生徒ふたりの正面に腰を下ろした。識別が容易だからだろうか、いちばん濃いワインレッドのジャムを取り上げスプーンでどばとばと無造作にグラスへ移す。炭酸が抜けないように注意深くスパークリングウォーターを注ぐとマドラーでざっくりと一、二回転混ぜ、口へ運んだ。
「ん?」ごくごくと豪快に飲み干してから、ふたりの意外そうな視線に気づく。「何だ、飲まないのか。これはカシスとラズベリー、そっちがマーマレード、あとは林檎か梨だ。どれも甘くて美味いぞ」
「……慎也」ナコは吹き出していた。「まるで昼からワインをあおるオッサンだ」
「勘弁してくれ。こう見えて酒はからっきしだ」
「まじかよ」
「ああ、一口で五時間は寝てしまう。……お前、要らないのならもらうぞ」
「やだね」慎也の飲みっぷりに触発されたようだ、ナコは迷わずマーマレードの瓶をとり、彼を真似てソーダ割を作った。マドラーを使い、慣れた手つきでクルクルと攪拌する。
「馬鹿、二酸化炭素が抜ける。底から大きく混ぜるんだ」
「そうか、サワーやカクテルと一緒だな」
「未成年が教師の前で堂々とよく言う」あきれてため息をつく慎也である。次は困惑顔でジャムを見つめるトワに声をかけた。「トワ、水分を補給したほうがいい。お前もやってみろ」
「……う、ん」
「お前」ナコが笑った。「どうせ、どれにするか選べないんだろ」
「うるさいな」
「俺が作ってやるよ」少年は勝手にトワのグラスを取り上げ、たちまち全種類のジャムをぶち込んだ。あとは慎也に教わったとおりの手順を踏む。「ほら、飲めよ」
「な、にやってんだよっ」
 差し出されたグラスは濁った薄オレンジ色になっている。
「おお」慎也が感心したようにうなった。「美味そうだな」
「あんた、色がわからないっていうのホントなんだな」
「いや、それは確実に美味いぞ、貸してみろ」本気かよと声をあげるナコからグラスを奪うと、慎也は例によって一気に飲み干した。「ほらみろ、あとはミルクがあれば完璧だ」
「ちょっと!」トワはさすがに抗議の声をあげた。「ボクの分はっ!」
「子供か、そんなに怒るな」
「子供はあんたたちのほうだっ」
 杏樹が階段を降りてきた。「慎也、バイタルは許容範囲よ。血糖値と血圧が低めだから、目が覚めたときのために食事を用意しておくわね」
「悪いな」と言いながら慎也はまったく悪びれるそぶりも無く言ってのけた。「トワに飲み物をやってくれ。それから俺も、腹が減った」
「もう、相変わらず子供なんだから」杏樹は慎也にもう一票投じた。トワとナコにウインクしてみせる。「勘違いしないでね、私、恋人はちゃんと他にいるから」
 トワは実に複雑な気分だった。杏樹はこの男の元恋人で、今は由良の恋人で、おまけに自分の……母親だという。大人の事情とやらは一体どうなっているのだ。
 フン。あからさまに不機嫌な顔を浮かべた慎也は、つぎの瞬間とんでもないことを言った。「だったらここに俺を招き入れたのは誤算だったな。いざとなったら人質に取ってやる。さすがの由良も簡単には手を出せまい、覚悟しておけ」
「はいはい」杏樹も負けてはいない。「だったら私はお食事をつくるのをやめますけど?」
「……それは困る。知っているだろう、俺はあいつと違って料理なんて趣味の悪い真似はしないんだぞ。掃除も洗濯もできればごめんだ」
「あらそう、今時そんなことを言っているなんて、あなたに二度目の春は来ないわね」
「杏樹、俺はなあ、」思わずなだめるような声を発した慎也は生徒ふたりの視線に気づくと慌ててゴホンと咳をし、どうにか横暴教師の顔を取りもどした。「……前言は撤回しない。が、とりあえず、めしを頼む、このふたりに免じて」
「マナちゃんにもね。まあいいわ、許してあげる」杏樹はトワとナコに向けて何でもないように笑った。「安心して、慎也も由良も、どっちも子供みたいなものよ。ランチはあと盛りつけだけだし、すぐ準備するわね」
 由良にも一票投じ、杏樹はぱたぱたとビーチサンダルを鳴らしてカウンター越しのキッチンの方へ消えてゆく。
「子供だってさ! 逆に安心できねえや……あ、」
 慎也もトワも、一転して真顔になったナコの視線の先を追った。
 階段の踊り場に、音もなく少女が降り立つ。右手でしょぼつく目をしきりにこすり、もう片方ではブランケットの端を握り、ひっぱっている。おまけに裸足だ。
「ふぁーあああ」人目をはばからず大きな口を開けてあくびをするという態度から察するにどちらかというとイチルだ。「おなか、すいたあ、由良、由良どこ? あれっ?」
 ヘーゼルの瞳はまんまるに見開かれ、生き生きとした光を放った。残りの数段を駆け下りてくる。
「シンヤせんせい、トワにナコ。ここ、どこ?」
「やっと起きてくれたか」
 慎也は少女が倒れたりしないか心配だったらしい、立ちあがると警戒させないようにゆっくり近づいてゆく。奇妙なやりとりがはじまった。
「寝ぼけているのか、夏休みの研修旅行だ」
「あっ、そうだった! わたしたち、いっしょのグループになったんだっけ」
「君は何の係だったか」
「はーいっ、お料理でーす。お夕飯にはおいしいおいしい、ほうれん草のキッシュをつくりまーす」
「それは実に心配だな」
「ええっ? せんせいヒドイですっ。キッシュは焼き上がるまでの時間が長いのは難点ですが、下ごしらえはとっても簡単なのですっ。おまけにほんもののチーズと卵をつかうんですよっ、それに、さめてもおいしい特別なレシピなのです!」
「お家の方に習ったのか?」
「はいっ」少女は得意そうに胸を張る。「お料理とコーヒーをいれるのと、あとはそのほかにもなんだってできるお母さんみたいなひとです」
「由良さん、だったかな」
「あれっ? いっけない。わたし、しゃべっちゃったのね。極秘事項だったのに」
「心配ない。このあいだ家庭訪問をしたばかりじゃないか、燐さんとも話をしたよ」
「お父さん? ……わたしのこと、なんて言ってましたか?」
「たいへん優秀で、自慢の娘だと褒めていた」
「ほん、ほんとう?」
「事実じゃないか、自信を持ちたまえ」
「わあい! お父さん、ほんとうはわたしのこと、そんなふうに思ってくれてたんだ!」
 慎也がイチル、あるいはマナの記憶と脳の状態を試しているのは明白だ。その証拠に彼はいきなりこう質問した。
「ところで、君の名前は」
「……え」飛び上がって万歳していた手が、ぱたりと下ろされる。
「わたしは」すうっと波が引くように、きらきらしていた瞳から光が失われていく。
 料理のプレートを運んできた杏樹も息をのんで見守っている。
「わたしは……だ、」
「冗談だ」慎也はすかさず少女の両肩に手を置き、彼にしてはとても優しい顔で笑って見せた。「さあ、お待ちかねのランチだぞ。オーガニックという言葉について説明してくれ」
「はいっ、せんせいっ、ずばり有機農業または有機農産物を意味しますっ。無農薬栽培によるノンケミカル・オールナチュラルの生態系と体にやさしいお野菜、果物、穀物、そして畜産物のことですっ。あとはぁ……お茶やコーヒーも含まれ、それからこれは不良さんの嗜好品だけど、シガレットというものも存在しているそうですっ」
「正解だ、さすがだな。座りなさい。ここはそのオーガニックにとても詳しい女性が運営しているんだ。早速みんなでいただこう」
 五人分のランチが揃った。メインは季節野菜のサラダにチキンのバジルソース和え、それにひよこ豆のスープ。デザートにはバターやクリームなどの動物性脂肪を使わないのが杏樹流だ。
「うん! わたし、おなかぺこぺこ! わあっ、こんなにカラフルなお野菜はじめて! いただきまーすっ」
 トワの隣にちょこんと座った少女はナイフとフォークを手に、お行儀よく食べ始める。
「よかった。元気な生徒さん、いっぱい食べてね。スープはおかわり自由よ」
「はあいっ。あっ、オーガニックのおねえさん、お名前はっ?」
「杏樹よ、よろしくね」
「わあ、アンジュさん、素敵なお名前ですねっ」
「――やれやれ、杏樹のことは忘れているのか、ある意味由良をめぐるライバルだからな、都合のいい頭だ」慎也は誰にともなく、しかしトワとナコには聞こえるようにつぶやいた。
「長い研修旅行になりそうだな」

つづく
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小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■第六章-4 解るさ

170617たときみタイトル2*解るさ

 医務課、研究棟。時刻は二十二時をまわっていた。普段ならとっくに迎えに来ているはずの中枢部スタッフたちは一向に姿を見せない。アヒトは座った目でプログラムをタイピングしながら大あくびを繰り返す。そのうちやっと、風除室に部下を連れた由良が現れた。顔パスですたすたと入室してくる。
「アヒト・クライン、お久しぶりです」
「ちょっと上司ぃ、さいきん残業あたりまえなんですけど、どうなってるのよ」アヒトは例によって勤務時間にはうるさい。「さすがに眠いんですけどー、そろそろ帰らせてよ」
「無断でお嬢様に接触していたようですね、心外です」
「勝手に押しかけてきたのはあっちですって。そういえばこのところ顔見せないけど、」
「そのことですこし、ご覧に入れたいものがあります」
 ぴぴっ。アヒトの背後に歩み寄った由良は、端末内蔵の右手を伸ばして高速でデスク上に簡易モニタを投影させる。無造作に転送ボタンへタップした。組んでいる途中だったプログラムの画面は一瞬でどこかの室内の画像に切り替わる。
「ちょっと、何するんだよ! まだセーブしてなかったのにっ! オートリザーブはしない主義なの! ……ん?」
 いつかの恐ろしい教師と、かぼちゃパンツのマナが大写しになる。
 ――寝ぼけているのか、夏休みの研修旅行だ。
 ――あっ、そうだった! わたし、トワといっしょのグループになったんだっけ。
 ――君は何の係だったか。
 ――はーいっ、お料理でーす。お夕飯にはおいしいおいしい、ほうれん草のキッシュをつくりまーす。ねっ、トワもだいすきなんだよね。
「……なにこれ。だまされてるようにも見えないけど、研修旅行? 夜間部の? いや、モニタリングされてるって事はそんなわけないかぁ」アヒトは一転して興味なさそうにワーキングチェアへ背をあずけ、またあくびをしながら大きく伸びをする。「あそう、やっぱりこの子、壊れちゃったんだ。割とあっけなかったね」
「私のことまで忘れかけています。単刀直入に、崩壊の回避方法に思い辺りは、」
「無いね」
「これ以上の、と付け加えても?」
「無ーいって」伸びやかな腕が褪せた金髪頭の上で組まれる。「いまさら慌ててるわけ? 身勝手じゃないかね、ロリコン由良さん?」
「投薬許可が下りますよ。私が命令すればいつもの予備カウントはありません」
「まあまあ、そんなことして、困るのはそっちじゃないの」
「と言うことは、皆無というわけではないのですね」
「はあ。まったく、復縁を迫るしつこい女子みたいなんだから」アヒトは下あごを突き出してボサボサの前髪を吹き飛ばした。「そっとしといてやれば? 案外今がいちばん、幸せかもしれないしさ」
「口を慎みなさい。あなたに何が、」
「解るさ」ふざけていた声のトーンが一段下がった。「ふたつに引き裂かれたココロ、矛盾だらけの自分。俺は誰、俺は誰? 双方が叫び声を上げ続けて、どんどん、どんどん傷口は広がっていく。それを埋めるためなら、さらなる矛盾も受け入れるしかない。気づいたらぼろぼろのへとへと。そしていつの間にか欲しているんだ、崩壊と、無をね」
「みずから欲したというのか、お嬢様も」
 ――トワ、わたしはここにいるよ!
「あんたには感謝してるよ、そんな儚い願いを叶えてくれて。俺いま、結構幸せなんだよね。才能認めてもらえて、三食読書つき、あったかーい拘束ベッドとこのクソ忌々しい腕輪のせいで暴走しなくて済むし、護送中は目隠しプレイでわっくわく」
「それは結構。それで、具体案は」
「リセットだよ」
「といいますと」
「みんな、始まりの前に戻してしまうんだ。トワに転送されたウイルスデータも、あんたが担当していたメンタルプログラムも。……でもそんなことをしたら、」アヒトは神経質な笑い声を立てた。「愛しの王子さまはまた空っぽになっちゃうし、また悲劇のシナリオは繰り返される。エンドレスだよ、あまりに可哀相じゃない?」
「本当に可能なのですか」
「正直わからねえ。ひと晩考えさせてくれる? ていうか本気なわけ、それじゃあ機関を敵に回すことになりかねないだろ」
「お嬢様のためならばどんな手立てだろうと厭いません」
「うわっ、ロリコンっていうか、実はもっとやばい系だったんですね、俺びっくり」
「トワはお嬢様を壊すことを選択し、お嬢様はそれを受け入れた。私の入り込む余地など最初から無かった、だから私は孤独に絶望した」
「思い切って一発キメちゃえば良かったんじゃないの? あはは」
「……ッ、だ、まれ……」
 下品な軽口を浴びて、強い痛みを感じたかのように顔をしかめて目を伏せる由良。その異常な様子に、アヒトは表情を失った。
「……え」その声は驚きに、かすれている。「あんたまさか……うそだろ、」
「……以前おっしゃいましたね、私たちは同類だと。否定はしませんよ」
「俺さ、ほんとはこの手のハナシ、得意じゃないの。だからもう聞かねえよ、でもまあ」アヒトは由良から目を背けた。「あんたもいろいろ抱えているわけね、察する気無いけど」
「せいぜい存分に憐れむといい。私はそれに値するのですから」
「もういいって、やめてよ」
 アヒトは一瞬子供のような瞳をした。無理矢理話題を変える。
「だけど確かに気にくわないなあ。マナちゃんいっつもトワ、トワ、トワ」
「しかしあなたも、ご自身をトワに重ねて、慈しみの心を抱いていた」
「まあさ、俺だってガキの頃、死のうとしたこと、あったしさ」
 もしかして君は、生まれたことを後悔しているのかな――。思わず発したあの時の言葉は、郷愁にも似た、アヒトの心の片隅に残った本来の優しさからだったのだ。
「ねえ」アヒトは唐突に尋ねる。「桜ってもう、咲いてないの」
「そうですね」由良はすこしだけ寂しげに答えた。
「もうすぐ夏ですから」

つづく
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小説■たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても■螺旋〈仮完〉

170617たときみタイトル2*螺旋〈仮完〉

 ねえ 覚えていますか
 無垢だった わたしのこえ
 はじめてであったとき うたった歌
 せかいがどこまでも 煌めいていたこと
 秘密のほほえみが すべての鍵だったこと
 だいすきなまなざしが なによりの宝ものだったこと
 じゃあまたねって たいせつなやくそくをしたこと
 ねえ 覚えていますか
 ひかりのなかで つないだ手
 とわへとつづく ぬくもり
 とわへとつづく ぬくもり……

 砂漠の夜の気温は、昼間から一転してマイナスを下回る。杏樹と慎也の指示のもと、トワとナコは大きな暖炉にありったけの薪をくべた。
 そうして皆でホットレモネードを飲みながら、イチルの歌を聴いた。
 少女はただそれだけしか知った言葉が無いかのように、何度も何度も同じ歌をくりかえした。もはや歌詞の意味を自分で理解しているのかすら定かではない。声はとてもあどけなかった。喉の奥から流れ出る音がめずらしくて、ふしぎで、たのしくて、だからくりかえす、そんな印象だった。
 トワは隣に座った慎也にきいた。
「ボクの心も、壊れかかっているのかな、彼女みたいに」
「何を言う」
「ボクは、イチルに裏切られて、傷ついたはずなのに。どうしてだかイチルのことで頭がいっぱいなんだ。胸があたたかくて……泣きそうなくらい、せつないんだ」
「馬鹿」慎也は笑って、トワの頭を乱暴に撫でた。「それでいいんだ」
「ボクは、彼女の心に、痕跡を残せたのかな」
「ああ、残っているさ」
「ボクはあとどれだけ、彼女になにかをしてあげられるんだろう」
「トワ、もういい」
「え」
「お前はもう、充分にやった。遠くに行けないのはお前のせいじゃない」
「慎也、なに言って、」
 ――にわかに外が騒がしくなった。硝子の二重窓に目をやると、大きなヘリが砂を巻き上げながら降下してくるところだった。少年は驚いて立ちあがる。その拍子にレモネードのマグを取り落とした。おかしい、身体に力が入らない。
「あっ、由良だぁ!」
 少女が歌をやめ、側面の乗降口から身をややかがめて下りてきた人物をみとめて玄関に駆け寄る。扉を押し開けると、乾いた冷風と砂が一気に吹き込んできた。
「だめだイチル、行くなっ! イチル、イチル、い、ち、る……」
 声を発したそばから呂律まで怪しくなってくる。もはや歩くこともままならない。糸の切れたマリオネットのようにその場に崩れ落ちる寸前で、ナコが少年を抱きとめた。
「悪いな」いつになく大人びた声が耳をくすぐる。「俺たちに与えられた時間は、もともと今日の日付が変わるまでだったんだ」
「あんたら、だました、のか」トワはナコの手を逃れようと必死に暴れた。「わたさない。イチルは、わたさ、ない……!」
「安心しろ」少年は諭すように言う。「奴らの目的はお前の身柄だ。いくらでも代わりのきくイチルに執着しているのはお前と、あの由良って男だけだ」
「……な、に」
「またお前、忘れちまうのかな、俺や慎也のこと。……初めて出会ったときは俺の方が年下だったんだぜ。でも、いつかは止めてやるからな、このループを。お前はもう、ひとりじゃねえよ」
「……、」
 ――そのイチルとやら、いったい何人作れば気が済むんだ。悪趣味にもほどがある。
 ――慎也、この個体は特別ですよ。なにしろ初めてですからね、私の呪縛を超えてプログラムと相思相愛になったのは。ただの脇役があやうく物語のプリンセスになりかけた。
 ――燐にはどう説明するつもりだ。
 ――いえ、特には。いまのところアヒト・クラインにもまだ期待の余地がありますし、新システム『トワ』の開発は『マナ』の完全崩壊まで何度でもやり直しが可能ですので。
 ――間に合わなかったら。
 ――気づいていないのですか、都市の崩壊、それこそが燐様の真の目的です。
 ――『マナ』と心中するつもりか。くだらん、俺は次は下りるぞ。
 ――誰よりもトワに執着しておいて、よくそのような事が言えたものですね。前々回発生した実験事故で視力を失いさえしなければ、あなたも私と同じ立場だったのですよ。
 由良と慎也はいったい何を言っているのか。嵐のような疑問に飲まれながら、トワの意識は薄れてゆく。最後に、泣き出しそうなナコの声をきいた。
「また、会おうな」

   *

 だれかに呼ばれた気がして目を覚ますと、ベッドの脇にちいさなちいさな女の子がいた。まんまるのヘーゼル色の瞳にいっぱいの涙をためて、ボクを見つめている。だれだっけ。
「だいじょうぶ?」
「え?」
 おそるおそる上半身を起こすと、右手は点滴に繋がれていた。でも、それ以外には痛くも痒くも、何ともなかった。
「だいじょうぶだよ、きみこそ、どうして泣いているの」
「だって、あなたがないているんだもの」
「……?」
 ほんとうだ。ボクはぽろぽろと涙を流して泣いていた。
 そうだ、ボクは。
「……きっとまた、大切なひとのことを、忘れてしまったんだ。ボクの心のなかには確かにだれかがいたのに、どうしても思いだせない」
「あなたは、かなしいをおぼえたのね」女の子は得意そうに言った。
「かな、しい?」
「ちいさい頃のあなたがいったよ、なみだがでるのは、かなしいからなの」
「かなしい、」ボクは繰り返した。「かなしい、かなしい、かなしい、ボクは、かなしい」
「ねえなかないで。わたし、わすれないよ、あなたのこと、わすれないよ」
「また、会えるよね。せっかく出会えたのに、きみまでいなくなったりしないよね。もういやなんだ、ひとりぼっちは」
「うん、ずっといっしょ。ずっとずっといっしょ。やくそくしたもの。あなたはわたしの王子さまなの。でも、もういかなくちゃ、おこられちゃう」
「まって、イチル」
 裸足で駆け出そうとした女の子を、ボクはけんめいに呼びとめていた。
「いちる……」きょとんとした瞳がボクを見つめ返す。「いちるって、なあに?」
「あれっ? おかしいな、そうだね、なんだろう」
「きっとそれは、何番目かのわたしの物語」女の子はにっこりと笑った。
「あなたのたいせつな、たいせつな、こころのかけらなの」
「こころ?」
 悲しいとは違う、新たな涙が、あふれてとまらなくなった。
 なくしたくない。忘れたくない。誰にも渡したくない。
 この、ほんのりあたたかで、甘酸っぱい感情の名前も、ボクは忘れてしまったのかな。


仮完
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打ち切りのあとがき的にずびばぜん゛(T-T)

160719たときみもくじタイトルヘッダ
 われながらこんなにひどいのは初めてです。
 ちょっといろいろな事情が重なり、真のエンディングには到達できませんでしたが、たとえばきみが矛盾の海にきえてしまっても、完結、ていうか仮完ていうか、強制終了しました。。470枚でした。
 もしかして読んでくださっていた方、ほんとうにごめんなさい、ありがとうございました。
 ほんと、最もやりたくなかったパターンです(T-T)。
 真のエンディングでないばかりか、真の挫折です。
 それでも未完よりはマシかなと思って、師匠の『駄作を書き上げる勇気をもて!』の言葉は死守しました。
 オフではちゃんと書き上げます、しばしお待ちくださいませっ。

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 というわけでですね、ブログではあしたから新作、
『幻想芸術少女』がスタートします。
 乞うゴキゴキっ。

◆━━━━━━━━━━◆

 それではいまから残念会開催します。つまみはねえが酒はある、さあよっといで! はっは(*´▽`*)

odakaplusへようこそ!
メンヘル日記2021-02-09

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 おはござーっす。きのうは何食べましたか? 私はは毎日ヌードル三昧。小説家として地味に頑張る日々。通院記・入院記・ワイヤーアート・執筆状況等、ほぼ毎日更新ちゅう。きょうもじゃんじゃんぱりぱり〜( ´_ゝ`)ノ♡
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170627金色の魚2


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190616新アイコン60 ✦小高千早✦
 自己愛・散漫・見栄っ張り。ワイヤーアートアクセサリーでお小遣いを稼ぎつつ、小説書いてます。♫

スクリーンショット 2022-04-14 202755
✦サヤ先生✦
 2022年あたらしく担当になった女医さん♡ やさしい笑顔が好き!

✦箕浦さん✦
icon_medical_woman03 優香さんの産休中代理の心理士。代理だったけどそのままodagger担当を引き継ぐ。個性的で不思議な魅力がある。茶色に透き通った瞳がステキ。ちょっぴり私と似た匂いを感じることがある。

180608ワサヲ✦ワサヲ医師✦
 クマ医師退職後に赴任してきた先生。小高の解離性同一性障害を治したいらしい。しゃべるときは基本白目。。

ポテヲ先生
ポテヲ先生smoll2020年度の主治医。まじめでしずかな声で話す、感じのいい人♡

エビゾー先生
エビゾー先生 ワサヲのおともだちな精神科医。気さくなのかどうでもいいのかよくわからない事を話す。でもいい人。

ぴよ先生
180606ひよこ 小高が思いを寄せていた臨床心理士。ある事件をきっかけに突然姿を消した。✶でも小高は今でも再会を夢みて毎夜まくらを濡らす日々なんつって。いやまじ連絡ください。

✦クマ医師✦
180606くま 小高の精神科前担当医。鬼。いやまじで鬼。病院スタッフに言わせると『スーパーコンピュータ』。の割には時折子供みたいな言動をしてオダカをニヤニヤさせる。しかししつこいようだがドMな小高にもってこいな鬼っぷり。

優香さん
180606ぺんぎん あたらしいカウンセラーさん。手厳しい問題提起がお得意。2人目の女の子を出産後、めでたく復帰! 荒川静香似の美人さん。



180606ねぎ 小高ススム。元校長にして職人気質。小高千早の人格形成に深くかかわる。ソースの消費量がハンパない。あと青ネギが大好き。

ママ
180606わさび ママと呼ぶにはもったいないほど若く可愛く、天然。何で私はこのひとに似なかったか。ワサビと納豆の消費量がはんぱない。

そのほか
 トーマ、owlさま、のんちゃん、k-tan…熱き友人たちに拍手。
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  • ★またわけのわからぬものをつくってしまった。
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