国鉄高山駅の製作33
旧高山駅のジオラマを作っています。
今回は、このジオラマの設定年である1962年(昭和37年)に高山本線で運行されていたキハ55系による「準急ひだ」を再現することにしました。
■キハ55形気動車とは
高山本線で初めてディーゼルカー(DC)が正式登場したのは1956年(昭和31年)3月26日、多治見区所属のキハ45000形(キハ17形)で、岐阜から下呂までの運行でした。
キハ55形気動車は上野から日光までの準急列車として開発されたDCで、急勾配区間でも速度が保たれるようにエンジンを2基搭載しています。ちなみに、「キハ」の「キ」は車種記号を示しエンジンを搭載して自走する気動車を、「ハ」は用途記号で三等車(現在は普通車)を示します。(「イ」は一等車、「ロ」は二等車)
このキハ55気動車を用いて1956年(昭和31年)10月10日から「準急日光」として運転が開始されました。
この起動車は名古屋機関区(名ナコ)にも配置され、1958年(昭和33年)3月1日、名古屋から富山までの区間を「準急ひだ」(#1)として運転を開始し、キハ55形を用いた準急列車としては「準急日光」に次いで2番目になりました。
この当時、非電化の高山本線の旅客列車を牽引していたのはC58形蒸気機関車で、岐阜から高山までは約4時間、岐阜から富山まで約6時間30分を要していました。しかし、この車両による運行で岐阜-高山間は約2時間40分(約1時間20分短縮)、岐阜-富山間は約4時間20分(約2時間短縮)になりました。
#1 DCによる「準急ひだ」の運行前にC58形蒸気機関車による「準急飛騨」が1953年(昭和28年)9月から運行されていましたが、一時期に運行される季節列車でした。
■「準急ひだ」
●運行前の様子
運行前の様子が高山市のローカル誌「市民時報」に掲載されていたので、当時の複数の記事をまとめ、要約してご紹介させていただきます。
1958年(昭和33年)2月7日、入線試験走行として4両編成で名古屋から富山へ、8日は富山から折り返して12時3分に高山駅到着。4両のうち、2両を高山に残して名古屋へ戻る。高山の2両は運転練習のため、15日まで久々野~飛騨古川間を毎日三往復。
25日と26日はダイヤどおりに運転し、25日は名古屋管理局長と運転部長などを乗せて名古屋駅を9時5分発車。 高山から市役所と商工会議所、観光関係者が下呂駅で出迎えし、12時31分高山駅着。歓迎装飾をこらしたホームでは三中(#2)生徒のブラスバンド、観光協会、旅館や交通業者達が出迎え、運転士、車掌、試乗者代表に花束を贈り、停車7分後の発車をテープで華やかに見送り、富山着は午後2時21分。
25日の下り試運転列車には小学校5、6年生と中学生の計100名が猪谷まで、26日の上り試運転列車にも100名が下呂まで添乗が許されたが、帰路は普通列車で帰ってきた。なお、添乗学童は各校の在籍数により案分された。
#2 三中(高山市立第三中学校の略称)は駅に近い場所(跡地には総合福祉センターとポッポ公園)に校舎があったため、ブラスバンドの参加が要請されたと思われます。1961年(昭和36年)4年に第四中学校と統合されて中山中学校になり、その校舎は1964年(昭和39年)3月に完成し、現在の場所(下岡本町)に移転しています。ちなみに、一中は日枝中学校、二中は松倉中学校に改称されました。
●当時の運行状況
・下り(705D)
9時5分名古屋発、12時16分高山着、22分発で13時58分富山着
・上り(706D)
10時35分富山発、12時21分高山着、24分発で15時2分岐阜着、15時32分名古屋着
・停車駅
名古屋、一宮、岐阜、鵜沼、美濃太田、白川口、金山、下呂、萩原、小坂、高山、古川、猪谷、笹津、八尾、富山 ※名古屋、高山、富山以外の停車時間は30秒
・準急料金
高山から富山・岐阜ともに70円、名古屋120円
※当時の映画入場料は大人130円
●運行後
・1958年(昭和33年)4月7日から1両増結して5両編成になる。
・同年9月20日、第2ひだ(名古屋-高山間、707D,708D)運転開始、従来の第1ひだ(705D,706D)は停車駅が富山から高岡まで延長
・1960年(昭和35年)7月1日から第3ひだ(709D、704D)が増発され、二等車(キロ25)が連結されるようになる。(座席指定券200円)
・1963年(昭和38年)4月20日、「第2ひだ号」が格上げされて、「急行かが」(名古屋-金沢)が運転開始。キハ58系に順次移行
・1966年(昭和41年)3月5日、「準急ひだ」は「急行ひだ」に格上げされ、「準急ひだ」としての運行は無くなる。
<参考文献>
鉄道ピクトリアル2003年3月号(No.729)、高山市民時報
■模型の製作
●製作方針
「準急ひだ」の運行開始時とジオラマ設定時(1962年)の列車編成を再現することにしました。
■運行開始時の編成
●模型
当初はキハ55形4両で編成されています。TOMIXの「キハ55形(準急色・バス窓)セット」(92176)のキハ55形は1957年から量産された3次車(16番~46番)を再現しているので、2セット(計4両)購入しました。
車体はクリーム2号に赤2号の細い帯が引かれた「準急色」で塗装されており、この当時の列車は蒸気機関車から発生する煤煙の汚れ対策として暗い色で塗装されていたので、特に高山駅では目立って都会的な印象を与えていたと想像されます。
●車体番号
車体番号は車体側面中央下に表示されていました。
▼車体番号表示例(碓井峠鉄道文化村のキハ20)
模型では車体番号は転写シートにいくつかの番号が用意され、いずれかの番号が選択できます。当時の名古屋機関区に配置された番号を調べた結果、製品に付属する転写シートから「55-16」「55-19」「55-26」を、残り1両はレボリューションファクトリーの「キハ55バス窓用インレタ」(4046)の中から「55-27」を選択しました。
▼キハ55-16
▲列車行先札(サボ/サインボードの略?)はレボリューションファクトリーの「サボシール 名古屋行」(4671)を貼りました。
●ヘッドマーク
「準急ひだ」の図案は全体が森林を示す緑色で、中央に白地で乗鞍岳を配置し、文字は中央に青字で縦に「ひだ」、下に白字で横に「HIDA」、赤字で横に「準急」が描かれていました。
▼このヘッドマークはモリヤスタジオの「気動車用トレインマーク」(S7708)を用い、両面テープで車体に固定しました。
■ジオラマ設定時の車両
1962年(昭和37年)において「準急ひだ」の編成は「キハ55+キロ25+キハ26+キハ55」だったので、これを再現します。
●キハ55形
この当時はバス窓の3次車は名古屋機関区から離れ、1958年から量産された一段窓の4次車(101番~240番)が配置されていたので、「キハ55形(準急色・一段窓)(T)」(8443)を2個購入しました。
なお、この模型は動力(モーター)がないので、「キハ55形(準急色・バス窓)セット」(92176)のモーター付きの1個と交換しました。
車体番号は付属する転写シートから名古屋機関区の「55-160」と「55-227」を選択しました。
▼3次車(キハ55-27)と4次車(キハ55-227)との比較
▲バス窓と一段窓の違いが分かります。
●キハ26形
キハ55形はエンジン2基搭載していたのに対し、1958年(昭和33年)から製造されたキハ26形はエンジン1基を搭載した車両で、1960年(昭和35年)3月1日付けの「準急ひだ」の編成から確認できます。
模型は「キハ26形(準急色・一段窓)(T)」(8442)を購入し、車体番号は美濃太田機関区(名ミオ)の「26-106」を選択しました。
▼キハ55(上)とキハ26(下)との床下比較
▲キハ55(上)はエンジン2基の搭載、キハ26(下)はエンジン1基の搭載が再現されています。
●キロ25形
キハ55形とキハ26形は三等車でしたが、キロ25形は1959年(昭和34年)から製造された国鉄起動車初の全室二等車で、「準急ひだ」では 1960年(昭和35年)7月1日から連結されるようになりました。
模型は「キロ25形(準急色)」(8444)を購入し、車体番号は名古屋区の「25-39」を選択しました。
▼キハ26(上)とキロ25(下)の比較
▲窓の大きさと数が異なり、キロ25の模型には二等車を示す青1号の細帯が引かれています。
■標記の再現
製品では標記類の転写シートが省略されているので、レボリューションファクトリーの転写シート(インスタントレタリング)を用いて標記類を再現しました。
●所属標記
上段は車両の所属を、下段は定員乗客人数を表示しています。
▼碓井峠鉄道文化村のキハ20の例
▲「高タカ」は高崎管理局の「高」と高崎機関区の「タカ」を、定員は82人であることを示します。
▼レボリューションファクトリーの「所属インレタ 名ナコ キハ55系列 準急色用」(4057)を記録写真を参考に所定の位置に貼りました。
▲文字は小さくて分かりませんが、「名ナコ」は名古屋鉄道管理局の「名」と名古屋機関区の所属を示す「ナコ」(1956年(昭和31年)までは「ナゴ」)を示し、下段の「定員 84」は定員乗客人数が「84人」であることを標記していると思います。
●換算両数標記と検査標記
▼碓井峠鉄道文化村のキハ20の例
▲妻面に換算両数標記(形式、自重、換算)と検査標記が記入されています。
▼レボリューションファクトリーの「キハ55 バス窓用 インレタ 準急色」(4046)を記録写真を参考に所定の位置に貼りました。
▲ 「形式 キハ55」「自重 36.01t」(自重は積載物を除いた車両本体の重さ)、「換算」の「積4.0」(積車換算両数4.0トン)、「空3.5」(空車換算両数3.5トン)が記載されています。
また、その横には検査標記が記載されており、赤枠内の数字は全般検査(オーバーホール)の(昭和)年月と検査工場を示しています。
■ジオラマへの配置
高山駅のジオラマに配置しました。
▼1番線ホームに準急ひだ「名古屋行き」入線
▼せっかくなので、4両編成全体にピントを合わせたかったので、画像編集ソフトのフォトショップで被写体深度合成をしています。
▼2番線ホームに準急ひだ「富山行き」入線
▼ジオラマでは準急ひだから下車した観光客が改札に向かっている様子を再現しています。
次回はC58形蒸気機関車の製作を予定していましたが、TOMIXの新製品の発売が遅れているため、入手するまで高山駅のジオラマ製作は中断させていただきます。
その代わり、次回は高山機関区の転車台の製作を紹介する予定です。
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今回は、このジオラマの設定年である1962年(昭和37年)に高山本線で運行されていたキハ55系による「準急ひだ」を再現することにしました。
■キハ55形気動車とは
高山本線で初めてディーゼルカー(DC)が正式登場したのは1956年(昭和31年)3月26日、多治見区所属のキハ45000形(キハ17形)で、岐阜から下呂までの運行でした。
キハ55形気動車は上野から日光までの準急列車として開発されたDCで、急勾配区間でも速度が保たれるようにエンジンを2基搭載しています。ちなみに、「キハ」の「キ」は車種記号を示しエンジンを搭載して自走する気動車を、「ハ」は用途記号で三等車(現在は普通車)を示します。(「イ」は一等車、「ロ」は二等車)
このキハ55気動車を用いて1956年(昭和31年)10月10日から「準急日光」として運転が開始されました。
この起動車は名古屋機関区(名ナコ)にも配置され、1958年(昭和33年)3月1日、名古屋から富山までの区間を「準急ひだ」(#1)として運転を開始し、キハ55形を用いた準急列車としては「準急日光」に次いで2番目になりました。
この当時、非電化の高山本線の旅客列車を牽引していたのはC58形蒸気機関車で、岐阜から高山までは約4時間、岐阜から富山まで約6時間30分を要していました。しかし、この車両による運行で岐阜-高山間は約2時間40分(約1時間20分短縮)、岐阜-富山間は約4時間20分(約2時間短縮)になりました。
#1 DCによる「準急ひだ」の運行前にC58形蒸気機関車による「準急飛騨」が1953年(昭和28年)9月から運行されていましたが、一時期に運行される季節列車でした。
■「準急ひだ」
●運行前の様子
運行前の様子が高山市のローカル誌「市民時報」に掲載されていたので、当時の複数の記事をまとめ、要約してご紹介させていただきます。
1958年(昭和33年)2月7日、入線試験走行として4両編成で名古屋から富山へ、8日は富山から折り返して12時3分に高山駅到着。4両のうち、2両を高山に残して名古屋へ戻る。高山の2両は運転練習のため、15日まで久々野~飛騨古川間を毎日三往復。
25日と26日はダイヤどおりに運転し、25日は名古屋管理局長と運転部長などを乗せて名古屋駅を9時5分発車。 高山から市役所と商工会議所、観光関係者が下呂駅で出迎えし、12時31分高山駅着。歓迎装飾をこらしたホームでは三中(#2)生徒のブラスバンド、観光協会、旅館や交通業者達が出迎え、運転士、車掌、試乗者代表に花束を贈り、停車7分後の発車をテープで華やかに見送り、富山着は午後2時21分。
25日の下り試運転列車には小学校5、6年生と中学生の計100名が猪谷まで、26日の上り試運転列車にも100名が下呂まで添乗が許されたが、帰路は普通列車で帰ってきた。なお、添乗学童は各校の在籍数により案分された。
#2 三中(高山市立第三中学校の略称)は駅に近い場所(跡地には総合福祉センターとポッポ公園)に校舎があったため、ブラスバンドの参加が要請されたと思われます。1961年(昭和36年)4年に第四中学校と統合されて中山中学校になり、その校舎は1964年(昭和39年)3月に完成し、現在の場所(下岡本町)に移転しています。ちなみに、一中は日枝中学校、二中は松倉中学校に改称されました。
●当時の運行状況
・下り(705D)
9時5分名古屋発、12時16分高山着、22分発で13時58分富山着
・上り(706D)
10時35分富山発、12時21分高山着、24分発で15時2分岐阜着、15時32分名古屋着
・停車駅
名古屋、一宮、岐阜、鵜沼、美濃太田、白川口、金山、下呂、萩原、小坂、高山、古川、猪谷、笹津、八尾、富山 ※名古屋、高山、富山以外の停車時間は30秒
・準急料金
高山から富山・岐阜ともに70円、名古屋120円
※当時の映画入場料は大人130円
●運行後
・1958年(昭和33年)4月7日から1両増結して5両編成になる。
・同年9月20日、第2ひだ(名古屋-高山間、707D,708D)運転開始、従来の第1ひだ(705D,706D)は停車駅が富山から高岡まで延長
・1960年(昭和35年)7月1日から第3ひだ(709D、704D)が増発され、二等車(キロ25)が連結されるようになる。(座席指定券200円)
・1963年(昭和38年)4月20日、「第2ひだ号」が格上げされて、「急行かが」(名古屋-金沢)が運転開始。キハ58系に順次移行
・1966年(昭和41年)3月5日、「準急ひだ」は「急行ひだ」に格上げされ、「準急ひだ」としての運行は無くなる。
<参考文献>
鉄道ピクトリアル2003年3月号(No.729)、高山市民時報
■模型の製作
●製作方針
「準急ひだ」の運行開始時とジオラマ設定時(1962年)の列車編成を再現することにしました。
■運行開始時の編成
●模型
当初はキハ55形4両で編成されています。TOMIXの「キハ55形(準急色・バス窓)セット」(92176)のキハ55形は1957年から量産された3次車(16番~46番)を再現しているので、2セット(計4両)購入しました。
車体はクリーム2号に赤2号の細い帯が引かれた「準急色」で塗装されており、この当時の列車は蒸気機関車から発生する煤煙の汚れ対策として暗い色で塗装されていたので、特に高山駅では目立って都会的な印象を与えていたと想像されます。
●車体番号
車体番号は車体側面中央下に表示されていました。
▼車体番号表示例(碓井峠鉄道文化村のキハ20)
模型では車体番号は転写シートにいくつかの番号が用意され、いずれかの番号が選択できます。当時の名古屋機関区に配置された番号を調べた結果、製品に付属する転写シートから「55-16」「55-19」「55-26」を、残り1両はレボリューションファクトリーの「キハ55バス窓用インレタ」(4046)の中から「55-27」を選択しました。
▼キハ55-16
▲列車行先札(サボ/サインボードの略?)はレボリューションファクトリーの「サボシール 名古屋行」(4671)を貼りました。
●ヘッドマーク
「準急ひだ」の図案は全体が森林を示す緑色で、中央に白地で乗鞍岳を配置し、文字は中央に青字で縦に「ひだ」、下に白字で横に「HIDA」、赤字で横に「準急」が描かれていました。
▼このヘッドマークはモリヤスタジオの「気動車用トレインマーク」(S7708)を用い、両面テープで車体に固定しました。
■ジオラマ設定時の車両
1962年(昭和37年)において「準急ひだ」の編成は「キハ55+キロ25+キハ26+キハ55」だったので、これを再現します。
●キハ55形
この当時はバス窓の3次車は名古屋機関区から離れ、1958年から量産された一段窓の4次車(101番~240番)が配置されていたので、「キハ55形(準急色・一段窓)(T)」(8443)を2個購入しました。
なお、この模型は動力(モーター)がないので、「キハ55形(準急色・バス窓)セット」(92176)のモーター付きの1個と交換しました。
車体番号は付属する転写シートから名古屋機関区の「55-160」と「55-227」を選択しました。
▼3次車(キハ55-27)と4次車(キハ55-227)との比較
▲バス窓と一段窓の違いが分かります。
●キハ26形
キハ55形はエンジン2基搭載していたのに対し、1958年(昭和33年)から製造されたキハ26形はエンジン1基を搭載した車両で、1960年(昭和35年)3月1日付けの「準急ひだ」の編成から確認できます。
模型は「キハ26形(準急色・一段窓)(T)」(8442)を購入し、車体番号は美濃太田機関区(名ミオ)の「26-106」を選択しました。
▼キハ55(上)とキハ26(下)との床下比較
▲キハ55(上)はエンジン2基の搭載、キハ26(下)はエンジン1基の搭載が再現されています。
●キロ25形
キハ55形とキハ26形は三等車でしたが、キロ25形は1959年(昭和34年)から製造された国鉄起動車初の全室二等車で、「準急ひだ」では 1960年(昭和35年)7月1日から連結されるようになりました。
模型は「キロ25形(準急色)」(8444)を購入し、車体番号は名古屋区の「25-39」を選択しました。
▼キハ26(上)とキロ25(下)の比較
▲窓の大きさと数が異なり、キロ25の模型には二等車を示す青1号の細帯が引かれています。
■標記の再現
製品では標記類の転写シートが省略されているので、レボリューションファクトリーの転写シート(インスタントレタリング)を用いて標記類を再現しました。
●所属標記
上段は車両の所属を、下段は定員乗客人数を表示しています。
▼碓井峠鉄道文化村のキハ20の例
▲「高タカ」は高崎管理局の「高」と高崎機関区の「タカ」を、定員は82人であることを示します。
▼レボリューションファクトリーの「所属インレタ 名ナコ キハ55系列 準急色用」(4057)を記録写真を参考に所定の位置に貼りました。
▲文字は小さくて分かりませんが、「名ナコ」は名古屋鉄道管理局の「名」と名古屋機関区の所属を示す「ナコ」(1956年(昭和31年)までは「ナゴ」)を示し、下段の「定員 84」は定員乗客人数が「84人」であることを標記していると思います。
●換算両数標記と検査標記
▼碓井峠鉄道文化村のキハ20の例
▲妻面に換算両数標記(形式、自重、換算)と検査標記が記入されています。
▼レボリューションファクトリーの「キハ55 バス窓用 インレタ 準急色」(4046)を記録写真を参考に所定の位置に貼りました。
▲ 「形式 キハ55」「自重 36.01t」(自重は積載物を除いた車両本体の重さ)、「換算」の「積4.0」(積車換算両数4.0トン)、「空3.5」(空車換算両数3.5トン)が記載されています。
また、その横には検査標記が記載されており、赤枠内の数字は全般検査(オーバーホール)の(昭和)年月と検査工場を示しています。
■ジオラマへの配置
高山駅のジオラマに配置しました。
▼1番線ホームに準急ひだ「名古屋行き」入線
▼せっかくなので、4両編成全体にピントを合わせたかったので、画像編集ソフトのフォトショップで被写体深度合成をしています。
▼2番線ホームに準急ひだ「富山行き」入線
▼ジオラマでは準急ひだから下車した観光客が改札に向かっている様子を再現しています。
次回はC58形蒸気機関車の製作を予定していましたが、TOMIXの新製品の発売が遅れているため、入手するまで高山駅のジオラマ製作は中断させていただきます。
その代わり、次回は高山機関区の転車台の製作を紹介する予定です。
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