Category [来島又兵衛 ] 記事一覧
来嶋又兵衛生誕地~又兵衛の銅像
小野田市高須にある厳島神社の境内に「来嶋又兵衛生誕地」の記念碑があります。来島又兵衛は、この近くに屋敷を構えていた喜多村家の次男として誕生。20歳の時、俵山(長門市)の来島家に婿養子に行きました。来島又兵衛文化14年(1817年)1月8日、長門国厚狭郡西高泊村、無給通組の下士・喜多村政倫の次男として生まれましたが、天保7年(1836年)、大津郡俵山村の大組(八組)の上士・来島政常(又兵衛)の婿養子となります。弘...
禁門の変(3)来島又兵衛の最期
烏帽子に先祖伝来の甲冑を着込んだ来島又兵衛は、遊撃隊の中でよく目立ち、すぐに指揮官とわかるような恰好であったといいます。長州勢が劣勢である中、又兵衛は、何とか前線に踏みとどまろうと必死でした。しかし、薩摩藩兵の銃撃隊の川路利良の銃弾が来島の胸を貫きます。もはやこれまでかと来島は死期を悟り、甥の喜多村武七に介錯を命じると、槍で自ら喉をついた後、首を刎ねられて亡くなりました。京都御苑の蛤御門を入ったと...
禁門の変(2)蛤御門に残る銃痕
来島又兵衛は、浪人者や庶民を集めて結成した遊撃隊を率いて嵯峨から出撃し、会津藩兵が護衛する蛤御門を攻撃し、戦が始まりました。一時は、来島隊は筑前藩が守る中立売門を突破して京都御所内に侵入し、優勢でしたが、乾門を守る薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢が逆転。長州勢は次々に銃弾に倒れていきます。蛤御門(はまぐりごもん)は、京都御苑の外郭九門の一つで、正式名称は「新在家御門(しんざいけごもん)」といいます...
防府天満宮大専坊
京を追われた三条実美ら七卿は、防府の三田尻御茶屋(英雲荘)に滞在しました。七卿は、防府天満宮にも参拝しています。防府天満宮の参道には明治維新までに、9つほど天満宮の世話をする社坊があり、酒垂山満福寺と総称されました。大専坊はこれらをとりまとめる社坊で、宿坊として、遺明使策彦や細川幽斎も宿泊しました。また、弘治3年(1557)毛利元就が大内義長を攻める時、大専坊で指揮をとっていたこともあります。幕末には、諸...
京都御苑に残る史跡(5)清水谷家の椋
京都御苑の蛤御門を入ったところに清水谷家の椋という木があります。かってはここに公家の清水谷家の屋敷があったために、「清水谷家の椋」と呼ばれています。幕末の1854年(元治元年)の蛤御門の変の際、長州藩士の来島又兵衛がこの木の下で討ち死にしたといわれています。来島又兵衛幕末の長州藩士。尊皇攘夷派。文久3年(1863年)、藩命により猟師を集めた狙撃隊を率いて上洛。八月十八日の政変で尊皇攘夷派が追放されると萩に...
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