Category [平清盛 ] 記事一覧
即成院 (2)那須与一ゆかりの寺
即成院は那須与一ゆかりの寺とされ、京都で病にかかった与一が、即成院の阿弥陀如来に祈願したところたちまち回復、以来、阿弥陀如来を肌身はなさず持っていたと伝えられています。また、「屋島の戦い」の時も一心に阿弥陀如来に祈ったところ、見事に扇の的を射る事が出来たといわれています。即成院 与一の手洗い場本堂裏には与一の墓とされる石塔があります。即成院のHPによると「源義経の家来であった那須与一は、義経の命を受...
鎌倉の由比若宮(元八幡)
1063年、源頼朝の祖先・源頼義が京都の岩清水八幡宮を勧請し、由比若宮を造営。1180年、鎌倉入りをした頼朝がこの社を現在の鶴岡八幡宮の地へ移して新しい都づくりの拠点としました。ここは、遷営以前は源氏の氏神であり、以来、元八幡と呼ばれるようになりました。石碑には「元鶴岡八幡宮」という文字が見えます。由比若宮 御由緒 鶴岡八幡宮卯境内末社。前九年の役で奥州を鎮定した源頼義が、康平六 ( 1063 ) 年、報賽の意を込...
小夜の中山を訪ねて(6)西行の歌碑
小夜の中山公園に「西行の歌碑」が建っています。西行歌碑 ― 生涯二度目の難所越えに詠む ― 西行法師は平安時代末期の歌人。新古今和歌集には最も多くの歌が入集されているが、その中でも秀れた歌のひとつとされているのが、この一首である。 年たけて また越ゆべしと おもひきや 命なりけり さやの中山 二十三歳で出家し、自由な漂泊者としての人生を送りながら自然とのかかわりの中で人生の味わいを歌いつづけた西行の、...
油山寺(4)源頼朝寄進の三重塔
油山寺の三重塔は建久元年(1190年)源頼朝が眼病全快のお礼に建立されたものであり、その後、遠江国守護職工藤祐経が薬師堂と共に普請奉行をした塔です。内陣には、弘法大師作と伝えられる大日如来を安置し、塔の高さはおよそ23メートル、上層は唐様と天竺様を用い、中下層は和様式、三手先組一式、上層は2.3メートル四桃山期の姿を今に伝え、桃山の三名塔の一つに数えられています。方、中層は2.8メートル四方、下層は3.6メート...
鳳来寺(3)源頼朝ゆかりの鳳来寺 本堂~鐘楼
寺伝では大宝2年(702年)に利修仙人が開山、霊木の杉から本尊・薬師如来、日光・月光菩薩、十二神将、四天王を彫刻したと伝わっています。 文武天皇の病気平癒祈願を再三命じられて拒みきれず、鳳凰に乗って参内したという伝承があり、鳳来寺という寺名及び山名の由来となっています。 利修の加持祈祷により、天皇は快癒し、この功によって伽藍が建立されたといいます。 源頼朝が平治の乱で落ち延びた際、 この鳳来寺の医王院で13...
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