Category [新島襄 ] 記事一覧
新島襄の墓
同志社墓地を訪ねたのは今年の春。桜の花が舞い散る頃でした。哲学の道を越えすぐのところに若王子橋があり、これを渡ると熊野若王子神社があります。ここで参拝を済まし、新島襄と八重が眠る同志社共同墓地へ向かいます。このような表示があるので、迷うことなく進めます。ここからこのような山道が続きます足元の悪い道を上ること20分。予想以上に大変な道のりでした同志社墓地には、新島襄と八重、夫妻の家族、初期同志社の関係...
新島襄ゆかりの京都教会
「八重の桜」も残すところあと二回となりました。先週は、紅葉狩りに京都へ出かけた際、中京区富小路通の京都教会に寄って来ました。日本キリスト教団京都教会は、1885年(明治18年) 1月14日に京都市の四条富小路にゴードン宣教師らが中心となって四条教会という名で建てられ、1909年(明治42年)現在の富小路二条に移転、「京都教会」と改称しました。もともと同志社との関係が深く、歴代の牧師もすべて同志社大学の出身で、新島襄の...
グッドバイ、また会わん
新島襄は、元々病弱な人で、リュウマチや頭痛の持病があり、明治17年(1884年)の夏、スイスで心臓発作を起こしました。この時は、回復し帰国しましたが、明治21年、上京した襄は、井上馨邸で脳貧血を起こし鎌倉海浜院に入院。この時、医師は、死を覚悟しておくように八重に告げました。ショックを受ける八重に対し、襄は安心するように逆に八重を励まし、その一方、吉野の林業家に手紙を出し、襄が亡くなった後、八重が困窮しないよ...
同志社大学 彰栄館
明治13年(1880年)から襄は大学設立の準備を始め、井上馨・大隈重信・土倉庄三郎・大倉喜八郎・岩崎弥之助・渋沢栄一・原六郎・益田孝等から寄付金の約束を取付けます。明治17年(1884年)4月6日、2度目の海外渡航に出発。同年8月6日にはスイスのサンゴタール峠で心臓発作を起こして倒れ、二通の遺書を記しました。明治18年(1885年)12月に帰国。襄は、多額な資金集めに成功し、同志社では近代的な洋風建築の校舎が誕生していき...
八重と襄が愛した神戸
兵庫の旅の記事が続いていますが、神戸では八重と襄にゆかりのあるところも回ってきましたので、先週の紀行にも登場した神戸教会を含めた記事をアップします。明治10年(1877)11月、神戸教会の献堂式に夫婦で出席。その後も、海水浴や保養をするなど、八重夫妻はたびたび神戸を訪れました。明治21年4月、襄は東京で倒れ、八重は神戸から船で鎌倉で療養する襄のもとに駆けつけました。医師から襄の心臓病は治らないと告げられ、八重...
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