Category [崇徳天皇 ] 記事一覧
崇徳天皇廟
以前、崇徳天皇廟に行った時、工事中だったので、再度訪ねてみました。祇園歌舞練場の裏側に崇徳天皇の廟所があります。崇徳天皇は、保元の乱に敗れ、讃岐に流されて、無念の死を遂げました。ここは、崇徳天皇の寵妃・阿波内侍の住んでいた所で、天皇の御遺髪を請い受けて、この場所に一塚を築き、上皇の霊を慰めしたとされています。崇徳上皇(七十五代)は、平安時代の末、保元の乱(1156年)により讃岐の国へ御配流の悲運に...
土御門内裏跡
京都御所蛤御門を出ると京都ガーデンパレスホテルがあります。その前に立つ土御門内裏跡の石碑ここは鳥羽天皇、崇徳天皇、近衛天皇の三代の天皇が約24年間に渡り使用していた里内裏(平安宮内裏以外の邸宅を天皇の在所として用いたもの)があったところです。10世紀頃は具平(ともひら)親王の邸宅で、12世紀には源師時の邸宅になり土御門第と呼ばれました。南北は上長者町・下長者町通、東西は烏丸通・室町通間の100メートル四方...
白峯神宮
京都市上京区今出川通にある白峯神宮のご祭神は、崇徳天皇と淳仁天皇。崇徳天皇は、鳥羽天皇の皇子としてご生誕、保安4年に第75代の天皇に即位されましたが、保元の乱により、讃岐に配流され、長寛2年に45歳で崩御、白峰山陵に奉葬されました。讃岐に配流されてからは、髪も剃らず、爪も切らずに日本国の大魔縁になって朝廷を呪い続けたと伝えられています。崩御されてから大火事や不穏な事件が頻繁に起きたため、崇徳天皇の祟...
崇徳院地蔵(人喰い地蔵)
京みやげの老舗・聖護院八ツ橋の本店近くの積善院内にある崇徳院地蔵は通称・人喰い地蔵とも呼ばれています。保元の乱に敗れた崇徳上皇は、兄の後白河や清盛によって讃岐に流され、その地で都を呪いながら1164年に亡くなりました。その頃、京では大火や流行り病が続き、清盛も高熱の病で亡くなったため、上皇の祟りと恐れられました。崇徳の怒りを鎮めようと地蔵尊が造られましたが、「崇徳院」がなまっていつしか「人喰い」地蔵と...
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