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2023.08/28 [Mon]
大坂城と豊臣時代の石垣の遺構
大阪城は、天正11年(1583)、石山本願寺跡に豊臣秀吉によって築かれ、豊臣氏の本拠となりました。
豊臣氏滅亡後は、徳川幕府によって再建され、現在は、「大坂城跡」として国の特別史跡に指定されています。
豊臣時代の大天守は、外観5層で、鯱瓦や飾り瓦、軒丸瓦、軒平瓦などに黄金をふんだんに用い、奥御殿の内部もまた金銀の装飾に溢れ、大坂城を訪れた大友宗麟は、あまりの豪華さに驚き、「三国無双の城である」と称えたといいます。
しかし、秀吉の大坂城は、大坂夏の陣で落城、天守閣は焼失しました。
現在の石垣は、徳川秀忠が再築したもので、秀吉時代の石垣は地中に埋められ、その上に徳川の石垣や新たな天守閣が造られました。
大坂の陣で埋め立てられた秀吉時代の大坂城の遺構は、大阪城公園や周辺のビルや道路の地下に埋没したままでしたが、1959年、豊臣の石垣の一部が本丸の地下約7mから見つかりました。
以来大阪城公園周辺で部分的に発掘された後、復元されているところがありますす。
2001年の大阪城天守閣復興70周年の記念イベントでは、「謎の石垣を公開」として、昭和34年の発掘調査によって発見された豊臣時代の大阪城の石垣遺構を30年ぶりに一般公開されました。
大阪城を見学した際、発掘&復元された秀吉時代の城壁を追って歩いてみました。
地下鉄天満橋から東へ5分ほどのところに、ドーンセンターがあります。
ドーンセンター北面の石垣大阪城三の丸は豊臣秀吉が大阪城の防御強化のため、1万7千もの民家を城外へ強制移転させて1598(慶長3)年に建設したものでしたが、大阪冬の陣の講和の条件として取り壊され、地中に埋められました。 1989(平成元)年、ドーンセンター建設工事に伴う発掘調査で三の丸の石垣と考えられる石積が地下約2mのところから東西21mにわたって発掘されました。秀吉時代の石積みとしては非常に保存状態の良いものだそうで、ドーンセンター北側に発掘されたままの形で復元されています。現在の高さは最高で3.3mですが、崩れ落ちている部分もあり、高さは5mm以上と推定されます。石は、生駒山系と六甲山系の花崗岩が用いられ、野面積みで自然石を加工せずに形を考えながら積み上げています。(説明版参照)
なるほど現在の大阪城の石垣とはまるで違いますね。
また、追手門学院小学校の東側外塀にも移設復元された豊臣時代の三の丸の石垣の一部があります。これは校舎の立替工事の際に発見されたもので、この学校の地下にも発掘されたままの状態で石垣が保存されているそうです。
追手門学院小学校の石垣
ドーンセンターの石垣遺構の斜め前に当たる日本経済新聞社前にも石垣の遺構があります。
日本経済新聞社前の石垣
これは、豊臣時代のものでなく、徳川幕府による再建時のものです。
案内板によると、日経新社屋の建設工事時に発見され、発掘調査の後、現在の場所に移築、復元されました。石材は、大阪城の現存する石垣と同様であり、諸大名の家紋を示す刻印も見つかりました。元和元(1620)年の大阪城再築のころ、城北の惣掘に見立てられた旧大和川と淀川との合流付近の旧大和川左岸の護岸用石垣として築かれたものと推定されたそうです。
朝日新聞によると、「将来的には、本丸内にある旧市立博物館の地下室から深さ約10m、全長約100mの地下通路を造り、豊臣の石垣を常時展示する計画(総事業費13億5千万円)も構想している」そうです。 また、毎日新聞によると、「秀吉時代の石垣を発掘し、観光資源として公開することで、観光客を誘致する。また、織豊時代の風俗を反映した建物を商業施設として建設し、民間企業が運営することも検討している。」そうです。
冬の陣講和後、徳川方による城の外郭破壊がどれだけのものであったか、この遺構からも窺えますね。
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豊臣氏滅亡後は、徳川幕府によって再建され、現在は、「大坂城跡」として国の特別史跡に指定されています。
豊臣時代の大天守は、外観5層で、鯱瓦や飾り瓦、軒丸瓦、軒平瓦などに黄金をふんだんに用い、奥御殿の内部もまた金銀の装飾に溢れ、大坂城を訪れた大友宗麟は、あまりの豪華さに驚き、「三国無双の城である」と称えたといいます。
しかし、秀吉の大坂城は、大坂夏の陣で落城、天守閣は焼失しました。
現在の石垣は、徳川秀忠が再築したもので、秀吉時代の石垣は地中に埋められ、その上に徳川の石垣や新たな天守閣が造られました。
大坂の陣で埋め立てられた秀吉時代の大坂城の遺構は、大阪城公園や周辺のビルや道路の地下に埋没したままでしたが、1959年、豊臣の石垣の一部が本丸の地下約7mから見つかりました。
以来大阪城公園周辺で部分的に発掘された後、復元されているところがありますす。
2001年の大阪城天守閣復興70周年の記念イベントでは、「謎の石垣を公開」として、昭和34年の発掘調査によって発見された豊臣時代の大阪城の石垣遺構を30年ぶりに一般公開されました。
大阪城を見学した際、発掘&復元された秀吉時代の城壁を追って歩いてみました。
地下鉄天満橋から東へ5分ほどのところに、ドーンセンターがあります。
ドーンセンター北面の石垣大阪城三の丸は豊臣秀吉が大阪城の防御強化のため、1万7千もの民家を城外へ強制移転させて1598(慶長3)年に建設したものでしたが、大阪冬の陣の講和の条件として取り壊され、地中に埋められました。 1989(平成元)年、ドーンセンター建設工事に伴う発掘調査で三の丸の石垣と考えられる石積が地下約2mのところから東西21mにわたって発掘されました。秀吉時代の石積みとしては非常に保存状態の良いものだそうで、ドーンセンター北側に発掘されたままの形で復元されています。現在の高さは最高で3.3mですが、崩れ落ちている部分もあり、高さは5mm以上と推定されます。石は、生駒山系と六甲山系の花崗岩が用いられ、野面積みで自然石を加工せずに形を考えながら積み上げています。(説明版参照)
なるほど現在の大阪城の石垣とはまるで違いますね。
また、追手門学院小学校の東側外塀にも移設復元された豊臣時代の三の丸の石垣の一部があります。これは校舎の立替工事の際に発見されたもので、この学校の地下にも発掘されたままの状態で石垣が保存されているそうです。
追手門学院小学校の石垣
ドーンセンターの石垣遺構の斜め前に当たる日本経済新聞社前にも石垣の遺構があります。
日本経済新聞社前の石垣
これは、豊臣時代のものでなく、徳川幕府による再建時のものです。
案内板によると、日経新社屋の建設工事時に発見され、発掘調査の後、現在の場所に移築、復元されました。石材は、大阪城の現存する石垣と同様であり、諸大名の家紋を示す刻印も見つかりました。元和元(1620)年の大阪城再築のころ、城北の惣掘に見立てられた旧大和川と淀川との合流付近の旧大和川左岸の護岸用石垣として築かれたものと推定されたそうです。
朝日新聞によると、「将来的には、本丸内にある旧市立博物館の地下室から深さ約10m、全長約100mの地下通路を造り、豊臣の石垣を常時展示する計画(総事業費13億5千万円)も構想している」そうです。 また、毎日新聞によると、「秀吉時代の石垣を発掘し、観光資源として公開することで、観光客を誘致する。また、織豊時代の風俗を反映した建物を商業施設として建設し、民間企業が運営することも検討している。」そうです。
冬の陣講和後、徳川方による城の外郭破壊がどれだけのものであったか、この遺構からも窺えますね。
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- [どうする家康:豊臣秀吉(どうする家康)]
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NoTitle
もともと大阪城は恥ずかしながら、
未だに一度も行った事が無いところで、
こうしてつぶさに見せていただいて、
いろいろと石垣もそう勉強になりました。
なにしろ秀吉の城だったんでしょうから・・。🤩