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2024.09/03 [Tue]
小倉百人一首を編纂した藤原定家ゆかりの嵯峨野(2)常寂光寺
小倉山山腹に位置する常寂光寺にも、藤原定家の小倉山荘跡と伝えられる場所があります。
常寂光寺は、慶長年間(1596〜1614)に大本山本圀寺第16世究竟院日禛上人により開創されました。
山門
江戸後期に改築されたもので、江戸中期出版の「都名所図会」には、袖に土塀をめぐらした薬医門が図示されています。
仁王門
仁王門は、もとは本圀寺客殿の南門として貞和年間(1345〜49)に建立されたものが元和二年(1616)に移築されました。 当寺の建築物の中で最も古い時代の茅葺屋根の建物。 仁王門像は、身の丈七尺、運慶の作と伝えられ、目と足腰の病にご利益があるとされています。
本堂へと続く階段を上って行きます。
本堂
本堂は、慶長年間に小早川秀秋の助力を得て、伏見桃山城客殿を移築し造営されました。
鐘楼
鐘楼は、寛永十八年 (1642) の建立。梵鐘は第二次世界大戦中徴資に遭い、現在の梵鐘は、昭和四十八年に青木一郎博士の音響設計により、古律黄鐘調の新鐘として鋳造されたもの。
こちらも人気の撮影スポットの銀杏の木
境内からは嵯峨野を一望できます。
赤、黄、緑に染まる常寂光寺の境内
多宝塔に向かって竹林の横の石段を上がっていきます。
多宝塔
国の重要文化財。元和6年(1620年)8月建立で、高さ12m、方三間、重層、宝形造、檜皮葺。
後世に復元された山荘の基礎石跡が多宝塔の西南上方に有り、現在は時雨亭跡の石碑が建てられています。
忍ばれむものともなしに小倉山軒端の松ぞ馴れて久しき
藤原定家
時雨亭跡
定家山荘の場所については、諸説ありますが、常寂光寺の仁王門北側から二尊院の南側に有ったと伝へられています。
この場所には、室町時代頃から定家卿の御神像を祀る祠が有りましたが、常寂光寺を創建する時に、定家卿の祠よりも上に寺の庫裏を建てるのは恐れ多いと現在の場所に遷座されました。 明治時代までは、小さな祠でしたが、明治23年に現在の大きさの建物に改築され、歌遷祠と呼ばれるようになりました。 歌遷祠の扁額は、富岡鐡齋の作。南隣に位置する時雨亭跡は、戦前までは庵室が建っていましたが、台風により倒壊してしまい、その後再建出来ず現在に至ります。 この庵室は、いつごろ建てられたか不明ですが、当山の古文書「双樹院日勝聖人傅」(1728年)の境内図には、この位置に庵が描かれています。
又、「都名所図会」(1780年発行)にも庵が図示されていることから、江戸時代中期には建てられていたことが分かります。
(常寂光寺HPより)
紅葉のトンネルを抜けて出口へ。
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常寂光寺は、慶長年間(1596〜1614)に大本山本圀寺第16世究竟院日禛上人により開創されました。
山門
江戸後期に改築されたもので、江戸中期出版の「都名所図会」には、袖に土塀をめぐらした薬医門が図示されています。
仁王門
仁王門は、もとは本圀寺客殿の南門として貞和年間(1345〜49)に建立されたものが元和二年(1616)に移築されました。 当寺の建築物の中で最も古い時代の茅葺屋根の建物。 仁王門像は、身の丈七尺、運慶の作と伝えられ、目と足腰の病にご利益があるとされています。
本堂へと続く階段を上って行きます。
本堂
本堂は、慶長年間に小早川秀秋の助力を得て、伏見桃山城客殿を移築し造営されました。
鐘楼
鐘楼は、寛永十八年 (1642) の建立。梵鐘は第二次世界大戦中徴資に遭い、現在の梵鐘は、昭和四十八年に青木一郎博士の音響設計により、古律黄鐘調の新鐘として鋳造されたもの。
こちらも人気の撮影スポットの銀杏の木
境内からは嵯峨野を一望できます。
赤、黄、緑に染まる常寂光寺の境内
多宝塔に向かって竹林の横の石段を上がっていきます。
多宝塔
国の重要文化財。元和6年(1620年)8月建立で、高さ12m、方三間、重層、宝形造、檜皮葺。
後世に復元された山荘の基礎石跡が多宝塔の西南上方に有り、現在は時雨亭跡の石碑が建てられています。
忍ばれむものともなしに小倉山軒端の松ぞ馴れて久しき
藤原定家
時雨亭跡
定家山荘の場所については、諸説ありますが、常寂光寺の仁王門北側から二尊院の南側に有ったと伝へられています。
この場所には、室町時代頃から定家卿の御神像を祀る祠が有りましたが、常寂光寺を創建する時に、定家卿の祠よりも上に寺の庫裏を建てるのは恐れ多いと現在の場所に遷座されました。 明治時代までは、小さな祠でしたが、明治23年に現在の大きさの建物に改築され、歌遷祠と呼ばれるようになりました。 歌遷祠の扁額は、富岡鐡齋の作。南隣に位置する時雨亭跡は、戦前までは庵室が建っていましたが、台風により倒壊してしまい、その後再建出来ず現在に至ります。 この庵室は、いつごろ建てられたか不明ですが、当山の古文書「双樹院日勝聖人傅」(1728年)の境内図には、この位置に庵が描かれています。
又、「都名所図会」(1780年発行)にも庵が図示されていることから、江戸時代中期には建てられていたことが分かります。
(常寂光寺HPより)
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- [光る君へ:藤原定家(光る君へ)]
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NoTitle
新緑や紅葉の時期に
よく足を運びました。
でも、もう紅葉の時期は
人が多くなりすぎて
ちょっと行きづらくなりましたわ。
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