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2024.08/26 [Mon]
平安貴族が愛した長谷寺(1)
奈良県桜井市初瀬(はせ)にある真言宗豊山派の総本山の寺院・長谷寺
初瀬山は牡丹の名所であり、4月下旬から5月上旬は150種類以上、7,000株といわれる牡丹が満開になり、当寺は古くから「花の御寺」と称されています。
牡丹に続いて、6月には紫陽花が見頃を迎え、境内の各所で紫陽花を楽しめます。
長谷寺は、朱鳥元(686)年、僧道明上人が天武天皇のために銅板法華説相図(国宝)を西の岡に安置したことが始まりとされています。
平安時代中期以降、観音霊場として貴族の信仰を集め、京都の清水、滋賀の石山寺とともに三観音のひとつに数えられました。
長谷寺を詣でることを「初瀬詣(はせもうで)」といい、平安貴族の間で「初瀬詣」が人気となり、藤原道長や清少納言など多くの貴族がこの地を訪れました。
清少納言や菅原孝標女も参詣の様子を記しています。
当時の貴族社会の様子を描いた『栄花物語』の作者の一人、赤染衛門の歌集にも長谷寺を訪ねたことが記されており、長谷寺から持ち帰った紅葉を枯らしてしまったことを嘆く歌など、初瀬詣に関するものを残しました。
赤染衛門は、源雅信邸に出仕し、藤原道長の正妻である源倫子のほか、その娘の藤原彰子に仕えており、紫式部・和泉式部・清少納言らとも親交があったといいます。
赤染衛門
赤染時用(ときもち)の女。母が初め平兼盛の妻だったので,兼盛女ともいわれる。藤原道長の妻倫子の女房となり,父が右衛門志(うえもんのさかん)や尉(じよう)であったので赤染衛門と呼ばれる。大江匡衡と結婚し,挙周(たかちか),江侍従をもうける。和泉式部,清少納言,紫式部,伊勢大輔らと交流し,《賀陽院水閣歌合》《弘徽殿女御十番歌合》などに出詠し,晴(はれ)の歌人として和泉式部よりも高く評価されることもあった。《拾遺集》以下の勅撰集に94首入集。家集《赤染衛門集》を残し,《栄華(花)物語》前編の作者にも擬されている。良妻賢母型の女で,匡衡が中納言を辞そうとしていた藤原公任に上表文の執筆を頼まれた際,公任の誇り高い性格に注目して,先祖の高貴さと現在の沈淪の様を記すよう助言し,その上表文が公任を喜ばせた話(《袋草紙》)や,息子の挙周が重病にかかったおりに,住吉に詣で〈代らむと思ふ命は惜しからでさても別れむほどぞ悲しき〉と詠んで神の感応を得て平癒させたという話(《今昔物語集》)が伝わっている。(コトバンクより)
万寿元年(1024年)には藤原道長が参詣しており、中世以降は武士や庶民にも信仰を広めました。
江戸時代には徳川家の崇敬を集め、帰依を受けて栄えました。
長谷寺略縁起
当山は朱鳥元年(西暦686年)天武天皇の御願により道明上人によって創建され、それより約五十年の後、徳道上人が聖武天皇の勅願をうけ、楠の霊木をもって十一面観音菩薩の尊像を造立し、大伽藍を建立してお祀りになりました。
ご本尊は御身丈三丈三尺(十メートル余)、右手に錫杖を持ち、大磐石の上に立つお姿で、霊験あらかたなことはつとに有名であり、古典文学の代表である源氏物語や枕草子などにも「初瀬詣」として語られています。
また長谷観音の信仰は全国に広まり、ご分身を奉祀する寺院は鎌倉の長谷寺など百数十ヶ寺を数えます。
花山法皇は当山に深く帰依され
「いくたびも まいる心は はつせ寺 山も誓いも 深き谷川」
と一首を詠んでたたえられました。
観音の慈悲、伽藍の荘厳、加えて春の桜、初夏の牡丹など四季おりおりの美しさはいずれも天下の景勝地にふさわしく、万葉の昔から「隠国の初瀬」として歌枕の地にもなりました。
さらに西国三十三所観音霊場の第八番札所であり、また末寺三千余、檀信徒二百万を有する真言宗豊山派の総本山であります。
(駒札より)
登廊
平安時代の長歴三年(1039)に春日大社の社司中臣信清が子の病気平癒の御礼に造ったもので、百八間、三九九段、上中下の三廊に分かれています。
下、中廊は明治二十七年(1894)再建で、長谷型の灯籠が吊るされています。
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初瀬山は牡丹の名所であり、4月下旬から5月上旬は150種類以上、7,000株といわれる牡丹が満開になり、当寺は古くから「花の御寺」と称されています。
牡丹に続いて、6月には紫陽花が見頃を迎え、境内の各所で紫陽花を楽しめます。
長谷寺は、朱鳥元(686)年、僧道明上人が天武天皇のために銅板法華説相図(国宝)を西の岡に安置したことが始まりとされています。
平安時代中期以降、観音霊場として貴族の信仰を集め、京都の清水、滋賀の石山寺とともに三観音のひとつに数えられました。
長谷寺を詣でることを「初瀬詣(はせもうで)」といい、平安貴族の間で「初瀬詣」が人気となり、藤原道長や清少納言など多くの貴族がこの地を訪れました。
清少納言や菅原孝標女も参詣の様子を記しています。
当時の貴族社会の様子を描いた『栄花物語』の作者の一人、赤染衛門の歌集にも長谷寺を訪ねたことが記されており、長谷寺から持ち帰った紅葉を枯らしてしまったことを嘆く歌など、初瀬詣に関するものを残しました。
赤染衛門は、源雅信邸に出仕し、藤原道長の正妻である源倫子のほか、その娘の藤原彰子に仕えており、紫式部・和泉式部・清少納言らとも親交があったといいます。
赤染衛門
赤染時用(ときもち)の女。母が初め平兼盛の妻だったので,兼盛女ともいわれる。藤原道長の妻倫子の女房となり,父が右衛門志(うえもんのさかん)や尉(じよう)であったので赤染衛門と呼ばれる。大江匡衡と結婚し,挙周(たかちか),江侍従をもうける。和泉式部,清少納言,紫式部,伊勢大輔らと交流し,《賀陽院水閣歌合》《弘徽殿女御十番歌合》などに出詠し,晴(はれ)の歌人として和泉式部よりも高く評価されることもあった。《拾遺集》以下の勅撰集に94首入集。家集《赤染衛門集》を残し,《栄華(花)物語》前編の作者にも擬されている。良妻賢母型の女で,匡衡が中納言を辞そうとしていた藤原公任に上表文の執筆を頼まれた際,公任の誇り高い性格に注目して,先祖の高貴さと現在の沈淪の様を記すよう助言し,その上表文が公任を喜ばせた話(《袋草紙》)や,息子の挙周が重病にかかったおりに,住吉に詣で〈代らむと思ふ命は惜しからでさても別れむほどぞ悲しき〉と詠んで神の感応を得て平癒させたという話(《今昔物語集》)が伝わっている。(コトバンクより)
万寿元年(1024年)には藤原道長が参詣しており、中世以降は武士や庶民にも信仰を広めました。
江戸時代には徳川家の崇敬を集め、帰依を受けて栄えました。
長谷寺略縁起
当山は朱鳥元年(西暦686年)天武天皇の御願により道明上人によって創建され、それより約五十年の後、徳道上人が聖武天皇の勅願をうけ、楠の霊木をもって十一面観音菩薩の尊像を造立し、大伽藍を建立してお祀りになりました。
ご本尊は御身丈三丈三尺(十メートル余)、右手に錫杖を持ち、大磐石の上に立つお姿で、霊験あらかたなことはつとに有名であり、古典文学の代表である源氏物語や枕草子などにも「初瀬詣」として語られています。
また長谷観音の信仰は全国に広まり、ご分身を奉祀する寺院は鎌倉の長谷寺など百数十ヶ寺を数えます。
花山法皇は当山に深く帰依され
「いくたびも まいる心は はつせ寺 山も誓いも 深き谷川」
と一首を詠んでたたえられました。
観音の慈悲、伽藍の荘厳、加えて春の桜、初夏の牡丹など四季おりおりの美しさはいずれも天下の景勝地にふさわしく、万葉の昔から「隠国の初瀬」として歌枕の地にもなりました。
さらに西国三十三所観音霊場の第八番札所であり、また末寺三千余、檀信徒二百万を有する真言宗豊山派の総本山であります。
(駒札より)
登廊
平安時代の長歴三年(1039)に春日大社の社司中臣信清が子の病気平癒の御礼に造ったもので、百八間、三九九段、上中下の三廊に分かれています。
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大好きなお寺の一つです。
桜、新緑、牡丹、紫陽花、紅葉…
いつ行っても素晴らしいお寺です。
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