Entries
2023.08/25 [Fri]
小牧・長久手の戦い「血の池~鎧掛けの松~長久手城跡」
現在、血の池公園となっているところは、小牧・長久手の戦いの時、徳川家康方の家臣・渡辺守綱らが血のついた槍や刀を洗った池がありました。
この池には「毎年、合戦のあった4月9日に池の水が赤くなる。」という伝説が残り、「血の池」と呼ばれていました。
この池を埋め立て、整備されたのが、「血の池公園」で、住民の憩いの場になっています。
現在は池はありませんが、公園の中の低くなっているのが、池の名残りです。
公園の奥には、「血の池」で武器の洗い物をする時に、武将が鎧を掛けたといわれる「鎧掛けの松」があったといいます。
血の池公園から、200mほどのところにある長久手城跡は、徳川方の丹羽氏についた加藤太郎右衛門忠景の城館跡。
忠景は義弟岩崎城主丹羽氏次の留守を預かって、氏次の弟・氏重とともに池田軍を迎え撃ち奮戦しましたが、落城、戦死しました。
文化6年、城跡に加藤氏末裔の尾張藩士が碑を立てました。
なお、石碑は近年の区画整理のため、現在地に移っています。
長久手合戦史跡 長久手城趾
長久手城は、中世末期、長久手村を領有した加藤太郎右衛門忠景(1543~84)の居城です。
忠景は、16世紀の中頃、前領主斎藤氏の古城を修築して入城しその後、近隣の地侍らと親交を深め、姻戚を結びました。天正12年(1584)小牧・長久手の戦いの時には、家康に従った義弟岩崎城主丹羽氏次の留守を預かって奮戦しましたが池田隊の多勢に敗れ、城兵230余名もろともに戦死しました。城は後に民家になり、荒れ果てましたが、文化6年(1809)忠景子孫の尾張藩士が当地を訪れ、宅跡の観音堂脇に石標を立て、供養しました。
にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。
応援よろしくお願いします!
にほんブログ村
歴女日記ブログランキングに参加しています。
ご協力お願いしますm(__)m
歴女日記ランキング
この池には「毎年、合戦のあった4月9日に池の水が赤くなる。」という伝説が残り、「血の池」と呼ばれていました。
この池を埋め立て、整備されたのが、「血の池公園」で、住民の憩いの場になっています。
現在は池はありませんが、公園の中の低くなっているのが、池の名残りです。
公園の奥には、「血の池」で武器の洗い物をする時に、武将が鎧を掛けたといわれる「鎧掛けの松」があったといいます。
血の池公園から、200mほどのところにある長久手城跡は、徳川方の丹羽氏についた加藤太郎右衛門忠景の城館跡。
忠景は義弟岩崎城主丹羽氏次の留守を預かって、氏次の弟・氏重とともに池田軍を迎え撃ち奮戦しましたが、落城、戦死しました。
文化6年、城跡に加藤氏末裔の尾張藩士が碑を立てました。
なお、石碑は近年の区画整理のため、現在地に移っています。
長久手合戦史跡 長久手城趾
長久手城は、中世末期、長久手村を領有した加藤太郎右衛門忠景(1543~84)の居城です。
忠景は、16世紀の中頃、前領主斎藤氏の古城を修築して入城しその後、近隣の地侍らと親交を深め、姻戚を結びました。天正12年(1584)小牧・長久手の戦いの時には、家康に従った義弟岩崎城主丹羽氏次の留守を預かって奮戦しましたが池田隊の多勢に敗れ、城兵230余名もろともに戦死しました。城は後に民家になり、荒れ果てましたが、文化6年(1809)忠景子孫の尾張藩士が当地を訪れ、宅跡の観音堂脇に石標を立て、供養しました。
にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。
応援よろしくお願いします!
にほんブログ村
歴女日記ブログランキングに参加しています。
ご協力お願いしますm(__)m
歴女日記ランキング
NoTitle
長久手にはこんな公園が残ってるんでしたか。
このようなところ訪れたらこれはと、
何かと調べてみたくなり興味も湧いて来て、
歴史が当時の出来事が偲ばれてきますから、
知らず知らずのうちにわかってきて頼もしくなります・・。🤩