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2023.08/24 [Thu]
小牧・長久手の戦い「色金山~御旗山~堀久太郎秀政本陣跡」
小牧山を出た徳川家康は、矢田川を渡り、名古屋市守山区の辺りから東へ回り込み、色金山に達しました。
この山の山頂から四方を見渡しながら軍議を行ったといわれています。
その時に家康が腰掛けたといわれる「床机石」が、今でも山頂に残されています。
色金山歴史公園は、家康が軍議を開いた国指定史跡「色金山」を公園として整備したところで、山頂に至るまでに、様々な碑があります。
家康方の武将で鴉ヶ廻間で戦死した伴若狭守盛兼の墓碑
床机石(しょうぎいし)
小牧・長久手の戦いにて、秀吉方岡崎別働隊を追って北方から進軍してきた家康軍が軍を止め、山頂の巨石を床机がわりに軍議を開いたといわれています。
その巨石「床机石」が今でも残され、傍らに宝永3(1706)年の福富親茂の碑、明治43(1910)年の地元有志の漢文碑があります。
展望台
色金山に兵を進めた徳川家康は、羽柴秀吉方の様子を伺いながら、この御旗山に進軍し、頂上に金扇の馬標を立てました。
後年、地元の人々がまつった富士社が山頂にあり、その拝殿前に「御旗山」と記す石柱があります。
天正12年(1584)4月9日、色金山に兵を進めた家康は、そこで家康方の大須賀康高・榊原康政らの先遣隊が、白山林で秀吉方の三好秀次隊を破ったことを知りました。しかしその後、先遣隊は桧ヶ根山麓で、秀吉方の堀秀政隊に敗れ、敗走を始めました。家康は直ちに救援を決め、南方岩崎放面(日進市)にいる秀吉方の池田・森隊の様子をうかがいながら御旗山に進軍し、頂上に金扇の馬標を立てました。
御旗山は後年、地元の人々によって富士浅間神社(現・富士社)がまつられるようになり、富士ヶ根とも呼ばれるようになりました。
長久手教育委員会
一方、白山林の戦いでの羽柴秀次勢の敗走を知った堀秀政は、直ちに引き返し、長久手の桧ケ根(ひのきがね)の丘陵に陣を敷き、徳川軍を待ち構えました。すると、まもなく白山林の戦いで勝利した徳川軍が攻め込んできて、攻撃し始めましたが、地の利を得た堀勢は徳川軍を総攻撃し、徳川の先発隊は多数の死者を出しました。その数280余とも500人とも。
桧ヶ根には、現在「長久手中央図書館」が建っています。
堀久太郎秀政本陣跡は図書館の東側にあります。
秀吉方岡崎別働隊の軍監だった堀秀政が、徳川勢を撃つために陣を張った地とされます。
「堀久太郎秀政本軍地」と刻む碑の当初の設置年・位置・造立者は不明ですが、昭和45年に桧ケ根山頂に置かれ、区画整理で若干移動して現在位置に立てられました。(長久手市商工会HPより)
堀久太郎秀政(ほりきゅうたろうひでまさ)本陣地跡
この本陣地跡は、天正12年(1584)小牧・長久手の戦いの折り、秀吉方武将堀秀政が桧ヶ根の戦闘で本陣を布いた所です。
堀秀政(1553~90)は、初め美濃の斎藤氏の家人でしたが、後信長に仕え、信長の死後は秀吉に属して戦い、山崎や賤ヶ岳の戦いの戦功によって秀吉から佐和山城9万石を与えられました。小牧・長久手の戦いでは、秀吉方の軍監(ぐんかん いくさめつけ)として進軍し、桧ヶ根の戦闘で榊原康政(さかきばらやすまさ)、大須賀康高(おおすがやすたか)ら家康方の追撃隊を撃ち破りました。
当時の桧ヶ根は標高81.2m。山頂に立てば北から進軍して来る家康軍と、南に先行する味方の池田・森隊の両軍が同時に見渡される恰好の場所でした。
1992 長久手町教育委員会
堀秀政
安土(あづち)桃山時代の武将。通称久太郎。曽祖父(そうそふ)の代から斎藤氏に仕え、美濃(みの)国茜部(あかなべ)(岐阜市)で誕生。のち織田信長に仕官。1577年(天正5)の紀伊雑賀(さいか)攻めに従軍。79年の安土宗論では浄厳院(じょうごんいん)を警固。80年安土城下の埋立地を宣教師の会堂と住院に与えた奉行人(ぶぎょうにん)の一人。81年伊賀平定作戦に従い、翌年甲州遠征に従軍。また安土城で徳川家康の接待役を勤める。山崎の合戦以後、羽柴(はしば)(豊臣(とよとみ))秀吉に属した。83年の賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いに功をたて、近江(おうみ)佐和山(さわやま)で9万石。翌年小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦いに家康の将榊原康政(さかきばらやすまさ)らを撃破。85年従(じゅ)四位下、侍従。左衛門督(さえもんのかみ)。羽柴の氏と豊臣の姓を受領。この年越前北庄(えちぜんきたのしょう)(福井市)に移封。小田原遠征の陣中で病死。墓は福井市の長福寺。(コトバンクより)
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この山の山頂から四方を見渡しながら軍議を行ったといわれています。
その時に家康が腰掛けたといわれる「床机石」が、今でも山頂に残されています。
色金山歴史公園は、家康が軍議を開いた国指定史跡「色金山」を公園として整備したところで、山頂に至るまでに、様々な碑があります。
家康方の武将で鴉ヶ廻間で戦死した伴若狭守盛兼の墓碑
床机石(しょうぎいし)
小牧・長久手の戦いにて、秀吉方岡崎別働隊を追って北方から進軍してきた家康軍が軍を止め、山頂の巨石を床机がわりに軍議を開いたといわれています。
その巨石「床机石」が今でも残され、傍らに宝永3(1706)年の福富親茂の碑、明治43(1910)年の地元有志の漢文碑があります。
展望台
色金山に兵を進めた徳川家康は、羽柴秀吉方の様子を伺いながら、この御旗山に進軍し、頂上に金扇の馬標を立てました。
後年、地元の人々がまつった富士社が山頂にあり、その拝殿前に「御旗山」と記す石柱があります。
天正12年(1584)4月9日、色金山に兵を進めた家康は、そこで家康方の大須賀康高・榊原康政らの先遣隊が、白山林で秀吉方の三好秀次隊を破ったことを知りました。しかしその後、先遣隊は桧ヶ根山麓で、秀吉方の堀秀政隊に敗れ、敗走を始めました。家康は直ちに救援を決め、南方岩崎放面(日進市)にいる秀吉方の池田・森隊の様子をうかがいながら御旗山に進軍し、頂上に金扇の馬標を立てました。
御旗山は後年、地元の人々によって富士浅間神社(現・富士社)がまつられるようになり、富士ヶ根とも呼ばれるようになりました。
長久手教育委員会
一方、白山林の戦いでの羽柴秀次勢の敗走を知った堀秀政は、直ちに引き返し、長久手の桧ケ根(ひのきがね)の丘陵に陣を敷き、徳川軍を待ち構えました。すると、まもなく白山林の戦いで勝利した徳川軍が攻め込んできて、攻撃し始めましたが、地の利を得た堀勢は徳川軍を総攻撃し、徳川の先発隊は多数の死者を出しました。その数280余とも500人とも。
桧ヶ根には、現在「長久手中央図書館」が建っています。
堀久太郎秀政本陣跡は図書館の東側にあります。
秀吉方岡崎別働隊の軍監だった堀秀政が、徳川勢を撃つために陣を張った地とされます。
「堀久太郎秀政本軍地」と刻む碑の当初の設置年・位置・造立者は不明ですが、昭和45年に桧ケ根山頂に置かれ、区画整理で若干移動して現在位置に立てられました。(長久手市商工会HPより)
堀久太郎秀政(ほりきゅうたろうひでまさ)本陣地跡
この本陣地跡は、天正12年(1584)小牧・長久手の戦いの折り、秀吉方武将堀秀政が桧ヶ根の戦闘で本陣を布いた所です。
堀秀政(1553~90)は、初め美濃の斎藤氏の家人でしたが、後信長に仕え、信長の死後は秀吉に属して戦い、山崎や賤ヶ岳の戦いの戦功によって秀吉から佐和山城9万石を与えられました。小牧・長久手の戦いでは、秀吉方の軍監(ぐんかん いくさめつけ)として進軍し、桧ヶ根の戦闘で榊原康政(さかきばらやすまさ)、大須賀康高(おおすがやすたか)ら家康方の追撃隊を撃ち破りました。
当時の桧ヶ根は標高81.2m。山頂に立てば北から進軍して来る家康軍と、南に先行する味方の池田・森隊の両軍が同時に見渡される恰好の場所でした。
1992 長久手町教育委員会
堀秀政
安土(あづち)桃山時代の武将。通称久太郎。曽祖父(そうそふ)の代から斎藤氏に仕え、美濃(みの)国茜部(あかなべ)(岐阜市)で誕生。のち織田信長に仕官。1577年(天正5)の紀伊雑賀(さいか)攻めに従軍。79年の安土宗論では浄厳院(じょうごんいん)を警固。80年安土城下の埋立地を宣教師の会堂と住院に与えた奉行人(ぶぎょうにん)の一人。81年伊賀平定作戦に従い、翌年甲州遠征に従軍。また安土城で徳川家康の接待役を勤める。山崎の合戦以後、羽柴(はしば)(豊臣(とよとみ))秀吉に属した。83年の賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いに功をたて、近江(おうみ)佐和山(さわやま)で9万石。翌年小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦いに家康の将榊原康政(さかきばらやすまさ)らを撃破。85年従(じゅ)四位下、侍従。左衛門督(さえもんのかみ)。羽柴の氏と豊臣の姓を受領。この年越前北庄(えちぜんきたのしょう)(福井市)に移封。小田原遠征の陣中で病死。墓は福井市の長福寺。(コトバンクより)
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- [どうする家康:徳川家康(どうする家康)]
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知らないだけでこんなところがある。
恐れ入りました長久手。
もともと長久手をそんなに知りませんから、
ごもっとも話ではありますが、
たいへん勉強になりありがとうございます・・。🤩