私は自転車で知らない土地を走りたい・・・という理念で旅行してるので、必然的に長期旅行になってしまった人であり、海外旅行という楽しみにおいてその期間が「長い・短い」ということには関心の薄いタイプだと思ってる。思ってるだけで周囲からどう見られてるのかは知らん。
・・・というのは出会うなり第一声で旅行期間や訪問国数を声高に歌ってくる旅行者がいる(聞いてくる人も多い)からで、海外旅行でそんな数字の大小に何の意味があるのだ?とか私は思ってしまう。その土地でどういう体験をして何を思ったか・・・というのが大切じゃないか。
ヨーロッパ20カ国を1週間で周遊することと、アラスカという1地域を同じ期間散策することは旅行の価値という点で優劣つけるものでは無いはずなのに、訪問国という数字で比較すると前者は20倍凄い!ということになってしまう。
旅行期間というのも同じことで、酒飲んでクダ巻いてたり安宿に籠ってダラけ続けてる「外篭り」状態の長期旅行者は存外多い。その行動自体は個人での旅行だし好きにすれば良いと思うが、少なくともその状態で長期滞在してることは誇らしく言うべきでは無いだろう。
・・・とまぁ私はそういうスタンスなのだが、それでも長期的な旅行でないと見えてこないモノもあるとは思う。その土地でゆっくりと時間をかけることで見えたり気づけたりすることは確かにあるのだ。
日々の生活において「自分の目でじっくりと見る」という行為は普段それほどしていないと思うことがある。日常生活で毎日たくさんのモノを見ているけれど、それは「見たいから見ている」のではなく「見なくちゃいけないから見ている」モノだ。
電車に乗っていて次々と流れてくる景色をただ目で追っている・・・という感じだ。自分の目で見ようとしているのではなく、ただ目で追いかけてるだけの「見ているけど見えてない」状態。
旅行中でもそういうことはたくさんある。下手すりゃ世界遺産となってる建造物とか見ても、ガイドとの情報を照らし合わせるのに精一杯で、巡ってくる景色を確認してるだけになってしまうこともあろう。短期旅行ってのは時間が限られてるのだから尚のこと。
時間がある・・・というのは対象を見ることで色々考える余裕があるということだ。観光地や遺跡、国立公園等々何でも良いのだが、対象をじっくり眺めて想像を膨らませるという行為はなかなか大変なのである。
というのも日本と歴史も価値観も異なる場所で見る景色は、私の(日本人の)基準やノウハウを当てはめて簡単に理解したり処理するのは難しいから。
だから色々なことを想像しその光景を「よく見て」自分なりに情報を解釈しなくてはならない。これは結構疲れることなんだけど、ただ情報を受け取る旅行よりずっと旅行という行為が楽しくなる。そして他の誰のでもない「自分の旅行」になる。
もっといえば、そうして旅行を続けると自分が旅行に対して何を求めているのかが徐々に見えてくる。海外旅行が好き、という人はそれなりの数いると思うが、海外旅行の何が具体的に好き?というのをクッション置かず答えることができるのは、それなりに旅行を経験した人ではなかろうか?
そんなワケで私は自分の旅行を語るとき「自分の目で見て(体験して)思ったこと」に焦点を当てたいと考えてる。そうした実体験と、拙かろうが何だろうがそこで自分で感じた思いこそが旅行における価値であり、意義であると思ってるからだ。
余談だが私は自分が訪れた国の数が幾つなのか知らないし、偶さか訪問国数を数えても直ぐに忘れてしまう。これが同じ数字であっても累計走行距離はバッチリ覚えているあたり、私が海外旅行において何を大切に思ってるかがよく分かるよね。