非常によくまとまった記事だと思う。
だから20代男性の4割が「デート経験ゼロ」に…「恋愛は嫌だが、男友達とのBBQなら行く」日本の若者の生きづらさ
内閣府の『男女共同参画白書』によれば、20代男性のおよそ7割、女性のおよそ5割が「配偶者・恋人はいない」状態にある。文筆家の御田寺圭さんは、「恋愛をすること、あるいはだれかとの恋愛関係が成就する確率を高めようと努力することそれ自体が、とくに男性にとって不道徳的で非倫理的な営みとなってしまっている」という
令和4年版の『男女共同参画白書』によれば、20代男性のおよそ7割、女性のおよそ5割が「配偶者・恋人はいない」と回答し、さらに驚くべきことに、20代男性のおよそ4割が「これまでデートした人数」についてゼロと答えた。
この国ではお見合いを利用した結婚がほとんどなくなり、恋愛結婚が基本となっている。そのため、当然ながら恋愛がなくなってしまえばそれに連動する形で婚姻数も減少してしまう。また日本は婚姻関係が出生にも強く結びついている(婚外子がきわめて少ない)ため、婚姻数の減少はそのまま出生数の減少にもダイレクトに影響する。
恋愛結婚が基本になっており、なおかつ法律婚の夫婦間からの出生がほとんどであるということは、日本の少子化を考える上で大前提と言えるだろう。
若者たちは恋愛をしなくなった。恋愛したいとも考えなくなった。
ただしそれは、お金がないからとか、忙しいからとか、そういうことではない。恋愛をすること、あるいはだれかとの恋愛関係が成就する確率を高めようと努力することそれ自体が、とくに男性にとって不道徳的で非倫理的な営みとなってしまっているからだ。
よりわかりやすくいえば、女性との恋愛関係が成就するまでのプロセスに「女の子からキモいと思われるかもしれないアプローチをしなければならない」とか「自分が好意を向けてしまうことで不快感や恐怖感を与えてしまうかもしれない」といった倫理的ジレンマが不可避的に存在しており、いまどきの若い男性はそれに耐えられなくなっているということだ。
よしんば社会の風潮や自らの良識にあえて逆らって加害的な実践をやりとげたところで、相手との関係が成就するかどうかもわからない。こうしたダブルバインドによる認知的ストレスがある一定のラインを超えたとき、若者たちにとって「恋愛はコスパが悪いからもういいや」となってしまったのである。
若い男性にとって女性との「恋愛関係」を目指すことによるうまみが減りしんどさが増す一方で、男同士の遊びの関係は昔と変わらない姿のままであることも、恋愛離れに拍車をかけた。男同士の遊びのなかでは、異性との恋愛のような倫理的葛藤を感じる必要がなく、リラックスしたコミュニケーションを楽しめる。結果として、男同士のホモソーシャルな絆にコミットすることで得られる“楽しさ”が相対的にますます大きくなっていった。女性との積極的なかかわりを避ける男性も、気が置けない同性の友人同士で開催するバーベキューになら積極的に参加する。
昔は婚姻率も高かったし、後で出てくるような法的リスクも低かったので、男性も女性に積極的になる理由があった。しかし、今は、法的リスクがかなり大きくなっており、リスクを認識出来る男性ほど女性には関わらなくなっているのかもしれない。
それと、昔の男性は経済的にも余裕があったし、女性に関わっていかないといけないところもあったので、自分と女性との意識の違いを楽しめるところもあったかもしれない。しかし、今は国民の負担率も大きく、前にもあったが若い男性の可処分所得が下がっているので、女性との違いを楽しむ余裕もなく、娯楽の多様化もあり、少ないコストで確実なリターンのある遊びを選ぶようになっているんじゃないか? 結婚しろという圧力も下がったしさ。
これまで述べてきたように、恋愛することそれ自体が不道徳的で反倫理的な営為となり、認知的にもストレスフルなのに、成功が十分に保証されているわけでもないという、若者たちにとってはきわめて「コスパ」の悪い営みになってしまっている。
わが国では2023年7月からの刑法改正により、旧来の「強制性交罪」から「不同意性交罪」に改められた。「望ましくない性的関係」に対する制裁を重くする流れもまた、若者たちにとっての恋愛の「コスパの悪さ」に拍車をかけている。
女性に対して侵襲的でも加害的でもなく、キモさや不快感も惹起しないようなスマートなコミュニケーションは、一朝一夕で手に入れられるものではない。数えきれないほどのトライ&エラーによってしか獲得しえない。
だが「エラー」がひとたび起こってしまったときに生じる法的・社会的な制裁を致命的なまでに高めてしまえば、当然だれもトライしなくなる。なにをもって「同意」とするのか、その線引きや基準がきわめて不明瞭なまま議論が進む不同意性交罪は、まさに「エラー」を致死的にする施策に他ならない。
この点に関しては、異性とのコミュニケーションを男女ともに実践できるような自動車学校のような制度を作るべきだという気もする。
結局、男性から女性へのアプローチの規制や不同意性交罪のあいまいさがどこから生じているかと言うと、女性の意見ばかり採り入れているからなんじゃないかと思う。女性がこれがキモいとか言うのを男女平等の推進という理由でどんどん採り入れていく一方、男性からのアプローチについて考えないから、男性からしたら「こんなに規制されるならもう女性にアプローチ出来ない」となってしまう。ここで、男性の意見を聞く機会があれば良いのだが、結婚や恋愛、セクハラなんかについては、男性の意見をかえりみないので、アプローチしようとする適法な男性をどう保護するかという観点が決定的に欠けている。そういう意味では、男性は下手に女性にアプローチしない方がいいというのはそれなりに合理的な意見だと思うわ。男性を保護する視点が欠けている制度がまかり通っているからな。
不同意性交罪の基準のあいまいさについての懸念に対して、寺田静参議院議員は「後から何か言われたらどうしようという懸念が残るうちは行為に及ばなければいいだけです」とコメントしているが、恋愛関係になって性交することができても、それすら(あとから両者の関係がのちに悪化してしまうなどによって)事後的に「あれはじつは不同意だった」と言われれば極大の法的・社会的リスクになってしまうような状況になれば、いったいだれがそんなハイリスクな営みにコミットするだろうか。
ここもその通りで、そもそも美人局なんて犯罪もあるわけだから、合意を装って後から不同意だったと女性が言う可能性は法改正の前から十分に想定できるはずだ。こんな不完全な法律が出来るとどうなるかと言うと、結局、適法な行為でも自粛することになる。これは俺の妄想ではなく、萎縮効果という言葉が実際にある。
さらに根本的なことを言えば、「ありとあらゆるリスクを排除して、女性に対して加害的にならないよう細心の注意を払いながら、おそるおそる恋愛にコミットする細々とした態度の繊細な男性」に対して女性が好意を抱くかどうかはまったく別問題である。
……はっきり言ってしまえば、あまり好意を抱かないだろう。あえて言葉を選ばずいえば、そんなみみっちい男のことを、女性は魅力に感じないはずだ。
「いちおう確認だけど、これはセーフだよね?」「後でトラブルにならないために尋ねるけど、これは合意だよね?」「念のために訊いておきたいんだけど、これって嫌じゃないよね?」など、いちいち言質を取るような男性のことを喜ばず、それこそかえって「キモく」感じてしまうこと請け合いだ。これは女性にとって、男性との恋愛関係で得られる「楽しさ」を減らすことになり、結果的に男性との恋愛に対して魅力を感じなくなってしまう。
だから20代男性の4割が「デート経験ゼロ」に…「恋愛は嫌だが、男友達とのBBQなら行く」日本の若者の生きづらさ
内閣府の『男女共同参画白書』によれば、20代男性のおよそ7割、女性のおよそ5割が「配偶者・恋人はいない」状態にある。文筆家の御田寺圭さんは、「恋愛をすること、あるいはだれかとの恋愛関係が成就する確率を高めようと努力することそれ自体が、とくに男性にとって不道徳的で非倫理的な営みとなってしまっている」という
令和4年版の『男女共同参画白書』によれば、20代男性のおよそ7割、女性のおよそ5割が「配偶者・恋人はいない」と回答し、さらに驚くべきことに、20代男性のおよそ4割が「これまでデートした人数」についてゼロと答えた。
この国ではお見合いを利用した結婚がほとんどなくなり、恋愛結婚が基本となっている。そのため、当然ながら恋愛がなくなってしまえばそれに連動する形で婚姻数も減少してしまう。また日本は婚姻関係が出生にも強く結びついている(婚外子がきわめて少ない)ため、婚姻数の減少はそのまま出生数の減少にもダイレクトに影響する。
恋愛結婚が基本になっており、なおかつ法律婚の夫婦間からの出生がほとんどであるということは、日本の少子化を考える上で大前提と言えるだろう。
若者たちは恋愛をしなくなった。恋愛したいとも考えなくなった。
ただしそれは、お金がないからとか、忙しいからとか、そういうことではない。恋愛をすること、あるいはだれかとの恋愛関係が成就する確率を高めようと努力することそれ自体が、とくに男性にとって不道徳的で非倫理的な営みとなってしまっているからだ。
よりわかりやすくいえば、女性との恋愛関係が成就するまでのプロセスに「女の子からキモいと思われるかもしれないアプローチをしなければならない」とか「自分が好意を向けてしまうことで不快感や恐怖感を与えてしまうかもしれない」といった倫理的ジレンマが不可避的に存在しており、いまどきの若い男性はそれに耐えられなくなっているということだ。
よしんば社会の風潮や自らの良識にあえて逆らって加害的な実践をやりとげたところで、相手との関係が成就するかどうかもわからない。こうしたダブルバインドによる認知的ストレスがある一定のラインを超えたとき、若者たちにとって「恋愛はコスパが悪いからもういいや」となってしまったのである。
若い男性にとって女性との「恋愛関係」を目指すことによるうまみが減りしんどさが増す一方で、男同士の遊びの関係は昔と変わらない姿のままであることも、恋愛離れに拍車をかけた。男同士の遊びのなかでは、異性との恋愛のような倫理的葛藤を感じる必要がなく、リラックスしたコミュニケーションを楽しめる。結果として、男同士のホモソーシャルな絆にコミットすることで得られる“楽しさ”が相対的にますます大きくなっていった。女性との積極的なかかわりを避ける男性も、気が置けない同性の友人同士で開催するバーベキューになら積極的に参加する。
昔は婚姻率も高かったし、後で出てくるような法的リスクも低かったので、男性も女性に積極的になる理由があった。しかし、今は、法的リスクがかなり大きくなっており、リスクを認識出来る男性ほど女性には関わらなくなっているのかもしれない。
それと、昔の男性は経済的にも余裕があったし、女性に関わっていかないといけないところもあったので、自分と女性との意識の違いを楽しめるところもあったかもしれない。しかし、今は国民の負担率も大きく、前にもあったが若い男性の可処分所得が下がっているので、女性との違いを楽しむ余裕もなく、娯楽の多様化もあり、少ないコストで確実なリターンのある遊びを選ぶようになっているんじゃないか? 結婚しろという圧力も下がったしさ。
これまで述べてきたように、恋愛することそれ自体が不道徳的で反倫理的な営為となり、認知的にもストレスフルなのに、成功が十分に保証されているわけでもないという、若者たちにとってはきわめて「コスパ」の悪い営みになってしまっている。
わが国では2023年7月からの刑法改正により、旧来の「強制性交罪」から「不同意性交罪」に改められた。「望ましくない性的関係」に対する制裁を重くする流れもまた、若者たちにとっての恋愛の「コスパの悪さ」に拍車をかけている。
女性に対して侵襲的でも加害的でもなく、キモさや不快感も惹起しないようなスマートなコミュニケーションは、一朝一夕で手に入れられるものではない。数えきれないほどのトライ&エラーによってしか獲得しえない。
だが「エラー」がひとたび起こってしまったときに生じる法的・社会的な制裁を致命的なまでに高めてしまえば、当然だれもトライしなくなる。なにをもって「同意」とするのか、その線引きや基準がきわめて不明瞭なまま議論が進む不同意性交罪は、まさに「エラー」を致死的にする施策に他ならない。
この点に関しては、異性とのコミュニケーションを男女ともに実践できるような自動車学校のような制度を作るべきだという気もする。
結局、男性から女性へのアプローチの規制や不同意性交罪のあいまいさがどこから生じているかと言うと、女性の意見ばかり採り入れているからなんじゃないかと思う。女性がこれがキモいとか言うのを男女平等の推進という理由でどんどん採り入れていく一方、男性からのアプローチについて考えないから、男性からしたら「こんなに規制されるならもう女性にアプローチ出来ない」となってしまう。ここで、男性の意見を聞く機会があれば良いのだが、結婚や恋愛、セクハラなんかについては、男性の意見をかえりみないので、アプローチしようとする適法な男性をどう保護するかという観点が決定的に欠けている。そういう意味では、男性は下手に女性にアプローチしない方がいいというのはそれなりに合理的な意見だと思うわ。男性を保護する視点が欠けている制度がまかり通っているからな。
不同意性交罪の基準のあいまいさについての懸念に対して、寺田静参議院議員は「後から何か言われたらどうしようという懸念が残るうちは行為に及ばなければいいだけです」とコメントしているが、恋愛関係になって性交することができても、それすら(あとから両者の関係がのちに悪化してしまうなどによって)事後的に「あれはじつは不同意だった」と言われれば極大の法的・社会的リスクになってしまうような状況になれば、いったいだれがそんなハイリスクな営みにコミットするだろうか。
ここもその通りで、そもそも美人局なんて犯罪もあるわけだから、合意を装って後から不同意だったと女性が言う可能性は法改正の前から十分に想定できるはずだ。こんな不完全な法律が出来るとどうなるかと言うと、結局、適法な行為でも自粛することになる。これは俺の妄想ではなく、萎縮効果という言葉が実際にある。
さらに根本的なことを言えば、「ありとあらゆるリスクを排除して、女性に対して加害的にならないよう細心の注意を払いながら、おそるおそる恋愛にコミットする細々とした態度の繊細な男性」に対して女性が好意を抱くかどうかはまったく別問題である。
……はっきり言ってしまえば、あまり好意を抱かないだろう。あえて言葉を選ばずいえば、そんなみみっちい男のことを、女性は魅力に感じないはずだ。
「いちおう確認だけど、これはセーフだよね?」「後でトラブルにならないために尋ねるけど、これは合意だよね?」「念のために訊いておきたいんだけど、これって嫌じゃないよね?」など、いちいち言質を取るような男性のことを喜ばず、それこそかえって「キモく」感じてしまうこと請け合いだ。これは女性にとって、男性との恋愛関係で得られる「楽しさ」を減らすことになり、結果的に男性との恋愛に対して魅力を感じなくなってしまう。
ここもおかしいところであって、本当は女性が意識を変えないといけない。つまり、「ありとあらゆるリスクを排除して、女性に対して加害的にならないよう細心の注意を払いながら、おそるおそる恋愛にコミットする細々とした態度の繊細な男性」に対して低評価をしないよう、女性が意識して変革しないといけないところのはずだ。男性に変われというのであれば、女性もそれに伴って変革を求められるはずなのに、その部分は野放しになっている。
これは、何度も書くように、結局のところ、男性の適法なアプローチを保護しようとか、男性側から見てどうなるかという視点が決定的に欠けているため、おかしなことになってしまうのだろう。女性の権利を主張する人々が、「女性の被害を避ける観点からすると、細かく確認をする男性こそ素晴らしい」とでも言って女性の意識改革を促すべきなのに、そんなこともしない。それは、男性がアプローチに困っているという視点や女性以外に時間を費やすコスパのいい娯楽がある、といったことを彼らが認識していないからだろう。
それと、「とにかく女性の権利を主張していれば、男性社会でもあるし、男性側から反発があるはず、男性を立場に立った反論は私たちのすることではない」とでも考えているのだろう。しかし、俺もこのブログを何年も続けているが、男性を保護しようとか男性の立場から反論しようという動きはとても少ない。結局、これが回り回って男性の女性にアプローチしようという意欲が下がり、結婚願望のある女性も結婚が難しくなっているのであるが、そういう観点はないんよな。
個人的には、告白やアプローチしてきた異性のことを多数の友人に話すのも良くないと思う。それは品のない行為であるというぐらいの社会的な空気があってもいいと思うが、SNSですぐに広めるよな。そんなことしたら、告白しにくくなるし、それ以前のアプローチもしにくくなる。
結婚や恋愛の問題も、面白いからとすぐに男女間の対立問題にしてしまうが、可処分所得が下がり、娯楽もたくさんあり、生身の人間に興味を持ちにくい時代の結婚難、恋愛難は、男女共通の課題であって、男女協力して向き合う問題なわけで、男女間の対立問題にしている余裕は全く無いし、もう手遅れな感も強いよな。