フランスのユダヤ教最高指導者の失脚
- 2014/01/04
- 01:47
「剽窃 → 失脚」の話の続きです。前回は2011年のドイツの話でしたが、今日はフランスの、2013年の話です。
今回の主人公は、2013年4月までフランス・ユダヤ教会の大ラビ(= 最高指導者)を勤めていたGilles Uriel Bernheim (ジル・ユリエル・ベルネムまたはジル・ユリエル・ベルナイム)氏です。氏は、嘘で固めた経歴がばれて、フランスのみならず欧米諸国とイスラエルのメディアを賑わしたのです。
氏がJean-François Lyotard、Jean-Marie Domenach、Jean Grosjean、Élie Wiesel、Charles Dobzynskiなど著名なフランス人論客の著作の抜粋を、引用だと断らずに、恰(あたか)も書き下しであるかのように自分の作品の中に取り込んで多数の論文を捏造していたことや、他人の書いた詩を自分が書いたことにして公の場で朗読し署名していたことなどが2013年3月7日から次第に公になりました。それと並行して、自分の著作にもウェブサイトにも経歴欄に「哲学教授資格がある」と書いていたのが真っ赤な嘘だということも周知のこととなりました。
数ヶ月前から疑惑があったのですが、氏は「学位詐称も剽窃もしていない」と言い張っていました。ところが、氏が哲学教授有資格者名簿に載っていないことを教育省が公表し、また歴然たる剽窃・盗作を次々に指摘されるに及んでしらばくれ続けることが不可能になりました。4月9日にはラジオ・シャロームのインタビューで学位詐称と「一件だけ」の剽窃を認めた上で辞職を断固拒否するという不可解な言動を見せました。ユダヤ教の長老会議がこれを黙認するはずも無く、二日後の11日には「強制休職」という名目の、事実上の強制辞職を言い渡されました。
その後、氏の剽窃の明るみに出る件数が鰻上(うなぎのぼ)りに増え、次第に稀代の剽窃・盗作常習犯であったことが明らかになりました。五月に入ってからも新規の剽窃発覚の報道が続きました。
世界中のユダヤ人にとって、この事件は大打撃です。単に「数あるフランスのユダヤ人の中に剽窃常習犯が一人見つかった」のではないのです。「自分たちは、詐欺師の正体を見破ることが出来ずにフランスの宗教最高指導者に選任してしまった馬鹿者揃いだった」ということなのです。また、「ユダヤ人は、一国の宗教最高指導者が率先して盗作やら学位詐称やらをする」と見做されることで非ユダヤ人の間の反ユダヤ感情が高まるのを恐れています。Gilles Uriel Bernheim氏は、自分が何をしでかしたか、弁えているのでしょうか。
ユダヤ教の教義に従えば、氏は、当然「最後の審判の日に地獄に堕ちる」ことになります。敬虔なユダヤ教徒だと仮定すると、自分が地獄行きだと知っていて自分の宗教の最高指導者になり、人倫はかくあるべきだ云々と偉そうなことを言って廻っていたことになります。
それとも、氏は、実は無宗教者なのでしょうか。無宗教者なら最後の審判も天国も信じないし地獄を恐れる理由もありません。無宗教者でありながら、ユダヤ教最高指導者の職を、単なる「社会的評価の高い食い扶持(ぶち)の一つ」と割り切って、冷徹にこなしていたのでしょうか。無宗教者が宗教職に就くのは、自己矛盾でもあり、信者に対して非礼で卑劣なことです。氏の名前でネット検索すると、顔写真もたくさん出て来ますし、ビデオも見つかります。フランス語の記事が一番多いようですが、多数の他の言語でも見つかります。
他人の著作の一部を引用する時に、「○○氏の○○という著作の引用だ」と断らないでさも自分が考え付いたことであるかのように書くのは、たとい本人にその意思が無かったとしても、間違いなく剽窃です。「知らなかった」で済むことではありません。
Bernheim氏は、一時期「ゴーストライターに書かせた。ゴーストが剽窃したことはあり得る」と言っていました。逃げ口上のつもりだったのでしょう。しかし、ゴーストライターが無断で剽窃したとしても、公の責任は、それを見逃した雇い主にあります。第一、ゴーストライターを雇うこと自体が不正直な行為です。
この事件に関して、F爺にはとても理解できないことが一つあります。2013年4月12日のラジオ・バチカンのフランス語版が
「この事件の後でも(= 夥(おびただ)しい剽窃・盗作と学位詐称を認めて辞職した後でも)Bernheim氏の著作に対するバチカンの評価は変わらない」と宣言したのです。
バチカンはBernheim氏の剽窃を引用してフランスなどの同性結婚法制化に反対する立場の論拠としていたのですが、「同性結婚法制化に反対する意見であれば剽窃であっても評価する」と言うのです。前号ではドイツのMerkel夫人の倫理感覚を疑いましたが、これではバチカンの倫理感覚も地に堕ちたと言わざるを得ません。もともとF爺は、「ローマ教皇は無謬である」などという馬鹿げた教義を振りかざす宗教は全く評価していないのですから「何も変わらない」という見方も出来ますが。
今回の主人公は、2013年4月までフランス・ユダヤ教会の大ラビ(= 最高指導者)を勤めていたGilles Uriel Bernheim (ジル・ユリエル・ベルネムまたはジル・ユリエル・ベルナイム)氏です。氏は、嘘で固めた経歴がばれて、フランスのみならず欧米諸国とイスラエルのメディアを賑わしたのです。
氏がJean-François Lyotard、Jean-Marie Domenach、Jean Grosjean、Élie Wiesel、Charles Dobzynskiなど著名なフランス人論客の著作の抜粋を、引用だと断らずに、恰(あたか)も書き下しであるかのように自分の作品の中に取り込んで多数の論文を捏造していたことや、他人の書いた詩を自分が書いたことにして公の場で朗読し署名していたことなどが2013年3月7日から次第に公になりました。それと並行して、自分の著作にもウェブサイトにも経歴欄に「哲学教授資格がある」と書いていたのが真っ赤な嘘だということも周知のこととなりました。
数ヶ月前から疑惑があったのですが、氏は「学位詐称も剽窃もしていない」と言い張っていました。ところが、氏が哲学教授有資格者名簿に載っていないことを教育省が公表し、また歴然たる剽窃・盗作を次々に指摘されるに及んでしらばくれ続けることが不可能になりました。4月9日にはラジオ・シャロームのインタビューで学位詐称と「一件だけ」の剽窃を認めた上で辞職を断固拒否するという不可解な言動を見せました。ユダヤ教の長老会議がこれを黙認するはずも無く、二日後の11日には「強制休職」という名目の、事実上の強制辞職を言い渡されました。
その後、氏の剽窃の明るみに出る件数が鰻上(うなぎのぼ)りに増え、次第に稀代の剽窃・盗作常習犯であったことが明らかになりました。五月に入ってからも新規の剽窃発覚の報道が続きました。
世界中のユダヤ人にとって、この事件は大打撃です。単に「数あるフランスのユダヤ人の中に剽窃常習犯が一人見つかった」のではないのです。「自分たちは、詐欺師の正体を見破ることが出来ずにフランスの宗教最高指導者に選任してしまった馬鹿者揃いだった」ということなのです。また、「ユダヤ人は、一国の宗教最高指導者が率先して盗作やら学位詐称やらをする」と見做されることで非ユダヤ人の間の反ユダヤ感情が高まるのを恐れています。Gilles Uriel Bernheim氏は、自分が何をしでかしたか、弁えているのでしょうか。
ユダヤ教の教義に従えば、氏は、当然「最後の審判の日に地獄に堕ちる」ことになります。敬虔なユダヤ教徒だと仮定すると、自分が地獄行きだと知っていて自分の宗教の最高指導者になり、人倫はかくあるべきだ云々と偉そうなことを言って廻っていたことになります。
それとも、氏は、実は無宗教者なのでしょうか。無宗教者なら最後の審判も天国も信じないし地獄を恐れる理由もありません。無宗教者でありながら、ユダヤ教最高指導者の職を、単なる「社会的評価の高い食い扶持(ぶち)の一つ」と割り切って、冷徹にこなしていたのでしょうか。無宗教者が宗教職に就くのは、自己矛盾でもあり、信者に対して非礼で卑劣なことです。氏の名前でネット検索すると、顔写真もたくさん出て来ますし、ビデオも見つかります。フランス語の記事が一番多いようですが、多数の他の言語でも見つかります。
他人の著作の一部を引用する時に、「○○氏の○○という著作の引用だ」と断らないでさも自分が考え付いたことであるかのように書くのは、たとい本人にその意思が無かったとしても、間違いなく剽窃です。「知らなかった」で済むことではありません。
Bernheim氏は、一時期「ゴーストライターに書かせた。ゴーストが剽窃したことはあり得る」と言っていました。逃げ口上のつもりだったのでしょう。しかし、ゴーストライターが無断で剽窃したとしても、公の責任は、それを見逃した雇い主にあります。第一、ゴーストライターを雇うこと自体が不正直な行為です。
この事件に関して、F爺にはとても理解できないことが一つあります。2013年4月12日のラジオ・バチカンのフランス語版が
「この事件の後でも(= 夥(おびただ)しい剽窃・盗作と学位詐称を認めて辞職した後でも)Bernheim氏の著作に対するバチカンの評価は変わらない」と宣言したのです。
バチカンはBernheim氏の剽窃を引用してフランスなどの同性結婚法制化に反対する立場の論拠としていたのですが、「同性結婚法制化に反対する意見であれば剽窃であっても評価する」と言うのです。前号ではドイツのMerkel夫人の倫理感覚を疑いましたが、これではバチカンの倫理感覚も地に堕ちたと言わざるを得ません。もともとF爺は、「ローマ教皇は無謬である」などという馬鹿げた教義を振りかざす宗教は全く評価していないのですから「何も変わらない」という見方も出来ますが。