あなたを変える52の心理ルール
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内容に入ろうと思います。
本書は、メンタリストのDaiGoが、日常生活の中で出来るちょっとした「実践」について書いたものです。日常の中の様々な場面で、人に好かれたり、伝えたい感情がきちんと伝えられたり、何かをした際の成果をより大きくしたりというテクニックについて書かれている作品です。
本書の特徴を、DaiGoはまえがきでこんな風に書いています。
『そこで本書では、「分かりやすさ」ではなく、「実践しやすさ」にフォーカスしました。
分かりやすいだけの本では、ただ知識を得るだけで満足し、実践につながりません。
むしろ分かりやすいがゆえに、実践しないで満足してしまう危険があります。
そこで本書では、実践しやすくするために52のすべての項目を、「AすればBになる」の形式でまとめました。さっと一読していただければ、もう本文を読み返さずとも、目次を見るだけで実践できます』
これは非常に面白いと思いました。確かに、一読した今なら、目次を読み返すだけで実践できる感じはします。
DaiGoはこんな風にも書いています。
『ぜひ、目次を切り取るか、コピーして持ち歩いてください、携帯やスマートフォンで目次を撮影して、待ち受けなどにしておいてもいいでしょう。』
52の項目の中にも度々書かれていましたが、人間の脳は、何度も触れたものを大事と判断する傾向があるということです。「単純接触効果」という名前がついているようです。本書には、「願いごとを紙に書いて持ち歩くと、本当に願いが叶う」という項目もあります。こちらは、「無意識」を働かせる方法として紹介されています。
個別の項目を実践する前に、まずは目次を毎日短い時間でもいいから眺めるというのを続ければ、脳が「これはやらなければならないことだ」と判断して、実践しやすくなるでしょう。まずはそこから初めて見るのはいいと思います。
ただ、本書に書いてあることをただ実践してもダメでしょう。
DaiGo自身も、こんな風に書いています。
『このように、私はよく自分で実験をしています。心理学で学んだことが本当に成り立つのかどうか、自分の目で確かめたいという気持ちがあるからです。裏返して言うと、私は心理学で言われていることが100%成り立つとは思っていません』
ここに書かれていることは、あくまでも「基本」です。実践をしていく中で、そのままやってもうまくいかないケースも当然出てくるでしょう。ある実践に対して、すべての人間が同じ反応をするわけがないのですから。だから、返って来た反応を見ながらフィードバックしていく必要があるだろうと思います。その意識はとても大事だろうなと思います。これは、本書に限らず、世のハウツー本に広く言えることでしょう。
僕は、本書で扱われていることは、実践していることもあれば、なんとなく実践してることもあるし、まったく実践していないこともあります。僕は普段から、自分なりの考えを持って他人と接していますが、自分のこれまでの経験や、相手の反応などによって、誰にどういう風に接するかは結構変えています。それでいて、全体としては一貫性のある感じに見られるように、自分の中で意識しているつもりです。それも、僕なりのフィードバックの結果です。
ハウツー本に手を出して失敗する人は、このフィードバックが出来ないのでしょう。フィードバックに必要なのは、相手の反応を観察して、仮説を立て、その仮説が正しいことを証明できるような振る舞いをしてみることです。僕は、そんな一連の流れを意識しているわけではありませんが、昔からずっとそういう意識で人と関わってきたので、もう自然と身についているんだろうと思います。お陰で僕は、どんな場にでも潜り込める、適応力の高い人間になることが出来ました。
本書は、実践しやすさに重点を置いているという点で、他のハウツー本とはちょっと違ったタイプだと思います。そしてその上で、常にフィードバックを欠かさずに、自分の実践を適宜修正していく、という意識でやってもらえたらいいのかなと思います。
DaiGo「あなたを変える52の心理ルール」
死刑のための殺人 土浦連続通り魔事件・死刑囚の記録(読売新聞水戸支局取材班)
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まず、少し長いが、僕がここで書きたいことと関係あるので、引用から始めようと思う。
『私には彼が感じただろう、つまらなさが実感として分かる。それは、私と同世代か下の世代が感じる、独特の閉塞感だ。成熟しきった日本で、多くのことはやり尽くされている。それでも、先進国の地位を維持し続けるには成長しなければならない。他国や他人に取り残されないように、どんどん価値を上げ、多くのことを同時にこなし、競争を勝ち抜かなければならない。現状維持は後退を意味する社会だ。「もう、成長はこの辺でいいだろう」という考え方は許されない。でも、そんな社会に適応できる若者ばかりではないし、皆、成長は頭打ちだと、うすうす感じている。
成長しない日本を生きる。そんな閉塞感の中で、彼は現実に希望が見いだせず、早々に降りる道を選んだのだろう。もちろん、自殺願望を募らせ、最終的に殺人という手段を選んだのは許されないことだ。弁護するつもりは全くない。
でも、彼が感じたつまらなさに共感できる人は、世の中にたくさんいると思う。彼のつまらなさの根源は、日本の社会を覆う閉塞感にある。何不自由のない生活を送っていても、心は満たされない。希望が見いだせない社会だ。
「何を甘いことを言っている」。そう批判する人も多いかもしれない。でも、私は希望が見いだせない若者たちを単純に批判できない。何不自由のない生活は幸せとイコールではない。なぜ、豊かな国であるはずの日本で、毎年3万人前後の人が自ら命を絶つのか。そして、なぜ若年世代の自殺率が上昇傾向にあるのか。私は、その現実は希望を見いだしにくい日本の社会のあり方と無縁ではないと思う。飽和状態にある、と分かっていながら成長を求められるのは、若者にとってつらいことだ。たまたま職を得た人も、一度脱落したら敗者復活はできない、という恐怖と戦いながら毎日生活している。そんな社会で希望を持てるのはよほど才能があるか、運のいい人たちだけだろう』
僕も、共感できてしまう側の人間だ。
この「土浦連続通り魔事件」の犯人である金川真大に対する僕の感覚をまず書こう。
彼が考えていること、感じていることは、かなり分かってしまう。僕は、大きな括りで言えば金川真大と同じ種類の人間だろう。本書の中にも、取材班の一人の実感として、こんな記述がある。
『「もしどこかでつまずいていれば、自分も同じようになっていたかもしれない」。そんな思いさえ抱くようになった。それは私だけの特別な感情ではなく、同僚記者も同じだった』
僕もそう思う。僕も、どこかで踏み外していたら、金川真大のようになっていた。そういう入り口(人を殺そうとする入り口ではなく、周囲と相容れない思想を持つようになる入り口)に、僕は何度か足を踏み入れたと思う。僕が引きずり込まれなかったのは、ただ運が良かっただけだ。僕と金川真大は、ある意味で等価交換可能な存在だ。金川真大は人を殺し、僕は殺していない。それだけの差しかないように、僕には感じられる。
ただ先に書いておく。金川真大が「確実に死ぬために死刑を選択した」という行動は、頭が悪いと思う。「他人に迷惑を掛けて死のうとするな」とか「痛みを伴わない自殺の方法は探せばあるだろう」とか、色んな突っ込み方があるが、僕は単に頭が悪いなと感じる。
まず死刑というのは、死ぬ時期が完全に他者に委ねられている。「死ぬ」と決めて死ぬことの最大の自由は、自分が死ぬ時期を決められることにあるのではないか、と僕は感じる。自殺の最大の自由は、いつ死ぬかを自分で選択できることにある。死刑による死は、この自由を完全に手放してしまっている。事実、金川真大は逮捕されてから死刑が執行されるまで3年ほど掛かっている(これでも十分早い方だが)。僕には、その3年間はアホくさくてやってられないだろうと思う。
また金川真大は、「確実に死ぬために死刑を選択した」と発言している。しかし、死刑が宣告されれば確実に死ねるが、死刑が宣告されるかは確実ではない。彼は、2人を殺し、7人に重傷を負わせた。普通に考えれば死刑だ。しかし裁判では、「死刑を望む者に死刑判決を下していいのか」という議論が起こる。当然だ。結果的に金川真大は死刑を宣告されたが、死刑を宣告されない可能性だって僅かながらあっただろう。だから、金川真大が考えるような確実さは死刑には存在しない。
金川真大の頭が悪いと考える理由は、この辺りにある。彼は、死刑のことを碌に調べもしないで、死刑というイメージだけに寄りかかって犯行を起こした。ちょっと知識があれば、「確実に死ぬために死刑を選択した」という判断のおかしさに気づけただろう。
色んな理由を含めた上で、僕は、金川真大の「確実に死ぬために死刑を選択した」という判断は頭がおかしいと思う。僕の内側からそういう考えが外に出ていくことはまずないだろう。しかし、それ以外の部分では、金川真大の考え方は理解できてしまう部分が結構ある。
僕は、このブログで何度も書いてきたが、人が死んで哀しいと感じたことが一度もない。祖父は二人共死に、大学時代の先輩も二人死んだ。葬式に出る度に、別に哀しいと思っていない自分に気づく。
また、社会に出ることが出来ないと悲観して、就活から逃げるために大学を辞めた。未だに後悔したことがないばかりか、あの時辞めておいて本当に良かった、とさえ思っている。
『青年は20歳の頃から、自分の人生に見切りをつけていた。進学も、就職もしたくなかったから、しなかった。でも、自室にいても、何の濰坊もなく、つまらない日々が過ぎていった。テレビゲームで毎日を埋めていたが、もう限界だった。「死のう」。自殺を考えた、でもよく考えると、自殺はうまくいかないかもしれない。確実に死ねる方法は何だろう?思いついたのが死刑だった。
綿密に計画を立て、2人を殺し、7人を負傷させて死刑判決を受け、ここまで来た。なぜこんなに時間のかかる方法を選んだんだろう。何度も後悔した。確実に安楽死の制度があるなら、迷わずそれを選んだだろう』
僕は、就活が嫌で大学を辞め、大学時代のアルバイトはすべて3ヶ月でバックれた。誰とも会わずに引きこもっていた時期もある。今僕は悪くない環境にいるが、一年前今いる場所に来るまでは、僕の人生はかなり詰んでいたことだろう。そこから抜け出せたのは、本当に、運が良かったにすぎない。
そういう意味で本書が描いているのは、「特異な人間が起こした例外的な事件」ではないのだと僕は感じる。本書は、「第二の金川真大がどんな家庭からでも生まれうる」という現実を活写している。確かに本書を読めば、一見、金川真大の両親に問題があると思うだろう。そして、こんな両親だから金川真大みたいなモンスターが生まれたのだ。ウチは大丈夫と思いたいことだろう。
しかし、本書をきちんと読めば、両親も両親なりの考え方によって、子供を愛していたのだろうということが分かる。結果として金川家は、ちょっと歪で狂った家庭環境だ。しかしそれは、決して悪意からではなく、両親なりの子供を思う気持ちの積み重ねによって生み出されてしまった。両親との関わり方を読むと、僕がしてきた振る舞いと重なる部分もある。やはり僕は、金川真大と等価交換可能な存在なのだろうなと改めて思う。
本書は、あまりにも異質で特異で信じがたい事件が描かれる作品だ。しかし、だからと言って目を背けていいわけではない。自分とは関係ない事件だと見ないふりをしていいわけではない。多くの若年世代が、金川真大のような閉塞感を抱えて生きている。僕もそうだし、本書を執筆した記者自身もそうだ。その閉塞感とどう付き合っていくのか。誰もが様々な経験をしながら、それらと折り合いをつけていく。しかし中には、金川真大のような折り合いの付け方を選択してしまう者も出てくるだろう。それが自分の子供ではないとは、誰にも断言できないはずだ。
そういう意識で、本書を読んで欲しいと僕は思う。
内容に入ろうと思います。
本書は、「確実に死ぬために死刑になる」ことだけを目指して通り魔事件を引き起こした金川真大という男に迫ろうとする作品だ。
2008年3月19日。金川真大は茨城県土浦市で男性を一人刺殺する。その四日後の3月23日、荒川沖駅で金川真大は無差別にその場にいる人間を殺傷し、逮捕された。
逮捕された金川真大は、独自の「思想」を繰り返す。「人を殺すことは悪ではない」「世の中の人間は常識に毒されている」「人を殺すのは蚊を殺すようなもの」「死刑になるために殺人を犯した」「いくら人を殺しても死刑にならなければ、殺人は犯さなかった」などなど…。
これまで、「死刑になっても構わない」という動機を持つ無差別殺人は存在した。しかし、「死刑になるために人を殺した」というのは前代未聞だった。金川真大は一貫して、人を殺したかったわけでもないし、社会に恨みがあったわけでもないと語る。ただ、出来るだけ多く人を殺さないと死刑にならないから殺人を犯したのだ、と語る。
『「申し訳ないことをした」
言葉でなくてもいい。そんな気持ちが彼の心に生まれることを本気で願い、行動を起こした。それはもう、取材を超えていた』
『私にできるのは、金川に贖罪の心を芽生えさせることではないか。そんな思いが日増しに強くなっていった』
記者は、被害者から白い目で見られることを覚悟しながら、憑かれたように金川真大との面会を続ける。金川真大は強固な思想を語る。それは一般の常識からすれば異常とも言うべきものだ。その思想を、少しでも揺るがせることが出来ないか。たとえ死刑になるとしても、真っ当な心を取り戻してから刑を受けさせることは出来ないか。
『死刑囚のまま、友人を得て、恋をして…。死にたくない。そう一瞬でも思ってから執行されて欲しかった』
金川真大の死刑が執行された後、同僚記者が感じたこの思いこそが、記者たちを取材へと駆り立てた原動力だった。
金川真大は何故犯行に及んだのか。それを支える思想はどんなものか。何故その思想が生み出されたのか。金川真大を改心させることは出来ないのか…。葛藤を抱えながら続けた取材の記録です。
正直に言って僕は、金川真大に対してそこまで関心を持てない。冒頭で書いたように、僕は金川真大が抱えていただろう感覚が、少しは理解できる。そしてその上で、「何故死ぬために死刑という手段を選んだのか」という問いには、「金川真大の頭が悪かったからだ」という結論が僕の中では出ている。「死ぬために死刑という手段を選ぶ」という、僕からすれば不合理な判断ではなく、抱え続けてきた葛藤や閉塞感から生み出されるもっと合理的な判断によって何か行動を起こしていたとしたら、金川真大にもう少し興味を持てたかもしれない。ただ、頭の悪い人間には、さほど興味が持てない。
本書を読んで僕が気になったのは、金川真大と関わる、あるいは関わらざるを得なかった人々の話だ。記者を始め、遺族・弁護士・裁判官・家族・精神科医など、金川真大と何らかの形で関わる者たちの困惑や葛藤の記録として、僕は本書を読んだ。
本書を執筆した記者の物語として、本書は興味深い。記者自身が、「それはもう、取材を超えていた」と書いているように、彼がしていることは「世間に対して報じる者」としての立場を超越している。同じ人間として、金川真大という存在を許容できないが故に、どうにか自分が理解できる存在にまで金川真大という男を引き下げようと奮闘する。また、死刑制度の根幹を成す「死を恐れる」という感覚を無くしてしまっている(ように見える)金川真大に対し、死刑という刑罰が何らかの意味を持つように、死を恐れたり死ぬことを後悔したりする感覚を植え付けようと努力する。それは、記者自身の内側から「これをせねば」と湧き上がってきた想いだ。自分の行動の意味を振りかえったり、遺族の方の思いを逆なでしているだろうと思ったりと、取材とは言い難い行動を続ける自分自身に対して、それでもこれはやらなければならないんだ、という意志を持って金川真大と関わり続ける記者の奮闘の記録として、本書は興味深い。
そして、金川真大と関わる者の話としては、金川真大の家族の話が一番強烈だ。
たとえば、金川真大には他に3人の兄弟がいるが、彼らの金川真大や家族に対する発言を読むと、ゾワゾワとさせられる。
上の妹「母親のことが嫌い。一生、自分の声を聞かせたくないから、筆談で会話している」
下の妹「家族にも、合う、合わないがある。きょうだいとは、縁を切りたい」
弟「家族の誰かが死んでも、さみしいとはおもわない。今、付き合っている彼女が死んだら、さみしいかもしれない」
金川家に捜査に入った捜査員は、「家族同士で携帯電話の番号も知らない。他人がたまたま同居しているようだ」という、強烈な違和感を抱いたという。
一方で、そんな兄弟を、両親はどう思っていたのか。
母「きょうだい仲は、悪くないと思っていた。子ども同士、仲良くさせるのに、苦労することはなかった。子どもは母である自分のことを分かってくれているし、自分も子どものことを分かっている、と思っていた。」
父「(事件までに、家族が抱えていた一番大きな問題は何だと考えていましたか?と問われ)
特に深刻な問題があるとは思っていませんでした」
子と親で、ここまで認識に差が出るものなのか、と感じた。
僕自身も、今はともかく、親との関係では色々あった。子どもの頃は両親が、特に母親が嫌いだった。しかし僕はそのことを、一切表に出さなかった。僕が初めてそれを両親に伝えたのは、大学進学のために実家を出て二年後、大学三年になる春のことだったと思う。小学校の高学年ぐらいからもう親が嫌いだった記憶があるから、10年近くもそのことを親は知らなかった。
親からしてみれば、青天の霹靂だっただろう。僕は優等生で通っていたから、まさかそんな風に感じているとは想像もしなかっただろうと思う。そういう意味では金川真大の両親の反応は驚くことではないかもしれない、とも思う。僕が両親にそのことを告げる前に、両親が何かインタビューに答える機会があったとしたら、「長男には特に問題はない」ときっと答えていたことだろう。
とはいえ、金川家の場合、はっきりと目に見える兆候が出ていた。上の妹は、母親と筆談でしか話さない。上の妹と下の妹は、ある時から一切会話をしなくなった。その他、両親や兄弟のことを語る子どもたちの話は、はっきりとした殺伐とした関係性が表れている。
ここに怖さがある、と僕は感じた。
子どもからすれば明らかなサインであっても、親にそれは伝わっていない、ということがあるのだと、本書は明確に示している。本書を読むと、父親はちょっと他者への共感力が低い人間に思えるので、一旦除外しよう。しかし、そこまで記述は多くはないが、母親の描写を読めば、母親は子どものことを考え、大事に育てていこうと考えている善良な人間だと思える。その母親は、家族内の「明らかな問題」を、自分なりに納得できる理由をつけて問題視していなかった。家族の問題を認識できていれば金川真大が殺人という手段を取らなかったかと聞かれればそれは分からないが、可能性はあっただろう。
僕らは、金川真大を生み出した家族、という目で金川家を見るので、そういう先入観によって彼らが極悪非道に思えてしまう部分もあるだろう。しかし、事件の前に金川家について知ることが出来れば、印象は違ったかもしれない。金川家は、結果的にモンスターを生み出してしまっただけで、どこにでもある家庭なのかもしれない、と。
そんなことはない、と思いたいだろう。ウチは筆談なんかで会話はしない、と。しかし、母親の認識を思い出して欲しい。多分に願望もあっただろうが、母親は家族の問題を認識していなかった。これを母親だけの問題だと捉えるのは、問題を矮小化しすぎていると言えるだろう。正しくは、明らかなサインがあっても親には問題の兆候が分からないことがある。金川家の事例は、そんな風に捉えるべきなのではないかと僕は思うのだ。社会が夢や希望を内包することが出来なくなってしまった時代に、子どもをどう育てていくのか。本書だけからその答えが得られるわけでは決してないが、そのことに問題意識を向け、考えるきっかけにはなるのではないかと思う。
司法や医学が金川真大をどう捉えるのかも非常に興味深かった。弁護士も検察官も精神科医も、金川真大という存在を持て余す。司法や医学で扱うためには、金川真大を何かしらの枠組みに入れなくてはならない。しかし、金川真大を入れられるような枠組みがどこにもないのだ。最終的に金川真大に対しては、死刑を与えるべきか、という議論になる。弁護士の一人は、「死刑を求めて殺人を犯した者に死刑を宣告するのは、金欲しさに犯罪を犯した者に金を渡すようなものかもしれない」という発言をしている。確かに一理ある。しかし同時に、たとえ本人が死刑を望んでいるのだとしても、遺族感情としてはやはり極刑を望んでしまう。法の整合性の観点から言っても、死刑以外の選択肢はない。
しかし…。
『本当に彼の思い通り、死刑にしていいのか。何とか生きる苦しみを味わわせることはできないのか。そんな思いが次第に強くなっていった』
罪を犯した人間は裁きを受けるべきだ。そんな当たり前の、人間として生きていく限り大前提となるような根幹を成す考え方を揺るがせた金川真大。金川真大は、死刑判決を受けてから3年後に死刑が執行されたという。通常死刑の執行には6年ほど掛かるという。死刑を望んでいた者を、通常よりも早い期間で死刑執行する。それにどんな意味があったのか分からないが、死刑制度の意味そのものを問いかける男だったことは間違いないだろう。
何が正しくて何が間違っているのか、どんどん分かりにくい世の中になっている。彼がその一生を通じて投げかけた様々な問いに向き合うことは、この複雑な社会を生きざるを得ない僕たちに課せられたある種の義務であるのかもしれない。
読売新聞水戸支局取材班「死刑のための殺人 土浦連続通り魔事件・死刑囚の記録」
雪の鉄樹(遠田潤子)
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人生には正解しかない、と僕は思っている。
何故なら、どんな人であれ、選択肢の中から一つしか選ぶことが出来ないからだ。
選ばなかった無数の選択肢、それらをもし選んでいたらどうなっていたのかは、永遠に分からない。どれだけ考えても、どれだけ悩んでも、選ばなかった人生がどうなるか分かるはずもない。「もしあの時ああしていたら…」という想像は、少なくとも現実にはまったく影響を及ぼさない。現実に影響を与えるのは、自分が選び取った選択肢だけだ。
そんな風に考えているからだろうか。僕は過去の決断や判断を後悔したことがない。「あの時ああしていれば…」と過去を振り返ることがほとんどない。別に、成功ばかりの人生というわけではない。思い出したくなくて忘れたものも含めれば、失敗ばかりの人生だった。もう少しうまく立ち回ればする必要のなかった苦労や失敗もたくさんあるかもしれない。
でも、結局僕は今の人生を自分の決断や判断の積み重ねによって選び取った。それしか正解は存在し得ないのだから、過去を悔やんでもしかたない。
ただ一方で、僕はこうも考える。結局僕は、目の前に存在しうる選択肢の中から巧みに、後々後悔しそうな選択肢を排除しているのではないか、と。その行為自体は、別に僕は問題だとは思わない。ただ僕は、「後悔しない人間」なわけではなくて、「後悔しなくてもいいような選択をしてきただけの人間」なのかもしれない、ということだ。
結局、色んな苦労や失敗をしてきたけど、僕の苦労や失敗は、僕がその気になれば取り返せるようなものばかりだ。親との関係で色々あったけど、別に今からでも修復させられるだろう。大学も辞めたけど、入り直すことは可能だ。引きこもって一度人間関係がリセットされかけた時もなんとか関係を戻せたし、後から挽回できないような取り返しの付かない行動はしていない。
取り返しの付かない行動を取った場合、僕がそれでもなお後悔しないかどうかは、僕には分からない。
例えば、自分が他人を死なせたとする。絶対に取り返しの付かない行動だ。その場合、僕は過去の自分の行動を悔やむだろうか。それとも、結局過去は変えられないのだから後悔しても仕方ないと考えるだろうか。
分からない。
一つだけ言えることは、僕はきっと逃げるだろう、ということだ。取り返しの付かない行動を取った時、僕は徹底的に逃げるだろう。物理的に逃亡する、というような意味ではなくて、現実から逃避するだろうと思う。そういう想像なら、容易にすることが出来る。これまで僕は、嫌になったら逃げて逃げて逃げまくってきた。そうやって、なんとか今ここにいる。謝罪や償いみたいなものから、目を背け続けるだろう。そうしなければ、自分を保つことが出来ないから。
そういう自分のことを理解しているから、僕は自分が取り返しの付かない行動をしないようにとなるべく思っている。しかし、僕自身がそういう行動を取らなくても、誰かのそういう行為の結果が自分に降り掛かってくる、ということもあるだろう。
なるべく、そんな状況に陥らないように生きていたい。わざわざ自分の最低さを再確認するような状況には、なるべく遭遇したくない。
内容に入ろうと思います。
祖父の代から続く「曽我庭園」で庭師として働く雅雪。子どもの頃から親方である祖父の仕事の手伝いをしており、父親よりも筋がいいと早くから認められていた。雅雪自身も庭師の仕事が好きで、庭仕事の古典作品を読みふけったり、高校を卒業したら京都に修行に行くと決めていたり、庭師として生きる決意をもう大分以前から固めていた。
そんな雅雪は、32歳の今、未だに祖父を親方とする「曽我庭園」で働きながら、13年間に渡って両親のいない少年・遼平の面倒を見てきた。遼平の祖母である島本文枝に奴隷のような扱いをされながら、雅雪はそれを黙って受け入れ、子一人祖母一人の生活を外から支えている。
20歳のあの日から13年間。雅雪はある日をずっと待ちわびていた。その日のためにこの
13年間苦しい状況を我慢してきたと言っていい。しかしそれは同時に、遼平のことを裏切ることになる日でもある。雅雪はいつ遼平に話すべきか様子を窺うが、なかなか決心はつかない。
遼平との関係も、以前のままというわけにはいかなくなった。何故雅雪が遼平の面倒を見ているのか、何故遼平の祖母は雅雪に対して屈辱的な扱いをしているのか、その理由を知ってしまった遼平は、自分が雅雪に対してどういう振る舞いをするべきなのか分からなくなって混乱する。
壊れた家族に生まれた不幸、そして壊れたものを再生させる手段を知らない者の不幸。そして何よりも、壊れていることに気づかない不幸。不幸の連鎖の中でもがく雅雪は、その連鎖を断ち切ることが出来るだろうか…。
というような話です。
凄い作品だったなぁ。最初から最後まで緊迫感があって、重苦しさがあって、それでも読まされてしまう。結構分量もあるので、いつもより読むのに時間が掛かる想定でいたのに、想定より早く読み終わってしまった。この物語がどう展開し、どう決着するのかを知りたい、という気持ちに強く駆られたのだろうと思う。
この作品の特異さは、雅雪という人物が生み出している。雅雪が、恐ろしく善人である、という点が、この作品を異様なものにしているのだ。
通常、僕は善人には興味がない。面白くないからだ。しかし、雅雪は、普通の善人とは少し違う。
彼の場合、13年前のあの出来事がなければ、彼の「善的な部分」は表に出なかったのではないかと思う。元々の彼は、善人とは程遠い人物だった。そして、13年前のあの出来事以降も、雅雪自身は自分のことを善人だとは思っていない。しかし傍から見れば、彼は異様なまでに善人なのだ。
彼の場合、「徹底的に善人でなければならない」という異様な執念みたいなものを貫き通しているという印象がある。彼の善的な部分は、そうしようと踏ん張っているからこそ生まれ、継続されているものなのだ。そういう意味で、彼は本来的な善人ではない。そもそも曽我家の家庭環境からまともな善人が育つことを期待する方が間違っている。
雅雪はある軛によって、善人であることを自らに義務付けている。遼平の祖母は、それに付け込んでいるし、遼平はそのことに気づかずに雅雪を本物の善人だと思っている。そして彼らを取り巻く周囲の人間は、また違った形で雅雪のことを捉えている。
雅雪が何に囚われているのかは、作中でも中盤以降に登場するので、ここでは明かさない。しかし、本来的に彼は、一般的に「償い」と呼ばれる行為をする必然性のない人物だ。そこにこの物語の核がある。雅雪が「償い」をすればするほど、彼を中心とした現実の磁場が歪み、その磁場の範囲内にいる人間を狂わせていくことになる。
この物語は、雅雪自身がその歪みに気づくまでの、長い長い13年間の終わりの物語だと言っていいだろう。
『これが償いの結果だ。つまらない浅知恵で、かえってみなに迷惑を掛けた。俺のやってきたことは償いでもなんでもなく、ただ遼平を苦しめるためだけのものだったのか』
雅雪の行動を評価することは、とても難しい。彼は、自分の行動が、純粋に相手のためになると思って「償い」を続けている。そこに偽りはない。しかし彼もまた、不幸な生い立ちを背負った人間だ。不幸すぎる、と言ってもいいくらいだ。だからこそ彼は、一般的な人間が一般的に何を望むのか、何を望まないのかを捉え誤る。自分の言動が他人にどういう風に見られるのかを捉え誤る。そこにすれ違いが生まれ、それらがさらに何らかの出来事によって増幅して、取り返しのつかない状況が引き起こされることになる。
そしてさらに、雅雪の行動には加わる要素がある。これは具体的には書けないが、『原田は勘違いしている。俺は好きなように生きてきた』という部分を引用しておこう。この言葉の真意は、本書のラスト付近で理解できる。彼の行動は、「償い」の気持ちから生まれたものだ。それは嘘偽りない。しかしそれは同時に、「好きなように生きる」という選択によるものでもあった。彼が遼平の面倒を見ることは、彼の「好きなように生きる」という生き方に合致するものでもあった。しかし、それはとても哀しい理由だ。雅雪の家庭環境が違ったものであったら、そういう感想は出てこなかっただろう。結局のところ雅雪は、家族の不幸の連鎖の被害者であり続けているということなのだ。
『雅雪。私には情というものが理解できない。だから、おまえの話を聞いても気の毒だと思うことすらできない』
これは雅雪の祖父の言葉だ。僕はたぶん、この祖父の側の人間だろうなという自覚がある。子どもの頃から、「家族」という括りや単位に疑問しか感じなかった。きちんと言語化出来ていたわけではないけど、何故年齢も生い立ちも趣味趣向もバラバラな人間が「血が繋がっている」というだけの理由で一緒にいなければならないのか分からなかったし、今もよく分からない。僕は、この祖父ほど酷くはないだろうが、同じベクトルの感覚を持っているだろうなと思う。
じゃあ何故そんな人間が子を持つに至ったのか、と疑問を抱くかもしれないが、その辺りも実にうまく説明されている。曽我家の面々はむかしから「たらしの家系」と呼ばれていて、祖父と父は常に女をとっかえひっかえしているのだ。そんな家庭環境に雅雪はずっと嫌悪感を抱き続けてきた。この家族は完全に壊れているが、あまりにも壊れすぎているために雅雪は、そこで育ってきた自分が壊れていることにずっと気づかないでいたのだ。
『別に舞子が嫌いだったわけじゃない。関心がなかっただけだ』
こちらも、壊れた家族の話だ。この一家の話は物語の中盤以降でメインで登場するので、詳しく書くことは避けよう。いずれにしても、この作品には、完全に崩壊した家庭が2つ登場する。遼平の家族も含めれば3つか。家族の不幸の連鎖が途切れることなく続いてしまい、さらにその不幸が他の不幸と混じり合っていくことで、考えうる限り最悪の状況が引き起こされ、関わった者たちをさらに不幸にしていく。その過程を描き出す描写と展開力が実に見事だなと感じる。
本書はまた、才能の物語でもある。
『努力にはなんの意味もない』
庭師の親方である祖父の言葉だ。あまりにも容赦がないが、分からないわけでもない。凄い人間は最初から凄いんであって、努力でどうなるもんでもない。まあ、そりゃあそうですね。才能のあるなしは、ほとんど生まれた時に決まっているのだろう。
本人の努力ではどうにもならないのが才能というものだ。本書では、才能がないという事実を思い知らされ、それに絶望した者が2人登場する。雅雪を取り巻く状況は、その2人が生み出したと言ってもいい。
才能などなくても、別に生きていける。世の中に大多数は凡人なのだ。自分が凡人であることを受け入れて生きていければ、こんなことにはならなかった。
しかし、どうしてもそうは思えない人間もいる。
『あれはきつかったな。あいつらはただ生えてるだけなのに…。あんなにも人を感動させるんだ』
自分には特別な才能があるはずだ、人を感動させるだけの力があるはずだ。そう信じ続け、圧倒的な努力を重ねた男は、現実を思い知らされる。それまで、人生のすべてをそれに捧げてきた。しかしその努力には、一片の意味もなかった。
『そこまで言うのなら、こっちもはっきり言わせてもらうね。私は最初から無理やと思ってた。あなたにはそこまでの才能はない。才能のある子は全然違うの。』
子供の時に教えてくれた先生からそんな風に言われた男。何かに真剣に打ち込んだ経験のない僕にはその挫折は理解できないし、理解できたとしても彼がした行動を許容できるわけでもない。でも、こうも考えてしまう。もし彼が、ほんの少しだけ違う人生を歩んでいたら、彼も彼の周りの人間もまったく違った生き方をしていただろうな、と。冒頭で、「人生には正解しかない」と書いたけど、選んだ選択肢以外の人生が容易に想像できる場合(そしてそちらの方がトータルでは幸せだっただろうと思える場合)、やりきれなさを感じる。
この作品には、本当に悪い人間はごく僅かしか登場しない。雅雪が何らかの形で関わる面々のほとんどは、基本的には善良な人間だろう。しかし、ほんのささいなきっかけやちょっとしたすれ違いが、彼らをただの善人のままではいさせなかった。そして、雅雪のズレ方があまりにも歪であった。そして不幸なことに、雅雪のズレ方は、曽我家の中では問題にならないほど「普通」だった。彼は自分が歪んでいるという事実に気づかないまま、その歪さによって周囲を振り回していく。
『あんたが人殺しやったらよかったのに』
この作品は、雅雪という異様な人間をリアリティを持って存在させたことによって成立している。普通雅雪のような行動を取る人間は、「もしかしたらこういう人いるかも」と思わせられるようなリアリティを持てないだろう。しかし著者は、雅雪という人物を、いてもおかしくない存在としてリアルに描き出した。彼はこれからも歪なまま生きていくだろう。しかしそうだとしても、「再生」と呼びたくなるような希望の持てるラストで、雅雪の今後を想像したくなる終わり方だった。
遠田潤子「雪の鉄樹」
日本人のための怒りかた講座(パオロ・マッツァリーノ)
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僕はあまり人に怒らない。イライラすることはあっても、怒るという行為をすることはない。
何故なら、人間に興味がないからだ。
『ささいなことでは怒らない人が、必ずしも人間的にすぐれているとはかぎらないのです。怒らない人は他人や世の中のことに無関心な、心の冷たい人なのかもしれません。怒らないからやさしい人だと考えるのもまちがいです。やさしい人だからこそ、不正や不条理に対して人一倍腹を立てるんです』
この部分を読んで、そうだなぁ、と思った。前から思っていたけど、改めてそう思った。僕はあまり他人に関心が持てない。だから、イライラすることがあっても、どうでもいいやと思ってしまうことが多い。わざわざ自分の労力を割いてまで、相手の行動を変えようとするほどその人に関心が持てない。
もう一つ、怒らない理由がある。それは、相手の価値観を受け入れるスタンスでずっと生きてきてしまっているからだ。
僕は基本的に、自分とは違う価値観であっても、「まあそういう人もいるわなー」と受け入れてしまうことが多い。これは、生きやすくするために後天的に身に着けた技術だと自分では思っている。自分の中に絶対的な価値基準をなるべく持たないようにする。そうすることで、他人の価値観を受け入れやすくする。そうやって摩擦が起こらないように生きてきた。
けど、自分の中に絶対的な価値基準を持たないが故に、何か状況が目の前にあった時に、それに対して自分なりの価値判断をすることが難しい。別に、空気を読んで周囲の人間に合わせようという意識を持っているわけではない。単純に、基準がないから判断できないのだ。例えば、「高血圧」という判断をするには、「血圧がいくつ以上が高血圧だ」という基準がなければ判断できないだろう。そういう判断基準が一切ない中で、「高血圧」という判断を下すことは出来ない。それと同じように、自分の中に価値基準がないせいで、物ごとの良し悪しを自分の中の基準に沿って判断する、ということがそもそも出来ないのだ。
僕はこういう自分の生き方は気に入っているし、特に不満はない。僕の中にも、価値基準云々ではなく、そもそも生理的に無理、というような事柄や状況もあるので一概には言えないが、ムカついたり怒りを感じたりするようなことはあまり多くはないと思う。
だから、怒りを我慢しているという感覚もさほどない。
『私が他人に注意する際に目的とするのは、不快な行為を相手にやめてもらうこと。それだけです。それ以外はなにも求めないし、求めてはいけないのです』
『正義のためではないというなら、じゃあ、私はなんのために他人やよその子に注意したり叱ったりするのでしょう?
答は簡単です。自分が気にくわないから。自分が不快に感じたから』
『正しさの基準はつねに“自分”しかないんです。自分がどう思うか。自分が不快かどうか。それだけが基準です。自分が不快に感じたら自分の責任で、迷惑行為をしている人にやめるよう申し入れる。自分が不快でなければ放っておけばいい』
今引用した3箇所だけ読むと、なんて自分勝手で傲慢な人なんだろう、と思う人もいるかもしれません。ただ、本書全体を読めば、著者の真意はきちんと理解できるでしょう。
僕は、本書全体を読んだ上で、著者のこれらの感覚にすごく共感できます。そしてだからこそ、僕は別に怒らなくてもいいな、と思ったのです。何故なら、僕は自分が不快だと思う状況があまりないからです。普通の人が不快に感じることでも、僕は割と平気だったりすることが多いです。まあ、普通の人がまったく平気なのに僕はどうにも我慢できない、なんていうことももちろん色々ありますけどね。まあでも、自分の中に「不快だ」という気持ちがないなら無理に怒る必要はない、という著者の主張は明快だし受け入れやすいなと思います(とはいえ、迷惑行為を行っている人物に注意することが仕事である場合にはまた話は別なのだけど)。
本書は「怒り方」の本です。「日本人のための」とついていて、読むと確かに日本人のための本だなぁ、と思います(ちなみに書いておくと、著者はたぶん日本人です)。
おそらくそんな誤解はされないだろうけど、一応先に書いておきます。著者は別に、「怒れ!もっと怒れ!」とみんなを煽っているわけではありません。そうではなくて、「怒り」を我慢しても誰も評価してくれないし、現実は何も変わっていかないんだから、それだったら適切な形で「怒り」を相手に伝えましょう、ということを言っているわけです。
「怒ること」に対する著者の考え方が凝縮されているだろう箇所を抜き出してみます。
『本書で私はしつこく繰り返しますが、他人に怒ったり注意したりする行為は、コミュニケーションなのです』
『怒る、叱る、注意する、と考えるからハードルが高くなるんです。相手に逆襲されたらケンカになる、と身構えるから、なかなかいえないんです。
自分がこうしてほしい、と考えてることを相手にやってもらえないかと交渉する、と考えたほうが気は楽です。交渉なのだから、相手が反論してくることも当然ありえるし、決裂する可能性もあります。怒ったのに受け入れられないと、ケンカに負けたようで屈辱ですが、交渉したけど決裂した、と考えれば、精神的ダメージは軽いはずです』
本書で著者が主張したいことを極限まで凝縮すれば、この二箇所の引用で説明できるのではないかと思います。怒ることは「コミュニケーション」であり「交渉」である。まずこんな風に発想を転換してみましょう、ということです。そしてこの発想の転換をスムーズに出来るように、著者は自らの経験や資料からのデータなどを駆使します。そしてその上で、じゃあその「コミュニケーション」や「交渉」をどうやったら上手く出来るのかという具体的な方法についても書いている、という作品です。
具体的な方法についても、凝縮して表現されている箇所があります。
『私の経験では、よその子に注意するときのコツ参加上“すぐに”“具体的に”“マジメな顔で”を守れば、「バカモン!」「コラ!」と声を荒らげずとも、こちらの注意を受け入れてくれる確率はかなり上がります』
本書では、「すぐに」「具体的に」「マジメな顔で」について、それぞれさらに深く掘り下げていく形になります。
この内、「すぐに」について少し書いてみましょう。なんとなく分かってはいたことだけど、改めて「なるほどな」と感じさせられました。
著者は、『私はむしろ、ささいやことで怒るようにしなさい、とみなさんに勧めたいのです』と書きます。これが「すぐに」の意味です。
何故か?
著者はその後で、その真意をこう書いています。『激怒するのを防ぐために、ささいな段階で注意してしまう』
僕は、深い人間関係が不得意なのだけど、その理由の一つがこの話と少し近いなと感じます。僕は、関係性が深くなり始めると、相手の行動に対して、「今は全然不愉快ではないけど、これを未来永劫ずっとされたら嫌だな」と感じることがあります。で、僕はこれを割とスルーしてしまうんです。何しろ、今は全然不愉快ではないわけです。とりあえず、様子を見よう、と思ってしまう。でも、やっぱり予想通り、相手のその行動が段々嫌になって来る。でも、最初の段階で嫌だと言わなかった手前、今更言いにくい…。
みたいな感じになって、その人との関係性がめんどくさくなってしまう、というパターンを結構繰り返してきました。
本当は、「今は全然不愉快ではないけど」という段階で、それを止めてくれるように言うのがベストなんでしょう。なかなか難しいですけど、本書を読んで改めてそのことを再認識しました。僕の場合、「主張しないことで怒りを溜め込んでいる」というわけではないのだけど(最初は決して不愉快ではないから)、本書を読んでとにかく、「怒りを溜め込むことはよくないぞ」と自分にも他人にも言いたいなと感じました。
本書はまた、「昔は良かった」的な言説のウソを暴き出す、という側面も持っています。道徳的な面で、明治・昭和の人々は現代人より素晴らしかった、という言説はウソだと著者は切り捨てます。著者は、昔の雑誌などをひっくり返すようにして読み漁って、当時の社会風俗全般について調べます。現代で起こっている様々なマナー違反は、明治時代にも昭和時代にもあった。マナー違反が今になって増えたわけでも、昔の人の方がデリカシーがあったわけでもない。そういうことを、きちんと雑誌などの資料を根拠に主張しているのもとても面白い。
全編を通じて、著者の発言の仕方にはとても誠実さを感じる。リテラシーのない人は、読者を小馬鹿にするような書き方にイラッとくる人もいるのかもしれないけど、著者は根拠のない主張はしないという意味でとても誠実だ。著者の根拠というのは、自分の経験と、雑誌などの資料だ。自分の経験に基づいて発言する場合は、「あくまで私の場合はこうだ」という主張をする。自分の価値観を空いてにむやみに押し付けることもしないし、相手をむやみに貶すわけでもない。著者の目的は、「間違った認識を持った人間の考えを正す」というもので、それが徹頭徹尾貫かれているところがとても良い。僕らは様々な発言を、特に根拠を持たないままする。人から聞いた噂話とか、ネットの書き込みとか、そういうエビデンスのない情報を悪意なく広めてしまう。僕らのそういう軽々しい行為によって、イメージや雰囲気みたいなものは醸成されていく。それらに根拠がないこと、そして何らかの根拠に立脚すれば真実はこちらであることを提示する著者のやり方は、僕は好きだなと思う。
本書からは、怒り方の具体的な手法やスタンスを学べるだけではなく、何らかの情報や価値観に接した時、その真偽をどう判断し、どう担保するのかという在り方まで学ぶことが出来るように思う。後者のような生き方は、ネット社会であればあるほど必要とされるのだろうと僕は思う。
パオロ・マッツァリーノ「日本人のための怒りかた講座」
ジェリーフィッシュは凍らない(市川憂人)
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いやはや、べらぼうに面白い作品でした。
これが新人のデビュー作とは。
おみそれしましたと言いたくなる一冊だ。
舞台は、近過去。とはいえ、僕らが辿ってきた過去ではない。並行世界とでも呼ぼうか。
一番の違いは、新型気嚢式浮遊艇<ジェリーフィッシュ>が発明された、という点だ。これは、飛行艇の水素を入れてた部分を真空にすることで大幅に小型化に成功した、「航空機の歴史を変えた」とまで評される大発明だった。1937年に大型旅客船の爆発事故のせいで、気嚢を用いた飛行船の社会的信用が失墜したが、その35年後の1972年に「真空気嚢」という新技術がフィリップ・ファイファー教授らによって開発され、現在では民間向けの小型気嚢式浮遊艇<ジェリーフィッシュ>が富裕層を中心に販売されている。
1983年2月。航空業界最大手であるUFA社の気嚢式飛行艇部門技術開発部所属の面々は、新型<ジェリーフィッシュ>の航行試験の真っ只中にいた。ある時から酒浸りになったフィリップ教授を始めとした6名が、様々な役割を交代でこなしながら、4日間の航行試験をスタートさせていた。
一方、A州F署刑事課の九条漣は、上司であるマリア・ソールズベリーを毎朝の如くに叩き起こしながら、彼女と共に現場へと急行した。それはH山系の中腹で、「ジェリーフィッシュが燃えている」という通報が入ったのだという。恐ろしいほど雪深いその山の麓には、燃え尽きて残骸となったジェリーフィッシュと6体の遺体があった。何故か軍がジェリーフィッシュの残骸を持ち去ってしまう。最初からきな臭い案件だ。当初はただの墜落事故だと思われていたが(とはいえ、そうだとすればジェリーフィッシュの最初の墜落事故のケースだ)、6体の遺体の中に、明らかな他殺体があるということで、警察が捜査することになった。
しかし、捜査する過程で様々な情報が明らかになるも、真相に近づいている感じはまるでない。調べれば調べるほど不可解な事件なのだ。死亡した6人の内の誰かが犯人であると考えても矛盾が出て、6人以外の外部犯が存在したとしても矛盾が出る。後者であるとすれば、熟練したクライマーでも現場から山を下りるまでに一週間から十日は掛かる、それもよほど運が良ければ、という状況であり、マリアたちは様々な仮説を検討するも、ことごとく跳ね返されてしまう。
捜査の過程で、レベッカという女性が事件に関係しているらしい、ということは分かってきた。レベッカは、<ジェリーフィッシュ>発明に大きな疑義を投げかける、技術開発部の面々にとっては爆弾のような存在であり…。
というような話です。
凄い作品だったなぁ。
繰り返すけど、新人のデビュー作とは思えない、見事な作品でした。
正直読むまでは、まったく期待してませんでした。「ジェリーフィッシュは凍らない」というタイトルから、なんとなく青春小説っぽい雰囲気を感じていたし、どこかに「新人のデビュー作だしなぁ」という感覚もありました。しかし一読して、それらの先入観をすべて吹き飛ばすほどのとんでもない作品だということが分かりました。
まず、物語全体の構図が見事だ。時代背景、人間関係、<ジェリーフィッシュ>開発の経緯、警察側の推理とそれらの瓦解、次々に溢れかえる謎、それらを見事に説明し切る華麗な結末。それぞれが見事に絡み合って一つの作品を成していて、全体の調和が素晴らしいと思う。
特に、<ジェリーフィッシュ>という小道具を作品の中で非常に有効に使っているのが良い。正直に言えば、この作品は、<ジェリーフィッシュ>などという架空の乗り物を設定しなければ成立しないというものではないと思う。しかし、<ジェリーフィッシュ>という架空の乗り物を設定したことで、作品の根幹を成すトリックの設定やストーリー上の細かな制約の解消などが非常に成立させやすくなっていると思う。同時に、<ジェリーフィッシュ>という発明品そのものに対する描写も抜からない。素人が読めば、非常にそれっぽく感じられるほど、<ジェリーフィッシュ>という乗り物がリアルに感じられるようにうまく設定されている。<ジェリーフィッシュ>の存在はこの作品の根幹では決してないが、しかしこの<ジェリーフィッシュ>を登場させたことで、作品世界が並行世界であるということがはっきりし、さらに様々な場面で物語を巧みに成立させる小道具としても自立しているわけで、凄いものを考えついたものだなぁ、と思います。
そしてトリック。僕は、アガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」は読んでいないのだけど、本書は「二十一世紀の『そして誰もいなくなった』」という風に喧伝されている。読んでいない僕でも、そのあまりに有名な状況設定ぐらいは知っているけど(トリックは知らない)、まさに本書も、閉鎖状況で一人ずつ死者が出ていって…という展開が描かれていく。読んでいると、どう考えてもあり得ない状況が出現しているんですよね、この現場には。合理的に考えうる様々な仮説をひねり出してきても、全然状況を説明できない。これ、どんな風に決着をつけるんだろうなぁ、と思ってたんだけど、ズバッとやってくれました。合理的な解決など不可能と思える状況を決着させるアイデアはなかなかのものだなと感じました。
そして僕が凄いと思ったのが、捜査する漣とマリアの描写だ。
正直、乗員6名が死亡という状況で、<ジェリーフィッシュ>内で何が起こったのかを調べるのは無理だろう、と思ってました。事故・事件当時のことを証言できる人物が誰もいない中で、遺留品や死亡した面々に関する調査を執拗に繰り返すことによって彼らは真相へと辿り着く。この過程がきちんと無理なく描かれているのは素晴らしいと思いました。
構成も実に見事。本書は、技術開発部による航行試験のパートと、漣とマリアによる捜査の過程が交互に描かれ、合間合間に誰かの回想が挟み込まれる、という構成になっている。こういう構成の場合、あっちにいったりこっちにいったりで読みにくかったり、交互に描写するという制約を守るために不要と思える描写が増えたりするものだけど、本書は違う。技術開発部のパートのラストの展開が捜査のパートと繋がり、また捜査のパートのラストの展開が技術開発部のパートへと繋がるというように、それぞれが有機的に繋がっている。両パートが絶妙に絡まり合うことで、謎が積み上がり、驚愕が引き出される。とても上手いなと思う。
トリックだけ、キャラクターだけ、舞台設定だけ。そういう「だけ」に頼ってしまう作品が、特に新人作家の作品によく見られる印象を持っているが、この作品は、小説に必要とされる様々な細部に気を配りつつ、大胆な仕掛けと緊迫感を演出する構成を駆使して、一つの作品世界を作り上げている。非常にレベルの高い作品だと思うし、作者の次回作にも多大なる期待をしてしまう。
市川憂人「ジェリーフィッシュは凍らない」
青が破れる(町家良平)
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自分の外側にあるものに、自分の内側にあるものが乱されることがあまり好きではない。良いことも、悪いことも。
悪いことはともかくとして、良いことであっても、それは長く続かないという意味で好きではない。安定しない。いずれ落ちていく。上昇する時は楽しいが、下降する時は辛い。だったら、上がらなくてもいいのではないか。
乃木坂46の齋藤飛鳥は、雑誌のインタビューなどでこんなことをよく言う。
「良いことが起こったら、その後必ず悪いことが起こるじゃないですか。だから、気分が悪くなるような小説を先に読んでバランスを取るんです」
わかるなー、と思う。上向いた軌道は、自然な状態のままでも下降へと向かう。しかし、自然に任せたままだと、どこまで下降するかコントロール出来ない。なら、自分で下降させる、というのはどうか。うまくすれば、安定する平常的な場所までソフトランディング出来る、かもしれない。
「ボクサーのひと」とも呼ばれる主人公にも、少し近いものを感じた。
『他人に関心があるひとのかなしみを、他人に関心がないひとのかなしみを、秋吉さんはどっちもわからない』
彼は友人にそう言われる。
平常であろうとすればするほど、他人に関心を持ちすぎることも、他人に関心を持たなさすぎることも無意識の内に避けるようになっていく。どちらも、自分の内側を乱す要因になるからだ。だから彼は、ダンボール紙の断面みたいな起伏の狭いギザギザ程度の揺れに収まるような、凪いだ感情だけを内包させながら、そこからはみ出す部分はスパッと切り取るようにして毎日を生きている。
『なるほど、すきな女の子の前でこんなにキラキラしつづけなきゃならないなんて。すこしハルオに同情した』
彼は、自分のことを好きではないと彼自身気づいている彼女と、突然池に飛び込むような不可解さを持つ友人と、健康という希望と呪縛から同時に解放された友人の彼女となんとなく関わっていく。彼に主体性はない。他者との関わりにおいては、主体性を端から放棄しているように見える。そうすることで、自分自身が侵食されないというまじないをかけているのかもしれない。
そういう感覚は、僕の中にもある。僕も、他者との関わりにおいて主体性を捨てることで、自分の中の何かを守っている、という自覚がある。
『おれは、一瞬で少年に戻って、傷つけたことを傷ついたことにすり替える速度だけすばやい子どものようになって、たちすくんでいた』
彼の、主体性を捨てることで、自分の中の何かを守る術みたいなものはなかなか卓越している。友人の彼女に言われるがまま添い寝をし、相手が自分のことを好きではないと実感しながら彼女から連絡があるとすぐに出向いてしまう。死を間近に控えた人間を前にしてもさほど動揺しないのは、彼が傷つかないための方法をよく理解しているからだろう、と感じる。
『だれしも嘘はいやがるのに、ほんとうのことを伝えないことはやさしいことだとおもっている』
これはきっと、自分のことも含めてそう言っているのだろうと思う。
他者との関わりとのバランスを取るかのように、彼はボクシングにはストイックだ。いや、ボクシングに、というわけではないかもしれない。ボクシングはあくまでも、ただの手段だ。彼は、自分の努力によって、自分の内側を高めることにストイックだ、と言えるかもしれない。
『だけどほんとうにこわいのは、そんなことを思考してしまうおれ自身だ。きっとおれはいざというとき、おれに還ってしまう。相手のパンチを避けて自分の拳をうちつける一瞬に、ボクシングと一体になって、おれという人格を捨ててボクサーに成りきれなければ、きっと勝てない。おれはおれを捨てないと。
思考は敵だ。』
ここには、はっきりとした主体性がある。他者との真っ当な対話は拒絶する一方で、自らの内側との対話には真剣に取り組んでいく。こう書くと歪に思えるが、現代人の多くはこういう状態に陥っているかもしれない。他者との対話は、「共感」という通貨を抜き取るためだけの手段であって、あとはひたすら内向きに対話を続ける現代人と。
『こんな瞬間の連続で生きているとしたら、おれはおれが心配になった』
「主体性のなさ」と「自由」は等号で結ぶことが出来るのか。彼の生き方から僕は、そんな問いを拾い出した。
内容に入ろうと思います。
本書は、1編の中編と、2編の短編が収録された作品です。
「青が破れる」
ボクサーも目指す秋吉は、友人のハルオに連れられて、ハルオの彼女であるとう子の見舞いに行く。ナンビョーだという。健康であることを諦めたとう子の投げやりな感じを、秋吉はそのまま受け入れる。
付き合っている夏澄さんは、秋吉のことが好きではない。そのことが、秋吉には分かる。けれど秋吉は、呼ばれれば夏澄さんのところへすっ飛んでいってしまう。バランスの悪い関係。
ジムでは梅生とスパーをする。正直、梅生とのスパーは好きではないが、梅生は秋吉とのスパーを好んでいるようだ。梅生が絡んでくるのに任せて、秋吉は梅生とボクシングの練習をする。
それぞれが、少しずつ折り重なるようにして関わっていき、そして唐突に3人が死ぬ。
「脱皮ボーイ」
ホームから転落し、間一髪のところで電車に轢かれずに済んだ男。彼をたぶん突き飛ばしてしまったと言って見舞いにやってきた女。二人は付き合うことになる。男としては、全体的にはラッキーな出来事だった。女は、男と初めてセックスをした日、彼が脱皮することを知った。
「読書」
電車内の男と女は、膝がぶつかった。女は男の方を見なかったが、男は彼女がかつて手ひどく振った女だということに気づいた。女は読書をしていた。正確に言えば、女の上半身は読書に耽っていた。膝から下は、男の存在を感知していた。男は、悩んでいた。このままここに座っていたら、女に気づかれるのではないか…。
というような話です。
いわゆる「文学作品」というのをあまり読まないので、この作品が文学としてどうか、ということはイマイチよく分からない。物語が面白いかどうかと聞かれれば、決して面白いわけではないと思うけど、ただ文章は好きだなと思う。物事をどう捉え、それをどんな言葉で切り取るのか、という感覚がとてもいいなと感じる。
たとえば、こんな描写。
『おれはハルオの、滑稽でなければひとといっしょにいられないとでもおもっているような性癖が、とてもいやだった』
『声を失い、とう子さんもじっと黙ったので、場はしずまった。ふしぎなことだが、季節の変わり目をおれは感じとった。ドアをあけた瞬間、「もう秋なんだな」とおもった。風の温度より、明確な感触の差が、空気ちゅうに満ち満ちていた。人間は、季節のち外を気温なんかでは認識してないんだ、とおれはとつぜんにおもった。』
『ばかじゃないから、わかるけどさ、あたらしいままはままと違うんでしょ?でも、やさしいのよ。ほんとに違うのは、わからないのよ』
こんな感じの描写が、作中に結構あって、僕はそういう切り取り方や表現の仕方が結構好きだなと思う。秋吉がボクシングに向かっている時の思考も、なかなか面白い。物語自体は短いけど、重厚で濃密な感じがするのは、この文章のテイストのお陰だろうと感じる。
物語的には3編とも、僕はなかなかうまく読み取れなかった。まあこれは、国語が大嫌いだった理系人間だからだろうと思う。「青が破れる」の登場人物たちは全般的に変わってて好きなんだけど、彼らが秋吉を真ん中に置きながら関わりあった末に何がどう変化して何がどう変わらなかったのか、というようなことはうまく掴めなかった。そういうことがうまく掴めると、もう少し面白く読めるんだろうなと思う。
「青が破れる」の中で気になったことがある。おそらくこれは作者の意図ではないと思うのだけど、漢字をひらがなに開いたために、多義的な解釈が出来る文章が複数あるな、と感じた。
『だって、ハルくんはかえるでしょ?許せないの。死ぬこととか、病気に選ばれたこととかは、わりに許せるけど、許せるっていうか、許せる許せないのレベルじゃないし、「はぁー、まじか」って感じだけど、ハルくんがきたらかえっちゃうってことだけは、どうしても許せない』
僕は最初、「ハルくんはかえるでしょ?」の「かえる」が漢字に変換できなかった。「変える」なのか「買える」なのか「帰る」なのか。実際は「帰る」である。
『雨の日でも構わずロードワークにはいくが、きょうはきが進まなかった』
ここは、「今日は気が進まなかった」だとすぐ分かったが、最初読んだ時は「今日覇気が進まなかった」って読んでしまって、「???」ってなった。
『目の前にはなすべき他者があらわれると、まったくおれがおれでないくらい、考えることがかわってしまう』
ここも最初、「目の前には成すべき他者が」と読んでしまった。「目の前に話すべき他者」だとすぐにわかったのだけど。
『おれはみ放さない。梅生の感情を、当面、み放さない』
これは最初、意味が取れなかった。「見放さない」だと分かるのにちょっと時間が掛かった。
恐らく、漢字をひらがなに開くことで、一つの文に複数の意味を重ねる、というような意図はないと思う。純粋に、漢字を開く方が読みやすいと判断したのだろうと思う。とはいえ、こんな風にして違和感を覚えて立ち止まる、ということを何度か繰り返すというのは、僕みたいになんとなくすーっと文章を読んでしまう人間にはちょっと面白いかも、とは思った。もちろん、読みにくいな、とも思ったのだけど。
「脱皮ボーイ」では、『その男の子が微かに動くまで、わたしは人殺しだった』という一文が一番好きだ。僕がもし小説を書くとしたら、この文章を冒頭に持ってきちゃうだろうなぁ、なんて思った。まあ、この一文から始めると、物語が文学寄りに進まないような雰囲気を醸し出すのかもしれないけど。
全体的には、物語にではなく文章に惹かれた、というような感じでした。
町家良平「青が破れる」
ひかりの魔女(山本甲士)
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内容に入ろうと思います。
真崎光一は、大学入試に落ちて今は浪人中。近くのスーパーでパートをしている母・奈津美(オーナーに不満がある)、地元の電気設備会社で働く父・要次郎(決して給料は良くない)、最近反抗期である妹・光来(夜遅く帰って来たりと素行が悪い)という4人家族で、それなりに問題を抱えながらもなんとか日々生活をしていた。
そこに、光一のばあちゃん(父・要次郎の母親)の真崎ひかりが越してくることになった。要次郎の父である栄一郎が急死し、元々ばあちゃん名義だったこの家に戻ってくることになったのだ。かあちゃんは、明らかに迷惑そうな雰囲気を漂わせながら、それでも家の名義がばあちゃんだから仕方ないという風に諦めているようだった。
基本的にばあちゃんのことは、自宅浪人中の光一が見ることになった。ボケたり歩けなくなってたりすると怖いと思っていたが、久々に会うばあちゃんは、背筋もピンとしてるし、スタスタ歩くし、ボケてる感じもない。これなら大丈夫そうだな、と光一は思った。
ばあちゃんは、今でも賀状のやり取りをしていて、栄一郎の葬儀に香典をくれたというかつての教え子たち(ばあちゃんは書道の先生をしていた)に会いに行くことにした。ばあちゃんが外に出る時はついていくようにと言われていた光一は、そこでばあちゃんの凄さを様々に目の当たりにすることになる。特に、かつての教え子からの慕われぶりは尋常ではない。何者なんだ、ばあちゃん。
それから真崎家には、狙いすましたかのように様々な問題が降り掛かっていくことになるのだが…。
というような話です。
これは面白い小説だったなぁ。どこにでもありそうな、年老いた祖母を引き取る、というところを入口にして、よくありがちな日常を描きながらよくここまでほっこりさせる物語に仕立てたなぁ、という感じ。こういう表現はあまり好きではないのだけど、読むとじんわり暖かくなっていくような、そんな小説だ。
とにかく、ばあちゃんの造形が見事だ。この作品が、ばあちゃんの造形その一点に掛かっていると言っていい。読めば誰もが、このばあちゃんに惹かれてしまうんじゃないかと思う。
ばあちゃんは、傍目に見れば何もしていないように見える。ただ、かつての教え子に会いに行き、釜でご飯を炊き、時々道端から食べられる草を摘み、母親の代わりに風呂掃除などをする。ただそれだけに見える。
しかし、光一の目には違うものが見えている。ばあちゃんが動くことで、目の前にあったはずの様々な問題が解決していくのだ。しかも、問題の解決にばあちゃんが関わっているという確証を掴ませないようにして、である。タイトルに「魔女」と入っているが、なんだかよく分からないけど問題を解決してしまっている、という意味で、まさにばあちゃんは「魔女」と言えるだろう。
ばあちゃんの魔法の秘密は、「優しい嘘」にある。
ばあちゃんはこの「優しい嘘」を絶妙に使いこなすことで、状況を劇的に変えていくのだ。
僕は嘘をつくのがあまり好きではない。嘘というのは、それが良い嘘であろうが悪い嘘であろうが、嘘をつくがわに「嘘をつき続ける」という責任が発生するような気がしてしまう。悪い嘘の場合は、まあ嘘をつき続けなくてもいいのかもしれないけど(その方がより大きなダメージを与えられるという状況もあるだろう)、良い嘘の場合は、それが嘘であることが相手に伝わらないように嘘をつく側が意識しなくてはいけない。なんとなく僕は、それが苦手なのだ。
ばあちゃんが凄いのは、ただ「優しい嘘」をつけるというだけではなくて、その嘘をつき続ける覚悟まできちんと持っている、ということだ。常に相手のためになる嘘をつくことで、相手の苦しい状況や辛い感情を変えていく、そういうことをばあちゃんはずっとやり続けてきた。ばあちゃんに救われた人間がどれぐらいいるのか、想像もつかない。
「人脈」という言葉は好きではないけど、ばあちゃんのこの関係性こそまさに「人脈」だろうと思う。よくビジネス書にあるような「人脈」は、結局「ただ知っているだけ」「名刺をもらっただけ」「SNSで繋がっているだけ」だろう。ばあちゃんは、いつどんな時でも相手に与えて与えて与え続けるからこそ、ばあちゃんが困った時に進んで助けたいと思う人間が現れる。こういう関係は素晴らしいなと思う。
ばあちゃんは常に、自分以外の誰かを輝かせる力を持っている。ばあちゃん自身は、目立たないし分かりやすいような評価も受けない。でも、分かる人は分かってくれている。これも、評価のされ方としてちょっと理想的だなと感じてしまう。現代人は、いかに自分が目立つかということばかりに汲々としてしまう。私が、僕が、という合唱が、様々な場面で聞こえてくるように思う。でも、決してそういう生き方だけではない。誰かを輝かせる方に特性を持つ人間だって確実にいるし、そういう、関わった人からは絶大な信頼を集める、というような評価のされ方がもっと広まってもいいのではないかと思えた。
本書に登場する誰もが、「自分こそがばあちゃんに一番可愛がられている」と感じている。みんなにそう思わせるばあちゃんのテクニックは、キャバ嬢や営業職でも活かせるだろうし、そういう実用的な読み方もきっと出来るだろう。もちろん本書は物語だから、都合よく話が展開する部分も多々あるのだけど、だからと言ってばあちゃんの本質の評価が低くなるわけでもない。ばあちゃんの振る舞いは、いつ何時でも、誰でも出来るというものではないかもしれないけど、ばあちゃんのような意識で生きていくことは、小手先のテクニックで人間関係を構築しようとするよりは遥かに有意義な関係性を築けるだろうなと思う、
説教するでもなく、感情的になるでもなく、ただ生き様を見せるだけで誰かの何かを根底から変えてしまうような大人に、自分もなってみたいものだ、と感じた。
山本甲士「ひかりの魔女」
世界の終わりの壁際で(吉田エン)
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個人的には、いつ死ぬのかはっきりと知りたい、という気持ちがある。
その上で生きていたい。
それがたとえ「明日」であっても、別に構わない。明日死ぬんだな、と思うだけだ。もちろん僕は、死に直面した経験はない。「死ぬ」ということに対して、イメージだけでしか話が出来ない。とはいえ、今の自分はそう思うのだから仕方ない。死を間近で感じるような経験をすれば、何か変わるだろうか。
昔何かの小説で(森博嗣の作品だったと思う)、こんな感じの記述を見た。
「生きている状態の方が不自然だ」
死んでいる状態の方が、エントロピーやエネルギー的には安定しているわけで、むしろ生きている状態の方が自然に対して無理矢理抵抗しているおかしな状態なのだ、という意味だ。なるほどと思った記憶がある。だからと言って生きている状態に執着しないようにしよう、などと言うつもりもないし、そんな風に思ってもらいたいわけでもないが、僕にはなんとなく、多くの人が死ぬことを過剰に恐れているように感じることがある。
『問題は「いつ死ぬか」じゃない。「死ぬまでに何をしたか」だよ』
そうだよなぁ、と思う。長生きしたいという人は、自分がどんな状態であれとにかく生きている状態を保ちたいようだが、僕にはイマイチその感覚は理解できない。自分の中で意味のあること、生きていると感じられることが出来なくなった状態で生きていたいとはまるで思わない。
スティーブ・ジョブズは、「明日死ぬとしたら、今からやろうと思っていることをするかどうか」と朝自らに問いかけてから毎日を生きていたという。そこまでのことを考えているわけではないが、僕も「いつ死んでも後悔しないように生きる」という意識は常に持っている。僕の場合、ただただ未来に対して特に何も希望していないからいつ死んでもいいと思っているに過ぎないが、それでも、「いつ死んでもいい」と思える感覚は自分の中で大切にしていきたいと思う。
内容に入ろうと思います。
大規模な災害の到来が予言されている近未来の東京。そこは、<シティ>と<市外>という両極端な環境に分け隔てられていた。巨大な<壁>によって隔てられた<シティ>には、<方舟の切符>を持った人間しか入れないが、どうやったらそれが手に入るのかわからない。<シティ>に入れない者は、猥雑で暴力的で貧しい<市外>で、大災害の到来を待つしか無い。
そんな<市外>に住む片桐音也は、<フラグメンツ>という格闘ゲームでのしあがっている男だ。<シティ>ではありとあらゆる機器が手に入り、さらに反応速度を高めるために健康な腕などを切り落として機械のパーツを組み込む<オルター>と呼ばれる人種さえいて、ロクな機器も手に入れられない<市外>で彼らに挑むのは無謀だ。しかし片桐はあらゆる努力をして<シティ>の人間に立ち向かい、ゲームで勝つことで小銭を巻き上げる。そうやって<シティ>への道を切り拓こうと努力しているのだ。
ある夜。悪友から誘われてある自動車を盗むことにした片桐は、その時ひょんなことに謎めいた人工知能を手に入れてしまう。片桐が普段使っている<クリエ>という人工知能とはまるで違う。<コーボ>と名乗ったその人工知能を手に入れたことから、片桐の運命は流転していく。
<コーボ>を手に入れる過程で知り合った、白髪・赤瞳の少女・佐伯雪子はアルビノであり目が見えない。しかし驚異的な聴力を持っており、片桐は<コーボ>と雪子の組み合わせによって、<フラグメンツ>で勝ち進んでいくようになる。しかし、<コーボ>の存在を察知され追われる身となった二人は、<コーボ>と協力して<シティ>の謎に迫ろうとするが…。
というような話です。
なかなか面白い作品でした。正直、<フラグメンツ>のゲームや、片桐が使いこなす様々な機器、プログラミングをベースにしているだろう様々な記述にはついていけない部分もあったのだけど、全体的なストーリーはよく出来ているんじゃないかなと思いました。僕自身はそもそもSF的な設定が得意ではないのですけど、若い世代なら、この作品で描かれているゲームや世界観の設定などは割とすんなり頭に入ってくると思うので、面白く読めるんじゃないかなと思います。
限られた人間だけを優遇するために城壁で隔離した空間を作る、という設定は決して目新しいものではないけど(僕は池上永一「シャングリ・ラ」を連想した)、巨大な壁を隔てることで情報が遮断され、生活を管理される、そのことによって生き方ががらりと変貌してしまう、という部分を作品の根幹に置いて、「生きるとは何か」と問いかけてくるような物語に仕上がっているのでなかなかいいんじゃないかと思いました。
『じゃあ、その恐れるべき死から逃れられたら、どうなる?
きっと片桐も彼らと同じように、するべきことを見失い、ただただ、おまけの人生を送ることになったろう。そう、片桐も彼らを責められない』
<シティ>の内部は、快楽しかないような世界観で描かれていく。生活に不自由せず、楽しいことは山ほどある。辛い現実は、<シティ>を取り巻く壁が見えなくしてくれている。そういう環境で人はどうなるのか、という問いは、そのまま僕たち自身にも向けられているはずだ。
僕らが生きている現実は決して、楽しいことばかりではない。辛いことも山ほどある。しかし、辛い現実から目を背けてもなんとか生活出来てしまうような社会が、今奇跡的に現出している。親世代がある程度裕福であること、インターネットにより様々なコストが下がり、そして様々な楽しみが現れたこと。そういう世の中では、仮想的に期限付きの「楽園」を生み出し、そこで生きることが出来てしまう。そこまで極端ではなくても、自分の見たい情報だけ見て、見たくない情報を排除できてしまうこのネット社会では、多くの人が自然と、彼らと似たような環境に生きる結果を引き寄せてしまうだろう。
『「だから?外でたくさんの人が死にそうなのを無視して、こんな、綺麗すぎる、贅沢すぎる街で、目と耳を塞いで生き残れって言うの?そんなの、絶対、間違ってる!」
絶対、間違ってる。
そう、そうだ。絶対、間違ってる』
<シティ>を日本、<市外>を発展途上国と捉えても面白い。世界の様々な紛争や貧困(それらは、先進国に住む僕らにも原因の一端がある)を無視して、ある程度裕福に暮らせる日本でのほほんと生きていてもいいのか。目を瞑ったまま知らん振りしててもいいのか。そういう問いかけとしても読むことが出来るだろう。
設定や状況を理解するのに苦労する部分もあるが、深読みしようと思えばいくらでも出来るし、エンタメとして読んでも十分に面白い、なかなか読ませる作品だと思います。
吉田エン「世界の終わりの壁際で」
よるのばけもの(住野よる)
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こういう時だけ思いだす。
いや、こういう時にしか思い出さない。
僕も小学生の頃は、いじめに加担する側だったんだな、と。
小学生の頃、クラスにいた女の子を「汚いもの」として扱って、彼女が触れたものに触ると菌が移る、という設定で「ふざけて」いた。
それ以外にどんなことをしていたか、全然記憶にない。直接的な暴力とか、水を掛けるとか、そういうことはしていなかったように思う。仲間として扱わなかった、という感じだっただろうと思うが、よく覚えていない。僕が積極的に加担していたのか、消極的だったのかも、よく覚えていない。
そう、よく覚えていないのだ。
そもそも僕は、子どもの頃の記憶がほとんどない。昔から、周りの物事に関心がなかったのだろう。先生の名前も、同級生の名前も、当時流行ってた音楽も、見ていたテレビも、どんな行事があったのかも、なーんにも覚えていない。大学時代はかろうじて覚えているが、小中高時代のことは、搾りかすみたいな記憶がところどころにあるだけだ。
だから、いじめに加担していたことや、どんな風に彼女を扱っていたのかを忘れていることも、仕方ないのかもしれない、と思いたい部分もある。
しかし、本当にそれでいいのだろうか、と思う気持ちもある。
僕が考えたいことは、いじめに加担していたまさにその時、僕の中に「罪悪感」はあったのか、ということだ。
いじめている側が、どんな気持ちでいじめようが、いじめられる側には関係ないだろう。それは十分承知した上で、「罪悪感」を抱きながら仕方なくいじめをしていたのだとしたら、今の僕は昔の僕をまだマシだと思えるかもしれないと思う。
ただ、「罪悪感」があったのだとしたら、もう少し覚えているものではないか、とも思う。
これも小学生の頃だったと思うが、CDを万引きして店主に捕まったことがある。幸い警察には通報されなかったのだが、母親にはもの凄く泣かれた記憶がある。どんな理由で万引きをしたのかまったく覚えていないが、母親に悪いことをしたな、という気持ちがあるからこそ、その万引きの記憶は他の記憶よりは多少は鮮明だ。
「罪悪感」を抱きながらいじめていたとしたら、もう少し覚えているはずだろう。だから僕は、その当時、自分が悪いことをしているという自覚がなかったのではないか、という気がするのだ。
そのことが、僕はとても怖い。
今の僕はむしろ、周囲の輪からどうしても外れてしまうような人ばかりに興味が向く。少し間違えれば学生時代いじめられていただろう人(あるいは、実際にいじめられていたという人もいたが)ばかりに関心が向く。というか、そういう人でないと、あまり興味が持てない。今の僕は、周りと違うからというだけの理由で、周囲に馴染んでいないからというだけの理由で、個人を排除する人間ではない。
しかし、僕の推測が確かなら、僕は小学生の頃、悪いという自覚なく、クラスメートの女の子を仲間から排除し、傷つけるようなことをしていたのだ。
その子のことを思い出したのは、本当に久しぶりだと思う。これまでも、ニュースや小説などでいじめの話は目にしてきた。でも、たぶんそういう時には思い出さなかったのではないかと思う。思い出した、という記憶がない。それは僕に、「いじめに加担していた」という意識がまったくないからだろう。この文章を書いているまさに今も、僕は、理性では「かつていじめをしていたんだ」と認識出来るのだけど、自分の感情や感覚のレベルでは、自分自身のことを「いじめに加担した人間」と思えないところがある。
この作品を読んでその女の子のことを思い出したのは、やっていることが似ているからだろう。この作品で描かれるいじめは、身体的な暴力ではないものがほとんどだ。存在しないものとして扱う、仲間ではないものと見なす。そういういじめだ。そういう小説を読みながら僕は、そうか、小学生の時のあの時の僕はいじめをしていたんだ、と思ったのだ。
いじめのニュースを見ながら、なんでいじめなんてするんだろう、と思っていた。違和感なく、そう思っていたのだ。僕は、自分がきちんと出来ていないことを他人に押し付けることはあまち得意ではない。だから、小学生の頃いじめをしていたのだという意識があれば、ニュースを見る時に現れる「なんでいじめなんてするんだろう」という感覚は、僕にはありえないことなのだ。
いじめられた側は一生そのことを忘れないが、いじめた側はすぐに忘れる、と言われる。本当にその通りだろう。悪い、という認識が出来ていないのだから、その行動を止める理由もないし、後々思いだす理由もないのだ。
『難し、いことはい、い。生き延び、なさい。大人にな、ったらちょっとは自由になれ、る』
登場人物の一人が、先生から掛けられた言葉を復唱している場面だ。このセリフは、見方によっては教師失格となるだろうが、しかし真理をついてもいるだろう。いじめを根絶することは難しい。いじめている側の意識がこうなのだから。
僕は想像してみる。もし今の感覚、価値観のまま、小学校のあのクラスに戻ったとしたら、僕はどんな振る舞いをするだろうか、と。彼女はいじめられている。クラス全体で、いや、僕の記憶では学年全体で彼女は「汚いもの」として扱われていたような記憶があるのだが、とにかく多くの人から彼女は排除されていた。そういう中に、今33歳の意識のままの僕がいるとして、僕はどう振る舞うだろうか。
…難しい問いだ。いじめには、加担しないような気がする。でも、彼女を助けることもしないような気がする。それが許されるような立ち位置を絶妙なバランス感覚で探し出すのではないかと思う。少なくとも、そういう立ち位置を目指して行動するのではないかと思う。
結局僕は、今の意識のままでも、大した人間ではないのである。
『夜になると、僕は化け物になる』
この一文から、物語は始まる。
主人公は、中学生である安達。彼はある時から突然、夜は化け物に変身するようになってしまった。裂けた口と八つの目、六つの足、四本の尻尾を持ち、体全体の大きさを変えたり、瞬時に変形したり出来る、そんな化け物だ。彼は化け物になるようになってから、夜は化け物の姿のままあちこち歩き回っている。姿をさらして人を驚かせてみたり、その途轍もない移動スピードを利用して遠出してみたり。しかし、そういうのにも、もう飽きた。
ある夜。彼は学校に宿題を忘れたことを思い出し、化け物の姿のまま中学校へと向かう。首尾よく宿題を取り出…せるはずだったが、思いもよらないことが起こった。
校舎内に、誰かいるのだ。それは、矢野さつきだった。区切れのおかしな話し方をする、クラスの中で排除されている女の子だ。夜の校舎で、一体何をしているのか。
しかし、そんなことよりもさらなる衝撃が安達を襲う。矢野は、化け物の姿の彼を見て、「あーちゃん?」と、これまで矢野から一度も呼ばれたことのないあだ名で話しかけられたのだ。何故認識出来たのか、まるで分からない。分からないが、矢野はこの化け物を迷うことなく「安達」だと判断したようだ。
それから、安達と矢野の奇妙な「夜休み」の日々がスタートする。矢野は、昼間は学校ではのんびり休めないから、夜の学校で休んでいるのだ、と意味の分からないことを言う。安達は安達で、矢野に正体をバラされるかもしれない、という恐怖もあって、矢野と過ごす夜を無視出来ないでいる。
夜に密かに会って話すようになったとは言え、昼間は安達と矢野に関わりはない。安達は、クラスの人気者である笠井を中心としたグループの中に紛れ込み、周りからズレないように、はみ出さないようにと日々慎重に生活をしている。矢野は相変わらず、誰からも返事が返ってこないと分かっている挨拶を毎日して、何か嫌がらせをされる度に奇妙な笑顔を浮かべてみんなに気味悪がられている。
『人にはそれぞれ、役割や立ち位置っていうのがあるもんだ。お互いにそれを理解しなくちゃいけない。
それを、あいつは分かってない』
二人の奇妙な「夜休み」は、やがて危機を迎えることになるのだが…。
僕は昔から、こんな想像をすることがある。
「僕らが生きているこの“宇宙”が一個の細胞であるような生物は存在するだろうか?」
これはつまり、こういう問いと同じでもある。
「人間の細胞一個の中に、“宇宙”が存在する可能性はあるか?」
何故こんなことを書いたかと言えば、本書を読んで僕は、“教室”というのは、クラスメート一人一人が一個の細胞であるような生物みたいだな、と感じたからだ。
『人にはそれぞれ、役割や立ち位置っていうのがあるもんだ』という安達の心情は、こういう捉え方をするとしっくりくる。クラスメート一人一人が、生物を構成するための様々な役割を担っており、その全体として“教室”という一つの大きな生物が成り立つ。彼らの理屈からすれば、矢野さつきの存在はさながらウイルスや病原菌のようなものであり、“教室”という生物を構成するのに不必要なものだから排除されなければならない、と判断されているかのようだ。
安達は、こういう意識を常に持ちながら日々の学校生活を送っている。
『教室でミスをしないよう、皆からずれないよう、今日から一週間、また注意を払って生活しなければならない』
安達の中には常に、こういう意識がある。『ずれないよう』というのが、安達の至上命題なのだ。
“教室”という生物も、風邪を引いたり、体温が高かったり、逆にエネルギーが有り余っていたりと、日々状況が変わる。状況が変われば、各細胞に求められる役割も自ずと変わってくる。しかし、“教室”という生物の場合、脳からやるべきことの指令が届くのではなく、細胞一個一個がやるべきことを自ら判断しなければならない。安達は、その状況に疲弊している。
疲弊しているからこそ、彼は「化け物」になってしまったのだろうと思う。
クラスメート一人一人を細胞とする生物、という発想は、本書の設定からの連想もあっただろう。安達は夜になると化け物に変身するが、その化け物は、黒い粒子が集合して出来上がっている。だから自在に形が変わるし、体の大きさも変えることが出来る。その黒い粒子とは何なのか、何故安達だけが化け物になったのか、何故化け物になると睡眠が不要になるのか…その辺りのことは、本書を最後まで読んでも解決しない。設定として与えられることはない。だからこそ、想像の余地がある。いかようにでも解釈出来る。
僕は、その黒い粒子は、“教室”という生物の老廃物ではないかと思う。“教室”が生きていく中で不要になったもの。それらが、安達の元に集まった。何故安達だったのか。それは、物語のラストの安達の行動に理由があるのではないか。つまり、そういう行動を最終的に取ることが出来ると判断されたからこそ、それら老廃物は安達の元に集まったのではないか。
まあ、一つの解釈だ。
矢野は、必死でずれないように毎日を過ごしている安達とは対照的だ。クラスの中での矢野の振る舞いは、「矢野はおかしな人間だ」という色眼鏡を外して見ても、やはり奇妙に映るかもしれない。矢野が実際に目の前にいるわけではないから想像するしかないが、確かに矢野の振る舞いは、近くにいる者をざわつかせるのかもしれない。
様々な要因があるとはいえ、周囲とうまくやっていけない振る舞いを日常的にしてしまうが故に排除されてしまう矢野。その学校生活は、想像するだに苦しいが…。
しかし、安達と矢野と、どちらが自由であろうか?
『人間の時の僕は、壁や天井じゃなく、人の正義感や悪意や仲間意識に閉じ込められている』
安達は、夜の学校で、そんなことを思う。安達の日常は、安全だが窮屈だ。
『私もあっちー、くん、もその子、達それぞれも違、うよ。違うことは当た、り前だよ』
長く苦しいいじめを経験しながら、周りと同調しない自分を肯定する矢野。矢野の日常は、危険だが自由だと言っていいかもしれない。
『僕は彼女を、自分達の想像もつかない思考回路で動く、おかしな人間だと思って生活してきた。無視されても話し掛けるのをやめず、いじめられてもにんまりと笑い、毎日を楽しそうに過ごす。朝登校していきなり、クラスメイトに暴力を振るう。
極端な考え方を持った、頭のおかしな奴。
そんな奴だから、彼女のおかれている状況をしょうがないと思えた。
でもひょっとしたら彼女が、必死に自分なりに考えて行動し、生きているんだとしたら、どうだ』
矢野の生き方には、敬意を評したい。僕なら、同じようには振る舞えないだろう。逃げるか、屈するか。僕に出来るのはそれぐらいだ。矢野は、逃げもせず、屈しもしない。受け止め、耐える。彼女の中には、はっきりとした哲学があり、倫理がある。彼女は、自分の哲学や倫理を崩さず、かつ現実をどうにか生き延びるための最適解を、常に模索しているのだ。僕にはそう見える。安達にも、そう見えるようになってしまったのだろう。
違いに目がいく、ということは、ほとんど同じなのだ。ほとんど同じだからこそ、僅かな差に目が行ってしまう。ほとんど違うとすれば、逆に同じ部分に目がいくだろう。
違いに目が行くからこそ、いじめや排除は起こる。しかし、それ故に、両者はほとんど同じだということが証明できるのではないか。本書を読んでそんな風にも感じた。
あなたが矢野ではないとして、あなたならこの“教室”の、どこに自分を置くだろうか。
住野よる「よるのばけもの」
小説王(早見和真)
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僕の中には、「書きたいもの」はない。
僕はいつも、自分の外側にある何かに触発されて文章を書く。本、映画、アイドルなど、それがどんなものであれ、それに触れた衝動や感動みたいなものを文章にする、ということを続けてきた。
だから、外側の何から刺激を受けて文章を書く、というのは、割と得意だと思う。
ただ、自分の内側にある何かが、僕に文章を書かせることはない。そういう衝動は、僕にはない。
『「紙の本がどうなるかとかはわからないけど、物語は存在し続けるに決まってる」
「なんでそう断言できるの?」
「物語がここまで人間を生き延びさせてくれたから」』
物語を生み出す、というのは、僕には想像出来ない。かつて僕も、小説らしきものを書いたことがある。しかし、書いている間、僕の中には「書きたい」という衝動は特になかった。なんとなくストーリーを考えて、なんとなく人物を考えて、なんとなく文字にしてみただけだ。
『君、書くことを舐めてるだろ?』
僕には、物語が立ち現れる瞬間みたいなものは、イメージ出来ない。自分の内側から、それが出てくる想像が出来ない。常日頃、他人が書いた物語についてあーだこーだ書いているが、しかしどう考えても「物語を書ける」というだけで、僕にはない力を持っている。凄いなと思う。
『ご存じかもしれませんけど、こう見えて僕は物語に救われてきた側の人間なんです。』
人間と他の生物の違い、みたいなものが取りざたされることがある。道具を使うだの、言語を獲得しただの様々な要素があるだろうが、物語というのも一つ大きな要素なのかもしれない。確かめようはないが、他の生物には、物語と呼べるようなものは存在しないのではないか。物語の有無が、人間という種をここまで大きくさせたのではないか。
『「小説って何なの?誰が読んでるの?」
「どういう意味だ?それって…」
「いや、違うよ。べつに批判してるつもりはない。でもさ、お父さんたちがどれだけ必死になってたとしても、学校じゃ誰も小説なんて読んでないよ。電車に乗ってたって普通の人はみんな携帯を眺めてる。じゃあ、お父さんたちは誰を相手にしてるのかなって。何を目指して本を作ってるのかなって。もちろん本好きっていう人はいるんだろうけど、それだけなのかなって」』
小説だけが物語なのではない。これからも物語は様々な形に姿を変えて残っていくことだろう。その時、小説という形態が果たして残っているか。小説が果たすべき役割はまだきちんと残っているか。その問いと、それに対する希望と絶望が、この作品には詰まっている。
内容に入ろうと思います。
神楽社で文芸の編集者をしている小柳俊太郎は、「KG」と呼ばれている、凄腕だがドギツイ榊田玄という編集長の下で、赤字を垂れ流す文芸部門でなんとか踏ん張っている。俊太郎にはある野望があり、その野望を叶えるために一度中退した大学に入り直して出版社を受けた。神楽社に入ったもののすぐにチャンスが巡ってくるわけでもなく、俊太郎は様々な「作家センセイ」の無茶振りに振り回される日々を送っていた。
30代半ばになってなおファミレスでアルバイトをしている吉田豊隆。彼はかつて大学時代に、「空白のメソッド」という作品で新人賞を受賞し作家デビューした。そのデビュー作はとんとん拍子に映画化まで決定し、「空白のメソッド」はベストセラーとなった。しかしその後はヒットする作品を書くことが出来ず、そのままずるずるとフリーター生活を続けている。今も小説は書いているが、自分が本当に書きたいものを書けているのだろうかという自問や、作家としてどうしていくべきなのかという憂慮などに囚われている日々だった。
二人の物語は、突然動き出した。小学校時代の幼馴染だった二人は、長いこと離れていた後でまた再会した。豊隆の「空白のメソッド」を読み返したことが、俊太郎を編集者にし、豊隆といつか絶対に仕事をするという決意へと変わっていったのだ。
長いことくすぶっている小説家と、ヒットメイカーなわけではない編集者。彼らが小説の世界に壮大な喧嘩を仕掛ける…。
というような話です。
これは面白かったなぁ。エンタメでありながら、小説に限らず何かを生み出そうとする衝動を持った人達の心を熱くするような言葉に溢れた作品だと感じました。
まず、物語としてとても面白い。そこは作者としても相当必死にやっただろう。何故なら、「面白い小説を作れよ!」と全力で訴えかけている当のその小説が面白くなかったら元も子もないからだ。
主人公である俊太郎と豊隆を主軸として、様々な人間のドラマが描かれていく。俊太郎の妻である美咲、俊太郎の息子の悠、豊隆と付き合うことになる晴子、俊太郎が担当している二人の作家、内山光紀と野々宮博、俊太郎が面接を担当した就活生である青島修一、「空白のメソッド」の主演女優である綾乃。こう言った面々が、決して脇役なわけではなく、それぞれの物語を持っている。俊太郎と豊隆の無謀ででも熱すぎる挑戦に何らかの形で巻き込まれた彼らは、その熱で自分の内側の何かが変形でもしたかのように、生き方や価値観が変わっていく。
そう、この小説は、まさに「物語」によって人生を動かしたり動かされたりする人達の物語なのだ。その芯が最初から最後まで貫かれているのが良い。
豊隆がかつて生み出した「空白のメソッド」という傑作、そして今まさに豊隆が書いている「エピローグ」という作品。この二つの小説が、様々な人生を変え、巻き込んでいく。小説の中で、「小説にはまだまだ人生を変える力があるんだ」という展開を描き出すというのはある意味で危険で、ある種のリスクを伴うようにも感じるのだけど、そのハードルを著者は超えているように感じる。
『これだけみんなが夢中になるものがつまらないはずないですから。結局は熱ですもんね。本に込められるのは作家の思いだけじゃなく、かかわったみんなの熱でもあると思うんです。』
「エピローグ」という小説が、多くの人を巻き込んでいく後半の展開にはワクワクさせられる。それは、作家と編集者という、非常に孤独で小さなところからスタートしていく前半の展開とはまさに対照的だ。作家という孤独な作業をずっと続け、それに慣れていた豊隆が、ある場面でこんな心境に至るのがとても印象的だった。
『でも豊隆は頭を上げることができなかった。もっと謝っていたかった。そうして頭を垂れ続けて、自分がどうして賞を欲しがっていたかを理解した。
みんなに喜んでもらいたかったからだ。喜びを共有してほしかった。(中略)
小説家が、こんなふうに多くの人と喜びを共有できる機会はそうはない。』
それにしても「編集者」というのは不思議な職業だと思う。
『小説家を本気にさせることだけがお前らの仕事だろうが』
小説以外の業界でも、「編集者」と呼べるような職業というのはあるだろうか?僕の中では、ジブリの鈴木敏夫は、宮崎駿の「編集者」と呼んでもいいかもしれない、と思う。しかし、他にはパッとは思いつかない。助監督やマネージャーやパトロンなどとは違う役割を持つ「編集者」という存在がいるからこそ、小説というのは「物語」の中でも特異な立ち位置を占めていると言えるのかもしれないと思う。
『自分の担当作を「俺の本」とか口にしてしまう編集者は信用できません。でも、心の中では常にそう思っていてほしいです。一緒に仕事している間だけでいいんですよ。この作品のためなら死ねますよって、せめてウソをついてほしいんです』
豊隆がこんな風に語る場面がある。本書を読むと、「編集者」というのは本当に、「もう一人の作者」と呼んでもいいくらい作品に深く関わっている。作家一人では辿り着けない場所まで、「編集者」が一緒にいるからこそ行ける。「編集者」は、物語を生み出すわけでも、文章を書くわけでもない。しかしそれでも、「編集者」がいるからこそ物語が生まれる。作家と編集者というのは、他の何とも比べられないような、特殊で濃密な関係性なのだなということが本書を読むとよく理解できる(もちろん実際には、様々なタイプの作家が、様々なタイプの編集者がいるだろうけど)。
しかし本書は、本に関わる人間にズバズバ刺さるようなセリフに溢れている。出版という現実を如実に表すそれらのセリフには、読み取り方によって様々な真理が隠されていると思う。
『いいか、小柳。二度は言わねぇぞ。名前だけで売れる作家の作品以外は、一行で読者に「おもしろそう」と思わせられなきゃ売れねぇんだよ』
『作家が書きたいものを書くなら売れっ子になるしかねぇんだ。編集者が載せたいものを載せるならヒット作を連発しろよ。話はそれからだ、クソガキが』
これらは、そんなムチャクチャな、と感じさせるエピソードだが、しかしかなり真実を衝いていると僕は感じる。特に前者については、本を売る現場にいる人間としてよく感じることでもある。映画などのコンテンツ産業はどれも同じだろうけど、「面白いかどうか」より「面白く見えるかどうか」が大事だ。そして、大多数のお客さんが「面白い」と感じるものは、その時々で変化していく。それもあって、余計に本を売るのは難しいなと感じる。
後者については具体的なことを知っているわけではないけど、そうなのだろうなと思わされた。書きたいものと売れるものがマッチすればいいが、必ずしもそうはいかない。しかし、売れるものだけが残ればいいのかというとそれも違うように思えてしまう。こういうジレンマは、まさに最前線である編集者自身が感じていることだろう。
作家という人種についても非常に興味深いセリフがあった。次に引用するのは、同じ作家の発現だ。
『そんなこと知るか!テメーが家族といることで少しでも俺の小説が良くなるのかよ!』
『今回のことだけじゃねぇぞ。若い作家を蔑ろにするようなところでは俺は二度と書かないって言ってるんだよ!』
この内山光紀という作家は、作品の重要な場面で度々登場しては、物語を動かしていく存在だ。傍若無人だが良い作品を書くし、その作品は売れる。業界内でも影響力はあり、ムチャクチャなことを言っているようで芯が通っている部分もある。あまり関わりたくないけど、憎めない存在である。
書店についてはこんな描写がある。
『書店だって慈善事業ではないと頭では理解しながら、時間と神経を注いだ自著が軽く扱われているようで胸が痛む』
書店員として、本を売ることに力を注ぎたいけど、しかし公平にとはどうしてもいかない。売れているもの、売れそうなもの、そういうものに優先的に力が注がれることになる。力を注ぐことが出来ない作家の側からすれば、そんな風に見えるだろう。難しい。
俊太郎や豊隆を始めとした面々が、身を削り、全力を出し切った先で振り絞る言葉は、小説だけではなく、何かを生み出している人に響くのではないかと思う。たとえ本以外の世界に「編集者」がいなくても、彼らの関係や衝突に似た何かは、どこかしらで発露することだろう。死力を尽くすことでしか生まれない何かが、人を感動させ、一気に広まっていく。そう信じなければ突き進むことなど出来ない世界を、ひりつくような熱と共に描き出す作品だ。
早見和真「小説王」
桜子は帰ってきたか(麗羅)
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内容に入ろうと思います。
満州で暮らしていた朝鮮人のクレは、17歳ながらある重要な使命を帯びることになった。
恩人である安東真琴の妻である桜子さんを、なんとか日本まで送り届ける、というものだ。
スパイ容疑で捕まったロシア人を処刑しようとする日本軍に楯突いて殺されてしまった安東は、クレに桜子を託した。クレは、徒歩だけで大陸を縦断し、無謀とも言える逃避行をやり遂げるつもりでいた。体力がさほどあるわけでもない、身体もそこまで強くない桜子をいたわりつつ、クレは知恵と勇気を振り絞って日本を目指す。
日本で安東と桜子の帰りを待ちわびていたのは、桜子の父である久能耕作だ。彼は、引揚船がやってくると聞けば飛んでいき、その度に落胆した。引揚船が終了し、安東と桜子の死を覚悟した後も、当時の二人の様子を聞こうと、新聞広告を打つなどしていた。
耕作の子どもとして育てられた、安東と桜子の息子である真人は、父であり祖父である耕作の死後、とある人物に出会う。彼は、真人の両親のことを知っているようだ。クレと名乗ったその人物から、母である桜子を連れて逃げた壮絶な話を聞いた。クレは、何故桜子が日本に戻っていないのかを調べているという。クレは間違いなく、桜子を日本行きの船に載せたという。しかし真人は、母である桜子の姿を目にしてはいない…。
というような話です。
なかなかスケールの大きな作品でした。
本書は、クレという人物の想いで出来上がっている、と言ってもいいくらい、クレという人物が輝いている。彼は朝鮮人でありながら、戦時中に日本人である安東と桜子から受けた恩を忘れずに、30年以上もの時を経て苦労して日本へとやってきた。確実に日本に戻っているはずだと思っていた桜子が帰国していないと知るや、不法入国者であるという不利な立場であるにも関わらず、自分に出来る調査を続けている。ある事実が明らかになって以降、クレの静かな怒りは消えることがない。
クレの執念が、ひたすら物語を動かしていく。その凄まじさには打たれます。
とはいえ、これは個人的な話になってしまうのだけど、僕はイマイチ、過去にこだわることが出来ない。それが良いことであっても悪いことであっても、起こってしまったことに対して感情を動かすことがなかなか難しい。
だから、復讐、という感覚が、僕にはうまく理解できない。
もちろん、僕自身の身に信じられないほど酷い出来事が起これば、自然と復讐心が湧き上がるのかもしれない、とも思う。でも僕はどうしても、過去にこだわり、過去を精算するために行動しても、現在や未来は大して変わらない、と感じてしまう。
そういう人間だからだろうか。クレの行動原理に凄さを感じても、イマイチ共感することが出来ない。僕がクレと同じ境遇に置かれた時、クレのように行動するかと聞かれたら、まずしないだろう。もう一度書くが、クレは凄いなと思う。思うが、僕の感覚からすると、クレの存在はちょっとファンタジーにも思えてしまう。僕が冷たい人間だからだろう。
僕はかつて、「あの戦争から遠く離れて」や「たった独りの引き揚げ隊 10歳の少年、満州1000キロを征く」と言った本を読んだことがある。どちらも、終戦後の中国からなんとか日本へと帰還した者たちの実話だ。物語も人の胸を打つ。しかしやはり、事実が持つ力に勝てないことも多くある。この作品は、前半は特にクレと桜子の逃避行にページが割かれているが、やはりその部分は、かつて読んだ事実と比べてしまうと弱さを感じてしまう。
ミステリとして読んだ時には、なかなか面白いと思う。人の命が奪われた出来事が非常に多く、謎や問題点を整理しながら読むのがなかなか難しいが、満州からの脱出と、無関係に思える多くの人が亡くなった出来事を結びつけ、一本の線として提示して見せる部分はなかなか良くできているように思う。真人とクレが出会いお互いの情報を共有しなければ辿り着けなかった真実というのがたくさんあり、それが、長い間真相が明るみに出なかった理由にもなっていると思う。えっ、と思わせるような展開もあり、なかなか面白い。
クレという人物の行動原理には、僕はどうにも共感しにくいのだけど、読みながらずっと、クレの願望が叶って欲しい、と思いながら読んだ。クレの奮闘と努力が報われて欲しい、と思いながら読んだ。クレのような生き方には、それに見合う何かが必要だ。クレがその何かを手にすることが出来たのか、それは読者一人一人の想像次第だが、クレは満足しているのではないかと、僕は思いたい。
麗羅「桜子は帰ってきたか」
i<アイ>(西加奈子)
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時々、弟から電話が来る。
僕は大抵、弟に説教される。親ともう少し連絡を取ってやれ、と。たまには実家に帰ってこい、と。
弟が僕にそう言うことは至極真っ当なことなので、僕は弟の話をそれなりにちゃんと聞いている。
先日弟から「プライドが高いから」と言われた。これは、こういう意味だ。
昔、僕は親との関係であーだこーだあったあった。そして、その時の関係のまま今も来てしまっている。プライドが高いから僕の方から関係改善に動いたり出来ないんだろうけど、もういいじゃないか、ちょっとは大人になれよ、みたいな感じ。
でも、弟から見る僕のその感じに、僕は違和感を覚えてしまう。
今の僕にとって、親というのは「特に関心がない人」でしかない。好きでも嫌いでもない。僕の中にはもうわだかまり的なものはない。けど、じゃあ親だから特別なのかというと全然そんなことはなくて、世の中のその他大勢の人と同じように、僕にとっては等しく興味がない人。僕は親というのをそんな風にしか捉えることが出来ない。
弟から、プライドが高いから自分から関係改善に動けない、と言われて違和感を覚えるのはそのためだ。そうじゃねぇんだけどな、と思う。ただ、関心が湧かないだけだ。もちろん頭では、親子だし何らかのアクションが必要なんだろう、と思ったりはする。でも、自分の気持ちの内側から、そういう気持ちが湧き上がることはない。
嫌いじゃない、ただ興味がないだけだ、ということを伝えるのは難しいと思う。
内容に入ろうと思います。
ワイルド曽田アイは、アメリカ人の父と日本人の母の引き取られた養子だ。シリア生まれだというが、アイは本当の両親のことも、故郷のシリアのことも知らない。
養父母は、とても優しかったし、アイを一人の人間として尊重してくれた。でも、養子であるということも両親から明かされて育ってきたアイは、養父母の素晴らしい愛情に包まれながらも、どこか無理をしていた。養父母がこうして欲しいのだろう、と望む自分を生きている、そんな感覚がずっとつきまとっていた。そういう自分で、いなければならない、と。
アイにはずっと、私は免れた、という感覚がつきまとった。養父母に引き取られずにシリアにいたら、混乱の続くシリアで死んでいたかもしれない。自分は、たまたまそういう境遇から免れた。もしかしたら、他の誰かの幸せを奪って、今私はここにいるのかもしれない。
そういう思いを拭い去ることが出来なかった。
高校生になって、アイは、ミナと出会った。ミナはアイの最高の親友となった。
免れた、という思いを拭い去れないまま、アイは成長していく。世界では、様々な不幸な出来事が起こっている。そこの場に自分がいなかった、という事実が、アイを複雑な気持ちにさせた。
やがてアイは、恋に落ちる…。
というような話です。
良い作品だとは思うのだけど、僕にはあまり響かなかった。
アイの葛藤の半分が、僕にはどうしてもうまく理解できないからだ。
僕は、養子ではない(と思う)。だから、養子であることが分かった状態で成長してきた人の気持ちは分からない。ただ、少なくとも今の自分は、自分が養子だったとしてもどうでもいい。実の両親にも興味はないだろうし、血の繋がりの中にいられる感覚みたいなものに囚われることもないだろう。自分が養子であると、子どもの時に知ったとしても、あまり変わらなかったように思う。
そんな風に思ってしまうので、アイの葛藤がイマイチよく分からない。
アイが抱えるもう一つの葛藤は、ちょっと分かるような気がする。
「免れてきた」という感覚だ。
これも、僕の中に「免れてきた」という感覚が丸々あるわけではない。僕の場合は、良いことが起こった時に、「運が良かったな」と思う、その感覚が近いように思う。
自分の身に何か良いことが起こった時、これは自分じゃなくても良かったはずだな、と感じる。宝くじのように、本当に運の要素しかないものもそうだが、自分がある程度以上の努力をして掴み取ったものに対しても同じように感じる。これまでも同じようなことをした人はいるだろうし、僕がやらなかったとしても誰かが同じようなことをしただろう。でも、今回はたまたまそれが自分のところにやってきたのだ、と。
僕の場合、良いことが起こった時に感じることだからまだいい。アイの場合、何か悪いことが起こった時に、それが自分を回避してくれた、と感じる。これは辛いだろう。自分に良いことが起こる、というのはそうそうあるものではないが、自分以外の誰かに悪いことが起こる、というのは日常茶飯事だからだ。アイは、アイの視界に入るそういう悪いことすべてに対して罪悪感を抱いてしまう。
『ずっと、誰かの幸せを不当に奪ったような気がしていて』
養子であるという自分の境遇と、シリアという内政が混乱状態にある国にルーツがあるという事実。この二つがアイの中で複雑な反応をし、様々な経験をすることによって、「悪いことをたまたま回避してきた」「誰かの幸せを奪った」という感覚に囚われ続けることになる。自らのアイデンティティと、世界で起こっている様々な悲しい出来事を違和感なく結びつけている作品で、非常に上手い。
アイが囚われている感覚は、大人になってからのあるきっかけによってさらに悪化し、アイは自分で自分を追い詰めるような結果になってしまう。外側から見れば明らかに「幸せ」であるアイの人生は、内側から突き上げられるような葛藤との闘いの日々だった。常に、抑えきれない何かを押さえ込もうとするような日々を、アイがどう乗り越え前に進んでいくのか。その過程が実に丁寧に描かれている作品だ。
西加奈子「i<アイ>」
ニルヤの島(柴田勝家)
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死んだ後のことは、どうでもいいと思ってしまう。
だから、「死後の世界」があるかどうか、というのは、僕にとってはとてもどうでもいい話だ。
人が、死んだ後のことを気にしてしまうのは何故なんだろう。
例えば「死後の世界」を信じている人にとっての「死」というのは、「僕らが生きているこの世界から離れなくてはいけない」ということでしかないのだろう。だって、「死後の世界」では彼らは「生きている」のだから。「死後の世界」を信じる人にとっては、「死」というのは、生きる場所の変化ということでしかない。
それはおかしいだろ、と僕は思ってしまう。だったら、「死」なんて区切りは要らないんじゃないか、と。生きる場所が変わるだけで、結局死んだ後も別の場所で生きているのだとしたら、わざわざ「死」なんて区切りを設ける必要はない。
僕はそんな風に考えてしまう。
僕にとっての「死」というのは、「そこですべて終わり」というものだ。生きる場所が変わるのではなく、「死」というもの境にして、僕という存在のすべてが終了する。「死」というのは、そういうものであって欲しい。だから僕は「死後の世界」など考えもしない。
ある人が、「私のことを憶えていてくれる人がいる限り、私は死んでいない」という考えを持っている、という話をしていた。なるほど、と思う。その発想は、本質的な部分でこの作品と通じるものがある。「死後の世界」の存在を否定し、死者の記録にいつでもアクセス出来る世界では、人間は永遠に死なない、と言っていいかもしれない。
しかし僕は、そういう世の中は嫌だなと思う。
内容に入ろうと思います。
とはいえ、本書は内容紹介が実に難しい。
舞台となるのは、南洋諸島のミクロネシア。そこは、「大環橋」という東西2000キロに及ぶ巨大な橋と人工島によって繋がれ、ECM(ミクロネシア経済連合体)と呼ばれる国家をなしている。この島を舞台にして物語は展開していく。
世界は今、「死後の世界」を否定している。バチカンすらそう表明したのだ。生体受像という技術によって人々は生きている間常にログが記録に取られている。そしてそのログによって、死後であっても本人の意識を復元することが出来る。そういう技術が開発されたために、人々が死を悲観したり、死後の世界を思い描いたりすることがなくなってしまった。しかしこのECMには、「世界最後の宗教」と呼ばれるモデカイトが存在し、その教義によれば、人は死んだら「ニルヤの島」に行くのだという。
日本国籍を持つ文化人類学者であるイリアス・ノヴァクは、ECMにやってきた。彼の目当ては、ボートを作り続けているという一人の老人だ。かつて読んでリジェクトした論文の祖父に興味があって、論文を書いた孫であるヒロヤをガイドに雇ってECMを廻っている。
スウェーデン人模倣子行動学者であるヨハンナ・マルムクヴィストは、トリーという現地ガイドを雇ってECM内を廻っている。ECMに棲みついているサルについて考察したり、モデカイトの儀式に参加したり…。
ポンペイ島でひたすらアコーマンというゲームを続けるベータ・ハイドリという老人。彼は、遺伝子やミームの考察から、来るべき未来を予測する。
タヤと呼ばれる男は、橋上島で働く労働者たちのリーダーである。
本書を読んで連想した作家は、伊藤計劃・円城塔・宮内悠介である。この三人の作品を読んだことがある人は、本書の雰囲気もなんとなく想像がつくだろう。この三人と同様、本書の著者である柴田勝家氏も、デビュー作とは思えない重厚で深淵な作品を送り出した。
正直に言って、この作品の全体像は僕にはうまく掴みきれない。これもまた、先に挙げた三人の作品と同じだ。断片的に理解できる部分もあるし、分かった気になっている部分もあるだろう。とにかく今は、4つが同時並行で進んでいくそれぞれの物語が、結局どう繋がったのかはイマイチ理解していない。また、ここの描写で言えば、全然理解できない部分が山ほどある。
とはいえ、凄い作品だということはとても良くわかる。民俗学の知見をベースにして、遺伝子などの生物学、プログラミングや社会科学的な分野、チェスに似た知的遊戯、宗教や伝統などなど、様々な知識を織り交ぜながら、「生きるとは」「死ぬとは」「人間とは」「遺伝子とは」「ミームとは」という問いかけをし続ける。「死後の世界」があろうがなかろうが、僕にとってはどうでもいい。しかし本書は、「科学が「死後の世界」を追い払った」という話であり、全体の設定が非常に面白いと思った。そして、4つの物語を並行で読みながら、ECMという国家の成り立ちや行ってきたことなどが明らかにされるにつれて、思っても見なかった世界観が立ち現れる過程はなかなか見事なものだなと思う。
正直、僕のお粗末な理解力では、作品全体を評価できるほど内容についての理解が及ばないのだけど、先に挙げた伊藤計劃・円城塔・宮内悠介が好きな人は間違いなく好きだろうと思うし、土着の文化と最先端のテクノロジーを融合させながら哲学的な思考をする、という知的な作品としても面白いと感じられる人はいるだろう。僕としても、こういう作品を理解できる人間になりたいものだと思わせてくれる作品だった。
柴田勝家「ニルヤの島」
失敗の本質(戸部良一他)
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この作品は、良い作品なのだと思う。
それを否定したいわけではない。
本書を、読み物として読む場合、戦争や歴史に関心がある人が読むだろうからまず問題ないだろう。読者は、良い作品だと思えるはずだ。
問題は本書を、「戦争に限らない、組織の失敗を学ぶ本」として読む場合、ちょっと難しい部分があるのではないか、と個人的には思う。
そしてこの本は、後者として読まれることが、特に最近は多いはずなのだ。
本書は、副題に「日本軍の組織論的研究」とあるように、日本軍の話であり、戦争や戦術の話である。そして僕の感覚では、ある程度予備知識がないとこの作品を読むのは難しいのではないか、ということだ。
僕はとりわけ歴史の知識がない。元々理系だったせいで、歴史をほぼまったく学んでいない、という理由に依るところが多いのだけど、とにかくどの時代の歴史のことも全然知らない。太平洋戦争などの世界大戦についても、知っていることはほとんどない。
そういう人間が本書を読むのは、なかなか無謀だ。
学校の授業で習う程度の歴史の知識がきちんとある人が読めば(僕にはない)、恐らくそれほど問題なく読めるのだろう。しかし、そうではない人にはなかなか厳しい。本書では、地図も付記されるとはいえ地名がバンバン出て来るし、僕がよく知らない人名もいっぱい出てくる。そういう人達が、どこでどういう戦略を立て、誰がそれに反対し、どういう経緯でその作戦が結構されるに至ったのか、みたいな流れを追うのは、結構厳しい。
本書では、
ノモンハン
ミッドウェー
ガダルカナル
インパール
レイテ
沖縄
の6つの作戦が描かれる。どれも、名称ぐらいは聞いたことがあるが、どんな戦いだったのかという知識は僕には全然ない。だから、これら6つの作戦において、事態がどう推移していったのかを詳述した第一章は、文字は追ったけどイマイチ理解できないままに終わった。
そして、第一章で書いたことをベースに、それじゃあ日本軍はどうして負けたのかという要因みたいなものを抽出して理論化していく第二章・第三章も、第一章の情報が頭に入っていないのでやはりよく分からないままだった。
僕は本書を読みながら、本書の現代版を出して欲しい、と思ってしまった。
例えば、地震や噴火などの災害、航空機事故などの事故、企業の倒産やスポーツでの不正など、組織が何らかの失敗を犯してしまうケースは、現代も様々な場面で存在する。それらについて、同じような分析の仕方で「失敗の本質」を誰かが書いてくれるといいなぁと思う。本書はちょっと、僕には難しかった。
要所要所で、なるほどと思う文章があったので、全然理解できていないとは言え、本書の分析自体は現在も活かせるものだろうし、だからこそ売れているのだと思う。しかし、本書からそういう知見を汲み取るには、多少なりとも戦争に関するざっくりとした知識がないとちょっと難しいだろうなぁ、と思う。
本書のあとがきの一節を抜き出して、今回の感想を終わろうと思う。
『いずれにしても、わが国にとってもはや先行モデルや真似るべき手本がなくなってしまったといわれる。こと企業活動に関していえば、意図せざるうちに先頭集団を走るようになってしまった。概念創造能力の不在を、第一線現場での絶えざる自己超越や、実施段階における創意工夫による不確実性吸収だけでカバーすることができなくなってきたのである。
なぜなら、このようなやり方は、既成の秩序やゲームのルールの中で先行目標を後追いする時にのみ、その強みを発揮するからである。むしろ、明示的な概念を持たないことは、組織の柔軟性を確保して流動的な状況への対応にしばしば有利に作用してきたともいえる。
しかし、いまやフォローすべき先行目標がなくなり、自らの手で秩序を形成しゲームのルールを作り上げていかなければならなくなってきた。グランド・デザインや概念は他から与えられるものではなく、自らが作り上げていくものなのである。新秩序模索の過程では、ゲームのルールも動揺を繰り返すであろう。
企業をはじめわが国のあらゆる領域の組織は、主体的に独自の概念を構想し、フロンティアに挑戦し、新たな時代を切り開くことができるかということ、すなわち自己革新組織としての能力を問われている。本書の今日的意義もここにあるといえよう』
戸部良一他「失敗の本質」
クランクイン(相場英雄)
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内容に入ろうと思います。
広告代理店に勤める根本崇は、ある日社長から直々に呼び出しを食らう。まったく心当たりのなかった根本に突きつけられたのは、映画製作の話だ。しかも、映画製作に携わったことのない京楽エージェンシーが手がけるのは、大ベストセラーとなった、庄野美希「永久の大地」だ。この大ベストセラーを、京楽エージェンシーが手がけられるのだという。映画好きの根本には、願ったり叶ったりな話だった。
根本自身も映画製作の経験は皆無だが、気合だけは十分と言った感じで自分なりに出来ることを探し始める根本。しかし、出版社に勤める姉や、社内でアニメ制作に携わっている先輩などに、「担当から降りろ。降りないと死ぬぞ」「この案件は相当曲者だぞ」と脅される。しかし、映画製作に意気込む根本は意に介さない。
しかし、やがてその理由が分かる。原作者である庄野が、とんでもない人間だったのだ。「永久の大地」を発売した四葉者の伊澤、帝映の岩城が様々に奮闘して、どうにか映画化にこぎつける。
しかし、そこからもトラブル続きだ。原作者からの要望に応えるための巨額の費用、カメラマンの人選、撮影初日のトラブルなど、映画に初めて関わる根本はヒヤヒヤさせられた。
そしてそこに、根本の母の話が入り込む。父から死んだと聞かされていた母だったが、理由があって戸籍謄本を取ったところ、父と母が離婚していることを知り…。
というような話です。
ラスト6ページまでは、凄く面白かった。映画製作の舞台裏をきちんと取材したんだなと思わせる描写はなかなかのものだし、女優の伊野やカメラマンの大豆生田のキャラクターも良い。トラブルに対してどう対処していくのかというのも、映画業界ならこういうこともありうるか、と思わせるような破天荒な感じでなかなか面白い。
その映画製作の物語に、広告代理店の一社員である根本の物語が組み込まれていくのは、ちょっとやりすぎかなという感じもするのだけど、その部分も割と違和感なく物語の中に組み込まれていたという感じがする。伝説が伝説のまま表になっていない理由付けがちゃんとされた上で、一人の人間の生涯と、まさに今を生きる主人公とを繋いでいく物語は、なかなか良くできていたなと思う。
しかしなぁ…。ラスト6ページはちょっと酷いんじゃないかと思う。この物語は、こういう終わり方を求めてないよなぁ、と思ってしまうのだ。このまんま、うまく着地させてやれよ、と思ってしまった。物語の流れに乗ったまま、ストンといい位置に落としてやれば、結構良い物語として閉じたんじゃないかなぁ、と思うともったいない。正直、何をどう考えてあんな終わり方にしたのか、イマイチ理解が出来ない。
ラストがあんな終わり方じゃなければ、もう少し色々書いてみたくなる作品だったかもしれないけど、あのラストじゃなぁ、と思ってしまうため感想はここでおしまい。
相場英雄「クランクイン」
棺の女(リサ・ガードナー)
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少し前、「ルーム」という映画を観た。誘拐された少女が誘拐犯によって、裏庭に建てられた狭い“部屋”に閉じ込められる。そこで性的虐待を受けた少女は妊娠し、“部屋”で子どもを産む。
その子どもにとっては、“部屋”の中が世界のすべてだ。母親から、テレビに映る映像はすべて嘘だと教えられる。壁に囲まれたこの狭い空間だけが世界のすべてなのであり、壁の向こうには何もない。彼はそう思ってずっと生きてきている。
ある日母親はある企みを実行に移し、子どもを“部屋”の外に出すことに成功し、母子共に救出された。
しかし、問題はここからだ。“部屋”から生還した少年は、本物の世界にどうしても馴染むことが出来ない。母親から、テレビに映っていたものは全部本物だ、と言われても、そのことがよく理解できない。“部屋”の外に世界なんてないと思っていた少年にはあまりにも広すぎる世界が、彼にはうまく捉えきれない。そうして少年は、どうにも世界に馴染めない。
彼の苦しみは、「自分が慣れ親しんだ価値観に戻りたい」という地点から発せられる。“部屋”は、母親にとっては最低最悪な環境だったが、子どもにとっては生まれた時からそれがすべてだった。その“部屋”の中で培われた価値観だけで生きてきたのだ。しかし彼は、生還したことで、これまで身につけてきた価値観をすべて捨てることを求められる。今まで正しかったことが間違っていて、間違っていたことが正しかった、そういう大きな変化を迫られたのだ。
少なくとも少年にとっては、狭く汚く薄暗い“部屋”から救出されたことを喜ぶよりも、その空間で培ってきた価値観を手放すことの方が苦痛だったのだ。
アインシュタインは、「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションだ」と言ったという。そういう意味で、それぞれの人間が抱えている価値観というのは、どれも偏見に満ちていて歪なのだろうと思う。しかしそれらは、その人が慣れ親しんでいるものなのだ。それを手放せ、と言われることの苦しさは、僕はそういう状況に直面したことがないのでなかなか想像が出来ない。
誘拐された少女である母親の方は、その映画の中では、監禁生活の間もそれまでの自分の価値観を手放さずに過ごせたようだ。正気を保つのは容易ではなかっただろうが、この壁の向こう側にある価値観が正しくて、この“部屋”はおかしいんだという感覚をずっと持ち続けることが出来た。そういう意味で母親の方は、価値観の転換という試練にそこまで直面しなくて良かったと言えるのかもしれない。
しかしもちろん、そうできない人もいる。囚われている環境における価値観に慣れてしまう被害者もいるだろう。慣れることで苦痛を減らせる可能性があるなら当然だ。
しかしその場合、価値観の転換は二度訪れることになる。普通の生活から囚われの環境での価値観の転換、そして、救助されたあと囚われの環境から普通の価値観の転換。
自分がそういう被害者になったことがないから欠片も想像出来ないが、その価値観の転換は相当辛いのだろうと、本書を読んでなんとなく理解した。
ボストン市警殺人課の刑事であるD・D・ウォレンは、ある殺人現場で全裸の女と遭遇する。殺されたのはデヴォン・グールディングというバーテンであり、自宅のガレージで生きたまま焼き殺された。そして殺したのが、全裸のフローラ・デインである。襲われそうになった女性が、抵抗の末化学の知識を使ってデヴォンを焼死させた正当防衛なのだが、ウォレンは納得いかないものを感じた。その思いは、フローラが7年前に誘拐され、1年以上に渡って監禁された末に救助された被害者だった、ということが判明するとより強くなった。有名な誘拐事件の被害者が、今度は男に連れ込まれながらその男を焼死させる。
そんなことあるだろうか?
捜査の過程で、殺されたデヴォンが複数の女性を連れ去っているかもしれない、という痕跡が発見された。もしかしてフローラは、自ら囮となることで、性犯罪者を懲らしめようとしているのではないか。
そんな疑念を抱きながら捜査を続けるウォレンは、あの焼死事件の後家に戻ったはずのフローラが在宅していないことに気づく。部屋中のドアと窓の鍵が開いている。セキュリティを万全にしていたはずのフローラがどう連れ去られたのかは不明だが、明らかにフローラの失踪には第三者が絡んでいるはずだ。
7年前、誘拐され監禁されていたフローラが、何を見て何を知ってどう行動したのか。そして、奇跡の生還を果たしたフローラが一体何の目的で自ら性犯罪者の罠に掛かるような真似をしていたのか。物語が進むに連れて、究極的な状況から「生還」したフローラが抱える恐ろしいほどの葛藤と使命が明らかになっていき…。
というような話です。
なかなか凄い作品でした。ページ数もなかなかのものですが、物語も相当重厚で、重苦しさもあるテーマをエンターテイメントとして読ませる作品に仕上げていると思います。
『わたしは見たくないものをたくさん見た。知りたくないことをたくさん知った。そして犯罪の被害にあうということについて、はじめてはっきりと悟った。それをなかったことにはできない。時間を巻きもどすことも、過去を消すことも、すべてをもとに戻すこtもできない。起こったこと、それらがわたしであり、わたしがそれらなのだ』
本書の物語の圧倒的な中心にいるのが、フローラだ。彼女は、7年前に誘拐され奇跡的に救出された被害者でもあり、性犯罪者を返り討ちにして殺し、さらに再度行方知れずになってしまう。彼女の動向がこの物語を動かし、物語に力を与えているのは間違いない。
フローラの中には、何らかの葛藤がある。そしてそれは、ジェイコブという男に誘拐された472日間に芽生えたものだ。フローラは、長い期間棺に入れられていた。様々な感覚が遮断され、自分を誘拐した男に調教されるようにして、ジェイコブとの特異な関係性を構築していくようになる。
『男の顔を、自分にこんなことをした人間の顔をはじめて見たとき、ほっとする。嬉しささえ感じる』
472日間、フローラにとってジェイコブだけがすべてだった。そういう環境で、棺に入れられ、食事や水をまっとうに与えられなければ、フローラにとってのジェイコブの価値というのはどんどんと変わっていくことになる。ストックホルム症候群という、事件に被害者が加害者に共感してしまうようになる状況は有名だ。フローラも、それと同じような状況に置かれることになる。
『彼が憎い。そして彼が恋しい。彼はわたしの人生にもっとも大きな影響をおよぼした人物であり、これからもずっとそうだ。ほかの人にとってそれは初恋の相手であったり、崩壊した家族であったりするように、わたしにとってはジェイコブなのだ。どこへ行き、何をしても、彼の影がつきまとっている』
フローラは監禁されている生活の中で、自分自身を組み替えた。フローラはジェイコブから「モリー」という名前を与えられていた。そういう環境に長くいたことで、彼女は自分が「フローラ」であることを思いだすことが困難になっていったのだ。「フローラ」と呼ばれていた、農場で狐を追いかけるのが大好きな優しい女の子ではない。「モリー」と呼ばれる、それまでとは違う自分へと生まれ変わっていく。
そしてそのことが、救助された後も苦しみとしてつきまとう。
著者はあとがきの中で、本書のテーマを「救出は試練の終わりではなく、まったく新しい試練の始まりです」という表現で書いている。訳者もほとんど同じようなことを書いている。まさにその通りだ。
『これまでに話を聞いたすべての救出された被害者が、逃げられさえすれば、この試練を耐え抜きさえすれば、二度と苦しむことはないとみな信じていた。そうではないと理解させることがぼくの最大の仕事といってもいいほどだ。生還はゴールじゃない、旅なんだ。そしてぼくが支援した被害者の多くが、まだその旅の途中だ』
FBIの被害者支援スペシャリストであるサミュエルがそう語る場面がある。
サミュエルは、誘拐や監禁などで救出された者を「生還者」と呼んでいる。生還者は、生き抜くためにやれることをやる。救出された後、生還者たちは、自分がしたことに思い悩む。自分が生き抜くためにしたことを自分の内側で処理することができずに。フローラの葛藤も、そこに根がある。
本書の中に、フローラのこんな葛藤が表現されている場面があり、非常に苦しくなる。
『ほんのつかの間、母にもう一度会いたくなった。もうわたしのことは忘れてと伝えるために。お母さん、どうか幸せに暮らして。
でもわたしのことは忘れて。
そうすれば、わたしはもう諦められるかもしれないから。もう頑張るのをやめ、生きるためにこんなにひどいことをしなくてもすむから。ただ消えてゆけるから。
きっとそのほうがましだから。
わたしはひさしぶりに母のために祈った。母がわたしを見つけないように祈った。母がこんなわたしを見ないように祈った。わたしのしたあらゆることを母が決して知らぬようにすむように祈った』
救助された後、フローラはそれまでのフローラとは別人となって、フローラが正しいと信じる行動を取り続ける。フローラが正しいと信じる行動は、周囲から見ると異常でしかない。それでも、フローラは止めることが出来ない。どれだけ危険な状況に追い込まれようとも、フローラは自分の中にある“使命”に囚われて行動してしまう。
『生き抜くことはもうしたくない。
人生を生きたい』
読者は、フローラに翻弄される。読み始めは、フローラの行動原理はまるで理解できない。しかし読み進めると、フローラが抱えている壮絶な葛藤や、“使命”を果たすためにしてきた努力を知ることで、フローラが何に囚われているのかが少しずつ理解できるようになっていく。
フローラを否定することは簡単だ。しかし僕らは「生還者」ではない。「生還者」の経験のない人間には、なんだって言えるのだ。経験したのは、フローラだ。「生還者」となって、それまでの自分と決別したフローラは、自分なりの論理で正しいと思うことをし続ける。その行動を、外部の人間が正しく判断することはとても難しい。
『でもすべての生還者が秘密をかかえている。決して口に出せないことがある。なぜなら、口に出せば起きたことが生々しい現実になってしまうから。他人にとってだけでなく、誰よりも自分にとって』
壮絶すぎる体験を経て、尋常ではない葛藤を抱え、その葛藤に押されるようにして“使命”を果たそうとするフローラと、そんな“被害者”である彼女に遭遇し、その得体の知れさなから捜査を開始するウォレン、そして、まさに誘拐・監禁されている最中のフローラ。これらの物語が、絡まり合って大きな物語を作っていく。僕らは、犯人が逮捕されれば事件は終わりだ、と考えてしまいがちだ。しかし、被害者にとってはそんな終わりはやってこない。永遠に。そういう状況の中、一体どうやって社会の中で生き延びていくのか。その問いかけに真摯に向き合い、答えを見出そうとする、そんな物語だ。
リサ・ガードナー「棺の女」
桶川ストーカー殺人事件 遺言(清水潔)
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事件の存在自体は知っていた。
事件の推移も、なんとなく漠然とは知っていた。
本書を読んで、知らなかったことをたくさん知った。
怒りが、身体中に渦巻いているのが分かる。
『私は別に詩織さんを神聖視などしない。聖女のようなひとだったと言うつもりもない。私が言いたいのは、彼女は本当に普通の、あなたの周りにいるような、善良な一市民だったということだ。彼女は、私やあなたの娘がそうであるように、あらゆる意味で無実なのだ。ストーカー達は彼女を殺した。警察は告訴状を無視し、改竄した。彼女はなにをした?
彼女はただ訴えたのだ。警察に。助けてくれと。』
国だけが暴力を行使できる権利を持つ。そういう発想が、近代国家のベースの一つのはずだ。国家が行使できる暴力の最たるものが、警察や司法だろう。誰かを逮捕し、罰を与えることが出来る。それを、国家だけが行える、ということは、警察や司法には強大な権力が与えられている、ということだ。
『殺人事件の被害者が、犯人を名指しする「遺言」を遺していた』
僕ら市民は、警察という暴力装置が、正しくその暴力を行使してくれることを願うしかない。罪を犯した人間を捉え罰を与え、罪を犯していない人間の安全と平和を守る。そのために警察には強大な権力が与えられているはずだ。
『詩織は小松と警察に殺されたんです』
しかし、その強大な権力が、罪を犯していない人間に向けられたとしたら?あらゆる意味で無実の一市民を貶めるためだけに行使されたとしたら?
『小松を筆頭とするストーカーチームを逮捕したら、警察が何と言われるか目に見えている。
「結局犯人はストーカー達だった。ならばどうして被害者が相談に来たり告訴しようとした時にちゃんと対応しなかったのか。警察は何をしていたのか。きちんとやっておけば猪野さんは死なずに済んだ」
そんな結果が待っていると分かっていて、県警が本気で事件を解決する気になどなるだろうか。むしろ警察は、詩織さんの「遺言」通りの構図などでは事件を決して解決させたくないのではないか』
警察が持つ、暴力という強大な権力が、明らかに誤った方向に使われている。
『ところがその遺品を、国賠請求で訴えられた県警側はまるで違う目的に使用しているのだ。はっきり言えば自己弁護のために、刑事事件ではなく、民事裁判の証拠として、しかも、被害者と遺族に対する攻撃材料として使っているのだ』
著者は、警察よりも犯人を探り当て、さらに埼玉県警の不正を暴いた。彼は、取材が行き詰まる度に、何らかの形で「何か」を受けとる。そんな連続だった。
『私のところに情報を提供してくれた人達は口を揃えてこう言うのだ。
「最初は警察に連絡したんです。でももう嫌です。何から何まで聞くだけで、こちらには何も教えてくれない。向こうが困った時だけ呼び出されるんです。それなのになんであんなに偉そうな態度なんでしょうか…。」』
何かあれば、僕らは警察を頼る以外に方法はない。しかしその警察が、怠慢によって人を殺し、さらにその事実を隠蔽しようとした。
『最終的に警察が描いた絵柄がどんなものか見てみればいい。実行犯久保田が小松武史の指示だと自供。武史の同期は、弟和人を苦しめる悪い女を懲らしめてやるつもりだった。よって和人は無関係、というものだ。その絵柄を最後まで押し通したのだ。現在公判もそれで進行している。和人を絵柄の中から外している限り、詩織さんの「遺言」通りになることはない。それが警察の描いた絵だ。
だが、それが何を意味するか分かっているのだろうか。詩織さんは、名指しして警察にその男からの救いを求めたのに、警察はその男だけ無視するのだ。それは警察の面子によるものなのか。だとしたら、その面子が被害者を二度殺すということになぜ気づかないのか。詩織さんの声は最後まで届かぬままなのか。「犯人」が捕まりさえすればいいのか。「真相」なんてものはどうでもいいのか』
この事件における埼玉県警の対応は、事件の前も、事件の捜査中も、そして裁判中も、すべてが最悪だ。同じ人間と思いたくないくらいだ。もちろん、現場で組織の決定に心を痛めていた人はいただろう。不正に携わったとされた人たちも、重い処分を下されることのなかった上司の指示でやらされたのだろう。本当に、本当に悪い人間は、ごく一部であるのかもしれない。
しかし、もしそうだからと言って、この事件には何も影響しない。現実に、警察の怠慢と不正によって、なんの罪もない一人の女性が殺され、死後も名誉を貶められ、あまつさえ警察の面子を守るために、明らかに主犯だと判明している男を逮捕しないという暴挙を押し通したのだ。
『「でも、俺はおじさんみたいにこういう警察の対応を許せないとは思わないよ。彼らは捜査本部なんか存在しなければ、夕方さっと仕事を終えて、駅前の赤ちょうちんで一杯やるか、家に帰って野球中継でも見るか、そんな普通の人達なんだよ」
それはそうだろう。警察官だって人の子だ。普通で悪いとは全然思わない。だが、だからといって事件があるのに捜査をしない、ましてや事件そのものをなくしてしまおうという奴らをかばって嘘をつくなど許されることか』
僕らも、ミスはする。怠慢であることもあれば、不正を隠蔽したくなることもあるだろう。実際に不正を隠蔽することだってあるはずだ。僕らはいいけど、警察は駄目、という理屈は通らない。通らないと僕も思っているが、しかし冒頭で書いたように、警察というのは国家がほぼ唯一認めている暴力装置だ。警察が世の中の暴力を一手に引き受ける、という条件で、僕らは暴力を禁じられるのだ。僕らから闘うためのすべての武器を奪っておきながら、さらに警察という存在が僕らの“敵”になるとすれば、勝てるはずがない。
僕は本書を読んで、警察にはそういう自覚が皆無なのだ、と感じた。唯一の暴力装置だからこそ、より高い倫理が求められる。それは、そういう職業なのだから仕方ないだろう。
『取材ではありません。伝えたいことがあったから来ただけです。来週発売のFOCUSで桶川駅前の殺人事件の容疑者について重要な記事を掲載します。すでにその内容は捜査本部が十分にご存知のはずです。締め切りは今週土曜です。このことは必ず署長にお伝えください。以上』
この事件は、著者がいなければ間違いなく埋もれていた。「派手好きな女子大生が不幸にも命を落とした」という型に嵌められて終わっていただろう。著者は、詩織さんのイメージを回復させ、事件の真相を見抜いて犯人を特定し、さらに警察の不正を暴いた。本書は、その全記録である。
1999年10月26日、詩織さんは桶川駅前で刺殺された。当初は、通り魔の犯行だと思われていた。著者はFOCUSの記者として取材を続けた。FOCUSは記者クラブに入っていないため、警察からの情報は入手出来ない。いつものことだ。だから著者は、独自に取材を開始することにした。しかし、状況がまるで理解できない。どうやら通り魔ではないようで、詩織さんが執拗なストーカー被害に遭っていたらしいということまではなんとなく分かったが、詩織さんの周辺にいる人は皆一様に口が固く、取材は進まない。
しかし、詩織さんから相談を受けていたという男女から、ようやく話を聞くことが出来ることになった。
そこで著者が耳にしたことは、想像を遥かに絶するものだった。
『私は、あのカラオケボックスの中で、言葉以外の「何か」を受け取ってしまったような気がしていた』
生前詩織さんは、周囲の人間に何度も「私は殺される」と話していた。警察にも相談したが、まともに取り合ってもらえなかった。詩織さんは、警察が力になってくれないことを落胆しながら、それでも毎日前向きに生きようと努力していた。詩織さんに降りかかる嫌がらせは、どんどんエスカレートしていた。外に出るのも怖かったはずだ。しかしそれでも詩織さんは、亡くなる当日まで愛犬の散歩を続けた。普通に生活をしようと、精いっぱいの努力をしていたのだ。
しかし、詩織さんの「遺言」通り、詩織さんは殺されてしまった。
著者の怒りは、まず犯人に向いた。「三流」週刊誌記者が執念を燃やし、警察よりも先に実行犯を特定し、居場所も押さえた。著者の怒りは、警察の発表をただ垂れ流すだけの「一流」のマスコミにも向けられていく。そしてさらに、取材を進める過程で、埼玉県警が不正を隠蔽した可能性に気づく。著者は、警察という権力と闘うべく、再びペンを執り闘うことを決める…。
『週刊誌記者、カメラマンとして、事件取材は嫌になるほどうやってきた。しかし殺人事件の遺族から労いの言葉を掛けてもらったのは初めてだった。大抵の場合はまず逆だ。我々が事実を報じたつもりでも、関係者からすればマスコミはどう転んでも嫌な存在でしかない』
足利事件の冤罪を証明し、警察がその存在を認めていない「連続幼女誘拐殺人事件」の存在をあぶり出した取材を元にした「殺人犯はそこにいる」という作品を読んでも思ったが、著者の執念は凄い。
彼のやっていることは、もう記者のレベルを越えている。じゃあなんだ、と聞かれれば答えに窮するが、敢えて言えば「弱い声を拾い、行動する人」となるだろうか。
著者の執念の根底には常に怒りがある。無念さがある。やりきれなさや理不尽な思いがある。著者は、そういうものに突き動かされるようにして、がむしゃらに行動する。
この事件で最も弱い立場にいたのは、被害者と被害者家族、そして被害者の友人たちだ。彼らは、事件が起こる前から殺人事件が起こることを予感して警察に駆け込むも、手ひどく警察にあしらわれる。事件が起こっても、真犯人を捕まえる素振りを見せない。詩織さんの想いを無視し、警察の都合で事実が捻じ曲げられる。あまつさえ、警察の面子を保つために、応酬した証拠品を使って裁判で詩織さんの印象を貶めるようなことをするのだ。
なんなんだこいつらは、と思う。著者も思っただろう。誰だって思う。しかし、そう思った上で、行動できる人間となるとまずいないだろう。自らの身を危険に晒すことになるとわかっていて、それでもなお実行犯を特定し追い詰めることなど、まず出来ないだろう。
遺族の方からすれば、たしかに著者は、実行犯を特定し埼玉県警の不正を暴いたヒーローだろう。しかし、仮にそういう成果を得られなかったとしても、遺族の方にとって著者は救いだっただろう。
そう、他のマスコミがあまりにも酷すぎる、という意味で。
著者はまえがきで、『週刊誌が嫌い』と書いている。週刊誌記者としての自分の仕事を卑下しているわけではない。その理由を著者はこう書いている。
『派手な見出し、愚にもつかないスキャンダル、強引な取材。イメージで言えばそういうことだ。実際にはそうやって雑誌が作られているわけではないのだが、官庁広報型の「公的なメディア」でないというだけで、そういうイメージが作られてしまっているところが嫌いだ。そういう社会のあり方が嫌いだ』
そしてそれに続けて著者はこんな風に書くのだ。
『だが、この桶川の事件に関わってみて私の思ったことの一つは、その分類の弊害が如実に現れたのがこの事件だったのではないか、ということだ。官庁などが発表する「公的な」情報をそのまま流して「一流」と呼ばれることに甘んじているメディアの報道が、その情報源自身に具合が悪いことが起こったときにどれだけ歪むか。情報源に間違った情報を流されたとき、「一流」メディアの強大な力がいかに多くのものを踏み潰すか。』
この感想の中では触れずに来たが、本書は、「一流」メディアがこの桶川ストーカー殺人事件でどんな役割を果たし(というか、果たせず)、そしてどんな害悪を撒き散らしたのかを指摘する。実際桶川ストーカー殺人事件においては、大部分の非は埼玉県警にあるが、一部は「一流」メディアにあると言っていいだろう。警察が情報を隠蔽しようとする時、警察情報だけを頼りに記事を書く「一流」メディアが、事件の実像をどのように歪めていったのか、著者は丁寧に検証していくのだ。
『それでは記者クラブの構造と同じだ。事件がどんなものかではなく、警察が何を発表するかが大事だというクラブと、「犯人」さえ逮捕すればいいという警察に何の違いがあるのか』
当時著者が所属していたFOCUSは、記者クラブに加盟していなかった。加盟していなければ、警察が行う記者会見にも行けない。警察署を取材しようとしても、非加盟社であるという理由ですべて拒否、警察からの情報がまるで手に入らない、という状態になるのだ。
その状態で著者は、自らの足で稼いだ情報のみで犯人に辿り着く。そして、実行犯が逮捕された後、今まで調べた情報をFOCUS誌上で放出すると、同業他社は度肝を抜かれたという。警察発表しか記事にしない「一流」メディアは、その時点で事件の概要をまるで把握していなかったのだ。記者たちは、桶川ストーカー殺人事件の情報を求めて、FOCUSが発売されると真っ先に買い求めたという。
しかし、ただそれだけのことであれば、まともな取材をしていない社がただ損をする、というだけの話だ。しかし当然、話はそれで終わらない。
『大メディアの流れは急変した。被害者側の訴えなど、知っていてもほとんど記事にしなかった大手マスコミが、狂喜したように県警叩きに躍起になっていた。「桶川事件」がいきなり一面トップであった。しかもその根拠たるやさんざん嘘をついてきた県警が「これが事実です」と発表したことなのだから、ブラックジョークとしか思えなかった。警察の発表だと、どうしてこんなに簡単に信用するのだろうか。それまで県警は嘘を並べ続けてきたのに、それでも県警の発表の方が被害者の父親の会見より真実味があるというのか。詩織さんの「遺言」は記事に出来なくても、警察から文書が配布された瞬間に警察官の行為は犯罪として報じられ、突然事実となるのか…。あまりの変貌ぶりに、私は驚くしかなかった』
大手マスコミは、警察が発表したことだけを信じて記事を書く。それまでにも被害者側が様々な形で訴えてきたことは一切報じず、それらが警察というフィルターを通った後にだけ報じるのだ。著者が指摘したこの状況こそが、埼玉県警の不正を助長したと言っていいだろう。そういう意味で大手マスコミは、埼玉県警と共犯だったと言ってしまっていい。
警察が発表したことが事実になる。警察とマスコミの間で、そういう関係性が出来上がっている。それはつまり、警察が嘘をついても、それが事実になる、ということだ。桶川ストーカー殺人事件で起こったことは、まさにそういうことだった。警察側のあからさまな嘘に、被害者側がどれだけ悩まされ、どれだけ苦しめられてきたのか。100%嘘しかない発表が、大手メディアが報じることで事実となり、桶川事件の実像がどんどん歪められていく。それに加担しているマスコミの責任は重い、と僕は感じる。
『ありがとうございます。詩織のことをひどく書かないでくれて…』
被害者の詩織さんの友人で、著者に詳細な情報を提供した男女が、著者にこういう場面がある。
警察は、詩織さんの殺害が判明してから、記者会見などで詩織さんのイメージを歪めるような発表を次々としていた。「グッチ」などの高価なブランド物を持っていた、「風俗店」で働いていた、などだ。これらは、悪意を持って切り取れば事実ではあるのだが、実情は全然違う。この時警察は、「殺された詩織さんもこんな人間なんだから、殺されても仕方ないのだ」というイメージを植え付けようとして、そういう情報をマスコミに流していたのだ。
警察からそういう情報を入手した大手マスコミは、それをそのまま書く。詩織さんは派手好きで遊び歩いているような女性でしたよ、と。そうやって、何の罪もない被害者である詩織さんのイメージは、警察とマスコミの手によって蹂躙されていったのだ。
記者クラブに加盟できない「三流」週刊誌の記者である著者は、すべての情報を自らの足で拾っていった。その取材で知ることが出来るのは、親思いで誰からも好かれる優しい女性像だ。大手マスコミが報じるような、遊び歩いている詩織さんの話に出会ったことなどない。
著者に感謝した男女は、まさにこのことを言っているのである。
「正しさ」というのは、作るものではない。作られる「正しさ」も、もちろん世の中にはあるだろう。その最たるものは「流行」だ。今これが流行ってる、これなら間違いないという「正しさ」は、間違いなく誰かの作為によって生み出されているはずだ。
しかし、「正しさ」が作られる、という状況は、基本的に歪んでいると考えていいと僕は思っている。「流行」も、歪んでいる。そして、この事件において警察とマスコミは、一体となって「正しさ」を作ろうとした、という意味で歪んでいるし、許してはならないのだと思う。
「正しさ」というのは、化石のようにそこにあるものだ。常に、誰かに掘り出されるのを待っている。その形を崩さぬよう、壊さぬよう、慎重に掘り出すのが「真実を追う者」の役目ではないのか。そこにあるはずの「正しさ」を見ようともせずに、誰かが作った「正しさ」ばかり追うのは、それこそ正しい姿勢とは言えないだろう。
『この事件の真実を求める多くの人たちに、この事件がどういうものだったのか、また、報道を志す人々に、報道する人間が真に持つべき姿勢とはどのようなものか、この本を手にする事で分かって頂けると信じ、心から願っている』
詩織さんの父親は「文庫化に寄せて」という巻末の文章でこう書いている。
この本は、掘り出されるのを待っていた「正しさ」で溢れている。
清水潔「桶川ストーカー殺人事件 遺言」
慈雨(柚月裕子)
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『いまここで、十六年前の事件と向き合わなければ、自分のこれから先はない。過ちを犯していたならば、罪を償わなければならない。そうしなければ、自分の人生そのものが偽りになってしまう。家族、財産、すべてを失ったとしても、それは過ちを犯した自分に科せられた罰だ』
何か失敗を犯す度、僕はずっと逃げ続けてきた。誰の迷惑も顧みず、いつだってその場から立ち去ろうとして、実際に立ち去った。責任を取る、などという行動が僕には取れないのだろう、と思っている。だから、責任がのしかかる行動を慎もう。今の僕はそんな風に考えている。
『われわれは神じゃない。人間だ。人間がやることに、完璧という言葉は存在しない。常にどこかに、微細とはいえ瑕がある。だからこそ、われわれ捜査員は、疑念を限りなくゼロに近づけなければならない』
取り返しのつかない過ちであれ、取り返しのつく過ちであれ、それぞれに対して自分なりの責任を果たすことは出来る。取り返しのつく過ちであれば、それを取り返せばいい。取り返しのつかない過ちの場合、責任の取り方は様々だろう。何をどうしても、失ったものは元通りにはならない。元通りではないもので、その失った部分を埋めることは出来ない。しかしそれでも、自分に何が出来るかを考えて実行する。それが責任を取るということなのだろうと思う。
『いま、十六年前の事件から目を背けたら、俺は警察官である前に、人でいられなくなる。そう思っているのは、神さんも同じだ』
これまで、色んなことから逃げ続けてきた。逃げて逃げて、色んな人に迷惑を掛けながら、どうにか今も生きている。逃げる時の罪悪感は、いつももの凄いものがある。死んだ方がましなのではないか、と思うほどの罪悪感が全身を襲う。逃げなくても辛いし、逃げても辛い。そういう状況の中で、常に逃げることを選択してきた。
しばらくすると、その罪悪感は薄れていく。自分の中に確かにあった、あれだけ自分を苦しめた罪悪感が、ふと気づくと、もうはっきりとは思い出せないものになっている。僕の場合、取り返しのつかない過ちはしたことがないはずだから、そこの違いももしかしたらあるかもしれない。取り返しのつかない過ちを犯していたとしたら、やはり一生罪悪感は薄れないままだろうか。分からない。分からないけど、僕は自分のことを薄情な人間だなと思う。一時の罪悪感を乗り越えさえすれば、次第にそれは薄れていく、ということをきっと経験で理解しているのだ。だから僕は、常に逃げるという選択をする。
『同僚から誘われて近場の山にトレッキングに行ったときも、有名な写真家が撮った神々しい山の写真集を見たときも、美しいと神場が感じるのはわずかな時間で、眺めているうちに荘厳たる景色は、梅雨時の鬱蒼とした山中を這いずり回ったときの記憶に取って代わられる。どんなに素晴らしい山の景色も、神場のなかでは、十六年前の純子ちゃんの遺体発見時へと繋がる』
どれだけ時間が経っても罪悪感が薄れない場合、人はどう行動すべきだろう。自分の行動一つで状況を変えることが出来る。そういう可能性があったとしたら、その方向に進めるだろうか。進めば自分の身が破滅すると分かっていて、その道を選ぶことが出来るだろうか。
『私は、あなたの妻になって後悔したことは一度もないわ。むしろ、刑事の妻であることを誇りに思っている』
その道を、選ぶことが出来るだろうか?
3月に警察を定年退職した神場智則は、警備会社への再就職が1年先送りになったのを契機と捉え、退職したらしようと考えていた四国八十八ヶ所のお遍路を実行に移すことにした。
自分が関わった事件の被害者の供養のためだ。
目的が目的だけに、当初は妻の香代子を連れて行く予定ではなかったが、香代子も同行を希望したために止む無く受け入れた。これまでの刑事人生で、妻には迷惑を掛けた。妻が一緒に行きたいというのなら断れない。
妻と共に霊場を巡りながら考えることは、これまでの自分の人生についてだ。片田舎の駐在所勤めに苦労したこと、刑事になってから出会った人々、娘である幸知との出会い、娘が元部下である緒方圭祐と付き合っていることを認めていないこと。陽気な妻とは対称的に無口な神場は、久々の妻との時間を過ごしていた。
しかし、やはりどうしても、心穏やかにとはならない。むしろ、霊場を巡れば巡るほど、神仏に救いを求める行為に疑いを挟んでしまう。
未だに悪夢を見る、16年前のあの事件。自分が犯したかもしれない“罪”に囚われ続け、刑事である自分の存在を揺るがし続けたあの出来事が、やはり神場の内側を占める。
現在進行形かもしれないのだ。
遍路中、緒方から度々連絡が来る。群馬県で、愛里菜ちゃんという小学一年生の女の子が陵辱され遺体で発見された。緒方はその捜査の進捗状況を、神場に報告しているのだ。
というような話です。
素晴らしい作品だった。久々に良い作品を読んだ。刑事を主人公にした、殺人事件を扱った作品だが、そういうまとめかたをすると作品の良さの大半がこぼれ落ちる。事件や事件の推移そのものに主眼のある作品ではない。この作品は、刑事という真実を追う者と、殺人事件という究極の事実が出会った時、その摩擦にすり減ってしまいそうになりながらも、刑事として、そして何よりも人として真っ当に生きようとする者たちの葛藤の物語なのだ。
この作品は明らかに、現実に起こったある事件をベースとしている。群馬県で起こった、「北関東連続幼女誘拐殺人事件」と呼ばれている事件だ。知らない人も多いだろう。何故ならこの「北関東連続幼女誘拐殺人事件」という呼称は、正式なものではないからだ。
この連続殺人事件は、警察は感知していない。いや、感知しているが認めていない、と言うべきか。「北関東連続幼女誘拐殺人事件」と名付けたのは、この事件を調査したあるマスコミ人である。それは、ノンフィクションという形で一冊の本にまとまっている。清水潔「殺人犯はそこにいる」という本だ。
「殺人犯はそこにいる」が“問い”だとすれば、本書「慈雨」は“答え”と呼べるだろう。いや、“答えであって欲しい”と書くべきだろうか。「慈雨」のようには、現実は動いていない。
どちらも、警察の恐ろしいミスが描かれている。それは、これまでの警察による捜査、そして裁判所による審判を根こそぎ覆す可能性のあるものだ。本書の中で警察の上層部が、『我々は、信頼を失うわけにはいかない』と語る場面があるが、まさにこのミスが公になれば、警察や司法の信頼は失墜すると言っていいだろうと思う。
「殺人犯はそこにいる」で描かれた現実では、そのミスに関わった人たちは、そのミスを認めるつもりはないように見える。実際にはどうなのか、それは想像するしかないのだが、少なくとも警察組織という大きな集合体は、このミスを出来る限り隠匿する決意を固めているだろう。このミスを認めることは、パンドラの箱を開けるようなものだからだ。一旦開けてしまえば、未来永劫閉めることができないかもしれない。その覚悟を決めることが出来る人間はそうそういないだろう。
本書「慈雨」は、その覚悟を決める者たちの物語なのだ。関わった者たちは、それぞれの立場で悩み苦しむ。16年前、自らが関わったある事件の顛末に、心を痛めている。しかし、16年前の結論を覆すことは、やはりパンドラの箱を開けるのと同じことなのだ。その箱を開けようとする彼ら自身にも、多大な影響を及ぼす。
彼らは、守るべきものと、自分が貫くべき正義との間で揺れ動く。彼らは、途轍もなく真っ当で、途轍もなく誠実な人間たちだ。刑事という、限りなく疑念を排除した真実を追わなければならない職業に就く彼らは、その責務を全うするために自らを律している。ごく一般的な人間よりも遥かに倫理基準が高いと言っていいだろう。
そんな彼らでも、16年間も決断出来なかった。犯したかもしれない過ちを自分の内側でぐるぐるとさせながら、すべきだと理性が告げている行動を取ることが出来ないまま過ごしてきてしまっている。ごく僅かな人間としか共有することが出来ない、その存在を明かすことすら躊躇われるほどの過ち。それを生涯抱え込まなければならない彼らの葛藤は、想像に余りある。
僕なら、逃げてしまうだろう。向き合うことすら避け、徐々に低減すると分かっている罪悪感を抱え込むことを選んでしまうだろう。無理矢理押さえ込んで蓋をしてしまえば、自分の人生から排除できるはずだ、という幻想にすがって、意識を向けないようにしてしまうだろう。僕は、警察上層部の判断を責めることは出来ない。そうすべきだ、と理性が告げる行動をどうしても取ることが出来ない。組織の中にいる個人がそう判断しても仕方ないと思えてしまうような、それは過ちなのだ。
仕方ない、などと言うのは本当なら駄目だ。仕方なくなんかない。ないのだけど、怖い。それが自分自身の過ちだとしたら、怖くて仕方がない。「殺人犯はそこにいる」を読んだ時は、被害者の無念や、著者の執念、そして警察という組織全体への苛立ちと言ったようなことしか感じていなかった。本書を読んで、警察という組織の中にいる個人に目が向いた。捜査に直接関わった者、捜査を指揮した者。実際にそういう人が、警察という組織の中にいるのだ。彼らが何を考え、どんな思いを抱えて生きてきたのか。本書「慈雨」を読んで、初めてそこに想像力を向けることが出来たように思う。
過ちから逃げ続けている僕が言うことではないが、僕は、間違っていることは正されるべきだと思いたいし、正義は出来る限り貫かれるべきだと思いたい。自分自身のことではないと思えるからこそ、外から偉そうなことを言うことが出来る。警察は、そのパンドラの箱を開け、正義を貫くべきだ、と。
しかし一方で、責任が個人に向いてほしくはないとも思う。日本の場合、組織全体の過ちも、特定の個人に押し付けておしまいにする傾向がある。もし、警察がこのパンドラの箱を開けるとしたら、責任を押し付けることが出来る個人をきちんと確保できてからになるのではないかと思う。組織全体を守るために、組織は時にそうした非情な決断を下す。
しかし、「殺人犯はそこにいる」や「慈雨」を読めば分かるが、これは決して個人だけの責任ではない。捜査手法という意味で、個人に帰せられる責任もあるかもしれない。しれないがしかし、警察という組織全体が負うべき責任も当然ある。『いま、十六年前の事件から目を背けたら、俺は警察官である前に、人でいられなくなる。』という気持ちは、警察にいる一人でも多くの人に感じて欲しい、と思ってしまう。この現実を無視したままでは、警察は前には進めないのではないかと思う。
少し違う話をしよう。
冒頭で、本書はただの警察小説ではない、という話を書いた。ここまで書いてきたように、本書は、事件が起こり刑事が捜査する、というだけの物語ではまったくない。後悔と前進という二つの端を行ったりきたりしながら葛藤する者たちの物語だ。
しかし、さらに本書は家族の物語でもある。
詳しく書けない部分もあるが、神場の家族には様々に抱えてるものがある。神場自身、四国巡礼をするほど抱えているものがあり、妻の香代子も長い年月ずっと持ち続けていた葛藤がある。娘の幸知は、父である神場に緒方との交際を認めてもらえず、緒方も同様の葛藤を抱えながら、さらにほとんど手がかりのない事件の捜査に疲弊している。
そして、そのそれぞれの葛藤のどの根っこにも、16年前の出来事が関係してくるのだ。16年前の出来事が関係することを知っているのは神場しかいない。神場は、神場が抱えている葛藤が明らかになることで家族に迷惑を掛けることが分かっている。その上で神場は、その箱を開けるべきかどうか悩み抜く。
香代子も幸知も緒方も、神場が抱えているものの正体を知らない。その正体を知らないままでは理解できない言動や衝動を神場が繰り出す度、彼らは不安になる。神場が正義を体現する人間であることを、近くにいる者なら誰でも知っている。だからこそ、神場が思いやなむその姿に、神場が葛藤を押し退けて決断する姿に、彼の周りの人間も読者も打たれるのである。
特に妻がいい。妻の香代子は、駐在所勤務時代から神場と苦労を共にしている。刑事の妻である、という以外にも、香代子には苦しみがある。しかしそれら全部がないかのように、香代子は明るく振る舞う。
ここでは書かないが、物語のラスト付近、神場がある覚悟を伝えた時の香代子の返答は素晴らしい。こう言い切れる人は、男女合わせてもそうそういないだろう。自分の夫が抱えてきたもの、そしてやろうとしていること。それはあまりにも強大で、恐ろしいことであるのだが、それらを香代子は神場と一緒にすべて飲み込もうと覚悟する。香代子という女性が辿ってきた道筋や我慢してきたこと、飲み込んだり乗り越えたりしようとしてきたこと、それらが読む者の心を震わせるのだ。
ある事件が、地中で繋がる根のようにして様々な葛藤や後悔の素となり、作品全体を覆っていく。ほとんど他人に話さず、自分一人でその大きすぎるものを抱え続けた神場という男がどのように覚悟を決めるのか。その過程こそが物語の核そのものなのだ。現実の事件を下敷きとしながらも、それを人としての尊厳と家族としてのあり方を描く作品に仕上げる著者の力量は見事なものだ。あなたが神場と同じ立場に立たされた時、どう行動し、どう決断するか。そのことを想像しながら、是非本書を読んで欲しいと思う
柚月裕子「慈雨」
一〇〇年前の女の子(船曳由美)
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『語り手はこれ以上ない聞き手に出会い、聞き手はこれ以上ない題材を見つけた』
解説で中島京子氏がそう書いているが、まさにその通りの作品だろう。
本書は、実の母親の生まれてからの生い立ちを聞き書きした作品である。語り手である母親は、恐ろしいほどの記憶力で当時の生活の細部や感情の端っこまでを繊細に語る。そして聞き手である著者は、平凡社の元編集者であり、様々な作家と一緒に仕事をしてきた敏腕編集者なのである。
その二人が、100年前の日本の生活を、ありありと描き出す作品を生み出したのだ。
本書の主役である寺崎テイ(著者の母親)は、実家でテイを産んだ実母が、栃木県の高松村に戻りたくなくなったために、生後一ヶ月にして実母と別れ高松村で生活することになった。父はすぐに後妻と結婚するが、後妻の実家が、テイには寺崎家を継がせないこと、という条件で娘を送り出したので、テイは寺崎家にいられないことになってしまう。
『おぶされたその背中は冷たくて固い。おばあさんのように温かく柔らかい背中ではない。だから、固い背中だと感じるときは、かならず、どこかの家に連れていかれるときなのであった』
テイは、わずか5歳にしてあちこちの家を転々とさせられ、やがて落ち着き先が見つかってからも仕事ばかり押し付けられた。
『ここは越えられないのだ、決して渡ることは出来ないのだ、寺崎の家には絶対に呼び戻されることはないのだ…。テイはそう考えて、涙をためて、また南の方の家に帰るのであった』
幼くしてそんな悲壮な覚悟を決めて毎日を過ごしていた少女は、ちょっとした要因があってなんとか寺崎家に戻ることが出来た。常に「母親に捨てられた」「実母に会ったことがない」という寂しさに囚われ、また貧しい村で暮らすことの苦労を感じながら、季節ごとのちょっとした楽しい出来事や学校での行事など、ささやかにテイの気持ちを浮き上がらせる事柄もある。どのみち寺崎家にずっとはいられない運命であるテイは、小学校時代、すべての教科で「甲」を取り続けたその優秀な頭で女学校へと通い、やがて東京で独立して生活するようになり…。
というような話です。
非常に豊かな作品だな、と感じました。基本的には、実在する一人の女性の生涯を綴っているだけの作品なのだけど、全体的に描写の濃密さが凄い。これを娘に語っている時は100歳ぐらいだったはずなのだけど、よくもこんなことまで覚えているなという描写ばかりなのだ。例えばこんな描写。
『ア、よその茶屋に、お客が立ったぞ、とその太鼓の音を聞くや、赤い襦袢のお女郎さんたちが色めき立つ。奥の方のお女郎さんが長ギセルをぽんぽんはたき、格子窓に近づいてくるや、手ぬぐいでほっ被りをしていた若い男の袂にキセルの雁首をひっかけ、くるくるっとねじった。そしてキセルの長い柄を格子の内側に横倒しに押しつけると、もうどんなことをしてもキセルの雁首が袂からふりほどけないのだ』
もちろん、事実がこの通りだったかは誰も確かめようがないし、後々映画などで見たシーンと記憶が入れ替わってるということも当然あり得るだろう。だから、実際の描写であるのかどうかという部分についてはあまり関心がないのだけど、これを語っているテイが、「自分はこういうことを覚えている」というつもりで喋っているわけだ。そういう意識で話したことで本書が出来上がっているとすると、たとえそれが改ざんされた記憶であったとしても凄いものだな、と僕は思うのだ。僕は今33歳だけど、10年前のことだって、こんな風には語れないから、なおさらそう思う。
本書の中で一番グッと来るところは、やはりテイが故郷や実母を想う場面だろう。特に、とある法律の存在により、正式にテイが寺崎家に戻ってこれるようになるまでの、他の家に預けられている間の話は、胸が締め付けられるような気がする。
『もしかして高松に戻れることがあるかもしれない、テイはそのときのためにと幼な心に考えて、必死に道筋を憶えながら走ったのだ』
別の家に連れていかれる時のテイの心情だ。
『しかし、お父っつあんが見ると、そのテイのにぎりこぶしの上にぽたぽた、ぽたぽたと、涙があとからあとから落ちていた。親の前でも声をあげて無くことはしなかったのである。
父は、家の者が田仕事から帰る前の昼時をわざと選んで、ようすを見に来ていたのだ。そして、ああ、これはやはり、テイは連れ戻してやらなければ、と決心した』
他の人の家にやられ、その家の者から適当に扱われながら、必死に仕事をする5歳のテイは、様子を見に来た父の前で静かに泣く。
『こうして、イワというお嫁さんが来たことには来たが、テイにとっては、胸に抱きとめてくれるおっ母さんではなかった。“おっ母さん”と呼ぶこともならなかったのだ』
ずーっと自分の居場所がきちんと定まらないまま生きてきたテイは、甘えるということがほとんどなかったし、出来なかった。実母を想う気持ちや、他家にやられながら故郷を想う気持ちは常にあったが、それを分かりやすく表に出すことは苦手だった。辛抱強い子どもだったが、それ故に脆さも抱えていた。そんなテイが、健気に、必死に生きざるを得なかった幼き日の描写には、非常に切なくさせられる。
テイが再びきちんと寺崎家に戻ってからは、高松村での四季折々の生活が描かれていく。この辺りの描写には特別関心はないのだけど、読みながら考えていたことは「豊かさ」についてだ。
現代は、物質的には非常に豊かだ。欲しいと思っていたわけではないけど便利で楽しいものが山ほど見つかるし、こうしたい、と思った時にそれを実現するためのツールは様々に見つかる。
ただ、物質的に非常に豊かなはずなのに、現代人はあまり豊かそうに見えない。
この作品で描写される日常は、物質的には豊かではない。この高松村は、県全体で電気が通るようになってからもしばらく、電気が通っていなかった地域だ。日本という国全体がそこまで豊かではなかったのだろうが、高松村の周辺は貧しくて、寺崎家はそれなりに豊かだったが、周囲には乞食や物乞いも多くいた。
しかし、そんな人々の暮らしは、ある意味で豊かに思えるのだ。
『このあと、お墓から帰るとき、けっして振り返ったりしてはいけない
(中略)
―ダンゴや供え物を子どもに早く持っていってやりたいんだよ。顔を見られたくないだろう。だから、けっして後ろを見てはならねえよ』
『おばあさんもいつもいっている。
―どんなに汚い姿をしている者でもバカにしてはいけない、そういうヤツは人間のクズだ。コジキだって、来世は仏様に生まれ代わるんだから…。
そういえば村では物乞いでもていねいに“お乞食さま”と呼んだりする。何か理由があって、神様が身を窶して村を訪れているのかもしれないからだ』
彼らは決して、自分たちの生活だけが良ければいい、という考え方をしない。村全体で、さらに直接的には村とは関係ない人も一緒になんとか生きていこう、という発想でいる。常に他者を思いやる心を持っているのだ。
辛い農作業も、節目節目で行事を入れ込むことで息抜きをし、季節ごとの役目や食べ物を大切にし、伝統をきちんと守っていく。確かに彼らの生活には刺激は少ないかもしれない。貧しいが故に気分を高揚させるような出来事が日常の中にほとんどないかもしれない。しかし、生活という土台を疎かにして全力で遊んでいるような現代人よりも、生活という土台にきっちりと力を入れ、毎日を過ごしていくという生き方は、一つの豊かさの実現ではないかと感じるのだ。もちろん、それはある種の理想に過ぎない。都会に住む人間が田舎での暮らしに憧れるけど、実際には田舎暮らしには特有の困難さがある、というのと同じように、大正や昭和の時代にも相応の困難さがつきまとうはずだ。そこにもきちんと目を向けなくては公平ではないのだけど、良い面に内包されている豊かさみたいなものが羨ましく感じられる部分もある。
日本人は、欧米のような生活を目指し、豊かになろうと必死に努力した。日本は先進国となり、先進国の一員として、グローバリズムの波に飲み込まれようとしている。グローバル化は避けられないにしても、「豊かさ」とは一体何であるかを考え、グローバリズムによって失われた「豊かさ」もあるのではないかと、立ち止まって考える時間を作ってみるのもいいのかもしれない。そういう発想のきっかけとなる一冊とも言える。
テイはその後、教育を受ける機会に恵まれ、新渡戸稲造が校長を勤めていた女学校に入学する。女性にも教育を、という時代の流れが生まれ始めたタイミングであり、学ぶことでテイは生きる力を身に着けていった。テイが教育を受けることが出来たのは、結局のところ「寺崎家の跡継ぎにはなれないから」なのであり、結果としてそれはテイのためになったと言えるだろう。実母がテイを置いて行ってしまわず、母子ともに高松村に戻っていれば、テイが教育を受ける機会はなかったかもしれない。テイ自身は、生涯実母への想いは捨てきれなかったようだが、物事がどう転ぶかは分からないものだとも感じる。
ドラマチックなわけでも、スリリングなわけでもありません。恐らくその当時、テイのような少女はどこにでもいたことでしょう。ままならない現実を呑み込みながら、色んなことを「しょうがない」と受け入れて生きなければならなかった少女が。テイはそういう一人であり、現在まで長生きをし、その類まれな記憶力によって当時の生活を細部まで描写することによって、テイ以外の、当時苦労を重ねて成長していった他の少女たちの救いにもなっているのではないか、と思う。本書で描かれているのは、たった100年前の出来事だ。現代と直接繋がっているとは思えないほど違う世界の中で、真っ当な感覚を持った優秀な少女はどのように生きたのか。「豊かさ」とは何か、ということを考えさせながら読ませる本だと思う。
船曳由美「一〇〇年前の女の子」
ミステリなふたり ア・ラ・カルト(太田忠司)
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内容に入ろうと思います。
まずは全体的な設定から。
愛知県警捜査一課の京堂景子警部補は、愛知県警にその名を轟かす有名な刑事だ。「鉄の女」「氷の女王」などの異名を持ち、本部長でさえひれ伏すと言われている。冷たい視線と声色で男社会である警察の中で指揮を取り、抜群の検挙率を誇るスーパーウーマンだ。
しかし、そんな景子も、家に帰るとまったく別の顔を見せる。イラストレーターであり主夫である新太郎は、家事をすべてこなし、帰りが不規則な景子のためにいつも食事を用意する言うことなしの夫だ。そんな新太郎の前では景子はふにゃふにゃになってしまう。美味しい料理を食べた後は、景子は手がけている事件のことを新太郎に話す。新太郎は話を聞くだけで事件を解決してしまうのだ。
9編の短編が収録された連作短編集だ。
「密室殺人プロヴァンス風」
密室となった一軒家で夫の死体を発見した妻。その家にはなんと、外から鍵がかけられたクローゼットの中に、全裸の女もいた。殺したのは一体誰なのか?
「シェフの気まぐれ殺人」
女性ばかりが狙われる連続殺人事件の最中、ある男の死体が発見される。男のデジカメの中には、連続殺人事件の被害者の写真があり…。
「連続殺人の童謡仕立て」
かつて名古屋ローカルで放送されていた子供番組に出演していた、当時小学生だった女の子2人が、その当時彼女たちが歌っていた歌になぞらえるようにして殺されていた。3人目も狙われるのか…。
「偽装殺人 針と糸のトリックを添えて」
離婚式の最中、密室の中で離婚する夫が殺された。しかしその部屋は、まさにその殺された当人が密室トリックを実演していた場所だった…
「眠れる殺人 少し辛い人生のソースと共に」
人を殺した、と言って自首してきた女性は、それだけ言うと沈黙してしまう。被害者は、10年前に事故で亡くなったとされている兄は実は殺されたのだ、と何度も警察に陳情にきており…
「不完全なバラバラ殺人にバニラの香りをまとわせて」
廃病院に肝試しに来ていたグループが、片腕のない女性の死体を発見する。殺害現場には何故かバニラの香りが漂っており…
「ふたつの思惑をメランジェした誘拐殺人」
誘拐されていた父親が殺された。警察に通報せずに内々で済ませようとしたのが仇になったのか。しかしどうにも状況がちぐはぐで…
「殺意の古漬け 夫婦の機微を添えて」
夫が死んだ、と連絡してきた老女は、長い沈黙を破って、自分が殺したと自供した。しかしどうも証言に信憑性がない。老夫婦の悪さばかりしていた息子が5年前くらいに失踪しているという話もあり…
「男と女のキャラメリゼ」
京堂警部補に憧れを持つ瞳は、休日、偶然カフェで京堂警部補を目撃する。もの凄いイケメンと一緒にいるが、彼女がトイレに行った時、瞳は偶然ある光景を目にしてしまい…
というような話です。
設定もトリック自体もなかなかライトな感じで、読みやすいと思います。するするっと読めるんじゃないかと思います。景子のギャップもなかなか面白いし、新太郎が作る料理も美味そうだな、と。手軽に読む本としてはいいんじゃないかと思います。
太田忠司「ミステリなふたり ア・ラ・カルト」