「アルキメデスの大戦」を観に行ってきました
面白かったなぁ。
ただ、僕が感じた「面白さ」の何割かは、「これが実話なんだとしたら凄い」というものだったんで、後で調べて、実話じゃないんだ、ということが分かって、ちょっとがっかりしてしまう部分はありました。
内容に入ろうと思います。
海軍の山本五十六は、これからの戦争には航空母艦が必要だ、と考えていた。しかし、そういう先を見据えた考え方をする者は少なく、未だに海軍内では、優美でカッコいい軍艦を作ることが先決である、という風潮がある。山本は空母の重要性を説くが、会議で平山忠道が出した新たな戦艦の縮尺模型が提示され、フォルムの美しさや帝国海軍の威容を誇るべしというような精神論が多勢を占めるようになってしまう。
山本側は、なんとかして平山案を廃棄しなければならないが、正攻法では戦えそうにない。ある日山本らは、料亭で英気を養うことにしたが、芸者を呼んでも誰もいないという。なんと、元帝大の学生が芸者を独り占めしているというのだ。話をつけに行ってみると、櫂直というその男に興味を惹かれた。ちょっとした誤解で帝大を退学させられたが、彼は100年に1人の数学の天才と言われる男だったのだ。そこで山本は考える。会議の場で、建造費の見積もりが提出されたが、山本側は空母でシンプルであるのに、平山案の方が見積り金額が少なかったのだ。そんな馬鹿げた話はない。そこで山本は、櫂を引き入れ、平山案の見積もりをやり直させることにした。
その期限、2週間。次回の会議まで、それぐらいの日数しかないのだ。しかも困難は日数だけではない。そもそも軍艦の設計図は、軍機として最高度の情報管理がされている。つまり櫂は、平山案の設計図を見ることも、各部品の納入金額なども一切分からないまま、平山案の見積もりをしなければならないのだ。
軍人は嫌いだ、と言ってギリギリまで抵抗していた櫂だったが、やると決めたからには徹底的にやる。しかしさすがの数学の天才にとっても、あまりにハードルの高いミッションだった。僅かな望みにかけてあらゆる方策を検討するが…。
というような話です。
ストーリーの話をする前にまず、冒頭の戦闘シーンの話をしましょう。冒頭は、昭和20年4月7日、坊ノ岬での海戦が描かれています。これがまあ迫力満点!観ながら、どうやってこんなん撮るんだろうなぁ、と思ってしまいました。もちろんほとんどCGでしょうが、CGでは無理な部分もあります。そもそも、構図というのか、その戦場をどういう角度や方向から切り取るのか、みたいなのもカッコいい感じで、一気に引き込まれますね。
で、ストーリーは、ホントに上手く出来てるなぁ、と思いました。なんというのか、確かにこういうことが起こっててもおかしくないような気がするなぁ、と思わせる力があります。「数学で戦争を止めようとした男がいた」みたいな予告を観た記憶があって、どういうことなんだろう?と思ってたんだけど、なるほどまさに数学で戦争を止めようとしているな、という感じです。航空母艦も戦艦(大和)も実際に作られているわけで、そういう意味では史実を基にしているといえるでしょう。そしてその背景に、「もしかしたらこんなことがあったのかもしれない」と思わせる物語の力がありました。
それにしても櫂はちょっと超人過ぎますね(笑)。いくら100年に1人の天才でも、ここまでは無理でしょう。こんな奴いたら、絶望しかない(笑)。まあでも、数学とか物理の本を読んでると、実際、たまにいるんだよなぁ、こういう桁外れの天才が実在するんです。羨ましい。生まれ変わったら天才になりたい。
あと、この物語の見せ場はやはり、「櫂が平山案をいかに阻止するか」という会議の場面なわけですけど、実はその後にも一つ、大きな山場があるんですね。そして僕は、こっちの山場の方がグッときました。櫂の存在がフィクションだとするなら、この最後の山場ももちろんフィクションなんだろうけど、なんだか凄く説得力があるな、と。平山という軍艦の設計者が櫂に滔々と語る未来の話は、もちろん、未来から過去を見ている僕らからすれば「そうだよね」って感じの話ではあるんだけど、その当時の人からすれば斬新極まりないものだっただろうし、「軍艦の建造」に対してそこまでの意味を持たせているのだ、という解釈は凄く好きだなぁ、と思います。
あと、最後にちょっとした疑問を。僕はこの映画を見てて、こういう風に物語を作るのってアリなんだ、って感じました。山本五十六とか平山忠道は、実在した人みたいです。で、櫂直が実在しないのであれば、山本五十六と櫂の会話や、平山忠道と櫂の会話は存在しない、ということになります。つまり、フィクションです。実在する人物の口から、そういうフィクションを語らせる、しかも、実にリアルでフィクションとは思えない物語の中でそれをやる、というのは、セーフなんかなぁ、と思ってしまいました。まあ、そういうノンフィクションノベルって存在するにはするからいいんだろうけど、本書では、山本五十六とか平山忠道が結構自らの価値観を主張している場面があるから、櫂直という存在がいなかったら発しなかっただろうそういうフィクションのセリフを存在させてしまっていいのかなぁ、という疑問は結構ありました。
とはいえ、物語としてはなかなか面白かったです。
「アルキメデスの大戦」を観に行ってきました
ただ、僕が感じた「面白さ」の何割かは、「これが実話なんだとしたら凄い」というものだったんで、後で調べて、実話じゃないんだ、ということが分かって、ちょっとがっかりしてしまう部分はありました。
内容に入ろうと思います。
海軍の山本五十六は、これからの戦争には航空母艦が必要だ、と考えていた。しかし、そういう先を見据えた考え方をする者は少なく、未だに海軍内では、優美でカッコいい軍艦を作ることが先決である、という風潮がある。山本は空母の重要性を説くが、会議で平山忠道が出した新たな戦艦の縮尺模型が提示され、フォルムの美しさや帝国海軍の威容を誇るべしというような精神論が多勢を占めるようになってしまう。
山本側は、なんとかして平山案を廃棄しなければならないが、正攻法では戦えそうにない。ある日山本らは、料亭で英気を養うことにしたが、芸者を呼んでも誰もいないという。なんと、元帝大の学生が芸者を独り占めしているというのだ。話をつけに行ってみると、櫂直というその男に興味を惹かれた。ちょっとした誤解で帝大を退学させられたが、彼は100年に1人の数学の天才と言われる男だったのだ。そこで山本は考える。会議の場で、建造費の見積もりが提出されたが、山本側は空母でシンプルであるのに、平山案の方が見積り金額が少なかったのだ。そんな馬鹿げた話はない。そこで山本は、櫂を引き入れ、平山案の見積もりをやり直させることにした。
その期限、2週間。次回の会議まで、それぐらいの日数しかないのだ。しかも困難は日数だけではない。そもそも軍艦の設計図は、軍機として最高度の情報管理がされている。つまり櫂は、平山案の設計図を見ることも、各部品の納入金額なども一切分からないまま、平山案の見積もりをしなければならないのだ。
軍人は嫌いだ、と言ってギリギリまで抵抗していた櫂だったが、やると決めたからには徹底的にやる。しかしさすがの数学の天才にとっても、あまりにハードルの高いミッションだった。僅かな望みにかけてあらゆる方策を検討するが…。
というような話です。
ストーリーの話をする前にまず、冒頭の戦闘シーンの話をしましょう。冒頭は、昭和20年4月7日、坊ノ岬での海戦が描かれています。これがまあ迫力満点!観ながら、どうやってこんなん撮るんだろうなぁ、と思ってしまいました。もちろんほとんどCGでしょうが、CGでは無理な部分もあります。そもそも、構図というのか、その戦場をどういう角度や方向から切り取るのか、みたいなのもカッコいい感じで、一気に引き込まれますね。
で、ストーリーは、ホントに上手く出来てるなぁ、と思いました。なんというのか、確かにこういうことが起こっててもおかしくないような気がするなぁ、と思わせる力があります。「数学で戦争を止めようとした男がいた」みたいな予告を観た記憶があって、どういうことなんだろう?と思ってたんだけど、なるほどまさに数学で戦争を止めようとしているな、という感じです。航空母艦も戦艦(大和)も実際に作られているわけで、そういう意味では史実を基にしているといえるでしょう。そしてその背景に、「もしかしたらこんなことがあったのかもしれない」と思わせる物語の力がありました。
それにしても櫂はちょっと超人過ぎますね(笑)。いくら100年に1人の天才でも、ここまでは無理でしょう。こんな奴いたら、絶望しかない(笑)。まあでも、数学とか物理の本を読んでると、実際、たまにいるんだよなぁ、こういう桁外れの天才が実在するんです。羨ましい。生まれ変わったら天才になりたい。
あと、この物語の見せ場はやはり、「櫂が平山案をいかに阻止するか」という会議の場面なわけですけど、実はその後にも一つ、大きな山場があるんですね。そして僕は、こっちの山場の方がグッときました。櫂の存在がフィクションだとするなら、この最後の山場ももちろんフィクションなんだろうけど、なんだか凄く説得力があるな、と。平山という軍艦の設計者が櫂に滔々と語る未来の話は、もちろん、未来から過去を見ている僕らからすれば「そうだよね」って感じの話ではあるんだけど、その当時の人からすれば斬新極まりないものだっただろうし、「軍艦の建造」に対してそこまでの意味を持たせているのだ、という解釈は凄く好きだなぁ、と思います。
あと、最後にちょっとした疑問を。僕はこの映画を見てて、こういう風に物語を作るのってアリなんだ、って感じました。山本五十六とか平山忠道は、実在した人みたいです。で、櫂直が実在しないのであれば、山本五十六と櫂の会話や、平山忠道と櫂の会話は存在しない、ということになります。つまり、フィクションです。実在する人物の口から、そういうフィクションを語らせる、しかも、実にリアルでフィクションとは思えない物語の中でそれをやる、というのは、セーフなんかなぁ、と思ってしまいました。まあ、そういうノンフィクションノベルって存在するにはするからいいんだろうけど、本書では、山本五十六とか平山忠道が結構自らの価値観を主張している場面があるから、櫂直という存在がいなかったら発しなかっただろうそういうフィクションのセリフを存在させてしまっていいのかなぁ、という疑問は結構ありました。
とはいえ、物語としてはなかなか面白かったです。
「アルキメデスの大戦」を観に行ってきました
世界の名画 仕掛けられたメッセージ(博学面白倶楽部)
内容に入ろうと思います。
本書はタイトルの通り、世界の名画をどう観るのか、どういう見方が出来るのかについて書かれている本です。
知ってる話もあったり、知らない話もあったりですけど、スイスイっと読むにはなかなか面白い本です。
人物と人物の間に不自然な空間があるとか、描かれている天秤に何も載っていないとか、切り取られた生首が画家自身の自画像であるなど、なるほどそういう部分を捉えることで絵全体の見方が変わるんだなぁ、と思ったりしました。
モデルを水風呂に5時間も漬けて訴えられたとあ、死にかけの人間のところに画材を持っていって絵を核とか、ゴッホは安いアルコールの飲み過ぎによってキサントプシア(黄視症)に陥ったために視野が黄色だったのではないかなど、画家自身のヤバさみたいなものも色々と描かれます。
また、絵の歴史についても色んなことが描かれています。有名な「夜警」という絵は、ニスの上塗りのせいで始めよりずっと暗くなってしまったのに、本当は昼を描いた絵なのに「夜警」と呼ばれているとか、絵が大きくて市庁舎に入らなかったので切られてしまったようです。この絵によって油絵の技法が確立されたと評価される「ヘントの祭壇画」は、塩鉱で爆破されるところだったけど、鉱夫たちのファインプレーで救われた。フェルメールの絵画をナチスに売却したとして逮捕された人物が、それは俺が描いた贋作だ、と言ってみんなびっくり仰天。それを証明するために裁判の場で絵を描かされた、なんていう凄まじいエピソードもあります。
絵画について知りたい方はまず本書を読んでみてもいいと思います。
博学面白倶楽部「世界の名画 仕掛けられたメッセージ」
本書はタイトルの通り、世界の名画をどう観るのか、どういう見方が出来るのかについて書かれている本です。
知ってる話もあったり、知らない話もあったりですけど、スイスイっと読むにはなかなか面白い本です。
人物と人物の間に不自然な空間があるとか、描かれている天秤に何も載っていないとか、切り取られた生首が画家自身の自画像であるなど、なるほどそういう部分を捉えることで絵全体の見方が変わるんだなぁ、と思ったりしました。
モデルを水風呂に5時間も漬けて訴えられたとあ、死にかけの人間のところに画材を持っていって絵を核とか、ゴッホは安いアルコールの飲み過ぎによってキサントプシア(黄視症)に陥ったために視野が黄色だったのではないかなど、画家自身のヤバさみたいなものも色々と描かれます。
また、絵の歴史についても色んなことが描かれています。有名な「夜警」という絵は、ニスの上塗りのせいで始めよりずっと暗くなってしまったのに、本当は昼を描いた絵なのに「夜警」と呼ばれているとか、絵が大きくて市庁舎に入らなかったので切られてしまったようです。この絵によって油絵の技法が確立されたと評価される「ヘントの祭壇画」は、塩鉱で爆破されるところだったけど、鉱夫たちのファインプレーで救われた。フェルメールの絵画をナチスに売却したとして逮捕された人物が、それは俺が描いた贋作だ、と言ってみんなびっくり仰天。それを証明するために裁判の場で絵を描かされた、なんていう凄まじいエピソードもあります。
絵画について知りたい方はまず本書を読んでみてもいいと思います。
博学面白倶楽部「世界の名画 仕掛けられたメッセージ」
届かなかった手紙 原爆開発「マンハッタン計画」科学者たちの叫び(大平一枝)
“現実”を認識するのは、いつも大変だ。何故なら、誰もが同じ情報を共有しているわけではないから。それぞれに人が、それぞれの立場、生き方、価値観の中で、様々な情報に接する。“現実”というのは、それら情報をどのように処理するのかという出力結果だ。そして、その出力結果は、人の数だけ存在する。
「原爆」と聞くと、具体的にどう言葉にするかは様々だろうが、日本人であれば「悪」という認識であろう。しかし、アメリカ人からすればそうではない。アメリカ人からすれば、「善」なのだ。何故なら、「原爆」を使用しなかった場合、より甚大な被害がもたらされていたはずだから、というのだ。これは、広島・長崎の悲惨な情報がアメリカにきちんと届かなかったことや、アメリカにおける歴史教育などによるもので、アメリカ人が悪いわけではないだろう。“現実”の認識の仕方が常に難しい、というだけのことだ。
本書は、そんな「原爆」の開発において、忘れ去られた一人の科学者を取り上げ、彼が成したことを中心に、原爆開発に携わった科学者たちの内面に迫ろうとする一冊だ。
忘れられた科学者の名は、レオ・シラード。伏見康治という科学者は、シラードをこう形容したという。
【原爆を作らせようとして成功し、使わせまいとして失敗した男】
まさに彼の存在を的確に表現したものだ。
彼が何をしたのかについてはすぐ触れるが、シラードという科学者のことは現在、アメリカ国内でもほとんど知られていないという。
【当時の物理学者はみなリオ(※レオのこと)のことを知っていたけれど、今は学者でも知らない人がほとんど。アメリカの一般市民はもっと知らない】
不思議な話だ。何故なら、マンハッタン計画は、シラードがいなかったら始まりもしなかったのだから。
【シラードがいなかったら、マンハッタン計画は立ち上がっていなかった。仮に立ち上がっていたとしても、1945年8月6日の投下に間に合うほど研究は進んでいなかった。すなわち、シラードがいなかったら、日本に原爆は落とされていなかったのである。】
そもそも、原爆のアイデアを生み出したのがシラードだという。
【彼は、ハーバート・ジョージ・ウェルズのSF小説『解放された世界』のことを思い出した。ウェルズは、1914年の時点で、石炭や石油など天然のエネルギーが枯渇した末に、原子力エネルギーが開発されるという未来を描いている。シラードは、ウェルズの描いた未来が絵空事とはどうしても思えなかった。
信号が青になったので歩き出す。その横断中、まるで天から降ってきたかのように、突如ひとつのアイデアがひらめいた。
「もし中性子の衝突で分裂するような元素が発見でき、一個の中性子を吸収する際、二個の中性子を放出するような物質がみつかったら、原子核の連鎖反応が維持できるのではないか」
大量にその元素が存在すれば、莫大な核のエネルギーが放出されることになる。このときの発想がのちに、世界初の臨海達成につながるのである。シラードは、この想いつきをその後研究で試し、初期段階の核連鎖反応にまつわる幾つかの特許を取得した。つまり、核分裂しやすいウラン235によって原子爆弾製造が可能であると、イギリス政府の研究機関モード委員会が結論づける八年前から、シラードは独自にその可能性を探り始めていたのである】
つまり、シラードこそが、原子爆弾の生みの親と言っていいはずなのだ。なのにシラードの存在は忘れ去られている。
さて、この点が、【原爆を作らせようとして成功】した部分である。
ではその後彼は何をしたのか?その点に触れる前に、何故マンハッタン計画がこれほど急ピッチで進められたのかについて書こう。
そもそも原爆は、ナチスドイツに対抗するために開発がスタートした。臨海が技術的に可能であるということは、ナチスドイツが先にそれを開発する可能性は十分にある。というかシラードらは、恐らくナチスドイツはもうある程度開発しているだろう、と想定していた。実際には、ナチスドイツでは原爆はほぼ開発されていなかったことが後に分かるのだが、世界中がナチスドイツへの恐怖で満たされていた時代には、そういう憶測が現実感を持っていた。そして、ナチスドイツよりも早く原爆を開発しなければならない、という機運が高まったのだ。
しかし、戦争の情勢は刻一刻と変わっていく。ドイツとの戦争は終結するだろう、という流れになっていった。すると、どうして原爆の開発を続けなければならないのか?という疑問が出てくるようになる。マンハッタン計画に携わっていた者たちのほとんどは、自分たちが原爆の開発に携わっていることを知らされていなかったらしいが、計画の中心にいたシラードはもちろん理解していたし、原爆の恐ろしさについても分かっていた。アメリカが、日本に対して原爆を使おうとしていることも、早くから見抜いていた。
だからこそシラードは、原爆を日本に投下させないように、懸命の努力を続ける。その一つが、科学者たちによる署名だ。
著者の取材のスタートは、この「署名」の存在を知ったことにある。テレビで原爆のドキュメンタリーを見ていると、マンハッタン計画に携わっていたという女性科学者が取材に応じていて、彼女が、原爆投下させないようにという嘆願書に署名をした、と証言していたのだ。そんな事実を知らなかった著者は、そこから調査をスタートさせる。そして、マンハッタン計画に関わった存命の科学者たちにアプローチし、科学者たちの内面を理解しようとする。
結局、シラードが集めた署名入りの嘆願書は、当時の大統領の元に届かなかったという。しかしシラード自身、それが届いていたとしても状況は変わらなかっただろう、と考えていたという。
存命の科学者は少ないが、取材を受けてくれた科学者たちの反応に著者は戸惑った。
【広島の人たちは悪い人ではなかった。長崎もそうですね。その人たちの死が、ほかの人の命を救ったのも事実だし、同盟国の人たちの命も救ったわけだし、そういう意味でいいことではないが、ただ無駄に亡くなっていったわけではないと思います】
【自分は過去に関わったけれど、言ってみればそれは事故のようなもので、内容を知っていて自分が選んだことではなかった。原爆自体の設計にも関わっていなかった】
これは別々の人の発言だが、やはり日本人の捉え方とは大分距離がある。とはいえ僕自身は、こういう発言を、残念だとか酷いとは思わない。心理学的にも、人間は「自分の行動」と「自分の感情」を一致させようとする傾向があるという。つまり、「自分がマンハッタン計画に携わった」という行動があり、そのことを「悪いもの」としたくないのであれば、それに合わせて「自分の感情」も調整されていく、というような話だ。人間は、なるべく自分の言動の一貫性を保ちたがるので、そういう感覚も働いていることだろう。どの道、戦時中の話だ。すべてを「戦争だったから仕方ない」でまとめてしまうのは良くないことだが、しかし、戦争という抗えない流れの中で、個人に出来ることは多くない。誰もが、そうせざるを得なかった人生を歩んできたのだ、と思うしかない、と僕は思ってしまう。
著者は後半で、「科学者たちからの謝罪がなかったから自分はモヤモヤするのだろうか」という悩みを明かす。これは、難しい問題だ、と感じた。僕自身は、「謝罪してもらう」ということにほとんど価値を感じない。何故ならそれはただの言葉でしかないからだ。その人が「ごめん」と言うかどうかに関わらず、大事なことは、その人がどんな行動をしているか(してきたか)でしかないと思っている。しかし、世の中の多くの人は、たぶんそうじゃない。謝罪、という行為に重要性を感じるはずだ。本書でも、「謝罪を重視すると物事が前に進まない」という著者自身の感覚が語られる場面があるが、そうだなぁと思う。「謝罪した」という形式が重要になる、ということは理解できないこともないが、僕にはあまりその感覚は理解できない。
世界中の様々な場所で様々な対立が起こっている。そこでは、「謝罪」というものが一つ大きな障害物になっているのではないかと想像する。もちろん「謝罪の気持ち」は大事だろうが、しかし「謝罪という形式」に本当に意味があるのか?なんかそんなことを考えさせられた一冊だった。
大平一枝「届かなかった手紙 原爆開発「マンハッタン計画」科学者たちの叫び」
「原爆」と聞くと、具体的にどう言葉にするかは様々だろうが、日本人であれば「悪」という認識であろう。しかし、アメリカ人からすればそうではない。アメリカ人からすれば、「善」なのだ。何故なら、「原爆」を使用しなかった場合、より甚大な被害がもたらされていたはずだから、というのだ。これは、広島・長崎の悲惨な情報がアメリカにきちんと届かなかったことや、アメリカにおける歴史教育などによるもので、アメリカ人が悪いわけではないだろう。“現実”の認識の仕方が常に難しい、というだけのことだ。
本書は、そんな「原爆」の開発において、忘れ去られた一人の科学者を取り上げ、彼が成したことを中心に、原爆開発に携わった科学者たちの内面に迫ろうとする一冊だ。
忘れられた科学者の名は、レオ・シラード。伏見康治という科学者は、シラードをこう形容したという。
【原爆を作らせようとして成功し、使わせまいとして失敗した男】
まさに彼の存在を的確に表現したものだ。
彼が何をしたのかについてはすぐ触れるが、シラードという科学者のことは現在、アメリカ国内でもほとんど知られていないという。
【当時の物理学者はみなリオ(※レオのこと)のことを知っていたけれど、今は学者でも知らない人がほとんど。アメリカの一般市民はもっと知らない】
不思議な話だ。何故なら、マンハッタン計画は、シラードがいなかったら始まりもしなかったのだから。
【シラードがいなかったら、マンハッタン計画は立ち上がっていなかった。仮に立ち上がっていたとしても、1945年8月6日の投下に間に合うほど研究は進んでいなかった。すなわち、シラードがいなかったら、日本に原爆は落とされていなかったのである。】
そもそも、原爆のアイデアを生み出したのがシラードだという。
【彼は、ハーバート・ジョージ・ウェルズのSF小説『解放された世界』のことを思い出した。ウェルズは、1914年の時点で、石炭や石油など天然のエネルギーが枯渇した末に、原子力エネルギーが開発されるという未来を描いている。シラードは、ウェルズの描いた未来が絵空事とはどうしても思えなかった。
信号が青になったので歩き出す。その横断中、まるで天から降ってきたかのように、突如ひとつのアイデアがひらめいた。
「もし中性子の衝突で分裂するような元素が発見でき、一個の中性子を吸収する際、二個の中性子を放出するような物質がみつかったら、原子核の連鎖反応が維持できるのではないか」
大量にその元素が存在すれば、莫大な核のエネルギーが放出されることになる。このときの発想がのちに、世界初の臨海達成につながるのである。シラードは、この想いつきをその後研究で試し、初期段階の核連鎖反応にまつわる幾つかの特許を取得した。つまり、核分裂しやすいウラン235によって原子爆弾製造が可能であると、イギリス政府の研究機関モード委員会が結論づける八年前から、シラードは独自にその可能性を探り始めていたのである】
つまり、シラードこそが、原子爆弾の生みの親と言っていいはずなのだ。なのにシラードの存在は忘れ去られている。
さて、この点が、【原爆を作らせようとして成功】した部分である。
ではその後彼は何をしたのか?その点に触れる前に、何故マンハッタン計画がこれほど急ピッチで進められたのかについて書こう。
そもそも原爆は、ナチスドイツに対抗するために開発がスタートした。臨海が技術的に可能であるということは、ナチスドイツが先にそれを開発する可能性は十分にある。というかシラードらは、恐らくナチスドイツはもうある程度開発しているだろう、と想定していた。実際には、ナチスドイツでは原爆はほぼ開発されていなかったことが後に分かるのだが、世界中がナチスドイツへの恐怖で満たされていた時代には、そういう憶測が現実感を持っていた。そして、ナチスドイツよりも早く原爆を開発しなければならない、という機運が高まったのだ。
しかし、戦争の情勢は刻一刻と変わっていく。ドイツとの戦争は終結するだろう、という流れになっていった。すると、どうして原爆の開発を続けなければならないのか?という疑問が出てくるようになる。マンハッタン計画に携わっていた者たちのほとんどは、自分たちが原爆の開発に携わっていることを知らされていなかったらしいが、計画の中心にいたシラードはもちろん理解していたし、原爆の恐ろしさについても分かっていた。アメリカが、日本に対して原爆を使おうとしていることも、早くから見抜いていた。
だからこそシラードは、原爆を日本に投下させないように、懸命の努力を続ける。その一つが、科学者たちによる署名だ。
著者の取材のスタートは、この「署名」の存在を知ったことにある。テレビで原爆のドキュメンタリーを見ていると、マンハッタン計画に携わっていたという女性科学者が取材に応じていて、彼女が、原爆投下させないようにという嘆願書に署名をした、と証言していたのだ。そんな事実を知らなかった著者は、そこから調査をスタートさせる。そして、マンハッタン計画に関わった存命の科学者たちにアプローチし、科学者たちの内面を理解しようとする。
結局、シラードが集めた署名入りの嘆願書は、当時の大統領の元に届かなかったという。しかしシラード自身、それが届いていたとしても状況は変わらなかっただろう、と考えていたという。
存命の科学者は少ないが、取材を受けてくれた科学者たちの反応に著者は戸惑った。
【広島の人たちは悪い人ではなかった。長崎もそうですね。その人たちの死が、ほかの人の命を救ったのも事実だし、同盟国の人たちの命も救ったわけだし、そういう意味でいいことではないが、ただ無駄に亡くなっていったわけではないと思います】
【自分は過去に関わったけれど、言ってみればそれは事故のようなもので、内容を知っていて自分が選んだことではなかった。原爆自体の設計にも関わっていなかった】
これは別々の人の発言だが、やはり日本人の捉え方とは大分距離がある。とはいえ僕自身は、こういう発言を、残念だとか酷いとは思わない。心理学的にも、人間は「自分の行動」と「自分の感情」を一致させようとする傾向があるという。つまり、「自分がマンハッタン計画に携わった」という行動があり、そのことを「悪いもの」としたくないのであれば、それに合わせて「自分の感情」も調整されていく、というような話だ。人間は、なるべく自分の言動の一貫性を保ちたがるので、そういう感覚も働いていることだろう。どの道、戦時中の話だ。すべてを「戦争だったから仕方ない」でまとめてしまうのは良くないことだが、しかし、戦争という抗えない流れの中で、個人に出来ることは多くない。誰もが、そうせざるを得なかった人生を歩んできたのだ、と思うしかない、と僕は思ってしまう。
著者は後半で、「科学者たちからの謝罪がなかったから自分はモヤモヤするのだろうか」という悩みを明かす。これは、難しい問題だ、と感じた。僕自身は、「謝罪してもらう」ということにほとんど価値を感じない。何故ならそれはただの言葉でしかないからだ。その人が「ごめん」と言うかどうかに関わらず、大事なことは、その人がどんな行動をしているか(してきたか)でしかないと思っている。しかし、世の中の多くの人は、たぶんそうじゃない。謝罪、という行為に重要性を感じるはずだ。本書でも、「謝罪を重視すると物事が前に進まない」という著者自身の感覚が語られる場面があるが、そうだなぁと思う。「謝罪した」という形式が重要になる、ということは理解できないこともないが、僕にはあまりその感覚は理解できない。
世界中の様々な場所で様々な対立が起こっている。そこでは、「謝罪」というものが一つ大きな障害物になっているのではないかと想像する。もちろん「謝罪の気持ち」は大事だろうが、しかし「謝罪という形式」に本当に意味があるのか?なんかそんなことを考えさせられた一冊だった。
大平一枝「届かなかった手紙 原爆開発「マンハッタン計画」科学者たちの叫び」
「いつのまにか、ここにいる Documentary of 乃木坂46」を観に行ってきました
前作「悲しみの忘れ方」は、個人的な意見で言えば、「乃木坂46の映画」というより「アイドルのドキュメンタリー」だった。「悲しみの忘れ方」の公開時、あるいは、その映画に収録されていたような頃は、乃木坂46というものがまだ世間的に今ほど飛躍していない時期だった。僕自身、乃木坂46のファンとして「悲しみの忘れ方」を観たわけではなかった。そういう僕個人の関わり方も関係しているかもしれないが、「悲しみの忘れ方」は、乃木坂46という存在に興味がない人でも関心を持って観ることが出来る映画だったと思う。
今作「いつのまにか、ここにいる」は、そういう前作との対比で言えば、「乃木坂46の映画」だと思った。もちろんこれは、乃木坂46に詳しくないと関心を持って観られない、という意味ではない。この映画の監督自身も、モノローグ(という言い方はおかしいのかな?監督の言葉が時々出てくる)で、【アイドルについてはまったく知らなかった】と言っている。そんな監督が、メンバーの関係性も一切分からないまま撮影をした映画であるので、乃木坂46に詳しくなくても観られる映画ではある。しかしやはりこの映画は「乃木坂46の映画」だと思った。
この映画を撮る難しさを、監督はこんな風に表現していた。
【アイドルドキュメンタリーの面白さは、少女たちの成長物語だ。
しかし乃木坂46は、すでにスターになってしまったプロ集団だ。
すべてがうまく行っているように見える。
何を映画に撮ればいいのか分からなかった。
仕事を断りたいとさえ思った。】
その感覚については、僕も同感だ。乃木坂46のドキュメンタリー第二弾が公開されるという情報を知って最初にそのことが思考に上った。一体、何を描くんだろう?今の乃木坂46の、何を切り取ったら映画になるんだろう?と。これは誤解を招きそうな表現だから補足するが、別に乃木坂46という集団に物語がないという意味ではない。そこここに物語はある。しかしそれは、割と世間一般に既にさらけ出されている物語でもある。メンバーのネガティブ的な部分については、前作「悲しみの忘れ方」で存分に切り取られている。レコード大賞受賞や紅白出場、生田絵梨花のミュージカル女優としての軌跡や、舞台やラジオやモデルで活躍するメンバーの存在、卒業生がアナウンサーとなり、女優となり、それぞれのステージで活躍している。そういう物語は、乃木坂46のファン以外の層にも、ある程度視覚化されてしまっている。
そういう中で、映画として提示すべき物語をどこに見出すのか。
ある意味でそれは、メンバー自身の疑問でもあったようだ。監督は撮影中メンバーから「撮影側の心配をされた」と明かしている。こんなんで、映画になりますか?と。齋藤飛鳥は、個人的な観光旅行の場面を撮られている中、同じように「観光なんか撮ってて映画になるんですか?」と聞いていたという。
監督の、「仕事を断りたいとさえ思った」という感覚の一番大きな部分は、この点にあっただろう。
しかし監督は、恣意的に物語を設定しようとしなかった。映画のパンフレットの中で、監督はこう書いている。
【何を撮ろうかは決めずに撮影に入りましたが、事前に決めていたことがあります。それは、仕事で撮影をする者という以上に「人として近づく」という意識を持つことです。なので、こういう言葉がほしいという圧を加えるようなことはしませんし、メンバーと話をする中でカマをかけたり、被写体の真意を捻じ曲げたりするようなこともしません。また、自分の中に大義名分がない限りはカメラを回さないと決めました。カメラを向けることは被写体にとって負荷がかかります。この圧はなるべく与えたくありません。でも、素材はないといけない。だから、「この時間は貴重だから、絶対に記録しておくべきだ」と感じた瞬間だけ、カメラを回しました。“いかに撮るか”も大事ですが、“いかに撮らないか”も大事だと思っています】「『いつのまにか、ここにいる』パンフレット」
この点については、まさに監督にオファーをした理由そのものだったそうです。同じパンフレットに載っている、乃木坂46映像プロデューサーの金森氏はこう言います。
【きっかけは岩下さんが撮った「ポカリスエット」のCMのドキュメンタリー映像を見たことです。「天才がいる!」と、すぐに連絡をしました。岩下さんが最高なのは、メンバーに対して意思を誘導するような聞き方や撮り方を極力しないということです。あくまで観察者として密着する。メンバーは若くて、考え方は日に日に変化して言う。その変化一つひとつに大げさなリアクションや結論を出さないで経過観察するんです。「一個の言葉や行動で相手を簡単に理解しない」という立ち位置でメンバーに向かう。その上品な作り方は乃木坂46に合っていると思いました】「『いつのまにか、ここにいる』パンフレット」
そんな風に、メンバーのことも誰も知らず、そもそもアイドルにもまったく詳しくない監督が乃木坂46に密着する中で見えてきたもの。それは「失恋」だった。
この「失恋」という捉え方には、2つの大きな要素が関係している。一つは、「乃木坂46の仲の良さ」、もう一つは「アイドルの卒業」だ。
監督はまず、乃木坂46の異常な仲の良さに着目する。メンバー自身も、「気持ち悪いですよね?」と自虐的に言ってしまうぐらいで、映像の中では、メンバー同士がひっついたりハグしたりしている場面が随時捉えられている。「B.L.T. 9月号」の中で、齋藤飛鳥と与田祐希はこの映画を見てこんな発言をしている。
【齋藤「(メンバー同士の仲が良すぎて)ちょっとコワいよね(笑)。みんなひっつくし」
与田「たしかに!すごく密着していて。私、人にくっつくタイプじゃなかったんですけど,ドキュメンタリー映画を見ていて、“こんなに私、人にくっついているんだ”と思って、びっくりしました(笑)。乃木坂だからなんですかね、乃木坂の空気でそうなるんですかね」】「B.L.T. 2019年9月号」
同じく岩下監督も、こう発言している。
【ホントに裏表のない、正直な人たちだったので。最初からそう聞いてはいたんですけど、ホントかなって思っていたら、ホントにそうでした(笑)】「B.L.T. 2019年9月号」
こういうのは、まあ正直なところ、僕ら一般人には本当のところは分からない。良い部分だけ切り取って見せている可能性だって常にあるし、イメージを守るためにそういうことにしてるってこともまああるだろう。僕は男だから、映画の中の彼女たちの振る舞いを見ていてもその辺りの判断は出来ないけど、まあでも、僕が見ている限り、本当に仲が良さそうだなぁ、とは思う。仲が良いというか、「Noを共有出来そうだな」といつも思っている。「仲が良い」という表現だと、いつも一緒にいてお喋りして楽しくワイワイしてる、みたいな感じしかイメージできない。もちろん乃木坂46にもそういう部分はあるだろうけど、そうではない、積極的に関わらなくても価値観が合わなくても同じ一つの空気感でまとまれる、というような雰囲気を乃木坂46から感じることがあって、そういう部分が強いなって思う。そう思わされる一番の理由は齋藤飛鳥の存在で、彼女はやはりこの映画の主役の一人である。しかし齋藤飛鳥についは最後に触れよう。
そんな仲の良さを目の当たりにした監督は、これを描くことに決める。
【じゃあもう、この人たちが織りなす大胆不敵なラブストーリーにしよう、この人たちが見せてくれる愛の物語をそのまま丁寧に編んでいけばいいんだって思いました。有りもしないものを作り込んだり、何かを隠したりする必要がないから。ホントに正直な人たちを、正直に撮りにいった結果、この映画に描かれている全部のエピソードがラブストーリーになったっていう。】「B.L.T. 2019年9月号」
そういう描かれ方の中心になったのが、西野七瀬だ。
この映画の撮影期間中に、西野七瀬が卒業を発表した。誰も、西野七瀬から事前に話を聞かされなかった。西野はこう言う。
【自分が卒業しても、涙を流してくれる人なんて誰もいないだろうと思ってた。寂しいって思ってもらえるのって嬉しいんだなって。寂しいとか思ってもらえる存在だと思ってなかったので】
だから誰にも話さなかったという。そして、「乃木坂46の仲の良さ」に、西野七瀬の「卒業」という要素が加わることで、物語は「失恋」のトーンになる。
監督のモノローグで、こんな言葉が出てくる。
【(卒業による別れは)失恋に近いのではないかと思った。
だとしたら、あんなに近くにいたのに、と絶対苦しむ。】
誰もが、西野の卒業を知り、涙する。そしてそれぞれの言葉で、西野の卒業や、アイドルの卒業について語る。
【桜井 このグループに引き止められているのは、思い出とか好きな子がいるからとか、そういうものが大半になっている】
【山下 乃木坂46が変わってしまうのは嫌。永遠に誰も卒業しないでほしい】
【大園 大好きな先輩がいつか卒業するって思ったら耐えられなくないですか?会えないことに強くなる必要、ありますか?】
【高山 過去のことを考えても、未来のことを考えても切ない。】
【秋本 卒業って形、無くさない?って思ったことは何度もあります。乃木坂46は実家みたいなもので、いつでも戻ってこられる場所、みたいに出来たらいいなって】
生駒里奈が卒業した後、乃木坂46の支柱と言っていい白石麻衣と西野七瀬。その一角が卒業するという衝撃は、乃木坂46を大きく揺さぶる。乃木坂46合同会社代表である今野氏も、
【西野をどのように送り出すかというのは、僕たちにとって大きなミッションでした。西野の気持ちを考えたのはもちろんでしたが、残されたメンバーの気持ちも考えないといけません。西野の卒業を契機として、自分の卒業のことを考えるかもしれませんから、グループにとっていろいろな形で影響を与える出来事でした】「『いつのまにか、ここにいる』パンフレット」
と語っている。
メンバーやスタッフからそれほど強く認識され、卒業という報がやはり激震を巻き起こすこととなった西野七瀬は、「乃木坂46にいた期間は、全人生の中で唯一そこだけキラキラしている大切すぎる部分」と言った上で、紅白を終え年越しした瞬間にこんな風に語っている。
【こんなに清々しく、晴れ晴れしい気持ちで新しい年を迎えられるとは思っていませんでした。最高の2018年でした。(中略)私は、起こった出来事について「こうなるべきだったんだろうな」と思うタイプなんです。乃木坂46って本当に良い流れの中にいますよね。そしてその大きな流れの中に、自分もいられたことが、凄く嬉しい。】
この流れで、大園桃子のこんな発言も書いておこう。確か、レコード大賞か紅白歌合戦か、どちらかの番組でのパフォーマンス終了後の場面だったと思う。
【大園 なんか、乃木坂も悪くないなって思った。こんなに素直に思ったのは初めてかもしれない】
そう言って、齋藤飛鳥に抱きついた。この大園の言葉が、この映画の中で一番印象的な言葉だった。こういうことを、他にもたくさんメンバーがいて、カメラも回っている場面で素直に言えてしまう。そこに、大園桃子という人間の素直さと、乃木坂46という許容力が詰まっているように感じられて、凄くいい場面だと思ったし、言葉としては一番印象に残っている。
さて、ここまでで、齋藤飛鳥以外の話は大体書いたと思う。後は、この映画での齋藤飛鳥の話を書こう。
僕自身が齋藤飛鳥に強く関心があるからということはもちろんあるが、やはり齋藤飛鳥には奇妙な存在感がある。この映画は、先程書いた通り「失恋」という言葉で大きく括れる外枠を持っているが、齋藤飛鳥はその大枠の中には嵌らない。齋藤飛鳥の部分だけ、完全にこの映画から浮いている。
監督もこんな風に発言している。
【それ(※齋藤飛鳥の独白の場面)は映画の本筋からはやや逸脱しているけど、これだけ心を開いてくれたことはこの映画の1つの到達点のように感じたので、これは入れるしかないと思って、ラストシーンに使うことにしたんです】「B.L.T. 2019年9月号」
他のメンバーが、別のメンバーとの関係性の中で何かが切り取られているのに対して、齋藤飛鳥は基本的に、齋藤飛鳥として完結する映り方をしている。唯一、大園桃子との関係性に着目される箇所はあるが、それ以外は基本、齋藤飛鳥一人、として描かれる。
監督も、齋藤飛鳥には苦労したようだ。
【嫌われた、と何度も思った】
モノローグでそう語っている。
僕は、齋藤飛鳥の言葉にインタビューなどでかなり触れているので、この映画で描かれている齋藤飛鳥像は、まあいつもの齋藤飛鳥だな、と思って見ている。しかし、齋藤飛鳥について「顔が小さい」「乃木坂46を担う次世代のメンバー」「ハーフ」程度の認識しか持っていない人がこの映画を見たら、とても驚くだろう。
【飛鳥 自分のことをあんまり知られたくない、って思っちゃうんですよね。それはメンバーに対してより強く思うかもしれない。嫌われたくないのかな、やっぱり。未だに、メンバーと楽に喋れる、みたいなことってないんです。いつもガチガチになりながら、それを悟られないように喋ってる】
【飛鳥 人に期待してないですし、自分にも期待しないですね。理想も、特にないかなぁ。自分にあんまり興味がないから、将来も何でもいいやって思ってるっていうか】
【飛鳥 楽屋では、読んでるようで実は読んでない。本を開いてるだけ、みたいなことは結構あります。一人になりたい、っていうわけじゃないんですけどね。一人しか選択肢がないっていう】
メンバーがワイワイ集まっている場面でも一人壁に触れていたり(昔から壁に触れるのが好きと発言している)、一人で本を読んでいたり、カメラを向けても私なんか撮らなくていいからと逃げたりする。僕は、インタビューなどの発言からこういう齋藤飛鳥像を常に思い描いているので、イメージ通りだなという感じだけど、意外だと感じる人は多いだろう。
しかし、この映画を見ていて、僕が意外だと感じた齋藤飛鳥の行動がある。それが、地元の成人式に出る、というものだ。混乱を避けるため、特別な席を用意してもらって、一般の人と関わることはなかったが、しかしそれでも驚いた。成人式に、出るんだなぁ、と。
実際彼女も、成人式に出るつもりはなかったという。しかし、「成人式に出ると親孝行になる」と聞いたから出ることにした、と話していた。実家を出てから一度も帰っておらず、良い機会だから、と。なんとなくこれは、照れ隠し的に僕には聞こえたけど、どうだろうな。
しかし、衝撃はその後にさらにきた。なんと、中学時代の同窓会に出る、というのだ。これは弩級の衝撃だったなぁ。「齋藤飛鳥と成人式」はまだ繋がるけど、「齋藤飛鳥と同窓会」はまあ繋がらない。出ることに決めた理由を、「単なる好奇心」と説明したようだ。以前彼女は雑誌のインタビューで、
【いや、人混みとか騒がしいところ、すごく嫌いなんですけど。なんか今、「自分がイヤなことをしよう」って思っていて。今、自分が嫌いなことを吸収しようと思う時期なんです】「Weekly プレイボーイno.39・40」
という発言をしていた。齋藤飛鳥は、「ちょっと前であっても、昔の自分を嫌う傾向がある」とこの映画の中で話をしていたので、既にこの発言をした頃の彼女とは違ってしまっているかもしれないが、インタビューなどで彼女の発言を追いかけていると、なんとなく、自分の思い込みを捨てて色んなところに飛び込んで行こうとする意思みたいなものを感じることがあって、そういう流れが続いててその延長線上に同窓会があるのかな、と思った。しかしそれにしても、驚いたなぁ。同窓会が終わって、「疲れた」とぽつんと口にしていたのが、彼女らしいと思った。
先程も少し触れたが、この映画のラストは、スコットランドのエディンバラに個人的に(仕事ではないという意味)旅行に行く齋藤飛鳥についていった、その時の様子で終わっている。そこで監督は彼女に、「前世で何か罪を犯したんですかね?原罪がありますよね」と言う。思わずそう言ってしまった齋藤飛鳥の発言がこれだ。
【飛鳥 できることなら私も、正統な感じで生きたかったな、と。
今の自分を考え方とかを良いものだと思ってないんです。欲求とか願望とかを抱いてしまうと、てめぇが言うなって自分のことを思っちゃうんです。こうなったらいいなっていう幻想を抱いても、冷静になると、てめぇが言うなって思う瞬間が来ちゃう。だから、理想を定めてそこに向かっていく生き方は向いてないなって思う】
しかしその後で、こんな風にも発言する。
【飛鳥 だからこそ自分に期待できるっていうこともあるんです。跳ね上がりのバネが大きくなるから。自分、いけるんじゃないかって思えることもあるんですよね】
そして、崖から海を見ながら、彼女はこんな結論に至る。
【飛鳥 期待しないって、嘘かもって思っちゃいました。してるかもしれない。人に期待、してるかもしれない】
本当に、興味の尽きない存在だなと思う。
【飛鳥 私だったら、私みたいな人と関わりたいとは思わない。でも、関わってくれる人がいる。この人はもしかしたら、あれこれ見せても幻滅しないでいてくれるんじゃないかって思う】
彼女が言う「期待」が、「幻滅されないこと」だとすれば、そんなのは全然「期待」じゃない、と僕は思う。もっとポジティブな意味での期待を、もうちょっと持ってもいいんじゃないかと、彼女に対しては思ってしまう。
「齋藤飛鳥」という、アイドルの枠に嵌らないどころか、人間の枠からも容易にはみ出しうる存在が、「アイドル」という枠組みの中で許容されている。その事実こそが、僕は「乃木坂46」というグループの驚異であり、強みであり、魅力なのだと感じてしまうのだ。
「いつのまにか、ここにいる Documentary of 乃木坂46」を観に行ってきました
今作「いつのまにか、ここにいる」は、そういう前作との対比で言えば、「乃木坂46の映画」だと思った。もちろんこれは、乃木坂46に詳しくないと関心を持って観られない、という意味ではない。この映画の監督自身も、モノローグ(という言い方はおかしいのかな?監督の言葉が時々出てくる)で、【アイドルについてはまったく知らなかった】と言っている。そんな監督が、メンバーの関係性も一切分からないまま撮影をした映画であるので、乃木坂46に詳しくなくても観られる映画ではある。しかしやはりこの映画は「乃木坂46の映画」だと思った。
この映画を撮る難しさを、監督はこんな風に表現していた。
【アイドルドキュメンタリーの面白さは、少女たちの成長物語だ。
しかし乃木坂46は、すでにスターになってしまったプロ集団だ。
すべてがうまく行っているように見える。
何を映画に撮ればいいのか分からなかった。
仕事を断りたいとさえ思った。】
その感覚については、僕も同感だ。乃木坂46のドキュメンタリー第二弾が公開されるという情報を知って最初にそのことが思考に上った。一体、何を描くんだろう?今の乃木坂46の、何を切り取ったら映画になるんだろう?と。これは誤解を招きそうな表現だから補足するが、別に乃木坂46という集団に物語がないという意味ではない。そこここに物語はある。しかしそれは、割と世間一般に既にさらけ出されている物語でもある。メンバーのネガティブ的な部分については、前作「悲しみの忘れ方」で存分に切り取られている。レコード大賞受賞や紅白出場、生田絵梨花のミュージカル女優としての軌跡や、舞台やラジオやモデルで活躍するメンバーの存在、卒業生がアナウンサーとなり、女優となり、それぞれのステージで活躍している。そういう物語は、乃木坂46のファン以外の層にも、ある程度視覚化されてしまっている。
そういう中で、映画として提示すべき物語をどこに見出すのか。
ある意味でそれは、メンバー自身の疑問でもあったようだ。監督は撮影中メンバーから「撮影側の心配をされた」と明かしている。こんなんで、映画になりますか?と。齋藤飛鳥は、個人的な観光旅行の場面を撮られている中、同じように「観光なんか撮ってて映画になるんですか?」と聞いていたという。
監督の、「仕事を断りたいとさえ思った」という感覚の一番大きな部分は、この点にあっただろう。
しかし監督は、恣意的に物語を設定しようとしなかった。映画のパンフレットの中で、監督はこう書いている。
【何を撮ろうかは決めずに撮影に入りましたが、事前に決めていたことがあります。それは、仕事で撮影をする者という以上に「人として近づく」という意識を持つことです。なので、こういう言葉がほしいという圧を加えるようなことはしませんし、メンバーと話をする中でカマをかけたり、被写体の真意を捻じ曲げたりするようなこともしません。また、自分の中に大義名分がない限りはカメラを回さないと決めました。カメラを向けることは被写体にとって負荷がかかります。この圧はなるべく与えたくありません。でも、素材はないといけない。だから、「この時間は貴重だから、絶対に記録しておくべきだ」と感じた瞬間だけ、カメラを回しました。“いかに撮るか”も大事ですが、“いかに撮らないか”も大事だと思っています】「『いつのまにか、ここにいる』パンフレット」
この点については、まさに監督にオファーをした理由そのものだったそうです。同じパンフレットに載っている、乃木坂46映像プロデューサーの金森氏はこう言います。
【きっかけは岩下さんが撮った「ポカリスエット」のCMのドキュメンタリー映像を見たことです。「天才がいる!」と、すぐに連絡をしました。岩下さんが最高なのは、メンバーに対して意思を誘導するような聞き方や撮り方を極力しないということです。あくまで観察者として密着する。メンバーは若くて、考え方は日に日に変化して言う。その変化一つひとつに大げさなリアクションや結論を出さないで経過観察するんです。「一個の言葉や行動で相手を簡単に理解しない」という立ち位置でメンバーに向かう。その上品な作り方は乃木坂46に合っていると思いました】「『いつのまにか、ここにいる』パンフレット」
そんな風に、メンバーのことも誰も知らず、そもそもアイドルにもまったく詳しくない監督が乃木坂46に密着する中で見えてきたもの。それは「失恋」だった。
この「失恋」という捉え方には、2つの大きな要素が関係している。一つは、「乃木坂46の仲の良さ」、もう一つは「アイドルの卒業」だ。
監督はまず、乃木坂46の異常な仲の良さに着目する。メンバー自身も、「気持ち悪いですよね?」と自虐的に言ってしまうぐらいで、映像の中では、メンバー同士がひっついたりハグしたりしている場面が随時捉えられている。「B.L.T. 9月号」の中で、齋藤飛鳥と与田祐希はこの映画を見てこんな発言をしている。
【齋藤「(メンバー同士の仲が良すぎて)ちょっとコワいよね(笑)。みんなひっつくし」
与田「たしかに!すごく密着していて。私、人にくっつくタイプじゃなかったんですけど,ドキュメンタリー映画を見ていて、“こんなに私、人にくっついているんだ”と思って、びっくりしました(笑)。乃木坂だからなんですかね、乃木坂の空気でそうなるんですかね」】「B.L.T. 2019年9月号」
同じく岩下監督も、こう発言している。
【ホントに裏表のない、正直な人たちだったので。最初からそう聞いてはいたんですけど、ホントかなって思っていたら、ホントにそうでした(笑)】「B.L.T. 2019年9月号」
こういうのは、まあ正直なところ、僕ら一般人には本当のところは分からない。良い部分だけ切り取って見せている可能性だって常にあるし、イメージを守るためにそういうことにしてるってこともまああるだろう。僕は男だから、映画の中の彼女たちの振る舞いを見ていてもその辺りの判断は出来ないけど、まあでも、僕が見ている限り、本当に仲が良さそうだなぁ、とは思う。仲が良いというか、「Noを共有出来そうだな」といつも思っている。「仲が良い」という表現だと、いつも一緒にいてお喋りして楽しくワイワイしてる、みたいな感じしかイメージできない。もちろん乃木坂46にもそういう部分はあるだろうけど、そうではない、積極的に関わらなくても価値観が合わなくても同じ一つの空気感でまとまれる、というような雰囲気を乃木坂46から感じることがあって、そういう部分が強いなって思う。そう思わされる一番の理由は齋藤飛鳥の存在で、彼女はやはりこの映画の主役の一人である。しかし齋藤飛鳥についは最後に触れよう。
そんな仲の良さを目の当たりにした監督は、これを描くことに決める。
【じゃあもう、この人たちが織りなす大胆不敵なラブストーリーにしよう、この人たちが見せてくれる愛の物語をそのまま丁寧に編んでいけばいいんだって思いました。有りもしないものを作り込んだり、何かを隠したりする必要がないから。ホントに正直な人たちを、正直に撮りにいった結果、この映画に描かれている全部のエピソードがラブストーリーになったっていう。】「B.L.T. 2019年9月号」
そういう描かれ方の中心になったのが、西野七瀬だ。
この映画の撮影期間中に、西野七瀬が卒業を発表した。誰も、西野七瀬から事前に話を聞かされなかった。西野はこう言う。
【自分が卒業しても、涙を流してくれる人なんて誰もいないだろうと思ってた。寂しいって思ってもらえるのって嬉しいんだなって。寂しいとか思ってもらえる存在だと思ってなかったので】
だから誰にも話さなかったという。そして、「乃木坂46の仲の良さ」に、西野七瀬の「卒業」という要素が加わることで、物語は「失恋」のトーンになる。
監督のモノローグで、こんな言葉が出てくる。
【(卒業による別れは)失恋に近いのではないかと思った。
だとしたら、あんなに近くにいたのに、と絶対苦しむ。】
誰もが、西野の卒業を知り、涙する。そしてそれぞれの言葉で、西野の卒業や、アイドルの卒業について語る。
【桜井 このグループに引き止められているのは、思い出とか好きな子がいるからとか、そういうものが大半になっている】
【山下 乃木坂46が変わってしまうのは嫌。永遠に誰も卒業しないでほしい】
【大園 大好きな先輩がいつか卒業するって思ったら耐えられなくないですか?会えないことに強くなる必要、ありますか?】
【高山 過去のことを考えても、未来のことを考えても切ない。】
【秋本 卒業って形、無くさない?って思ったことは何度もあります。乃木坂46は実家みたいなもので、いつでも戻ってこられる場所、みたいに出来たらいいなって】
生駒里奈が卒業した後、乃木坂46の支柱と言っていい白石麻衣と西野七瀬。その一角が卒業するという衝撃は、乃木坂46を大きく揺さぶる。乃木坂46合同会社代表である今野氏も、
【西野をどのように送り出すかというのは、僕たちにとって大きなミッションでした。西野の気持ちを考えたのはもちろんでしたが、残されたメンバーの気持ちも考えないといけません。西野の卒業を契機として、自分の卒業のことを考えるかもしれませんから、グループにとっていろいろな形で影響を与える出来事でした】「『いつのまにか、ここにいる』パンフレット」
と語っている。
メンバーやスタッフからそれほど強く認識され、卒業という報がやはり激震を巻き起こすこととなった西野七瀬は、「乃木坂46にいた期間は、全人生の中で唯一そこだけキラキラしている大切すぎる部分」と言った上で、紅白を終え年越しした瞬間にこんな風に語っている。
【こんなに清々しく、晴れ晴れしい気持ちで新しい年を迎えられるとは思っていませんでした。最高の2018年でした。(中略)私は、起こった出来事について「こうなるべきだったんだろうな」と思うタイプなんです。乃木坂46って本当に良い流れの中にいますよね。そしてその大きな流れの中に、自分もいられたことが、凄く嬉しい。】
この流れで、大園桃子のこんな発言も書いておこう。確か、レコード大賞か紅白歌合戦か、どちらかの番組でのパフォーマンス終了後の場面だったと思う。
【大園 なんか、乃木坂も悪くないなって思った。こんなに素直に思ったのは初めてかもしれない】
そう言って、齋藤飛鳥に抱きついた。この大園の言葉が、この映画の中で一番印象的な言葉だった。こういうことを、他にもたくさんメンバーがいて、カメラも回っている場面で素直に言えてしまう。そこに、大園桃子という人間の素直さと、乃木坂46という許容力が詰まっているように感じられて、凄くいい場面だと思ったし、言葉としては一番印象に残っている。
さて、ここまでで、齋藤飛鳥以外の話は大体書いたと思う。後は、この映画での齋藤飛鳥の話を書こう。
僕自身が齋藤飛鳥に強く関心があるからということはもちろんあるが、やはり齋藤飛鳥には奇妙な存在感がある。この映画は、先程書いた通り「失恋」という言葉で大きく括れる外枠を持っているが、齋藤飛鳥はその大枠の中には嵌らない。齋藤飛鳥の部分だけ、完全にこの映画から浮いている。
監督もこんな風に発言している。
【それ(※齋藤飛鳥の独白の場面)は映画の本筋からはやや逸脱しているけど、これだけ心を開いてくれたことはこの映画の1つの到達点のように感じたので、これは入れるしかないと思って、ラストシーンに使うことにしたんです】「B.L.T. 2019年9月号」
他のメンバーが、別のメンバーとの関係性の中で何かが切り取られているのに対して、齋藤飛鳥は基本的に、齋藤飛鳥として完結する映り方をしている。唯一、大園桃子との関係性に着目される箇所はあるが、それ以外は基本、齋藤飛鳥一人、として描かれる。
監督も、齋藤飛鳥には苦労したようだ。
【嫌われた、と何度も思った】
モノローグでそう語っている。
僕は、齋藤飛鳥の言葉にインタビューなどでかなり触れているので、この映画で描かれている齋藤飛鳥像は、まあいつもの齋藤飛鳥だな、と思って見ている。しかし、齋藤飛鳥について「顔が小さい」「乃木坂46を担う次世代のメンバー」「ハーフ」程度の認識しか持っていない人がこの映画を見たら、とても驚くだろう。
【飛鳥 自分のことをあんまり知られたくない、って思っちゃうんですよね。それはメンバーに対してより強く思うかもしれない。嫌われたくないのかな、やっぱり。未だに、メンバーと楽に喋れる、みたいなことってないんです。いつもガチガチになりながら、それを悟られないように喋ってる】
【飛鳥 人に期待してないですし、自分にも期待しないですね。理想も、特にないかなぁ。自分にあんまり興味がないから、将来も何でもいいやって思ってるっていうか】
【飛鳥 楽屋では、読んでるようで実は読んでない。本を開いてるだけ、みたいなことは結構あります。一人になりたい、っていうわけじゃないんですけどね。一人しか選択肢がないっていう】
メンバーがワイワイ集まっている場面でも一人壁に触れていたり(昔から壁に触れるのが好きと発言している)、一人で本を読んでいたり、カメラを向けても私なんか撮らなくていいからと逃げたりする。僕は、インタビューなどの発言からこういう齋藤飛鳥像を常に思い描いているので、イメージ通りだなという感じだけど、意外だと感じる人は多いだろう。
しかし、この映画を見ていて、僕が意外だと感じた齋藤飛鳥の行動がある。それが、地元の成人式に出る、というものだ。混乱を避けるため、特別な席を用意してもらって、一般の人と関わることはなかったが、しかしそれでも驚いた。成人式に、出るんだなぁ、と。
実際彼女も、成人式に出るつもりはなかったという。しかし、「成人式に出ると親孝行になる」と聞いたから出ることにした、と話していた。実家を出てから一度も帰っておらず、良い機会だから、と。なんとなくこれは、照れ隠し的に僕には聞こえたけど、どうだろうな。
しかし、衝撃はその後にさらにきた。なんと、中学時代の同窓会に出る、というのだ。これは弩級の衝撃だったなぁ。「齋藤飛鳥と成人式」はまだ繋がるけど、「齋藤飛鳥と同窓会」はまあ繋がらない。出ることに決めた理由を、「単なる好奇心」と説明したようだ。以前彼女は雑誌のインタビューで、
【いや、人混みとか騒がしいところ、すごく嫌いなんですけど。なんか今、「自分がイヤなことをしよう」って思っていて。今、自分が嫌いなことを吸収しようと思う時期なんです】「Weekly プレイボーイno.39・40」
という発言をしていた。齋藤飛鳥は、「ちょっと前であっても、昔の自分を嫌う傾向がある」とこの映画の中で話をしていたので、既にこの発言をした頃の彼女とは違ってしまっているかもしれないが、インタビューなどで彼女の発言を追いかけていると、なんとなく、自分の思い込みを捨てて色んなところに飛び込んで行こうとする意思みたいなものを感じることがあって、そういう流れが続いててその延長線上に同窓会があるのかな、と思った。しかしそれにしても、驚いたなぁ。同窓会が終わって、「疲れた」とぽつんと口にしていたのが、彼女らしいと思った。
先程も少し触れたが、この映画のラストは、スコットランドのエディンバラに個人的に(仕事ではないという意味)旅行に行く齋藤飛鳥についていった、その時の様子で終わっている。そこで監督は彼女に、「前世で何か罪を犯したんですかね?原罪がありますよね」と言う。思わずそう言ってしまった齋藤飛鳥の発言がこれだ。
【飛鳥 できることなら私も、正統な感じで生きたかったな、と。
今の自分を考え方とかを良いものだと思ってないんです。欲求とか願望とかを抱いてしまうと、てめぇが言うなって自分のことを思っちゃうんです。こうなったらいいなっていう幻想を抱いても、冷静になると、てめぇが言うなって思う瞬間が来ちゃう。だから、理想を定めてそこに向かっていく生き方は向いてないなって思う】
しかしその後で、こんな風にも発言する。
【飛鳥 だからこそ自分に期待できるっていうこともあるんです。跳ね上がりのバネが大きくなるから。自分、いけるんじゃないかって思えることもあるんですよね】
そして、崖から海を見ながら、彼女はこんな結論に至る。
【飛鳥 期待しないって、嘘かもって思っちゃいました。してるかもしれない。人に期待、してるかもしれない】
本当に、興味の尽きない存在だなと思う。
【飛鳥 私だったら、私みたいな人と関わりたいとは思わない。でも、関わってくれる人がいる。この人はもしかしたら、あれこれ見せても幻滅しないでいてくれるんじゃないかって思う】
彼女が言う「期待」が、「幻滅されないこと」だとすれば、そんなのは全然「期待」じゃない、と僕は思う。もっとポジティブな意味での期待を、もうちょっと持ってもいいんじゃないかと、彼女に対しては思ってしまう。
「齋藤飛鳥」という、アイドルの枠に嵌らないどころか、人間の枠からも容易にはみ出しうる存在が、「アイドル」という枠組みの中で許容されている。その事実こそが、僕は「乃木坂46」というグループの驚異であり、強みであり、魅力なのだと感じてしまうのだ。
「いつのまにか、ここにいる Documentary of 乃木坂46」を観に行ってきました
がんばらない練習(pha)
あれ、これって俺が書いた文章なんだっけ?
と感じるような文章が、本書にはたくさんあった。著者のphaさんの本は昔から何冊か読んでて、考え方とか結構似てるなぁ、と思ってたんだけど、改めて強くそう感じた。
もちろん、全然違う部分もある。人と喋ってると頭の中がワーッとなってしまうことはないし、からあげとかポテチばかり食べてしまうみたいなこともないし、ライナスの毛布みたいなお気に入りの布があるわけでもないし、旅行の荷物を減らせないわけでもない(旅行の荷物については、昔は減らせなかったけど)。そんな風に色々と違う部分もあるんだけど、うわっマジこれ俺が書いた文章だわ、というような部分も多々ある。
【自分が何か意見を口にすると、自分にも責任の一端が来てしまう、という気持ちがある。自分で選択をしたくない。何も選ばなければ、何か悪い結果になったとしても自分は無責任な被害者でいられる。自分は何も悪くないのに、どうしてこうなったんだ、と言っていられる。
ひたすら受け身で何もせずに、今から何されるんだろう、と思っているのが好きなのだと思う。】
【何も決めたくない。自分に選択権や決定権を与えられるとどうしたらいいかわからなくなる。
スクリーンを眺めるように、ひたすら世界とは関係ない観察者でいたい。誰かに全部決めてほしい。
そして、自分は何も悪くないのに、全部だめになってしまった、全てが壊れてしまった、どうしてこうなったんだ、と一人でぼやき続けていたい。甚だ無責任なことだけど】
メッチャ分かるなぁ。誤解されそうなので一応書いておくと、著者は別に「選択しないこと」によって、何か問題が起こった時に相手を責めたいと思っているのではない。そうではなくて、「自分が悪かったんだと思いたくない」という感覚の方が強い。それは、本書全体を読んでいても感じる。他人に責任を押し付けたい、というのではなくて、自分に責任が降り掛かってほしくない。その感覚は凄く分かります。僕も、誰かが適当に僕の人生を動かしてくれたら楽だなぁといつも思っているし、相手の決断に委ねているから相手を責めるつもりはまったくないし、でも自分で決めてないしから自分が悪いと思わなくて済む。素晴らしい。僕も意識的に相手に選択を委ねるようにしている。そして、自分が選択を委ねられたらプレッシャーを感じてしまう人間だから、相手に選択を委ねる時、そのプレッシャーを出来るだけ感じずに済むような感じにしたいとも思っている。まあ、実現できているかは分からないけど。
同じような話に、
【多分その「適当」が苦手なのだ。】
という話もある。
【何かをしなきゃいけないという立場になると、「きっちりやらなければいけない」と一人で勝手に気に病んで、過剰にがんばりすぎてしんどくなってしまうから、最初から全てを放り出してしまう。それが僕の癖なのだ。なんかもうちょっと融通が利かないものかと思うのだけど】
これも凄く分かる。これも、相手に選択を委ねるのと基本的には同じ発想だ。「自分に責任がある」という状態が、怖い。僕も、「きっちりやらなければいけない」という感情はとても強いんだけど、でも、「最初から全てを放り出す」というのもちょっと難しいので、「こいつはダメなやつだと思ってもらう」というやり方をしている。「こいつに任せたらマズイ」と思わせることで、自分に向けられる責任を回避しようとするのだ。
また「選択」については、こんなことも書いている。
【何かを決めるということは、それ以外の別の何かになり得た可能性を全て殺すということだ。常に最善手を選んでいたいのに、それが自分の愚かさゆえにわからない。それだったら何も決めたくない。決めなければ失敗はない。決めなければ、世界は何にでもなれる可能性を持ったままを保っていられる。そんな風に思ってしまう。実際には、何も決めないということも、何も決めないという選択肢を選んでいるだけに過ぎないのだけど】
この話も、凄く分かる。ただ僕の場合、この感覚は、どちらかというと他者に向けられることが多い。色んなことをスパスパと決断している人を見ると、「今そこで決断していることは、他の可能性を閉じるっていうことなんだけど、それに気付いてる?」と思ってしまうのだ。もちろん、選択肢を一つに絞って、リスクはあってもそれに注力する、というようなやり方をしなければ実現できないようなこともあると思う。限られた人間しか叶えられないような、いわゆる「夢」と呼ばれるようなものを実現するためには、そういう態度も必要だと思う。ただ、例えば、「結婚しなければ幸せになれない」という考えはどうなんだろう?人生には、結婚するという選択も結婚しないという選択もあり得る。しかし、「結婚しなければ幸せになれない」と決めてしまっている人は、結婚しないで得られる幸せ、みたいなものを全部殺してしまっていることになる。それは良いんだろうか?と僕はいつも感じてしまう。あなたがしているその決断は、あなたを本当は幸せにしたかもしれない他の選択を全部無いことにしてるってことなんだよ、と思ってしまうのだ。
そんな風に考える僕は、著者のこういう感覚にも納得感がある。
【世の中の人の意見で、百%正しい意見とか百%間違っている意見というものはあまりない。それぞれある程度の理があったり、どっちもどっちだったりする。だからわざわざ相手の言うことを否定する気になれないし、相手を否定してまで主張したい意見もない。相手の言うことを否定して議論になるとたくさん離さないといけないから面倒臭いだけかもしれないけど】
僕も割とこう考えてしまう。僕も、たまには強い意見、それこそ「百%正しい」とか「百%間違ってる」と思う場面もある。でもそれは、「未来永劫どんな場面でも常に正しい」と言っているわけではない。そうではなくて、ある枠組みがある状況下で、「その枠組みの中では絶対に正しい/間違っている」という判断をしている。その枠組みの外側に出れば、その正しさ/間違いも変わってくる。そういう風に自分で理解しているから、「未来永劫どんな場面でも常に正しい」という意味で「百%」という言葉を使うことは、「数学」に対して以外使うことはないと思う。
だからだろう。著者は「会話」に対してこんなことを書いている。
【世間話って無意味だろ。相手の発言の一つ一つにどういう意図があるのか全く読み取れない。どう応答すれば正解なのか】
【そもそも人と対面しているというだけで緊張してどうふるまえばいいのかわからなくなるのに、その上会話なんていうルールのわからないゲームをふっかけられたらパニックになるしかない。でも、社会はそれを当たり前のこととして強要してくるのだ】
僕は正直、雑談とか結構得意なので著者とは違うと思うのだけど、ただ僕も、男同士の会話に対してこういうことを感じる機会はある。女性との会話は「共感」がベースになっているので、特別な主張を持っているわけではない僕でも会話がしやすい。割と誰が言っていることも、「なるほど、そういう見方もあるよなぁ」と思ってしまう人間なので、「そうだよね」という相づちが自然に出てくるし、それで会話は成立する。ただ男同士の会話の場合は、どうもそうではない。未だに、男同士の会話のルールが掴みきれないのだけど、そういう意味でいうと、著者の感覚は分かる気もする。
著者が「会話」を苦手と感じるのには、自分に言いたいことがないから、という理由もあるようだが、それについてもこんなことを書いている。
【大体何でも、本当に何かの真っ最中にいるときは、そのことを言語化することができない。真っ最中にいるときは自分に起こっているのがどういうことなのかわからないからだ。言語というのは人類が持っている最大の問題解決ツールで、言語化できるということは、すでにある程度それを乗り越えているということなのだ。
人は文章を書くとき、自分の中である程度終わっているもの、ある程度一段落しているものについてしか書けない。「書く」という行為には、既に終わりかけている何かをはっきりと終わらせて、その次に進めるようにする効果がある】
普通に考えれば、「書く」よりも「話す」方が高度なことをしている。だって、瞬時に自分の言いたいことをまとめて口から出さなければならないからだ。世間的には、文章を書くのが苦手という人が多いし、その気持ちも分からないではないが、どう考えても、行為単体で見れば、「書く」より「話す」方が難しい。それでも多くの人が「話す」方が楽だと感じるのは、それはただ慣れの問題であって、昔からずっとやってきている行為だということに過ぎない。
「書く」ことも「話す」ことも、自分の内側から何かを出すという意味では同列の行為であり、しかし、「書く」時はじっくり時間を掛けられるのに対して、「話す」は瞬間的な行為なのだから、著者が「話す」ことに苦手意識を感じるのは当然だろうと思う。まして、「言語化する=問題をある程度乗り越えている」という認識を持っているとするならば、容易に言葉を口から出すわけにはいかないだろう。こういう部分できちんと立ち止まることが出来る、という意味でも、著者は普段から様々なことを考えているし、当たり前を当たり前と思わず止まることが出来る強さがあるのだなと思う。
好みについても、感覚的に凄く分かる部分がある。
【終わりが見えているものや日数が限られたものが好きだ】
僕は、何か「面白い」「楽しい」と思うようなことをやっていたとしても、「これがずっと続くとしたら嫌だなぁ…」と考え始めてしまう。一番顕著なのが恋愛で、その時は楽しいのだけど、「これがずっと続くとしたらしんどいなぁ…」という感覚になってしまう。だから、最初から終わることが確定していることの方がいい。期間限定である、と感じることで、「たとえ飽きても終わりが決まってるんだし安心」と思えるし、「終わりまでの間に自分のパワーをどう配分するか」という感覚も掴みやすい。
また、こんなことも書いている。
【そもそも人間関係に限らず、時間とともに減衰するものが全て嫌だという気持ちもある。例えば、いつの間にか服が擦り切れてヨレヨレになってるとか、靴の底が剥がれて履けなくなってるとか、昔からそういうのにすごく納得がいかない。全ての持ち物は半永久的に使えてほしい。なんだか毎週毎週何かを買い換えなきゃとか補充しなきゃと思ってる気がするんだけど、そんなどうでもいいことに思考のリソースを取られたくない】
「面白い」とか「つまらない」など、評価が定まるものについては期間限定であってほしいけど、別にそういうわけでもない、自分としてはどうでもいいと思っていることは半永久的であってほしい。こういう感じも凄く分かるなぁ、と思う。本書には、髪の毛とか爪も伸びたら切らなきゃいけないしめんどくさい、と書かれているけど、本当にそうだ。自分にとってどうでもいいと思っていることだからこそ、不変であってほしい。「そんなどうでもいいことに思考のリソースを取られたくない」というのは、まさに僕の感覚としてもピッタリである。
他にも、分かるなぁ、という話はいろいろある。
【何が苦手かというと、アンコールに何をやるかは最初から用意されているにもかかわらず、「本当はここで演奏は終わりなのだけど、観客の皆さんが盛り上がってくれたからリクエストに応えて特別に何かおまけをやりますね」という形式を取っているところだ。あらかじめ結果が決まっているのに形式的なやりとりをしなきゃいけないということに何か恥ずかしさと無駄さを感じてしまう】
【それは多分、列車に乗っているときに限らず、自分は本当にここにいていのだろうか、ということに根本的な不安を持っているからなのだと思う。(中略)
電車だとお金を払って切符を買うだけでそこにいてもいいと認められる。楽なものだ。人生でもときどき車掌さんがやってきて、ちゃんとやってますね、生きていて良し、って言ってくれたらいいのに】
【十代や二十代の頃などは、自分がどういう人間なのか、自分に何ができるかが全くわからなくて、ひたすらもがいてわけがわからないままに全く向いていないことに手を出して失敗したり恥をかいたりということが多かった。あの頃は大変だったなと思う。二度と戻りたくない】
【老後を考えて毎月少しずつ積み立てていこうとか、そうすると税金が控除されて得だとか、そんな暮らしをずっと続けてたら六十代や七十代になったとき困るよとか。
みんなそれは本気で言っているのか。本気で二十年後や三十年後のことを実感を持って考えられるのか。何かに騙されてないか。でも、多分みんなできるのだろう。だから世の中にはこんなにも多種多様な金融商品が存在するのだ】
なるほどなるほど、そうだよね、と思いながら読んでしまった。メッチャわかるぅ。
あと、個人的に凄い文章(というか考察?)だと思ったのが、カレーの話だ。何故カレーだったら食べられるのか、という話を、定食や牛丼やチャーハンなどと比較して1ページ半ぐらい使って語っている部分があるんだけど、これは凄いな。言われてみれば、なるほどそれは俺にもある感覚だ!ってなるし、でも正直そこまで考えたことなかったし、気づきという意味では本書で一番気づきのある箇所でした(笑)
あとがきで著者は、
【この本は僕が自分のだめな部分を認めて受け入れるための「がんばらない練習」を集めたものだ。これを読んだ人がそれぞれ抱えている自分の「できなさ」とうまくやっていく参考になればよいなと思いながら書きました】
と書いている。そういう本です。
pha「がんばらない練習」
と感じるような文章が、本書にはたくさんあった。著者のphaさんの本は昔から何冊か読んでて、考え方とか結構似てるなぁ、と思ってたんだけど、改めて強くそう感じた。
もちろん、全然違う部分もある。人と喋ってると頭の中がワーッとなってしまうことはないし、からあげとかポテチばかり食べてしまうみたいなこともないし、ライナスの毛布みたいなお気に入りの布があるわけでもないし、旅行の荷物を減らせないわけでもない(旅行の荷物については、昔は減らせなかったけど)。そんな風に色々と違う部分もあるんだけど、うわっマジこれ俺が書いた文章だわ、というような部分も多々ある。
【自分が何か意見を口にすると、自分にも責任の一端が来てしまう、という気持ちがある。自分で選択をしたくない。何も選ばなければ、何か悪い結果になったとしても自分は無責任な被害者でいられる。自分は何も悪くないのに、どうしてこうなったんだ、と言っていられる。
ひたすら受け身で何もせずに、今から何されるんだろう、と思っているのが好きなのだと思う。】
【何も決めたくない。自分に選択権や決定権を与えられるとどうしたらいいかわからなくなる。
スクリーンを眺めるように、ひたすら世界とは関係ない観察者でいたい。誰かに全部決めてほしい。
そして、自分は何も悪くないのに、全部だめになってしまった、全てが壊れてしまった、どうしてこうなったんだ、と一人でぼやき続けていたい。甚だ無責任なことだけど】
メッチャ分かるなぁ。誤解されそうなので一応書いておくと、著者は別に「選択しないこと」によって、何か問題が起こった時に相手を責めたいと思っているのではない。そうではなくて、「自分が悪かったんだと思いたくない」という感覚の方が強い。それは、本書全体を読んでいても感じる。他人に責任を押し付けたい、というのではなくて、自分に責任が降り掛かってほしくない。その感覚は凄く分かります。僕も、誰かが適当に僕の人生を動かしてくれたら楽だなぁといつも思っているし、相手の決断に委ねているから相手を責めるつもりはまったくないし、でも自分で決めてないしから自分が悪いと思わなくて済む。素晴らしい。僕も意識的に相手に選択を委ねるようにしている。そして、自分が選択を委ねられたらプレッシャーを感じてしまう人間だから、相手に選択を委ねる時、そのプレッシャーを出来るだけ感じずに済むような感じにしたいとも思っている。まあ、実現できているかは分からないけど。
同じような話に、
【多分その「適当」が苦手なのだ。】
という話もある。
【何かをしなきゃいけないという立場になると、「きっちりやらなければいけない」と一人で勝手に気に病んで、過剰にがんばりすぎてしんどくなってしまうから、最初から全てを放り出してしまう。それが僕の癖なのだ。なんかもうちょっと融通が利かないものかと思うのだけど】
これも凄く分かる。これも、相手に選択を委ねるのと基本的には同じ発想だ。「自分に責任がある」という状態が、怖い。僕も、「きっちりやらなければいけない」という感情はとても強いんだけど、でも、「最初から全てを放り出す」というのもちょっと難しいので、「こいつはダメなやつだと思ってもらう」というやり方をしている。「こいつに任せたらマズイ」と思わせることで、自分に向けられる責任を回避しようとするのだ。
また「選択」については、こんなことも書いている。
【何かを決めるということは、それ以外の別の何かになり得た可能性を全て殺すということだ。常に最善手を選んでいたいのに、それが自分の愚かさゆえにわからない。それだったら何も決めたくない。決めなければ失敗はない。決めなければ、世界は何にでもなれる可能性を持ったままを保っていられる。そんな風に思ってしまう。実際には、何も決めないということも、何も決めないという選択肢を選んでいるだけに過ぎないのだけど】
この話も、凄く分かる。ただ僕の場合、この感覚は、どちらかというと他者に向けられることが多い。色んなことをスパスパと決断している人を見ると、「今そこで決断していることは、他の可能性を閉じるっていうことなんだけど、それに気付いてる?」と思ってしまうのだ。もちろん、選択肢を一つに絞って、リスクはあってもそれに注力する、というようなやり方をしなければ実現できないようなこともあると思う。限られた人間しか叶えられないような、いわゆる「夢」と呼ばれるようなものを実現するためには、そういう態度も必要だと思う。ただ、例えば、「結婚しなければ幸せになれない」という考えはどうなんだろう?人生には、結婚するという選択も結婚しないという選択もあり得る。しかし、「結婚しなければ幸せになれない」と決めてしまっている人は、結婚しないで得られる幸せ、みたいなものを全部殺してしまっていることになる。それは良いんだろうか?と僕はいつも感じてしまう。あなたがしているその決断は、あなたを本当は幸せにしたかもしれない他の選択を全部無いことにしてるってことなんだよ、と思ってしまうのだ。
そんな風に考える僕は、著者のこういう感覚にも納得感がある。
【世の中の人の意見で、百%正しい意見とか百%間違っている意見というものはあまりない。それぞれある程度の理があったり、どっちもどっちだったりする。だからわざわざ相手の言うことを否定する気になれないし、相手を否定してまで主張したい意見もない。相手の言うことを否定して議論になるとたくさん離さないといけないから面倒臭いだけかもしれないけど】
僕も割とこう考えてしまう。僕も、たまには強い意見、それこそ「百%正しい」とか「百%間違ってる」と思う場面もある。でもそれは、「未来永劫どんな場面でも常に正しい」と言っているわけではない。そうではなくて、ある枠組みがある状況下で、「その枠組みの中では絶対に正しい/間違っている」という判断をしている。その枠組みの外側に出れば、その正しさ/間違いも変わってくる。そういう風に自分で理解しているから、「未来永劫どんな場面でも常に正しい」という意味で「百%」という言葉を使うことは、「数学」に対して以外使うことはないと思う。
だからだろう。著者は「会話」に対してこんなことを書いている。
【世間話って無意味だろ。相手の発言の一つ一つにどういう意図があるのか全く読み取れない。どう応答すれば正解なのか】
【そもそも人と対面しているというだけで緊張してどうふるまえばいいのかわからなくなるのに、その上会話なんていうルールのわからないゲームをふっかけられたらパニックになるしかない。でも、社会はそれを当たり前のこととして強要してくるのだ】
僕は正直、雑談とか結構得意なので著者とは違うと思うのだけど、ただ僕も、男同士の会話に対してこういうことを感じる機会はある。女性との会話は「共感」がベースになっているので、特別な主張を持っているわけではない僕でも会話がしやすい。割と誰が言っていることも、「なるほど、そういう見方もあるよなぁ」と思ってしまう人間なので、「そうだよね」という相づちが自然に出てくるし、それで会話は成立する。ただ男同士の会話の場合は、どうもそうではない。未だに、男同士の会話のルールが掴みきれないのだけど、そういう意味でいうと、著者の感覚は分かる気もする。
著者が「会話」を苦手と感じるのには、自分に言いたいことがないから、という理由もあるようだが、それについてもこんなことを書いている。
【大体何でも、本当に何かの真っ最中にいるときは、そのことを言語化することができない。真っ最中にいるときは自分に起こっているのがどういうことなのかわからないからだ。言語というのは人類が持っている最大の問題解決ツールで、言語化できるということは、すでにある程度それを乗り越えているということなのだ。
人は文章を書くとき、自分の中である程度終わっているもの、ある程度一段落しているものについてしか書けない。「書く」という行為には、既に終わりかけている何かをはっきりと終わらせて、その次に進めるようにする効果がある】
普通に考えれば、「書く」よりも「話す」方が高度なことをしている。だって、瞬時に自分の言いたいことをまとめて口から出さなければならないからだ。世間的には、文章を書くのが苦手という人が多いし、その気持ちも分からないではないが、どう考えても、行為単体で見れば、「書く」より「話す」方が難しい。それでも多くの人が「話す」方が楽だと感じるのは、それはただ慣れの問題であって、昔からずっとやってきている行為だということに過ぎない。
「書く」ことも「話す」ことも、自分の内側から何かを出すという意味では同列の行為であり、しかし、「書く」時はじっくり時間を掛けられるのに対して、「話す」は瞬間的な行為なのだから、著者が「話す」ことに苦手意識を感じるのは当然だろうと思う。まして、「言語化する=問題をある程度乗り越えている」という認識を持っているとするならば、容易に言葉を口から出すわけにはいかないだろう。こういう部分できちんと立ち止まることが出来る、という意味でも、著者は普段から様々なことを考えているし、当たり前を当たり前と思わず止まることが出来る強さがあるのだなと思う。
好みについても、感覚的に凄く分かる部分がある。
【終わりが見えているものや日数が限られたものが好きだ】
僕は、何か「面白い」「楽しい」と思うようなことをやっていたとしても、「これがずっと続くとしたら嫌だなぁ…」と考え始めてしまう。一番顕著なのが恋愛で、その時は楽しいのだけど、「これがずっと続くとしたらしんどいなぁ…」という感覚になってしまう。だから、最初から終わることが確定していることの方がいい。期間限定である、と感じることで、「たとえ飽きても終わりが決まってるんだし安心」と思えるし、「終わりまでの間に自分のパワーをどう配分するか」という感覚も掴みやすい。
また、こんなことも書いている。
【そもそも人間関係に限らず、時間とともに減衰するものが全て嫌だという気持ちもある。例えば、いつの間にか服が擦り切れてヨレヨレになってるとか、靴の底が剥がれて履けなくなってるとか、昔からそういうのにすごく納得がいかない。全ての持ち物は半永久的に使えてほしい。なんだか毎週毎週何かを買い換えなきゃとか補充しなきゃと思ってる気がするんだけど、そんなどうでもいいことに思考のリソースを取られたくない】
「面白い」とか「つまらない」など、評価が定まるものについては期間限定であってほしいけど、別にそういうわけでもない、自分としてはどうでもいいと思っていることは半永久的であってほしい。こういう感じも凄く分かるなぁ、と思う。本書には、髪の毛とか爪も伸びたら切らなきゃいけないしめんどくさい、と書かれているけど、本当にそうだ。自分にとってどうでもいいと思っていることだからこそ、不変であってほしい。「そんなどうでもいいことに思考のリソースを取られたくない」というのは、まさに僕の感覚としてもピッタリである。
他にも、分かるなぁ、という話はいろいろある。
【何が苦手かというと、アンコールに何をやるかは最初から用意されているにもかかわらず、「本当はここで演奏は終わりなのだけど、観客の皆さんが盛り上がってくれたからリクエストに応えて特別に何かおまけをやりますね」という形式を取っているところだ。あらかじめ結果が決まっているのに形式的なやりとりをしなきゃいけないということに何か恥ずかしさと無駄さを感じてしまう】
【それは多分、列車に乗っているときに限らず、自分は本当にここにいていのだろうか、ということに根本的な不安を持っているからなのだと思う。(中略)
電車だとお金を払って切符を買うだけでそこにいてもいいと認められる。楽なものだ。人生でもときどき車掌さんがやってきて、ちゃんとやってますね、生きていて良し、って言ってくれたらいいのに】
【十代や二十代の頃などは、自分がどういう人間なのか、自分に何ができるかが全くわからなくて、ひたすらもがいてわけがわからないままに全く向いていないことに手を出して失敗したり恥をかいたりということが多かった。あの頃は大変だったなと思う。二度と戻りたくない】
【老後を考えて毎月少しずつ積み立てていこうとか、そうすると税金が控除されて得だとか、そんな暮らしをずっと続けてたら六十代や七十代になったとき困るよとか。
みんなそれは本気で言っているのか。本気で二十年後や三十年後のことを実感を持って考えられるのか。何かに騙されてないか。でも、多分みんなできるのだろう。だから世の中にはこんなにも多種多様な金融商品が存在するのだ】
なるほどなるほど、そうだよね、と思いながら読んでしまった。メッチャわかるぅ。
あと、個人的に凄い文章(というか考察?)だと思ったのが、カレーの話だ。何故カレーだったら食べられるのか、という話を、定食や牛丼やチャーハンなどと比較して1ページ半ぐらい使って語っている部分があるんだけど、これは凄いな。言われてみれば、なるほどそれは俺にもある感覚だ!ってなるし、でも正直そこまで考えたことなかったし、気づきという意味では本書で一番気づきのある箇所でした(笑)
あとがきで著者は、
【この本は僕が自分のだめな部分を認めて受け入れるための「がんばらない練習」を集めたものだ。これを読んだ人がそれぞれ抱えている自分の「できなさ」とうまくやっていく参考になればよいなと思いながら書きました】
と書いている。そういう本です。
pha「がんばらない練習」
弁護士が勝つために考えていること(木山泰嗣)
内容に入ろうと思います。
本書は、税務訴訟を主に担当する弁護士である著者が、一般の人も関わる可能性がある「民事訴訟」についてわかり易く説明する一冊です。
「民事訴訟」というのは、なかなか話が多岐に渡るようで、それを新書にまとめるのはなかなか難しかったようですが、学術的な部分はあまり重視せず、「民事訴訟に巻き込まれた一般人」にとって有益であるような情報を中心に書いてくれているように感じたので、とても良くまとまっていると思いました。
また本書のあとがきにはこんな風に書かれています。
【とはいえ、民事訴訟入門というテーマでは、一般の読者を中心とする新書では、なかなか手にとってもらえないだろう、ということで、裏のテーマとして「弁護士の思考法」にスポットをあてたいというお考えを聞きました。】
【本書がどれだけお役に立てたかはわかりませんが、単なる民事訴訟入門としての側面だけでなく、論理的な思考法としての側面をできるかぎり入れながら書きました】
著者は本文中で、こんな風に書いています。
【ときどき、この法的三段論法がもっと一般にも応用されればいいのに、と思うこともあります】
これは、裁判官がどのような思考で判決を導き出すのかという中で、「法的三段論法」というやり方について触れた箇所ですが、このように本書には、「思考法を伝える」という目的もあるわけです。
裁判というのは、自分が起こすにしても起こされるにしても、正直一生に一度あるかないか、ぐらいでしょう。しかし、本書にも書かれていましたけど、そうなってしまってから知識を蓄えるのではだいぶ遅いんです。ある程度「裁判」や「民事訴訟」というものについて理解しておくことで、もしもの時のために備えておく、ということはとても大事だろうと思います。
さてそんなわけでここでは、本書の中から「これは絶対知っといた方がいいよなぁ」というようなことについて書いてみたいと思います。個人的に、「ほぉ、そうなんだ!」と思ったことについて書いていこうと思います。
【民事訴訟で勝つか負けるか。それは弁護士の腕によります。(中略)
その最大の理由は、
民事訴訟が「ゲーム」だからです。
一方、刑事訴訟はゲームではありません。刑事訴訟はすなわち、真実発見を目的とする訴訟だからです。】
これは強く認識しておいた方がいいことでしょう。民事訴訟が「ゲーム」であるということについては、本書を読んでいけば理解出来ますが、「ゲーム」であり、刑事訴訟のような真実発見のための闘いではない、ということを理解しておかなければ色々間違えてしまうでしょう。
【あまりの本人訴訟(※弁護士をつけない訴訟)の多さに驚いたことをよく覚えています。
最新の統計データによれば、2012年の民事訴訟で原告と被告の双方に代理人―すなわち弁護士がついた事件は、38%に過ぎません。双方ともに代理人なしの事件は、なんと19%もあるのです(最高裁判所事務総局『裁判所データブック2013』37頁)】
本書を読めば、「民事訴訟になったら、弁護士に頼もう」と思うでしょう。それぐらい、勝つための戦略(心理戦や、裁判所選びなど多岐に渡る)が様々にあるからです。
だから、こんな文章も納得です。
【またサービス業は目にみえない商品を売るものですが、依頼者の方が思っている以上に資料の読み込みや検討、書面の作成に時間を要します。少しでも値切りたい、という気持ちは理解できますが、そういった意図がみえてしまったとき、それで弁護士が本当に気持ちよくその仕事をしてくれるのか、ということについては考えられたほうがよいと思います。できる弁護士はとにかく仕事量が多く、仕事を選ばなければ、全体をまわすことができない環境に間違いなくあるからです】
もちろん世の中には、悪徳弁護士的な人もいるでしょうが、ある程度信頼できる弁護士や弁護士事務所であれば、値切ったりせずに、相手の提示した金額で検討する、というのがいいんだろうと思います。本書を読んでたら、めっちゃ大変だな弁護士さん、って思いますもんね。
また、「和解」は実は悪い選択肢ではない、という話も非常に興味深いと感じました。
【しかし、和解は判決ではないため、当事者の合意で内容を決めることになります。和解は判例と違って内容を柔軟に決められます。多少譲歩することによって、依頼者が納得できる結果を残すことができる可能性もあります。
法律を杓子定規にあてはめると妥当な結論が導けない場合に、当事者の合意である和解を活用することで、まずまずの成果を得ることができるのは、和解の大きなメリットのひとつです。】
【また、判決になれば全額勝てることは明らかなときでも、和解をしたほうがいい場合もあります。判決で勝っても、相手に支払能力がないために、強制執行をしても回収ができないと想定されるケースがあるからです。
和解であれば、支払いの条件まで定めることができます。相手の支払い能力に応じて、分割払いにすることもできるのです。
判決の場合、回収まで考えた、こうしたきめ細かな対応はしてもらえません。判決は、勝つか負けるか、オール・オア・ナッシングの世界だからです】
【ほかにも、謝罪条項を入れる和解もあります。謝罪は、判決を得ることで実現できることではないため、謝罪が当事者にとって重要なニーズである場合には、和解にメリットが発生します。】
この点は、本書を読んで一番良かったと感じる話でした。なんとなく「和解」って、「勝訴に持っていけないから妥協した」という悪い印象がありましたけど、なるほど、見方にとっては「和解」っていうのも検討に値する選択肢なんだなぁ、と感じました。これはホント知っておいてよかったなと思います。
また、一般人が知っておいた方がいいことかどうかは判断できませんが、この点も非常に興味深いと感じました。
【そこで裁判官は何を軸に価値判断をするか。それはさきほども書いた「常識」です。
驚かれるかもしれませんが、裁判官に聞くとみなさん声をそろえて「最後は常識です」といいます。「結論は常識で出します。理由はあとから考えます」と】
これはなかなか驚きではないでしょうか?もちろんここでいう「常識」というのは、「『国民の常識』だと裁判官が思っている常識」のことであって、世間とズレる可能性は常にあるわけですが、それにしても「常識」から結論を出すとは。法律はどこへ行った?と思いませんか?
もちろん、法律から離れて結論を出すわけではありません。先程紹介した「法的三段論法」を使って、判決を書くことには変わりありません。しかし、裁判官というのは特殊な能力の持ち主なわけです。
【机上の空論と思われるかもしれませんが、同じ訴訟記録を前提にしたとしても、極端な話、「無罪で書け」といわれれば、裁判官は無罪になる判決理由を書けます。逆に「有罪で書け」といわれれば、裁判官は有罪になる判決理由を書けます。
どちらの結論で書いても、それなりの理屈はつけられる。ある意味、裁判官はそういう特殊技能の持ち主なのです】
「法律がこうであり、こういう事実認定がなされたから、判決はこう」という流れではないわけです。実際は、「常識から考えて判決はこう、どうしてそういう結論に至るのかは、法律と事実認定からこうやって導き出す」という流れなんだそうです。これもまた、「裁判」というもののイメージを変える話ではないでしょうか?
こんな感じで、本書には、「民事訴訟」について様々な知識が書かれています。実際に、人生において裁判に巻き込まれることはないかもしれませんが、それでも、知っておいた方がいいんじゃないかと思える話です。
しかし最後に、「ここまで民事訴訟について色々書いてきたけど、でも避けられるなら民事訴訟は避けた方がいい」と書かれています。民事訴訟は最終手段であって、そこに至るまでに解決の手段は様々にあると。仮に勝っても、民事訴訟になることで様々なリスクやデメリットがあるわけで、そうならないに越したことはない、と著者は力説します。
その最も説得力のある話が、著者の祖母が民事調停に巻き込まれ、著者が代理人を務めたエピソードにあります。著者は、仕事で民事訴訟に関わっているわけですが、いざ民事調停(ここで決着がつかないと民事訴訟になる)で揉めて、このままだと民事訴訟になってしまう、と思った著者は、調停の段階で金銭を支払って出ていってもらう決断をしたと言います。
【なにがいいたいのか。それは、弁護士のわたしですら、身内のことになれば、訴訟はできるかぎり回避しようとする、ということです】
それぐらい、民事訴訟は避けた方がベターだ、という話でした。説得力がありますね。
些細なこと(自分ではそう思っていること)でも訴えられる可能性がある世の中において、どうしたら民事訴訟は避けられるか、そして、もし巻き込まれてしまった場合にどうしたらいいかを、本書から学んでみてください。
木山泰嗣「弁護士が勝つために考えていること」
本書は、税務訴訟を主に担当する弁護士である著者が、一般の人も関わる可能性がある「民事訴訟」についてわかり易く説明する一冊です。
「民事訴訟」というのは、なかなか話が多岐に渡るようで、それを新書にまとめるのはなかなか難しかったようですが、学術的な部分はあまり重視せず、「民事訴訟に巻き込まれた一般人」にとって有益であるような情報を中心に書いてくれているように感じたので、とても良くまとまっていると思いました。
また本書のあとがきにはこんな風に書かれています。
【とはいえ、民事訴訟入門というテーマでは、一般の読者を中心とする新書では、なかなか手にとってもらえないだろう、ということで、裏のテーマとして「弁護士の思考法」にスポットをあてたいというお考えを聞きました。】
【本書がどれだけお役に立てたかはわかりませんが、単なる民事訴訟入門としての側面だけでなく、論理的な思考法としての側面をできるかぎり入れながら書きました】
著者は本文中で、こんな風に書いています。
【ときどき、この法的三段論法がもっと一般にも応用されればいいのに、と思うこともあります】
これは、裁判官がどのような思考で判決を導き出すのかという中で、「法的三段論法」というやり方について触れた箇所ですが、このように本書には、「思考法を伝える」という目的もあるわけです。
裁判というのは、自分が起こすにしても起こされるにしても、正直一生に一度あるかないか、ぐらいでしょう。しかし、本書にも書かれていましたけど、そうなってしまってから知識を蓄えるのではだいぶ遅いんです。ある程度「裁判」や「民事訴訟」というものについて理解しておくことで、もしもの時のために備えておく、ということはとても大事だろうと思います。
さてそんなわけでここでは、本書の中から「これは絶対知っといた方がいいよなぁ」というようなことについて書いてみたいと思います。個人的に、「ほぉ、そうなんだ!」と思ったことについて書いていこうと思います。
【民事訴訟で勝つか負けるか。それは弁護士の腕によります。(中略)
その最大の理由は、
民事訴訟が「ゲーム」だからです。
一方、刑事訴訟はゲームではありません。刑事訴訟はすなわち、真実発見を目的とする訴訟だからです。】
これは強く認識しておいた方がいいことでしょう。民事訴訟が「ゲーム」であるということについては、本書を読んでいけば理解出来ますが、「ゲーム」であり、刑事訴訟のような真実発見のための闘いではない、ということを理解しておかなければ色々間違えてしまうでしょう。
【あまりの本人訴訟(※弁護士をつけない訴訟)の多さに驚いたことをよく覚えています。
最新の統計データによれば、2012年の民事訴訟で原告と被告の双方に代理人―すなわち弁護士がついた事件は、38%に過ぎません。双方ともに代理人なしの事件は、なんと19%もあるのです(最高裁判所事務総局『裁判所データブック2013』37頁)】
本書を読めば、「民事訴訟になったら、弁護士に頼もう」と思うでしょう。それぐらい、勝つための戦略(心理戦や、裁判所選びなど多岐に渡る)が様々にあるからです。
だから、こんな文章も納得です。
【またサービス業は目にみえない商品を売るものですが、依頼者の方が思っている以上に資料の読み込みや検討、書面の作成に時間を要します。少しでも値切りたい、という気持ちは理解できますが、そういった意図がみえてしまったとき、それで弁護士が本当に気持ちよくその仕事をしてくれるのか、ということについては考えられたほうがよいと思います。できる弁護士はとにかく仕事量が多く、仕事を選ばなければ、全体をまわすことができない環境に間違いなくあるからです】
もちろん世の中には、悪徳弁護士的な人もいるでしょうが、ある程度信頼できる弁護士や弁護士事務所であれば、値切ったりせずに、相手の提示した金額で検討する、というのがいいんだろうと思います。本書を読んでたら、めっちゃ大変だな弁護士さん、って思いますもんね。
また、「和解」は実は悪い選択肢ではない、という話も非常に興味深いと感じました。
【しかし、和解は判決ではないため、当事者の合意で内容を決めることになります。和解は判例と違って内容を柔軟に決められます。多少譲歩することによって、依頼者が納得できる結果を残すことができる可能性もあります。
法律を杓子定規にあてはめると妥当な結論が導けない場合に、当事者の合意である和解を活用することで、まずまずの成果を得ることができるのは、和解の大きなメリットのひとつです。】
【また、判決になれば全額勝てることは明らかなときでも、和解をしたほうがいい場合もあります。判決で勝っても、相手に支払能力がないために、強制執行をしても回収ができないと想定されるケースがあるからです。
和解であれば、支払いの条件まで定めることができます。相手の支払い能力に応じて、分割払いにすることもできるのです。
判決の場合、回収まで考えた、こうしたきめ細かな対応はしてもらえません。判決は、勝つか負けるか、オール・オア・ナッシングの世界だからです】
【ほかにも、謝罪条項を入れる和解もあります。謝罪は、判決を得ることで実現できることではないため、謝罪が当事者にとって重要なニーズである場合には、和解にメリットが発生します。】
この点は、本書を読んで一番良かったと感じる話でした。なんとなく「和解」って、「勝訴に持っていけないから妥協した」という悪い印象がありましたけど、なるほど、見方にとっては「和解」っていうのも検討に値する選択肢なんだなぁ、と感じました。これはホント知っておいてよかったなと思います。
また、一般人が知っておいた方がいいことかどうかは判断できませんが、この点も非常に興味深いと感じました。
【そこで裁判官は何を軸に価値判断をするか。それはさきほども書いた「常識」です。
驚かれるかもしれませんが、裁判官に聞くとみなさん声をそろえて「最後は常識です」といいます。「結論は常識で出します。理由はあとから考えます」と】
これはなかなか驚きではないでしょうか?もちろんここでいう「常識」というのは、「『国民の常識』だと裁判官が思っている常識」のことであって、世間とズレる可能性は常にあるわけですが、それにしても「常識」から結論を出すとは。法律はどこへ行った?と思いませんか?
もちろん、法律から離れて結論を出すわけではありません。先程紹介した「法的三段論法」を使って、判決を書くことには変わりありません。しかし、裁判官というのは特殊な能力の持ち主なわけです。
【机上の空論と思われるかもしれませんが、同じ訴訟記録を前提にしたとしても、極端な話、「無罪で書け」といわれれば、裁判官は無罪になる判決理由を書けます。逆に「有罪で書け」といわれれば、裁判官は有罪になる判決理由を書けます。
どちらの結論で書いても、それなりの理屈はつけられる。ある意味、裁判官はそういう特殊技能の持ち主なのです】
「法律がこうであり、こういう事実認定がなされたから、判決はこう」という流れではないわけです。実際は、「常識から考えて判決はこう、どうしてそういう結論に至るのかは、法律と事実認定からこうやって導き出す」という流れなんだそうです。これもまた、「裁判」というもののイメージを変える話ではないでしょうか?
こんな感じで、本書には、「民事訴訟」について様々な知識が書かれています。実際に、人生において裁判に巻き込まれることはないかもしれませんが、それでも、知っておいた方がいいんじゃないかと思える話です。
しかし最後に、「ここまで民事訴訟について色々書いてきたけど、でも避けられるなら民事訴訟は避けた方がいい」と書かれています。民事訴訟は最終手段であって、そこに至るまでに解決の手段は様々にあると。仮に勝っても、民事訴訟になることで様々なリスクやデメリットがあるわけで、そうならないに越したことはない、と著者は力説します。
その最も説得力のある話が、著者の祖母が民事調停に巻き込まれ、著者が代理人を務めたエピソードにあります。著者は、仕事で民事訴訟に関わっているわけですが、いざ民事調停(ここで決着がつかないと民事訴訟になる)で揉めて、このままだと民事訴訟になってしまう、と思った著者は、調停の段階で金銭を支払って出ていってもらう決断をしたと言います。
【なにがいいたいのか。それは、弁護士のわたしですら、身内のことになれば、訴訟はできるかぎり回避しようとする、ということです】
それぐらい、民事訴訟は避けた方がベターだ、という話でした。説得力がありますね。
些細なこと(自分ではそう思っていること)でも訴えられる可能性がある世の中において、どうしたら民事訴訟は避けられるか、そして、もし巻き込まれてしまった場合にどうしたらいいかを、本書から学んでみてください。
木山泰嗣「弁護士が勝つために考えていること」
14歳からの資本主義 君たちが大人になるころの未来を変えるために(丸山俊一)
内容に入ろうと思います。
が、ちょっと僕には難しかったなぁ。
「14歳からの」とついてますけど、易しい本ではないなぁ、という感じです。
もちろん、かなり噛み砕いて書いてくれていると思いますし、なるほどと思う部分もありましたけど、全体的には「上手く捉えられなかったなぁ」という感じが強いですね。
本書はとにかく、「資本主義って何?」と「今、資本主義ってどうなってるの?」という、超基本的なことについて書いていきます。確かに、読んでいれば、その箇所に書かれていることは分かるんだけど、どうも全体の中の繋がりみたいなものをうまく捉えるのが難しかったなぁ、と。
本書は、著者自身の意見がふんだんに盛り込まれた本、というわけではありません。本書は、「欲望の資本主義」というNHKの番組の制作統括の方が著者で、番組に出演してもらった経済学者や哲学者、あるいは過去の経済学者の著書などから様々な引用をし、また、資本主義というものの一般的な理解のために様々な例を挙げながら進めていく作品です。
で、とにかく本書では、「資本主義は“健全”に運営されているならいい仕組みのはず」「でも今ちょっと調子悪いみたい」「今は、どうして資本主義がとりあえず回っているのか誰にも説明できない」「資本主義って、そもそも本質的に壊れるように出来てるんじゃない?」みたいな感じの話が展開されていきます。
とはいえ、「現状」を捉えることがそもそも難しいんだから、どうにもしようがないですよね。今、資本主義がどういう状態であるのか、みたいなことについても、色んな人の意見が分かれているし、であれば当然、これからどうなるかという意見も分かれます。そういう色んな考えが紹介されるんですけど、正直、著名な経済学者に分からないんだから、誰にもわかんねえよなぁ、という感じがしました。
個人的に本書で面白いなと思ったのが、チェコのエコノミストであるセドラチェクです。この人は、社会主義と資本主義を両方経験している人です。子供の頃、チェコは社会主義であり、今は資本主義だそう。そういう経験があるからでしょうか、経済というものを見る視点みたいなものが面白いなぁ、と感じました。
あと、シュンペーターという経済学者が主張している、「資本主義はそもそも壊れる運命にあるんじゃね?」という話もなかなかおもしろいと思いました。どういうことか。資本主義というのは、作っては壊して、常に新しいものを生み出し続ける必要があります。しかし、その繰り返しに疲れる(飽きる)と、安定したいなぁ、という気持ちになるだろう。そういう中で、競争で勝者となったものは、自分が得た地位を維持するためにルールを変えようと望むようになり、そういう動きが、社会階級を硬直化させ、資本主義を崩壊に追いやるのではないか。そんな風に主張しているそうです。これも、なるほどなぁ、と感じました。
正直、良い感じに読めたわけではないんですけど、もうちょっと経済について理解できるようになりたいなぁ、という感じはしました。
丸山俊一「14歳からの資本主義 君たちが大人になるころの未来を変えるために」
が、ちょっと僕には難しかったなぁ。
「14歳からの」とついてますけど、易しい本ではないなぁ、という感じです。
もちろん、かなり噛み砕いて書いてくれていると思いますし、なるほどと思う部分もありましたけど、全体的には「上手く捉えられなかったなぁ」という感じが強いですね。
本書はとにかく、「資本主義って何?」と「今、資本主義ってどうなってるの?」という、超基本的なことについて書いていきます。確かに、読んでいれば、その箇所に書かれていることは分かるんだけど、どうも全体の中の繋がりみたいなものをうまく捉えるのが難しかったなぁ、と。
本書は、著者自身の意見がふんだんに盛り込まれた本、というわけではありません。本書は、「欲望の資本主義」というNHKの番組の制作統括の方が著者で、番組に出演してもらった経済学者や哲学者、あるいは過去の経済学者の著書などから様々な引用をし、また、資本主義というものの一般的な理解のために様々な例を挙げながら進めていく作品です。
で、とにかく本書では、「資本主義は“健全”に運営されているならいい仕組みのはず」「でも今ちょっと調子悪いみたい」「今は、どうして資本主義がとりあえず回っているのか誰にも説明できない」「資本主義って、そもそも本質的に壊れるように出来てるんじゃない?」みたいな感じの話が展開されていきます。
とはいえ、「現状」を捉えることがそもそも難しいんだから、どうにもしようがないですよね。今、資本主義がどういう状態であるのか、みたいなことについても、色んな人の意見が分かれているし、であれば当然、これからどうなるかという意見も分かれます。そういう色んな考えが紹介されるんですけど、正直、著名な経済学者に分からないんだから、誰にもわかんねえよなぁ、という感じがしました。
個人的に本書で面白いなと思ったのが、チェコのエコノミストであるセドラチェクです。この人は、社会主義と資本主義を両方経験している人です。子供の頃、チェコは社会主義であり、今は資本主義だそう。そういう経験があるからでしょうか、経済というものを見る視点みたいなものが面白いなぁ、と感じました。
あと、シュンペーターという経済学者が主張している、「資本主義はそもそも壊れる運命にあるんじゃね?」という話もなかなかおもしろいと思いました。どういうことか。資本主義というのは、作っては壊して、常に新しいものを生み出し続ける必要があります。しかし、その繰り返しに疲れる(飽きる)と、安定したいなぁ、という気持ちになるだろう。そういう中で、競争で勝者となったものは、自分が得た地位を維持するためにルールを変えようと望むようになり、そういう動きが、社会階級を硬直化させ、資本主義を崩壊に追いやるのではないか。そんな風に主張しているそうです。これも、なるほどなぁ、と感じました。
正直、良い感じに読めたわけではないんですけど、もうちょっと経済について理解できるようになりたいなぁ、という感じはしました。
丸山俊一「14歳からの資本主義 君たちが大人になるころの未来を変えるために」
我らが少女A(高村薫)
内容に入ろうと思います。
池袋で、一人の女性が死ぬ。上田朱美という名のその女性は、同居していた男に殺された。男には、特別な理由があったわけではない。男には、殺したという実感すらあまりない。男はすぐに捕まり、自供し、事件はそのまま終結するかに思われた。
しかし、そうはならなかった。
上田朱美を殺した男が、気になる証言をしたのだ。朱美は男に、使い古しの絵の具のチューブを見せて、何年か前に武蔵野の野川公園で殺された人が持っていたもので、落ちていたから拾った、などと言ったことがある、というのだ。
この証言に、刑事たちは驚く。12年ほど前、栂野節子という元美術教師が殺された事件は、未だに未解決だったからだ。すぐさまその情報は警察の間で広がり、それは、現場の一線を退き、警察大学校で講師を務めている、野川事件の当時の捜査トップである合田雄一郎の元にも届く。
あの時捜査線上に、上田朱美の名前は出てこなかった。一体、自分たちは何を見落としたというのか?
上田朱美の母親である上田亜沙子。上田朱美の同級生で、今は西武鉄道で働いている小野雄大。被害者の娘である栂野雪子と、孫娘である真弓。事件当時、真弓をストーキングしていたとして重要参考人に挙げられた、ADHDの症状を持つ浅井忍と、息子が重要参考人になったために警察を辞めた浅井隆夫。未解決のまま時が止まっている事件の針が僅かに動き始めたことで、彼らの現在の日常も少しずつ影響を受ける。それらはごく些細な影響ではあるが、しかし、それらがじわじわと積み重なっていくことで、他の誰かに直接的にあるいは間接的に影響を与えていく。
栂野節子は、上田朱美に殺されたのか?あの当時、一体どこで何が起こっていたのか?明かされなかった真実は、誰のどんな行動に影響を与えたのか?
さざなみのように広がっていく、過去の事件の余波。その静かな動きを、丁寧に拾い集めていく…。
というような話です。
凄い小説だなぁ、と思ったのだけど、途中で飽きてしまった…というのが正直な感想です。
本当に、凄い小説だと思う。物語は、本当に遅々として進まない。上田朱美が、ほとんど意思もないようなボンクラに殺された、というのは、本書のメインの物語ではない。その殺人犯の些細な供述から、12年前の未解決事件が描かれていく。そして、本当に、物事が全然動いていかないのだ。はっきり言って、進展はほとんどない。関係者の些細な日常生活が描かれ、それらが時折、他の誰かに影響を与える。例えばある場面で、人物Xが「人物Yはどうして俺の職場を探し当てたんだ?」と疑問に思うのだが、しかしそれは、人物Yが能動的に人物Xの職場を探り当てたというのではなく、いくつかの偶然が重なることでたまたまそういう状況になったのだ。そしてそういう偶然を、本書では非常に緻密に描き出していく。それぞれの登場人物が、そうだよねそういう行動しそうだよね、という振る舞いをしているだけなのに、それが結果的に他の誰かに影響を与えることになっている。そういう緻密な展開がずーっと続いていくので、そういう部分は本当に凄いと思う。
しかし、ちょっと途中で飽きてしまった。
今から僕は、本書のネタバレをしようと思う。僕は、これは読む前に知っておくべきだ、と思うからこそ書くのだけど、知りたくない、という人は、この後の文章を読まないでほしい。
本書では、基本的に、野川事件は解決しない。最後の最後まで、野川事件の真相は明らかにならないのだ。
やはり僕は本書を、最終的には事件は解決するんだろう、という想定で読んでいる。僕は、合田シリーズをすべて読んでいるわけではないし、最後に読んだのも相当昔なのでちゃんとは覚えていないけど、基本的には、なん赤の形で事件は解決しているんじゃないかと思う。しかし本書では、事件を解決するという部分に主眼はない。12年ぶりに動き始めた野川事件をきっかけに、その周辺にいた人間たちの生活や人生にどんな影響があるのか―それが本書の主眼だ。
そのことがわかった上で読めば、僕ももうちょっと違った読み方が出来たかもしれない。でもやはり、「最終的には何らかの形で解決するんだろう」と思って読んでいるから、「これ、どうやって事件は解決するんだ?」と期待しながら読んでいるし、その期待が果たされなかったので、ちょっとなぁ、という気分になってしまった。
さらに、関係者たちの周囲で起こる変化があまりにも些細であるために、それはリアルさという意味では非常に強い要素ではあるのだけど、物語を読ませるという意味では、ちょっと辛く感じる人もいるだろうと思う。もちろん、合田シリーズにスリリングとかスペクタクルみたいなものを求めている読者はたぶんいないんだろうし、警察小説でありながら、登場人物の人生を濃密に描ききるという部分に魅力を感じている人が多いだろうからそんなにミスマッチではないんだと思うんだけど、とはいえ僕はちょっと、途中で「もういいかなぁ…」という気分になってしまいました。
それまでの高村薫の小説と比べれば、分量としては非常に短いと言える作品だと思うのだけど、これまでの作品を読みながら感じていたリーダビリティみたいなものを、今回僕はちょっと感じられなくて、それは僕自身の変化によるものなのかもしれないけど、ちょっとどうなのかなぁ、という気がしてしまいました。
人物の描き方とか、圧倒的なリアルさみたいなものはやっぱりさすがで、よくもまあこれほど多様な人間を一人ひとり濃密に描けるものだなぁ、と感心させられるし、改めて、凄い作家だなという風には思わされました。
高村薫「我らが少女A」
池袋で、一人の女性が死ぬ。上田朱美という名のその女性は、同居していた男に殺された。男には、特別な理由があったわけではない。男には、殺したという実感すらあまりない。男はすぐに捕まり、自供し、事件はそのまま終結するかに思われた。
しかし、そうはならなかった。
上田朱美を殺した男が、気になる証言をしたのだ。朱美は男に、使い古しの絵の具のチューブを見せて、何年か前に武蔵野の野川公園で殺された人が持っていたもので、落ちていたから拾った、などと言ったことがある、というのだ。
この証言に、刑事たちは驚く。12年ほど前、栂野節子という元美術教師が殺された事件は、未だに未解決だったからだ。すぐさまその情報は警察の間で広がり、それは、現場の一線を退き、警察大学校で講師を務めている、野川事件の当時の捜査トップである合田雄一郎の元にも届く。
あの時捜査線上に、上田朱美の名前は出てこなかった。一体、自分たちは何を見落としたというのか?
上田朱美の母親である上田亜沙子。上田朱美の同級生で、今は西武鉄道で働いている小野雄大。被害者の娘である栂野雪子と、孫娘である真弓。事件当時、真弓をストーキングしていたとして重要参考人に挙げられた、ADHDの症状を持つ浅井忍と、息子が重要参考人になったために警察を辞めた浅井隆夫。未解決のまま時が止まっている事件の針が僅かに動き始めたことで、彼らの現在の日常も少しずつ影響を受ける。それらはごく些細な影響ではあるが、しかし、それらがじわじわと積み重なっていくことで、他の誰かに直接的にあるいは間接的に影響を与えていく。
栂野節子は、上田朱美に殺されたのか?あの当時、一体どこで何が起こっていたのか?明かされなかった真実は、誰のどんな行動に影響を与えたのか?
さざなみのように広がっていく、過去の事件の余波。その静かな動きを、丁寧に拾い集めていく…。
というような話です。
凄い小説だなぁ、と思ったのだけど、途中で飽きてしまった…というのが正直な感想です。
本当に、凄い小説だと思う。物語は、本当に遅々として進まない。上田朱美が、ほとんど意思もないようなボンクラに殺された、というのは、本書のメインの物語ではない。その殺人犯の些細な供述から、12年前の未解決事件が描かれていく。そして、本当に、物事が全然動いていかないのだ。はっきり言って、進展はほとんどない。関係者の些細な日常生活が描かれ、それらが時折、他の誰かに影響を与える。例えばある場面で、人物Xが「人物Yはどうして俺の職場を探し当てたんだ?」と疑問に思うのだが、しかしそれは、人物Yが能動的に人物Xの職場を探り当てたというのではなく、いくつかの偶然が重なることでたまたまそういう状況になったのだ。そしてそういう偶然を、本書では非常に緻密に描き出していく。それぞれの登場人物が、そうだよねそういう行動しそうだよね、という振る舞いをしているだけなのに、それが結果的に他の誰かに影響を与えることになっている。そういう緻密な展開がずーっと続いていくので、そういう部分は本当に凄いと思う。
しかし、ちょっと途中で飽きてしまった。
今から僕は、本書のネタバレをしようと思う。僕は、これは読む前に知っておくべきだ、と思うからこそ書くのだけど、知りたくない、という人は、この後の文章を読まないでほしい。
本書では、基本的に、野川事件は解決しない。最後の最後まで、野川事件の真相は明らかにならないのだ。
やはり僕は本書を、最終的には事件は解決するんだろう、という想定で読んでいる。僕は、合田シリーズをすべて読んでいるわけではないし、最後に読んだのも相当昔なのでちゃんとは覚えていないけど、基本的には、なん赤の形で事件は解決しているんじゃないかと思う。しかし本書では、事件を解決するという部分に主眼はない。12年ぶりに動き始めた野川事件をきっかけに、その周辺にいた人間たちの生活や人生にどんな影響があるのか―それが本書の主眼だ。
そのことがわかった上で読めば、僕ももうちょっと違った読み方が出来たかもしれない。でもやはり、「最終的には何らかの形で解決するんだろう」と思って読んでいるから、「これ、どうやって事件は解決するんだ?」と期待しながら読んでいるし、その期待が果たされなかったので、ちょっとなぁ、という気分になってしまった。
さらに、関係者たちの周囲で起こる変化があまりにも些細であるために、それはリアルさという意味では非常に強い要素ではあるのだけど、物語を読ませるという意味では、ちょっと辛く感じる人もいるだろうと思う。もちろん、合田シリーズにスリリングとかスペクタクルみたいなものを求めている読者はたぶんいないんだろうし、警察小説でありながら、登場人物の人生を濃密に描ききるという部分に魅力を感じている人が多いだろうからそんなにミスマッチではないんだと思うんだけど、とはいえ僕はちょっと、途中で「もういいかなぁ…」という気分になってしまいました。
それまでの高村薫の小説と比べれば、分量としては非常に短いと言える作品だと思うのだけど、これまでの作品を読みながら感じていたリーダビリティみたいなものを、今回僕はちょっと感じられなくて、それは僕自身の変化によるものなのかもしれないけど、ちょっとどうなのかなぁ、という気がしてしまいました。
人物の描き方とか、圧倒的なリアルさみたいなものはやっぱりさすがで、よくもまあこれほど多様な人間を一人ひとり濃密に描けるものだなぁ、と感心させられるし、改めて、凄い作家だなという風には思わされました。
高村薫「我らが少女A」
経営者の孤独。(土門蘭)
本書の感想をどう書くかなぁ、と思ったんだけど、やっぱり、本書を読んで僕が「会いたい!」と思った4人の話を中心に書こう。
まずは、本書の概要から。本書は、10人の経営者へのインタビューをまとめた作品だ。ただインタビューするだけではなく、「孤独」というテーマを置き、そこに著者自身が介入するような感じでやり取りが進んでいく。本書の著者は、ただの聞き手ではなく、ある意味では相談者であり、評論家であり、観客でもある。「著者・土門蘭」という人間性を鏡にしながら、10人の経営者に「孤独」について聞く、という趣旨のインタビューだ。
登場する10人を挙げておこう。
鴎来堂・柳下恭平
クラシコム・青木耕平
互助交通・中澤睦雄
わざわざ・平田はる香
クラシコム・佐藤友子
L&Gグローバルビジネス・龍崎翔子
ウツワ・ハヤカワ五味
SCRAP・加藤隆生
矢代仁・矢代一
CAMPFIRE・家入一真
ここで僕が紹介したいのは、
わざわざ・平田はる香
ウツワ・ハヤカワ五味
SCRAP・加藤隆生
CAMPFIRE・家入一真
この4人には会いたいなと思う。
一番会いたいのは、ハヤカワ五味だ。どうしてかというと、メッチャ頭が良さそうだから。文字になっていると、やり取りのテンポまでは分からないけど、著者やその他インタビューアーによると、とにかく用意していた答えであるかのようにスパッと答えが返ってくるのだという。そういう頭の良い人には憧れるし、話してみたいなぁ、と思う。
【(自ら「キュ~トでクレバ~な経営者」と名乗っていることについて)それって、日本では相反するものだとされているなと思っていて。「賢さ・知性」と「かわいさ」っていうのが切られているんですよね。「知的じゃない、バカっぽいほうがかわいい」とか、その最たるものじゃないですか。だからその相反するものが同時に存在している感じ…「知性」があることによって、より「かわいさ」に深みが出て人としての魅力が増す、みたいなところが私が目指したいところだなって思っているんです】
彼女はとにかく、自分の立ち位置に非常に敏感だ。それは確かに他の経営者もそうなんだけど、彼女はとにかく、自分と周囲、経営者である自分と従業員、一般がイメージする「ハヤカワ五味」とハヤカワ五味自身、日本と外国、そういうものの間の隔たりみたいなものを的確に捉えて言語化していく。
【外向きに自分を良くしていって人に好かれるのか、内向きに自分を高めていって人を惹きつけるのか。日本では前者のやり方だけ語られがちだけど、海外では後者のやり方もよく語られていて、その価値観を輸入できたらいいなと思っています】
【やっぱり端的にしんどいなって思うのは、搾取したくて経営者やってるわけじゃないのに、そう思われてしまうことですかね。勝手に「搾取する側」として仕立て上げられるのが辛い。(中略)だけど私、正直なところ、会社やらないほうが稼ぎ良いんですよ。インフルエンサーとしてひとりで仕事したほうが、明らかに収入が高いんです。それでも会社としてやっているのは、「社会に対して何かを還元したい」「関わる社員やお客様に何か還元していきたい」っていうのがあるからなので。そこを無視して、「搾取している」という目で見られると辛いですね。社内的にも社外的にも】
18歳、大学生の時に起業した彼女は、「若い女性が起業した」という部分で様々な見られ方をしたのだろう。自身の立ち位置を相当以上に客観視していて、それをきちんと言語化しているところに非常に好感が持てる。
また、物事の捉え方も鋭い。
【期待って、2種類ありますよね。ひとつが「この人ならいいようにしてくれるだろう」っていう広く淡い期待。そしてもうひとつの期待が、「この人だったらこうしてくれるだろう」っていう具体性を伴った期待。多分、多くの人が感じている期待の定義って、後者のほうだと思うんです。(中略)私は人に対して、前者の期待だけするようにしています。(中略)そうすると、裏切られたとか落ち込んだとかいうことを、感じないんですよね】
【私にとっての「信頼」は、「その人のスキルを評価して預けること」のような気がします。一方で「信用」は、もっと「心を許してすきを見せること」というか。自分側がより開示することに近いのかな。だから、「信頼」のほうがビジネスライクで、「信用」のほうがプライベートですよね】
いいなぁ。ホントにこの人には会ってみたいなと思うけど、相手にメリットがないからダメだな。
次に会いたいのは、加藤隆生。僕はSCRAPのリアル脱出ゲームがハチャメチャに好きなので、そういう意味でも会いたいし、昔からこの人の考え方は結構好きだったんで、そういう意味でも会いたい。
【だから、「よその会社ではおそらくやっていけないだろうな」って人も働けるような会社にしたいという理想はある。何て言うか、そのために会社の佇まいみたいなものを僕が一個一個緩めていく感じかな】
【「優秀である」という言葉の意味が変わってほしいと思ってるんだよね。世の中で言われる「優秀」じゃない人も働けて、成果を出せて、世の中から評価される、みたいな。自分はそういう場所であるための防波堤になっている感じかな】
仮に僕が経営者になるとしたら、まったく同じことを理想に据えるな、と思う。加藤さんもそうだったらしいけど、僕も社会にはまったく適応出来なかった人間なので、そういう人間がちゃんと働ける環境だといいなと思う。もちろんそれはなかなか難しいし、組織が大きくなればなるほど難しくもなるんだろうけど、でも理想としては持ち続けたいな、と(僕は経営者じゃないけど)。
【俺が「おもしろなあ」って思うのは、特別何かすごい人っていうわけじゃなくて、じっとしている佇まいが感じいいなとか、コンビニで買ってくるお菓子が毎回ちょっとおもしろいなとか、その程度のことなの。その程度のことで、全然期待して待っていられるというか。まあなんか、うちの会社がそういう場所でありたいなっていう気持ちを、強く持っているんだと思う】
本書ではインタビューアーである著者が結構表に出てくるんだけど、著者は若い頃、まだリアル脱出ゲームを生み出す前のSCRAPに出入りしていたそうだ。その時の加藤さんの印象をこんな風に語っている。
【正直に言うと、わたしは大学生の頃、そんな加藤さんがこわかった。「この人、本当にアイデアしか見てないんだな」と思っていた。そのアイデアの出処はどこでもいいし、誰でもいい。ただ、心を打つアイデアさえ生まれたらそれでいい。】
そう、この表現からも分かるように、加藤さんは基本的にクリエイターだ。
【でもその不安は、「自分がものを作る人間として日々腐っているんじゃないか」っていう不安かな。いいのかな、この刀を研いでなくて?って。それこそ「今年で終わるかもしれない」って思ってた数年前までは、何かものを作る時間っていうのが一日に14時間くらい確実にあったんだよね。しかも、年に360日くらい働いててさ、それが楽しくてしかたなかったの。というか、それくらいしないと追いつかなかったし、眠くなってならなかった。必死で仕事してて、頭動いてない時間なんてなかった。でも、今はそうじゃない。そんな今の自分の状態に対して、「これはクリエイターとして適しているのか?」という不安感はある。だけど、経営者としての不安はさほどないんだよね】
著者は若い頃加藤さんが、「できるだけおもしろいことをして、自分が自殺してしまわないようにしている」と言っていたことを回想している。この感覚は、僕も分かる。僕も、自分をいかに飽きさせないか、という闘いをしているのだ。僕はそこまで何かを生み出したり出来ない人間だけど、分かるなぁ、と思うし、加藤さんとは話してみたいなと思う。
次は、平田はる香。この人は、長野県の山奥でパン屋をやっていて、そこにも人がたくさん来るし、オンラインでも日用品を売ってて、かなり支持されているのだという。しかし個人的に、彼女の仕事的な部分にはさほど興味はない。僕が興味があるのは、平田はる香という女性の「非人間性」だ。
【専任になろうと思ってます(笑)。(中略)山にこもってひとりで暮らしたいです。もう、誰とも会いたくないんですよ(※彼女には夫も子供もいるが、実際に一人で住む計画を進めている。別に離婚するわけではない。)】
【(母親としての自分は)ゼロですね。この間、娘に「出張ばっかりで時々しか会えなくてごめんね」って言ったら、「え?自分のこと、お母さんだと思ってるの?」って言われました。「うちはお父さんがお母さんで、お母さんがお父さんでしょう」って。】
【ただ、私は結構関係を割り切っているので、わざわざのためにならないとわかったら、長い期間付き合っていた相手であったとしても、二度と付き合わないって一瞬で切り替えられるんですよ。わざわざのためにならない付き合いはしないって、決めているから。(中略)ただそれは、その人のことを嫌いになったとかいうのではないんです。取引をすべきでないと判断しただけ。だから、私の中では人間関係が悪くなったわけではないんですよね。先方はそうも思えないと思いますが】
この人は面白いなぁ、って思いますね。これぐらい振り切っている人もなかなか珍しい。特に、結婚した時から夫にずっと「晩年は家を出てひとり暮らししたい」って言い続けている、って話は、ホント異常だなって思います(笑)。でも、そういうヤバイ人、好きなんだよなぁ。会ってみないと分からないけど、割と僕は、この人と波長が合うんじゃないかな、とか勝手に思っています。
最後は、家入一真。この人のことは、昔Twitterをちゃんとやっていた頃によく名前は見かけてて、確か一度、東日本大震災の後、この人が主催した福島県へのバスツアーにも参加したことがあったはず。高校を中退して引きこもっていながら、21歳で最初の起業、29歳でJASDAQ上場、それからも複数の会社を立ち上げるという起業家でありながら、基本的にはやはり、引きこもり的というか、社会への馴染めなさみたいなものを未だに抱え続けている人だ。
【でも、誰かに対して「この人孤独だな」って思うときは、ネガティブな意味での「孤独」を感じているのかも。それは起業家に対してよく感じるんですけど、どこまで行っても埋まらない承認欲求みたいなものがあるんですよね。それと折り合いがついていない起業家ってたくさんいて、生きづらそうなんですよ。
一方で起業家の魅力って、その穴を何が何でも埋めてやろうと飢えてる感じであったり、人としてどこか欠けてるところだったりもする。それがカリスマ性を生むこともあるんだけど、それによって自分も周りも傷つけまくっている人ってたくさんいるんですよね】
今も人付き合いとかが苦手で、登壇したら死んじゃうと思ってイベントをドタキャンしたり(笑)、大阪の中学校で講演をした時に「学校なんか来なくていい」って言って校長先生にメッチャ怒られたとか、そんな話が色々あるんだけど、でもそんな風に、大人が率先して「ダメでいいんだ」っていう部分を見せていくのって、僕は大事だなぁ、と思ってるんですよね。ともすれば子供って、大人の「良い」部分しか見られないじゃないですか。もちろん、虐待みたいな明らかに「悪い」部分を見せられてる子供もいると思うんだけど、大体の場合「良い」面しか見せられない。でもそれってしんどいよなぁ、と、自分の子供の頃のことを考えてみて思います。それより、「あぁ、こんなにダメでもなんとかなるんだ」っていう大人の姿を見ることが出来る方が、僕は生きる力になると思うんですよね。そういう意味で、家入一真という大人はなかなか魅力的だなと思うし、そういう人が「経営者」という立場にいてくれることの良さというのは凄くあるんだろうなと思いました。
本書のテーマである「孤独」についてはほとんど触れずじまいになってしまったけど、彼らは「経営」という特殊な仕事をすることで、「孤独」というものについて深く考えざるを得ない人たちで、それについてきっちり言語化しているから、その発言は、経営者ではない一般の人にも届くんじゃないかな、と僕は思っています。
土門蘭「経営者の孤独。」
まずは、本書の概要から。本書は、10人の経営者へのインタビューをまとめた作品だ。ただインタビューするだけではなく、「孤独」というテーマを置き、そこに著者自身が介入するような感じでやり取りが進んでいく。本書の著者は、ただの聞き手ではなく、ある意味では相談者であり、評論家であり、観客でもある。「著者・土門蘭」という人間性を鏡にしながら、10人の経営者に「孤独」について聞く、という趣旨のインタビューだ。
登場する10人を挙げておこう。
鴎来堂・柳下恭平
クラシコム・青木耕平
互助交通・中澤睦雄
わざわざ・平田はる香
クラシコム・佐藤友子
L&Gグローバルビジネス・龍崎翔子
ウツワ・ハヤカワ五味
SCRAP・加藤隆生
矢代仁・矢代一
CAMPFIRE・家入一真
ここで僕が紹介したいのは、
わざわざ・平田はる香
ウツワ・ハヤカワ五味
SCRAP・加藤隆生
CAMPFIRE・家入一真
この4人には会いたいなと思う。
一番会いたいのは、ハヤカワ五味だ。どうしてかというと、メッチャ頭が良さそうだから。文字になっていると、やり取りのテンポまでは分からないけど、著者やその他インタビューアーによると、とにかく用意していた答えであるかのようにスパッと答えが返ってくるのだという。そういう頭の良い人には憧れるし、話してみたいなぁ、と思う。
【(自ら「キュ~トでクレバ~な経営者」と名乗っていることについて)それって、日本では相反するものだとされているなと思っていて。「賢さ・知性」と「かわいさ」っていうのが切られているんですよね。「知的じゃない、バカっぽいほうがかわいい」とか、その最たるものじゃないですか。だからその相反するものが同時に存在している感じ…「知性」があることによって、より「かわいさ」に深みが出て人としての魅力が増す、みたいなところが私が目指したいところだなって思っているんです】
彼女はとにかく、自分の立ち位置に非常に敏感だ。それは確かに他の経営者もそうなんだけど、彼女はとにかく、自分と周囲、経営者である自分と従業員、一般がイメージする「ハヤカワ五味」とハヤカワ五味自身、日本と外国、そういうものの間の隔たりみたいなものを的確に捉えて言語化していく。
【外向きに自分を良くしていって人に好かれるのか、内向きに自分を高めていって人を惹きつけるのか。日本では前者のやり方だけ語られがちだけど、海外では後者のやり方もよく語られていて、その価値観を輸入できたらいいなと思っています】
【やっぱり端的にしんどいなって思うのは、搾取したくて経営者やってるわけじゃないのに、そう思われてしまうことですかね。勝手に「搾取する側」として仕立て上げられるのが辛い。(中略)だけど私、正直なところ、会社やらないほうが稼ぎ良いんですよ。インフルエンサーとしてひとりで仕事したほうが、明らかに収入が高いんです。それでも会社としてやっているのは、「社会に対して何かを還元したい」「関わる社員やお客様に何か還元していきたい」っていうのがあるからなので。そこを無視して、「搾取している」という目で見られると辛いですね。社内的にも社外的にも】
18歳、大学生の時に起業した彼女は、「若い女性が起業した」という部分で様々な見られ方をしたのだろう。自身の立ち位置を相当以上に客観視していて、それをきちんと言語化しているところに非常に好感が持てる。
また、物事の捉え方も鋭い。
【期待って、2種類ありますよね。ひとつが「この人ならいいようにしてくれるだろう」っていう広く淡い期待。そしてもうひとつの期待が、「この人だったらこうしてくれるだろう」っていう具体性を伴った期待。多分、多くの人が感じている期待の定義って、後者のほうだと思うんです。(中略)私は人に対して、前者の期待だけするようにしています。(中略)そうすると、裏切られたとか落ち込んだとかいうことを、感じないんですよね】
【私にとっての「信頼」は、「その人のスキルを評価して預けること」のような気がします。一方で「信用」は、もっと「心を許してすきを見せること」というか。自分側がより開示することに近いのかな。だから、「信頼」のほうがビジネスライクで、「信用」のほうがプライベートですよね】
いいなぁ。ホントにこの人には会ってみたいなと思うけど、相手にメリットがないからダメだな。
次に会いたいのは、加藤隆生。僕はSCRAPのリアル脱出ゲームがハチャメチャに好きなので、そういう意味でも会いたいし、昔からこの人の考え方は結構好きだったんで、そういう意味でも会いたい。
【だから、「よその会社ではおそらくやっていけないだろうな」って人も働けるような会社にしたいという理想はある。何て言うか、そのために会社の佇まいみたいなものを僕が一個一個緩めていく感じかな】
【「優秀である」という言葉の意味が変わってほしいと思ってるんだよね。世の中で言われる「優秀」じゃない人も働けて、成果を出せて、世の中から評価される、みたいな。自分はそういう場所であるための防波堤になっている感じかな】
仮に僕が経営者になるとしたら、まったく同じことを理想に据えるな、と思う。加藤さんもそうだったらしいけど、僕も社会にはまったく適応出来なかった人間なので、そういう人間がちゃんと働ける環境だといいなと思う。もちろんそれはなかなか難しいし、組織が大きくなればなるほど難しくもなるんだろうけど、でも理想としては持ち続けたいな、と(僕は経営者じゃないけど)。
【俺が「おもしろなあ」って思うのは、特別何かすごい人っていうわけじゃなくて、じっとしている佇まいが感じいいなとか、コンビニで買ってくるお菓子が毎回ちょっとおもしろいなとか、その程度のことなの。その程度のことで、全然期待して待っていられるというか。まあなんか、うちの会社がそういう場所でありたいなっていう気持ちを、強く持っているんだと思う】
本書ではインタビューアーである著者が結構表に出てくるんだけど、著者は若い頃、まだリアル脱出ゲームを生み出す前のSCRAPに出入りしていたそうだ。その時の加藤さんの印象をこんな風に語っている。
【正直に言うと、わたしは大学生の頃、そんな加藤さんがこわかった。「この人、本当にアイデアしか見てないんだな」と思っていた。そのアイデアの出処はどこでもいいし、誰でもいい。ただ、心を打つアイデアさえ生まれたらそれでいい。】
そう、この表現からも分かるように、加藤さんは基本的にクリエイターだ。
【でもその不安は、「自分がものを作る人間として日々腐っているんじゃないか」っていう不安かな。いいのかな、この刀を研いでなくて?って。それこそ「今年で終わるかもしれない」って思ってた数年前までは、何かものを作る時間っていうのが一日に14時間くらい確実にあったんだよね。しかも、年に360日くらい働いててさ、それが楽しくてしかたなかったの。というか、それくらいしないと追いつかなかったし、眠くなってならなかった。必死で仕事してて、頭動いてない時間なんてなかった。でも、今はそうじゃない。そんな今の自分の状態に対して、「これはクリエイターとして適しているのか?」という不安感はある。だけど、経営者としての不安はさほどないんだよね】
著者は若い頃加藤さんが、「できるだけおもしろいことをして、自分が自殺してしまわないようにしている」と言っていたことを回想している。この感覚は、僕も分かる。僕も、自分をいかに飽きさせないか、という闘いをしているのだ。僕はそこまで何かを生み出したり出来ない人間だけど、分かるなぁ、と思うし、加藤さんとは話してみたいなと思う。
次は、平田はる香。この人は、長野県の山奥でパン屋をやっていて、そこにも人がたくさん来るし、オンラインでも日用品を売ってて、かなり支持されているのだという。しかし個人的に、彼女の仕事的な部分にはさほど興味はない。僕が興味があるのは、平田はる香という女性の「非人間性」だ。
【専任になろうと思ってます(笑)。(中略)山にこもってひとりで暮らしたいです。もう、誰とも会いたくないんですよ(※彼女には夫も子供もいるが、実際に一人で住む計画を進めている。別に離婚するわけではない。)】
【(母親としての自分は)ゼロですね。この間、娘に「出張ばっかりで時々しか会えなくてごめんね」って言ったら、「え?自分のこと、お母さんだと思ってるの?」って言われました。「うちはお父さんがお母さんで、お母さんがお父さんでしょう」って。】
【ただ、私は結構関係を割り切っているので、わざわざのためにならないとわかったら、長い期間付き合っていた相手であったとしても、二度と付き合わないって一瞬で切り替えられるんですよ。わざわざのためにならない付き合いはしないって、決めているから。(中略)ただそれは、その人のことを嫌いになったとかいうのではないんです。取引をすべきでないと判断しただけ。だから、私の中では人間関係が悪くなったわけではないんですよね。先方はそうも思えないと思いますが】
この人は面白いなぁ、って思いますね。これぐらい振り切っている人もなかなか珍しい。特に、結婚した時から夫にずっと「晩年は家を出てひとり暮らししたい」って言い続けている、って話は、ホント異常だなって思います(笑)。でも、そういうヤバイ人、好きなんだよなぁ。会ってみないと分からないけど、割と僕は、この人と波長が合うんじゃないかな、とか勝手に思っています。
最後は、家入一真。この人のことは、昔Twitterをちゃんとやっていた頃によく名前は見かけてて、確か一度、東日本大震災の後、この人が主催した福島県へのバスツアーにも参加したことがあったはず。高校を中退して引きこもっていながら、21歳で最初の起業、29歳でJASDAQ上場、それからも複数の会社を立ち上げるという起業家でありながら、基本的にはやはり、引きこもり的というか、社会への馴染めなさみたいなものを未だに抱え続けている人だ。
【でも、誰かに対して「この人孤独だな」って思うときは、ネガティブな意味での「孤独」を感じているのかも。それは起業家に対してよく感じるんですけど、どこまで行っても埋まらない承認欲求みたいなものがあるんですよね。それと折り合いがついていない起業家ってたくさんいて、生きづらそうなんですよ。
一方で起業家の魅力って、その穴を何が何でも埋めてやろうと飢えてる感じであったり、人としてどこか欠けてるところだったりもする。それがカリスマ性を生むこともあるんだけど、それによって自分も周りも傷つけまくっている人ってたくさんいるんですよね】
今も人付き合いとかが苦手で、登壇したら死んじゃうと思ってイベントをドタキャンしたり(笑)、大阪の中学校で講演をした時に「学校なんか来なくていい」って言って校長先生にメッチャ怒られたとか、そんな話が色々あるんだけど、でもそんな風に、大人が率先して「ダメでいいんだ」っていう部分を見せていくのって、僕は大事だなぁ、と思ってるんですよね。ともすれば子供って、大人の「良い」部分しか見られないじゃないですか。もちろん、虐待みたいな明らかに「悪い」部分を見せられてる子供もいると思うんだけど、大体の場合「良い」面しか見せられない。でもそれってしんどいよなぁ、と、自分の子供の頃のことを考えてみて思います。それより、「あぁ、こんなにダメでもなんとかなるんだ」っていう大人の姿を見ることが出来る方が、僕は生きる力になると思うんですよね。そういう意味で、家入一真という大人はなかなか魅力的だなと思うし、そういう人が「経営者」という立場にいてくれることの良さというのは凄くあるんだろうなと思いました。
本書のテーマである「孤独」についてはほとんど触れずじまいになってしまったけど、彼らは「経営」という特殊な仕事をすることで、「孤独」というものについて深く考えざるを得ない人たちで、それについてきっちり言語化しているから、その発言は、経営者ではない一般の人にも届くんじゃないかな、と僕は思っています。
土門蘭「経営者の孤独。」
レンタルなんもしない人「<レンタルなんもしない人>というサービスをはじめます。 スペックゼロでお金と仕事と人間関係をめぐって考えたこと」(レンタルなんもしない人)
メチャクチャ面白かった!
正直に言えば、ちょっとナメて本書を読み始めた。「レンタルなんもしない人」という存在は知っていたし(とはいえ、本書ではない、著者のデビュー作である『レンタルなんもしない人のなんもしなかった話』という本のタイトルで初めて知った)、面白い活動だなと思ってはいたが、しかし、その活動を通じて、割と深いところまで考えを掘り下げているんだということを本書で知って(もちろん、後付の理由だと本人も書いている箇所は多々あるが、大体の説明は後付だ)、非常に興味深いと思った。
まず書いておくと、本書は「あれ?俺が書いたんだっけ?」と思うような本だった。僕は別に「レンタルなんもしない人」というサービスをしているわけではない。ただ、僕がこれまでやろうとしてきたこと、やってきたこと、自分の見せ方、スタンス、行動基準なんかは、すべてこの「レンタルなんもしない人」という考え方にピタッとはまるなぁ、と感じた。本書には、「レンタルなんもしない人」の活動の「模倣者」に対して、
【(模倣者に対して)新鮮味を感じていたが、一方で違和感も抱いていた。それをあえて言語化するなら「なんか、いいことしようとしてない?」みたいな感情だ。別の言い方をすれば、若干の偽善的な感じ、どこか押し付けがましいのだ】
と書かれているので、こういうことを書くのは勇気がいるが、僕はマジで、「レンタルなんもしない人」というサービスを提供できる人間だと思う。それぐらい、著者の活動スタンスが理解できるし、自分も同じような理屈で似たような行動をしているな、と感じる箇所がメチャクチャあった。
まさにそれは、本書の副題にある通り、「お金」と「仕事」と「人間関係」の話であり、この「レンタルなんもしない人」という活動が様々な価値観を明らかにしていくことになる。
【「レンタルなんもしない人」を通して、僕はお金について、実にいろいろな価値観に触れた】
【再三にわたり断っている通り、僕はボランティア精神というものを持ち合わせてはいない。けれど、この「レンタルなんもしない人」のサービスを通して、世の中には僕の想像をはるかに超えた、いろんな困り方のバリエーションがあるのだということがわかった】
【にもかかわらず、この依頼者からはそこそこ長く付き合った友達と同等の存在とみなされたことが新鮮だった。僕が思っている以上に依頼者(もちろん人によるだろうけれども)は「レンタルなんもしない人」のことを気の置けない間柄だと感じているのだなと】
それではそれぞれの話を書いてみよう。
まず「お金」の話がやはり一番興味深かった。
【先ほど、「レンタル料をもらおうと考えたこともあった」といったけれど、考えようとしてすぐにやめたので、実際はほぼ俎上にも載らなかった。たとえば「1時間あたり1000円」とか、具体的な数字を検討するところまでいかずに、ほとんど一瞬でやめた。
もともと僕は「時給」という概念があまり好きになれないというか、自分の時間とお金を交換してもらっているような感覚が率直にイヤだった。まるで自分が奴隷になった気がしてしまうのだ】
これは凄く分かる。僕も、時間をお金に換算する発想は、あまり好きではない。それって面白いのかなぁ、と思ってしまう。前提として僕は、そこまでお金に執着がないと思う。もちろん、不自由のある生活をわざわざしたいわけではないから、不自由のない生活が出来る程度のお金はほしい。たまにちょっと贅沢できたり、ちょっとしたことならお金のことなんて考えずに誰かを助けたり出来る程度にはお金はあってほしい。でも、それ以上のお金は、別にほしいと思わない。あって困ることはないかもしれないが(いや、困ることもきっとあるが)、わざわざ必要ではない程のお金を稼ぐために自分の時間やリソースを注ぐ気力がない。恐らく著者も同じ感覚だろう。
また、こうも書いている。
【なにか行動を起こすときも、ふつうなら「お金」のことに思い至りやすい。しかし、だから新しいものがなかなか生まれないのでは、と思う。最上段にそれを掲げてしまうと、すごくつまらないことしかできないし、ストレスなく生きていくために求めていたはずが、かえってストレスを抱える要因になるという本末転倒を起こしかねない。だからお金はいったん脇に置く。すると、いまの活動に限っていえば、新しい面白さにつながっている。それはやがて、お金を生み得るものになるのではとも思う。依頼者から料金をもらってしまうとその流れは小さく簡潔してしまう、と本書の冒頭でいったのも、ここに関わっている。お金というわかりやすい価値尺度をいったん手放すことで、お金を介在させた既存のサービスにはない多種多様な価値観にもとづいた多種多様な関係性が生まれるのではないか】
お金が介在するとつまらなくなる、というのは本当にその通りだと思う。この辺りのことは、後々「仕事」の方でも触れるが、「お金」というものが間に挟まってしまうことで、「責任」とか「無理難題」とか「効率」とか、そういう面白くないワードが増える可能性が高まる。僕も、お金をもらわないで色んなことを引き受けることはあって、それは確かにその場では金銭は発生していないのだけど、いずれ金銭や金銭以外のものを生むかもしれないとは思っている。
【僕が会社勤めしていたことは、「やりたいことではないけれど、お金のために働こう」と思ってみたこともあったが、それを継続するのは難しかった。そしてそのあと、一時的に仮想通貨を手にした。すぐに飽きて手放してしまったけれど、それまでは「お金=労働の対価」という価値観しかなかったところに、それ以外でもお金が発生するところがいっぱいあるんだ、ということを知った。その変遷があり、いまの「なんもしない人」に辿り着いている。お金がないとできないこともあるけれど、お金をあきらめたことでお金以外のものが手に入るようになったし、お金とは、結局のところ便利で使いやすツールにすぎないということもわかった】
なんでも「お金」に変換することは、確かに分かりやすいけど、でも全然面白くない。少なくとも僕はそう思ってしまう。僕は先述した通り、お金ではないものを得ている、という感覚があるけれども、そういう感覚を持てないでいると、すべて「お金」に集約する発想になってしまうだろう。それは面白くないなぁ、と。
著者は、今の自身の活動を他人に説明する時、こう言う場合もあるという。
【(著者ツイート)人類の営みをすべて「飯の種」と捉えなければ気が済まない思考回路っぽい人には「自分はライター業をやっていて、今は取材に集中している段階と言える。交通費や諸経費の負担なしにいろんな経験ができるんだから、取材のやり方としてうまいでしょ」みたいに説明してます】
もちろんこれは本心ではないわけだが、確かにそういう捉え方も出来るし、そういう意味で「お金」を介在させないのは成功だなぁ、と思うのだ。
では「仕事」の話に移ろう。
やはり「仕事」の話で言えば、先程引用した【世の中には僕の想像をはるかに超えた、いろんな困り方のバリエーションがある】という気づきが最も興味深いものだと思う。著者が受けた依頼は本当に面白いものばかりで、一例を挙げると、「マラソンのゴール地点に誰か立っていてくれると完走できそうな気がするからゴールにいてほしい」「自分が証人として出廷する裁判を傍聴してほしい」「女子大生になりきって一日楽しんでほしい(女子大生が、もう一人の自分がほしいからという理由で依頼した)」「朝6時に「体操着」とDMを送ってほしい」「通りがかりの人のフリをして愛犬をメチャクチャ可愛がってほしい」「結婚式に招待されているが行きたくないので、その日は「レンタルなんもしない人」さんと予定があるということにして、でも当日ドタキャンしてほしい」などなどだ。なんのこっちゃ?という依頼もあるが、話を聞いてみれば、なるほどそういう事情かぁ、納得、というものもかなり多い。世の中にはこういう、「別に一人で頑張ろうと思えば頑張れるけど、誰かいてくれたら心強いんだけど、でも別に人に頼むほどでもない」という「困りごと」が結構あって、でもそれはなかなか顕在化されなかった。そりゃあそうだ。誰もそういう「困りごと」があることを口に出さないのだから。でも、「レンタルなんもしない人」が登場したことで、そういう「困りごと」が表に出る余地が生まれた。そして、「レンタルなんもしない人」が「なんもしない」という活動をすることで、世の中には多種多様な「困りごと」で溢れている、という現実に、「レンタルなんもしない人」だけでなく、多くの人が気づくこととなったのだ。
この点は、本当に興味深いと思う。「レンタルなんもしない人」という“社会実験(?)”の、一番大きな成果ではないかと思う。後の「人間関係」の方でも触れるが、これらの「困りごと」は、なかなか身近な人には頼みにくい性質のものだ。関係が近すぎて相手に負担になるから、あるいは相手に弱みを握られかねないから、という理由で言えない、ということが結構あるからだ。その、今まで顕在化されることのなかった実にニッチな課題を、「レンタルなんもしない人」は掘り起こしたのだ。これは非常に有益だったと言っていいだろう。正直、この「レンタルなんもしない人」の活動周辺には、新たなビジネスのネタがゴロゴロ転がっているような感じがする。
【実際にスタートしてみると、僕に対する支払いが生じないぶん、あるいはタダで僕の時間を拘束しているという気遣いからか、知恵を絞ってレンタルされがいのある、ユニークな依頼をしてくる人も少なくなかった】
あと、著者のスタンスとして非常に面白かったのが、「レンタルなんもしない人」は「ボランティア」ではなく「仕事」だと明言している点だ。
【(著者ツイート)人のために善意でやってるわけではないので、ボランティア活動ではありません。お金を多めに渡されたらためらいなくもらったりしてますし、誰かお金持ちが大きな額を無条件に出資してくれないかなとかも思います】
【ここは誤解してほしくないのだけれど、僕は無料だからといって、ボランティアでやっているつもりは一切ない。事実、誤解を避けるために過去に右(※この感想では上)のようなツイートをしたことがある。
別に好きでボランティア活動をしている人を貶めたり、否定したりする気はまったくない。だけど僕は、「ボランティア」という言葉からは、かなり純度の高い善意を期待されているという圧力みたいなものをすごく感じてしまう。だから仮にボランティアを謳っていたら、依頼の内容や顛末を報告するツイートもなるべく品行方正な感じで、いちいち美談にしなければならないような義務感を覚えていたんじゃないだろうか。
それらの期待を弾くために、「レンタルなんもしない人」をボランティアだと勘違いしていそうなツイートを見かけたら、積極的に否定して回っている。
むしろ、僕は自分が前任に見られることは極力避けたいと思っている。なぜなら自分はまったくもって善人ではないし、善人であることを期待されたくないから。だからお涙ちょうだい系だったり心温まる系だったりするツイート(結果的にそういう感じになった依頼の報告)が増えてしまうと「ヤバイ。これ善人っぽい」と思って、あえてネガティブだったり露悪的だったりするツイートをしてバランスをとったりしている】
こういう感覚は僕とぴったり合う。僕が書いた文章だと言ってもまったく違和感がないくらい、僕も同じことを考えている。また著者は、露悪的な部分を出すことによって、【「レンタルなんもしない人」をレンタルする顧客層を、自分の想定する顧客層に近づけたいといういともある】と書いている。こういうやり方も、まったく同じだ。僕は別に「レンタルなんもしない人」の活動をしているわけではないが、自分の見せ方を調整することで、自分の周りに集まる人間のバランスを整えたいと思っている。それが実際に出来ているかどうかはともかく、感覚としてメチャクチャ分かる。
また、「お金」の話とも絡むが、こういう感覚もあるようだ。
【お金が介在すると、やりとりは単純にわかりやすくなるけれど、「なんもしない」ことそのものの実際の価値が見えにくくなるようにも思う。お金のほうに引っ張られて、軸足がずれていくような。だったらそういうスイッチはあらかじめ存在させない、つまり無料にするのが妥当なのだろうという結論にいたった。無料のサービスなら僕も開き直って「なんもしない」でいられるだろうし、依頼者側も「どうせタダだし」と、このサービスに多くを求めることはないんじゃないか。たとえ1000円でも報酬があったら、「自分はお客さんだ」という意識が生まれやすくなるだろう】
この辺りのことは完全に後付の説明だろうが、しかし確実に的を射ていると思う。確かに、その通りだろう。「なんもしない」ということの価値が発揮されるのは、やはり無料だからだ。お金が発生すると、「お金払ってんのになんもしないのかよ」という気持ちが生まれ得るし、やる側も「お金もらってるのにこんななんもしなくていいんだろうか」と思ってしまう。双方が、あるいは片方でもそう感じてしまえば、「なんもしない」ということの価値は急落するだろう。この辺りのことについても、後付だろうがなんだろうが、きちんと深掘りしているところが良いと思う。
さて、「人間関係」についてである。これについては、僕が昔から考えていることと本当にぴったりくる文章があるので、それをまず引用してみよう。
【世の中的には、名前が付いたほうが安心できる場合がほとんどではないかと思う。「友達」にせよ「恋人」にせよ「夫婦」にせよそうだろう。しかし一方で、関係が固定されてしまうと、それに伴う息苦しさも生じてくるんじゃないか。「友達だから、相談されたらなにかアドバイスしなきゃ」とか。つまりその関係に名前が付いてしまうと、付いた名前に見合うなにかをしなければならなくなるし、付いた名前に見合う期待を背負わされてしまう。だから、もしAさん(※ある依頼の依頼者)と僕が「友達」だった場合、今後一切連絡を取らなくなったりしたらそれなりの気まずさは残るかもしれない。でも、別に「友達」じゃないからそんなことは気にしなくていいはずだ】
関係に名前が付くとか付かないとかいう話は、僕も昔からずっと考えていて、ほぼ同じ結論に至っている。名前の付く関係の居心地の良さみたいなものはあるんだろうけど、僕は逆で、名前が付くことによる「その名前の関係性であることの責任感」みたいなものが凄く嫌で、疲れてしまう。本書では、ある本に書かれていたこととして「贈与論」の話が出てくる。要するに人間は、「もらったもの以上のものを返す」ということを繰り返すことで関係性が継続するのだ、ということだ。それに対して著者は、【僕個人としては特定のコミュニティのなかで「多めにもらってるな」という感覚を抱き続けることは、めちゃくちゃ大きなストレスになる】と書いていて、メッチャ分かる、と思う。僕も、もらっている状態は、あまり得意ではない。まあ僕は、著者とはちょっと違う方向に自分をデザインして、「こいつは返さないんだな」というキャラクターを認知させようとしてきた。それは、ある程度はうまく行っていると思う。世の中には、あげることが好きな人はいるし(本書にも、「お金を使って人に何かすることが趣味」という人が登場する)、だったらもらうのが得意な人がいてもいいか、と思ったりするし、僕自身そういう人間だと思わせれば、もらいすぎていても返さなくても大丈夫かな、と思える。自己ブランディングの方向性は違うが、発想は基本的に同じだ。
また、この話も興味深いと思った。
【(著者のツイート)こないだ依頼者が「友達ならこうやってとりとめもなく話したり沈黙が続いたりしても大丈夫な間柄になるまでには何年もの時間とその分のお金がかかる。でもなんもしない人を呼べばその時間をすっ飛ばせる」「今かなり贅沢な気分」と言ってて、このサービスには何らかのコストカット効果もあることを知った】
【にもかかわらず、この依頼者からはそこそこ長く付き合った友達と同等の存在とみなされたことが新鮮だった。僕が思っている以上に依頼者(もちろん人によるだろうけれども)は「レンタルなんもしない人」のことを気の置けない間柄だと感じているのだなと】
「レンタルなんもしない人」は、「基本的な受け答えしかしない」というスタンスを常に守っている。相談をしてもアドバイスをくれるわけでもない。移動中に楽しい話をして盛り上げるでもない。とにかく、聞かれたらちょっと答える、ぐらいのことしかしない。しかし、「そういうことしかしない、とあらかじめ分かっている」ということが、依頼者にとっては気楽なんだろう、という分析なのだ。確かに、友達でそういう関係になるにはある程度時間はかかる。しかし、「レンタルなんもしない人」の場合、短時間の関わりだし(時間制限は特にないので依頼者次第だけど)、一度しか関わらないことの方が多いけど、そのほんの僅かな接触の時間を「時間を積み重ねた友人と同等の関係として接することが出来る」というのは、確かに価値を感じられる部分かもなぁ、と思う。
僕はこの、「長年の友人」のような感じで接することが出来るようなやり方を、自分の中でも意識している。初対面であっても(というか、むしろ初対面であるからこそ)、「テンションをあげないで話す」「敢えて喋らない時間を作る」「でも喋る意思は伝わるように接する」みたいなことをやって、「初対面感」をなるべく消すようにしている。僕の場合はそれを意識してやってて、「レンタルなんもしない人」の場合は「なんもしない」という行動スタンスの結果そうなっていったという順序の違いはあるんだけど、でもやっぱりこういう部分も、メッチャ分かるなぁ、という感じがする。
こんな感じで「レンタルなんもしない人」という“社会実験(?)”は、「お金」「仕事」「人間関係」という意味で非常に面白い反応・結果を引き出せていると思うし、正直、あぁ俺がこれをやりたかったなぁ、という気持ちが凄く強い。本書を読む限り、僕が「レンタルなんもしない人」として振る舞うのに足りない部分は1つだけ、「妻と子供がいない」という部分だけだ。
【これといって、人に話せる特技も能力もない僕が「レンタルなんもしない人」というサービスに向いているのは、これはいわば外的な要因になるのだが、妻と子供がいることも非常に大きい。要するに、依頼者側としては「家庭を持っている人間なんだからおかしなことはしないはずだ」「きっとヤバイ人ではないのだろう」といった安心感が得られるようだ。実際にそうってくれる依頼者もいたし、僕自身も折に触れて「35歳、妻子持ち」という情報をツイートすることにしている】
この部分はまあどうにもならんのだが、他はいけるだろう。その話はすぐ後で書こう。しかし、本書を読んでいて一番の疑問は、奥さんだ。「レンタルなんもしない人」の活動は、国分寺駅からの交通費と飲食代(何かを飲み食いする機会がある場合のみ)以外、基本的にお金が発生しない(たまに発生することもある)。つまり、ここから収入は得られない。なのに、妻と子供がいるのだ。お金は稼がないわ、家にいないから子育てもしないわで、普通なら許されないだろう。著者は一時トレーダー的なことをしていたようで、おそらくその時に貯めたのであろうお金で今は生活しているのだという。まあ、その貯金がどれぐらいあるのか知らないけど、にしたって、よく奥さんがOKするよなぁ、という疑問はある。そこは、最大の謎だ。
さて、僕がなぜ「レンタルなんもしない人」という活動に向いていると思うのか、つまり、「レンタルなんもしない人」と僕にどういう共通項があるのか、という部分について触れてみよう。
「レンタルなんもしない人」に必要な性質という意味では、この辺りのことがある。
【「そういう重い話を聞くと、それに引きずられて精神的につらくならないですか?」
と、よく聞かれる。正直、僕としてはそういう感覚はまったくない。むしろ、あまりに頻繁に同じ質問をされるので「え、みんな重い話に引きずられて精神的につらくなってるの?」と逆に聞きたくなるくらいだ。
これをいうとちょっと人間性を疑われるかもしれないけれど、僕が依頼者の話を聞いているときはだいたい「これはツイッターに書いたら面白いな」とか「よっしゃ、いいネタがはいった」とかそういうことを考えている。たぶん、自分は普通の人よりドライな正確をしているというか、他人の感情にあまり左右されないのだ。だから相手にシンクロすることもないし、この活動に向いているんだろうなと思う】
これはメッチャ分かる。僕もそうだ。僕も、「おぉ、そんな話を俺に相談するんだなぁ」というような話を聞く機会があるのだけど、でもそういう話を聞いても、僕自身が辛くなることは特にない。むしろ、面白いと思ってしまう。「レンタルなんもしない人」の使い方として、「誰にも話せない悩みを聞いてほしい」というタイプのものがあるけど、これは、シンクロしちゃう人には厳しいだろうなぁ。そういう意味では、僕は非常に向いている。
【それに比べて僕は「趣味はなんですか?」と聞かれると答えに窮してしまうくらい、特定のなにかに対するこだわりがない。だけどその代わり、わりとなんでも面白がれる】
これもメッチャ分かる。僕は基本的に、「声が掛かったら先約がない限り断らない」というのを普段から実践している。その時点で自分に興味のないことでも(というか、世の中の大半のことに興味がない)、とりあえずやってみる。で、大体のことを面白がれる。もちろん、僕に声を掛けてくれた人並みに面白がれるのかと言われるとそこまでは難しいけど、僕自身の主観として「なかなか面白かったじゃん」と思える。というか、「せっかく来たんだし、面白い部分を探そう」という気分になる。で、探してみると、面白い部分って割と見つかるのだ。
また、この話に繋がる、こんなスタンスも非常に面白い。
【いったい世の中でどれくらいの人が、自分らしさから延長線を引き、その先にやりたい仕事を思い描き、社会に貢献できているのだろう。なにもなければ、そこから自分の夢ややりたいことをひねり出しても、ロクなことにならないんじゃないか。それに対して「できない」「やりたくない」という拒否反応はほとんど直感に近い。言い換えるなら生理的な反応であって、それに従ったほうがある意味で正直な生き方につながると思う】
【漫画『ONE PIECE』の主人公、モンキー・D・ルフィのセリフで「なにが嫌いかよりなにが好きかで自分を語れよ!!!」というのがある。
これは一般的には名言とされているけれど、僕はこのセリフがめちゃくちゃ嫌いだ。それこそ生理的にこういうことをいう人はダメだ。「なにが嫌いか」で自分を語ったっていいじゃないか。むしろ「なにが好きか」で自分語りをする人の話はどこか漠然としていてつまらないことが多いし、「好き」をアピールすることで自分を飾っているようにも見えてしまう。それよりも「なにが嫌いか」をはっきりいえる人のほうが、話が具体的で面白いし、たぶんその人は正直だ。あるいは誠実といってもいいんじゃないのか】
これも分かるんだよなぁ。基本的には何でも手を出そうと思ってるんだけど、「どうしてもやりたくないこと」ってのはあって、それは絶対にやらない。それこそ、意地でもやらない。とりあえずやってみて判断する、みたいな躊躇もしない。そういう部分は僕の中にもあるんだよなぁ。
【ツイッターであらかじめ依頼を受けてからとはいえ、見ず知らずの人に会いにいき、その人とある程度長い時間を共有しなければならないことに対して、僕自身は抵抗がなかったのか?
結論からいえば、なかった。(中略)
こういったその場限りのコミュニティにおける、各人の過去も未来も意に介さなくてよい、フラットで一時的な人間関係は、とても心地よく思えた】
これも同じ。僕も、むしろ初対面っていうか、初めて会う知らない人ばかりの場所の方が、割と気楽に入っていける。「この人とは長く関わりそうだなぁ」という感じの人とは、最初からどういう段階を踏んで関わっていくのが良いのか考えてしまうけど、初対面の人の場合はそういうのがない。後日会う可能性がゼロではないけど、でも今日でバイバイ、という感じの人と接するのは昔から得意だったし、今でも好きだ。そういう意味でもメッチャ向いてるなと。
また、「飽きっぽい自分を長生きさせる」という意味で、僕自身にとっても「レンタルなんもしない人」の活動はメッチャ向いてると思う。
【考えてみれば、ライターのしごとにしても趣味のブログにしても、やることがマンネリ化あるいはルーティン化してしまうことが問題だったのだが、それを回避するためにその都度新しい刺激なり変化なりを能動的に求めていくことが困難だった、というか自分には無理だったのだ。だから他人の力を借りて、受動的に刺激なり変化なりを楽しんでいられるいまの状況は、非常に楽だ。】
さっきから「メッチャ分かる」としか言ってないけど、これもメッチャ分かる。まったく同じだ。僕も凄く飽きっぽいし、すぐめんどくさくなっちゃうんだけど、受動的に変化がもたらされるならメッチャ楽だ。そういう意味で、「レンタルなんもしない人」という活動は、僕を生かしてくれるものでもあるなぁ、と思う。
他にも書きたいことは色々あるんだけど、久々に感想が1万字を超えてしまっているので、この辺りで終わりにしたい。最後に一つだけ。著者が「レンタルなんもしない人」という活動を始めた背景の話だ。冒頭で、心屋仁之助の「存在給」の話や、「プロ奢ラレヤー」という人の存在の話などが出てくるか、さらにその奥の奥の話は非常に興味深い。こういう、心の部分に強い、逃れられない引力のようなものがあるから、お金の発生しない「レンタルなんもしない人」というサービスを始められたのかな、という気もする。
【僕には兄と姉がいる。正確には半分はいた、といえばいいのかもしれない。一番年長である僕の兄は、大学受験がうまくいかなかったことがきっかけで体調を崩してうつになり、以来、一度も社会で働くことなくいま40歳を迎えている。姉はというと、彼女は就職活動にずいぶん苦労したのだけれど望むような結果が得られず、それが心の大きな負担となって、自ら命を絶った】
【いずれにしてもそれらに直面したとき、僕は学生だったけれど、自分の身内である兄や姉の価値というものが、世間的になんらかの目的によって歪められたり、損なわれていると感じた。】
【姉の社会人としてのスペックは、彼女が受けた会社にとって求めるものではなかったけれど、僕自身にとっては姉はただ存在しているだけで価値があった】
久しぶりに、毛穴全開で読んだ、みたいな感じのする本でした。価値観が揺さぶられるなぁ。「レンタルなんもしない人」のことはきっと、折に触れて意識に上るだろうし、恐らくこれからの僕の人生に何らかの形で影響を及ぼしていくような気がする。
レンタルなんもしない人「<レンタルなんもしない人>というサービスをはじめます。 スペックゼロでお金と仕事と人間関係をめぐって考えたこと」
正直に言えば、ちょっとナメて本書を読み始めた。「レンタルなんもしない人」という存在は知っていたし(とはいえ、本書ではない、著者のデビュー作である『レンタルなんもしない人のなんもしなかった話』という本のタイトルで初めて知った)、面白い活動だなと思ってはいたが、しかし、その活動を通じて、割と深いところまで考えを掘り下げているんだということを本書で知って(もちろん、後付の理由だと本人も書いている箇所は多々あるが、大体の説明は後付だ)、非常に興味深いと思った。
まず書いておくと、本書は「あれ?俺が書いたんだっけ?」と思うような本だった。僕は別に「レンタルなんもしない人」というサービスをしているわけではない。ただ、僕がこれまでやろうとしてきたこと、やってきたこと、自分の見せ方、スタンス、行動基準なんかは、すべてこの「レンタルなんもしない人」という考え方にピタッとはまるなぁ、と感じた。本書には、「レンタルなんもしない人」の活動の「模倣者」に対して、
【(模倣者に対して)新鮮味を感じていたが、一方で違和感も抱いていた。それをあえて言語化するなら「なんか、いいことしようとしてない?」みたいな感情だ。別の言い方をすれば、若干の偽善的な感じ、どこか押し付けがましいのだ】
と書かれているので、こういうことを書くのは勇気がいるが、僕はマジで、「レンタルなんもしない人」というサービスを提供できる人間だと思う。それぐらい、著者の活動スタンスが理解できるし、自分も同じような理屈で似たような行動をしているな、と感じる箇所がメチャクチャあった。
まさにそれは、本書の副題にある通り、「お金」と「仕事」と「人間関係」の話であり、この「レンタルなんもしない人」という活動が様々な価値観を明らかにしていくことになる。
【「レンタルなんもしない人」を通して、僕はお金について、実にいろいろな価値観に触れた】
【再三にわたり断っている通り、僕はボランティア精神というものを持ち合わせてはいない。けれど、この「レンタルなんもしない人」のサービスを通して、世の中には僕の想像をはるかに超えた、いろんな困り方のバリエーションがあるのだということがわかった】
【にもかかわらず、この依頼者からはそこそこ長く付き合った友達と同等の存在とみなされたことが新鮮だった。僕が思っている以上に依頼者(もちろん人によるだろうけれども)は「レンタルなんもしない人」のことを気の置けない間柄だと感じているのだなと】
それではそれぞれの話を書いてみよう。
まず「お金」の話がやはり一番興味深かった。
【先ほど、「レンタル料をもらおうと考えたこともあった」といったけれど、考えようとしてすぐにやめたので、実際はほぼ俎上にも載らなかった。たとえば「1時間あたり1000円」とか、具体的な数字を検討するところまでいかずに、ほとんど一瞬でやめた。
もともと僕は「時給」という概念があまり好きになれないというか、自分の時間とお金を交換してもらっているような感覚が率直にイヤだった。まるで自分が奴隷になった気がしてしまうのだ】
これは凄く分かる。僕も、時間をお金に換算する発想は、あまり好きではない。それって面白いのかなぁ、と思ってしまう。前提として僕は、そこまでお金に執着がないと思う。もちろん、不自由のある生活をわざわざしたいわけではないから、不自由のない生活が出来る程度のお金はほしい。たまにちょっと贅沢できたり、ちょっとしたことならお金のことなんて考えずに誰かを助けたり出来る程度にはお金はあってほしい。でも、それ以上のお金は、別にほしいと思わない。あって困ることはないかもしれないが(いや、困ることもきっとあるが)、わざわざ必要ではない程のお金を稼ぐために自分の時間やリソースを注ぐ気力がない。恐らく著者も同じ感覚だろう。
また、こうも書いている。
【なにか行動を起こすときも、ふつうなら「お金」のことに思い至りやすい。しかし、だから新しいものがなかなか生まれないのでは、と思う。最上段にそれを掲げてしまうと、すごくつまらないことしかできないし、ストレスなく生きていくために求めていたはずが、かえってストレスを抱える要因になるという本末転倒を起こしかねない。だからお金はいったん脇に置く。すると、いまの活動に限っていえば、新しい面白さにつながっている。それはやがて、お金を生み得るものになるのではとも思う。依頼者から料金をもらってしまうとその流れは小さく簡潔してしまう、と本書の冒頭でいったのも、ここに関わっている。お金というわかりやすい価値尺度をいったん手放すことで、お金を介在させた既存のサービスにはない多種多様な価値観にもとづいた多種多様な関係性が生まれるのではないか】
お金が介在するとつまらなくなる、というのは本当にその通りだと思う。この辺りのことは、後々「仕事」の方でも触れるが、「お金」というものが間に挟まってしまうことで、「責任」とか「無理難題」とか「効率」とか、そういう面白くないワードが増える可能性が高まる。僕も、お金をもらわないで色んなことを引き受けることはあって、それは確かにその場では金銭は発生していないのだけど、いずれ金銭や金銭以外のものを生むかもしれないとは思っている。
【僕が会社勤めしていたことは、「やりたいことではないけれど、お金のために働こう」と思ってみたこともあったが、それを継続するのは難しかった。そしてそのあと、一時的に仮想通貨を手にした。すぐに飽きて手放してしまったけれど、それまでは「お金=労働の対価」という価値観しかなかったところに、それ以外でもお金が発生するところがいっぱいあるんだ、ということを知った。その変遷があり、いまの「なんもしない人」に辿り着いている。お金がないとできないこともあるけれど、お金をあきらめたことでお金以外のものが手に入るようになったし、お金とは、結局のところ便利で使いやすツールにすぎないということもわかった】
なんでも「お金」に変換することは、確かに分かりやすいけど、でも全然面白くない。少なくとも僕はそう思ってしまう。僕は先述した通り、お金ではないものを得ている、という感覚があるけれども、そういう感覚を持てないでいると、すべて「お金」に集約する発想になってしまうだろう。それは面白くないなぁ、と。
著者は、今の自身の活動を他人に説明する時、こう言う場合もあるという。
【(著者ツイート)人類の営みをすべて「飯の種」と捉えなければ気が済まない思考回路っぽい人には「自分はライター業をやっていて、今は取材に集中している段階と言える。交通費や諸経費の負担なしにいろんな経験ができるんだから、取材のやり方としてうまいでしょ」みたいに説明してます】
もちろんこれは本心ではないわけだが、確かにそういう捉え方も出来るし、そういう意味で「お金」を介在させないのは成功だなぁ、と思うのだ。
では「仕事」の話に移ろう。
やはり「仕事」の話で言えば、先程引用した【世の中には僕の想像をはるかに超えた、いろんな困り方のバリエーションがある】という気づきが最も興味深いものだと思う。著者が受けた依頼は本当に面白いものばかりで、一例を挙げると、「マラソンのゴール地点に誰か立っていてくれると完走できそうな気がするからゴールにいてほしい」「自分が証人として出廷する裁判を傍聴してほしい」「女子大生になりきって一日楽しんでほしい(女子大生が、もう一人の自分がほしいからという理由で依頼した)」「朝6時に「体操着」とDMを送ってほしい」「通りがかりの人のフリをして愛犬をメチャクチャ可愛がってほしい」「結婚式に招待されているが行きたくないので、その日は「レンタルなんもしない人」さんと予定があるということにして、でも当日ドタキャンしてほしい」などなどだ。なんのこっちゃ?という依頼もあるが、話を聞いてみれば、なるほどそういう事情かぁ、納得、というものもかなり多い。世の中にはこういう、「別に一人で頑張ろうと思えば頑張れるけど、誰かいてくれたら心強いんだけど、でも別に人に頼むほどでもない」という「困りごと」が結構あって、でもそれはなかなか顕在化されなかった。そりゃあそうだ。誰もそういう「困りごと」があることを口に出さないのだから。でも、「レンタルなんもしない人」が登場したことで、そういう「困りごと」が表に出る余地が生まれた。そして、「レンタルなんもしない人」が「なんもしない」という活動をすることで、世の中には多種多様な「困りごと」で溢れている、という現実に、「レンタルなんもしない人」だけでなく、多くの人が気づくこととなったのだ。
この点は、本当に興味深いと思う。「レンタルなんもしない人」という“社会実験(?)”の、一番大きな成果ではないかと思う。後の「人間関係」の方でも触れるが、これらの「困りごと」は、なかなか身近な人には頼みにくい性質のものだ。関係が近すぎて相手に負担になるから、あるいは相手に弱みを握られかねないから、という理由で言えない、ということが結構あるからだ。その、今まで顕在化されることのなかった実にニッチな課題を、「レンタルなんもしない人」は掘り起こしたのだ。これは非常に有益だったと言っていいだろう。正直、この「レンタルなんもしない人」の活動周辺には、新たなビジネスのネタがゴロゴロ転がっているような感じがする。
【実際にスタートしてみると、僕に対する支払いが生じないぶん、あるいはタダで僕の時間を拘束しているという気遣いからか、知恵を絞ってレンタルされがいのある、ユニークな依頼をしてくる人も少なくなかった】
あと、著者のスタンスとして非常に面白かったのが、「レンタルなんもしない人」は「ボランティア」ではなく「仕事」だと明言している点だ。
【(著者ツイート)人のために善意でやってるわけではないので、ボランティア活動ではありません。お金を多めに渡されたらためらいなくもらったりしてますし、誰かお金持ちが大きな額を無条件に出資してくれないかなとかも思います】
【ここは誤解してほしくないのだけれど、僕は無料だからといって、ボランティアでやっているつもりは一切ない。事実、誤解を避けるために過去に右(※この感想では上)のようなツイートをしたことがある。
別に好きでボランティア活動をしている人を貶めたり、否定したりする気はまったくない。だけど僕は、「ボランティア」という言葉からは、かなり純度の高い善意を期待されているという圧力みたいなものをすごく感じてしまう。だから仮にボランティアを謳っていたら、依頼の内容や顛末を報告するツイートもなるべく品行方正な感じで、いちいち美談にしなければならないような義務感を覚えていたんじゃないだろうか。
それらの期待を弾くために、「レンタルなんもしない人」をボランティアだと勘違いしていそうなツイートを見かけたら、積極的に否定して回っている。
むしろ、僕は自分が前任に見られることは極力避けたいと思っている。なぜなら自分はまったくもって善人ではないし、善人であることを期待されたくないから。だからお涙ちょうだい系だったり心温まる系だったりするツイート(結果的にそういう感じになった依頼の報告)が増えてしまうと「ヤバイ。これ善人っぽい」と思って、あえてネガティブだったり露悪的だったりするツイートをしてバランスをとったりしている】
こういう感覚は僕とぴったり合う。僕が書いた文章だと言ってもまったく違和感がないくらい、僕も同じことを考えている。また著者は、露悪的な部分を出すことによって、【「レンタルなんもしない人」をレンタルする顧客層を、自分の想定する顧客層に近づけたいといういともある】と書いている。こういうやり方も、まったく同じだ。僕は別に「レンタルなんもしない人」の活動をしているわけではないが、自分の見せ方を調整することで、自分の周りに集まる人間のバランスを整えたいと思っている。それが実際に出来ているかどうかはともかく、感覚としてメチャクチャ分かる。
また、「お金」の話とも絡むが、こういう感覚もあるようだ。
【お金が介在すると、やりとりは単純にわかりやすくなるけれど、「なんもしない」ことそのものの実際の価値が見えにくくなるようにも思う。お金のほうに引っ張られて、軸足がずれていくような。だったらそういうスイッチはあらかじめ存在させない、つまり無料にするのが妥当なのだろうという結論にいたった。無料のサービスなら僕も開き直って「なんもしない」でいられるだろうし、依頼者側も「どうせタダだし」と、このサービスに多くを求めることはないんじゃないか。たとえ1000円でも報酬があったら、「自分はお客さんだ」という意識が生まれやすくなるだろう】
この辺りのことは完全に後付の説明だろうが、しかし確実に的を射ていると思う。確かに、その通りだろう。「なんもしない」ということの価値が発揮されるのは、やはり無料だからだ。お金が発生すると、「お金払ってんのになんもしないのかよ」という気持ちが生まれ得るし、やる側も「お金もらってるのにこんななんもしなくていいんだろうか」と思ってしまう。双方が、あるいは片方でもそう感じてしまえば、「なんもしない」ということの価値は急落するだろう。この辺りのことについても、後付だろうがなんだろうが、きちんと深掘りしているところが良いと思う。
さて、「人間関係」についてである。これについては、僕が昔から考えていることと本当にぴったりくる文章があるので、それをまず引用してみよう。
【世の中的には、名前が付いたほうが安心できる場合がほとんどではないかと思う。「友達」にせよ「恋人」にせよ「夫婦」にせよそうだろう。しかし一方で、関係が固定されてしまうと、それに伴う息苦しさも生じてくるんじゃないか。「友達だから、相談されたらなにかアドバイスしなきゃ」とか。つまりその関係に名前が付いてしまうと、付いた名前に見合うなにかをしなければならなくなるし、付いた名前に見合う期待を背負わされてしまう。だから、もしAさん(※ある依頼の依頼者)と僕が「友達」だった場合、今後一切連絡を取らなくなったりしたらそれなりの気まずさは残るかもしれない。でも、別に「友達」じゃないからそんなことは気にしなくていいはずだ】
関係に名前が付くとか付かないとかいう話は、僕も昔からずっと考えていて、ほぼ同じ結論に至っている。名前の付く関係の居心地の良さみたいなものはあるんだろうけど、僕は逆で、名前が付くことによる「その名前の関係性であることの責任感」みたいなものが凄く嫌で、疲れてしまう。本書では、ある本に書かれていたこととして「贈与論」の話が出てくる。要するに人間は、「もらったもの以上のものを返す」ということを繰り返すことで関係性が継続するのだ、ということだ。それに対して著者は、【僕個人としては特定のコミュニティのなかで「多めにもらってるな」という感覚を抱き続けることは、めちゃくちゃ大きなストレスになる】と書いていて、メッチャ分かる、と思う。僕も、もらっている状態は、あまり得意ではない。まあ僕は、著者とはちょっと違う方向に自分をデザインして、「こいつは返さないんだな」というキャラクターを認知させようとしてきた。それは、ある程度はうまく行っていると思う。世の中には、あげることが好きな人はいるし(本書にも、「お金を使って人に何かすることが趣味」という人が登場する)、だったらもらうのが得意な人がいてもいいか、と思ったりするし、僕自身そういう人間だと思わせれば、もらいすぎていても返さなくても大丈夫かな、と思える。自己ブランディングの方向性は違うが、発想は基本的に同じだ。
また、この話も興味深いと思った。
【(著者のツイート)こないだ依頼者が「友達ならこうやってとりとめもなく話したり沈黙が続いたりしても大丈夫な間柄になるまでには何年もの時間とその分のお金がかかる。でもなんもしない人を呼べばその時間をすっ飛ばせる」「今かなり贅沢な気分」と言ってて、このサービスには何らかのコストカット効果もあることを知った】
【にもかかわらず、この依頼者からはそこそこ長く付き合った友達と同等の存在とみなされたことが新鮮だった。僕が思っている以上に依頼者(もちろん人によるだろうけれども)は「レンタルなんもしない人」のことを気の置けない間柄だと感じているのだなと】
「レンタルなんもしない人」は、「基本的な受け答えしかしない」というスタンスを常に守っている。相談をしてもアドバイスをくれるわけでもない。移動中に楽しい話をして盛り上げるでもない。とにかく、聞かれたらちょっと答える、ぐらいのことしかしない。しかし、「そういうことしかしない、とあらかじめ分かっている」ということが、依頼者にとっては気楽なんだろう、という分析なのだ。確かに、友達でそういう関係になるにはある程度時間はかかる。しかし、「レンタルなんもしない人」の場合、短時間の関わりだし(時間制限は特にないので依頼者次第だけど)、一度しか関わらないことの方が多いけど、そのほんの僅かな接触の時間を「時間を積み重ねた友人と同等の関係として接することが出来る」というのは、確かに価値を感じられる部分かもなぁ、と思う。
僕はこの、「長年の友人」のような感じで接することが出来るようなやり方を、自分の中でも意識している。初対面であっても(というか、むしろ初対面であるからこそ)、「テンションをあげないで話す」「敢えて喋らない時間を作る」「でも喋る意思は伝わるように接する」みたいなことをやって、「初対面感」をなるべく消すようにしている。僕の場合はそれを意識してやってて、「レンタルなんもしない人」の場合は「なんもしない」という行動スタンスの結果そうなっていったという順序の違いはあるんだけど、でもやっぱりこういう部分も、メッチャ分かるなぁ、という感じがする。
こんな感じで「レンタルなんもしない人」という“社会実験(?)”は、「お金」「仕事」「人間関係」という意味で非常に面白い反応・結果を引き出せていると思うし、正直、あぁ俺がこれをやりたかったなぁ、という気持ちが凄く強い。本書を読む限り、僕が「レンタルなんもしない人」として振る舞うのに足りない部分は1つだけ、「妻と子供がいない」という部分だけだ。
【これといって、人に話せる特技も能力もない僕が「レンタルなんもしない人」というサービスに向いているのは、これはいわば外的な要因になるのだが、妻と子供がいることも非常に大きい。要するに、依頼者側としては「家庭を持っている人間なんだからおかしなことはしないはずだ」「きっとヤバイ人ではないのだろう」といった安心感が得られるようだ。実際にそうってくれる依頼者もいたし、僕自身も折に触れて「35歳、妻子持ち」という情報をツイートすることにしている】
この部分はまあどうにもならんのだが、他はいけるだろう。その話はすぐ後で書こう。しかし、本書を読んでいて一番の疑問は、奥さんだ。「レンタルなんもしない人」の活動は、国分寺駅からの交通費と飲食代(何かを飲み食いする機会がある場合のみ)以外、基本的にお金が発生しない(たまに発生することもある)。つまり、ここから収入は得られない。なのに、妻と子供がいるのだ。お金は稼がないわ、家にいないから子育てもしないわで、普通なら許されないだろう。著者は一時トレーダー的なことをしていたようで、おそらくその時に貯めたのであろうお金で今は生活しているのだという。まあ、その貯金がどれぐらいあるのか知らないけど、にしたって、よく奥さんがOKするよなぁ、という疑問はある。そこは、最大の謎だ。
さて、僕がなぜ「レンタルなんもしない人」という活動に向いていると思うのか、つまり、「レンタルなんもしない人」と僕にどういう共通項があるのか、という部分について触れてみよう。
「レンタルなんもしない人」に必要な性質という意味では、この辺りのことがある。
【「そういう重い話を聞くと、それに引きずられて精神的につらくならないですか?」
と、よく聞かれる。正直、僕としてはそういう感覚はまったくない。むしろ、あまりに頻繁に同じ質問をされるので「え、みんな重い話に引きずられて精神的につらくなってるの?」と逆に聞きたくなるくらいだ。
これをいうとちょっと人間性を疑われるかもしれないけれど、僕が依頼者の話を聞いているときはだいたい「これはツイッターに書いたら面白いな」とか「よっしゃ、いいネタがはいった」とかそういうことを考えている。たぶん、自分は普通の人よりドライな正確をしているというか、他人の感情にあまり左右されないのだ。だから相手にシンクロすることもないし、この活動に向いているんだろうなと思う】
これはメッチャ分かる。僕もそうだ。僕も、「おぉ、そんな話を俺に相談するんだなぁ」というような話を聞く機会があるのだけど、でもそういう話を聞いても、僕自身が辛くなることは特にない。むしろ、面白いと思ってしまう。「レンタルなんもしない人」の使い方として、「誰にも話せない悩みを聞いてほしい」というタイプのものがあるけど、これは、シンクロしちゃう人には厳しいだろうなぁ。そういう意味では、僕は非常に向いている。
【それに比べて僕は「趣味はなんですか?」と聞かれると答えに窮してしまうくらい、特定のなにかに対するこだわりがない。だけどその代わり、わりとなんでも面白がれる】
これもメッチャ分かる。僕は基本的に、「声が掛かったら先約がない限り断らない」というのを普段から実践している。その時点で自分に興味のないことでも(というか、世の中の大半のことに興味がない)、とりあえずやってみる。で、大体のことを面白がれる。もちろん、僕に声を掛けてくれた人並みに面白がれるのかと言われるとそこまでは難しいけど、僕自身の主観として「なかなか面白かったじゃん」と思える。というか、「せっかく来たんだし、面白い部分を探そう」という気分になる。で、探してみると、面白い部分って割と見つかるのだ。
また、この話に繋がる、こんなスタンスも非常に面白い。
【いったい世の中でどれくらいの人が、自分らしさから延長線を引き、その先にやりたい仕事を思い描き、社会に貢献できているのだろう。なにもなければ、そこから自分の夢ややりたいことをひねり出しても、ロクなことにならないんじゃないか。それに対して「できない」「やりたくない」という拒否反応はほとんど直感に近い。言い換えるなら生理的な反応であって、それに従ったほうがある意味で正直な生き方につながると思う】
【漫画『ONE PIECE』の主人公、モンキー・D・ルフィのセリフで「なにが嫌いかよりなにが好きかで自分を語れよ!!!」というのがある。
これは一般的には名言とされているけれど、僕はこのセリフがめちゃくちゃ嫌いだ。それこそ生理的にこういうことをいう人はダメだ。「なにが嫌いか」で自分を語ったっていいじゃないか。むしろ「なにが好きか」で自分語りをする人の話はどこか漠然としていてつまらないことが多いし、「好き」をアピールすることで自分を飾っているようにも見えてしまう。それよりも「なにが嫌いか」をはっきりいえる人のほうが、話が具体的で面白いし、たぶんその人は正直だ。あるいは誠実といってもいいんじゃないのか】
これも分かるんだよなぁ。基本的には何でも手を出そうと思ってるんだけど、「どうしてもやりたくないこと」ってのはあって、それは絶対にやらない。それこそ、意地でもやらない。とりあえずやってみて判断する、みたいな躊躇もしない。そういう部分は僕の中にもあるんだよなぁ。
【ツイッターであらかじめ依頼を受けてからとはいえ、見ず知らずの人に会いにいき、その人とある程度長い時間を共有しなければならないことに対して、僕自身は抵抗がなかったのか?
結論からいえば、なかった。(中略)
こういったその場限りのコミュニティにおける、各人の過去も未来も意に介さなくてよい、フラットで一時的な人間関係は、とても心地よく思えた】
これも同じ。僕も、むしろ初対面っていうか、初めて会う知らない人ばかりの場所の方が、割と気楽に入っていける。「この人とは長く関わりそうだなぁ」という感じの人とは、最初からどういう段階を踏んで関わっていくのが良いのか考えてしまうけど、初対面の人の場合はそういうのがない。後日会う可能性がゼロではないけど、でも今日でバイバイ、という感じの人と接するのは昔から得意だったし、今でも好きだ。そういう意味でもメッチャ向いてるなと。
また、「飽きっぽい自分を長生きさせる」という意味で、僕自身にとっても「レンタルなんもしない人」の活動はメッチャ向いてると思う。
【考えてみれば、ライターのしごとにしても趣味のブログにしても、やることがマンネリ化あるいはルーティン化してしまうことが問題だったのだが、それを回避するためにその都度新しい刺激なり変化なりを能動的に求めていくことが困難だった、というか自分には無理だったのだ。だから他人の力を借りて、受動的に刺激なり変化なりを楽しんでいられるいまの状況は、非常に楽だ。】
さっきから「メッチャ分かる」としか言ってないけど、これもメッチャ分かる。まったく同じだ。僕も凄く飽きっぽいし、すぐめんどくさくなっちゃうんだけど、受動的に変化がもたらされるならメッチャ楽だ。そういう意味で、「レンタルなんもしない人」という活動は、僕を生かしてくれるものでもあるなぁ、と思う。
他にも書きたいことは色々あるんだけど、久々に感想が1万字を超えてしまっているので、この辺りで終わりにしたい。最後に一つだけ。著者が「レンタルなんもしない人」という活動を始めた背景の話だ。冒頭で、心屋仁之助の「存在給」の話や、「プロ奢ラレヤー」という人の存在の話などが出てくるか、さらにその奥の奥の話は非常に興味深い。こういう、心の部分に強い、逃れられない引力のようなものがあるから、お金の発生しない「レンタルなんもしない人」というサービスを始められたのかな、という気もする。
【僕には兄と姉がいる。正確には半分はいた、といえばいいのかもしれない。一番年長である僕の兄は、大学受験がうまくいかなかったことがきっかけで体調を崩してうつになり、以来、一度も社会で働くことなくいま40歳を迎えている。姉はというと、彼女は就職活動にずいぶん苦労したのだけれど望むような結果が得られず、それが心の大きな負担となって、自ら命を絶った】
【いずれにしてもそれらに直面したとき、僕は学生だったけれど、自分の身内である兄や姉の価値というものが、世間的になんらかの目的によって歪められたり、損なわれていると感じた。】
【姉の社会人としてのスペックは、彼女が受けた会社にとって求めるものではなかったけれど、僕自身にとっては姉はただ存在しているだけで価値があった】
久しぶりに、毛穴全開で読んだ、みたいな感じのする本でした。価値観が揺さぶられるなぁ。「レンタルなんもしない人」のことはきっと、折に触れて意識に上るだろうし、恐らくこれからの僕の人生に何らかの形で影響を及ぼしていくような気がする。
レンタルなんもしない人「<レンタルなんもしない人>というサービスをはじめます。 スペックゼロでお金と仕事と人間関係をめぐって考えたこと」
人殺しの息子と呼ばれて(張江泰之)
【―これだけは言いたいことなど、何かありますか?
「恵まれない環境でも、両親が犯罪者でも、自分が犯罪者だったとしても…、俺は犯罪してないですけど、生きてます、生きていけます」】
凄い言葉だな、と思う。彼にしか言えない、とまでは言わないが、しかし、この言葉を説得力を持って口に出来る人間は、そうそういないだろう。
彼は、殺人者の息子だ。しかも、裁判で検察が「鬼畜の所業」と評し、マスコミさえも報道規制するほど、あまりにも凄惨で残虐で例を見ないほどの殺人事件だった。
「北九州 連続監禁殺人事件」
どんな事件なのか、ここでは触れない。僕は、この事件を扱った「消された一家」という本を読んだことがある。とんでもない事件だ。とても、人間の仕業とは思えない。親族同士を殺し合わせるという、常軌を逸した事件だ。
その息子のインタビューを、フジテレビの「ザ・ノンフィクション」という番組で流した。
【常に俺の中にあるのは、申し訳ないな、ということです。理由はなんであれ。だからといって、どうすることもできんわけやし。それをこの十五年間、ずっと逃げて隠してごまかして、生きてきたんです。やりよることは両親と変わらんなって思って。
でも、逃げ続けてばかりいるのではなく、出ていくことで、俺はいまこうしているんですよっていうのを少しでも多くの人に知ってもらえると思うんですね。
ものすごくキツイ意見もあると思うんですよ。なんで生きているんだとか、人殺しの息子が! とか。なんと言われても、生きて誰かのために何かをするって。それを周りの人は偽善やって言うかもしれんけど、他の人にはできん経験をして、人の痛みが人よりわかる。
自分みたいな奴がこれからどうしていくんかってなったときに、もう生きて生きて、生き続けて、自分しかできんことを多くの人にしてあげる。そんな自分になっていくっていうのが、大げさですけど、生まれてきた意味じゃないんかなあって。
当たり前に仕事して、当たり前に生活して、ハイ終わりじゃない。たぶん俺にしかできないことがあると思うんです。いまでも答えは見つかってないんですけどね】
カメラの前で(さすがに顔は映していないが)声を変えずに、こういうことを誠実に答えていく。インタビューのみで構成された、「ザ・ノンフィクション」史上においても異例の番組だった。
反響は、もの凄かった。どういう反響があったのかは、なんとなくここでは伏せておこう。しかし、昼14時から放送される関東ローカルの番組とは思えない、とんでもない反響だった。
何故そんなインタビューを行うことが出来たのか。
きっかけは、クレームだった。
【彼との始まり…。
それは一本の電話であり、私がつくった番組に対する苦情だった。
「あなたはあの番組の責任者の方ですか?俺は松永太と緒方純子の長男です」】
本書の著者は、自身が企画した「追跡!平成オンナの大事件」という番組の中で、彼の両親の事件も取り上げた。そのことへのクレームだった。しかし、ただ闇雲に怒りをぶつけるようなクレームではなかった。彼は確かに、「フジテレビではもう両親の事件を取り上げないでほしい」ということも言っている。しかし、こうも言っているのだ。
【なぜ、あなたは、番組であの事件を取り上げると決めたとき、息子である俺に取材しようと考えなかったのですか?それは、取材者の怠慢じゃないですか】
なかなか変わったクレーム電話だと言えるだろう。一方では、放っておいてほしいという気持ちから、二度と取り上げるな、という。しかしもう一方では、取り上げるならちゃんと取材をすべきではないかと言う。実は著者は、彼の両親の事件を取り上げる際、最後の最後まで子どもたちへの取材をするかどうか悩んだ末、信頼するディレクターに、子どもたちへの取材はしないように頼んだのだ。しかし実際は、その息子本人から連絡が来ることとなった。
顔は出さないが、著者が言い出す前から「声は変えなくていい」と自ら申し出た彼は、「逃げない」という覚悟を持ってこのインタビューに臨んだ。
【今回の件(※「ザ・ノンフィクション」で取り上げられること)に関して、ネットに何か書かれたり、世間の人からなんて言われても、なんとも思わないです。これまでは俺の知らないところで勝手にそういうことをされていて、それに付随して野次が飛んでくるような感じだったので、耐えられなかったんです。今回は自分から発言をしているんで。中途半端な気持ちでこういう風に話もしてないですから】
【たとえばこういうふうに俺が発言してるのをテレビで観たりして、何を偉そうに、何をいまさら、なんでお前が…っていう人たちもいると思うんですけど。そうではなく純粋に興味をもってくれる人、考え方が変わってくれる人、何かのきっかけになる人っていうのもいる気がするんですね。
それって他の人にはできないと思うんです。こういう経験をして、こういう生き方をしてきた俺にしかできんことだと思うんですよ。(こういう取材に答えるようなこともなく)このまんま当たり前にどこかで仕事をして、定年迎えて、年金もらって、死んでいくというのは、なんかちょっと違うなって思ったんです。
何かをやるためにたぶん生まれてきてると思うんで、俺にしか伝えられないことを俺なりのやり方で知ってもらおうかなあと】
【嫌な意見のなかにも、ためになる意見ってたぶんあると思うんです。このヒオはなんでこういうふうに書いたんかなあとか、確かにそれは合ってるなとか。そういう大事な意見はしっかり読み取って吸い上げて、自分のものにして。それ以外の落ち込んだりっていう感情はスルーしようかなって。そういう心構えでインタビューに応じさせてもらいました】
【―ネットを覗かないっていう選択肢もあったと思うんですけど、やはり見てしまったのはどうしてなんですか?
「これは俺の個人的な考えなんですけど、いい意見を伝えてくれる人も、悪い意見を言ってくる人も、理由はなんであれ俺のために時間を使ってくれているという。いちばんはそこですよね。本当に俺に興味がなかったり、イライラしてしょうがないって人たちだったら、書き込みすらしないと思うんです。で、その悪いコメントのなかにも、やっぱり俺のためになるような意見があったり。あらためて考えさせられるようなきっかけになる内容も多かったんで…。見ないという選択肢を俺が選んだときには、いままでの自分と変わらないなってまた逃げるのかって。なので、あえて見ましたね」】
凄いもんだ。なかなかこんな風にはいられないだろう。僕自身は、親が殺人鬼だろうが、子どもは関係ない、と考えている。確率の話でいえば、殺人犯の子どもが殺人犯である可能性はかなり低いだろう。大体、殺人犯ではない親から、殺人犯が生まれる。もちろん、殺人犯の親を持つ場合、境遇の苦しさなどから、犯罪行為に走らざるを得ないことはあるかもしれない。しかしそれは、本人の性質というよりは、環境による部分が大きいだろう。だから、殺人鬼の子どもだろうが、別に関係ないと思える。しかし、世間はそうではないだろう。殺人鬼の子どもだから、という偏見で見たがるだろう。そういう世の中であることを理解した上で、声を変えずにカメラの前で喋り、すべての批判も受け止める覚悟でいる、というのは、並大抵の決意ではない。
今でも彼は、家では夜明かりをつけないそうだし、ドアを開けるとドアの裏側に人がいないか確認してしまうという。そういう癖が、おかしなものだと分かっているが、分かっていても止められないという。職場では人に恵まれているし、色々あって結婚もしているが、しかし子どもを作るつもりは今のところないという。与えてもらった経験がないから、子育てが出来る自信がないからだという。彼の両親は、幼い彼に死体の処理を手伝わせもした。その当時は、その行為にどんな意味があるのか分からなかった(詳細は書かないが、彼は死体を見たわけではないのだ)。しかし、両親の事件について自分で調べ始めると、あの時のあれが実は死体遺棄だったのだ、と気付かされることになる。その記憶は、生々しい異臭の感覚と共に、今も彼を苦しめている。
そんな風に、決して余裕のある状態ではない。しかし彼は闘うことに決めた。彼がこれまで、散々考え、悩み、打ちひしがれてきたことは、彼の発言から伝わってくる。両親が逮捕された時10歳くらいで、小学校に通っていなかった彼は、いきなり小学3年生のクラスに入れられたという。しかし、ひらがなとカタカナしか知らなかった彼は、「漢字」というものの存在が理解できなかったし、「書き言葉」と「話し言葉」が同じものであるという感覚もなかった。異国の言語を口では発音できても意味が分からない、というように、日本語を口から発していてもその意味が分からない、という状態だったという。そんなところから、よくもまあこれほど、自分の頭で考え、自分の言葉で話せる青年になったものだと思う。凄い。
事件当時について語る彼の話は、やはり普通の人生を歩んできた僕らには異次元の世界のものだが、一番印象的だったのは、「おかしいと思っていなかった」という感覚だ。
【いくら子供であっても、それでお腹がふくれるはずはない。それでも彼は「ご飯を与えてもらっている」「食べさせてもらっている」「こんなに出来の悪い自分なのに」という感覚になっていたのだという。理不尽きわまりないことだ。
だが、その当時の彼は、「親父の言うこと、やることに間違いはなく、正解なんだ」と考えていた。それが“彼にとっての常識”になっていたからだ】
【「なんでそれがダメなのかという、ちゃんとした理由や説明はなかった。とりあえず親父がしてほしくない、親父がされたらバツが悪いことをした場合はものすごく痛くて苦しい思いをするぞっていう、しつけのされ方をずっとされてきたんで」
―当時、それがおかしいことだとは?
「まった。まったくなんとも思ってなかったですね」】
先程紹介した、この事件を扱ったノンフィクションである「消された一家」を読んで、感覚的にどうしても捉えきれなかったのが、「何故その状態をおかしいと思えないのか」ということだった。主犯である松永太に服従させられていた被害者たちが殺し合いをさせられていたわけだが、ごく一般的な感覚でいえば、「おかしい」と思ってしまうし、「おかしいと思いながらも従うしかない」という諦念なんだろう、と受け入れるしかない。しかし、彼が幼い子供だったということも関係しているだろうが、そもそもその状況を「おかしい」と判断できなくなっている、という話は、誰もが被害者になり得るという現実を描き出しているなと思う。
保護され、児童相談所で生活するようになった彼の日常は、彼のこんな言葉に集約できるだろう。
【結局、何をやっても、そういう壁に当たるんですよね。親がいないから、身寄りがないからって。どんだけ頑張っても、結局、またこれかと思って。先のことになるけど、携帯を持つのも、免許を取るのも、働くのも、家を借りるのも、何するにしてもこれだけ不便なんやって。そういうことにぶち当たるたびに自信をなくすんです。これって俺がどうこうって問題じゃなよね、と】
彼には、未成年後見人になってくれる大人(仮名だが田中氏)が現れ、それまで両親のことを聞かれると事件の話を避けるわけにはいかなかったが、田中氏のお陰でその状況が変わった。その田中氏はこんな風に言っている。
【ある意味、彼らは、犯罪者よりも冷遇されますから】
犯罪を犯したものが辛い人生を歩まざるを得ないのはある程度仕方ない(とはいえ、刑務所から出た人間を冷遇することで、犯罪者が社会にいられず、刑務所へと逆戻りしてしまいがちな世の中はどうかと思うけど)。しかし、犯罪者の家族は関係ないだろ、と思う。特に今回の場合は、両親だ。子供が、両親の犯罪に対して責任を負わなければならない理屈は、僕にはよく分からない。しかし日本では、異なる人間を排除したがる風潮が強すぎるために、犯罪者の子供というだけで冷遇されてしまう。僕は正直、犯罪を犯し罪を償った者ときちんと関係性を築けるかと聞かれると、たぶん大丈夫だと思うが自信を持ってYESとは言えない。しかし、犯罪者の家族だったら、まず大丈夫だろうと思う。著者は、自分が表に出ることで、様々にしんどさを抱えている人のためになればと思っている。僕自身も、彼と比べればまったく何も起こっていないに等しいけど、僕なりに人生でしんどさを感じてきたし、そういう自分だからこそ出来ることがあるんじゃないかと思っている。僕は、世間が拒絶するような人でも受け入れたいなぁといつも思っている。
【小学生の頃、獣医師になりたい気持ちがあったのにしても、動物は素直で「言葉の裏を読んだりする必要がない」というのが理由のひとつになっていた。(中略)
「で、人間と関わると、また失望するんです。嘘ついて、ごまかして、こんなに醜い生き物がおるんかな。人間って嫌やなって。でも、自分もその人間なんですよね」】
彼の言葉はどれも真摯だし、彼の辿ってきた軌跡については触れたいことが様々にあるが、最後に、「環境」に関する彼の価値観を紹介して終わろうと思う。
【グレたり荒れたりするのにしても、どういう家族環境で育ったかっていうのはたいした理由じゃないと思うんですよ。
だからもし、そういう人たちがいるんだったら、俺から言いたいのは…。偉そうに言うことでもないですけど、いつまでそうやってごまかして逃げていけるんかなっていうこと。どこかで気がつくんですよ。
そのタイミングって、早ければ早いほどいいと思うんですよね。自分の家族環境が複雑やから、恵まれてないから、周りの環境が悪いからっていっても、そこから先、自分で頑張って生きていく時間のほうが長いわけでしょ。たった…。たったって言い方は悪いですけど、人生を四分割で見たときに、四分の一程度の出来事で、残りの四分の三を損するようなことにしてほしくないなっていう。
そういう人たちともっと関わって、話もしてみたいですし。俺のことにしても、あ、こんな奴もいるんだなって思ってもらえるんやったらって。何かのきっかけにして、いままでとは違う生き方、学び方をしていってほしいなって思うんですよね。全然、上から目線とかじゃないんですけど】
まったく。凄い男だよ。
張江泰之「人殺しの息子と呼ばれて」
「恵まれない環境でも、両親が犯罪者でも、自分が犯罪者だったとしても…、俺は犯罪してないですけど、生きてます、生きていけます」】
凄い言葉だな、と思う。彼にしか言えない、とまでは言わないが、しかし、この言葉を説得力を持って口に出来る人間は、そうそういないだろう。
彼は、殺人者の息子だ。しかも、裁判で検察が「鬼畜の所業」と評し、マスコミさえも報道規制するほど、あまりにも凄惨で残虐で例を見ないほどの殺人事件だった。
「北九州 連続監禁殺人事件」
どんな事件なのか、ここでは触れない。僕は、この事件を扱った「消された一家」という本を読んだことがある。とんでもない事件だ。とても、人間の仕業とは思えない。親族同士を殺し合わせるという、常軌を逸した事件だ。
その息子のインタビューを、フジテレビの「ザ・ノンフィクション」という番組で流した。
【常に俺の中にあるのは、申し訳ないな、ということです。理由はなんであれ。だからといって、どうすることもできんわけやし。それをこの十五年間、ずっと逃げて隠してごまかして、生きてきたんです。やりよることは両親と変わらんなって思って。
でも、逃げ続けてばかりいるのではなく、出ていくことで、俺はいまこうしているんですよっていうのを少しでも多くの人に知ってもらえると思うんですね。
ものすごくキツイ意見もあると思うんですよ。なんで生きているんだとか、人殺しの息子が! とか。なんと言われても、生きて誰かのために何かをするって。それを周りの人は偽善やって言うかもしれんけど、他の人にはできん経験をして、人の痛みが人よりわかる。
自分みたいな奴がこれからどうしていくんかってなったときに、もう生きて生きて、生き続けて、自分しかできんことを多くの人にしてあげる。そんな自分になっていくっていうのが、大げさですけど、生まれてきた意味じゃないんかなあって。
当たり前に仕事して、当たり前に生活して、ハイ終わりじゃない。たぶん俺にしかできないことがあると思うんです。いまでも答えは見つかってないんですけどね】
カメラの前で(さすがに顔は映していないが)声を変えずに、こういうことを誠実に答えていく。インタビューのみで構成された、「ザ・ノンフィクション」史上においても異例の番組だった。
反響は、もの凄かった。どういう反響があったのかは、なんとなくここでは伏せておこう。しかし、昼14時から放送される関東ローカルの番組とは思えない、とんでもない反響だった。
何故そんなインタビューを行うことが出来たのか。
きっかけは、クレームだった。
【彼との始まり…。
それは一本の電話であり、私がつくった番組に対する苦情だった。
「あなたはあの番組の責任者の方ですか?俺は松永太と緒方純子の長男です」】
本書の著者は、自身が企画した「追跡!平成オンナの大事件」という番組の中で、彼の両親の事件も取り上げた。そのことへのクレームだった。しかし、ただ闇雲に怒りをぶつけるようなクレームではなかった。彼は確かに、「フジテレビではもう両親の事件を取り上げないでほしい」ということも言っている。しかし、こうも言っているのだ。
【なぜ、あなたは、番組であの事件を取り上げると決めたとき、息子である俺に取材しようと考えなかったのですか?それは、取材者の怠慢じゃないですか】
なかなか変わったクレーム電話だと言えるだろう。一方では、放っておいてほしいという気持ちから、二度と取り上げるな、という。しかしもう一方では、取り上げるならちゃんと取材をすべきではないかと言う。実は著者は、彼の両親の事件を取り上げる際、最後の最後まで子どもたちへの取材をするかどうか悩んだ末、信頼するディレクターに、子どもたちへの取材はしないように頼んだのだ。しかし実際は、その息子本人から連絡が来ることとなった。
顔は出さないが、著者が言い出す前から「声は変えなくていい」と自ら申し出た彼は、「逃げない」という覚悟を持ってこのインタビューに臨んだ。
【今回の件(※「ザ・ノンフィクション」で取り上げられること)に関して、ネットに何か書かれたり、世間の人からなんて言われても、なんとも思わないです。これまでは俺の知らないところで勝手にそういうことをされていて、それに付随して野次が飛んでくるような感じだったので、耐えられなかったんです。今回は自分から発言をしているんで。中途半端な気持ちでこういう風に話もしてないですから】
【たとえばこういうふうに俺が発言してるのをテレビで観たりして、何を偉そうに、何をいまさら、なんでお前が…っていう人たちもいると思うんですけど。そうではなく純粋に興味をもってくれる人、考え方が変わってくれる人、何かのきっかけになる人っていうのもいる気がするんですね。
それって他の人にはできないと思うんです。こういう経験をして、こういう生き方をしてきた俺にしかできんことだと思うんですよ。(こういう取材に答えるようなこともなく)このまんま当たり前にどこかで仕事をして、定年迎えて、年金もらって、死んでいくというのは、なんかちょっと違うなって思ったんです。
何かをやるためにたぶん生まれてきてると思うんで、俺にしか伝えられないことを俺なりのやり方で知ってもらおうかなあと】
【嫌な意見のなかにも、ためになる意見ってたぶんあると思うんです。このヒオはなんでこういうふうに書いたんかなあとか、確かにそれは合ってるなとか。そういう大事な意見はしっかり読み取って吸い上げて、自分のものにして。それ以外の落ち込んだりっていう感情はスルーしようかなって。そういう心構えでインタビューに応じさせてもらいました】
【―ネットを覗かないっていう選択肢もあったと思うんですけど、やはり見てしまったのはどうしてなんですか?
「これは俺の個人的な考えなんですけど、いい意見を伝えてくれる人も、悪い意見を言ってくる人も、理由はなんであれ俺のために時間を使ってくれているという。いちばんはそこですよね。本当に俺に興味がなかったり、イライラしてしょうがないって人たちだったら、書き込みすらしないと思うんです。で、その悪いコメントのなかにも、やっぱり俺のためになるような意見があったり。あらためて考えさせられるようなきっかけになる内容も多かったんで…。見ないという選択肢を俺が選んだときには、いままでの自分と変わらないなってまた逃げるのかって。なので、あえて見ましたね」】
凄いもんだ。なかなかこんな風にはいられないだろう。僕自身は、親が殺人鬼だろうが、子どもは関係ない、と考えている。確率の話でいえば、殺人犯の子どもが殺人犯である可能性はかなり低いだろう。大体、殺人犯ではない親から、殺人犯が生まれる。もちろん、殺人犯の親を持つ場合、境遇の苦しさなどから、犯罪行為に走らざるを得ないことはあるかもしれない。しかしそれは、本人の性質というよりは、環境による部分が大きいだろう。だから、殺人鬼の子どもだろうが、別に関係ないと思える。しかし、世間はそうではないだろう。殺人鬼の子どもだから、という偏見で見たがるだろう。そういう世の中であることを理解した上で、声を変えずにカメラの前で喋り、すべての批判も受け止める覚悟でいる、というのは、並大抵の決意ではない。
今でも彼は、家では夜明かりをつけないそうだし、ドアを開けるとドアの裏側に人がいないか確認してしまうという。そういう癖が、おかしなものだと分かっているが、分かっていても止められないという。職場では人に恵まれているし、色々あって結婚もしているが、しかし子どもを作るつもりは今のところないという。与えてもらった経験がないから、子育てが出来る自信がないからだという。彼の両親は、幼い彼に死体の処理を手伝わせもした。その当時は、その行為にどんな意味があるのか分からなかった(詳細は書かないが、彼は死体を見たわけではないのだ)。しかし、両親の事件について自分で調べ始めると、あの時のあれが実は死体遺棄だったのだ、と気付かされることになる。その記憶は、生々しい異臭の感覚と共に、今も彼を苦しめている。
そんな風に、決して余裕のある状態ではない。しかし彼は闘うことに決めた。彼がこれまで、散々考え、悩み、打ちひしがれてきたことは、彼の発言から伝わってくる。両親が逮捕された時10歳くらいで、小学校に通っていなかった彼は、いきなり小学3年生のクラスに入れられたという。しかし、ひらがなとカタカナしか知らなかった彼は、「漢字」というものの存在が理解できなかったし、「書き言葉」と「話し言葉」が同じものであるという感覚もなかった。異国の言語を口では発音できても意味が分からない、というように、日本語を口から発していてもその意味が分からない、という状態だったという。そんなところから、よくもまあこれほど、自分の頭で考え、自分の言葉で話せる青年になったものだと思う。凄い。
事件当時について語る彼の話は、やはり普通の人生を歩んできた僕らには異次元の世界のものだが、一番印象的だったのは、「おかしいと思っていなかった」という感覚だ。
【いくら子供であっても、それでお腹がふくれるはずはない。それでも彼は「ご飯を与えてもらっている」「食べさせてもらっている」「こんなに出来の悪い自分なのに」という感覚になっていたのだという。理不尽きわまりないことだ。
だが、その当時の彼は、「親父の言うこと、やることに間違いはなく、正解なんだ」と考えていた。それが“彼にとっての常識”になっていたからだ】
【「なんでそれがダメなのかという、ちゃんとした理由や説明はなかった。とりあえず親父がしてほしくない、親父がされたらバツが悪いことをした場合はものすごく痛くて苦しい思いをするぞっていう、しつけのされ方をずっとされてきたんで」
―当時、それがおかしいことだとは?
「まった。まったくなんとも思ってなかったですね」】
先程紹介した、この事件を扱ったノンフィクションである「消された一家」を読んで、感覚的にどうしても捉えきれなかったのが、「何故その状態をおかしいと思えないのか」ということだった。主犯である松永太に服従させられていた被害者たちが殺し合いをさせられていたわけだが、ごく一般的な感覚でいえば、「おかしい」と思ってしまうし、「おかしいと思いながらも従うしかない」という諦念なんだろう、と受け入れるしかない。しかし、彼が幼い子供だったということも関係しているだろうが、そもそもその状況を「おかしい」と判断できなくなっている、という話は、誰もが被害者になり得るという現実を描き出しているなと思う。
保護され、児童相談所で生活するようになった彼の日常は、彼のこんな言葉に集約できるだろう。
【結局、何をやっても、そういう壁に当たるんですよね。親がいないから、身寄りがないからって。どんだけ頑張っても、結局、またこれかと思って。先のことになるけど、携帯を持つのも、免許を取るのも、働くのも、家を借りるのも、何するにしてもこれだけ不便なんやって。そういうことにぶち当たるたびに自信をなくすんです。これって俺がどうこうって問題じゃなよね、と】
彼には、未成年後見人になってくれる大人(仮名だが田中氏)が現れ、それまで両親のことを聞かれると事件の話を避けるわけにはいかなかったが、田中氏のお陰でその状況が変わった。その田中氏はこんな風に言っている。
【ある意味、彼らは、犯罪者よりも冷遇されますから】
犯罪を犯したものが辛い人生を歩まざるを得ないのはある程度仕方ない(とはいえ、刑務所から出た人間を冷遇することで、犯罪者が社会にいられず、刑務所へと逆戻りしてしまいがちな世の中はどうかと思うけど)。しかし、犯罪者の家族は関係ないだろ、と思う。特に今回の場合は、両親だ。子供が、両親の犯罪に対して責任を負わなければならない理屈は、僕にはよく分からない。しかし日本では、異なる人間を排除したがる風潮が強すぎるために、犯罪者の子供というだけで冷遇されてしまう。僕は正直、犯罪を犯し罪を償った者ときちんと関係性を築けるかと聞かれると、たぶん大丈夫だと思うが自信を持ってYESとは言えない。しかし、犯罪者の家族だったら、まず大丈夫だろうと思う。著者は、自分が表に出ることで、様々にしんどさを抱えている人のためになればと思っている。僕自身も、彼と比べればまったく何も起こっていないに等しいけど、僕なりに人生でしんどさを感じてきたし、そういう自分だからこそ出来ることがあるんじゃないかと思っている。僕は、世間が拒絶するような人でも受け入れたいなぁといつも思っている。
【小学生の頃、獣医師になりたい気持ちがあったのにしても、動物は素直で「言葉の裏を読んだりする必要がない」というのが理由のひとつになっていた。(中略)
「で、人間と関わると、また失望するんです。嘘ついて、ごまかして、こんなに醜い生き物がおるんかな。人間って嫌やなって。でも、自分もその人間なんですよね」】
彼の言葉はどれも真摯だし、彼の辿ってきた軌跡については触れたいことが様々にあるが、最後に、「環境」に関する彼の価値観を紹介して終わろうと思う。
【グレたり荒れたりするのにしても、どういう家族環境で育ったかっていうのはたいした理由じゃないと思うんですよ。
だからもし、そういう人たちがいるんだったら、俺から言いたいのは…。偉そうに言うことでもないですけど、いつまでそうやってごまかして逃げていけるんかなっていうこと。どこかで気がつくんですよ。
そのタイミングって、早ければ早いほどいいと思うんですよね。自分の家族環境が複雑やから、恵まれてないから、周りの環境が悪いからっていっても、そこから先、自分で頑張って生きていく時間のほうが長いわけでしょ。たった…。たったって言い方は悪いですけど、人生を四分割で見たときに、四分の一程度の出来事で、残りの四分の三を損するようなことにしてほしくないなっていう。
そういう人たちともっと関わって、話もしてみたいですし。俺のことにしても、あ、こんな奴もいるんだなって思ってもらえるんやったらって。何かのきっかけにして、いままでとは違う生き方、学び方をしていってほしいなって思うんですよね。全然、上から目線とかじゃないんですけど】
まったく。凄い男だよ。
張江泰之「人殺しの息子と呼ばれて」
夜、眠る前に読むと心が「ほっ」とする50の物語(西沢泰生)
内容に入ろうと思います。
本書は、【いつも忙しく毎日を過ごしている大人のための、「読む子守唄」】です。
僕は、本書は「小説」なんだと思ってました。いわゆる、50個のショートショートが収録された作品なんだろうな、と。でもそうじゃなかったみたいです。本書は「物語」と書いてあるけど、基本的には実際の話です。色んな本から引っ張ってきた話とか、著者自身の個人的な体験とか、その話の程度は様々ですけど、とにかく「実際にこんな心温まる話がありましたよ」というような話が50個収録されている本でした。
凄く面白いわけではないけど、確かに、夜寝る前に1編ずつ読んでみるのもアリか、と思わせる作品ではありました。実際にあった話だから説得力があるし、「なるほどなぁ」とか「しんみり」とか「いい話だなー」と思わせるようなものが多い感じでした。とはいえ、それほど強いエピソードが載っているわけでもないんで、確かに「子守唄」というか、最後まで読み終わった時に覚えている話がいくつあるか、というのはちょっとなんとも言えない感じだなと思いました。
例えばどういう話が載っているのか。有名人の話は避けて、ある美術教師の話をしましょう。その美術教師は、生徒が木を紫に塗っているのを見て、木はこういう色じゃないんじゃないかと言いますが、その子は、「一番好きな木に、一番好きな色である紫をあげたんだ」と主張して譲りませんでした。それを聞いた美術教師は、学校の評価としては5をつけてあげられないけど、先生にとっては金メダルだったと、お手製の金メダルを渡したそうです。その後、その美術教師はふと思いついてそのエピソードをラジオに投稿したところ、その時の子ども(大学生になっていた)がたまたま聞いていて、当時の金メダルと一緒に映った写真が手紙に同封されていた、というようなお話。
なんてことないっちゃあなんてことない話ですけど、確かに、疲れている時とかやさぐれている時にこういう話を読むと、心がほぐれるかもしれないな、と思いました。色んな本から採ってるだろう話で、著者のオリジナリティはあまり感じられない作品ですけど、どういうエピソードを拾い集めてくるのか、という部分に著者なりオリジナリティがあるんだろうと思います。
西沢泰生「夜、眠る前に読むと心が「ほっ」とする50の物語」
本書は、【いつも忙しく毎日を過ごしている大人のための、「読む子守唄」】です。
僕は、本書は「小説」なんだと思ってました。いわゆる、50個のショートショートが収録された作品なんだろうな、と。でもそうじゃなかったみたいです。本書は「物語」と書いてあるけど、基本的には実際の話です。色んな本から引っ張ってきた話とか、著者自身の個人的な体験とか、その話の程度は様々ですけど、とにかく「実際にこんな心温まる話がありましたよ」というような話が50個収録されている本でした。
凄く面白いわけではないけど、確かに、夜寝る前に1編ずつ読んでみるのもアリか、と思わせる作品ではありました。実際にあった話だから説得力があるし、「なるほどなぁ」とか「しんみり」とか「いい話だなー」と思わせるようなものが多い感じでした。とはいえ、それほど強いエピソードが載っているわけでもないんで、確かに「子守唄」というか、最後まで読み終わった時に覚えている話がいくつあるか、というのはちょっとなんとも言えない感じだなと思いました。
例えばどういう話が載っているのか。有名人の話は避けて、ある美術教師の話をしましょう。その美術教師は、生徒が木を紫に塗っているのを見て、木はこういう色じゃないんじゃないかと言いますが、その子は、「一番好きな木に、一番好きな色である紫をあげたんだ」と主張して譲りませんでした。それを聞いた美術教師は、学校の評価としては5をつけてあげられないけど、先生にとっては金メダルだったと、お手製の金メダルを渡したそうです。その後、その美術教師はふと思いついてそのエピソードをラジオに投稿したところ、その時の子ども(大学生になっていた)がたまたま聞いていて、当時の金メダルと一緒に映った写真が手紙に同封されていた、というようなお話。
なんてことないっちゃあなんてことない話ですけど、確かに、疲れている時とかやさぐれている時にこういう話を読むと、心がほぐれるかもしれないな、と思いました。色んな本から採ってるだろう話で、著者のオリジナリティはあまり感じられない作品ですけど、どういうエピソードを拾い集めてくるのか、という部分に著者なりオリジナリティがあるんだろうと思います。
西沢泰生「夜、眠る前に読むと心が「ほっ」とする50の物語」
予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」(ダン・アリエリー)
行動経済学の本は時々読むけど、やっぱり面白いなぁ。
本書は、大ベストセラーとなった行動経済学の本の翻訳で、非常に日常的なテーマを確認するために様々な実験をしている著者のこれまでの研究結果です。
まず、行動経済学というものを知らない人のためにざっと説明しましょう。
従来の経済学では、人間は「合理的」に振る舞う、とされています。これは、【わたしたちが自分について正しい決断をくだせるという、単純で説得力のある考え方】のことです。従来の経済学は、こういう大前提の元に組み立てられているわけです。
ただ、僕らが自分で気付いているように、人間は全然「合理的」には決断しません。例えば本書にある例としては、「無料」の話が分かりやすいでしょう。ちょっと高級なチョコ(リンツのトリュフ)を15セント、庶民的なチョコ(キスチョコ)を1セントに設定した場合、その高級なチョコが15セントで販売されているのは安いぞ、という感覚が強くあって、73%の人が高級なチョコを選ぶ。でも、それぞれを1セントずつ値段を下げる、つまり、高級なチョコを14セント、庶民的なチョコを0セント(つまり無料)にすると、今度は69%もの人が庶民的なチョコを選んだのです。
従来の経済学でいえば、どちらも1セント値段が下がっていて、相対的な価値は変わっていないのだから、庶民的なチョコが無料になっても、73%の人はやはり高級なチョコを選ぶはず、ということになります。しかし実際には、人間は「合理的」な判断をしないので、無料になった途端、庶民的なチョコが一気に人気になってしまうのです。
このように、人間は「合理的ではない」決断をするわけです。しかし、ここが重要なポイントですけど、【わたしの考えでは、わたしたちは不合理なだけでなく、「予想どおりに不合理」】なのです。どういうことか。つまり、「どんな風に不合理であるのか予測できる」というわけです。
【ところが、本書でこれから見ていくように、わたしたちはふつうの経済理論が想定するより、はるかに合理性を欠いている。そのうえ、わたしたちの不合理な行動はでたらめでも無分別でもない。規則性があって、何度も繰り返してしまうため、予想もできる。だとすれば、ふつうの経済学を修正し、未検証の心理学という状態(推論や、考察や、何より重要な実証的な研究による検証に堪えないことが多い)から抜けだすのが懸命ではないだろうか。これこそまさに、行動経済学という新しい分野であり、その小さな一旦を担う本書の目指すところだ】
行動経済学というのは、割と新しい分野で、解説によると、【行動経済学者のカーネマン教授が2002年にノーベル賞を受賞したことで、この分野は社会の注目を集めるようになった】ようです。本書では、食事、買い物、恋愛、お金、正直さなど、僕らの日常に関係の大きな事柄について、実際に実験することによって人間の行動を捉え、その奥にある「予想どおりの不合理さ」を理解しようとします。本書を読めば、僕らがいかに様々な事柄に騙されながら色んな決断をしているのかが理解できると思います。「いや、自分はそんな騙されるようなことはない!」と思っている人でも、本書を読めば考えが変わると思います。それぐらい、非常に些細な事柄によって、僕らの決断はあっさりと変わってしまいます。
例えば、本書の最初に紹介されている例を挙げてみましょう。これは、「エコノミスト・ドット・コム」という、エコノミスト誌の年間購読に関する実際にあるWEBサイトが発端になっている。
このWEBサイトでは、3パターン提示されている。
A エコノミスト誌のWEB版の購読(59USドル)
B エコノミスト誌の印刷版の購読(125USドル)
C エコノミスト誌のWEB版と印刷版のセット購読(125USドル)
さて、あなたならどれを選ぶだろうか?
正直、僕は「A」なのだけど、MITの学生100人に選ばせたところ、
「A」16人 「B」0人 「C」84人
と、圧倒的に「C」が人気だった。
さて、今度は別の学生100人に、以下のような選択肢を提示した。
A エコノミスト誌のWEB版の購読(59USドル)
C エコノミスト誌のWEB版と印刷版のセット購読(125USドル)
つまり、「B」だけ外したのだ。普通に考えれば、先程「B」を選んだ人はいなかったのだから、「B」があろうがなかろうが「A」と「C」は同じように選ばれるはずだ。しかし結果は、
「A」68人 「C」32人
となった。どうだろう?あなたも、前者なら「C」を、後者なら「A」を選んでしまうのではないだろうか?
何故こうなるのか。それは、比較のしやすさにある。「A」と「C」のどちらがいいかは、ちょっと考えてもはっきりとは分からない。だから、「A」と「C」の2つの選択肢の場合、値段が安い方が選ばれやすい。しかし、選択肢が「A」「B」「C」と3つある場合には状況が違う。「B」と「C」は、どちらが良いか明らかに判断できる。「C」の方が、値段が同じでWEB版もついてくるのだから、明白だ。そして人間は、比較しやすいものばかりに注目し、比較しにくいものは無視しがちなのだという。だから上記のような結果になるのだ。
これを踏まえると、「最も選んでほしい選択肢がある場合、それとほぼ同じだけど見劣りする選択肢を入れておくことで、最も選んでほしい選択肢が選ばれる可能性が高くなる」といえることになる。
こう説明されると、僕らは自分の決断を「合理的」だと感じていても、うまく操作されてしまっている、という疑いを捨てきれないのではないかと思う。
本書にはこのように、実生活に即した様々な実験とその考察が描かれている。印象的だったものにいくつか触れていこう。
まず、僕らが物事を判断する際の2つの規範、「市場規範」と「社会規範」を明らかにする実験はなかなか面白かった。「市場規範」というのは、要するに金銭によって評価されるものであり、「社会規範」というのは、名誉や奉仕の心などによってなされるものだ。
そして「お金」が絡むことで、それまで「社会規範」として判断されていたことが、「市場規範」で判断されてしまい、そのことが全体をマイナスに動かしていく、ということを明らかにしていく。実験はいくつか行われていて、例えば「無料でクッキーを配る場合」と「安い値段でクッキーを売る場合」を考える。無料の場合は、「社会規範」で判断するので、「自分がたくさん持っていっては他の人の分がなくなってしまうかもしれない」と考えて、持っていく数は慎ましくなる。しかし安い値段の場合は、「社会規範」ではなく「市場規範」で判断されるので、人は自分が買う個数を制限しないという。また、これは実験ではないが、イスラエルの託児所で、子どものお迎えに遅刻したら罰金というルールを課したら、「社会規範」から「市場規範」に切り替わったことで、罰金を払えば遅刻してもいい、と判断するようになり遅刻が増えたという。また、その状態から罰金をなくしても、「市場規範」から「社会規範」に戻らなかったという。
また同じような話で言えば、「お金」は盗まないが、「お金」から一歩離れると人は簡単にそれを盗んでいい、と感じるという話も面白い。著者は、学生の共同冷蔵庫に「コーラ」と「お金」をこっそり入れておいたという。「コーラ」の方は72時間以内にすべてなくなったが、「お金」の方は誰も持っていかなかったという。また、何らかの不正をする場合も、直接「お金」が絡む場合は抑止力が働くが、「すぐにお金と交換できる引換券」を間に挟むことで、一気に不正をする人間が増えた、という実験の話も非常に興味深い。
また、不正に関して言えば、不正する直前に「十戒」を思い出させる(全部書き出せなくても、思い出させるだけでいい)だけで、不正をする人間が激減する、という話も非常に面白い。あくまでもこれは、不正をしようとする直前でないと効果がないと判明しているようで、常に「十戒」(「十戒」でなくてもいいのだけど)を思い浮かべていてもあまり効果はない。
ビールにバルサミコ酢を入れる実験も面白い。これは、「知識が味覚に影響を与えるか」という実験だ。その事実を知らせた場合と、知らせなかった場合では、知らせなかった場合の方が「美味しい」という評価は高かった。つまり人間は、食べ物に関する「情報」を取り込むことで、実際に味覚に変化が出るのだ。これは、コカ・コーラとペプシコーラの実験でも同じ結果が出ている。人は、「コカ・コーラ」だと分かって飲む場合、ペプシコーラよりもコカ・コーラが人気だが、「コカ・コーラかペプシコーラか分からない状態」で飲ませると、ペプシコーラの方が美味しいと判断されるらしい。
また、似たようなものとしてプラセボ効果がある。プラセボ効果は有名だろうが、要するに、ただのビタミン剤でも、良く効く薬だと医者が言って渡せば実際に効いてしまう、というものだ。薬のこういう効果については前から知っていたが、手術についても同じだというのは本書で初めて知った。ある外科手術が本当に効果あるのか疑問に思った医者は、患者に対して、「その手術を実際に行った場合」と「実際にメスを入れて開腹しているが、その手術は行わずただ縫合した場合」とで比較した場合、どちらも同じように効果が出た、という論文が存在する。著者はまた、プラセボ効果が、薬の値段によって効果に差が出るのか、という実験を行っている。
また、社会の中で不信感が募っていることを明らかにする実験も興味深い。著者らは、「太陽は赤い」「ラクダはイヌより大きい」など、曖昧さのない明らかに正しい記述について、正しいと思うかどうか尋ねたところ、当然だが100%の人が正しいと答えた。今度は別のグループに、「太陽は赤い」などの記述が、「P&G」「民主党」「共和党」のいずれかが出典だと伝えたところ、例えば、「民主党」が「太陽は赤い」と伝えられたグループは、その記述を疑い始めたという。そして、こういう不信の輪がどのように広まってしまうのかについても書かれている。
他にも色々面白い実験はあるのだけど、これぐらいにしておこう。とにかく読めば、自分の過去の決断を振り返りたくなるだろう。正しい決断をすることは誰にとっても困難だが、「どういう困難さがあるのか」をきちんと理解しておけば、間違いを回避できる可能性はある。なるべく間違った決断をしないように(より「合理的」な決断ができるように)、人間の不合理さの本質について理解しておくことは重要だと思います。
ダン・アリエリー「予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」」
本書は、大ベストセラーとなった行動経済学の本の翻訳で、非常に日常的なテーマを確認するために様々な実験をしている著者のこれまでの研究結果です。
まず、行動経済学というものを知らない人のためにざっと説明しましょう。
従来の経済学では、人間は「合理的」に振る舞う、とされています。これは、【わたしたちが自分について正しい決断をくだせるという、単純で説得力のある考え方】のことです。従来の経済学は、こういう大前提の元に組み立てられているわけです。
ただ、僕らが自分で気付いているように、人間は全然「合理的」には決断しません。例えば本書にある例としては、「無料」の話が分かりやすいでしょう。ちょっと高級なチョコ(リンツのトリュフ)を15セント、庶民的なチョコ(キスチョコ)を1セントに設定した場合、その高級なチョコが15セントで販売されているのは安いぞ、という感覚が強くあって、73%の人が高級なチョコを選ぶ。でも、それぞれを1セントずつ値段を下げる、つまり、高級なチョコを14セント、庶民的なチョコを0セント(つまり無料)にすると、今度は69%もの人が庶民的なチョコを選んだのです。
従来の経済学でいえば、どちらも1セント値段が下がっていて、相対的な価値は変わっていないのだから、庶民的なチョコが無料になっても、73%の人はやはり高級なチョコを選ぶはず、ということになります。しかし実際には、人間は「合理的」な判断をしないので、無料になった途端、庶民的なチョコが一気に人気になってしまうのです。
このように、人間は「合理的ではない」決断をするわけです。しかし、ここが重要なポイントですけど、【わたしの考えでは、わたしたちは不合理なだけでなく、「予想どおりに不合理」】なのです。どういうことか。つまり、「どんな風に不合理であるのか予測できる」というわけです。
【ところが、本書でこれから見ていくように、わたしたちはふつうの経済理論が想定するより、はるかに合理性を欠いている。そのうえ、わたしたちの不合理な行動はでたらめでも無分別でもない。規則性があって、何度も繰り返してしまうため、予想もできる。だとすれば、ふつうの経済学を修正し、未検証の心理学という状態(推論や、考察や、何より重要な実証的な研究による検証に堪えないことが多い)から抜けだすのが懸命ではないだろうか。これこそまさに、行動経済学という新しい分野であり、その小さな一旦を担う本書の目指すところだ】
行動経済学というのは、割と新しい分野で、解説によると、【行動経済学者のカーネマン教授が2002年にノーベル賞を受賞したことで、この分野は社会の注目を集めるようになった】ようです。本書では、食事、買い物、恋愛、お金、正直さなど、僕らの日常に関係の大きな事柄について、実際に実験することによって人間の行動を捉え、その奥にある「予想どおりの不合理さ」を理解しようとします。本書を読めば、僕らがいかに様々な事柄に騙されながら色んな決断をしているのかが理解できると思います。「いや、自分はそんな騙されるようなことはない!」と思っている人でも、本書を読めば考えが変わると思います。それぐらい、非常に些細な事柄によって、僕らの決断はあっさりと変わってしまいます。
例えば、本書の最初に紹介されている例を挙げてみましょう。これは、「エコノミスト・ドット・コム」という、エコノミスト誌の年間購読に関する実際にあるWEBサイトが発端になっている。
このWEBサイトでは、3パターン提示されている。
A エコノミスト誌のWEB版の購読(59USドル)
B エコノミスト誌の印刷版の購読(125USドル)
C エコノミスト誌のWEB版と印刷版のセット購読(125USドル)
さて、あなたならどれを選ぶだろうか?
正直、僕は「A」なのだけど、MITの学生100人に選ばせたところ、
「A」16人 「B」0人 「C」84人
と、圧倒的に「C」が人気だった。
さて、今度は別の学生100人に、以下のような選択肢を提示した。
A エコノミスト誌のWEB版の購読(59USドル)
C エコノミスト誌のWEB版と印刷版のセット購読(125USドル)
つまり、「B」だけ外したのだ。普通に考えれば、先程「B」を選んだ人はいなかったのだから、「B」があろうがなかろうが「A」と「C」は同じように選ばれるはずだ。しかし結果は、
「A」68人 「C」32人
となった。どうだろう?あなたも、前者なら「C」を、後者なら「A」を選んでしまうのではないだろうか?
何故こうなるのか。それは、比較のしやすさにある。「A」と「C」のどちらがいいかは、ちょっと考えてもはっきりとは分からない。だから、「A」と「C」の2つの選択肢の場合、値段が安い方が選ばれやすい。しかし、選択肢が「A」「B」「C」と3つある場合には状況が違う。「B」と「C」は、どちらが良いか明らかに判断できる。「C」の方が、値段が同じでWEB版もついてくるのだから、明白だ。そして人間は、比較しやすいものばかりに注目し、比較しにくいものは無視しがちなのだという。だから上記のような結果になるのだ。
これを踏まえると、「最も選んでほしい選択肢がある場合、それとほぼ同じだけど見劣りする選択肢を入れておくことで、最も選んでほしい選択肢が選ばれる可能性が高くなる」といえることになる。
こう説明されると、僕らは自分の決断を「合理的」だと感じていても、うまく操作されてしまっている、という疑いを捨てきれないのではないかと思う。
本書にはこのように、実生活に即した様々な実験とその考察が描かれている。印象的だったものにいくつか触れていこう。
まず、僕らが物事を判断する際の2つの規範、「市場規範」と「社会規範」を明らかにする実験はなかなか面白かった。「市場規範」というのは、要するに金銭によって評価されるものであり、「社会規範」というのは、名誉や奉仕の心などによってなされるものだ。
そして「お金」が絡むことで、それまで「社会規範」として判断されていたことが、「市場規範」で判断されてしまい、そのことが全体をマイナスに動かしていく、ということを明らかにしていく。実験はいくつか行われていて、例えば「無料でクッキーを配る場合」と「安い値段でクッキーを売る場合」を考える。無料の場合は、「社会規範」で判断するので、「自分がたくさん持っていっては他の人の分がなくなってしまうかもしれない」と考えて、持っていく数は慎ましくなる。しかし安い値段の場合は、「社会規範」ではなく「市場規範」で判断されるので、人は自分が買う個数を制限しないという。また、これは実験ではないが、イスラエルの託児所で、子どものお迎えに遅刻したら罰金というルールを課したら、「社会規範」から「市場規範」に切り替わったことで、罰金を払えば遅刻してもいい、と判断するようになり遅刻が増えたという。また、その状態から罰金をなくしても、「市場規範」から「社会規範」に戻らなかったという。
また同じような話で言えば、「お金」は盗まないが、「お金」から一歩離れると人は簡単にそれを盗んでいい、と感じるという話も面白い。著者は、学生の共同冷蔵庫に「コーラ」と「お金」をこっそり入れておいたという。「コーラ」の方は72時間以内にすべてなくなったが、「お金」の方は誰も持っていかなかったという。また、何らかの不正をする場合も、直接「お金」が絡む場合は抑止力が働くが、「すぐにお金と交換できる引換券」を間に挟むことで、一気に不正をする人間が増えた、という実験の話も非常に興味深い。
また、不正に関して言えば、不正する直前に「十戒」を思い出させる(全部書き出せなくても、思い出させるだけでいい)だけで、不正をする人間が激減する、という話も非常に面白い。あくまでもこれは、不正をしようとする直前でないと効果がないと判明しているようで、常に「十戒」(「十戒」でなくてもいいのだけど)を思い浮かべていてもあまり効果はない。
ビールにバルサミコ酢を入れる実験も面白い。これは、「知識が味覚に影響を与えるか」という実験だ。その事実を知らせた場合と、知らせなかった場合では、知らせなかった場合の方が「美味しい」という評価は高かった。つまり人間は、食べ物に関する「情報」を取り込むことで、実際に味覚に変化が出るのだ。これは、コカ・コーラとペプシコーラの実験でも同じ結果が出ている。人は、「コカ・コーラ」だと分かって飲む場合、ペプシコーラよりもコカ・コーラが人気だが、「コカ・コーラかペプシコーラか分からない状態」で飲ませると、ペプシコーラの方が美味しいと判断されるらしい。
また、似たようなものとしてプラセボ効果がある。プラセボ効果は有名だろうが、要するに、ただのビタミン剤でも、良く効く薬だと医者が言って渡せば実際に効いてしまう、というものだ。薬のこういう効果については前から知っていたが、手術についても同じだというのは本書で初めて知った。ある外科手術が本当に効果あるのか疑問に思った医者は、患者に対して、「その手術を実際に行った場合」と「実際にメスを入れて開腹しているが、その手術は行わずただ縫合した場合」とで比較した場合、どちらも同じように効果が出た、という論文が存在する。著者はまた、プラセボ効果が、薬の値段によって効果に差が出るのか、という実験を行っている。
また、社会の中で不信感が募っていることを明らかにする実験も興味深い。著者らは、「太陽は赤い」「ラクダはイヌより大きい」など、曖昧さのない明らかに正しい記述について、正しいと思うかどうか尋ねたところ、当然だが100%の人が正しいと答えた。今度は別のグループに、「太陽は赤い」などの記述が、「P&G」「民主党」「共和党」のいずれかが出典だと伝えたところ、例えば、「民主党」が「太陽は赤い」と伝えられたグループは、その記述を疑い始めたという。そして、こういう不信の輪がどのように広まってしまうのかについても書かれている。
他にも色々面白い実験はあるのだけど、これぐらいにしておこう。とにかく読めば、自分の過去の決断を振り返りたくなるだろう。正しい決断をすることは誰にとっても困難だが、「どういう困難さがあるのか」をきちんと理解しておけば、間違いを回避できる可能性はある。なるべく間違った決断をしないように(より「合理的」な決断ができるように)、人間の不合理さの本質について理解しておくことは重要だと思います。
ダン・アリエリー「予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」」
風はずっと吹いている(長崎尚志)
内容に入ろうと思います。
広島家廿日市の森の中で、民俗学を学んでいる学生が人骨を発見した。それは、奇妙だった。全身の骨が一体と、頭蓋骨が一つあったのだ。調べてみると、全身の骨の方は白人の女性、頭蓋骨の方はアジア系の男性と判明した。そもそも殺人かどうかも不明だが、広島県警の刑事である矢田誠は現場に派遣された。被害者の名前すら分からない、という雲を掴むような捜査ではあるが、細い線を頼りに調べ始める。
一方、中国地方最大手の警備会社に勤める蓼丸は、閣僚経験もある与党の大物政治家・久都内博和が出席するシンポジウムの警備を担当することになった。元刑事であり、ちょっと事情があって警察を辞めざるを得なかった蓼丸は、その警備の最中。かつて因縁のあった男を目撃する。土井という名前で、一時期ある事件の主犯格と睨んでいたのだが、いつの間にか久都内の秘書に収まっていたようだ。蓼丸にも関係する過去の事件は、まだしこりが残っている。そこで蓼丸は、土井と、その雇い主である久都内を調べてみることにした。
さて、時代は大きく遡って、原爆が落とされて以降の焼け野原の広島が舞台。そこでは、原爆によって両親を失い、孤児となった者たちが、なんとか生き延びていた。そういう中で、仕事によって得た報酬を皆で分け合い、集団で生き延びようする子供たちがいた。来栖という少年をトップにし、靴磨きやかっぱらいなどをしながら、みんなで必死で毎日やり過ごしていた。仲間はどんどん増えていき、そして彼らはある時から、想像を絶する商売を始める。そのことが、少年たちの関係を、そして未来の自分たちの人生を大きく変えていくことになる…。
というような話です。
読み始めから、どうもしっくり来ないなぁ、という感覚を拭えないまま読み進めていました。読みながら、どうして自分はこの物語にしっくり来ないのかをずっと考えていたんだけど、どうにもうまく捉えきれませんでした。
物語がちょっと複雑だなぁ、という感じはあります。人間関係が錯綜していて、しかも3つの視点が入り乱れる。誰が誰なんやら分からなくなっていくような感覚があって、ついていくのが難しい、という感じはありました。
しかしそれよりやはり、キャラクターにどうしても魅力を感じられなかった、ということが大きい気がします。どの登場人物からも僕は、どうにも「体温」的なものを感じられなかったなぁ、と思ってしまいました。あくまでも僕の感じ方ですが、その点が、しっくり来ない一番の理由かなぁ、と思います。
最初にその違和感を抱いたのは、刑事の矢田です。この矢田という男は、「殺人を何よりも憎み、なんとしてでも犯人を捕まえたい」と思っている熱血な刑事なのですが、どうもそれがうまく伝わってこない。それを伝えたいのだろうなぁ、という描写は随所に出てくるのだけど、どうも唐突な気がしてしまうし、しっくり来ない。他の人物も、どうにも僕的にはピントが合わなくて、最後まで魅力的だと感じられる人物がいなかったなぁ、という感じがします。
あとは、「原爆」が物語の核にあるんだけど、それが、ただただ「物語のための手段」に見えてしまうのも、ちょっともったいない気がします。凄く悪い言い方をすると、「本書のような物語を成立させるために、原爆という手段を拝借した」という風にも受け取れてしまうなぁ、という気がしました。やはり物語の中で「原爆」というものを扱うのであれば、もう少し「原爆」というものの扱いを丁寧にした方がいいんじゃないかなぁ、と思ってしまいました。
かなり厳しい評価になってしまったなぁ…。
長崎尚志「風はずっと吹いている」
広島家廿日市の森の中で、民俗学を学んでいる学生が人骨を発見した。それは、奇妙だった。全身の骨が一体と、頭蓋骨が一つあったのだ。調べてみると、全身の骨の方は白人の女性、頭蓋骨の方はアジア系の男性と判明した。そもそも殺人かどうかも不明だが、広島県警の刑事である矢田誠は現場に派遣された。被害者の名前すら分からない、という雲を掴むような捜査ではあるが、細い線を頼りに調べ始める。
一方、中国地方最大手の警備会社に勤める蓼丸は、閣僚経験もある与党の大物政治家・久都内博和が出席するシンポジウムの警備を担当することになった。元刑事であり、ちょっと事情があって警察を辞めざるを得なかった蓼丸は、その警備の最中。かつて因縁のあった男を目撃する。土井という名前で、一時期ある事件の主犯格と睨んでいたのだが、いつの間にか久都内の秘書に収まっていたようだ。蓼丸にも関係する過去の事件は、まだしこりが残っている。そこで蓼丸は、土井と、その雇い主である久都内を調べてみることにした。
さて、時代は大きく遡って、原爆が落とされて以降の焼け野原の広島が舞台。そこでは、原爆によって両親を失い、孤児となった者たちが、なんとか生き延びていた。そういう中で、仕事によって得た報酬を皆で分け合い、集団で生き延びようする子供たちがいた。来栖という少年をトップにし、靴磨きやかっぱらいなどをしながら、みんなで必死で毎日やり過ごしていた。仲間はどんどん増えていき、そして彼らはある時から、想像を絶する商売を始める。そのことが、少年たちの関係を、そして未来の自分たちの人生を大きく変えていくことになる…。
というような話です。
読み始めから、どうもしっくり来ないなぁ、という感覚を拭えないまま読み進めていました。読みながら、どうして自分はこの物語にしっくり来ないのかをずっと考えていたんだけど、どうにもうまく捉えきれませんでした。
物語がちょっと複雑だなぁ、という感じはあります。人間関係が錯綜していて、しかも3つの視点が入り乱れる。誰が誰なんやら分からなくなっていくような感覚があって、ついていくのが難しい、という感じはありました。
しかしそれよりやはり、キャラクターにどうしても魅力を感じられなかった、ということが大きい気がします。どの登場人物からも僕は、どうにも「体温」的なものを感じられなかったなぁ、と思ってしまいました。あくまでも僕の感じ方ですが、その点が、しっくり来ない一番の理由かなぁ、と思います。
最初にその違和感を抱いたのは、刑事の矢田です。この矢田という男は、「殺人を何よりも憎み、なんとしてでも犯人を捕まえたい」と思っている熱血な刑事なのですが、どうもそれがうまく伝わってこない。それを伝えたいのだろうなぁ、という描写は随所に出てくるのだけど、どうも唐突な気がしてしまうし、しっくり来ない。他の人物も、どうにも僕的にはピントが合わなくて、最後まで魅力的だと感じられる人物がいなかったなぁ、という感じがします。
あとは、「原爆」が物語の核にあるんだけど、それが、ただただ「物語のための手段」に見えてしまうのも、ちょっともったいない気がします。凄く悪い言い方をすると、「本書のような物語を成立させるために、原爆という手段を拝借した」という風にも受け取れてしまうなぁ、という気がしました。やはり物語の中で「原爆」というものを扱うのであれば、もう少し「原爆」というものの扱いを丁寧にした方がいいんじゃないかなぁ、と思ってしまいました。
かなり厳しい評価になってしまったなぁ…。
長崎尚志「風はずっと吹いている」
そのうちなんとかなるだろう(内田樹)
世の中にはたくさん、「成功法則」を書いた本が出ている。そういう本を積極的に読むわけではないが、読むことがあると、いつも疑問に感じることがある。
それは、
「何故あなたは【それ】を成功の秘訣だと考えたのか?」
ということだ。
例えば、
「ダイエット出来たのは走ったお陰だ」
という主張は、まあ分かりやすい。これに疑問を感じる人はいないだろう。では、
「ダイエット出来たのはブロッコリーをたくさん食べたお陰だ」
はどうだろう。ちょっと厳しい気もするが、「ブロッコリーにはもしかしたら痩せる成分とか含まれてるのか」と、無理やり考えることはできる。では、
「ダイエット出来たのはジャージを履いているお陰だ」
となるとどうだろう?さすがにここに、関連性を見出すのはなかなか難しいのではないだろうか。
しかし、考えてみると、では何故「ダイエット」と「走る」に関係がある、と感じるのか?ちゃんと説明してくれ、と言われたら出来ない人が多いのではないだろうか。もちろん、運動生理学などを勉強している人であれば、「一日◯分走ることで、××筋が収縮し、△△の血中濃度が高まるので云々かんぬん」みたいな説明は出来るかもしれないが、普通の人には無理だろう。ということはそれは、ただのイメージでしかない、ということだ。「なんとなく関連性がありそうだな」という理由で、「ダイエット」と「走る」を繋げているに過ぎない。
そう考えると、「ダイエット出来たのは走ったお陰だ」も「ダイエット出来たのはジャージを履いているお陰だ」も、正直、主張そのものとしては大差ない、と言える。
結局これは、「自分がどの変化にしているかの違い」でしかない。ダイエットが成功するまでには、色んな変化があったはずだ。その期間たまたまホラー好きな彼氏と付き合っていてホラー映画をたくさん見たとか、口紅を変えたとか、引っ越したとか、仕事で何故か褒められることが続いたとか、いつも通勤に使っている道路で工事が始まったとか、PM2.5が増え始めたとか、保有している株が下がったとか、妹に子どもが生まれたとか…。考え始めれば、ダイエットを始めてからの身の回りの「変化」というのは様々に考えられる。正直なところ、そのどれもが「ダイエットの成功要因」であってもおかしくないはずだ。しかしダイエットに成功した人は、その「変化」の中から、「もっとも納得しやすい変化」を抜き出して、それを「ダイエット」と結びつける。そう考えるのが、自然な気がするからだ。
しかし、「自然な気がする」ことは「因果関係」には影響しない。自分がまったく意識してもいなかった「変化」が、ダイエット成功の要因である可能性は常にある。
世の中に数多ある成功法則にも、僕はそういう印象を抱いてしまう。だから、「◯◯すれば成功する!」というような言説全般に、僕はあまり惹かれない。
内田樹の主張は、実に面白い。
【「いるべきときに、いるべきところにいて、なすべきことをなす」ということが武道のめざすところです。
でも、それは自分の「いるべきとき」「いるべきところ」「なすべきこと」は何だろうときょろきょろすることではありません。
そこが難しい。
それは自分で選ぶものではないからです。
流れに任せて、ご縁をたどって生きていたら、気がついたら「いるべきところ」にいて、適切な機会に過たず「なすべきこと」を果たしている。
そのことに事後的に気がつく。】
僕は内田樹の本を何作か読んだことがあるので、それらの本にも似たようなことが書かれていて、なるほどと感心した記憶がある。内田樹が言っていることは、「成功法則」とはかけ離れている。この文章を読んでも、はっきり言って、自分がどう「行動」すればいいかは分からない。だから、「◯◯すれば成功する!」という枠組みには、一切当てはまらない。
この文章だけだと、ちょっと宗教的な感じしてしまうだろう。しかし、次の文章を読んだら印象は変わるかもしれない。
【どんなとき、どんな場所でも、僕たち一人ひとりには、自分にできること、自分にしかできないことがあります。とりあえず、その場にいる他の誰もできないことが、自分にだけはできるということがある。
でも、ふつうはそれがなんだかはわからない。
修行を積むと、「今、ここでだと、私だけができること、他ならぬ私が最もそれに適した仕事がある」ということがわかるようになる。
そのときに、ふっとそれが「自分が前からずっとしたいと願っていたこと」のように思えてくる。
これが武運の勘所です】
この方が、説明としてはまだ納得しやすいのではないかと思う。要するにこれは、「やりたいことを持つ」のではなく、「自分にしか出来ないことをやりたいことだと思うのがいい」という話だ。そして僕は、この考え方に、凄く共感できる。
確かに世の中には、その人のパワフルさで周りの人をガリガリと巻き込んでいき、自分が先頭に立ってブルドーザーのように荒野を整地して突き進んで行ける人というのがいる。凄いな、といつも見ながら感じる。しかし、こういう人には、「成功法則」など不要だ。だから、「成功法則」を必要とするのは、そうではない人たちだ。
そうではない人たちというのは、要するに、「バリバリ突き進んでいけない人」だ。僕もそういう一人だ。そういう人は、きっと多いだろう。そういう人は、自分の意志で動くと、大体外す。少なくとも、僕はそういうことの方が多かった。自分の中で色々考えて、比較検討して、これだ!と決断したことが、思ってた風にはうまくいかないなぁ、ということばかりだった。けど、とりあえず一旦自分の意志みたいなものは遠くに置いて、「あれ?もしかして今この場でこれが出来るのは自分だけでは?」と思ったりすることや、あるいは誰かに「これとかやってみない?」と言われたことなんかに手を出してみると、自分に出来るとは思っていなかったようなことが案外出来たりする。
【「誰かこの仕事できる人いませんか?」という呼びかけがある。周りを見渡すと誰も手を挙げない。自分にその仕事ができるかどうかわからないけれど、なんとなく「やればできろう」な気もする。そこで、「あの~、僕でよければ…」とそっと手を挙げてみる。
僕たちが「天職」に出会うときのきっかけって、だいたいそういう感じなんじゃないかと思います】
そういう経験が結構あったので、なるほど、僕は自分の意志をあまり持たずに、自分に出来る努力は続けていって、そういう中で流れに乗ってどこかに行けるといいなぁ、と思うようになりました。
もちろんこういう感覚は、「うまく行った人」の意見でしかないかもしれません。同じようなやり方で、うまくいかなかった、みたいな人もいるのかもしれません。ただ、「決断」ということについて、内田樹がこんなことを言っていて、なるほどなと感じました。
【さあ、この先どちらの道を行ったらいいのかと悩むというのは、どちらの道もあまり「ぜひ採りたい選択肢」ではないからです。どちらかがはっきりと魅力的な選択肢だったら、迷うことはありません。迷うのは「右に行けばアナコンダがいます。左にゆくとアリゲーターがいます。どちらがいいですか?」というような場合です。そういう選択肢しか示されないということは、それよりだいぶ手前ですでに「入ってはいけないほうの分かれ道」に入ってしまったからです。
決断をくださなければいけない状況に立ち入ったというのは、いま悩むべき「問題」ではなくて、実はこれまでしてきたことの「答え」なのです。今はじめて遭遇した「問題」ではなく、これまでの失敗の積み重ねが出した「答え」なのです。
ですから「正しい決断」を下さねばならないとか「究極の選択」をしなければならないというのは、そういう状況に遭遇したというだけで、すでにかなり「後手に回っている」ということです。
決断や選択はしないに越したことはない。
ですから、「決断したり、選択したりすることを一生しないで済むように生きる」というのが武道家としての自戒になるわけです】
これも非常に納得感がありました。もちろん、反論もあるでしょう。悩んでいる時は、「どちらか(場合によっては両方)の選択肢を進んだ場合、結果がどうなるか分からない」という状況もあるでしょう。内田樹は、進んだ先の結果がどの選択肢についても想定できる、ということを前提にしているので、議論に不備があるようにも感じられます。
とはいえ内田樹としては、「いるべきときに、いるべきところにいて、なすべきことをなす」が目標なわけですから、「進んだ先の結果」というものへの配慮が欠けるのは仕方ないかもしれません。また、その配慮が欠けているとしても、「決断を要する場面は既に後手」という主張は、なるほどと感じさせる説得力を持つように感じられるし、そういう意味で「決断しないに越したことはない」と主張しているのは正しいように思えます。
また、こんな主張からも、「決断」の無意味さを伝えているように感じます。
【稽古に行くつもりだったけれど、朝起きてみたら「なんとなく生きたくないな」と思ったら、その直感を優先した方がいい】
これも結局は「決断」の話です。こういう場合、普通は「会社に行くべきか」「会社にいかないべきか」という「決断」をすると考えがちですけど、内田樹は、「決断」などせずに、身体の感覚を信じろ、と主張しているわけです。
【いまは雇用環境が悪化しているために、過労死寸前まで働かれている人がたくさんいます。そういう人は、一度病気に倒れてからようやく生き方を変えるということになる。
でも、病気から無事に回復できればいいですけれど、回復のむずかしい傷や疲れを負い込むことだってあります。だったら、そんなところまで追い詰められる前にとっとと逃げ出したほうがよかった。
そこまで我慢するのは、申し訳ないけれど相当に身体の感覚が鈍っているということです。「こんなところにいたらそのうち死んでしまう」ということは、働きだしてしばらくすればわかったはずです。(中略)
やりたくないことは、やらないほうがいい。】
この主張も、「そうは言ったってそんな簡単なことじゃない」という反論は多分に想像出来ます。ただやはり、主張としては、僕は正しいと思いたい。僕も、「このまま大学を卒業して就職したら死んじゃう」と思って大学を中退した人間なので、この主張は実感とともに理解することが出来ます。
内田樹も、嫌だと思ったらその決断を覆すことのない人だったようです。
【僕が「嫌だ」というのは、よほどのことですから、一度「嫌だ」と言い出したら、もう絶対に惹かない。
子どものときからこの歳まで、ずっとそうです。一回「嫌だ」と言ったことをあとで撤回したことは、我が人生で一度もないんじゃないでしょうか】
こういう感覚は、もの凄く分かるなか、と思います。僕も、かなりこういうタイプです。「撤回したことは一度もない」とは言いませんが、僕も「嫌だ」と思ったことを後から覆したことはほとんどないような気がします。まあ、多少の我慢は仕方ないと思って生きていますが、「あ、これは絶対無理だな」と思った時点で諦めます。
【僕の「嫌だ」というのは自己決定できることではなく、身体の奥のほうから「嫌だ」という体液みたいなものが分泌されてきて、全身を満たしてしまうのです。僕の意思ではどうにもできない】
という感覚も、僕の実感とぴったりで、凄く理解できます。
内田樹の人生は、なかなか無茶苦茶というか、普通には真似できない感じのものです。かなりアウトロー的な生き方をしている人ですが、日比谷高校(僕の記憶ではメッチャ頭の良い高校です)を中退して、大検を取り直して東大に合格しちゃうような人ですから基本的に頭はメチャクチャいいわけだし、大学を卒業できそうというタイミングで父が50万円ポンとくれて、これでフランスにでも旅行に行けと言われるみたいな家庭環境だったりもするわけです。正直、戦っている土俵が違う、という感じはします。しかし、内田樹が、自らの人生の指針としている考え方については、なるほど確かになぁ、と感じるものが多いのではないかと思います。
【(内田樹は男手一つで娘を育てることになりますが)そして、すべてにおいて家事育児を優先することにしました。
「家事育児のせいで、研究時間が削られた。子どものせいで自己実現が阻害された」
というふうな考え方は絶対にしない。
朝晩きちんと栄養バランスのとれたおいしいご飯を作って、家をきれいに掃除して、服を洗濯して、布団をちゃんと干して、取り込んだ洗濯物にきれいにアイロンかけして、服のほころびは繕って…ということができたら「自分に満点を与える」ことにしました。家事育児仕事が終わって少しでも時間が残っていたら、それは「贈り物」だと思ってありがたく受け取る。
その「贈り物としての余暇」に本を読んで、翻訳をして、論文を書く。
そこで達成されたものは「ボーナス」のようなものなのだから、あれば喜ぶけれど、なくても気にしない。
そういうふうにマインドを切り替えました】
これなんかも、かなり実践的に使える考え方ではないかと思います。まあ、内田樹はなかなか恵まれた環境にはいました。研究者として、週に2日しか出勤しなくて良かったそうです。そういう環境だったから出来たんだろう、という指摘は当然その通りだと思います。ただ、立場や環境の違いを嘆いていても、自分の目の前の現実は変わりません。内田樹のこのマインドを、自分の生活に活かすとすればどんな風に出来るのか、という意識でこういう考えを取り込んでいく方が建設的なんじゃないかな、と僕は感じます。
この感想では、内田樹の生きる上での考え方を中心に取り上げましたけど、本書で様々に描かれる、内田樹の人生のエピソードも非常に面白いです。何故テレビを信用できなくなったのか、東大駒場寮はどんな環境だったのか、初めて私淑したいと思えた合気道の多田先生に出会った時にした内田樹の返答と多田先生の反応、何故大学の教員募集に落ち続けたのか、最初の妻の義父とのエピソードなどなど、面白い話が満載です。正直、彼の人生の軌跡そのものは、人生にまったく役に立たないけど(あまりにも特殊すぎるので!)、しかしその人生を振り返って抽出した、生きていく上でのスタンスみたいなものには、共感や納得を感じる人も多くいるのではないかと思います。
内田樹「そのうちなんとかなるだろう」
それは、
「何故あなたは【それ】を成功の秘訣だと考えたのか?」
ということだ。
例えば、
「ダイエット出来たのは走ったお陰だ」
という主張は、まあ分かりやすい。これに疑問を感じる人はいないだろう。では、
「ダイエット出来たのはブロッコリーをたくさん食べたお陰だ」
はどうだろう。ちょっと厳しい気もするが、「ブロッコリーにはもしかしたら痩せる成分とか含まれてるのか」と、無理やり考えることはできる。では、
「ダイエット出来たのはジャージを履いているお陰だ」
となるとどうだろう?さすがにここに、関連性を見出すのはなかなか難しいのではないだろうか。
しかし、考えてみると、では何故「ダイエット」と「走る」に関係がある、と感じるのか?ちゃんと説明してくれ、と言われたら出来ない人が多いのではないだろうか。もちろん、運動生理学などを勉強している人であれば、「一日◯分走ることで、××筋が収縮し、△△の血中濃度が高まるので云々かんぬん」みたいな説明は出来るかもしれないが、普通の人には無理だろう。ということはそれは、ただのイメージでしかない、ということだ。「なんとなく関連性がありそうだな」という理由で、「ダイエット」と「走る」を繋げているに過ぎない。
そう考えると、「ダイエット出来たのは走ったお陰だ」も「ダイエット出来たのはジャージを履いているお陰だ」も、正直、主張そのものとしては大差ない、と言える。
結局これは、「自分がどの変化にしているかの違い」でしかない。ダイエットが成功するまでには、色んな変化があったはずだ。その期間たまたまホラー好きな彼氏と付き合っていてホラー映画をたくさん見たとか、口紅を変えたとか、引っ越したとか、仕事で何故か褒められることが続いたとか、いつも通勤に使っている道路で工事が始まったとか、PM2.5が増え始めたとか、保有している株が下がったとか、妹に子どもが生まれたとか…。考え始めれば、ダイエットを始めてからの身の回りの「変化」というのは様々に考えられる。正直なところ、そのどれもが「ダイエットの成功要因」であってもおかしくないはずだ。しかしダイエットに成功した人は、その「変化」の中から、「もっとも納得しやすい変化」を抜き出して、それを「ダイエット」と結びつける。そう考えるのが、自然な気がするからだ。
しかし、「自然な気がする」ことは「因果関係」には影響しない。自分がまったく意識してもいなかった「変化」が、ダイエット成功の要因である可能性は常にある。
世の中に数多ある成功法則にも、僕はそういう印象を抱いてしまう。だから、「◯◯すれば成功する!」というような言説全般に、僕はあまり惹かれない。
内田樹の主張は、実に面白い。
【「いるべきときに、いるべきところにいて、なすべきことをなす」ということが武道のめざすところです。
でも、それは自分の「いるべきとき」「いるべきところ」「なすべきこと」は何だろうときょろきょろすることではありません。
そこが難しい。
それは自分で選ぶものではないからです。
流れに任せて、ご縁をたどって生きていたら、気がついたら「いるべきところ」にいて、適切な機会に過たず「なすべきこと」を果たしている。
そのことに事後的に気がつく。】
僕は内田樹の本を何作か読んだことがあるので、それらの本にも似たようなことが書かれていて、なるほどと感心した記憶がある。内田樹が言っていることは、「成功法則」とはかけ離れている。この文章を読んでも、はっきり言って、自分がどう「行動」すればいいかは分からない。だから、「◯◯すれば成功する!」という枠組みには、一切当てはまらない。
この文章だけだと、ちょっと宗教的な感じしてしまうだろう。しかし、次の文章を読んだら印象は変わるかもしれない。
【どんなとき、どんな場所でも、僕たち一人ひとりには、自分にできること、自分にしかできないことがあります。とりあえず、その場にいる他の誰もできないことが、自分にだけはできるということがある。
でも、ふつうはそれがなんだかはわからない。
修行を積むと、「今、ここでだと、私だけができること、他ならぬ私が最もそれに適した仕事がある」ということがわかるようになる。
そのときに、ふっとそれが「自分が前からずっとしたいと願っていたこと」のように思えてくる。
これが武運の勘所です】
この方が、説明としてはまだ納得しやすいのではないかと思う。要するにこれは、「やりたいことを持つ」のではなく、「自分にしか出来ないことをやりたいことだと思うのがいい」という話だ。そして僕は、この考え方に、凄く共感できる。
確かに世の中には、その人のパワフルさで周りの人をガリガリと巻き込んでいき、自分が先頭に立ってブルドーザーのように荒野を整地して突き進んで行ける人というのがいる。凄いな、といつも見ながら感じる。しかし、こういう人には、「成功法則」など不要だ。だから、「成功法則」を必要とするのは、そうではない人たちだ。
そうではない人たちというのは、要するに、「バリバリ突き進んでいけない人」だ。僕もそういう一人だ。そういう人は、きっと多いだろう。そういう人は、自分の意志で動くと、大体外す。少なくとも、僕はそういうことの方が多かった。自分の中で色々考えて、比較検討して、これだ!と決断したことが、思ってた風にはうまくいかないなぁ、ということばかりだった。けど、とりあえず一旦自分の意志みたいなものは遠くに置いて、「あれ?もしかして今この場でこれが出来るのは自分だけでは?」と思ったりすることや、あるいは誰かに「これとかやってみない?」と言われたことなんかに手を出してみると、自分に出来るとは思っていなかったようなことが案外出来たりする。
【「誰かこの仕事できる人いませんか?」という呼びかけがある。周りを見渡すと誰も手を挙げない。自分にその仕事ができるかどうかわからないけれど、なんとなく「やればできろう」な気もする。そこで、「あの~、僕でよければ…」とそっと手を挙げてみる。
僕たちが「天職」に出会うときのきっかけって、だいたいそういう感じなんじゃないかと思います】
そういう経験が結構あったので、なるほど、僕は自分の意志をあまり持たずに、自分に出来る努力は続けていって、そういう中で流れに乗ってどこかに行けるといいなぁ、と思うようになりました。
もちろんこういう感覚は、「うまく行った人」の意見でしかないかもしれません。同じようなやり方で、うまくいかなかった、みたいな人もいるのかもしれません。ただ、「決断」ということについて、内田樹がこんなことを言っていて、なるほどなと感じました。
【さあ、この先どちらの道を行ったらいいのかと悩むというのは、どちらの道もあまり「ぜひ採りたい選択肢」ではないからです。どちらかがはっきりと魅力的な選択肢だったら、迷うことはありません。迷うのは「右に行けばアナコンダがいます。左にゆくとアリゲーターがいます。どちらがいいですか?」というような場合です。そういう選択肢しか示されないということは、それよりだいぶ手前ですでに「入ってはいけないほうの分かれ道」に入ってしまったからです。
決断をくださなければいけない状況に立ち入ったというのは、いま悩むべき「問題」ではなくて、実はこれまでしてきたことの「答え」なのです。今はじめて遭遇した「問題」ではなく、これまでの失敗の積み重ねが出した「答え」なのです。
ですから「正しい決断」を下さねばならないとか「究極の選択」をしなければならないというのは、そういう状況に遭遇したというだけで、すでにかなり「後手に回っている」ということです。
決断や選択はしないに越したことはない。
ですから、「決断したり、選択したりすることを一生しないで済むように生きる」というのが武道家としての自戒になるわけです】
これも非常に納得感がありました。もちろん、反論もあるでしょう。悩んでいる時は、「どちらか(場合によっては両方)の選択肢を進んだ場合、結果がどうなるか分からない」という状況もあるでしょう。内田樹は、進んだ先の結果がどの選択肢についても想定できる、ということを前提にしているので、議論に不備があるようにも感じられます。
とはいえ内田樹としては、「いるべきときに、いるべきところにいて、なすべきことをなす」が目標なわけですから、「進んだ先の結果」というものへの配慮が欠けるのは仕方ないかもしれません。また、その配慮が欠けているとしても、「決断を要する場面は既に後手」という主張は、なるほどと感じさせる説得力を持つように感じられるし、そういう意味で「決断しないに越したことはない」と主張しているのは正しいように思えます。
また、こんな主張からも、「決断」の無意味さを伝えているように感じます。
【稽古に行くつもりだったけれど、朝起きてみたら「なんとなく生きたくないな」と思ったら、その直感を優先した方がいい】
これも結局は「決断」の話です。こういう場合、普通は「会社に行くべきか」「会社にいかないべきか」という「決断」をすると考えがちですけど、内田樹は、「決断」などせずに、身体の感覚を信じろ、と主張しているわけです。
【いまは雇用環境が悪化しているために、過労死寸前まで働かれている人がたくさんいます。そういう人は、一度病気に倒れてからようやく生き方を変えるということになる。
でも、病気から無事に回復できればいいですけれど、回復のむずかしい傷や疲れを負い込むことだってあります。だったら、そんなところまで追い詰められる前にとっとと逃げ出したほうがよかった。
そこまで我慢するのは、申し訳ないけれど相当に身体の感覚が鈍っているということです。「こんなところにいたらそのうち死んでしまう」ということは、働きだしてしばらくすればわかったはずです。(中略)
やりたくないことは、やらないほうがいい。】
この主張も、「そうは言ったってそんな簡単なことじゃない」という反論は多分に想像出来ます。ただやはり、主張としては、僕は正しいと思いたい。僕も、「このまま大学を卒業して就職したら死んじゃう」と思って大学を中退した人間なので、この主張は実感とともに理解することが出来ます。
内田樹も、嫌だと思ったらその決断を覆すことのない人だったようです。
【僕が「嫌だ」というのは、よほどのことですから、一度「嫌だ」と言い出したら、もう絶対に惹かない。
子どものときからこの歳まで、ずっとそうです。一回「嫌だ」と言ったことをあとで撤回したことは、我が人生で一度もないんじゃないでしょうか】
こういう感覚は、もの凄く分かるなか、と思います。僕も、かなりこういうタイプです。「撤回したことは一度もない」とは言いませんが、僕も「嫌だ」と思ったことを後から覆したことはほとんどないような気がします。まあ、多少の我慢は仕方ないと思って生きていますが、「あ、これは絶対無理だな」と思った時点で諦めます。
【僕の「嫌だ」というのは自己決定できることではなく、身体の奥のほうから「嫌だ」という体液みたいなものが分泌されてきて、全身を満たしてしまうのです。僕の意思ではどうにもできない】
という感覚も、僕の実感とぴったりで、凄く理解できます。
内田樹の人生は、なかなか無茶苦茶というか、普通には真似できない感じのものです。かなりアウトロー的な生き方をしている人ですが、日比谷高校(僕の記憶ではメッチャ頭の良い高校です)を中退して、大検を取り直して東大に合格しちゃうような人ですから基本的に頭はメチャクチャいいわけだし、大学を卒業できそうというタイミングで父が50万円ポンとくれて、これでフランスにでも旅行に行けと言われるみたいな家庭環境だったりもするわけです。正直、戦っている土俵が違う、という感じはします。しかし、内田樹が、自らの人生の指針としている考え方については、なるほど確かになぁ、と感じるものが多いのではないかと思います。
【(内田樹は男手一つで娘を育てることになりますが)そして、すべてにおいて家事育児を優先することにしました。
「家事育児のせいで、研究時間が削られた。子どものせいで自己実現が阻害された」
というふうな考え方は絶対にしない。
朝晩きちんと栄養バランスのとれたおいしいご飯を作って、家をきれいに掃除して、服を洗濯して、布団をちゃんと干して、取り込んだ洗濯物にきれいにアイロンかけして、服のほころびは繕って…ということができたら「自分に満点を与える」ことにしました。家事育児仕事が終わって少しでも時間が残っていたら、それは「贈り物」だと思ってありがたく受け取る。
その「贈り物としての余暇」に本を読んで、翻訳をして、論文を書く。
そこで達成されたものは「ボーナス」のようなものなのだから、あれば喜ぶけれど、なくても気にしない。
そういうふうにマインドを切り替えました】
これなんかも、かなり実践的に使える考え方ではないかと思います。まあ、内田樹はなかなか恵まれた環境にはいました。研究者として、週に2日しか出勤しなくて良かったそうです。そういう環境だったから出来たんだろう、という指摘は当然その通りだと思います。ただ、立場や環境の違いを嘆いていても、自分の目の前の現実は変わりません。内田樹のこのマインドを、自分の生活に活かすとすればどんな風に出来るのか、という意識でこういう考えを取り込んでいく方が建設的なんじゃないかな、と僕は感じます。
この感想では、内田樹の生きる上での考え方を中心に取り上げましたけど、本書で様々に描かれる、内田樹の人生のエピソードも非常に面白いです。何故テレビを信用できなくなったのか、東大駒場寮はどんな環境だったのか、初めて私淑したいと思えた合気道の多田先生に出会った時にした内田樹の返答と多田先生の反応、何故大学の教員募集に落ち続けたのか、最初の妻の義父とのエピソードなどなど、面白い話が満載です。正直、彼の人生の軌跡そのものは、人生にまったく役に立たないけど(あまりにも特殊すぎるので!)、しかしその人生を振り返って抽出した、生きていく上でのスタンスみたいなものには、共感や納得を感じる人も多くいるのではないかと思います。
内田樹「そのうちなんとかなるだろう」
素数夜曲 女王陛下のLISP(吉田武)
なかなか難しい本だったなぁ。
いや、「難しい」というとちょっと違うかなぁ。いや、難しいのは難しいんだけど、それより「めんどくさい」という方が強いかもしれない。
数学の本というのは色んなタイプがあるけど、どちらかというと「計算」というものがあまり多くない本が多いと思う。やはり一般的に、「数学の計算」というのは嫌われる傾向があるからだ。また僕は、元々理系ではあるけど、じゃあ計算が好きなのかというと、そうでもない。自分で問題を解くために計算するのは、そんなに嫌いじゃないけど、誰かが計算したものを目で追っていくのはしんどいなぁ、と思う。
本書は、「計算」を主とする本だ。なかなか珍しい。まあそれも当然で、本書は後半で、プログラミングが扱われている。つまり、「数学の計算をプログラミングしてみよう」というのが、本書の最終目標なのだ。そのための準備を前半でしている、というイメージでいいと思う。
計算が多い、という意味で、やっぱりちょっと本書はしんどかったかなぁ、と思う。理論的な部分の話は、面白いものが結構あったけど、実際に計算していく、という部分に、僕自身があまり強く関心を持てなかったから、そういう意味であまり面白くなかった。そもそも、数学の証明とかがあんまり好きじゃないんだよなぁ。証明が大事なのは、わかってるつもりなんですけどね。
理論的に面白かったなぁ、という話を書いていくと、単発の話になってしまうから、本書の全体の流れについて書いていこう。
本書は、「素数」とタイトルにつくから、「整数論」の本だとわかるだろう。実際、その通りだ。しかし、その説明の過程で、あるいはその説明の先に、「整数論」の分野からはみ出す様々なジャンルが描かれる。複素数、ベクトル、集合論、場合の数などである。本書は、レンガを積み上げていくようにして、数学の様々なジャンルが順番に描かれていく。通常の教科書のような順番ではなく、「整数論」というスタートは決め、そこから興味の赴くままに説明をするのだけど、後々必要になる知識を流れの中で先に解説しておくことで、全体として非常に統一感のある、大きな流れを生み出す作品になっている。そういう点で、非常に構成力の高い作品だと感じた。
正直、プログラミングの話に入った時点で本書を読むのを諦めてしまったけど、要所要所で面白いと思う部分はあったし、「計算」の部分を除けば結構面白かったです。
吉田武「素数夜曲 女王陛下のLISP」
いや、「難しい」というとちょっと違うかなぁ。いや、難しいのは難しいんだけど、それより「めんどくさい」という方が強いかもしれない。
数学の本というのは色んなタイプがあるけど、どちらかというと「計算」というものがあまり多くない本が多いと思う。やはり一般的に、「数学の計算」というのは嫌われる傾向があるからだ。また僕は、元々理系ではあるけど、じゃあ計算が好きなのかというと、そうでもない。自分で問題を解くために計算するのは、そんなに嫌いじゃないけど、誰かが計算したものを目で追っていくのはしんどいなぁ、と思う。
本書は、「計算」を主とする本だ。なかなか珍しい。まあそれも当然で、本書は後半で、プログラミングが扱われている。つまり、「数学の計算をプログラミングしてみよう」というのが、本書の最終目標なのだ。そのための準備を前半でしている、というイメージでいいと思う。
計算が多い、という意味で、やっぱりちょっと本書はしんどかったかなぁ、と思う。理論的な部分の話は、面白いものが結構あったけど、実際に計算していく、という部分に、僕自身があまり強く関心を持てなかったから、そういう意味であまり面白くなかった。そもそも、数学の証明とかがあんまり好きじゃないんだよなぁ。証明が大事なのは、わかってるつもりなんですけどね。
理論的に面白かったなぁ、という話を書いていくと、単発の話になってしまうから、本書の全体の流れについて書いていこう。
本書は、「素数」とタイトルにつくから、「整数論」の本だとわかるだろう。実際、その通りだ。しかし、その説明の過程で、あるいはその説明の先に、「整数論」の分野からはみ出す様々なジャンルが描かれる。複素数、ベクトル、集合論、場合の数などである。本書は、レンガを積み上げていくようにして、数学の様々なジャンルが順番に描かれていく。通常の教科書のような順番ではなく、「整数論」というスタートは決め、そこから興味の赴くままに説明をするのだけど、後々必要になる知識を流れの中で先に解説しておくことで、全体として非常に統一感のある、大きな流れを生み出す作品になっている。そういう点で、非常に構成力の高い作品だと感じた。
正直、プログラミングの話に入った時点で本書を読むのを諦めてしまったけど、要所要所で面白いと思う部分はあったし、「計算」の部分を除けば結構面白かったです。
吉田武「素数夜曲 女王陛下のLISP」
お願いおむらいす(中澤日菜子)
内容に入ろうと思います。
本書は、5編の短編が収録された連作短編集です。
舞台は、年に2回、春と秋に東京郊外の広大な公園の一角を借りて開かれる<ぐるめフェスタ>(略して<ぐるフェス>)。そのとある1日の出来事を中心に、5人の人間の葛藤を描く物語だ。
「お願いおむらいす」
太一は、ギタリストを目指して上京して6年。アルバイトを続けながら活動を頑張ってきたが、これといって芽は出ない。そんな折、5歳歳上の妻・綾香が妊娠した。そこで太一は、ギタリストの夢を諦めきれないながらも、たまたま潜り込めた、老舗のロック系雑誌出版社の正社員となった…が、そこでの太一の仕事は、<ぐるフェス>での清掃部門の仕事だった。会社をリストラされたおじさんや、やる気のない若いバイトなどと一緒に、会場内を掃除して回る太一。俺は一体こんなところで何をしてるんだ…。
「キャロライナ・リーパー」
4歳歳上の姉・香子と久々に会った歩子は、いつものように父にイライラしながら、超売れっ子漫画家である香子との久々の再会を楽しんでいた。しかし、死ぬほど忙しいはずの姉が、「会って話したいことがある」とは何があったのだろう?父も、いつもイライラさせる存在であるとはいえ、いつも以上におかしい。ご飯を、近くで開催されていた<ぐるフェス>で食べようとなって会場をウロウロしていたのだが…。
「老若麺」
軽度のうつ病と診断された崇は、妻と子を福井に残して、環境を変えようと東京に出てきた。そして今、評判のラーメン屋である<中華そば紅葉>でアルバイトを始めた。いずれ暖簾分けしてもらい、福井に戻って店を出すために。しかし今は、<中華そば紅葉>として、<ぐるフェス>に出店している。お客さんは、全然来ない。それもそのはず、作っているのは、先輩である天翔さんだ。天翔さんは、食べることに関しては天賦の才と言っていいほどだが、作る方はからきしダメ。しかし大将が、<ぐるフェス>で1位になったら暖簾分けしてやる、と天翔さんに言い、その手伝いとして崇がつくことになったのだ…。
「ミュータントおじや」
大和美優は15歳の時に5人組のアイドルグループとしてデビューしたが、25歳の今、一人でアイドル活動をしている。日に日にファンが減っているのが目に見えて分かる。辛いが、しかしそんな素振りを見せずに笑顔を振りまく。どうしてもなりたかったアイドル。もう少し、続けていたい。栃木県でライブをした日、中学生ぐらいの女の子が握手会に並んでくれた。翌日からまた<ぐるフェス>でライブを日々続けるが、そこに毎日その子がやってくる。どう考えても、家に帰ってない…。瑠輝亜と名乗ったその女の子を、成り行きで家に連れて帰ることになったが…。
「フチモチの唄」
会社をリストラされ、再就職がうまく行かずに、清掃のアルバイトをしている中村浩は、なかなか大変な状況に置かれている。娘は受験を控えているし、妻は更年期障害のために横になっていることが増えた。さらに、同居している浩の母は、徘徊するようになり、以前のような明るさもなくなってしまった。ローンもまだ残っている。こういう状況でリストラされた浩は、バイトでもなんでもして当面の生活費を稼ぐしかない。さらに追い打ちをかけるように、母が倒れたと連絡があり…。
というような話です。
軽いタッチで、スイスイと読みたい気分の時にはなかなかいいかもしれません。
どの主人公も、それぞれなりの苦労を抱えていて、状況としては決して明るくはないんだけど、物語のトーンは決して暗くはない。もちろん、物語が希望を描くような形で終わっている、という部分も大きいとは思うけど、それぞれの話の中に、空気を読まなかったり、ちょっと感覚がズレてる人物が出てくることで、物語全体として湿っぽくならないようにしている感じがしました。
物語のテーマとしては、「居場所」です。「自分はここにいていいんだろうか?」「自分はここにいなきゃいけないんだろうか?」「どうしてこんな場所まで追いやられてしまったのか?」などなど、「どう生きるか」を考える過程でどうしても「居場所」の問題というのは大きく関わってきます。「まさにここが自分の居場所だ!」という確信を持てる機会そのものが少ないですが、しかし、そういう機会を持てるとしても、決してそれは永遠ではない。常に僕たちは生きていく中で、今いる「居場所」が脅かされる可能性がある。そういう状況に直面した時、どういう心構えを持つべきか、という意識の準備が出来る本かもしれません。
とはいえその一方で、僕としてはやはり、どの物語も「その先」を描いてほしいなぁ、と感じてしまいました。それはやはり、(ネタバレですが)どの物語も「希望」的な着地をしているからだな、と思います。もちろん、世の中の需要として、「ハッピーエンドであってほしい」という要望の方が強いだろうから、ある程度仕方ないとはいえ、やはり「希望」の物語は、僕は、ちょっと嘘っぽいなぁ、と感じてしまう部分があるんですね。
どの登場人物も、とりあえず物語の中で、とりあえず「希望」を一区切りにすることが出来ている。でも決して、問題そのものが解決しているわけではない。問題はそのまま残っているが、気持ちの上では前向きになれる、というような描き方をしているわけですね。
で、僕としては、「じゃあその先は?」と思ってしまいました。キレイなところで終わっちゃうんだなぁ、というのは、若干不満ではありました。
個人的に好きな話は、「ミュータントおじや」です。僕は、ストーリーが破綻気味の物語が好きなんですけど、「ミュータントおじや」は割とそういう感じの物語です。瑠輝亜のキャラクターがなかなかぶっ飛んでて面白いし、「ミュータントおじや」が登場する展開もなかなか謎。そして、「アイドル」という、ある意味で特殊な状況に置かれているはずの「孤独」が、僕の中では近い感情に感じられた、というのもあります。というのも、僕は「家族」的なものがあまり得意ではなくて、夫婦とか姉妹とか老親とか、そういうものに心が動かされないからです。そういう中で、「ミュータントおじや」だけが、「家族」的なものから遠い物語だったので、そういう意味でも良かったんだなぁ、と思いました。
瑠輝亜は、近くにいたらたぶんメッチャめんどくさいけど(笑)、ただ遠くから見てる分には結構好きなキャラクターだなぁと、読みながら思ってました。
中澤日菜子「お願いおむらいす」
本書は、5編の短編が収録された連作短編集です。
舞台は、年に2回、春と秋に東京郊外の広大な公園の一角を借りて開かれる<ぐるめフェスタ>(略して<ぐるフェス>)。そのとある1日の出来事を中心に、5人の人間の葛藤を描く物語だ。
「お願いおむらいす」
太一は、ギタリストを目指して上京して6年。アルバイトを続けながら活動を頑張ってきたが、これといって芽は出ない。そんな折、5歳歳上の妻・綾香が妊娠した。そこで太一は、ギタリストの夢を諦めきれないながらも、たまたま潜り込めた、老舗のロック系雑誌出版社の正社員となった…が、そこでの太一の仕事は、<ぐるフェス>での清掃部門の仕事だった。会社をリストラされたおじさんや、やる気のない若いバイトなどと一緒に、会場内を掃除して回る太一。俺は一体こんなところで何をしてるんだ…。
「キャロライナ・リーパー」
4歳歳上の姉・香子と久々に会った歩子は、いつものように父にイライラしながら、超売れっ子漫画家である香子との久々の再会を楽しんでいた。しかし、死ぬほど忙しいはずの姉が、「会って話したいことがある」とは何があったのだろう?父も、いつもイライラさせる存在であるとはいえ、いつも以上におかしい。ご飯を、近くで開催されていた<ぐるフェス>で食べようとなって会場をウロウロしていたのだが…。
「老若麺」
軽度のうつ病と診断された崇は、妻と子を福井に残して、環境を変えようと東京に出てきた。そして今、評判のラーメン屋である<中華そば紅葉>でアルバイトを始めた。いずれ暖簾分けしてもらい、福井に戻って店を出すために。しかし今は、<中華そば紅葉>として、<ぐるフェス>に出店している。お客さんは、全然来ない。それもそのはず、作っているのは、先輩である天翔さんだ。天翔さんは、食べることに関しては天賦の才と言っていいほどだが、作る方はからきしダメ。しかし大将が、<ぐるフェス>で1位になったら暖簾分けしてやる、と天翔さんに言い、その手伝いとして崇がつくことになったのだ…。
「ミュータントおじや」
大和美優は15歳の時に5人組のアイドルグループとしてデビューしたが、25歳の今、一人でアイドル活動をしている。日に日にファンが減っているのが目に見えて分かる。辛いが、しかしそんな素振りを見せずに笑顔を振りまく。どうしてもなりたかったアイドル。もう少し、続けていたい。栃木県でライブをした日、中学生ぐらいの女の子が握手会に並んでくれた。翌日からまた<ぐるフェス>でライブを日々続けるが、そこに毎日その子がやってくる。どう考えても、家に帰ってない…。瑠輝亜と名乗ったその女の子を、成り行きで家に連れて帰ることになったが…。
「フチモチの唄」
会社をリストラされ、再就職がうまく行かずに、清掃のアルバイトをしている中村浩は、なかなか大変な状況に置かれている。娘は受験を控えているし、妻は更年期障害のために横になっていることが増えた。さらに、同居している浩の母は、徘徊するようになり、以前のような明るさもなくなってしまった。ローンもまだ残っている。こういう状況でリストラされた浩は、バイトでもなんでもして当面の生活費を稼ぐしかない。さらに追い打ちをかけるように、母が倒れたと連絡があり…。
というような話です。
軽いタッチで、スイスイと読みたい気分の時にはなかなかいいかもしれません。
どの主人公も、それぞれなりの苦労を抱えていて、状況としては決して明るくはないんだけど、物語のトーンは決して暗くはない。もちろん、物語が希望を描くような形で終わっている、という部分も大きいとは思うけど、それぞれの話の中に、空気を読まなかったり、ちょっと感覚がズレてる人物が出てくることで、物語全体として湿っぽくならないようにしている感じがしました。
物語のテーマとしては、「居場所」です。「自分はここにいていいんだろうか?」「自分はここにいなきゃいけないんだろうか?」「どうしてこんな場所まで追いやられてしまったのか?」などなど、「どう生きるか」を考える過程でどうしても「居場所」の問題というのは大きく関わってきます。「まさにここが自分の居場所だ!」という確信を持てる機会そのものが少ないですが、しかし、そういう機会を持てるとしても、決してそれは永遠ではない。常に僕たちは生きていく中で、今いる「居場所」が脅かされる可能性がある。そういう状況に直面した時、どういう心構えを持つべきか、という意識の準備が出来る本かもしれません。
とはいえその一方で、僕としてはやはり、どの物語も「その先」を描いてほしいなぁ、と感じてしまいました。それはやはり、(ネタバレですが)どの物語も「希望」的な着地をしているからだな、と思います。もちろん、世の中の需要として、「ハッピーエンドであってほしい」という要望の方が強いだろうから、ある程度仕方ないとはいえ、やはり「希望」の物語は、僕は、ちょっと嘘っぽいなぁ、と感じてしまう部分があるんですね。
どの登場人物も、とりあえず物語の中で、とりあえず「希望」を一区切りにすることが出来ている。でも決して、問題そのものが解決しているわけではない。問題はそのまま残っているが、気持ちの上では前向きになれる、というような描き方をしているわけですね。
で、僕としては、「じゃあその先は?」と思ってしまいました。キレイなところで終わっちゃうんだなぁ、というのは、若干不満ではありました。
個人的に好きな話は、「ミュータントおじや」です。僕は、ストーリーが破綻気味の物語が好きなんですけど、「ミュータントおじや」は割とそういう感じの物語です。瑠輝亜のキャラクターがなかなかぶっ飛んでて面白いし、「ミュータントおじや」が登場する展開もなかなか謎。そして、「アイドル」という、ある意味で特殊な状況に置かれているはずの「孤独」が、僕の中では近い感情に感じられた、というのもあります。というのも、僕は「家族」的なものがあまり得意ではなくて、夫婦とか姉妹とか老親とか、そういうものに心が動かされないからです。そういう中で、「ミュータントおじや」だけが、「家族」的なものから遠い物語だったので、そういう意味でも良かったんだなぁ、と思いました。
瑠輝亜は、近くにいたらたぶんメッチャめんどくさいけど(笑)、ただ遠くから見てる分には結構好きなキャラクターだなぁと、読みながら思ってました。
中澤日菜子「お願いおむらいす」
誰が音楽をタダにした?巨大産業をぶっ潰した男たち(スティーヴン・ウィット)
なるほど、確かにな、と思った。
僕はあんまり音楽を聞く人間ではないが、学生が作った「ナップスター」というサービスが音楽業界を破壊した、という程度の認識あった。「ナップスター」というのは、ネット上のあちこちに散らばっている音楽ファイルを検索しやすくしたものだ。それまで、ネット上にある音楽ファイルは、ネットについてのある程度の知識がある人間しか手に入れることが出来なかったが、「ナップスター」はそれを簡略化し、誰でもDL出来るようにしたのだ。なるほど、確かに「ナップスター」の果たした役割は大きかったように思う。
しかし、そんな風にネットから大量の音楽ファイルをDLしていた著者は、ある時ふとこう感じたのだ。
【ってか、この音楽ってみんなどこから来てるんだ?僕は答えを知らなかった。答えを探すうち、だれもそれを知らないことに気付いた。もちろん、mp3やアップルやナップスターやパイレートベイについては詳しく報道されていたけれど、その発明者についてはほとんど語られていないし、実際に海賊行為をしている人たちについてはまったくなにも明かされていなかった】
なるほど、確かにな、という感じではないだろうか?
「ナップスター」が生み出された時、ネット上には大量の(数十億レベルの)音楽ファイルが存在していた。確かに、それらの音楽は、どこからやってきたのだろう?
この疑問を抱いた著者が、5年近く取材を重ねることで、「謎の音楽ファイルの来歴」が明らかになる。本書は、その歴史の物語である。
なるほど、メチャクチャ面白い!本当に、バラバラのように思える(少なくとも、世界や地域はまったくバラバラである)事柄が互いに重なり合うことで、ある意味で偶発的に音楽はタダになっていった。本書には3つの主軸があり、それぞれにメインとなる人物が存在する。その3人の人物の、誰か一人でも存在しなければ、まだCDはバンバン売れていたかもしれない。特に、CDの容量を1/12に抑えながら、CDとほぼ変わらない音質を保つことができるmp3の技術なくして、この歴史はありえないだろう。
そのmp3を生み出したのは、ブランデンブルクという数学の天才である。彼の周りの人物(その人たちも“天才”と呼ばれてしかるべき人たちであるが)たちが、みな口を揃えて“天才”と評する男である。彼には、「音響心理学」の父と呼ばれるエバハルト・ツビッカーという師匠がおり、ツビッカーの研究を引き継ぐ形で、ある技術の開発を思い付く。人間の聴覚というのは、聴き取ることの出来ない領域も存在する。それらをうまく削っていけば、CDの容量を大幅に圧縮出来るのではないか。これは非常に困難な挑戦であり、チームの中に「神の耳」を持つグリルというプログラマーがいて、他の人では聴き分けられない違いを聴き分けながら、同じ曲を恐ろしいほど繰り返し聞いて、その品質を向上させた。
しかしそんなmp3だが、技術としては非常に不遇の扱いを受ける。当時、同じような音響システムを開発しているライバルがおり、明らかにmp3の方が品質がいいのに、規格競争で負けてしまうのだ!チームの面々は、あれこれ奮闘するのだが、技術者集団であり、ビジネス的な才覚のなかった彼らは、負け戦を強いられ続け、結局彼らはmp3の技術をシェアウェア(無料で配布するソフトウェア)として提供するしかなくなった。しかしこのことが、音楽業界の破滅に、さらにmp3の成功へと繋がっていくのだから面白い。
さてお次は、CDのプレス工場で働いていた一介の従業員であるグローバーである。彼は、基本的にはずっと工場勤務の労働者だったのだが、何故彼が、音楽をタダにする歴史に関わっているのだろうか?
登場人物紹介の彼の欄には、“世界最強の音楽海賊”と書かれている。あまり良くわからないだろうが、要するに、工場から発売前のCDを盗み出し、それをネットにアップしていたのだ。
なるほど、個人でそういうことをやっていたんだね、と思うかもしれないが、そうではない。実はmp3の技術が誰でも使えるソフトウェアとなったことで、発売前の音楽をネットにリークする集団というのが当時存在していたのだ。しかも複数存在し、彼らは、誰のどのアルバムを最速でリークしたか競い合っていた。始まったばかりのインターネットを通じて、mp3で様々なメディアをオンライン上でやり取りする掲示板が人気で、それらのカルチャーは「シーン」と呼ばれていた。その中に、いくつものリーク集団が存在し、その中でも最大クラスの集団にRNSがあった。カリという人物がリーダーを務めるRNSは非常に統制が取れ、またあらゆる場所(CD工場やCDショップはもちろん、ラジオ局なども含む)に音楽を盗み出す人物を潜入させ、様々なやり方で発売前の音楽を手に入れていた。そして、グローバーの勤務先は、度重なる企業統合によりあらゆる人気アーティストのCDを作る工場になっていたために、グローバーが流出させる音源はRNSにとっての生命線となっていく・
さて最後は、あのスティーブ・ジョブズでさえ彼に会うために忙しい時間の合間を縫うとまで書かれている、最強の音楽エグゼクティブであるモリスだ。モリスは、いくつかの企業を渡り歩きながら、常時ヒットメーカーであり続け、莫大な報酬をもらっていた。彼を含む面々が「ラップ」の文化をスターダムに押し上げた。ラップはデジタルネイティブ世代に突き刺さる音楽となったが、そのラップをほぼ独占していたのが、モリスがいたユニバーサルだ。
何故彼の物語が描かれるのか?それは、ある意味で“象徴”的な描かれ方だと僕は思う。モリスが、音楽業界を破壊するために何かしたわけではない。逆だ。何もしなかったのだ。インターネットやmp3という技術がもたらす変化を予測できなかった。【歴史上、もっとも力のある音楽エグゼクティブだった】と書かれているモリスが、もっと早い段階で動くことが出来れば、また違ったかもしれない。しかし、動くのが遅かった。
また、ラップが流行ったことも、実はマイナスに働いた。インターネットによって被害を被っている業界は当然他にもある。出版などもその一つだ。しかし出版業界は、政治家とうまくやっていた。政治家の自伝の出版などをすることもあるし、業界が傾いてしまったらマズイということを政治家に訴えやすかった。しかし音楽業界は違う。ラップは、歌詞が過激であることが多く、また歌っている人物が犯罪者であることすらあった。モリスは、別に売れればいいという態度で対応していたが、だからこそ政治家から嫌われてしまう。映画業界も、音楽業界と近い感じではあるが、映画業界は自主的に「R-18」のような規制を生み出し、政治に歩み寄っていたからこそ、音楽業界のような扱いは受けなかったのだ、という。
これら3つを軸としながら、周辺の様々な事柄が描かれていく。例えば印象的だったのはこの話だ。当時、ピンクパレスというサイトが非常に人気だった。これは、発売前の音楽をリークするサイトではなく、世の中に存在する音楽の様々なバージョンを非常に高品質にカタログ化したもので、多くのユーザーが様々な音楽をアップロードした。そのインセンティブは、アップロードされた音楽を自由にDLできることにあった。しかし一つだけ、大きな条件があった。それは、「アップロードする曲数と、DLする曲数の比率」に制約があったのだ。つまり、たくさんアップロードする人はたくさんDLでき、あまりアップロードしない人はあまりDLできない、ということである。
さて、ピンクパレスは爆発的な人気を誇り、あらゆる音源が集まったが、しかしそれ故に、アップロードする音源を探すことが難しくなっていった。アップロード比率のために、発売前の音楽の流出に手を染める者が出始めたことで、管理人は、音楽に限らず、オーディオブックのアップロードも可とした。
しかしこれが大間違いだった。当時世界中で「ハリー・ポッター」が一世を風靡しており、オーディオブックも同様だった。「ハリー・ポッター」のオーディオブックがピンクパレスにアップロードされたことで、J・K・ローリングの弁護士から情報開示依頼が届いてしまう。管理人はそれまでにも、削除要請などには素直に従っており、今回も素直に情報開示に応じたが、しかしそのことによって管理人の正体が明らかになってしまい、最終的にピンクパレスの瓦解に繋がってしまうのだ。
また、モリスに関しても非常に面白いエピソードがあった。モリスは、「どんな曲が売れるのか、さっぱり分からない」と言い続けていたという。そんなモリスが、ずっとヒットメーカーでいられたのには理由がある。それは、受注係に張り付くことである。モリスは、全米から来るCDの注文を受注する人間に、データを見せてもらうことにした。すると、ある地域だけで爆発的に売れている曲がある。モリスには、地域限定のヒットなどあり得ない、という法則があり、そういう突出した売上を見せる曲を見つけ出しては、それを大きく広げるというやり方でヒットを作ってきたのだ。
僕は音楽には詳しくないし、正直あまり聞かないのだけど、それでももちろん本書は非常に面白かった。おそらく、普段音楽を聞く人でも、本書に書かれていることはほとんど知らないんじゃないかと思う。本書で描かれているのは、ここ20年ぐらいの話だ。たった20年前の話なのに、これほどの事実が知られていないというのはもったいないと思う。
スティーヴン・ウィット「誰が音楽をタダにした?巨大産業をぶっ潰した男たち」
僕はあんまり音楽を聞く人間ではないが、学生が作った「ナップスター」というサービスが音楽業界を破壊した、という程度の認識あった。「ナップスター」というのは、ネット上のあちこちに散らばっている音楽ファイルを検索しやすくしたものだ。それまで、ネット上にある音楽ファイルは、ネットについてのある程度の知識がある人間しか手に入れることが出来なかったが、「ナップスター」はそれを簡略化し、誰でもDL出来るようにしたのだ。なるほど、確かに「ナップスター」の果たした役割は大きかったように思う。
しかし、そんな風にネットから大量の音楽ファイルをDLしていた著者は、ある時ふとこう感じたのだ。
【ってか、この音楽ってみんなどこから来てるんだ?僕は答えを知らなかった。答えを探すうち、だれもそれを知らないことに気付いた。もちろん、mp3やアップルやナップスターやパイレートベイについては詳しく報道されていたけれど、その発明者についてはほとんど語られていないし、実際に海賊行為をしている人たちについてはまったくなにも明かされていなかった】
なるほど、確かにな、という感じではないだろうか?
「ナップスター」が生み出された時、ネット上には大量の(数十億レベルの)音楽ファイルが存在していた。確かに、それらの音楽は、どこからやってきたのだろう?
この疑問を抱いた著者が、5年近く取材を重ねることで、「謎の音楽ファイルの来歴」が明らかになる。本書は、その歴史の物語である。
なるほど、メチャクチャ面白い!本当に、バラバラのように思える(少なくとも、世界や地域はまったくバラバラである)事柄が互いに重なり合うことで、ある意味で偶発的に音楽はタダになっていった。本書には3つの主軸があり、それぞれにメインとなる人物が存在する。その3人の人物の、誰か一人でも存在しなければ、まだCDはバンバン売れていたかもしれない。特に、CDの容量を1/12に抑えながら、CDとほぼ変わらない音質を保つことができるmp3の技術なくして、この歴史はありえないだろう。
そのmp3を生み出したのは、ブランデンブルクという数学の天才である。彼の周りの人物(その人たちも“天才”と呼ばれてしかるべき人たちであるが)たちが、みな口を揃えて“天才”と評する男である。彼には、「音響心理学」の父と呼ばれるエバハルト・ツビッカーという師匠がおり、ツビッカーの研究を引き継ぐ形で、ある技術の開発を思い付く。人間の聴覚というのは、聴き取ることの出来ない領域も存在する。それらをうまく削っていけば、CDの容量を大幅に圧縮出来るのではないか。これは非常に困難な挑戦であり、チームの中に「神の耳」を持つグリルというプログラマーがいて、他の人では聴き分けられない違いを聴き分けながら、同じ曲を恐ろしいほど繰り返し聞いて、その品質を向上させた。
しかしそんなmp3だが、技術としては非常に不遇の扱いを受ける。当時、同じような音響システムを開発しているライバルがおり、明らかにmp3の方が品質がいいのに、規格競争で負けてしまうのだ!チームの面々は、あれこれ奮闘するのだが、技術者集団であり、ビジネス的な才覚のなかった彼らは、負け戦を強いられ続け、結局彼らはmp3の技術をシェアウェア(無料で配布するソフトウェア)として提供するしかなくなった。しかしこのことが、音楽業界の破滅に、さらにmp3の成功へと繋がっていくのだから面白い。
さてお次は、CDのプレス工場で働いていた一介の従業員であるグローバーである。彼は、基本的にはずっと工場勤務の労働者だったのだが、何故彼が、音楽をタダにする歴史に関わっているのだろうか?
登場人物紹介の彼の欄には、“世界最強の音楽海賊”と書かれている。あまり良くわからないだろうが、要するに、工場から発売前のCDを盗み出し、それをネットにアップしていたのだ。
なるほど、個人でそういうことをやっていたんだね、と思うかもしれないが、そうではない。実はmp3の技術が誰でも使えるソフトウェアとなったことで、発売前の音楽をネットにリークする集団というのが当時存在していたのだ。しかも複数存在し、彼らは、誰のどのアルバムを最速でリークしたか競い合っていた。始まったばかりのインターネットを通じて、mp3で様々なメディアをオンライン上でやり取りする掲示板が人気で、それらのカルチャーは「シーン」と呼ばれていた。その中に、いくつものリーク集団が存在し、その中でも最大クラスの集団にRNSがあった。カリという人物がリーダーを務めるRNSは非常に統制が取れ、またあらゆる場所(CD工場やCDショップはもちろん、ラジオ局なども含む)に音楽を盗み出す人物を潜入させ、様々なやり方で発売前の音楽を手に入れていた。そして、グローバーの勤務先は、度重なる企業統合によりあらゆる人気アーティストのCDを作る工場になっていたために、グローバーが流出させる音源はRNSにとっての生命線となっていく・
さて最後は、あのスティーブ・ジョブズでさえ彼に会うために忙しい時間の合間を縫うとまで書かれている、最強の音楽エグゼクティブであるモリスだ。モリスは、いくつかの企業を渡り歩きながら、常時ヒットメーカーであり続け、莫大な報酬をもらっていた。彼を含む面々が「ラップ」の文化をスターダムに押し上げた。ラップはデジタルネイティブ世代に突き刺さる音楽となったが、そのラップをほぼ独占していたのが、モリスがいたユニバーサルだ。
何故彼の物語が描かれるのか?それは、ある意味で“象徴”的な描かれ方だと僕は思う。モリスが、音楽業界を破壊するために何かしたわけではない。逆だ。何もしなかったのだ。インターネットやmp3という技術がもたらす変化を予測できなかった。【歴史上、もっとも力のある音楽エグゼクティブだった】と書かれているモリスが、もっと早い段階で動くことが出来れば、また違ったかもしれない。しかし、動くのが遅かった。
また、ラップが流行ったことも、実はマイナスに働いた。インターネットによって被害を被っている業界は当然他にもある。出版などもその一つだ。しかし出版業界は、政治家とうまくやっていた。政治家の自伝の出版などをすることもあるし、業界が傾いてしまったらマズイということを政治家に訴えやすかった。しかし音楽業界は違う。ラップは、歌詞が過激であることが多く、また歌っている人物が犯罪者であることすらあった。モリスは、別に売れればいいという態度で対応していたが、だからこそ政治家から嫌われてしまう。映画業界も、音楽業界と近い感じではあるが、映画業界は自主的に「R-18」のような規制を生み出し、政治に歩み寄っていたからこそ、音楽業界のような扱いは受けなかったのだ、という。
これら3つを軸としながら、周辺の様々な事柄が描かれていく。例えば印象的だったのはこの話だ。当時、ピンクパレスというサイトが非常に人気だった。これは、発売前の音楽をリークするサイトではなく、世の中に存在する音楽の様々なバージョンを非常に高品質にカタログ化したもので、多くのユーザーが様々な音楽をアップロードした。そのインセンティブは、アップロードされた音楽を自由にDLできることにあった。しかし一つだけ、大きな条件があった。それは、「アップロードする曲数と、DLする曲数の比率」に制約があったのだ。つまり、たくさんアップロードする人はたくさんDLでき、あまりアップロードしない人はあまりDLできない、ということである。
さて、ピンクパレスは爆発的な人気を誇り、あらゆる音源が集まったが、しかしそれ故に、アップロードする音源を探すことが難しくなっていった。アップロード比率のために、発売前の音楽の流出に手を染める者が出始めたことで、管理人は、音楽に限らず、オーディオブックのアップロードも可とした。
しかしこれが大間違いだった。当時世界中で「ハリー・ポッター」が一世を風靡しており、オーディオブックも同様だった。「ハリー・ポッター」のオーディオブックがピンクパレスにアップロードされたことで、J・K・ローリングの弁護士から情報開示依頼が届いてしまう。管理人はそれまでにも、削除要請などには素直に従っており、今回も素直に情報開示に応じたが、しかしそのことによって管理人の正体が明らかになってしまい、最終的にピンクパレスの瓦解に繋がってしまうのだ。
また、モリスに関しても非常に面白いエピソードがあった。モリスは、「どんな曲が売れるのか、さっぱり分からない」と言い続けていたという。そんなモリスが、ずっとヒットメーカーでいられたのには理由がある。それは、受注係に張り付くことである。モリスは、全米から来るCDの注文を受注する人間に、データを見せてもらうことにした。すると、ある地域だけで爆発的に売れている曲がある。モリスには、地域限定のヒットなどあり得ない、という法則があり、そういう突出した売上を見せる曲を見つけ出しては、それを大きく広げるというやり方でヒットを作ってきたのだ。
僕は音楽には詳しくないし、正直あまり聞かないのだけど、それでももちろん本書は非常に面白かった。おそらく、普段音楽を聞く人でも、本書に書かれていることはほとんど知らないんじゃないかと思う。本書で描かれているのは、ここ20年ぐらいの話だ。たった20年前の話なのに、これほどの事実が知られていないというのはもったいないと思う。
スティーヴン・ウィット「誰が音楽をタダにした?巨大産業をぶっ潰した男たち」
営業と詐欺のあいだ(坂口孝則)
内容に入ろうと思います。
本書は、製造業の現役バイヤーであり、「購買ネットワーク会」幹事で、数千人の営業マンからの売り込みを経験したことで「本当に書いたくなる営業テクニック」に精通している、という著者による本です。
本書を読んで、「まあ知識としては知ってることである」ということが結構多かったな、と思います。
もちろん、あらかじめ書いておきますが、「知識として知っていること」と「実際に出来ること」のあいだにはべらぼうな差があります。なので、僕が本書に書いてあるようなことを「知っている」からと言って、凄い営業が出来るわけでもないし、詐欺に騙されないわけでもないでしょう。
本書ではまず、「営業」的なテクニックが描かれるが、細かく色々書くのではなく、本質的な部分をまとめるような形で書いているので、まあそうだよなぁ、という感じでした。本書に書かれているようなことを考えたことがない人もいるでしょう。例えば本書には、『三流のセールスマンは、とにかく自社商品を詳しく語ります』と書いてあります。理解している人からすれば常識でしょうが、お客さんは「商品の情報」を知りたいのではなくて、「その商品を買ったら私がどうなるのか」を知りたいわけです。そういう、超基本的な部分も知らない、という人には、参考になるでしょう。
で、本書の「売るテクニック」をさらにざっくりとまとめると、
・相手を理解すること
・相手に「理解した」と思わせること
の2つに集約されると言っていいでしょう。これが出来る人が、色んなものをバシバシ売ることが出来るわけです。
そしてこの鉄則は、裏返しで「詐欺」にも使えるわけです。特に、『相手に「理解した」と思わせること』が出来ると、高い確率で相手を騙すことが出来るでしょう。
で、僕が本書の中で最も大事だと思うのは、「詐欺的手法」についてでしょう。これについても、本書じゃなければ手に入らないという情報ではないでしょうが、「営業」の裏返し的な見方で「詐欺」を捉える、という本書の形式は、一般的な本と比べて「詐欺」的な犯罪に対して“感情的ではない”感じがするので(巧い表現ではないんですけど、これぐらいしか思い浮かびませんでした)、そういう意味で本書は結構良いんじゃないかと思います。
詐欺的手法については本当に、様々なパターンがあります。本書は2008年の本なので、その後10年間だけでも、新たな詐欺はボコボコ生まれてきていることでしょう。ただ本書では、やはり詐欺的手法を、個別のケースを紹介するというよりは、「営業」的な視点からより本質的な部分を探り出す、というやり方をしているので、割と普遍的に使える可能性はあるなぁ、と思っています。
個人的には、そこまで響く本ではありませんでしたが、本書の中で一番面白いと感じた部分を抜き出して終わりにしますね。
『ちなみに、中国では最初の「値下げさせた」という感情をお客に抱かせることが非常に大切です。デパートで値下げしてもらったとしますよね。そうしたら店員は怒ったかのような顔で商品を渡します。これは「店員が安く売りすぎて、悔しがっている」と、お客に思わせる一つの礼儀なのです』
国が違えば文化が違うもんだなぁ、と改めて感じさせる話だなと思いました。
坂口孝則「営業と詐欺のあいだ」
本書は、製造業の現役バイヤーであり、「購買ネットワーク会」幹事で、数千人の営業マンからの売り込みを経験したことで「本当に書いたくなる営業テクニック」に精通している、という著者による本です。
本書を読んで、「まあ知識としては知ってることである」ということが結構多かったな、と思います。
もちろん、あらかじめ書いておきますが、「知識として知っていること」と「実際に出来ること」のあいだにはべらぼうな差があります。なので、僕が本書に書いてあるようなことを「知っている」からと言って、凄い営業が出来るわけでもないし、詐欺に騙されないわけでもないでしょう。
本書ではまず、「営業」的なテクニックが描かれるが、細かく色々書くのではなく、本質的な部分をまとめるような形で書いているので、まあそうだよなぁ、という感じでした。本書に書かれているようなことを考えたことがない人もいるでしょう。例えば本書には、『三流のセールスマンは、とにかく自社商品を詳しく語ります』と書いてあります。理解している人からすれば常識でしょうが、お客さんは「商品の情報」を知りたいのではなくて、「その商品を買ったら私がどうなるのか」を知りたいわけです。そういう、超基本的な部分も知らない、という人には、参考になるでしょう。
で、本書の「売るテクニック」をさらにざっくりとまとめると、
・相手を理解すること
・相手に「理解した」と思わせること
の2つに集約されると言っていいでしょう。これが出来る人が、色んなものをバシバシ売ることが出来るわけです。
そしてこの鉄則は、裏返しで「詐欺」にも使えるわけです。特に、『相手に「理解した」と思わせること』が出来ると、高い確率で相手を騙すことが出来るでしょう。
で、僕が本書の中で最も大事だと思うのは、「詐欺的手法」についてでしょう。これについても、本書じゃなければ手に入らないという情報ではないでしょうが、「営業」の裏返し的な見方で「詐欺」を捉える、という本書の形式は、一般的な本と比べて「詐欺」的な犯罪に対して“感情的ではない”感じがするので(巧い表現ではないんですけど、これぐらいしか思い浮かびませんでした)、そういう意味で本書は結構良いんじゃないかと思います。
詐欺的手法については本当に、様々なパターンがあります。本書は2008年の本なので、その後10年間だけでも、新たな詐欺はボコボコ生まれてきていることでしょう。ただ本書では、やはり詐欺的手法を、個別のケースを紹介するというよりは、「営業」的な視点からより本質的な部分を探り出す、というやり方をしているので、割と普遍的に使える可能性はあるなぁ、と思っています。
個人的には、そこまで響く本ではありませんでしたが、本書の中で一番面白いと感じた部分を抜き出して終わりにしますね。
『ちなみに、中国では最初の「値下げさせた」という感情をお客に抱かせることが非常に大切です。デパートで値下げしてもらったとしますよね。そうしたら店員は怒ったかのような顔で商品を渡します。これは「店員が安く売りすぎて、悔しがっている」と、お客に思わせる一つの礼儀なのです』
国が違えば文化が違うもんだなぁ、と改めて感じさせる話だなと思いました。
坂口孝則「営業と詐欺のあいだ」
スーツに効く筋トレ(Testosterone)
まず、本書を読んで一番違和感を覚える部分について触れよう。
それは、「人は誰もがバリバリ仕事をして、強気でアクティブで、成功を目指さなければならない」というスタンスだ。
そうだろうか?
上で書いたような価値観というのは、いわゆる「アメリカらしい価値観」なんだろうなと、詳しく知らないけど感じる。アメリカ人にも色んな人がいるとは思うんだけど、アメリカのスポーツマンとかエリートビジネスマンとかは、こういうイメージが強い。本書にも、そう感じさせるような文章はある。アメリカでは、「デブ」「ガリガリ」は自己管理ができないダメ人間とみなされる、という話の中にこんな文章がある。
【アメリカではスポーツや筋トレが強さや男の象徴となっているので、これらをやっていないガリガリな人は「男としてプライドがあるのか?」「人生を諦めているのか?」と思われてしまう。もちろんアートや文学などを極めている人間は別だが、日本よりもガリガリを軽蔑する傾向はずっと強いと知るべし】
まあ、それがアメリカの価値観なんだ、と言われれば、そうなんだと思うしかないけど、個人的には、ほっといてくれ、という感じではある。「男としてプライドがなきゃいけないんですか?」「人生諦めちゃいけないんですか?」と思ってしまうので、僕のような人間には、著者の言っていることは特に響かない。
本書は、「スーツに効く筋トレ」というタイトルだし、著者は、そういう方向で本をまとめてほしいというディレクションを受けて本書を書いているのかもしれない。もしそうだとすれば、それは著者の責任ではないわけだから批判しすぎるのもどうかとは思うけど、個人的には、バリバリ仕事をして、強気でアクティブで、成功を目指すんじゃない人にも筋トレがどう有効なのかを書いてくれたら、もう少し共感しやすいだろうなぁ、という気はしました。日本人で、本書の著者の主張を読んで、「なるほどそうか!ビジネスマンたるものやっぱり筋トレだな!」と思える人が、どれぐらいいるんだろう?それよりは、「毎日仕事に疲弊していて、家族との関係も良好ではなくて、休日やる趣味も特になくて、人間関係もそこまで充実していない人」が筋トレをしたらどうなるか、的な話の方が、受け入れられやすいんじゃないかなぁ。
本を書く上で、読者対象をグッと絞ること自体はとても良いことだと思っているから、本書の方向性が必ずしも間違っているとは言えないけど、本書では、「読者対象を絞る行為」と「これが人生における唯一無二の正解だという断言」とがごちゃっとなってるから、違和感を覚える人が多いんじゃないかなぁ、と感じました。
さて、そういう前提の上で、「人は誰もがバリバリ仕事をして、強気でアクティブで、成功を目指さなければならない」と思っている人には、非常にベストな本だと思います。そういう生き方をしたい人は、ビジネスの能力を高めるために「◯◯メソッド」的なビジネス書を読んだりセミナーに言ったり、あるいは人脈を広げるべくパーティーやSNSを駆使したりするんだろうけど、そういう努力よりも「筋トレをメッチャ頑張る」というやり方の方が有効かもしれない、と感じました。
確かに、「筋トレ」は様々な効果がありそうです。
・自信のある見た目を作れる
・自己管理能力があることを証明できる
・「筋トレ」はPDCAの繰り返しだからバカには出来ない
・一緒に筋トレすれば、エグゼクティブと仲良くなれるし、その人の本質も見える
・筋トレ野郎は、金を使わないし、浮気する時間もないから、交際相手としてベスト
・テストステロンというホルモンが精神安定剤の代わりになる
こういう部分については、なるほど、有益だと感じる人もいるだろうなぁ、と思いました。ビジネスで成功したい人には、きちんと努力すれば必ず結果を出せるという意味で、非常に手を出しやすい方法かもしれません。
あと、筋トレをしない理由として、「ムキムキになりたくない」を挙げる人がいることに対して、こんな反論をしていて面白いと思いました。
【もうひとつ、「筋肉ムキムキのゴツい体になりたくないから、筋トレはしません」という者もいるが、これも愚の骨頂。それは小学生が「物理学者になる気はないので算数はやりません」と言って勉強しなかったり、「プロのレーサーになる気はないので免許は取りません」と言い放ったりするくらい的外れだ。
おそらく、ボディビルダーのような肉体を塑造しているのだと思うが、筋肉はそう簡単につかないし、そう簡単にゴツくはならない。】
なるほどわかりやすい気がする!という感じがしました。
あと、「筋トレは毎日してはいけない」というのを理由をつけて説明していたり、カロリーを考えた食事とか(これも、細部にはこだわらなくていい、っていう書き方だからハードルは低め)、どうトレーニングしたらいいかという具体的な方法も書いているので、「筋トレを始めたい」と思っている人にも最適な一冊だと思う。著者は、自宅でも出来るけど、ちゃんと筋トレをしたいならジムに行け、と言っているんで、そこはちょっとハードル高いかもだけど、でも、自宅で出来るプログラムについてもちゃんと書いています。
僕自身は、本書を読んでも「筋トレやろう!」とは思えないけど(笑)、本書に合う読者はいるだろうと思います。
Testosterone「スーツに効く筋トレ」
それは、「人は誰もがバリバリ仕事をして、強気でアクティブで、成功を目指さなければならない」というスタンスだ。
そうだろうか?
上で書いたような価値観というのは、いわゆる「アメリカらしい価値観」なんだろうなと、詳しく知らないけど感じる。アメリカ人にも色んな人がいるとは思うんだけど、アメリカのスポーツマンとかエリートビジネスマンとかは、こういうイメージが強い。本書にも、そう感じさせるような文章はある。アメリカでは、「デブ」「ガリガリ」は自己管理ができないダメ人間とみなされる、という話の中にこんな文章がある。
【アメリカではスポーツや筋トレが強さや男の象徴となっているので、これらをやっていないガリガリな人は「男としてプライドがあるのか?」「人生を諦めているのか?」と思われてしまう。もちろんアートや文学などを極めている人間は別だが、日本よりもガリガリを軽蔑する傾向はずっと強いと知るべし】
まあ、それがアメリカの価値観なんだ、と言われれば、そうなんだと思うしかないけど、個人的には、ほっといてくれ、という感じではある。「男としてプライドがなきゃいけないんですか?」「人生諦めちゃいけないんですか?」と思ってしまうので、僕のような人間には、著者の言っていることは特に響かない。
本書は、「スーツに効く筋トレ」というタイトルだし、著者は、そういう方向で本をまとめてほしいというディレクションを受けて本書を書いているのかもしれない。もしそうだとすれば、それは著者の責任ではないわけだから批判しすぎるのもどうかとは思うけど、個人的には、バリバリ仕事をして、強気でアクティブで、成功を目指すんじゃない人にも筋トレがどう有効なのかを書いてくれたら、もう少し共感しやすいだろうなぁ、という気はしました。日本人で、本書の著者の主張を読んで、「なるほどそうか!ビジネスマンたるものやっぱり筋トレだな!」と思える人が、どれぐらいいるんだろう?それよりは、「毎日仕事に疲弊していて、家族との関係も良好ではなくて、休日やる趣味も特になくて、人間関係もそこまで充実していない人」が筋トレをしたらどうなるか、的な話の方が、受け入れられやすいんじゃないかなぁ。
本を書く上で、読者対象をグッと絞ること自体はとても良いことだと思っているから、本書の方向性が必ずしも間違っているとは言えないけど、本書では、「読者対象を絞る行為」と「これが人生における唯一無二の正解だという断言」とがごちゃっとなってるから、違和感を覚える人が多いんじゃないかなぁ、と感じました。
さて、そういう前提の上で、「人は誰もがバリバリ仕事をして、強気でアクティブで、成功を目指さなければならない」と思っている人には、非常にベストな本だと思います。そういう生き方をしたい人は、ビジネスの能力を高めるために「◯◯メソッド」的なビジネス書を読んだりセミナーに言ったり、あるいは人脈を広げるべくパーティーやSNSを駆使したりするんだろうけど、そういう努力よりも「筋トレをメッチャ頑張る」というやり方の方が有効かもしれない、と感じました。
確かに、「筋トレ」は様々な効果がありそうです。
・自信のある見た目を作れる
・自己管理能力があることを証明できる
・「筋トレ」はPDCAの繰り返しだからバカには出来ない
・一緒に筋トレすれば、エグゼクティブと仲良くなれるし、その人の本質も見える
・筋トレ野郎は、金を使わないし、浮気する時間もないから、交際相手としてベスト
・テストステロンというホルモンが精神安定剤の代わりになる
こういう部分については、なるほど、有益だと感じる人もいるだろうなぁ、と思いました。ビジネスで成功したい人には、きちんと努力すれば必ず結果を出せるという意味で、非常に手を出しやすい方法かもしれません。
あと、筋トレをしない理由として、「ムキムキになりたくない」を挙げる人がいることに対して、こんな反論をしていて面白いと思いました。
【もうひとつ、「筋肉ムキムキのゴツい体になりたくないから、筋トレはしません」という者もいるが、これも愚の骨頂。それは小学生が「物理学者になる気はないので算数はやりません」と言って勉強しなかったり、「プロのレーサーになる気はないので免許は取りません」と言い放ったりするくらい的外れだ。
おそらく、ボディビルダーのような肉体を塑造しているのだと思うが、筋肉はそう簡単につかないし、そう簡単にゴツくはならない。】
なるほどわかりやすい気がする!という感じがしました。
あと、「筋トレは毎日してはいけない」というのを理由をつけて説明していたり、カロリーを考えた食事とか(これも、細部にはこだわらなくていい、っていう書き方だからハードルは低め)、どうトレーニングしたらいいかという具体的な方法も書いているので、「筋トレを始めたい」と思っている人にも最適な一冊だと思う。著者は、自宅でも出来るけど、ちゃんと筋トレをしたいならジムに行け、と言っているんで、そこはちょっとハードル高いかもだけど、でも、自宅で出来るプログラムについてもちゃんと書いています。
僕自身は、本書を読んでも「筋トレやろう!」とは思えないけど(笑)、本書に合う読者はいるだろうと思います。
Testosterone「スーツに効く筋トレ」