「ファヒム パリが見た奇跡」を観に行ってきました
思ってた感じの話と全然違ったし、っていうかメチャクチャ良かった!予想外にすげぇ良かったなぁ。
こういう映画を観ると、ついうっかり、「才能のある人間は認められるべきだ」とか「努力した人間は報われるべきだ」とか言いたくなってしまう。
でもそうじゃないんだよなぁ、と自分を諌める。大事なことは、才能がなくても、努力していなくても、最低限の安全ぐらいは誰だって確保されるべきだということだ。
そりゃあ、仕事を見つける努力もしないとか、仕事に就いても不真面目だとか、そういうのはまた別だ。でも、この世に生まれたからには、「安全を確保するために努力やお金が必要」というのは、やっぱりおかしいよなと思う。
例えば僕は、生まれてこの方、「安全」のために努力したことは一度もないと思う。護身術を習う必要もなかったし、ひったくりに遭わないように気をつける必要もなかったし、突然逮捕されたりする不安を抱くこともなかった。日本は、世界的に見ても異様に安全で、ちょっと参考にならないけれども、でも、生まれてからずっと砲弾が飛び交ってるとか、地雷がそこかしこに埋まってるとか、安全な水を確保するのに10kmは歩かないといけないとか、そんな環境にはない。「安全」のための努力なんか、一切することなく、ここまで生きてこられた。
そういう人間に、「安全」のための努力をせざるを得ない人たちの人生を批判的に捉える権利はないだろう。
しかも、そういう不安定な生活をせざるを得ない人たちの生活というのは、直接的にせよ間接的にせよ、先進国の責任であることが多いだろう。僕らが直接的に何かしたわけではないのかもしれないけど、僕らよりも上の世代がしたことに対して僕らが「何もしなかったこと」や、あるいは今の便利な生活を享受していることそのものが、そういう国の困難さを招いているということは十分にあり得る。
僕自身は、自分が「安全」な場所にいながら、「安全」のための努力をせざるを得ない人たちに何も手を差し伸べないどころか、僕らが当たり前の生活をしているだけで彼らにとってマイナスになっているかもしれない、という事実に、恥ずかしい気持ちになることが時々ある。まあ、時々だけど。それこそ、こういう映画を観ると感じる。
僕は、僕一人を生き延びさせるのでも精一杯なので、誰かのために積極的に何か出来るとは思っていないし、まあそれは仕方ないかと思う。でもこれからも、前述したような「恥ずかしさ」はずっと感じ続けていたいし、「安全」のために努力をせざるを得ない人たちの生活を嘲笑したり貶めたりするような人のことを、心の中で軽蔑しようと思う。
内容に入ろうと思います。
バングラデシュに住むムハンマド一家は、政変に揺れる環境下で日常を送っていた。息子のファヒムは、周辺でも有名なチェス強者で、大人が相手でも負けない強さを持っていた。ある日、ファヒムの両親は相談をし、ある決断をする。ファヒムに「チェスのグランドマスターに会いに行こう」と乗り気にさせ、父・ヌラと二人でパリに足を踏み入れる(もちろんこの行動には差し迫った理由があるのだが、初めの内観客はその理由が分からない)。
二人とも、フランス語が喋れないところからの生活だったが、ファヒムはすぐに言葉を覚えた。しかし父親はなかなかフランス語を覚えられず、仕事も見つけられず、結局彼らは難民センターに身を寄せることに。ここで難民申請が通れば、フランスに家族を移住させられる。しかし、難民申請を1年以上も待っている人がいるなど、道のりは簡単ではない。
ファヒムは学校に通い始め、同時に、近くのチェス教室にも通うようになる。そこのコーチであるシルヴァンは、かつて強豪を誇ったチェスプレイヤーだったが、今では子供相手にチェスを教える生活だ。当初は、シルヴァンの教え方に不満を抱いていたファヒムだったが、同じ教室の仲間たちと少しずつ打ち解けるようになり、チェスプレイヤーとしても頭角を現すようになっていく。
しかし、ファヒムが国内大会に出場するには、ある問題があった。フランス国籍を取得していなければいけないのだ。父親は難民申請にも職探しにも手間取っている。このまま難民申請が通らなければ、父子は引き剥がされてしまうことになるが…。
というような話です。
冒頭で「実話に基づく話」と出てきます。どこまで事実なのか分からないけど、「バングラデシュから来た難民の子がフランスのチェス大会で優勝した」という部分はきっと事実でしょう。また、映画の最後には、ファヒムがチェスで優勝したことで、バングラデシュに残してきた家族もフランスに移住出来るようになった、と字幕で表示されていました。
僕は普段、これから観ようと思っている映画についてあらかじめ調べたりしないので、タイトルとポスター写真のイメージから、もっとポップで楽しげな作品なんだと思ってました。いや、確かにそういう要素も確かにあって、映画を見ながら随所で観客は笑い声を上げていました。なんというのか、ところどころ、つい笑っちゃうような楽しい場面があるんですよね。特にそれは、フランス語を全然覚えられなかった父親に周りで起こることが多いです。ちょっとした勘違いとか(例えば冒頭で、チェス教室を教えてもらう場面。難民センターの担当者が”ショボい”教室と言ったのを教室の固有名詞だと思って、シルヴァンに言ってしまったりします)、息子から聞いたことを悪気なく言っちゃうとか、そういうシーンが結構あります。ただ、そういう食い違いの部分には、笑って見過ごせない部分もあったりするんですね。難民申請についての聞き取り調査の場面での通訳の振る舞いなんかは、なるほどこんなことが実際にあるんだろうなぁ、なんて思わされる場面でした。
まあそんなわけで、割と楽しげ部分ももちろんあるし、っていうか全体の雰囲気としては楽しく進んでいくんだけど、背景的な部分は結構シビアでした。ファヒムは、チェスの実力者なら誰が見ても分かるほどの力量を備えた少年ですが、国籍の問題が大きく立ちはだかる。これは、普通に考えれば個人に太刀打ちできるようなレベルの話じゃない。もっともっと大きな枠組みの話だ。でも、ファヒムのコーチであるシルヴァンや、シルヴァンの友人(関係性がよく分からないけど)のマチルダが、個人として出来ることを精一杯やり続けた結果、普通ならありえない奇跡を手繰り寄せることに成功します。なんというのか、こういう感動は、なんとなく自分の中で予想外だったので、ちょっとビックリしたし、予想外に良かったと感じる映画でした。
最後の最後、マチルダが繰り出した”秘策”が、実際に行われたことなのかは分からないけど、本当にこの映画の通りのことがあったとしたら、劇的だなぁ、と思います。特に、マチルダのセリフが、素晴らしいなと思いました。
【フランスは、人権の国なのですか?
それとも、人権を宣言しただけの国なのですか?】
歴史には詳しくないけど、おそらくこれはフランス革命と関係があることでしょう。フランスというのは、人権を自分たちの手で勝ち取って、それを訴えてきた国なのに、こういう現状が放置されてていいのか?と突きつけるわけです。良いシーンだったなぁ。
シルヴァンについては、最初はメチャクチャ嫌いだなと思いました。僕がものすごく嫌いなタイプの人というか、「自分が正しいと思って疑わない人」という感じです。個人的な意見では、シルヴァンのようなやり方は、チェスに限らずだけど、何かを教育するという点であまり適していない感じがします。ただ、シルヴァンに対する印象は、映画の展開とともにどんどんと変わっていきます。「なんだ、メッチャいい奴じゃん!」みたいに変わっていくんですよね。シルヴァンの行動もまた、ファヒムが奇跡を掴み取るための重要な役割を果たすことになります。
チェスがモチーフになっていますけど、チェスのことはまったく分からなくて大丈夫です。僕も、将棋は分かるんで、チェスもなんとなく分かりますが、ただ知ってても知らなくても関係ないという感じがします。まあ、チェスについて詳しい人なら、「なるほど、あそこでああ動かすのか」「あれは誰々の棋譜だな」みたいなことが分かって、より面白いのかもしれませんけど。
個人的には、メチャクチャ良い映画でした。
「ファヒム パリが見た奇跡」を観に行ってきました
こういう映画を観ると、ついうっかり、「才能のある人間は認められるべきだ」とか「努力した人間は報われるべきだ」とか言いたくなってしまう。
でもそうじゃないんだよなぁ、と自分を諌める。大事なことは、才能がなくても、努力していなくても、最低限の安全ぐらいは誰だって確保されるべきだということだ。
そりゃあ、仕事を見つける努力もしないとか、仕事に就いても不真面目だとか、そういうのはまた別だ。でも、この世に生まれたからには、「安全を確保するために努力やお金が必要」というのは、やっぱりおかしいよなと思う。
例えば僕は、生まれてこの方、「安全」のために努力したことは一度もないと思う。護身術を習う必要もなかったし、ひったくりに遭わないように気をつける必要もなかったし、突然逮捕されたりする不安を抱くこともなかった。日本は、世界的に見ても異様に安全で、ちょっと参考にならないけれども、でも、生まれてからずっと砲弾が飛び交ってるとか、地雷がそこかしこに埋まってるとか、安全な水を確保するのに10kmは歩かないといけないとか、そんな環境にはない。「安全」のための努力なんか、一切することなく、ここまで生きてこられた。
そういう人間に、「安全」のための努力をせざるを得ない人たちの人生を批判的に捉える権利はないだろう。
しかも、そういう不安定な生活をせざるを得ない人たちの生活というのは、直接的にせよ間接的にせよ、先進国の責任であることが多いだろう。僕らが直接的に何かしたわけではないのかもしれないけど、僕らよりも上の世代がしたことに対して僕らが「何もしなかったこと」や、あるいは今の便利な生活を享受していることそのものが、そういう国の困難さを招いているということは十分にあり得る。
僕自身は、自分が「安全」な場所にいながら、「安全」のための努力をせざるを得ない人たちに何も手を差し伸べないどころか、僕らが当たり前の生活をしているだけで彼らにとってマイナスになっているかもしれない、という事実に、恥ずかしい気持ちになることが時々ある。まあ、時々だけど。それこそ、こういう映画を観ると感じる。
僕は、僕一人を生き延びさせるのでも精一杯なので、誰かのために積極的に何か出来るとは思っていないし、まあそれは仕方ないかと思う。でもこれからも、前述したような「恥ずかしさ」はずっと感じ続けていたいし、「安全」のために努力をせざるを得ない人たちの生活を嘲笑したり貶めたりするような人のことを、心の中で軽蔑しようと思う。
内容に入ろうと思います。
バングラデシュに住むムハンマド一家は、政変に揺れる環境下で日常を送っていた。息子のファヒムは、周辺でも有名なチェス強者で、大人が相手でも負けない強さを持っていた。ある日、ファヒムの両親は相談をし、ある決断をする。ファヒムに「チェスのグランドマスターに会いに行こう」と乗り気にさせ、父・ヌラと二人でパリに足を踏み入れる(もちろんこの行動には差し迫った理由があるのだが、初めの内観客はその理由が分からない)。
二人とも、フランス語が喋れないところからの生活だったが、ファヒムはすぐに言葉を覚えた。しかし父親はなかなかフランス語を覚えられず、仕事も見つけられず、結局彼らは難民センターに身を寄せることに。ここで難民申請が通れば、フランスに家族を移住させられる。しかし、難民申請を1年以上も待っている人がいるなど、道のりは簡単ではない。
ファヒムは学校に通い始め、同時に、近くのチェス教室にも通うようになる。そこのコーチであるシルヴァンは、かつて強豪を誇ったチェスプレイヤーだったが、今では子供相手にチェスを教える生活だ。当初は、シルヴァンの教え方に不満を抱いていたファヒムだったが、同じ教室の仲間たちと少しずつ打ち解けるようになり、チェスプレイヤーとしても頭角を現すようになっていく。
しかし、ファヒムが国内大会に出場するには、ある問題があった。フランス国籍を取得していなければいけないのだ。父親は難民申請にも職探しにも手間取っている。このまま難民申請が通らなければ、父子は引き剥がされてしまうことになるが…。
というような話です。
冒頭で「実話に基づく話」と出てきます。どこまで事実なのか分からないけど、「バングラデシュから来た難民の子がフランスのチェス大会で優勝した」という部分はきっと事実でしょう。また、映画の最後には、ファヒムがチェスで優勝したことで、バングラデシュに残してきた家族もフランスに移住出来るようになった、と字幕で表示されていました。
僕は普段、これから観ようと思っている映画についてあらかじめ調べたりしないので、タイトルとポスター写真のイメージから、もっとポップで楽しげな作品なんだと思ってました。いや、確かにそういう要素も確かにあって、映画を見ながら随所で観客は笑い声を上げていました。なんというのか、ところどころ、つい笑っちゃうような楽しい場面があるんですよね。特にそれは、フランス語を全然覚えられなかった父親に周りで起こることが多いです。ちょっとした勘違いとか(例えば冒頭で、チェス教室を教えてもらう場面。難民センターの担当者が”ショボい”教室と言ったのを教室の固有名詞だと思って、シルヴァンに言ってしまったりします)、息子から聞いたことを悪気なく言っちゃうとか、そういうシーンが結構あります。ただ、そういう食い違いの部分には、笑って見過ごせない部分もあったりするんですね。難民申請についての聞き取り調査の場面での通訳の振る舞いなんかは、なるほどこんなことが実際にあるんだろうなぁ、なんて思わされる場面でした。
まあそんなわけで、割と楽しげ部分ももちろんあるし、っていうか全体の雰囲気としては楽しく進んでいくんだけど、背景的な部分は結構シビアでした。ファヒムは、チェスの実力者なら誰が見ても分かるほどの力量を備えた少年ですが、国籍の問題が大きく立ちはだかる。これは、普通に考えれば個人に太刀打ちできるようなレベルの話じゃない。もっともっと大きな枠組みの話だ。でも、ファヒムのコーチであるシルヴァンや、シルヴァンの友人(関係性がよく分からないけど)のマチルダが、個人として出来ることを精一杯やり続けた結果、普通ならありえない奇跡を手繰り寄せることに成功します。なんというのか、こういう感動は、なんとなく自分の中で予想外だったので、ちょっとビックリしたし、予想外に良かったと感じる映画でした。
最後の最後、マチルダが繰り出した”秘策”が、実際に行われたことなのかは分からないけど、本当にこの映画の通りのことがあったとしたら、劇的だなぁ、と思います。特に、マチルダのセリフが、素晴らしいなと思いました。
【フランスは、人権の国なのですか?
それとも、人権を宣言しただけの国なのですか?】
歴史には詳しくないけど、おそらくこれはフランス革命と関係があることでしょう。フランスというのは、人権を自分たちの手で勝ち取って、それを訴えてきた国なのに、こういう現状が放置されてていいのか?と突きつけるわけです。良いシーンだったなぁ。
シルヴァンについては、最初はメチャクチャ嫌いだなと思いました。僕がものすごく嫌いなタイプの人というか、「自分が正しいと思って疑わない人」という感じです。個人的な意見では、シルヴァンのようなやり方は、チェスに限らずだけど、何かを教育するという点であまり適していない感じがします。ただ、シルヴァンに対する印象は、映画の展開とともにどんどんと変わっていきます。「なんだ、メッチャいい奴じゃん!」みたいに変わっていくんですよね。シルヴァンの行動もまた、ファヒムが奇跡を掴み取るための重要な役割を果たすことになります。
チェスがモチーフになっていますけど、チェスのことはまったく分からなくて大丈夫です。僕も、将棋は分かるんで、チェスもなんとなく分かりますが、ただ知ってても知らなくても関係ないという感じがします。まあ、チェスについて詳しい人なら、「なるほど、あそこでああ動かすのか」「あれは誰々の棋譜だな」みたいなことが分かって、より面白いのかもしれませんけど。
個人的には、メチャクチャ良い映画でした。
「ファヒム パリが見た奇跡」を観に行ってきました
「シチリアーノ 裏切りの美学」を観に行ってきました
昔から、男同士の関係というのがよく分からなかったし、しっくりこない。男同士の絆とか友情とか、とかく「当たり前」のように描かれがちなそういうものが、僕にはずっと理解できないものだった。男と関わっている時の方が違和感を覚えることが多かったし、部活の上下関係とか、物語で描かれるヤクザの関係性とか、そういうものには未だにピンと来ていない。
という僕自身の性質も関係しているのかもしれないけど、こういうマフィアの関係性みたいなものが、全然理解できないし、「は?何それ?」みたいに感じてしまうことが多い。
特に理解できないのが、「忠誠を誓う」という概念。本作の主人公であるマフィアの重鎮トンマーゾ・ブシェッタはよく、「コーザ・ノストラに忠誠を誓った」という発言をするのだけど、どういうことなんだろうなぁ。僕の感覚では、組織でも人でも、自分の中で何か失望を感じれば、その組織なり人なりから離れるのは当然だと思うのだけど、どうも「忠誠を誓う」というのは、相手がどうであっても裏切らずに付き従っていく、という感じに思える。そんな不合理なことは、僕には許容できないなぁ。「先輩の言うことは絶対」みたいな不合理さにもどうしても馴染めないから、仕方ないのだけど。
まあ、そういう意味では、その”血の掟”を破って政府に寝返ったトンマーゾ・ブシェッタが主人公だったので、まだ面白く見れたかな、という感じはします。
内容に入ろうと思います。登場人物が非常に多く、状況の設定があまりなされない(イタリアでは説明せずとも伝わる事件を扱っているんだと思う)ので、正直ちゃんとは把握できてないけど。
1980年代初頭。シチリアのパレルモは、全世界のヘロインがここで取引されると言われる地だった。コーザ・ノストラというマフィアに属していたブシェッタは、麻薬の取引を巡って対立する組織との仲裁を試みるがうまく行かず、ブラジルのリオデジャネイロに逃れた。しかしパレルモでは、組織間の抗争が激化。組織の仲間や家族たちが、街中で無残に銃撃されるなどして次々に命を落としていった。パレルモも家族の様子を知ろうと電話するも、彼らは取り乱しており、家族を託してきた組織の仲間であるカロにも、何故か連絡がつかない。
そんなある日、ブシェッタはブラジルで突如逮捕される。苛烈な拷問を受けるものの、”血の掟”があるために裏切ろうとしないブシェッタだったが、イタリアに送還され、ファルコーネ判事と出会ったことで態度を変えることになる。彼は聴取に応じるようになり、487ページにも及ぶ長大な証言をする。それを元に、366名が逮捕され、歴史的な大裁判へと発展するが…。
というような話です。
実話を元にした話は好きだし、面白そうだと思ったんだけど、どうもあんまり消化しきれない作品でした。最初に書いたみたいに、マフィアみたいな男同士の関係性がイマイチ理解できなかったのと、後は、ブシェッタがどうして心変わりをしたのかイマイチよく分からなくて、モヤモヤする部分がありました。ブシェッタの心変わりについては、最後の最後で明かしてはいるんだけど、でもそうだとしたら、もうちょっとその描写を描かないと伝わらないかなー、と。これも、もしかしたらイタリアでは有名な話で、ちゃんと描かなくてもイタリア人は知ってるっていう可能性もあるからなんとも言えないんだけど、ちょっと僕としては理解が及ばなかったなぁ。
個人的に興味が湧いたのは、イタリアの裁判の進め方です。1980年代の裁判だから今は違うのかもしれないけど、裁判の中に「対決」というコーナー(コーナーって表現は変だけど)がある。これは証言者・ブシェッタに対して被告人が、「俺はブシェッタと対決したいぞ!」と申し出て展開される。裁判長を介しつつだけど、証言者と被告人が直接的に話す、みたいな感じで、正直どんな意図があって行われているのはよく分からなかったけど、きっとイタリアの裁判の仕組みにはそういう「対決」っていうのがあるんだな、と。日本ではなかなかお目にかかれない仕組みなんで、面白いなと思いました。
ところどころ、実際の映像が挟み込まれていて、イタリアでの当時の関心の高さがイメージできるな、と。しかし、あんな街中でバンバン銃撃戦とかあったら、一般市民は大変だろうなぁ。
「シチリアーノ 裏切りの美学」を観に行ってきました
という僕自身の性質も関係しているのかもしれないけど、こういうマフィアの関係性みたいなものが、全然理解できないし、「は?何それ?」みたいに感じてしまうことが多い。
特に理解できないのが、「忠誠を誓う」という概念。本作の主人公であるマフィアの重鎮トンマーゾ・ブシェッタはよく、「コーザ・ノストラに忠誠を誓った」という発言をするのだけど、どういうことなんだろうなぁ。僕の感覚では、組織でも人でも、自分の中で何か失望を感じれば、その組織なり人なりから離れるのは当然だと思うのだけど、どうも「忠誠を誓う」というのは、相手がどうであっても裏切らずに付き従っていく、という感じに思える。そんな不合理なことは、僕には許容できないなぁ。「先輩の言うことは絶対」みたいな不合理さにもどうしても馴染めないから、仕方ないのだけど。
まあ、そういう意味では、その”血の掟”を破って政府に寝返ったトンマーゾ・ブシェッタが主人公だったので、まだ面白く見れたかな、という感じはします。
内容に入ろうと思います。登場人物が非常に多く、状況の設定があまりなされない(イタリアでは説明せずとも伝わる事件を扱っているんだと思う)ので、正直ちゃんとは把握できてないけど。
1980年代初頭。シチリアのパレルモは、全世界のヘロインがここで取引されると言われる地だった。コーザ・ノストラというマフィアに属していたブシェッタは、麻薬の取引を巡って対立する組織との仲裁を試みるがうまく行かず、ブラジルのリオデジャネイロに逃れた。しかしパレルモでは、組織間の抗争が激化。組織の仲間や家族たちが、街中で無残に銃撃されるなどして次々に命を落としていった。パレルモも家族の様子を知ろうと電話するも、彼らは取り乱しており、家族を託してきた組織の仲間であるカロにも、何故か連絡がつかない。
そんなある日、ブシェッタはブラジルで突如逮捕される。苛烈な拷問を受けるものの、”血の掟”があるために裏切ろうとしないブシェッタだったが、イタリアに送還され、ファルコーネ判事と出会ったことで態度を変えることになる。彼は聴取に応じるようになり、487ページにも及ぶ長大な証言をする。それを元に、366名が逮捕され、歴史的な大裁判へと発展するが…。
というような話です。
実話を元にした話は好きだし、面白そうだと思ったんだけど、どうもあんまり消化しきれない作品でした。最初に書いたみたいに、マフィアみたいな男同士の関係性がイマイチ理解できなかったのと、後は、ブシェッタがどうして心変わりをしたのかイマイチよく分からなくて、モヤモヤする部分がありました。ブシェッタの心変わりについては、最後の最後で明かしてはいるんだけど、でもそうだとしたら、もうちょっとその描写を描かないと伝わらないかなー、と。これも、もしかしたらイタリアでは有名な話で、ちゃんと描かなくてもイタリア人は知ってるっていう可能性もあるからなんとも言えないんだけど、ちょっと僕としては理解が及ばなかったなぁ。
個人的に興味が湧いたのは、イタリアの裁判の進め方です。1980年代の裁判だから今は違うのかもしれないけど、裁判の中に「対決」というコーナー(コーナーって表現は変だけど)がある。これは証言者・ブシェッタに対して被告人が、「俺はブシェッタと対決したいぞ!」と申し出て展開される。裁判長を介しつつだけど、証言者と被告人が直接的に話す、みたいな感じで、正直どんな意図があって行われているのはよく分からなかったけど、きっとイタリアの裁判の仕組みにはそういう「対決」っていうのがあるんだな、と。日本ではなかなかお目にかかれない仕組みなんで、面白いなと思いました。
ところどころ、実際の映像が挟み込まれていて、イタリアでの当時の関心の高さがイメージできるな、と。しかし、あんな街中でバンバン銃撃戦とかあったら、一般市民は大変だろうなぁ。
「シチリアーノ 裏切りの美学」を観に行ってきました
「インセプション」を観に行ってきました
もちろんその評価の高さを知った上で観に行ったけど、やっぱり凄い映画だったなぁ!
内容に入ろうと思います。
コブは、ちょっと特殊な産業スパイとして暗躍している。それは、対象者が見る「夢」から機密情報を抜き取る、というものだ。覚醒状態よりも無防備な睡眠状態の潜在意識に入り込み、覚醒状態では絶対に手に入らない情報を盗み出すのだ。とある事情から国際指名手配を受けているコブは、ある任務に失敗、雲隠れするつもりでいたが、そのミッションの対象者であったサイトー(つまり、サイトーの夢から機密情報を奪おうとした)から、新たな依頼を受ける。それが「インセプション」だ。夢の中に自在に入り込める彼は、潜在意識から情報を抜き取るだけではなく、潜在意識に新たな情報を挿入(インセプション)することも、原理的には出来るのだ。しかしインセプションは、超高難度のミッションで、相棒であるアーサーはコブを引き留めようとする。しかしコブは、指名手配犯であるが故に自宅に帰れず、子供たちとも会えていない状況を、ミッション成功の暁にはサイトーが好転してくれるという報酬にすがり、このミッションを引き受けることにする。彼は、この難ミッションを遂行する仲間集めを始め、”設計士”として大学生のアリアドネを、”偽造師”としてイームスを、”調合師”としてユフスを迎え、超帝国企業の次期会長であるロバートの頭に、帝国崩壊を導くための考えを植え込むことにするが…。
というような話です。
僕がこの映画を観る前に知っていた情報は非常に限られていて、「監督がクリストファー・ノーラン」、「可能な限りCGを使っていない映像」ということだけです。レオナルド・ディカプリオが出ることも、渡辺謙が出ることも、冒頭で日本のシーンがあることも知らないまま観に行きました。
前評判通り、映像はやっぱり凄いですね。CDを一切使っていないわけではないということは理解しているのだけど、じゃあどのシーンのどこまで実写でどこからがCGなんだろう?と思いながら見てしまいました。映画を観る前に知っていたのは、ホテルで無重力っぽい感じで男2人がバトルするシーン。回転する廊下を作成して撮った、ということは知っていました。でも他にもネットで調べると、冒頭の方で出てくるパリの街が爆破されるようなシーンとか、機関車が登場する場面も基本実写だとありました。あとやっぱり分からないのは、無重力のシーンなんだよなぁ。「インターステラー」でも思ったけど、どうやって無重力のシーンを撮ってるんだろう。宇宙飛行士の訓練施設みたいなところがあるのは知ってるけど、それにしたって無重力のシーンを全部その施設を使えば撮れるんだろうか?
今回は、夢から夢へと降りていくという、頭が混乱しそうな複雑な構成の物語ですけど、その度にシーンがまったく違うところに飛んで、普通だったら繋がらない光景が頻繁に切り替わっていく映像は、なんだか新鮮でした。この映画では、夢の中の夢の中の夢の中の夢という、4段階の夢が存在するので、同時に最大4つの物語が展開することになります。そして、それぞれは、「誰かの夢」という形で繋がっているので、上位の夢が下位の夢に影響を及ぼす。それぞれの世界の中で起こる不条理な現象が、その上位の夢の影響を受けているというのは面白いと思うし、その設定があったからこそ、異常な映像を生み出す必然性が生まれるとも言えます。
映像も凄かったけど、物語も凄かったです。一番感心したのは、夢の中の夢の中の夢の中の夢という4段階の夢が登場する複雑な物語を、面白く見せる物語にしていることです。僕は正直、この点に一番驚きました。正直、映画の冒頭は何がなんだかさっぱりで振り落とされそうになりましたけど、仲間集めを始める辺りから少しずつルールが分かりかけてきます。ただ、彼らがミッションを決行に移すというタイミングになってもまだ、僕はこの物語のルールをきちんとは捉えきれていなかったと思います。それでも、物語を追いかけていくと、ちゃんと理解できる。ちゃんと理解しようと思ったら結構複雑な設定があると思うんだけど、そういう部分にあまり意識を向けさせずに、映像の打ち出し方でルールや世界観を上手く見せていて、凄いなぁ、と思いました。もちろん、細部までちゃんと説明しろと言われたら出来ないし、そういう意味では理解はしてないんだけど、でも、物語を追いかける分には十分だし、面白かったと思える。ここが非常に大事だなと思いました。ちゃんとは理解できないけど面白い、という感覚がちゃんと残れば、一度しか見ない人も満足だし、何度も見ようというモチベーションにも繋がるでしょう。僕は、ジブリ映画を観るとよく、ちゃんとは理解できないけど面白い、という感覚になるのだけど、方向性としてはそういう感じに近いなと思います。
しかもこの物語、さらに複雑なことに、この難ミッションとは別に、コブ個人の物語も挿管されていく。これも、ちゃんと理解しようと思ったら結構複雑なはずなんだけど、分かった感はちゃんとあるし、このコブ個人の物語が挿管されることによって、全然理解できなかったコブという個人の人間性が分かったり、アリアドネとの関係性が面白くなったりします。
この映画では、基本的に登場人物たちは、「ミッション遂行のための駒」という風にしか描かれません。コブ以外の登場人物の、個人の背景描写はほぼゼロと言っていいでしょう。そういう意味で、「共感」を重視する人には評価が上がりにくい物語になってしまう可能性もあったでしょう。でもそこに、コブ個人の物語が色濃く描かれることで、唯一背景描写がなされるコブに対して「共感」が生まれる余地が出てくる。そういう意味でも、このコブの物語は非常に重要だな、と。
しかしそういうことを考えなくても、このコブの物語は、なんだか考えさせられるな、と。夢を扱った物語なので、「現実とは何か?」という問いが登場するのはある程度予想できることだとは言え、この映画で問いかけられる「現実とは何か?」は、幾重にも複雑に折り重なった様々な要素が絡んでいて、簡単に答えを出せるものではないな、と。この映画と同じような状況下で「現実とは何か?」という問いが繰り出されることはまずないでしょうが、人工知能や仮想現実などが様々な形で世の中に登場し始めている現代においては、テクノロジーの進化と共に、「現実とは何か?」という哲学的な問題に答えなければならない瞬間が訪れるかもしれないなぁ、と思ったりしました。
映画のラストシーンも、好きですね。まさにこれこそ、「現実とは何か?」という問いそのものだな、と。問いそのもののまま終わる、というのも、良い余韻を残していると感じました。
「インセプション」を観に行ってきました
内容に入ろうと思います。
コブは、ちょっと特殊な産業スパイとして暗躍している。それは、対象者が見る「夢」から機密情報を抜き取る、というものだ。覚醒状態よりも無防備な睡眠状態の潜在意識に入り込み、覚醒状態では絶対に手に入らない情報を盗み出すのだ。とある事情から国際指名手配を受けているコブは、ある任務に失敗、雲隠れするつもりでいたが、そのミッションの対象者であったサイトー(つまり、サイトーの夢から機密情報を奪おうとした)から、新たな依頼を受ける。それが「インセプション」だ。夢の中に自在に入り込める彼は、潜在意識から情報を抜き取るだけではなく、潜在意識に新たな情報を挿入(インセプション)することも、原理的には出来るのだ。しかしインセプションは、超高難度のミッションで、相棒であるアーサーはコブを引き留めようとする。しかしコブは、指名手配犯であるが故に自宅に帰れず、子供たちとも会えていない状況を、ミッション成功の暁にはサイトーが好転してくれるという報酬にすがり、このミッションを引き受けることにする。彼は、この難ミッションを遂行する仲間集めを始め、”設計士”として大学生のアリアドネを、”偽造師”としてイームスを、”調合師”としてユフスを迎え、超帝国企業の次期会長であるロバートの頭に、帝国崩壊を導くための考えを植え込むことにするが…。
というような話です。
僕がこの映画を観る前に知っていた情報は非常に限られていて、「監督がクリストファー・ノーラン」、「可能な限りCGを使っていない映像」ということだけです。レオナルド・ディカプリオが出ることも、渡辺謙が出ることも、冒頭で日本のシーンがあることも知らないまま観に行きました。
前評判通り、映像はやっぱり凄いですね。CDを一切使っていないわけではないということは理解しているのだけど、じゃあどのシーンのどこまで実写でどこからがCGなんだろう?と思いながら見てしまいました。映画を観る前に知っていたのは、ホテルで無重力っぽい感じで男2人がバトルするシーン。回転する廊下を作成して撮った、ということは知っていました。でも他にもネットで調べると、冒頭の方で出てくるパリの街が爆破されるようなシーンとか、機関車が登場する場面も基本実写だとありました。あとやっぱり分からないのは、無重力のシーンなんだよなぁ。「インターステラー」でも思ったけど、どうやって無重力のシーンを撮ってるんだろう。宇宙飛行士の訓練施設みたいなところがあるのは知ってるけど、それにしたって無重力のシーンを全部その施設を使えば撮れるんだろうか?
今回は、夢から夢へと降りていくという、頭が混乱しそうな複雑な構成の物語ですけど、その度にシーンがまったく違うところに飛んで、普通だったら繋がらない光景が頻繁に切り替わっていく映像は、なんだか新鮮でした。この映画では、夢の中の夢の中の夢の中の夢という、4段階の夢が存在するので、同時に最大4つの物語が展開することになります。そして、それぞれは、「誰かの夢」という形で繋がっているので、上位の夢が下位の夢に影響を及ぼす。それぞれの世界の中で起こる不条理な現象が、その上位の夢の影響を受けているというのは面白いと思うし、その設定があったからこそ、異常な映像を生み出す必然性が生まれるとも言えます。
映像も凄かったけど、物語も凄かったです。一番感心したのは、夢の中の夢の中の夢の中の夢という4段階の夢が登場する複雑な物語を、面白く見せる物語にしていることです。僕は正直、この点に一番驚きました。正直、映画の冒頭は何がなんだかさっぱりで振り落とされそうになりましたけど、仲間集めを始める辺りから少しずつルールが分かりかけてきます。ただ、彼らがミッションを決行に移すというタイミングになってもまだ、僕はこの物語のルールをきちんとは捉えきれていなかったと思います。それでも、物語を追いかけていくと、ちゃんと理解できる。ちゃんと理解しようと思ったら結構複雑な設定があると思うんだけど、そういう部分にあまり意識を向けさせずに、映像の打ち出し方でルールや世界観を上手く見せていて、凄いなぁ、と思いました。もちろん、細部までちゃんと説明しろと言われたら出来ないし、そういう意味では理解はしてないんだけど、でも、物語を追いかける分には十分だし、面白かったと思える。ここが非常に大事だなと思いました。ちゃんとは理解できないけど面白い、という感覚がちゃんと残れば、一度しか見ない人も満足だし、何度も見ようというモチベーションにも繋がるでしょう。僕は、ジブリ映画を観るとよく、ちゃんとは理解できないけど面白い、という感覚になるのだけど、方向性としてはそういう感じに近いなと思います。
しかもこの物語、さらに複雑なことに、この難ミッションとは別に、コブ個人の物語も挿管されていく。これも、ちゃんと理解しようと思ったら結構複雑なはずなんだけど、分かった感はちゃんとあるし、このコブ個人の物語が挿管されることによって、全然理解できなかったコブという個人の人間性が分かったり、アリアドネとの関係性が面白くなったりします。
この映画では、基本的に登場人物たちは、「ミッション遂行のための駒」という風にしか描かれません。コブ以外の登場人物の、個人の背景描写はほぼゼロと言っていいでしょう。そういう意味で、「共感」を重視する人には評価が上がりにくい物語になってしまう可能性もあったでしょう。でもそこに、コブ個人の物語が色濃く描かれることで、唯一背景描写がなされるコブに対して「共感」が生まれる余地が出てくる。そういう意味でも、このコブの物語は非常に重要だな、と。
しかしそういうことを考えなくても、このコブの物語は、なんだか考えさせられるな、と。夢を扱った物語なので、「現実とは何か?」という問いが登場するのはある程度予想できることだとは言え、この映画で問いかけられる「現実とは何か?」は、幾重にも複雑に折り重なった様々な要素が絡んでいて、簡単に答えを出せるものではないな、と。この映画と同じような状況下で「現実とは何か?」という問いが繰り出されることはまずないでしょうが、人工知能や仮想現実などが様々な形で世の中に登場し始めている現代においては、テクノロジーの進化と共に、「現実とは何か?」という哲学的な問題に答えなければならない瞬間が訪れるかもしれないなぁ、と思ったりしました。
映画のラストシーンも、好きですね。まさにこれこそ、「現実とは何か?」という問いそのものだな、と。問いそのもののまま終わる、というのも、良い余韻を残していると感じました。
「インセプション」を観に行ってきました
「この世の果て、数多の終焉」を観に行ってきました
内容に入ろうと思います。
舞台は、1945年のインドシナ。第二次世界大戦末期のこの時期、フランスの占領下に置かれており、その占領に反対する旗手として、ヴォー・ビン・イエンがいた。一方、北部は、中国と戦争中の日本軍の支配下にあった。
3月9日。日本軍の兵士がショータン駐屯地のフランス兵を皆殺しにする虐殺が発生。しかし、死んだと見せかけてその地獄から脱したのが、フランス兵のロベール・タッセンだった。彼は、地元原住民の手によって救われ回復、やがて町まで降りていけるように。そこでフランス兵と接触、軍に復帰したいと申し出た。
当然、本国フランスに帰国する提案も受けた。しかし彼は、この地に残って戦うことに決めた。理由は、同じくショータン駐屯地に所属していた兄夫婦の復讐だった。義姉は腹を割かれ、引きずり出された胎児を胸に縫い付けられた。そしてそれを見させられた兄は、斬首された。手を下したのは日本兵だが、タッセンは、ヴォー・ビンが日本兵の行動を笑って黙認したとして彼を激しく憎悪。個人的な怒りを募らせて軍に留まることにしたのだ。
新たに配属された部隊では”新入り”にも関わらず、新入りらしからぬ態度を取り続けるタッセンは、毀誉褒貶様々な反応を受けることになるが、彼はヴォー・ビンへの復讐に燃えている。一方、売春街で知り合ったマイという女性とお金を介した逢瀬を繰り返すが、彼女との関係性に次第に悩まされることになり…。
というような話です。
ちょっと僕にはよく分からない映画だったなぁ。「よく分からない」というのは、どこに焦点が当たっているのか、どこが中核として捉えられるべきなのかということが、なんとも掴みにくかった、という意味です。戦争を扱った映画だから当然、「戦争の悲惨さ・無意味さ・残虐さ」みたいなものは組み込まれているし、それらが理解できないという意味ではない。そうではなくて、そういう戦争映画に通底する土台の上に、どんな建造物を建てたかったのか、僕にはよく分からなかったということだ。
タッセンという青年の苦悩は描かれるが、彼の思考はまとまりがない。いや、もちろんそれは当然だ。戦争中なのだから、基本的に人間の思考は混乱しているだろう。ただ、それを「リアル」と呼んでいいのか。物語として描くのであれば、もう少し「捉えやすさ」みたいなのもあっていいのかなぁ、という気がする。
なんとなく理解できることは、「何と戦っているのか分からない虚しさ」と「戦うべき相手が見えているのにどう戦うべきか分からない虚しさ」の対比だ。前者がヴォー・ビン・イエンであり、後者がマイだ。
ヴォー・ビン・イエンは、結局映画の中で登場しない。彼はタッセンにとっての敵であるが、観客からすれば最後の最後まで存在しないし、タッセンにしても、ヴォー・ビン・イエンの存在を明確に捉えられていない。歩くのもやっとという密林に覆われたインドシナでは、隠れるところは山程あり、戦闘を仕掛けようにもままならない。タッセンはチャンスを伺ってはヴォー・ビン・イエンを打ち倒すために行動をするが、彼が手応えを感じたことは一度もないだろう。結局彼は、戦っている実感を得られないままだ。
一方、マイとの関係については、常に目の前にマイの存在がある。マイを探して見つからなかったことは基本的にない。いつでも手の届く範囲にマイはいるが、しかしどう対峙すべきか分からない。このマイとの関係性の葛藤は、正直僕にはよく理解できなかったが(映画のラストも、あれは一体なんだったんだろう?あの人とあの人に関係があって、しかもなんかよろしくない状態になってるのは何故?)、とにかくタッセンがマイとの関係で困惑してどうしていいか分からないでいる、ということは分かった。
とにかく最後まで、どんな軸をメインに観ていくのが正解なのかうまく掴めず、僕自身の満足度は低かったけど、映像はキレイだったし、それでいて、戦争のむごたらしさみたいなのもきちんとインパクトと共に届けていて、その辺りの映像の部分は良いんじゃないかなと思う。
「この世の果て、数多の終焉」を観に行ってきました
舞台は、1945年のインドシナ。第二次世界大戦末期のこの時期、フランスの占領下に置かれており、その占領に反対する旗手として、ヴォー・ビン・イエンがいた。一方、北部は、中国と戦争中の日本軍の支配下にあった。
3月9日。日本軍の兵士がショータン駐屯地のフランス兵を皆殺しにする虐殺が発生。しかし、死んだと見せかけてその地獄から脱したのが、フランス兵のロベール・タッセンだった。彼は、地元原住民の手によって救われ回復、やがて町まで降りていけるように。そこでフランス兵と接触、軍に復帰したいと申し出た。
当然、本国フランスに帰国する提案も受けた。しかし彼は、この地に残って戦うことに決めた。理由は、同じくショータン駐屯地に所属していた兄夫婦の復讐だった。義姉は腹を割かれ、引きずり出された胎児を胸に縫い付けられた。そしてそれを見させられた兄は、斬首された。手を下したのは日本兵だが、タッセンは、ヴォー・ビンが日本兵の行動を笑って黙認したとして彼を激しく憎悪。個人的な怒りを募らせて軍に留まることにしたのだ。
新たに配属された部隊では”新入り”にも関わらず、新入りらしからぬ態度を取り続けるタッセンは、毀誉褒貶様々な反応を受けることになるが、彼はヴォー・ビンへの復讐に燃えている。一方、売春街で知り合ったマイという女性とお金を介した逢瀬を繰り返すが、彼女との関係性に次第に悩まされることになり…。
というような話です。
ちょっと僕にはよく分からない映画だったなぁ。「よく分からない」というのは、どこに焦点が当たっているのか、どこが中核として捉えられるべきなのかということが、なんとも掴みにくかった、という意味です。戦争を扱った映画だから当然、「戦争の悲惨さ・無意味さ・残虐さ」みたいなものは組み込まれているし、それらが理解できないという意味ではない。そうではなくて、そういう戦争映画に通底する土台の上に、どんな建造物を建てたかったのか、僕にはよく分からなかったということだ。
タッセンという青年の苦悩は描かれるが、彼の思考はまとまりがない。いや、もちろんそれは当然だ。戦争中なのだから、基本的に人間の思考は混乱しているだろう。ただ、それを「リアル」と呼んでいいのか。物語として描くのであれば、もう少し「捉えやすさ」みたいなのもあっていいのかなぁ、という気がする。
なんとなく理解できることは、「何と戦っているのか分からない虚しさ」と「戦うべき相手が見えているのにどう戦うべきか分からない虚しさ」の対比だ。前者がヴォー・ビン・イエンであり、後者がマイだ。
ヴォー・ビン・イエンは、結局映画の中で登場しない。彼はタッセンにとっての敵であるが、観客からすれば最後の最後まで存在しないし、タッセンにしても、ヴォー・ビン・イエンの存在を明確に捉えられていない。歩くのもやっとという密林に覆われたインドシナでは、隠れるところは山程あり、戦闘を仕掛けようにもままならない。タッセンはチャンスを伺ってはヴォー・ビン・イエンを打ち倒すために行動をするが、彼が手応えを感じたことは一度もないだろう。結局彼は、戦っている実感を得られないままだ。
一方、マイとの関係については、常に目の前にマイの存在がある。マイを探して見つからなかったことは基本的にない。いつでも手の届く範囲にマイはいるが、しかしどう対峙すべきか分からない。このマイとの関係性の葛藤は、正直僕にはよく理解できなかったが(映画のラストも、あれは一体なんだったんだろう?あの人とあの人に関係があって、しかもなんかよろしくない状態になってるのは何故?)、とにかくタッセンがマイとの関係で困惑してどうしていいか分からないでいる、ということは分かった。
とにかく最後まで、どんな軸をメインに観ていくのが正解なのかうまく掴めず、僕自身の満足度は低かったけど、映像はキレイだったし、それでいて、戦争のむごたらしさみたいなのもきちんとインパクトと共に届けていて、その辺りの映像の部分は良いんじゃないかなと思う。
「この世の果て、数多の終焉」を観に行ってきました
「はりぼて」を観に行ってきました
ドキュメンタリー映画を見て、吹き出すように笑っちゃうっていうのは、なかなかない経験だったなぁ。扱われている事件自体は、確かに、数年前にニュースで目にした記憶があるけど、その舞台裏はこんな感じになってたのか、と非常に興味深く見た。
一連の騒動の発端になったのが、富山市議会議員の議員報酬引き上げだった、ということが、あまりに皮肉が決まりすぎていて最高だった。市民から反対を受けていた、月額10万円の増額を推し進めなければ、彼らは議員辞職したり、逮捕されたりすることにならなかったかもしれない。議員の視点に立てば、年間120万円を得る代わりに、莫大なものを失った、といえるだろう。
議員報酬引き上げを画策しまとめ上げたのは、議席の7割を占める、自民党系の最大会派のドンのような存在である中川勇。そもそも富山県というのは、有権者に占める自民党員の割合が3.44%で、10年年連続で1位だという。自民党である、ということがこの事件にどれだけ影響を及ぼしたのか分からないが、ともかく、富山県議会の最大派閥を舞台にしている、ということが、問題を大きくしたことは間違いないだろう。
中川勇は、他の会派の議員の意見もまとめ、月額10万円の増額を答申する。その理由を、この映画の制作元で、富山県議会の腐敗を暴いたチューリップテレビが取材するも、よく分からないことを言って丸め込む。とにかく、理由らしい理由はない。
しかし県は、「外部の有識者による報酬審議会」を招集し、この件を検討し、2回計3時間の会合で、10万円の増額が決定したという。後にチューリップテレビが、報酬審議会の議事録を情報公開請求してみると、「議員たちは除雪作業もしているから」などという委員の発言があったりした。まあ、客観的に見れば、明らかに馴れ合いで、事実、委員の半数以上が、自民党と何らかの関係がある人物だったという。
いずれにせよ、議員報酬の増額は決定した。これらの決定に対して市長に「受け止め」を聞くと、「議会のことに関して、私はコメントする立場にない」と発言する。この映画の各所で市長は登場するが、市長のコメントはほぼ一貫しており、「コメントする立場にない」というものだった。この市長も、なかなかヤバい。
まあ、市長はともかく、市民からの反対がある中での増額で、理由らしい理由も見当たらない。そこでチューリップテレビの記者は、富山市議の政務活動費の支出に関する、1200ページに及ぶ情報公開請求を行うことにする。
政務活動費というのは、政治に関係した経費の支出に使えるお金である。資料の印刷代や、何かの会合の場所代や、出張費などだ。富山市議会では、議員一人につき月額15万円が各会派に支給されており、”余った分は返還しなければならない”と決まっている。
しかし、実は富山市議会は、20万都市において唯一、政務活動費を毎年”全額使い切っている”のである。毎年きっちり100%使い切っているのは、デカい都市だと富山市だけ、ということだ。怪しい臭いがぷんぷんする。
というわけで調べてみると、出るわ出るわ。不正のオンパレード。最初にやり玉に上がったのは、議員報酬の引き上げを取りまとめた中川勇。行っていない「市政報告会」を行ったことにして、会場代や資料の印刷代を請求していた。
とにかく面白いのは、不正のやり方が杜撰すぎるということだ。どうせ誰も調べやしないと高を括っていたのだろう。ちょっと調べればすぐバレるようなことを平然とやっている。領収書の記載について、まずチューリップテレビの記者は中川氏に話を聞く。すると彼は、「場所が変わっただけだ」と、料亭で行ったと主張。その後、その”料亭での市政報告会”に出席した人物に話を聞くと、「市政報告会なんかやってたら酒なんか飲めないわな」なんてするっと言っちゃう。杜撰にも程がある。これでバレないわけがない。記者も拍子抜けだろう。この映画は、ドキュメンタリー映画によくあるような重厚な音楽ではなく、間の抜けた音楽が随所に使われている。これはたぶん、チューリップテレビ側が「調査報道感」を出すことを恥ずかしいと思ったからじゃないかと勝手に推測している。調査報道と呼べるほど、調査調査していない。1200ページの領収書をチェックする部分はメチャクチャ大変だったと思うが、疑惑が浮かべば、あとは中学生だって裏取り出来るんじゃないかと思うくらいの稚拙さである。
ともかく、中川氏は着服を認め、議員辞職。後に詐欺罪で起訴されることとなる。国政選挙の候補者の選定にも関わる大物からずっこける形となった。
その後も、中川氏と同じ自民党会派からも続々、そして他会派からも不正が見つかり、結局1ヶ月で12人が議員辞職した。この時点でもう笑ってしまう。
しかし、ここで終わらないところが凄い。なんと、まったく別軸の疑惑が浮上することになる。
チューリップテレビの記者は議会事務局に、政務活動費の情報公開請求を行った。そして、その事実、つまり「チューリップテレビが政務活動費の情報公開請求を行った」ことが、中川勇氏に筒抜けになっていた、というのだ。
当然のことながら、その話を聞いた中川氏は、資料の印刷を頼んだ業者などに口止めを依頼していたという。いや、そうなるっしょ。実際にその事実を漏らした議会事務局の職員は、「私どもの上司ですから」という意味不明な弁明をしていた。教育長に、「これは守秘義務違反ではないのか?」と問いただすと、「まあ、同じ公務員内のことですからねぇ」というこれまた謎の回答。記者がさらに、「じゃあ、誰それが情報公開請求をしましたみたいな情報は、公務員であれば誰でも知りうる、ということになるってことですか?」と質問をすると、「まあ、そういう可能性もあるってことだろうね」と答える。
で、翌日記者会見をし、守秘義務違反を認め、謝罪した。もうコントかよって展開である。
その後もコントかよっていう展開は続く。議員辞職をした中川勇氏は、議長を務めていたので、代わりの議長を決める必要があった。その後なんと、「議長が決定する→その議長の不正が発覚→さらに議長が決まる→その議長の不正が発覚」という展開になる。つまり、「脛に傷がある」という自覚すらない、っていうことなんだろうなぁ。不正が発覚して議員が辞職しまくってる中で議長になれば、そりゃあ徹底的に調べられるでしょうよ。それなのに、議長になるって、アホなんかと。まあ、「この状況なら、議長は◯◯さんだよなぁ」みたいな流れがあって、そこで断るとむしろ怪しいから、バレないことを祈って議長職を受けている、ということなのかもしれないけど。
しかし、一番面白かったのは、五本幸正って人だなぁ。この人も、不正な領収書が見つかったんだけど、たぶん額が他の人ほどじゃなかったのと、その金額を返金したってことで、とりあえず「議員辞職はしない」っていう主張を押し通してた人。で、そのあと選挙がやってくる。彼は、演説の会場とかで土下座したりなんかして、「これから皆さんには一切ご迷惑をお掛けしません!」とか言って選挙に当選したんだけど、その2ヶ月後に不正発覚。まあそれは、選挙前のものなんだけど、でも普通さ、「皆さんにはご迷惑をお掛けしません」って言ってるならさ、自分のヤバそうな部分は全部出しとかないとダメじゃんね。
この人がある場面で「えー??」って言うんだけど、そこは会場の人が全員爆笑してた。いや、最高だったなぁ。政治家としてどうかは知らんけど、キャラクターは非常に優等生だった。
2020年1月1日時点では、以下のような状況だそうだ。
政務活動費の返還金額:
自民党会派 4528万円
全会派 6523万円
返還した議員のその後
辞職 14名
引退 1名
在職 10名
観ていて強く感じたことは、やっぱりチェック機能ってのは必要だよなぁ、ということだ。必ずしもそれがマスコミである必要はないのだけど(詳しく知らないけど、政治を監視する「オンブズマン」みたいな人たちもいるんじゃなかったっけ?)、やはりマスコミがチェック機能として適切に機能するのが良いのだと思う。
日本は、報道の自由度では先進国でかなり下位に位置する国だ。誰もチェックしなくなれば、ますます不正は横行するだろう。マスコミだけに押し付けてはいけないが(そもそも僕らが関心を持たないとマスコミが動く理由が生まれない)、マスコミの人、頑張ってくれ、と思った。
映画の最後に、正直ちょっとよく分からない、それまでの流れとは異質な展開があって、その部分はイマイチ理解できなかった。「マスコミ」というものが、様々な立場からの見方によってあるべき姿が微妙に異なる、ということなのだろうか。「正々報道」という、見事なキャッチコピーを掲げていたチューリップテレビだったが、そのポスターを剥がしてしまっていた。あれはなんだったんだろう?
「はりぼて」を観に行ってきました
一連の騒動の発端になったのが、富山市議会議員の議員報酬引き上げだった、ということが、あまりに皮肉が決まりすぎていて最高だった。市民から反対を受けていた、月額10万円の増額を推し進めなければ、彼らは議員辞職したり、逮捕されたりすることにならなかったかもしれない。議員の視点に立てば、年間120万円を得る代わりに、莫大なものを失った、といえるだろう。
議員報酬引き上げを画策しまとめ上げたのは、議席の7割を占める、自民党系の最大会派のドンのような存在である中川勇。そもそも富山県というのは、有権者に占める自民党員の割合が3.44%で、10年年連続で1位だという。自民党である、ということがこの事件にどれだけ影響を及ぼしたのか分からないが、ともかく、富山県議会の最大派閥を舞台にしている、ということが、問題を大きくしたことは間違いないだろう。
中川勇は、他の会派の議員の意見もまとめ、月額10万円の増額を答申する。その理由を、この映画の制作元で、富山県議会の腐敗を暴いたチューリップテレビが取材するも、よく分からないことを言って丸め込む。とにかく、理由らしい理由はない。
しかし県は、「外部の有識者による報酬審議会」を招集し、この件を検討し、2回計3時間の会合で、10万円の増額が決定したという。後にチューリップテレビが、報酬審議会の議事録を情報公開請求してみると、「議員たちは除雪作業もしているから」などという委員の発言があったりした。まあ、客観的に見れば、明らかに馴れ合いで、事実、委員の半数以上が、自民党と何らかの関係がある人物だったという。
いずれにせよ、議員報酬の増額は決定した。これらの決定に対して市長に「受け止め」を聞くと、「議会のことに関して、私はコメントする立場にない」と発言する。この映画の各所で市長は登場するが、市長のコメントはほぼ一貫しており、「コメントする立場にない」というものだった。この市長も、なかなかヤバい。
まあ、市長はともかく、市民からの反対がある中での増額で、理由らしい理由も見当たらない。そこでチューリップテレビの記者は、富山市議の政務活動費の支出に関する、1200ページに及ぶ情報公開請求を行うことにする。
政務活動費というのは、政治に関係した経費の支出に使えるお金である。資料の印刷代や、何かの会合の場所代や、出張費などだ。富山市議会では、議員一人につき月額15万円が各会派に支給されており、”余った分は返還しなければならない”と決まっている。
しかし、実は富山市議会は、20万都市において唯一、政務活動費を毎年”全額使い切っている”のである。毎年きっちり100%使い切っているのは、デカい都市だと富山市だけ、ということだ。怪しい臭いがぷんぷんする。
というわけで調べてみると、出るわ出るわ。不正のオンパレード。最初にやり玉に上がったのは、議員報酬の引き上げを取りまとめた中川勇。行っていない「市政報告会」を行ったことにして、会場代や資料の印刷代を請求していた。
とにかく面白いのは、不正のやり方が杜撰すぎるということだ。どうせ誰も調べやしないと高を括っていたのだろう。ちょっと調べればすぐバレるようなことを平然とやっている。領収書の記載について、まずチューリップテレビの記者は中川氏に話を聞く。すると彼は、「場所が変わっただけだ」と、料亭で行ったと主張。その後、その”料亭での市政報告会”に出席した人物に話を聞くと、「市政報告会なんかやってたら酒なんか飲めないわな」なんてするっと言っちゃう。杜撰にも程がある。これでバレないわけがない。記者も拍子抜けだろう。この映画は、ドキュメンタリー映画によくあるような重厚な音楽ではなく、間の抜けた音楽が随所に使われている。これはたぶん、チューリップテレビ側が「調査報道感」を出すことを恥ずかしいと思ったからじゃないかと勝手に推測している。調査報道と呼べるほど、調査調査していない。1200ページの領収書をチェックする部分はメチャクチャ大変だったと思うが、疑惑が浮かべば、あとは中学生だって裏取り出来るんじゃないかと思うくらいの稚拙さである。
ともかく、中川氏は着服を認め、議員辞職。後に詐欺罪で起訴されることとなる。国政選挙の候補者の選定にも関わる大物からずっこける形となった。
その後も、中川氏と同じ自民党会派からも続々、そして他会派からも不正が見つかり、結局1ヶ月で12人が議員辞職した。この時点でもう笑ってしまう。
しかし、ここで終わらないところが凄い。なんと、まったく別軸の疑惑が浮上することになる。
チューリップテレビの記者は議会事務局に、政務活動費の情報公開請求を行った。そして、その事実、つまり「チューリップテレビが政務活動費の情報公開請求を行った」ことが、中川勇氏に筒抜けになっていた、というのだ。
当然のことながら、その話を聞いた中川氏は、資料の印刷を頼んだ業者などに口止めを依頼していたという。いや、そうなるっしょ。実際にその事実を漏らした議会事務局の職員は、「私どもの上司ですから」という意味不明な弁明をしていた。教育長に、「これは守秘義務違反ではないのか?」と問いただすと、「まあ、同じ公務員内のことですからねぇ」というこれまた謎の回答。記者がさらに、「じゃあ、誰それが情報公開請求をしましたみたいな情報は、公務員であれば誰でも知りうる、ということになるってことですか?」と質問をすると、「まあ、そういう可能性もあるってことだろうね」と答える。
で、翌日記者会見をし、守秘義務違反を認め、謝罪した。もうコントかよって展開である。
その後もコントかよっていう展開は続く。議員辞職をした中川勇氏は、議長を務めていたので、代わりの議長を決める必要があった。その後なんと、「議長が決定する→その議長の不正が発覚→さらに議長が決まる→その議長の不正が発覚」という展開になる。つまり、「脛に傷がある」という自覚すらない、っていうことなんだろうなぁ。不正が発覚して議員が辞職しまくってる中で議長になれば、そりゃあ徹底的に調べられるでしょうよ。それなのに、議長になるって、アホなんかと。まあ、「この状況なら、議長は◯◯さんだよなぁ」みたいな流れがあって、そこで断るとむしろ怪しいから、バレないことを祈って議長職を受けている、ということなのかもしれないけど。
しかし、一番面白かったのは、五本幸正って人だなぁ。この人も、不正な領収書が見つかったんだけど、たぶん額が他の人ほどじゃなかったのと、その金額を返金したってことで、とりあえず「議員辞職はしない」っていう主張を押し通してた人。で、そのあと選挙がやってくる。彼は、演説の会場とかで土下座したりなんかして、「これから皆さんには一切ご迷惑をお掛けしません!」とか言って選挙に当選したんだけど、その2ヶ月後に不正発覚。まあそれは、選挙前のものなんだけど、でも普通さ、「皆さんにはご迷惑をお掛けしません」って言ってるならさ、自分のヤバそうな部分は全部出しとかないとダメじゃんね。
この人がある場面で「えー??」って言うんだけど、そこは会場の人が全員爆笑してた。いや、最高だったなぁ。政治家としてどうかは知らんけど、キャラクターは非常に優等生だった。
2020年1月1日時点では、以下のような状況だそうだ。
政務活動費の返還金額:
自民党会派 4528万円
全会派 6523万円
返還した議員のその後
辞職 14名
引退 1名
在職 10名
観ていて強く感じたことは、やっぱりチェック機能ってのは必要だよなぁ、ということだ。必ずしもそれがマスコミである必要はないのだけど(詳しく知らないけど、政治を監視する「オンブズマン」みたいな人たちもいるんじゃなかったっけ?)、やはりマスコミがチェック機能として適切に機能するのが良いのだと思う。
日本は、報道の自由度では先進国でかなり下位に位置する国だ。誰もチェックしなくなれば、ますます不正は横行するだろう。マスコミだけに押し付けてはいけないが(そもそも僕らが関心を持たないとマスコミが動く理由が生まれない)、マスコミの人、頑張ってくれ、と思った。
映画の最後に、正直ちょっとよく分からない、それまでの流れとは異質な展開があって、その部分はイマイチ理解できなかった。「マスコミ」というものが、様々な立場からの見方によってあるべき姿が微妙に異なる、ということなのだろうか。「正々報道」という、見事なキャッチコピーを掲げていたチューリップテレビだったが、そのポスターを剥がしてしまっていた。あれはなんだったんだろう?
「はりぼて」を観に行ってきました
「君が世界のはじまり」を観に行ってきました
いやー、思いがけず、メチャクチャ良い映画だった!正直、まったく期待してなかったから、思いがけない掘り出し物だった。
自分の力ではどうにも出来ないことって、世の中にはある。正直、今の世の中なら、お金を出したりテクノロジーを駆使したりすれば解決することは多い。容姿は整形できる。性別も変えられるし、性別を変えずともマイノリティのまま受け入れられる余地は少しずつ出てきた。先天的な病気に関しても、遺伝子治療が可能性を広げているし、障害は様々なテクノロジーでクリア出来る場合もある。
それでも、家族とか出生とかは、自分の力ではどうにも変えられない。これは、「家族」や「出生」というものの概念の方が根本的に変わらない限り、変化はないだろう。たとえば将来的に、「子供を産む」という行為が工場で管理されるようになり、「産んだ人=子供にとって最も重要な人」という概念が崩れるかもしれない。しかし、そういう激変でもない限り、家族や出生は、これからも人々を悩ませ続けるだろう。
両親が離婚していないか、借金など抱えていないか、子供を愛せる人か、ギャンブルやお酒に依存してしまう人か、将来的にリストラされてしまう人か、浮気する人か。都会に根を下ろしているか、地方に根を下ろしているか。こういうことは、子供にはどうにもならない。選択権はそもそも存在しない。強制的に、生まれてきてしまったその環境を、全面的に享受する以外にない。
本当にそれは、残酷なことだなぁ、といつも思う。僕自身は、一般的に見て酷い環境に生まれ育ったわけではないから、僕自身の実感として存在する感覚ではないのだけど、様々な環境で生きてきた人の話を見聞きする度に、そう感じる。
僕は、結婚をするつもりもなければ、子供を育てたいとも思っていない。僕にはどちらも、絶望的に向いてないと思っている。という話をすると、たまにこういうことを言われる。
「でもさ、向いてるかどうかなんてさ、やってみないと分かんないじゃん。だから、そういう機会があったら、一回やってみたらいいんじゃない?」
こういうことを言われる時、僕は内心苛立っている。それは、「そんなこと、お前が勝手に決めるんじゃねぇよ」というような苛立ちではない。そうではなくて、「そういう発想の人がたくさんいるから、辛い子供が世の中に山程いるんじゃないか?」と思ってしまうからだ。
一応、そういう意見を僕に言う人への擁護も書いておくと、そういう人は、「子供と接すれば誰だってその可愛さを理解できるし、そのチャンスを経験もしないで放棄するのはもったいない」という、非常にポジティブな気持ちで言っている。そのことは、もちろん理解している。僕ももちろん、そう信じられるならそう信じたい気持ちはある。今僕は、結婚していないし、子供と接する機会があってもそれは自分の子供じゃないから興味が持てないだけなんだ、と。
でも、そう信じるのは無理だ。何故なら、世の中には、虐待やネグレクトをする親がたくさんいるし、そこまで酷くなくても、子供目線で「とても良い親とは思えない」というような大人がたくさんいることを知っているからだ。そういう存在がごくごく僅かなのであれば、僕だって信じられるだろう。自分の子供じゃないから可愛いと思えないだけなんだ、とか。でも、あらゆる自治体に児童相談所があって、そしてそこの業務の手が回らないくらいの状況にあるということは、世の中には虐待やネグレクトがはびこっているし、であれば、児童相談所が担当する案件ではないレベルの問題はさらにたくさん起こっている、ということになるだろう。
世の中がそんな状態で、どうやったら信じられるだろう。自分に子供が出来たら、きっと愛せるはずだ、などと。
僕は正直、子供を育ててはいけない人というのはいると思う。そして、僕自身はそちら側に分類されると思っている。その自覚が正しいかどうかはともかくとして、問題は、「子育てをしてはいけないタイプの人なのに、子供を持つまでそのことに気づかない」という状況ではないか。そしてその根底には、先程のような、「自分の子供だったら可愛いって思えるって」とか「向いてるかなんて分かんないんだからやってみたらいいよ」というような楽観的な考え方なんだと思う。
人生の大半のことは、失敗したっていいし、放棄したっていいと思う。失敗を恐れていたらチャレンジは出来ないし、自分ひとりが何かを放棄したって、それなりに世の中は回っていくものだ。でも、子育てに関しては、失敗はともかく、放棄はしてはいけないと思う。新しい命をこの世に誕生させるということの重みは、どれだけ重く捉えても重すぎない。絶対に放棄してはいけないし、可能な限り子供に不快ではない環境を与え続けなければダメだと思う。
【自分だけ自由になりたいなんて、そんなんで人に優しくできるのかな?】
子供の頃にこんな風に感じてしまう、その経験そのものを否定するつもりはない。そういう痛みが、大人になった時に大きな何かに変わるかもしれない。だとしても、こんなこと、子供に思わせない人生の方が、絶対にいい。
内容に入ろうと思います。
高校生の縁(ゆかり)は、校内随一の優等生だが、いつもつるんでいるのは、テストでクラス最低点を取り、スカートの長さを指導する教師に暴言を吐き、授業をさぼってタバコを吸う問題児・琴子だ。琴子は感情をストレートに出し、騒いだり叫んだり笑ったりと大忙しで、縁とは真逆の性格なのだけど、二人はいつも一緒にいる。琴子は縁のことをいつも「エン」と呼んでいる。
同じ高校に通う純は、学校に友達はいるけど、なんとなくいつも時間を持て余している感じで、家に帰りたくなくて寄っている地元のショッピングモール「Bell Mall」に入り浸り、イライラが頂点に達しそうになると、ブルーハーツの「人にやさしく」を聴く。ある日彼女は、ショッピングモール屋上の駐車場の車の中で、同級生の男子がキスしているのを見かける。聞けば、父親の再婚相手である母親だという。二人はお互いのことをよく知らなかったけど、時々セックスをするようになり、また、ショッピングモールの地下で働く母親が裏口から入るのを見たことがあるとかで、閉館後のショッピングモールに忍び込んだりする。
立入禁止の場所でタバコを吸っていた琴子と、一緒にいた縁は、その建物で一人の男子生徒に遭遇する。泣いていた。そして、彼が立ち去ったあと、琴子は決意をする。その時付き合っていた8人目の彼氏と別れ、後に業平くんだと名前が判明したその彼を追いかけることになる…。
というような話です。
自分で書いておきながら、この内容紹介だと、なんとなく「キラキラした学園モノ」って感じになっちゃうなぁ、と思う。でも、実はこの点がこの作品の肝かな、とも思っている。映画全体は、正直、ハッピーオーラに包まれているわけではなく、全体的には暗めのトーンで進んでいく。冒頭こそ、「マンガ原作を映画化した作品」みたいな楽しげなテンションで進んでいくけど、途中から、画面全体に微妙にモヤがかかったみたいな、絶妙などんより感がにじみ出てくる。
ただ、この作品の場合、「キラキラ感の残滓」みたいなものもちゃんとあって、それで全体的にバランスが取れているような感じが凄くする。どういう部分から「キラキラの残滓」を感じるのかというのはうまく説明できないのだけど、絶妙などんより感の中に、僅かにキラキラの残滓を感じることで、僕のような37歳のオッサンでも良いって思えるような映画に仕上がっていると感じる。
その「キラキラの残滓」の一翼を担っていうのが、琴子だろう。琴子はマジでめちゃくちゃ好きなキャラだった。はっきり言って、近くにいて関わったら、ちょっと疲れそう。でも、ずっと遠目で見ていたいなぁ、というような吸引力がある。校内一のモテ男である岡田が琴子を見て、「あの人って、なんかちゃうよなぁ」とボソって言う場面があるんだけど、メッチャわかると思った。なんというか、何かのラインをひらりと飛び越えているような軽やかさがあって、凄く羨ましい。もちろん彼女にも、自分では振りほどけない重りみたいなものがあって、その軽やかさは、苛立ちとかどうにもならなさみたいなものを原動力にしているのかもしれないけど、それでも、目の前のくだらないつまらないやってらんない日常を、軽やかに舞っている感じは凄くいいなぁ、と思う。
この感想の冒頭で、家族とか出生の話をあれこれ書いたけど、映画の中でそれらはさほど明確には描かれない。それぞれみんな個別に色々あるんだけど、それらはなんとなく想像できるという程度にしか描かれないので、具体的にどういう状況なのかということがはっきり分かるわけではない。それらはこの映画の中心にあるわけではないのだけど、でもやっぱり、家族や出生が違っていたら、こういう高校生・高校生活にはなっていないんだろうな、という風に感じさせられる世界観で、物語においては無視できない要素になっている。
その中で、かなり屈折していると感じるのは縁だ。というのも、縁だけは、家族や出生の悩みが皆無だからだ。縁の家族についてはちょっと描かれるだけだが、広い家に住み、家族の仲が良く、縁自身も成績優秀だ。しかし、そのことは逆に、彼女にとっての重しになっている。具体的にそう描写される場面はないと思うけど、僕はそう感じた。
というのは、周りの人の苦労を知ってしまうからだ。家族や出生に問題を抱えている人のことを見てしまうからだ。そういう時、縁は、何も言えなくなってしまう。自分が、苦労している側ではないから、何を言っても言葉だけの、上辺だけのものになってしまうと彼女自身が感じてしまう。
映画の中で、教師が生徒に向かって、こんなことを言う場面がある。「お前たちが日々辛い環境にいることは先生知ってる。全部分かってる」。でも、泣きながらそう言う教師の言葉は、生徒にはまったく響いていないし、白けている。まあそうだろう。そして縁は、そういう立場に、つまり、自分が何も分かっていないのに分かっている側になりたくない、と感じているんじゃないかと思う。
37歳のオッサンがこんなことを言っても説得力はないけど、この映画ではそういう、「些細な言動でも致命的な何かが伝わってしまうことが分かっている世代」を、実に見事に描いている気がする。SNSの時代というのは、「自分の言動が誰にどんな風に受け止められ、どんな風に評価されているか見えてしまう時代」だ。そして、デジタルネイティブ世代は、子供の頃からそういう環境にいるからこそ、自分が何をどう言ったら相手にどう伝わってしまうかを理解しているし、だからこそ「言わない」という選択をする世代でもある。そういう感じが、凄く良かった。
純のキャラクターも、とても良かった。琴子ほど破天荒ではないし、琴子のように感情を爆発させるキャラクターでもなくて、琴子より純は、一般的な女子高生の感じに近いんだろうと思う。表向きには「どこにでもいるような女の子」風でありつつ、表に出せない鬱屈感みたいなものをいつも抱えていて、その放出先を求めている。そういう、何かの拍子に爆発してしまうんじゃないかというようなギリギリ感が凄く出ていて、純も凄く良かった。
劇中では、主要な登場人物たちは皆、テンションの低い、温度をあまり感じさせない喋り方をしていて、それも僕の好みにとても合ってた。基本的に、学校内でのシーンは少ない。学校で見せている「表向きの自分」を脱ぎ捨てたみたいな雰囲気が、その喋り方からにじみ出ている感じがした。また、彼らが集まるショッピングモール「Bell Mall」が近い内に閉店するということが決まっているという設定で、その「Bell Mall」内の場面が多かったことも、彼らの抱えているマイナスの部分が強調されているようで良かったなと思う。
とにかく、メチャクチャ好きな映画だったなぁ。正直、この感じのテンションの映像なら、6時間ぐらい続けてくれても見続けられる気がする。物語らしい物語が起こらなくても、主人公たちの日常が描かれていれば、全然見れちゃう気がするなぁ。というぐらい、ストーリーも良かったけど、それ以上に登場人物が凄く良かった。また、エンドロールは、主演の松本穂香が「人にやさしく」をアカペラで歌っていて、これもまたとてもよかった。ホント、全然期待してなかったんだけど、見て良かった~
「君が世界のはじまり」を観に行ってきました
自分の力ではどうにも出来ないことって、世の中にはある。正直、今の世の中なら、お金を出したりテクノロジーを駆使したりすれば解決することは多い。容姿は整形できる。性別も変えられるし、性別を変えずともマイノリティのまま受け入れられる余地は少しずつ出てきた。先天的な病気に関しても、遺伝子治療が可能性を広げているし、障害は様々なテクノロジーでクリア出来る場合もある。
それでも、家族とか出生とかは、自分の力ではどうにも変えられない。これは、「家族」や「出生」というものの概念の方が根本的に変わらない限り、変化はないだろう。たとえば将来的に、「子供を産む」という行為が工場で管理されるようになり、「産んだ人=子供にとって最も重要な人」という概念が崩れるかもしれない。しかし、そういう激変でもない限り、家族や出生は、これからも人々を悩ませ続けるだろう。
両親が離婚していないか、借金など抱えていないか、子供を愛せる人か、ギャンブルやお酒に依存してしまう人か、将来的にリストラされてしまう人か、浮気する人か。都会に根を下ろしているか、地方に根を下ろしているか。こういうことは、子供にはどうにもならない。選択権はそもそも存在しない。強制的に、生まれてきてしまったその環境を、全面的に享受する以外にない。
本当にそれは、残酷なことだなぁ、といつも思う。僕自身は、一般的に見て酷い環境に生まれ育ったわけではないから、僕自身の実感として存在する感覚ではないのだけど、様々な環境で生きてきた人の話を見聞きする度に、そう感じる。
僕は、結婚をするつもりもなければ、子供を育てたいとも思っていない。僕にはどちらも、絶望的に向いてないと思っている。という話をすると、たまにこういうことを言われる。
「でもさ、向いてるかどうかなんてさ、やってみないと分かんないじゃん。だから、そういう機会があったら、一回やってみたらいいんじゃない?」
こういうことを言われる時、僕は内心苛立っている。それは、「そんなこと、お前が勝手に決めるんじゃねぇよ」というような苛立ちではない。そうではなくて、「そういう発想の人がたくさんいるから、辛い子供が世の中に山程いるんじゃないか?」と思ってしまうからだ。
一応、そういう意見を僕に言う人への擁護も書いておくと、そういう人は、「子供と接すれば誰だってその可愛さを理解できるし、そのチャンスを経験もしないで放棄するのはもったいない」という、非常にポジティブな気持ちで言っている。そのことは、もちろん理解している。僕ももちろん、そう信じられるならそう信じたい気持ちはある。今僕は、結婚していないし、子供と接する機会があってもそれは自分の子供じゃないから興味が持てないだけなんだ、と。
でも、そう信じるのは無理だ。何故なら、世の中には、虐待やネグレクトをする親がたくさんいるし、そこまで酷くなくても、子供目線で「とても良い親とは思えない」というような大人がたくさんいることを知っているからだ。そういう存在がごくごく僅かなのであれば、僕だって信じられるだろう。自分の子供じゃないから可愛いと思えないだけなんだ、とか。でも、あらゆる自治体に児童相談所があって、そしてそこの業務の手が回らないくらいの状況にあるということは、世の中には虐待やネグレクトがはびこっているし、であれば、児童相談所が担当する案件ではないレベルの問題はさらにたくさん起こっている、ということになるだろう。
世の中がそんな状態で、どうやったら信じられるだろう。自分に子供が出来たら、きっと愛せるはずだ、などと。
僕は正直、子供を育ててはいけない人というのはいると思う。そして、僕自身はそちら側に分類されると思っている。その自覚が正しいかどうかはともかくとして、問題は、「子育てをしてはいけないタイプの人なのに、子供を持つまでそのことに気づかない」という状況ではないか。そしてその根底には、先程のような、「自分の子供だったら可愛いって思えるって」とか「向いてるかなんて分かんないんだからやってみたらいいよ」というような楽観的な考え方なんだと思う。
人生の大半のことは、失敗したっていいし、放棄したっていいと思う。失敗を恐れていたらチャレンジは出来ないし、自分ひとりが何かを放棄したって、それなりに世の中は回っていくものだ。でも、子育てに関しては、失敗はともかく、放棄はしてはいけないと思う。新しい命をこの世に誕生させるということの重みは、どれだけ重く捉えても重すぎない。絶対に放棄してはいけないし、可能な限り子供に不快ではない環境を与え続けなければダメだと思う。
【自分だけ自由になりたいなんて、そんなんで人に優しくできるのかな?】
子供の頃にこんな風に感じてしまう、その経験そのものを否定するつもりはない。そういう痛みが、大人になった時に大きな何かに変わるかもしれない。だとしても、こんなこと、子供に思わせない人生の方が、絶対にいい。
内容に入ろうと思います。
高校生の縁(ゆかり)は、校内随一の優等生だが、いつもつるんでいるのは、テストでクラス最低点を取り、スカートの長さを指導する教師に暴言を吐き、授業をさぼってタバコを吸う問題児・琴子だ。琴子は感情をストレートに出し、騒いだり叫んだり笑ったりと大忙しで、縁とは真逆の性格なのだけど、二人はいつも一緒にいる。琴子は縁のことをいつも「エン」と呼んでいる。
同じ高校に通う純は、学校に友達はいるけど、なんとなくいつも時間を持て余している感じで、家に帰りたくなくて寄っている地元のショッピングモール「Bell Mall」に入り浸り、イライラが頂点に達しそうになると、ブルーハーツの「人にやさしく」を聴く。ある日彼女は、ショッピングモール屋上の駐車場の車の中で、同級生の男子がキスしているのを見かける。聞けば、父親の再婚相手である母親だという。二人はお互いのことをよく知らなかったけど、時々セックスをするようになり、また、ショッピングモールの地下で働く母親が裏口から入るのを見たことがあるとかで、閉館後のショッピングモールに忍び込んだりする。
立入禁止の場所でタバコを吸っていた琴子と、一緒にいた縁は、その建物で一人の男子生徒に遭遇する。泣いていた。そして、彼が立ち去ったあと、琴子は決意をする。その時付き合っていた8人目の彼氏と別れ、後に業平くんだと名前が判明したその彼を追いかけることになる…。
というような話です。
自分で書いておきながら、この内容紹介だと、なんとなく「キラキラした学園モノ」って感じになっちゃうなぁ、と思う。でも、実はこの点がこの作品の肝かな、とも思っている。映画全体は、正直、ハッピーオーラに包まれているわけではなく、全体的には暗めのトーンで進んでいく。冒頭こそ、「マンガ原作を映画化した作品」みたいな楽しげなテンションで進んでいくけど、途中から、画面全体に微妙にモヤがかかったみたいな、絶妙などんより感がにじみ出てくる。
ただ、この作品の場合、「キラキラ感の残滓」みたいなものもちゃんとあって、それで全体的にバランスが取れているような感じが凄くする。どういう部分から「キラキラの残滓」を感じるのかというのはうまく説明できないのだけど、絶妙などんより感の中に、僅かにキラキラの残滓を感じることで、僕のような37歳のオッサンでも良いって思えるような映画に仕上がっていると感じる。
その「キラキラの残滓」の一翼を担っていうのが、琴子だろう。琴子はマジでめちゃくちゃ好きなキャラだった。はっきり言って、近くにいて関わったら、ちょっと疲れそう。でも、ずっと遠目で見ていたいなぁ、というような吸引力がある。校内一のモテ男である岡田が琴子を見て、「あの人って、なんかちゃうよなぁ」とボソって言う場面があるんだけど、メッチャわかると思った。なんというか、何かのラインをひらりと飛び越えているような軽やかさがあって、凄く羨ましい。もちろん彼女にも、自分では振りほどけない重りみたいなものがあって、その軽やかさは、苛立ちとかどうにもならなさみたいなものを原動力にしているのかもしれないけど、それでも、目の前のくだらないつまらないやってらんない日常を、軽やかに舞っている感じは凄くいいなぁ、と思う。
この感想の冒頭で、家族とか出生の話をあれこれ書いたけど、映画の中でそれらはさほど明確には描かれない。それぞれみんな個別に色々あるんだけど、それらはなんとなく想像できるという程度にしか描かれないので、具体的にどういう状況なのかということがはっきり分かるわけではない。それらはこの映画の中心にあるわけではないのだけど、でもやっぱり、家族や出生が違っていたら、こういう高校生・高校生活にはなっていないんだろうな、という風に感じさせられる世界観で、物語においては無視できない要素になっている。
その中で、かなり屈折していると感じるのは縁だ。というのも、縁だけは、家族や出生の悩みが皆無だからだ。縁の家族についてはちょっと描かれるだけだが、広い家に住み、家族の仲が良く、縁自身も成績優秀だ。しかし、そのことは逆に、彼女にとっての重しになっている。具体的にそう描写される場面はないと思うけど、僕はそう感じた。
というのは、周りの人の苦労を知ってしまうからだ。家族や出生に問題を抱えている人のことを見てしまうからだ。そういう時、縁は、何も言えなくなってしまう。自分が、苦労している側ではないから、何を言っても言葉だけの、上辺だけのものになってしまうと彼女自身が感じてしまう。
映画の中で、教師が生徒に向かって、こんなことを言う場面がある。「お前たちが日々辛い環境にいることは先生知ってる。全部分かってる」。でも、泣きながらそう言う教師の言葉は、生徒にはまったく響いていないし、白けている。まあそうだろう。そして縁は、そういう立場に、つまり、自分が何も分かっていないのに分かっている側になりたくない、と感じているんじゃないかと思う。
37歳のオッサンがこんなことを言っても説得力はないけど、この映画ではそういう、「些細な言動でも致命的な何かが伝わってしまうことが分かっている世代」を、実に見事に描いている気がする。SNSの時代というのは、「自分の言動が誰にどんな風に受け止められ、どんな風に評価されているか見えてしまう時代」だ。そして、デジタルネイティブ世代は、子供の頃からそういう環境にいるからこそ、自分が何をどう言ったら相手にどう伝わってしまうかを理解しているし、だからこそ「言わない」という選択をする世代でもある。そういう感じが、凄く良かった。
純のキャラクターも、とても良かった。琴子ほど破天荒ではないし、琴子のように感情を爆発させるキャラクターでもなくて、琴子より純は、一般的な女子高生の感じに近いんだろうと思う。表向きには「どこにでもいるような女の子」風でありつつ、表に出せない鬱屈感みたいなものをいつも抱えていて、その放出先を求めている。そういう、何かの拍子に爆発してしまうんじゃないかというようなギリギリ感が凄く出ていて、純も凄く良かった。
劇中では、主要な登場人物たちは皆、テンションの低い、温度をあまり感じさせない喋り方をしていて、それも僕の好みにとても合ってた。基本的に、学校内でのシーンは少ない。学校で見せている「表向きの自分」を脱ぎ捨てたみたいな雰囲気が、その喋り方からにじみ出ている感じがした。また、彼らが集まるショッピングモール「Bell Mall」が近い内に閉店するということが決まっているという設定で、その「Bell Mall」内の場面が多かったことも、彼らの抱えているマイナスの部分が強調されているようで良かったなと思う。
とにかく、メチャクチャ好きな映画だったなぁ。正直、この感じのテンションの映像なら、6時間ぐらい続けてくれても見続けられる気がする。物語らしい物語が起こらなくても、主人公たちの日常が描かれていれば、全然見れちゃう気がするなぁ。というぐらい、ストーリーも良かったけど、それ以上に登場人物が凄く良かった。また、エンドロールは、主演の松本穂香が「人にやさしく」をアカペラで歌っていて、これもまたとてもよかった。ホント、全然期待してなかったんだけど、見て良かった~
「君が世界のはじまり」を観に行ってきました
「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」を観に行ってきました
間違ったことをして誰かに評価されることより、正しいことをして誰かに嫌われた方がマシ。そんな風にいつも思う。
【君は知らんのだ。今モスクワで記者をすることの難しさが】
自分が果たすべき役割があるとして、努力してもそれを果たせないことは往々にしてある。しかし、果たそうともせずに、というか、果たすべき役割と真逆なことをやって、それで普通でいられるというのがよく分からない。
いや、もちろん、彼らにも言い分はある。
【大義を選ばなければならないことはあるのだ】
革命に犠牲はつきものだ、という言説はよく登場する。まあ、犠牲なくして獲得できるものなどない、ということはわからないではない。しかし、大前提として、その犠牲は、革命に積極的に賛同した者がその大半を負うべきだと思う。というか、革命に賛同していない者がその犠牲を負うという状況は、まったく不可思議なことでしかない。
もちろん、「革命」を評価するのは困難だ。革命が成し遂げられしばらくたってからで無ければ、その良し悪しは判断出来ないだろう。今、香港で繰り広げられていることも、僕の個人的な視点で見れば、周庭さんを始めとする市民運動家の人たちの主張や行動が正しいと思えるし、自ら積極的にというのは難しいが、何か支援出来るような機会が自分に巡ってくることがあるなら、彼女たち市民運動家を支援できたらいいと思う。しかし、革命というのは、成し遂げた側あるいは成そうとした側が常に「正しい」とも限らない。革命を成し遂げた者が独裁政権敷くこともあるだろう。あるいは日本の全共闘の頃のように、一部が過激化し市民から支持を得られないレベルにまで先鋭化してしまうこともある。
だから、この映画でも様々な人物が口にすることになる、「革命の途中なのだから仕方ない」という趣旨の発言は、一概に否定することは難しい。
だが。この映画の全体を見れば、さすがにそう判断できる人は少ないだろう。先程触れたように、革命に賛同していない(だろう)者たち、数百万人という単位で犠牲を敷いられている。そんな犠牲の上にしか成り立たない「革命」など、どんな理由があろうと正当化出来るものではないだろう。
世の中には、自らの危険を顧みず、世界中の様々な場所に足を運び、現実を自ら目にし、それを報じる者たちがいる。命を懸けるほどの動機は理解できないまでも、「真実を知りたい」という衝動についてはそれなりに理解できる。そして、自らの命を危険に晒してまで真実を追い求める者たちがいてくれるお陰で、僕らは無知にならずに済んでいる。ありがたいことだ。
一方で、メディアの力を己の欲望のために利用し、真実とはかけ離れた記事を書くことで自らの地位や名声を確保し、あまつさえ、報道における最高の賞を受賞する者もいる。
報道に、ミスが存在しないなどということはあり得ない。ミスはいつだって起こりうる。しかし、ミスではなく、悪意を持って真実ではない記事を書く者もいる。報道をすべて鵜呑みにしてはいけないというのは鉄則だろうが、しかし同時に、それが厚いベールに覆われた世界の話であればあるほど、比較するための情報が存在しないことになる。だから、報じる者の良心を信じて報道を受け取るしか無い。
しかし改めて、残念なことではあるが、やはり疑いを持って報道に接しなければならないのだなぁ、という思いを新たにすることになった。
内容に入ろうと思います。
イギリスの政治家ロイド・ジョージの外交顧問として各国の取材をしていたガレス・ジョーンズは、外国人記者として初めてヒトラーを取材したことでも知られていたが、ジョージの下ではその情報分析をうまく活かせないでいた。ジョージの他の取り巻きたちが、ジョーンズの話をいつも小馬鹿にしか聞かないからだ。その上彼は、経費削減もあって、ジョージから解雇通知を受けてしまう。彼はジョージが書いてくれた推薦状を持って、モスクワを目指すことにした。
スターリンにインタビューをしたいと考えたのだ。
ジョーンズには大いなる疑問があった。全世界的に恐慌の嵐が吹き荒れているというのに、スターリンのソ連だけが繁栄していたからだ。予算のつじつまが合わないのだ。スターリンの金脈がどこにあるのか。それを探るべく、まず彼はソ連へのビザを取り、さらにモスクワにいる記者仲間であるポールに連絡を取った。また取材に協力してもらうためだ。
しかし、ジョーンズがモスクワに着くと、ポールはなんと事故死したと知らされる。また、1週間のビザを手にしたのに、ホテルには2泊しかできないという。ニューヨーク・タイムズのモスクワ市局長であるデュランティに会うように言われるが、彼は記者仲間と美女を集めたアヘンパーティーに興じていた。デュランティは、スターリンを礼賛する記事を書きピュリッツァー賞を受賞した人物である。ジョーンズは記者たちの話を総合し、記者はモスクワの外には出られないこと、どうやらまともな取材が行われていないようだと理解する。
その夜、たまたま出会ったエイダは、デュランティの下で働く記者であり、ポールのことも知っていた。事故死と聞いていたポールが、実は背後から4発も銃弾を撃ち込まれていたことをエイダから聞き、ポールの取材が真実に迫っていたのだろうと理解する。ポールの取材の後を引き継ぐために、ジョーンズはジョージからの推薦状を一部書き換え、記者ではなく外交顧問としてウクライナまでの切符を手にすることになる。果たしてそこで彼が見たものとは…。
というような話です。
戦時中の話でありながら、現代とも二重写しになるような話で、昔の歴史の話だと切り捨てられない怖さを感じさせられました。
この文章を書いている最中で起こっていることと言えば、Tik Tokの問題があります。中国企業が生み出したこのアプリを、全世界的に規制しようという動きがあります。その背景には、中国の独自の法律の存在があります。中国には、「国家が求めれば企業は情報を出さなければならない」という趣旨の法律が存在します。つまり、中国企業を通じて、中国政府が様々な情報を収集できる仕組みになっている、ということです。Tik Tokの運営会社は、情報を渡したことはないし、求められても渡さない、という声明を出しているけど、それを信じるのはなかなか難しいものがあると言わざるを得ないでしょう。このように中国は、情報収集の可能性を広げることで、自国以外の人間の自由を奪える可能性を秘めているということになるでしょう。
(とはいえ、アメリカも、エシュロンという衛星で、世界中の通信を傍受していると言われているし、他国を非難できるような立場ではないような気がする、という気持ちもあるのだけど)。
また、同じく中国には、ウイグル自治区での問題もあります。少数民族を排除するような動きがある、とされている一方で、なかなかその情報がメディアに乗りません。中国が取材などを制限していたりすることもあるし、一方で、中国を敵に回さないように配慮しているのだ、という記述も見かけたことがあります。
ロシアでは割と最近も、大統領選挙の投票所で、プーチン大統領への投票を水増しするような不正が多数カメラに収められていたことが報じられ、しかしそれでもプーチン大統領が当たり前のように当選し、大統領を続けています。
元社会主義国家である中国やロシアで情報や言論の統制が厳しいのはまあイメージしやすいですが、日本も、世界的に見ると報道に難ありと判定されています。毎年出されている「報道の自由度ランキング」では、2020年の日本は66位、G7では最下位で、セネガル・トンガ・マダガスカル・ドミニカ共和国・ボスニアヘルツェゴビナ・アルメニアといった国にも負けています。なかなか酷いですね。日本に住んでいると、言論の自由、つまりどういう発言をしても国家が介入するような事態にはならない一方で(SNSなどで炎上はするが)、正しく客観的な情報を得るための報道の役割がきちんと果たされていない、という評価になっているわけです。
この映画で描かれているのは、ソ連が、外国の記者を懐柔し、偽りの報道をさせてまで暴かれたくなかった事実を、名もなきジャーナリストが単身乗り込み暴き出すという、実際の出来事を元にした物語です。いつの時代にも、ジョーンズのような、真実のために自らの危険を顧みない人物というのはいるものだけど、ジョーンズは、ピュリッツァー賞を受賞した超有名な記者を敵に回してソ連の闇を暴くという、かなり難易度の高いことをやってのけているというのが凄いなと思いました。
ジョーンズのように憤っている記者は、もちろんたくさんいたことでしょう。しかし、そう簡単に行動には移せない。ポールのように行動に移しても殺されてしまう人もいるし、エイダのようにソ連が成そうとしている革命を信じている(あるいは、信じ込みたいと思っている)場合もある。もちろん、運も良かっただろうけど、「真実を知りたい」「知った真実を知らせなければならない」という強烈な動機が、この無謀な挑戦には必要だったのだろうと思う。
この映画で非常に興味深かった点として、ジョージ・オーウェルの存在が挙げられる。かなり後半に登場するのだけど、登場した瞬間に、「なるほど、『動物農場』か!」と合点がいった。この映画では、ジョージ・オーウェルが「動物農場」を執筆するに至った経緯が簡単に描かれているが、どこまで史実に基づいているかはわからない。しかし、ジョーンズとの関係性がどうだったかはともかく、ジョージ・オーウェルが、こういう時代背景を元に「動物農場」を書いたのだ、ということが理解できて良かった(まあ、「動物農場」は未読だけど)。
映画の最後で少し触れられるのだが、ジョーンズは不遇な形で命を落としてしまう。彼のように、真っ当に正しさを追い求める人物は、もちろん生きている間に評価されるべきだと思うし、それが叶わなくても、死後に名誉が回復されるべきだ。そのためには、僕らが積極的に、ジョーンズやジョーンズのような人の存在を知ろうとする必要がある。こういう映画の存在によって、ジョーンズが正しく評価されるのは、良いことだと思う。
「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」を観に行ってきました
【君は知らんのだ。今モスクワで記者をすることの難しさが】
自分が果たすべき役割があるとして、努力してもそれを果たせないことは往々にしてある。しかし、果たそうともせずに、というか、果たすべき役割と真逆なことをやって、それで普通でいられるというのがよく分からない。
いや、もちろん、彼らにも言い分はある。
【大義を選ばなければならないことはあるのだ】
革命に犠牲はつきものだ、という言説はよく登場する。まあ、犠牲なくして獲得できるものなどない、ということはわからないではない。しかし、大前提として、その犠牲は、革命に積極的に賛同した者がその大半を負うべきだと思う。というか、革命に賛同していない者がその犠牲を負うという状況は、まったく不可思議なことでしかない。
もちろん、「革命」を評価するのは困難だ。革命が成し遂げられしばらくたってからで無ければ、その良し悪しは判断出来ないだろう。今、香港で繰り広げられていることも、僕の個人的な視点で見れば、周庭さんを始めとする市民運動家の人たちの主張や行動が正しいと思えるし、自ら積極的にというのは難しいが、何か支援出来るような機会が自分に巡ってくることがあるなら、彼女たち市民運動家を支援できたらいいと思う。しかし、革命というのは、成し遂げた側あるいは成そうとした側が常に「正しい」とも限らない。革命を成し遂げた者が独裁政権敷くこともあるだろう。あるいは日本の全共闘の頃のように、一部が過激化し市民から支持を得られないレベルにまで先鋭化してしまうこともある。
だから、この映画でも様々な人物が口にすることになる、「革命の途中なのだから仕方ない」という趣旨の発言は、一概に否定することは難しい。
だが。この映画の全体を見れば、さすがにそう判断できる人は少ないだろう。先程触れたように、革命に賛同していない(だろう)者たち、数百万人という単位で犠牲を敷いられている。そんな犠牲の上にしか成り立たない「革命」など、どんな理由があろうと正当化出来るものではないだろう。
世の中には、自らの危険を顧みず、世界中の様々な場所に足を運び、現実を自ら目にし、それを報じる者たちがいる。命を懸けるほどの動機は理解できないまでも、「真実を知りたい」という衝動についてはそれなりに理解できる。そして、自らの命を危険に晒してまで真実を追い求める者たちがいてくれるお陰で、僕らは無知にならずに済んでいる。ありがたいことだ。
一方で、メディアの力を己の欲望のために利用し、真実とはかけ離れた記事を書くことで自らの地位や名声を確保し、あまつさえ、報道における最高の賞を受賞する者もいる。
報道に、ミスが存在しないなどということはあり得ない。ミスはいつだって起こりうる。しかし、ミスではなく、悪意を持って真実ではない記事を書く者もいる。報道をすべて鵜呑みにしてはいけないというのは鉄則だろうが、しかし同時に、それが厚いベールに覆われた世界の話であればあるほど、比較するための情報が存在しないことになる。だから、報じる者の良心を信じて報道を受け取るしか無い。
しかし改めて、残念なことではあるが、やはり疑いを持って報道に接しなければならないのだなぁ、という思いを新たにすることになった。
内容に入ろうと思います。
イギリスの政治家ロイド・ジョージの外交顧問として各国の取材をしていたガレス・ジョーンズは、外国人記者として初めてヒトラーを取材したことでも知られていたが、ジョージの下ではその情報分析をうまく活かせないでいた。ジョージの他の取り巻きたちが、ジョーンズの話をいつも小馬鹿にしか聞かないからだ。その上彼は、経費削減もあって、ジョージから解雇通知を受けてしまう。彼はジョージが書いてくれた推薦状を持って、モスクワを目指すことにした。
スターリンにインタビューをしたいと考えたのだ。
ジョーンズには大いなる疑問があった。全世界的に恐慌の嵐が吹き荒れているというのに、スターリンのソ連だけが繁栄していたからだ。予算のつじつまが合わないのだ。スターリンの金脈がどこにあるのか。それを探るべく、まず彼はソ連へのビザを取り、さらにモスクワにいる記者仲間であるポールに連絡を取った。また取材に協力してもらうためだ。
しかし、ジョーンズがモスクワに着くと、ポールはなんと事故死したと知らされる。また、1週間のビザを手にしたのに、ホテルには2泊しかできないという。ニューヨーク・タイムズのモスクワ市局長であるデュランティに会うように言われるが、彼は記者仲間と美女を集めたアヘンパーティーに興じていた。デュランティは、スターリンを礼賛する記事を書きピュリッツァー賞を受賞した人物である。ジョーンズは記者たちの話を総合し、記者はモスクワの外には出られないこと、どうやらまともな取材が行われていないようだと理解する。
その夜、たまたま出会ったエイダは、デュランティの下で働く記者であり、ポールのことも知っていた。事故死と聞いていたポールが、実は背後から4発も銃弾を撃ち込まれていたことをエイダから聞き、ポールの取材が真実に迫っていたのだろうと理解する。ポールの取材の後を引き継ぐために、ジョーンズはジョージからの推薦状を一部書き換え、記者ではなく外交顧問としてウクライナまでの切符を手にすることになる。果たしてそこで彼が見たものとは…。
というような話です。
戦時中の話でありながら、現代とも二重写しになるような話で、昔の歴史の話だと切り捨てられない怖さを感じさせられました。
この文章を書いている最中で起こっていることと言えば、Tik Tokの問題があります。中国企業が生み出したこのアプリを、全世界的に規制しようという動きがあります。その背景には、中国の独自の法律の存在があります。中国には、「国家が求めれば企業は情報を出さなければならない」という趣旨の法律が存在します。つまり、中国企業を通じて、中国政府が様々な情報を収集できる仕組みになっている、ということです。Tik Tokの運営会社は、情報を渡したことはないし、求められても渡さない、という声明を出しているけど、それを信じるのはなかなか難しいものがあると言わざるを得ないでしょう。このように中国は、情報収集の可能性を広げることで、自国以外の人間の自由を奪える可能性を秘めているということになるでしょう。
(とはいえ、アメリカも、エシュロンという衛星で、世界中の通信を傍受していると言われているし、他国を非難できるような立場ではないような気がする、という気持ちもあるのだけど)。
また、同じく中国には、ウイグル自治区での問題もあります。少数民族を排除するような動きがある、とされている一方で、なかなかその情報がメディアに乗りません。中国が取材などを制限していたりすることもあるし、一方で、中国を敵に回さないように配慮しているのだ、という記述も見かけたことがあります。
ロシアでは割と最近も、大統領選挙の投票所で、プーチン大統領への投票を水増しするような不正が多数カメラに収められていたことが報じられ、しかしそれでもプーチン大統領が当たり前のように当選し、大統領を続けています。
元社会主義国家である中国やロシアで情報や言論の統制が厳しいのはまあイメージしやすいですが、日本も、世界的に見ると報道に難ありと判定されています。毎年出されている「報道の自由度ランキング」では、2020年の日本は66位、G7では最下位で、セネガル・トンガ・マダガスカル・ドミニカ共和国・ボスニアヘルツェゴビナ・アルメニアといった国にも負けています。なかなか酷いですね。日本に住んでいると、言論の自由、つまりどういう発言をしても国家が介入するような事態にはならない一方で(SNSなどで炎上はするが)、正しく客観的な情報を得るための報道の役割がきちんと果たされていない、という評価になっているわけです。
この映画で描かれているのは、ソ連が、外国の記者を懐柔し、偽りの報道をさせてまで暴かれたくなかった事実を、名もなきジャーナリストが単身乗り込み暴き出すという、実際の出来事を元にした物語です。いつの時代にも、ジョーンズのような、真実のために自らの危険を顧みない人物というのはいるものだけど、ジョーンズは、ピュリッツァー賞を受賞した超有名な記者を敵に回してソ連の闇を暴くという、かなり難易度の高いことをやってのけているというのが凄いなと思いました。
ジョーンズのように憤っている記者は、もちろんたくさんいたことでしょう。しかし、そう簡単に行動には移せない。ポールのように行動に移しても殺されてしまう人もいるし、エイダのようにソ連が成そうとしている革命を信じている(あるいは、信じ込みたいと思っている)場合もある。もちろん、運も良かっただろうけど、「真実を知りたい」「知った真実を知らせなければならない」という強烈な動機が、この無謀な挑戦には必要だったのだろうと思う。
この映画で非常に興味深かった点として、ジョージ・オーウェルの存在が挙げられる。かなり後半に登場するのだけど、登場した瞬間に、「なるほど、『動物農場』か!」と合点がいった。この映画では、ジョージ・オーウェルが「動物農場」を執筆するに至った経緯が簡単に描かれているが、どこまで史実に基づいているかはわからない。しかし、ジョーンズとの関係性がどうだったかはともかく、ジョージ・オーウェルが、こういう時代背景を元に「動物農場」を書いたのだ、ということが理解できて良かった(まあ、「動物農場」は未読だけど)。
映画の最後で少し触れられるのだが、ジョーンズは不遇な形で命を落としてしまう。彼のように、真っ当に正しさを追い求める人物は、もちろん生きている間に評価されるべきだと思うし、それが叶わなくても、死後に名誉が回復されるべきだ。そのためには、僕らが積極的に、ジョーンズやジョーンズのような人の存在を知ろうとする必要がある。こういう映画の存在によって、ジョーンズが正しく評価されるのは、良いことだと思う。
「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」を観に行ってきました
「東京裁判 4Kリマスター版」を観に行ってきました
終戦記念日の今日が、公開の最終日だったので、慌てて観に行った。
大前提として、僕は「歴史」全般に関する知識が本当にない。例えば、今回の「東京裁判」に関して言えば、東条英機がA級戦犯として裁かれたことはもちろん知っていたけど、どんな判決が下されたのかはちゃんと知らなかった。もちろん、予想では死刑だろうと思っていたけど、それは知識ではなくあくまで予想でしかなかった。こんな風に、おそらく一般的な学校教育を受けた人ならまず知っているだろう歴史的な事実を、僕は知らない。もともと理系で歴史にまったく興味がなかったこと、そして進学校だった高校時代に、その当時のその学校のルールでは日本史も世界史も取らなくてもよかったので(僕は政経とか地理を取った)、余計知識がない、といいうこともある。
歴史の知識がちゃんとある人にとっては、この映画は、「文字上で学んだことを、実際に映像で見る機会」なのかもしれない。ただ僕にとっては、この映画で初めて知る事実もたくさんあった。
僕が一番驚いたのは、天皇の扱いに関する描写である。これは、この映画全体を貫く核となる部分でもあり、随所に描かれていく。
僕は、天皇が戦争犯罪において裁かれなかったことは当然知っていた。また、大人になってから読んだ本で、アメリカが占領政策を有利に進めるために、「天皇」という存在をうまく利用しようと思っていたことも知っていた。ただそのアメリカの国策のために、裁判において検察側が、天皇の戦争責任を”糾弾しない”方向に誘導していた、ということは知らなかった。
終戦後の日本国民にとって、天皇の扱いがどうなるのかということは非常に重要な問題だった。天皇自身は、自らマッカーサーの元へと赴き、「自分はどうなっても構わないから、国民に食料を配ってほしい」と直訴したという。また、戦争は自らの責任であるという趣旨の発言もあったという。当時アメリカの世論では、天皇の責任を糾弾すべきだという雰囲気が強く、軍内でも当然そういう意見は多かったが、マッカーサーはその対面によって天皇に対して同情的な感覚さえ覚えるようになり、マッカーサー自身はかなり好意的な印象を抱いたという。そのマッカーサーの印象がどの程度影響することになったかわからないが、結果的にアメリカは、国民に対する影響力が絶大である天皇をうまく利用して統治占領を、そしてその後の日本の進むべき道を描こうとする。
しかし、アメリカ一国がそう考えていても、ことは簡単には進まない。東京裁判は、様々な国から招集された裁判官で構成されるし、後で書くつもりだが、僕が驚いたこととして、東京裁判は実に厳格に進行されたので、いくらアメリカと言えども簡単にその思惑を実現できる状況ではなかったのだ。
東京裁判の裁判長は、オーストラリア出身のウェッブ(と映画では表記されてたけど、ウィキペディアを見ると「ウェブ」になっている)で、彼は「天皇の責任を追及すべき」という立場を明らかにしていたのだ。そんなウェッブの目が光る裁判において、天皇への責任が言及されないようにうまく事を進行しなければならない。
東京裁判において主席検察官を務めたキーナンは、天皇の側近だったある被告への尋問の際、「あらゆる決定は、誰かがしたものを天皇が承認しただけなのか、あるいは天皇が決定したのか」という聞き方をし、さらにその後露骨に、「天皇はただ承認しただけなんだろう?」というような聞き方さえする。しかしその被告は、そういう誘導に何か裏があると感じたのか、キーナンが望む、「天皇はただ承認しただけでした」というような明確な返答を引き出せなかった。この失敗を踏まえたのか、東条英機の尋問の際には、あらかじめ弁護士などを通じて、「天皇の責任を追求されないような返答を頼む」というような密約を交わしていたという(被告を追及する側である検察官が、そんなお願いをするというのもビックリだけど)。東条もそれを了承していたのだが、ある質問に対して東条は、「日本国民が陛下の意思に反してなにかするなどということはあり得ない」というような返答をしてしまう。これはおそらく東条の本音だっただろうが、この発言は非常にマズかった。というのも、「やっぱり天皇が全部決めてるじゃん!だったら天皇に責任あるじゃん!」ということになってしまうからだ。もちろん、天皇の責任を追及したい裁判長のウェッブはこの発言をスルーしなかったわけだが、なんやかんやで天皇の不起訴が決まるのだ。
さて、実はウェッブは、東条英機の尋問の少し前まで、しばらく東京裁判から離れ本国に戻っていた。オーストラリアで別の裁判がある、というのが表向きの理由で、考えられない理由に一時ざわめいたが、これには裏があったとされている。それは、連合国側が天皇の責任追及をしないことへの抗議行動だというのだ。また別の説としては、天皇の責任を追及したがるウェッブを邪魔くさく思った連合国側が、オーストラリアに働きかけて、ウェッブを一時呼び戻すように仕向けた、という。いずれにしても、ウェッブの強硬な態度が背景にある、ということは間違いないようだ。
またウェッブは、判決の際にも独自の主張をする。判決文は全10章あり、読み上げるだけで10日掛かるほどだったという。そして裁判のルールとして、最後の評決に際して出た少数意見も読み上げなければならない、というのがあるらしいが、ウェッブはそれを省略した。それを読み上げるだけでも数日掛かる、というのがその理由だった。実はその少数意見の中には、ウェッブ自身の意見もあった。彼は、「天皇を被告として、あるいはせめて証人としてこの裁判に引きずり出せなかったのだから、それ以外の被告たちを死刑を許す裁判において裁くことは合理的ではない」と主張したという。ウェッブは最後の最後まで納得いかなかったということだろう。
さて、少数意見としては、非常に有名なパル判事(劇中ではこの表記だったけど、ウィキペディアでは「パール」)のものがある。パル判事は、東京裁判開廷時にはまだ日本に到着しておらず途中参加だったが、裁判官の中で唯一国際法に関する著作を持つ専門家だった。パル判事は、英字で25万字、日本語で1219ページにも及ぶ意見書を提出した。彼の主張は様々にあるのだろうが、映画の中で触れられていたのは以下のようなことだった。
そもそも、何故「戦争」が「裁判」と結びつくのか、ということからである。この点については、別の話でも改めて触れたいが、戦争というのは国際法で定められたルールに則って行うわけで、残虐な行為だろうがなんだろうが、その法律の範囲内であれば合法である。
では、どうなったら非合法なのか。それが「侵略」か否か、である。戦争に関する国際法としてはパリ不戦条約が有名だろうが、ケロッグ=ブリアン協定というのも存在していて、この協定に反する戦争はすべて「侵略戦争」と見なされ非合法である、ということになる。
さて、ここでパル判事の主張の話に戻ろう。パル判事は、この裁判の進め方そのものがおかしいと指摘した。何故なら、戦争を裁くのであれば「侵略」であるか否か、という点から始めなければならないのに、東京裁判においては「侵略戦争だった」という前提から始まっている。これは、裁判の進め方として合理を欠いている。そんな合理を欠いた裁判において審議されてきたのだから、被告は全員無罪だ、とパル判事は主張した。
このパル判事の主張は、「日本は悪くなかったんだ」という受け取られ方をされることが多いらしいが、そうではない。パル判事自身は、被告らの行為を正当化する必要はない、とも明言している。要するに、彼らの行為の是非云々以前に、その行為を裁く場が正しいルールに則られていないのだから、そんな場でどんな風に裁かれようがそれは無効だ、という主張だろう。
さて、先程僕は、驚いたこととして、東京裁判が厳格に進行されていたことを挙げたが、これについては、弁護団に関するエピソードを触れようと思う。
東京裁判は、英米法を元に行われた(要するに、日本の裁判のルールとは違うということ)。だから日本側は、英米法に詳しい人物による弁護が必要だ、とマッカーサーに訴えていた。そこでマッカーサーは本国に問い合わせ、アメリカの弁護士がそれぞれの被告(裁判途中で亡くなった者もいるが、28名)の弁護を担当することになった。しかし当然だが、戦勝国の弁護士が、敗戦国の、しかもA級戦犯を、公正に弁護してくれるだろうか心配していた。
しかしそんな心配は、裁判の序盤で杞憂に終わった。弁護士たちはまず、この裁判の在り方そのものに対して疑義をつきつけた。ある弁護士は、「そもそも勝者によって行われる裁判は公正を欠くので、この裁判は中立国で行われるべきだ」と主張した。また別の弁護士は、「戦争というのはそもそも犯罪ではない」と主張した。どういうことか。戦争には、パリ不戦条約のような「国際法」が存在する。法律が存在するということは、それが合法であるということだ。これまでだって、戦争が犯罪として扱われたことはない、と。
その主張の過程で、そのアメリカ人弁護士は、ヒロシマとナガサキに落とされた原爆についても言及する。もし、戦争による殺人が犯罪であるならば、私は、ヒロシマの原爆の責任者を指摘することができる、というように。今でももちろん、原爆の投下に関しては様々な論議があるが、終戦直後のその当時であれば今以上にさらにデリケートな問題だったはずだ。アメリカ人が、原爆について悪く言及することで、何らかの害を被る可能性だって十分にあっただろう。しかしそういう危険を犯しても、彼らアメリカ人弁護士たちは、裁判を公正に行おうと腐心することになる。
結局、裁判そのものの在り方に疑義を呈する彼らの主張は、禄に検討されることもなく流されてしまうのだが、このやり取りは、被告人を含め日本側の面々に、この裁判が公正にきちんと行われるだろうという予感を抱かせただろうと思う。
裁判は、「三国同盟」や「満州国」などのテーマごとに議論され、起訴理由を述べるだけで半年、さらに弁護士による反論などで1年と、かなり長期に渡る。映画の構成としては、それぞれのテーマ毎に戦争やパレードなど当時の実際の映像が裁判シーンの合間に挿入される、という形だった。
映画を見ながら感じたことは、ここまで映像の記録が残っているのだな、ということだ。それに驚いた。初めて見る映像ばかりで、映像ではあるのだけど、戦争というもののリアルさみたいなものを凄く感じさせられた。ロスアラモスの原爆実験の映像や、特攻機が戦艦に突っ込む場面、あるいはアウシュヴィッツ(かどうかはわからないけど)でユダヤ人の死体がショベルカーで押し出されている映像など、衝撃的な映像も多かった。個人的に驚いたのは、戦闘機による空中線の映像。画面上に銃弾が埋め尽くすぐらいたくさんあって、戦争映画で見るのとはまったく違う凄みを感じた。
5時間に及ぶ映画で(途中1度休憩がある)、ところどころウトウトして覚えていない部分もあるのだけど、全体としては非常に興味深い映画だった。細々と面白い話は色々あって、石原莞爾が自分が戦犯として裁かれないのが不思議だと発言したり、愛新覚羅溥儀がシベリアから証人として出廷したけど実は偽証してたとか(それは、後に出版した自伝で明かしているという)、証人として出廷した田中降吉が被告人たちを「恩人」「友人」と評しながらも被告人にメチャクチャ不利な発言をしたり、被告人同士で足の引っ張りあいみたいなことをしたりと、随所にドラマがある。
日本は、主権国家として初めて戦争の放棄を憲法に盛り込み、また、国際連盟の発足などによって国際平和の期待が高まったが、しかしやはり、世界のどこかで今も戦争は起こっている。こういう裁判は、結果だけみると、「あいつが悪かった」というような個人の責任に帰着してしまいがちだと思うが、戦争が個人の責任のはずがない。同時代に生きるすべての人の責任だろう。理想論を叫ぶだけでは実現しないのは分かっているが、やはり自分の内側の底の底にはいつも、戦争はなくなるべきだという気持ちを失わないでいたいと改めて思った。
「東京裁判 4Kリマスター版」を観に行ってきました
大前提として、僕は「歴史」全般に関する知識が本当にない。例えば、今回の「東京裁判」に関して言えば、東条英機がA級戦犯として裁かれたことはもちろん知っていたけど、どんな判決が下されたのかはちゃんと知らなかった。もちろん、予想では死刑だろうと思っていたけど、それは知識ではなくあくまで予想でしかなかった。こんな風に、おそらく一般的な学校教育を受けた人ならまず知っているだろう歴史的な事実を、僕は知らない。もともと理系で歴史にまったく興味がなかったこと、そして進学校だった高校時代に、その当時のその学校のルールでは日本史も世界史も取らなくてもよかったので(僕は政経とか地理を取った)、余計知識がない、といいうこともある。
歴史の知識がちゃんとある人にとっては、この映画は、「文字上で学んだことを、実際に映像で見る機会」なのかもしれない。ただ僕にとっては、この映画で初めて知る事実もたくさんあった。
僕が一番驚いたのは、天皇の扱いに関する描写である。これは、この映画全体を貫く核となる部分でもあり、随所に描かれていく。
僕は、天皇が戦争犯罪において裁かれなかったことは当然知っていた。また、大人になってから読んだ本で、アメリカが占領政策を有利に進めるために、「天皇」という存在をうまく利用しようと思っていたことも知っていた。ただそのアメリカの国策のために、裁判において検察側が、天皇の戦争責任を”糾弾しない”方向に誘導していた、ということは知らなかった。
終戦後の日本国民にとって、天皇の扱いがどうなるのかということは非常に重要な問題だった。天皇自身は、自らマッカーサーの元へと赴き、「自分はどうなっても構わないから、国民に食料を配ってほしい」と直訴したという。また、戦争は自らの責任であるという趣旨の発言もあったという。当時アメリカの世論では、天皇の責任を糾弾すべきだという雰囲気が強く、軍内でも当然そういう意見は多かったが、マッカーサーはその対面によって天皇に対して同情的な感覚さえ覚えるようになり、マッカーサー自身はかなり好意的な印象を抱いたという。そのマッカーサーの印象がどの程度影響することになったかわからないが、結果的にアメリカは、国民に対する影響力が絶大である天皇をうまく利用して統治占領を、そしてその後の日本の進むべき道を描こうとする。
しかし、アメリカ一国がそう考えていても、ことは簡単には進まない。東京裁判は、様々な国から招集された裁判官で構成されるし、後で書くつもりだが、僕が驚いたこととして、東京裁判は実に厳格に進行されたので、いくらアメリカと言えども簡単にその思惑を実現できる状況ではなかったのだ。
東京裁判の裁判長は、オーストラリア出身のウェッブ(と映画では表記されてたけど、ウィキペディアを見ると「ウェブ」になっている)で、彼は「天皇の責任を追及すべき」という立場を明らかにしていたのだ。そんなウェッブの目が光る裁判において、天皇への責任が言及されないようにうまく事を進行しなければならない。
東京裁判において主席検察官を務めたキーナンは、天皇の側近だったある被告への尋問の際、「あらゆる決定は、誰かがしたものを天皇が承認しただけなのか、あるいは天皇が決定したのか」という聞き方をし、さらにその後露骨に、「天皇はただ承認しただけなんだろう?」というような聞き方さえする。しかしその被告は、そういう誘導に何か裏があると感じたのか、キーナンが望む、「天皇はただ承認しただけでした」というような明確な返答を引き出せなかった。この失敗を踏まえたのか、東条英機の尋問の際には、あらかじめ弁護士などを通じて、「天皇の責任を追求されないような返答を頼む」というような密約を交わしていたという(被告を追及する側である検察官が、そんなお願いをするというのもビックリだけど)。東条もそれを了承していたのだが、ある質問に対して東条は、「日本国民が陛下の意思に反してなにかするなどということはあり得ない」というような返答をしてしまう。これはおそらく東条の本音だっただろうが、この発言は非常にマズかった。というのも、「やっぱり天皇が全部決めてるじゃん!だったら天皇に責任あるじゃん!」ということになってしまうからだ。もちろん、天皇の責任を追及したい裁判長のウェッブはこの発言をスルーしなかったわけだが、なんやかんやで天皇の不起訴が決まるのだ。
さて、実はウェッブは、東条英機の尋問の少し前まで、しばらく東京裁判から離れ本国に戻っていた。オーストラリアで別の裁判がある、というのが表向きの理由で、考えられない理由に一時ざわめいたが、これには裏があったとされている。それは、連合国側が天皇の責任追及をしないことへの抗議行動だというのだ。また別の説としては、天皇の責任を追及したがるウェッブを邪魔くさく思った連合国側が、オーストラリアに働きかけて、ウェッブを一時呼び戻すように仕向けた、という。いずれにしても、ウェッブの強硬な態度が背景にある、ということは間違いないようだ。
またウェッブは、判決の際にも独自の主張をする。判決文は全10章あり、読み上げるだけで10日掛かるほどだったという。そして裁判のルールとして、最後の評決に際して出た少数意見も読み上げなければならない、というのがあるらしいが、ウェッブはそれを省略した。それを読み上げるだけでも数日掛かる、というのがその理由だった。実はその少数意見の中には、ウェッブ自身の意見もあった。彼は、「天皇を被告として、あるいはせめて証人としてこの裁判に引きずり出せなかったのだから、それ以外の被告たちを死刑を許す裁判において裁くことは合理的ではない」と主張したという。ウェッブは最後の最後まで納得いかなかったということだろう。
さて、少数意見としては、非常に有名なパル判事(劇中ではこの表記だったけど、ウィキペディアでは「パール」)のものがある。パル判事は、東京裁判開廷時にはまだ日本に到着しておらず途中参加だったが、裁判官の中で唯一国際法に関する著作を持つ専門家だった。パル判事は、英字で25万字、日本語で1219ページにも及ぶ意見書を提出した。彼の主張は様々にあるのだろうが、映画の中で触れられていたのは以下のようなことだった。
そもそも、何故「戦争」が「裁判」と結びつくのか、ということからである。この点については、別の話でも改めて触れたいが、戦争というのは国際法で定められたルールに則って行うわけで、残虐な行為だろうがなんだろうが、その法律の範囲内であれば合法である。
では、どうなったら非合法なのか。それが「侵略」か否か、である。戦争に関する国際法としてはパリ不戦条約が有名だろうが、ケロッグ=ブリアン協定というのも存在していて、この協定に反する戦争はすべて「侵略戦争」と見なされ非合法である、ということになる。
さて、ここでパル判事の主張の話に戻ろう。パル判事は、この裁判の進め方そのものがおかしいと指摘した。何故なら、戦争を裁くのであれば「侵略」であるか否か、という点から始めなければならないのに、東京裁判においては「侵略戦争だった」という前提から始まっている。これは、裁判の進め方として合理を欠いている。そんな合理を欠いた裁判において審議されてきたのだから、被告は全員無罪だ、とパル判事は主張した。
このパル判事の主張は、「日本は悪くなかったんだ」という受け取られ方をされることが多いらしいが、そうではない。パル判事自身は、被告らの行為を正当化する必要はない、とも明言している。要するに、彼らの行為の是非云々以前に、その行為を裁く場が正しいルールに則られていないのだから、そんな場でどんな風に裁かれようがそれは無効だ、という主張だろう。
さて、先程僕は、驚いたこととして、東京裁判が厳格に進行されていたことを挙げたが、これについては、弁護団に関するエピソードを触れようと思う。
東京裁判は、英米法を元に行われた(要するに、日本の裁判のルールとは違うということ)。だから日本側は、英米法に詳しい人物による弁護が必要だ、とマッカーサーに訴えていた。そこでマッカーサーは本国に問い合わせ、アメリカの弁護士がそれぞれの被告(裁判途中で亡くなった者もいるが、28名)の弁護を担当することになった。しかし当然だが、戦勝国の弁護士が、敗戦国の、しかもA級戦犯を、公正に弁護してくれるだろうか心配していた。
しかしそんな心配は、裁判の序盤で杞憂に終わった。弁護士たちはまず、この裁判の在り方そのものに対して疑義をつきつけた。ある弁護士は、「そもそも勝者によって行われる裁判は公正を欠くので、この裁判は中立国で行われるべきだ」と主張した。また別の弁護士は、「戦争というのはそもそも犯罪ではない」と主張した。どういうことか。戦争には、パリ不戦条約のような「国際法」が存在する。法律が存在するということは、それが合法であるということだ。これまでだって、戦争が犯罪として扱われたことはない、と。
その主張の過程で、そのアメリカ人弁護士は、ヒロシマとナガサキに落とされた原爆についても言及する。もし、戦争による殺人が犯罪であるならば、私は、ヒロシマの原爆の責任者を指摘することができる、というように。今でももちろん、原爆の投下に関しては様々な論議があるが、終戦直後のその当時であれば今以上にさらにデリケートな問題だったはずだ。アメリカ人が、原爆について悪く言及することで、何らかの害を被る可能性だって十分にあっただろう。しかしそういう危険を犯しても、彼らアメリカ人弁護士たちは、裁判を公正に行おうと腐心することになる。
結局、裁判そのものの在り方に疑義を呈する彼らの主張は、禄に検討されることもなく流されてしまうのだが、このやり取りは、被告人を含め日本側の面々に、この裁判が公正にきちんと行われるだろうという予感を抱かせただろうと思う。
裁判は、「三国同盟」や「満州国」などのテーマごとに議論され、起訴理由を述べるだけで半年、さらに弁護士による反論などで1年と、かなり長期に渡る。映画の構成としては、それぞれのテーマ毎に戦争やパレードなど当時の実際の映像が裁判シーンの合間に挿入される、という形だった。
映画を見ながら感じたことは、ここまで映像の記録が残っているのだな、ということだ。それに驚いた。初めて見る映像ばかりで、映像ではあるのだけど、戦争というもののリアルさみたいなものを凄く感じさせられた。ロスアラモスの原爆実験の映像や、特攻機が戦艦に突っ込む場面、あるいはアウシュヴィッツ(かどうかはわからないけど)でユダヤ人の死体がショベルカーで押し出されている映像など、衝撃的な映像も多かった。個人的に驚いたのは、戦闘機による空中線の映像。画面上に銃弾が埋め尽くすぐらいたくさんあって、戦争映画で見るのとはまったく違う凄みを感じた。
5時間に及ぶ映画で(途中1度休憩がある)、ところどころウトウトして覚えていない部分もあるのだけど、全体としては非常に興味深い映画だった。細々と面白い話は色々あって、石原莞爾が自分が戦犯として裁かれないのが不思議だと発言したり、愛新覚羅溥儀がシベリアから証人として出廷したけど実は偽証してたとか(それは、後に出版した自伝で明かしているという)、証人として出廷した田中降吉が被告人たちを「恩人」「友人」と評しながらも被告人にメチャクチャ不利な発言をしたり、被告人同士で足の引っ張りあいみたいなことをしたりと、随所にドラマがある。
日本は、主権国家として初めて戦争の放棄を憲法に盛り込み、また、国際連盟の発足などによって国際平和の期待が高まったが、しかしやはり、世界のどこかで今も戦争は起こっている。こういう裁判は、結果だけみると、「あいつが悪かった」というような個人の責任に帰着してしまいがちだと思うが、戦争が個人の責任のはずがない。同時代に生きるすべての人の責任だろう。理想論を叫ぶだけでは実現しないのは分かっているが、やはり自分の内側の底の底にはいつも、戦争はなくなるべきだという気持ちを失わないでいたいと改めて思った。
「東京裁判 4Kリマスター版」を観に行ってきました
「愛の渦」を観に行ってきました
人間は理性的な生き物で、普段理性の皮を被って生きているけど、その皮を剥いでみても、結局あんまり変わらないよなぁ、という風に思った。
セックスのために集まった初対面の人間の関係性は、5時間という限定的なものだけど、結局、それぞれの社会性みたいなものを浮き彫りにしていく。というか、欲望が絡んでいるから、むしろその社会性がより強調されたような形で現れているように感じた。強い者は強く、弱い者は弱く、という風に。セックスという、あまりにもシンプルすぎる価値基準しか存在しない空間だからこそ、余計に、見た目や年齢などの分かりやすい評価軸で判断される。
もちろん、それだけの映画ではない。物語の中盤以降、それらの評価軸が様々に歪んでいったり、新たな要素が加わったりという中で、物語らしさが生まれていくのだけど、僕はこの映画を、「それがどんな空間であれ、たとえ欲望のみによって関係が規定される場であっても、複数の人間がいればそれは社会となり、人間は社会性とは無縁でいられない」というような映画だと受け取った。
だから、「あそこにいたのが本当の自分だと思ってます」というセリフは、僕にはしっくり来た。
ただ、もちろん、誰しもがきっと「別の自分として存在するため」にあの空間を目指しているのだと思う。だから、現実に「別の自分として存在する」という目的を達成することができたかどうかに関わらず、あの場にいた自分を「別の自分」と捉える感覚も、確かにその通りだな、と感じた。
社会性とは対極にある空間を描き出すことで、結果的に社会性を浮き彫りにしたり、異常さをより際立たせるところが、この映画でやろうとしていたことなのかなと思ったし、面白いと思う点だった。
内容に入ろうと思います。
毎晩マンションの一室で開かれている乱交パーティーに、男女4人ずつ、計8人が集まった。最初は探り探りの会話から始まり、徐々にセックスへと流れていく中、最後に残ったのが、無職の青年と大学生の女性。彼らはぎこちないながらもコミュニケーションを取り、セックスのために階下に向かう。そしてその中で、この2人には、何か特別な感情、あるいは関係性が芽生えていることを予感させる。
内紛がおきたり、あらたな参加者がやってきたりと波乱を迎えつつ、深夜0時から5時までの時間をそれぞれが過ごしていく。そして朝…。
というような話です。
面白かったかどうかという点からすると、凄く面白かったわけではないけど、全員が初対面でありながらこれからセックスをするつもり、という、通常はあり得ない環境の中での、8人それぞれの関係性の築き方に個性があって、しかも「ありそうー」って感じの描写だったので、そういう点は面白いなと思って見てました。前半の、みんなが慣れ始める前までの会話は、内容的にはまったく大したものではないのに全体的に緊迫感があって、ぞわぞわさせられました。
詳しくは書かないけど、途中の展開は、この異常な空間に見合う異常さが描かれていて、映画全体の構成として良かった気がしました。映画として成立させるためには、乱交パーティーの実際の感じに近づけすぎるとたぶん色々と無理が生じてくるだろうけど、でも乱交パーティーらしさも必要。そういう絶妙なバランスを、登場は短かったけどあの2人が担っているような感じがしました。
あと、どうでもいい話だけど、エンドロールを見て「新井浩文」の名前を見て(見ている時は新井浩文とは気づかなかった)、映画の内容が内容なだけあって、複雑な気分になりました。
「愛の渦」を観に行ってきました
セックスのために集まった初対面の人間の関係性は、5時間という限定的なものだけど、結局、それぞれの社会性みたいなものを浮き彫りにしていく。というか、欲望が絡んでいるから、むしろその社会性がより強調されたような形で現れているように感じた。強い者は強く、弱い者は弱く、という風に。セックスという、あまりにもシンプルすぎる価値基準しか存在しない空間だからこそ、余計に、見た目や年齢などの分かりやすい評価軸で判断される。
もちろん、それだけの映画ではない。物語の中盤以降、それらの評価軸が様々に歪んでいったり、新たな要素が加わったりという中で、物語らしさが生まれていくのだけど、僕はこの映画を、「それがどんな空間であれ、たとえ欲望のみによって関係が規定される場であっても、複数の人間がいればそれは社会となり、人間は社会性とは無縁でいられない」というような映画だと受け取った。
だから、「あそこにいたのが本当の自分だと思ってます」というセリフは、僕にはしっくり来た。
ただ、もちろん、誰しもがきっと「別の自分として存在するため」にあの空間を目指しているのだと思う。だから、現実に「別の自分として存在する」という目的を達成することができたかどうかに関わらず、あの場にいた自分を「別の自分」と捉える感覚も、確かにその通りだな、と感じた。
社会性とは対極にある空間を描き出すことで、結果的に社会性を浮き彫りにしたり、異常さをより際立たせるところが、この映画でやろうとしていたことなのかなと思ったし、面白いと思う点だった。
内容に入ろうと思います。
毎晩マンションの一室で開かれている乱交パーティーに、男女4人ずつ、計8人が集まった。最初は探り探りの会話から始まり、徐々にセックスへと流れていく中、最後に残ったのが、無職の青年と大学生の女性。彼らはぎこちないながらもコミュニケーションを取り、セックスのために階下に向かう。そしてその中で、この2人には、何か特別な感情、あるいは関係性が芽生えていることを予感させる。
内紛がおきたり、あらたな参加者がやってきたりと波乱を迎えつつ、深夜0時から5時までの時間をそれぞれが過ごしていく。そして朝…。
というような話です。
面白かったかどうかという点からすると、凄く面白かったわけではないけど、全員が初対面でありながらこれからセックスをするつもり、という、通常はあり得ない環境の中での、8人それぞれの関係性の築き方に個性があって、しかも「ありそうー」って感じの描写だったので、そういう点は面白いなと思って見てました。前半の、みんなが慣れ始める前までの会話は、内容的にはまったく大したものではないのに全体的に緊迫感があって、ぞわぞわさせられました。
詳しくは書かないけど、途中の展開は、この異常な空間に見合う異常さが描かれていて、映画全体の構成として良かった気がしました。映画として成立させるためには、乱交パーティーの実際の感じに近づけすぎるとたぶん色々と無理が生じてくるだろうけど、でも乱交パーティーらしさも必要。そういう絶妙なバランスを、登場は短かったけどあの2人が担っているような感じがしました。
あと、どうでもいい話だけど、エンドロールを見て「新井浩文」の名前を見て(見ている時は新井浩文とは気づかなかった)、映画の内容が内容なだけあって、複雑な気分になりました。
「愛の渦」を観に行ってきました
「ジョーンの秘密」を観に行ってきました
歴史というのは、常に一方的に、つまり、未来(今)から過去を見て、未来(今)の基準で物事を判断していく。もちろん、今を生きている僕らにとって、歴史が価値を持つためには、そういう視点しかあり得ない、とは言える。ただ趣味として、楽しみとして歴史を知る分には様々な視点がありうるだろうが、「歴史を教訓に」という時の「歴史」には、そういう一方的な側面がある。
それはやはり、非常に暴力的だ。何故なら、その時、その状況でしか出来なかった判断というものがあるからだ。
コロナ禍を生きる僕らは、コロナウイルスの巧妙さを日に日に理解するようになっても、心のどこかで、自分だけは大丈夫なはず、と思っている。心理学的に「正常性バイアス」と名付けられたこの感覚は、全員とは言わないが、人類の大多数が持つ性向だ。「自分だけは大丈夫なはず」という考えが、コロナ禍ではすべきではない行動を誘発することは当然あるだろう。
現代でさえ、そんな行動に対して「軽率だ」「恥を知れ」など、散々な言葉を浴びせられる時代だ。同時代を生きている者同士であっても、「その時その状況でしか出来なかった判断」があるということをなかなか共有できない。ましてや、遠い過去の歴史の話であればなおさらだ。
ソ連に原爆の秘密を流したという実在した”スパイ”を基に作られたこの映画。2000年5月に発覚したこの出来事を、もしヤフーニュースで見たとしたなら、きっとこんな見出しだっただろう。「英の原爆を盗んだ女スパイ逮捕」 で、きっとその見出しと、記事の最初の方の文章を読んで、僕はこう感じただろう。「あーあ、アホなことやっちゃったね」 で、次の瞬間にはもう、このニュースのことは頭から消えているだろう。
今、僕自身も、こんな感じの情報処理が多いな、と思う。意識していないと、断片的で恣意的で扇情的な情報だけパパパっと取り込んで、終わりにしてしまう。それが嫌で、本を読んだり映画を観たりしているが、本や映画を通じて改めて理解することは、どんな行動にもその人なりの理屈がある、ということだ。
単なる金儲けとか、誰でもいいから貶めたいというような愉快犯はともかく、誰かを傷つけたり世の中に迷惑を掛けたりする人の中にも、その人なりの理屈がある。その理屈が正しいかどうかというのは、最終的には結局、法律(あるいはルール)によって決定するしかない。治療法の存在しない難病を患っている人の苦痛を取り除くために死に至らしめるというのは、正しいだろうか?個人的には、正しいと思いたいが、法律は、安楽死の厳しい要件を定めた上で、それを満たさないものは殺人と判断する。
しかし、僕が言いたいことは、それが法律的にどう判断されようが、重要なことは、その行為をどういう理屈で行ったか、ということだ。
歴史にifは禁物だとよく言うが、もしジョーンがソ連に機密情報を流していなければ世界はどう変わっていただろうか?世界情勢を分析するほど知識のない僕には難しい話だが、現代のような「世界大戦と長らく無縁の世界」は実現できなかったのかもしれない、と映画を観て思わされた。であれば、ジョーンの行動は、“スパイ”という悪評で捉えるべきではないのかもしれない。
内容に入ろうと思います。
夫に先立たれ、一人静かに余生を過ごしていたジョーン・スタンリーは、ある日突然MI5に逮捕される。それは、外務事務次官のウィリアム・ミッチェルの死の矢先のことだった。ミッチェルが遺した資料から、ジョーンに関するある驚くべき疑惑が浮上したのだ。
それが、原爆の情報をソ連に流出させたというスパイ容疑である。
「誰に影響を受けて共産主義になったのか?」「ウィリアムとはどこで出会ったのか?」など取り調べを受ける中、ジョーンはケンブリッジ大学時代を回想する。物理学を学んでいた彼女は、ふと知り合ったソニアという女性に連れられて、「映画の会」という共産主義の集まりに連れ出される。そこで出会った、ソニアの従弟であるレオに惹かれ、恋に落ちる。レオは集会で人を惹きつける演説をするなどリーダー資質で、共産主義と共に大きな野望を抱いていた。ジョーン自身は共産主義とも、彼のいる団体とも距離を置いていたが、レオにはぞっこんで、レオが三ヶ月もソ連に行くと知ると寂しさを滲ませる。しかし社会情勢もあり、ジョーンはソニアともレオとも関わりの薄い日々を過ごすことになってしまう。
ジョーンはそんな折、ある研究所での職を見つける。仕事はタイピングや書類整理だが、科学の知識が不可欠だという。秘密保持契約に署名をし、何の研究をしているのかもわからないまま働き始めるが、次第にそこが原爆の研究拠点であることを知る。彼女は、所長であるマックスに知識と発想を認められ、一介の事務員としてではない、研究員のような扱いを受けることになる。
しかし、どこから話を聞きつけたのか、ジョーンの元にやってきたレオが、研究内容を横流ししてくれ、と頼みに来る。ジョーンは、レオとの間にあったと思っていた愛が幻想であるのだと、何度も思い知らされることになる。一方でジョーンは、既婚者であるマックスに惹かれるようになっていく。原爆の研究に生涯を捧げているマックスと共にカナダへと渡り、さらに研究を進めることになるが…。
というような話です。
さて、まず書いておくべきは、この映画のモデルとなった「メリタ・ノーウッド」という人物は、この映画の主人公であるジョーン・スタンリーとはだいぶ違った人間みたいだ、ということです。詳しく調べたわけではないけど、とにかくこの映画は、事実にかなり忠実であるというものではなく、「ソ連に情報を渡していた女スパイで、割と最近になってそれが発覚した」という設定だけ借りてきた、と考えた方が良さそうだ。映画では、ジョーンは共産主義とは距離を置く存在として描かれるが、実際の「メリタ・ノーウッド」は共産主義に積極的に賛同していた、ということのようなので、この一点(これは、物語にとっては非常に重要な点だ)だけ取ってみても大分違う。
映画の構成としては、1930年代以降のイギリスを舞台にしたパートがメインで、その合間合間に、2000年に逮捕され取り調べを受けているジョーンの描写が挟み込まれる、という形だ。戦時中のジョーンのパートは、戦争映画とかスパイ映画というよりは、時代に翻弄されつつも恋に生きる女性を描くという要素が結構強い印象で、ノンフィクションっぽい感じの硬質なタッチではありません。
ジョーンの行為を好き勝手に論評することはいくらでも出来るのだけど、実際に自分が、あの時代の生きる女性科学者で、期せずして原爆の製造に関わり、望んだわけではなく恋人が共産主義にどっぷり浸かった人だったとしたら、どう行動するだろう、と考えてしまう。これは本当に難しいことだと思う。そもそも、当たり前の話だけど、ジョーンが原爆開発に携わっている時には、まだヒロシマにもナガサキにも原爆が落とされてはいない。机上の空論でどれほどの被害をもたらすかイメージすることは出来ても、それを現実のリアルな脅威をして認識することは難しかったはずだ。マックスがある場面で、「科学者は物理で結果を出そう。政治のことは政治家に任せよう」と発言するけど、その通りで、科学者は「求められるもの」を必死で作り上げただけだ。
では、なぜ原爆は「求められるもの」だったのか。そこにはナチス・ドイツの脅威がある。この映画の中で、その点に触れた場面はほんの一瞬しかなかった。高齢のジョーンが、原爆製造に関わっていた母親を非難する息子に対して、「ドイツに先を越されたらマズかった」という発言をする。僕は、アインシュタインに関する本を結構読むことがあって、その関係で原爆の記述も読む機会があるが、マンハッタン計画に携わっていた科学者たちも、「ドイツが先に原爆を開発してしまったらこの世の終わりだ」という共通認識があったという。アインシュタインもそう考えたために、ルーズベルト大統領に原爆開発を推進するよう手紙を出している。
状況は今も大差ない。今も、コロナウイルスのワクチンを世界で初めて作った国が世界をリードする、という認識が少なからずある。そして、やはり少なくない認識として、中国に先を越されるのはマズイ、という意識はあるはずだ。もちろん、ワクチンを製造している人たちは、世のため人のために研究をしているだろうが、しかしそれは、「我が国が一番乗りを果たす」という国家の戦略に巻き込まれてしまっている。この映画でも、イギリスの副大統領が、「一刻も早くイギリスの国旗が付いた原爆が必要なのだ」と発言する場面がある。しかし何よりも重要だったのは、ドイツよりも早く開発することだった。
「ドイツよりも早く原爆を開発しなければ世界が終わる」という感覚は、現代ではもはや共有不可能なものだが、当時としてはリアルで避けがたいものだったはずだ。そういう背景の中で、絶望的な被害が予想される原爆ではあるが一刻も早く完成させなければならない、と考えることは合理的だったはずだ。
現実には、ドイツは先に降伏する。この時点で、原爆開発の大義名分は失われたはずだったが、「じゃあ全部ストップ」となるはずもない。その原爆は、日本に投下され、「この規模の被害は世界で初めてです」というような甚大な被害をもたらすことになる。
ジョーンは、ヒロシマとナガサキに原爆が投下された後の世界を想像した。そして、彼女なりの理屈に従ってソ連に情報を流した。当然、誰かに相談できる話ではない。彼女は、彼女が知ることが出来る範囲の情報を元に、自分一人で判断を下さなければならなかった。
そう考えた時、一線を踏み越える決断をした、ということそのものに、僕は凄さを感じる。
正直なところ、彼女は何もしないでいることは出来た。彼女は、スパイ組織は共産主義の組織にいたわけではない。スパイ行為が任務だったわけではない。任務を遂行しないことで命を狙われる立場でもない。彼女が何もしなかったところで、誰も彼女を責めないし、そもそも彼女が何もしなかったということが誰かに知られるわけでもない。映画では、少なくとも、レオへの愛情から我を忘れて情報を流した、という描かれ方もされていない。一方、リスクを犯してスパイ行為をすることで、自分の身を危険に晒すし、予期せぬような未来を招くことになるかもしれない。どう考えたって、スパイ行為をすることの方がリスクが高すぎる。それでも彼女は一線を超えた。ここには、よほどの決意と覚悟が必要だ。
だからこそジョーンは、自身の過去の行動を理解してくれない息子に対し、悲しみを見せる。
現代パートでは、弁護士として活躍するジョーンの息子が、原爆製造に母親が関わっていたことなどまったく知らずに驚く。そして、母親が自らの意思でソ連に情報を横流しにしたとい事実を受け入れられずにいる。
この映画ではこの、母親と息子のやり取りも軸の一つだ。僕は、例えば自分の親が実は殺人犯だったとしても、まあ俺にはかんけーねーな、と思えるし、僕自身に直接の害悪(誹謗中傷など)が無ければノーダメージだけど、人によっては、自分の親族が過去に許されざる(とその人が思う)行為を行っていたとすれば、受け入れられない感覚が強くなってしまうかもしれない。今まで知っていた「母親」の姿が、すべて嘘だったという感覚になって、何を信じていいのか分からなくなってしまうのかもしれない。
ジョーン自身、自らの過去の行いについては、背筋を伸ばして、疚しさを覚えることなく、「自分はスパイではない」と言い切れる。しかし、自分の過去の行いによって、家族に対して動揺を与えてしまっていることに、非常に心を痛めることになる。自分が信念を持って行ったことを、自分が大切だと思う人が理解してくれないとしたら、非常に悲しいことだろう。その悲哀が、短いながらもしっかりと描かれていて良かった。
そして。映画を観ながらずっと頭に去来していたことは、何よりも、戦争を始めた人間や、原爆の投下を決定した人間が悪い、ということだ。戦勝国であれば、そうした人間は裁かれない。ジョーンが非難を受けるのであれば、ジョーンなどより圧倒的に悪であるそういう人間が非難されないことは、やはりおかしい。
「ジョーンの秘密」を観に行ってきました
それはやはり、非常に暴力的だ。何故なら、その時、その状況でしか出来なかった判断というものがあるからだ。
コロナ禍を生きる僕らは、コロナウイルスの巧妙さを日に日に理解するようになっても、心のどこかで、自分だけは大丈夫なはず、と思っている。心理学的に「正常性バイアス」と名付けられたこの感覚は、全員とは言わないが、人類の大多数が持つ性向だ。「自分だけは大丈夫なはず」という考えが、コロナ禍ではすべきではない行動を誘発することは当然あるだろう。
現代でさえ、そんな行動に対して「軽率だ」「恥を知れ」など、散々な言葉を浴びせられる時代だ。同時代を生きている者同士であっても、「その時その状況でしか出来なかった判断」があるということをなかなか共有できない。ましてや、遠い過去の歴史の話であればなおさらだ。
ソ連に原爆の秘密を流したという実在した”スパイ”を基に作られたこの映画。2000年5月に発覚したこの出来事を、もしヤフーニュースで見たとしたなら、きっとこんな見出しだっただろう。「英の原爆を盗んだ女スパイ逮捕」 で、きっとその見出しと、記事の最初の方の文章を読んで、僕はこう感じただろう。「あーあ、アホなことやっちゃったね」 で、次の瞬間にはもう、このニュースのことは頭から消えているだろう。
今、僕自身も、こんな感じの情報処理が多いな、と思う。意識していないと、断片的で恣意的で扇情的な情報だけパパパっと取り込んで、終わりにしてしまう。それが嫌で、本を読んだり映画を観たりしているが、本や映画を通じて改めて理解することは、どんな行動にもその人なりの理屈がある、ということだ。
単なる金儲けとか、誰でもいいから貶めたいというような愉快犯はともかく、誰かを傷つけたり世の中に迷惑を掛けたりする人の中にも、その人なりの理屈がある。その理屈が正しいかどうかというのは、最終的には結局、法律(あるいはルール)によって決定するしかない。治療法の存在しない難病を患っている人の苦痛を取り除くために死に至らしめるというのは、正しいだろうか?個人的には、正しいと思いたいが、法律は、安楽死の厳しい要件を定めた上で、それを満たさないものは殺人と判断する。
しかし、僕が言いたいことは、それが法律的にどう判断されようが、重要なことは、その行為をどういう理屈で行ったか、ということだ。
歴史にifは禁物だとよく言うが、もしジョーンがソ連に機密情報を流していなければ世界はどう変わっていただろうか?世界情勢を分析するほど知識のない僕には難しい話だが、現代のような「世界大戦と長らく無縁の世界」は実現できなかったのかもしれない、と映画を観て思わされた。であれば、ジョーンの行動は、“スパイ”という悪評で捉えるべきではないのかもしれない。
内容に入ろうと思います。
夫に先立たれ、一人静かに余生を過ごしていたジョーン・スタンリーは、ある日突然MI5に逮捕される。それは、外務事務次官のウィリアム・ミッチェルの死の矢先のことだった。ミッチェルが遺した資料から、ジョーンに関するある驚くべき疑惑が浮上したのだ。
それが、原爆の情報をソ連に流出させたというスパイ容疑である。
「誰に影響を受けて共産主義になったのか?」「ウィリアムとはどこで出会ったのか?」など取り調べを受ける中、ジョーンはケンブリッジ大学時代を回想する。物理学を学んでいた彼女は、ふと知り合ったソニアという女性に連れられて、「映画の会」という共産主義の集まりに連れ出される。そこで出会った、ソニアの従弟であるレオに惹かれ、恋に落ちる。レオは集会で人を惹きつける演説をするなどリーダー資質で、共産主義と共に大きな野望を抱いていた。ジョーン自身は共産主義とも、彼のいる団体とも距離を置いていたが、レオにはぞっこんで、レオが三ヶ月もソ連に行くと知ると寂しさを滲ませる。しかし社会情勢もあり、ジョーンはソニアともレオとも関わりの薄い日々を過ごすことになってしまう。
ジョーンはそんな折、ある研究所での職を見つける。仕事はタイピングや書類整理だが、科学の知識が不可欠だという。秘密保持契約に署名をし、何の研究をしているのかもわからないまま働き始めるが、次第にそこが原爆の研究拠点であることを知る。彼女は、所長であるマックスに知識と発想を認められ、一介の事務員としてではない、研究員のような扱いを受けることになる。
しかし、どこから話を聞きつけたのか、ジョーンの元にやってきたレオが、研究内容を横流ししてくれ、と頼みに来る。ジョーンは、レオとの間にあったと思っていた愛が幻想であるのだと、何度も思い知らされることになる。一方でジョーンは、既婚者であるマックスに惹かれるようになっていく。原爆の研究に生涯を捧げているマックスと共にカナダへと渡り、さらに研究を進めることになるが…。
というような話です。
さて、まず書いておくべきは、この映画のモデルとなった「メリタ・ノーウッド」という人物は、この映画の主人公であるジョーン・スタンリーとはだいぶ違った人間みたいだ、ということです。詳しく調べたわけではないけど、とにかくこの映画は、事実にかなり忠実であるというものではなく、「ソ連に情報を渡していた女スパイで、割と最近になってそれが発覚した」という設定だけ借りてきた、と考えた方が良さそうだ。映画では、ジョーンは共産主義とは距離を置く存在として描かれるが、実際の「メリタ・ノーウッド」は共産主義に積極的に賛同していた、ということのようなので、この一点(これは、物語にとっては非常に重要な点だ)だけ取ってみても大分違う。
映画の構成としては、1930年代以降のイギリスを舞台にしたパートがメインで、その合間合間に、2000年に逮捕され取り調べを受けているジョーンの描写が挟み込まれる、という形だ。戦時中のジョーンのパートは、戦争映画とかスパイ映画というよりは、時代に翻弄されつつも恋に生きる女性を描くという要素が結構強い印象で、ノンフィクションっぽい感じの硬質なタッチではありません。
ジョーンの行為を好き勝手に論評することはいくらでも出来るのだけど、実際に自分が、あの時代の生きる女性科学者で、期せずして原爆の製造に関わり、望んだわけではなく恋人が共産主義にどっぷり浸かった人だったとしたら、どう行動するだろう、と考えてしまう。これは本当に難しいことだと思う。そもそも、当たり前の話だけど、ジョーンが原爆開発に携わっている時には、まだヒロシマにもナガサキにも原爆が落とされてはいない。机上の空論でどれほどの被害をもたらすかイメージすることは出来ても、それを現実のリアルな脅威をして認識することは難しかったはずだ。マックスがある場面で、「科学者は物理で結果を出そう。政治のことは政治家に任せよう」と発言するけど、その通りで、科学者は「求められるもの」を必死で作り上げただけだ。
では、なぜ原爆は「求められるもの」だったのか。そこにはナチス・ドイツの脅威がある。この映画の中で、その点に触れた場面はほんの一瞬しかなかった。高齢のジョーンが、原爆製造に関わっていた母親を非難する息子に対して、「ドイツに先を越されたらマズかった」という発言をする。僕は、アインシュタインに関する本を結構読むことがあって、その関係で原爆の記述も読む機会があるが、マンハッタン計画に携わっていた科学者たちも、「ドイツが先に原爆を開発してしまったらこの世の終わりだ」という共通認識があったという。アインシュタインもそう考えたために、ルーズベルト大統領に原爆開発を推進するよう手紙を出している。
状況は今も大差ない。今も、コロナウイルスのワクチンを世界で初めて作った国が世界をリードする、という認識が少なからずある。そして、やはり少なくない認識として、中国に先を越されるのはマズイ、という意識はあるはずだ。もちろん、ワクチンを製造している人たちは、世のため人のために研究をしているだろうが、しかしそれは、「我が国が一番乗りを果たす」という国家の戦略に巻き込まれてしまっている。この映画でも、イギリスの副大統領が、「一刻も早くイギリスの国旗が付いた原爆が必要なのだ」と発言する場面がある。しかし何よりも重要だったのは、ドイツよりも早く開発することだった。
「ドイツよりも早く原爆を開発しなければ世界が終わる」という感覚は、現代ではもはや共有不可能なものだが、当時としてはリアルで避けがたいものだったはずだ。そういう背景の中で、絶望的な被害が予想される原爆ではあるが一刻も早く完成させなければならない、と考えることは合理的だったはずだ。
現実には、ドイツは先に降伏する。この時点で、原爆開発の大義名分は失われたはずだったが、「じゃあ全部ストップ」となるはずもない。その原爆は、日本に投下され、「この規模の被害は世界で初めてです」というような甚大な被害をもたらすことになる。
ジョーンは、ヒロシマとナガサキに原爆が投下された後の世界を想像した。そして、彼女なりの理屈に従ってソ連に情報を流した。当然、誰かに相談できる話ではない。彼女は、彼女が知ることが出来る範囲の情報を元に、自分一人で判断を下さなければならなかった。
そう考えた時、一線を踏み越える決断をした、ということそのものに、僕は凄さを感じる。
正直なところ、彼女は何もしないでいることは出来た。彼女は、スパイ組織は共産主義の組織にいたわけではない。スパイ行為が任務だったわけではない。任務を遂行しないことで命を狙われる立場でもない。彼女が何もしなかったところで、誰も彼女を責めないし、そもそも彼女が何もしなかったということが誰かに知られるわけでもない。映画では、少なくとも、レオへの愛情から我を忘れて情報を流した、という描かれ方もされていない。一方、リスクを犯してスパイ行為をすることで、自分の身を危険に晒すし、予期せぬような未来を招くことになるかもしれない。どう考えたって、スパイ行為をすることの方がリスクが高すぎる。それでも彼女は一線を超えた。ここには、よほどの決意と覚悟が必要だ。
だからこそジョーンは、自身の過去の行動を理解してくれない息子に対し、悲しみを見せる。
現代パートでは、弁護士として活躍するジョーンの息子が、原爆製造に母親が関わっていたことなどまったく知らずに驚く。そして、母親が自らの意思でソ連に情報を横流しにしたとい事実を受け入れられずにいる。
この映画ではこの、母親と息子のやり取りも軸の一つだ。僕は、例えば自分の親が実は殺人犯だったとしても、まあ俺にはかんけーねーな、と思えるし、僕自身に直接の害悪(誹謗中傷など)が無ければノーダメージだけど、人によっては、自分の親族が過去に許されざる(とその人が思う)行為を行っていたとすれば、受け入れられない感覚が強くなってしまうかもしれない。今まで知っていた「母親」の姿が、すべて嘘だったという感覚になって、何を信じていいのか分からなくなってしまうのかもしれない。
ジョーン自身、自らの過去の行いについては、背筋を伸ばして、疚しさを覚えることなく、「自分はスパイではない」と言い切れる。しかし、自分の過去の行いによって、家族に対して動揺を与えてしまっていることに、非常に心を痛めることになる。自分が信念を持って行ったことを、自分が大切だと思う人が理解してくれないとしたら、非常に悲しいことだろう。その悲哀が、短いながらもしっかりと描かれていて良かった。
そして。映画を観ながらずっと頭に去来していたことは、何よりも、戦争を始めた人間や、原爆の投下を決定した人間が悪い、ということだ。戦勝国であれば、そうした人間は裁かれない。ジョーンが非難を受けるのであれば、ジョーンなどより圧倒的に悪であるそういう人間が非難されないことは、やはりおかしい。
「ジョーンの秘密」を観に行ってきました
「ディック・ロングはなぜ死んだのか?」を観に行ってきました
内容に入ろうと思います。
ジーク、アール、ディックの三人は、「ピンク・フロイト」という売れないバンドを組む仲間。その日も、バンドの練習をし、その後、いつものように馬鹿騒ぎをしていた。しかし、事態は急変。彼らは、何故か血まみれでぐったりしているディックを車に載せ、病院の敷地内に放置。そのまま逃げた。すぐにディックを発見した病院スタッフが救命を試みるも、ディックは死亡が確認された。
しかし、ディックがまだ死んだとは知らない二人は、それぞれ違った反応をする。アールは、家財道具一式をピックアップトラックに積み逃げようとするが、一方のジークは結婚し子供もいる身。翌朝も、仕事の妻の代わりに娘のシンシアを学校まで送らなければならない。しかし車は血まみれ。どうすればいい???
一方、この町の保安官は、医師から呼び出された。病院の敷地内で発見された死体(この時点では指名不詳)は、殺人の可能性がある、という。直腸に出血があり、それとは無関係な頭部への打撲が見られる。どう見てもこの男は、レイプされたようにしか見えない、と。すでに大腸から精液は採取されており、鑑定に回されている。
ジークとアールは、ディックの死を知り慌てるが、しかし彼らは「俺たちが殺したわけじゃないんだし」と落ち着こうとする。しかし、彼らが殺したのでなければ、ディックはなぜ死んだのか?そしてその死を、どうして必死に隠そうとしているのか?実際に起こった事件から着想を得たという、ドタバタコメデイミステリー。
というような話です。
面白かったかどうか聞かれると、ちょっと微妙かなぁ、という感じの作品でした。たぶんそれは、「ディックの死の真相」が、ちょっとイメージと違ってたからかなぁ、と。いや、別に何か具体的なイメージをしていたわけではないのだけど、「そういう感じかー」という風に感じてしまいました。まあ、実際に起こった事件に着想を得ているっていうんだから、ドンピシャかどうかはともかく、この「ディックの死の真相」に近いことは実際にあったんだろうし、実際にあったんだとしたら、それを面白いとか面白くないとか言ってもしょうがないのだけど、この「真相」は、僕にはちょっと微妙だったかなと思います。
個人的に好きだったのは、ジークの娘のシンシア。この映画において、非常に重要な役回りを結果的に果たしてしまう役柄なんだけど、それはともかく、全体的にテンションが低めな、子供っぽくない感じが凄く良かったなと。基本的に子供には全然興味がないんだけど、あれぐらいローテンションの子供だったら、関わってもいいかな、と思ったりしました。
「ディック・ロングはなぜ死んだのか?」を観に行ってきました
ジーク、アール、ディックの三人は、「ピンク・フロイト」という売れないバンドを組む仲間。その日も、バンドの練習をし、その後、いつものように馬鹿騒ぎをしていた。しかし、事態は急変。彼らは、何故か血まみれでぐったりしているディックを車に載せ、病院の敷地内に放置。そのまま逃げた。すぐにディックを発見した病院スタッフが救命を試みるも、ディックは死亡が確認された。
しかし、ディックがまだ死んだとは知らない二人は、それぞれ違った反応をする。アールは、家財道具一式をピックアップトラックに積み逃げようとするが、一方のジークは結婚し子供もいる身。翌朝も、仕事の妻の代わりに娘のシンシアを学校まで送らなければならない。しかし車は血まみれ。どうすればいい???
一方、この町の保安官は、医師から呼び出された。病院の敷地内で発見された死体(この時点では指名不詳)は、殺人の可能性がある、という。直腸に出血があり、それとは無関係な頭部への打撲が見られる。どう見てもこの男は、レイプされたようにしか見えない、と。すでに大腸から精液は採取されており、鑑定に回されている。
ジークとアールは、ディックの死を知り慌てるが、しかし彼らは「俺たちが殺したわけじゃないんだし」と落ち着こうとする。しかし、彼らが殺したのでなければ、ディックはなぜ死んだのか?そしてその死を、どうして必死に隠そうとしているのか?実際に起こった事件から着想を得たという、ドタバタコメデイミステリー。
というような話です。
面白かったかどうか聞かれると、ちょっと微妙かなぁ、という感じの作品でした。たぶんそれは、「ディックの死の真相」が、ちょっとイメージと違ってたからかなぁ、と。いや、別に何か具体的なイメージをしていたわけではないのだけど、「そういう感じかー」という風に感じてしまいました。まあ、実際に起こった事件に着想を得ているっていうんだから、ドンピシャかどうかはともかく、この「ディックの死の真相」に近いことは実際にあったんだろうし、実際にあったんだとしたら、それを面白いとか面白くないとか言ってもしょうがないのだけど、この「真相」は、僕にはちょっと微妙だったかなと思います。
個人的に好きだったのは、ジークの娘のシンシア。この映画において、非常に重要な役回りを結果的に果たしてしまう役柄なんだけど、それはともかく、全体的にテンションが低めな、子供っぽくない感じが凄く良かったなと。基本的に子供には全然興味がないんだけど、あれぐらいローテンションの子供だったら、関わってもいいかな、と思ったりしました。
「ディック・ロングはなぜ死んだのか?」を観に行ってきました
「8日で死んだ怪獣の12日の物語」を観に行ってきました
これは、ちょっと、うーん???って感じの映画だったなぁ。
「挑戦」的な部分は、評価されていいんだろうと思います。恐らく、緊急事態宣言下で撮られているんだろうし、他にもいくつか例はあるとはいえ、リモートで撮影が行われているというのも「挑戦」でしょう。映画の公開には、もっと時間が掛かるイメージもあるので、早く出すという意味でも「挑戦」だっただろうし、そういう「挑戦」的な部分は評価されるべきなんだろうと思います。
ただ、一本の映画として観た時、どうなんだろうなぁ。僕には正直、面白さみたいなものは理解できなかったなぁ。
個別には面白いなと思うところはありました。「カプセル怪獣」という設定とか、のんが「星人」と会話している感じとか、サトウタクミと同じくカプセル怪獣を育てているYoutuberの映像とか、個々には「面白いな」と思う部分はありました。でも、全体として見た時、なんだかよく分からなかったなぁ、という感じがしました。
とりあえず内容をざっと。
サトウタクミはある日、通販で「カプセル怪獣」を購入し、育てることにする。世の中は、コロナウイルスの脅威にやられていて、外出がままならない状態。俳優であるサトウタクミも、撮影がすべてなくなってしまった。そんなコロナを打倒してくれる存在として、「カプセル怪獣」を育てている。
怪獣に詳しい樋口監督に「カプセル怪獣」について聞いたり、バンコクでレストランを経営していたけどコロナウイルスにより失業中の先輩・オカモトソウの近況を聞いたり、後輩の女優・丸戸のんが宇宙人を通販で買って育てている話を聞いたりしながら、日々を過ごしている。
「もえかす」という名前でYoutubeの配信を行っている女性が育てている「カプセル怪獣」と比べて、サトウタクミの怪獣は成長が微妙。そんな「カプセル怪獣」の成長を見守りつつ、日々を過ごしていく…。
というような話です。
全然知りませんでしたが、これはもともと、ネットで配信されていたショートストーリーが元になっているようで、それが劇場版になった、という作品のようです。配信でずっと見ていた、という人にはまた別の面白さがあるのだろうし、劇場版で初めてこのプロジェクトの存在を知った僕のような人間の意見はあんまり参考にしない方がいいと思います。
個人的には、モノクロの映像はキレイだなと思いました。モノクロであることに必然性があるのかどうか、それはちょっとよくわからないけど、モノクロの映像を見る機会ってなかなかないのもあって、良かったな、と。
あと、のんは良かったなぁ。この映画では、どの役者さんも、セリフなんてあらかじめ決まってないかのような、ホントに普通に喋ってるかのような雰囲気で演じてるんだけど、その雰囲気を一番感じたのがのんだったかな。
あと、物語との繋がりは全然理解できなかったけど、仮面をつけて踊っている女性の踊ってる感じは、凄く魅力的でした。なんというのか、得体の知れない動きをしていて、身体の動かし方だけでこんなにザワザワした気分にさせることが出来るんだな、と感じました。
「8日で死んだ怪獣の12日の物語」を観に行ってきました
「挑戦」的な部分は、評価されていいんだろうと思います。恐らく、緊急事態宣言下で撮られているんだろうし、他にもいくつか例はあるとはいえ、リモートで撮影が行われているというのも「挑戦」でしょう。映画の公開には、もっと時間が掛かるイメージもあるので、早く出すという意味でも「挑戦」だっただろうし、そういう「挑戦」的な部分は評価されるべきなんだろうと思います。
ただ、一本の映画として観た時、どうなんだろうなぁ。僕には正直、面白さみたいなものは理解できなかったなぁ。
個別には面白いなと思うところはありました。「カプセル怪獣」という設定とか、のんが「星人」と会話している感じとか、サトウタクミと同じくカプセル怪獣を育てているYoutuberの映像とか、個々には「面白いな」と思う部分はありました。でも、全体として見た時、なんだかよく分からなかったなぁ、という感じがしました。
とりあえず内容をざっと。
サトウタクミはある日、通販で「カプセル怪獣」を購入し、育てることにする。世の中は、コロナウイルスの脅威にやられていて、外出がままならない状態。俳優であるサトウタクミも、撮影がすべてなくなってしまった。そんなコロナを打倒してくれる存在として、「カプセル怪獣」を育てている。
怪獣に詳しい樋口監督に「カプセル怪獣」について聞いたり、バンコクでレストランを経営していたけどコロナウイルスにより失業中の先輩・オカモトソウの近況を聞いたり、後輩の女優・丸戸のんが宇宙人を通販で買って育てている話を聞いたりしながら、日々を過ごしている。
「もえかす」という名前でYoutubeの配信を行っている女性が育てている「カプセル怪獣」と比べて、サトウタクミの怪獣は成長が微妙。そんな「カプセル怪獣」の成長を見守りつつ、日々を過ごしていく…。
というような話です。
全然知りませんでしたが、これはもともと、ネットで配信されていたショートストーリーが元になっているようで、それが劇場版になった、という作品のようです。配信でずっと見ていた、という人にはまた別の面白さがあるのだろうし、劇場版で初めてこのプロジェクトの存在を知った僕のような人間の意見はあんまり参考にしない方がいいと思います。
個人的には、モノクロの映像はキレイだなと思いました。モノクロであることに必然性があるのかどうか、それはちょっとよくわからないけど、モノクロの映像を見る機会ってなかなかないのもあって、良かったな、と。
あと、のんは良かったなぁ。この映画では、どの役者さんも、セリフなんてあらかじめ決まってないかのような、ホントに普通に喋ってるかのような雰囲気で演じてるんだけど、その雰囲気を一番感じたのがのんだったかな。
あと、物語との繋がりは全然理解できなかったけど、仮面をつけて踊っている女性の踊ってる感じは、凄く魅力的でした。なんというのか、得体の知れない動きをしていて、身体の動かし方だけでこんなにザワザワした気分にさせることが出来るんだな、と感じました。
「8日で死んだ怪獣の12日の物語」を観に行ってきました